LOVE HAZARD 3
作:草渡てぃあら





 消しゴムとそのカバーをスライドさせて、ギリギリのところで戻す。簡単な動作だが、油断して一度外れると中々元に戻らなくてイライラするのだ――というような作業を鷹明は朝からずっと繰り返している。授業中はおろか、休み時間ですらまったくの上の空である。
「……はやせっ、早瀬ってば」
 隣の机から嘉穂の小声が届いた。立てた教科書に顔を隠して、鷹明にそっと尋ねる。
「楽しいの、それ?」
「いや別に」
 楽しいわけないだろー? と内心突っ込む。しかし、今の鷹明には口に出す気力がなかった。意外に大人しい彼の反応にしばらく考え込んでいた嘉穂は、再び聞いてきた。
「……ひょっとして何か悩んでるとか」
 そう、確かに彼は悩んでいる。正確に言うと悩みまくっている。
 それもそのはずだ。鷹明は昨日、美人お姉さんに迫られて異世界に飛ばされ、そこで実は女の子だと言われ、地球を滅亡の危機から救わなきゃならない上に、運命的な恋に落ちた相手が男だったのだから、悩みも尽きない。
(あああ、頭痛くなってきた)
 心配そうな嘉穂の顔を見ながら、彼は一人ため息をついた。彼女の気持ちは有難いが、嘉穂に相談しても話はややこしくなるだけである。
「大丈夫。なんでもないからさ」
「ホント? 何かかなりヤバそうだけど早まっちゃダメよ? 一度犯罪に手を染めたらカタギの世界には戻れないんだから」
(……だから何でそういう発想になるわけよ?)
 だが、今日の彼に嘉穂の天然ボケに突っ込む余裕はない。
 黙って消しゴムに視線を戻した鷹明は、ふと思いついて嘉穂に聞いてみた。
「お前さ、戸津川直樹(とつかわなおき)って知ってる?」
 戸津川直樹――それはナオのベビーサイドでの名前であり、彼女の本来の姿でもある。驚いたことに彼は、同じ学内の後輩にあたるらしかった。しかし、いくら同じ校内と言えども、鷹明達の高校は一学年三百人を超えるマンモス高である。学年が違えば校舎も違う。同じ部活でもない限り、知り合う可能性など極めて低いのだ。
 鷹明の質問に、嘉穂もシャーペンを口元にあてて真剣に考え込んでいる。
「ま、嘉穂に聞いても無理か」
 Hっぽい外見に似合わず、未だ男に全く興味がない嘉穂のことだ。聞くだけ無駄だったと鷹明は、首を振る。
 しかし彼女の答えは意外だった。
「戸津川直樹ってあの剣道部の新入生?」
「剣道部?」
「えぇー知らないで聞いたわけ? 女の子の間では超有名だよー。入部そうそう剣道部のアイドルだって」
「……モテるんだ、あいつ」
 男に疎そうな嘉穂がナオのことを知っている――それも一応ショックだったが、ナオがモテるという事実はさらに衝撃だった。
 別に男としてのナオには何の興味もないはずなのだが――。
「モテるどころか、女子の間では十年に一度のメガヒットって噂だよ」
「メガヒットねぇ……」
 何ともド派手な肩書きである。
「その、なんだ……いないのか? 彼女とか、さ」
 お前はナオのオヤジかっつーの、という突っ込みを自分に入れつつ、鷹明は嘉穂の方をちらりと見た。嘉穂の答えを待つ間、なぜか胸が高鳴ってしまう。
「うーん、いないと思うよ。それらしい子みたことないし。大体、戸津川君ってお母さんが病気で長いこと入院しているから、その看病で忙しいからね」
「なんでそんなに詳しいんだよ?」
 さてはお前、戸津川のことが……という鷹明疑惑の目をあっさりとかわして嘉穂は、
「なんでって、それはさぁ」
 と意味深に微笑んだ。しかし次の瞬間、「あ」と口元に手を当てる。
「ごめーん。これ以上は内緒なの」
 と可愛く手を合わせた。
「なんだよそれー」
 思いっきりブーイングの鷹明である。しかし、天然娘で素直な性格の嘉穂を吐かせることなど、幼馴染の鷹明にとっては朝飯前でもあった。
(こうなったら絶対に白状させてやるー!)
 意気込む鷹明だったが、ふと思いついたことがあって話題を変える。
「あのさー、これは俺の友達の友達の、そのいとこの友達の話なんだけどな……」
「そういうの、普通他人っていうんだよ」
 嘉穂のもっともな意見に「うるせーな」と一言返してから、鷹明は本題に入った。
「ある男がな、わけあって女装をしてたわけよ」
「わ、変態さんだぁ」
「……まぁいい。で、その男が女装している姿に、別の男が惚れたわけ。これってどうなると思う?」
「男が男を好きになっちゃったんだからぁ、これはホモになるよね。で女装してるからホモ変態! これで決定だねっ」
「……」
 何もトドメを刺してもらおうと相談したのではない。言った相手が間違いだった、と改めて鷹明はため息をついた。
「……でも、本当に好きなら別にいいと思うなー私は」
「お前にいいって言われてもねー」
 嘉穂は隣の机から乗り出しながら「でもでも」と繰り返す。
「そんな大障害を乗り越えてもまだ好きなんでしょ? その友達の友達のー…って人。そこまで人を好きになるって人生で滅多にないと思うから、嘉穂的には絶対頑張って欲しぃな!」
「……なるほど。そういう見方もあるわけね」
 嘉穂の言葉に、妙に納得してしまう。
「ねー私の悩み相談も結構役に立ったでしょ?」
「おお。まぁな」
 鷹明の反応に、嘉穂は得意そうにエッヘンと胸を張った。
「それに好きって気持ちは別に友達同士でもあり得ると思うよ。嘉穂だって、あさきが好きだし一緒にいて楽しいし」
「楽しい、のか?」
 入谷の仏頂面を思い出しながら鷹明は言った。
「もちろんだよー! あさきはとってもいい子だよ。早瀬もそのうち分かるって」
「ふーん」
「で、私はあさきが好きだけど恋愛感情ではないでしょ。それが証拠に、あさきにもし恋人ができても全然ショックじゃないし……」
 そこまで勢いよく言って、嘉穂は急に黙った。
「ん? どうした?」
「どーしよー! 今、ちょっと想像したんだけど、嘉穂的には結構、ショックかも。は、早瀬! これって私ってばレズなの? 相談にのってぇ」
 と焦りまくっている。
「大丈夫だってば。そんなの誰にでもあるよ。今までつるんでた友達に彼氏彼女ができるとちょっと寂しいだろ?」
「あ、そっかぁ」
 そんな嘉穂を見て、鷹明は再びため息をついた。
(やっぱり、こいつに相談したのが間違いだったよ)
 安心した嘉穂は、しかし不思議そうな顔で鷹明を見た。
「でもさ、何で早瀬が戸津川君に興味があるわけ?」
 何気ない嘉穂の言葉に、鷹明は凍りつく。
「! その、なんだ。知り合いの後輩が、戸津川ってやつが好きらしくてさ……うん」
 立場逆転である。焦りまくっている鷹明は、気がつくと一指し指を口に当てていた。
「これ以上は内緒、な」
 苦し紛れの鷹明の言葉だったが、嘉穂はにっこりと微笑むと、
「お互い、内緒だね」
 と笑った。
「……」
 どうやら、詮索は続行不可能になりそうである。
 諦めた鷹明は一人、高山先生のクセのある筆記体で埋め尽くされた黒板を眺めた。とはいえ授業に参加している様子は全くない。
(戸津川ってモテるのか……)
 複雑な思いを抱きながら、鷹明は再び消しゴム作業を始めていた。


 ここは市内で一番大きな総合病院――ガラス張りのロビーは、外の光を目一杯取り込んで病院全体の印象を明るくしており、待合の長椅子には入院歴の長そうな老人が数人、ぼんやりとテレビを見ていた。
 院内は全体的に白とグリーンに統一され、まさに『病院』といった清潔感と安心感を与えている。
「……」
 だがしかし、健康だけが取り柄で病気には一切縁のない鷹明にとって、やはりここは居心地の悪い場所に違いなかった。
(結局、病院まで来ちゃったよ……俺)
 放課後、鷹明は剣道部に行ったのだが目的の人は見つからなかった。仕方がないので、そこらへんの部員に聞いてみる。
「戸津川なら今日は病院っすよ」
 胴着の手入れをしながら、剣道部の後輩が答える。
「あいつ、週に二三回は母親の看病にいってるんスよ。ま、あんまり部活に来なくても、試合で強いから誰も文句はないけど」
 それはそうだろう。わざわざ部活などで練習しなくても、戸津川はストゥームザイムとして実戦で鍛えているのだから。
 その後輩から病院の場所を聞き出した鷹明は、どう切り出せばいいか分からないままにここまで来てしまったのだ。
(いかんな……これではまるっきり片思いの女の子じゃないかよ)
 沸きあがる自分の気持ちに戸惑いながらも、けっこう必死に視線を走らせている。
 総合待合室には、結構たくさんの人間がいた。
 妊娠したお母さんと手をつなぐ幼い子供、お見舞いに来たらしい彼女と楽しそうに雑談する松葉杖のお兄さん。急ぎ足の製薬会社の営業マンに、ミーティング中の看護婦のお姉さん達――。
「ん?」
 その中の一人に、顔見知りの人物を見つけて鷹明は目を細めた。ピンクのファイルを片手に、真剣な面持ちで何かをメモっている看護婦さん。
(あ! あれは入谷?)
 意外な場所で意外な人物を見つけたものである。
 学校では、そのバリバリに冷たい人間性から『鋼鉄の美少女』と名づけられた入谷あさきが、なぜ看護婦の姿をして病院にいるのか?
「最近、わけのわからない事が起こり過ぎだってば」
 ひとりごちると、鷹明は入谷に向かって手を上げた。
「おーい、入谷。こんなとこで何コスプレしてんだ?」
 鷹明の声に何気なく視線を寄越した入谷は、瞬間「げ」ととてつもなく嫌な顔をした。
「……嘉穂から聞いたのか?」
 周りの看護婦達にことわってから、鷹明のそばへ歩いてきた入谷は、怖い顔でそう言った。整った切れ長の瞳が、妙な凄みを以って鷹明を睨み上げる。
「グーゼングーゼン! たまたま発見したんだよ。それより何してんの?」
「……」
 しばらく沈黙した後、入谷は覚悟を決めたように話し出した。
「卒業したら看護婦目指そうと思ってて。知り合いの姉貴に看護婦がいたから紹介してもらって。勉強、させてもらってる」
 にこりともぜずにそう告げる入谷。そして改めて鷹明を睨みつけると、
「黙ってろよ。学校の奴らに知られたら……うるさいから」
 とだけいった。入谷の言葉に「そりゃそうだ」と鷹明も納得する。入谷が病院で看護婦研修などやっていると知ったら、その姿を拝みたくて学校の男子達が殺到するだろう。
 恐らく、嘉穂が「内緒」と言っていたのはこのことだったのだ。
「大丈夫、誰にも言わないって。……その代わり」
「?」
「今度、美人の看護婦さん紹介してくれよな」
 間髪入れず、鳩尾にかなり強烈なパンチが入る。思わず蹲ってしまった情けない鷹明を見下ろして、入谷は一言吐き捨てた。
「アホが」
「すみませんでした……」
 殴るかフツー、という内心のクレームとは裏腹に、鷹明はあっさりと謝ることにする。何せ相手は入谷あさきなのだ。あらゆる意味で鷹明ごときが勝てる相手ではない。
 入谷の第二攻撃に備えて恐る恐る立ち上がる鷹明を、入谷は汚れ物でも見るような視線で見ていた――ふいにその目線が鷹明から逸れる。鷹明の肩越しに、誰かを見つけると、ふっと顔をほころばせた。
「今日もお母さんのお見舞い?」
「はい。母がお世話になってます」
 鷹明の背後から、声変わりもまだのような少年らしい高い声が返ってくる。
(ま、まさか…!)
 振り向いた鷹明は、思わずこぶしを握り締める。
 同じ学校の制服姿で立っている少年。しかも新入生だとすぐわかるような、大きめの男子学生服を着ている。
 これぞまさに美少年、という感じ整った小さな顔には、確かにあの美少女の面影があって――。
 自然と鷹明の心臓はバクバクと高鳴っていく。
(ダメじゃん、俺! しっかりしろよ、相手は正真正銘の男なんだぞ?)
 きっとこれは昨日の後遺症だ、と鷹明は自分に言い聞かせる。自分は断じて男に惚れたわけではない。
 この胸のトキメキは、あの美少女に繋がる感情なのだ。
(そうだろう? 誰かそうだと言ってくれー!)
 病院のロビーでひとり頭を抱えている鷹明を、子供が不思議そうに見ながら通り過ぎていった。
「ひょっとして早瀬、鷹明先輩ですか?」
 戸津川が首をかしげて言った。その言葉に、入谷も驚いたように顔を上げた。
「戸津川君、早瀬を知ってるのか?」
「あ、あのー。一度会ったことがあるんだ……ちょっとだけ」
 どう答えていいか分からないといった様子の戸津川の代わりに、鷹明がしどろもどろに答えた。まぁ、間違いではない。
 もちろん男としては、初対面なのだが――。
「で、俺はお近づきの印に戸津川のお母さんのお見舞いに来た、とこういうわけだ」
 何とか体勢を立て直して入谷の疑惑の目から逃れると、鷹明は戸津川の肩に手を乗せて「病室に行こうぜ」と言う。戸津川も鷹明の思惑を理解したのか「はい。ありがとうございます」と素直に頭を下げた。
 近くで見る戸津川の顔は、本当に女の子みたいにきれいだった。
(うわぁマジ、やばいよ……)
 何と言うか、偶然にも抱いてしまった肩もまるで細いのである。
「……で、何か用? アキ」
 入谷の姿もみえなくなった頃、戸津川はそう言って悪戯っぽく笑った。
「まさか本当にお見舞いに来たわけでもないでしょう?」
「……」
 お前に会いたくて来た、というわけにもいかず鷹明は自分の頬をポリポリと掻いた。
「なんつーか、その……昨日の話、もうちょっと詳しく聞きたいと思ってさ」
 でまかせで言った鷹明の言葉を本気にして、戸津川は肩をすくめてみせた。
「アレクの説明は難しいからね」
 でもその前に、と戸津川は病室で足を止めプレートを指差した。プレートには『戸津川奈保美』とある。
「母さんに顔だけ見せていいかな」
 もちろんだと鷹明はうなずく。何もお見舞いを邪魔しにきたわけじゃない。
 柔らかな白を基調としたその病室には、戸津川の母親しかいなかった。いわゆる個室というやつだ。あまり余裕のない小さな空間ではあるが、ベッドの横の窓からは春の光が差し込んでいる。
「母さん、今日は学校の先輩と一緒に来たよ」
 戸津川が優しく語り掛けるその先には、ベッドで静かに本を読んでいる女性がいた。
「直樹」
 おそらくはいつもどおりの――穏やかな笑顔で、その人は戸津川を迎える。
 そして背後にいる鷹明を見て、何かを感じ取ったかのように大きく目を開いた。
「まぁ珍しい……マザーサイドの方?」
「いや、こちらの人間だよ。最近、ストゥームザイムになったばかりなんだ」
 あまりに自然な親子の会話に、鷹明だけが驚いている。
 昨日、鷹明が体験した異常な世界も、この母子にとっては日常的だとでも言うのか。
 鷹明の心中を察したように、読みかけの本を閉じて戸津川の母親は微笑んだ。
「じゃあ、色々と驚くことばかりで大変だったわね」
 彼女のあまりにも穏やかな物言いに、鷹明はなぜか胸がじーんと熱くなる。
 仕草や言葉、彼女を包む全体の雰囲気――優しいのだ、すべてが。これが母親のぬくもりとでも言うのか。
(いや。それは人によるよな)
 自分の母親の、風呂上りの醜い姿を思い出してうんざりしながら、鷹明はひとりため息をついていた。
 戸津川は慣れた手つきでタオルや着替えを片付けると、鷹明の方をちらりと見てから再び母親に視線を戻した。
「彼はまだ混乱してることも多いと思うんだ。だからもう少し、ストゥームザイムのことを説明してあげようと思って。ちょっと二人で屋上にでも行ってくるよ。またあとで顔出すからね、母さん」
 戸津川の言葉に母親はうなずいた。そして鷹明を見ると、
「またいらして下さいね。色々と、話したいことがあるのよ」
 と笑った。窓ガラスの光を背にした戸津川の母親は、まるでマリア様のようだと鷹明は思っていた。


「じゃあ誰も運命の子の姿を見たことがないってのか?」
 病院の屋上では、まだ少し寒い春の風が洗濯された真っ白なシーツを躍らせている。
 その白さに目を細めながら、鷹明は戸津川にそう聞いた。
「そうなるね。運命の子≠ヘ、基本的に生まれたときから死ぬまで城の奥に閉じ込められて育つ。王宮のごく限られた人でないと顔もみることができないんだ。だから普通に探すのは大変なことだよ」
「……」
 それは大変どころか、不可能な話ではないのか。鷹明は眉を寄せ、無言で戸津川を見る。その様子に、戸津川は首を振った。
「けどアレクの懸命の調査の結果、運命の子をさらった犯人と魔物を呼寄せて世界を破滅へと導いている人物が同一だと分かってきたんだ」
「それが『姿なき魔女』というわけか」
 鷹明は、マザーサイドでもアレクの話を思い出していた。姿なき魔女――アレクの表情を一変させた名前である。
 鷹明に言葉に、戸津川も黙ってうなずいた。
「あとは僕がその魔女と接触し、居場所を吐かせれば運命の子を探し出すのは何も難しいことじゃないし、そのまま殺せば魔物も消えるだろうというのがアレクの推測だ」
 そこまで話して、戸津川はなぜが表情を曇らせた。それですべては解決するという明るい話題のはずなのに――理由を聞きたい気持ちもあったのだが、触れてはいけない領域のような気がして鷹明は慌てて話題を変える。
「そういえばナオ、じゃなくて戸津川は何でストゥームザイムに? まさかアレクの演技に騙されたわけじゃ」
 保健室でのエッチなシーンが甦る。しかし、鷹明の予想に反して戸津川は不思議そうに小首をかしげただげだった。
「僕は、父親がストゥームザイムだったから自然と。それよりアレクの演技って何?」
 ななななんでもないっ、と鷹明は大きく手を振った。あんな情けない罠に落ちたことなど、戸津川にだけは知られたくないわけで。
(……あとでアレクに口止めしとかなきゃな)
 そんな心中の焦りを知ってか知らずか、戸津川はきょとんとしたまま、鷹明を見ている。純粋無垢そのもののような瞳を見ながら、鷹明はいたたまれず、ひとり地面を見て反省した。しかし、そんな鷹明の心に今さらながら引っかかった言葉があった。
「ん? 父親がストゥームサイムって」
「そうなんだ。三年前に亡くなったけどね。アレクの話によるとマザーサイドの魔物に殺されたらしい」
「あ、ひょっとしてアレクが言ってた予言の救世主?」
「ああ。だからこそ、僕は世界を救おうとした父の意思を継ぎたくて」
「……そっかー……」
 戸津川は鷹明と違って、血統正しいサラブレッドなストゥームサイムというわけだ。男になってもちっとも変わらない、品のある凛とした横顔をちらりと盗み見したあと、鷹明は夕暮れ間近の空を見上げた。
「なんつーか、大変だったな。オヤジさんが居なくなっただけでもしんどいのに、その上世界を救うだなんて。母親の看病もしながらさ」
「……優しいね、アキは」
 戸津川はそう言ってうつむいた。柔らかな髪が頬にかかる。
 あんなに強くて堂々と立派に戦えるのに、こんな風にふと見せる表情はあまりにも儚くて寂しげで――鷹明の胸は急に苦しくなった。
 間違いない。これは絶対に恋だ。
 ナオとは何とも奇妙な出会いだったし、未だに男女のどちらに惚れているのか区別もつかないが、それでも。それでもこれは絶対に恋なのだ。
 高鳴る胸を静めるかのように、鷹明はグッと目を閉じる。そして再びゆっくりと開いた視界には見事な夕焼けが広がっていた。
 病院の屋上から見る空は、赤から紺へグラデーションで遥か彼方まで続いている。
「僕はこの世界とすべての人々を守りたい。心の底からそう思っている」
 戸津川がふいにそう言った。見ると同じように夕焼けを見つめている。
「でも……ただ世界を守ることだけが本当の正義なんだろうか」
 戸津川の謎めいた言葉の意味がよく分からず、鷹明はすぐに返事を返せなかった。
「……悩みとか、あるんだ」
 遠慮気味に聞いてきた鷹明に、戸津川は我に返ったように顔を上げる。そして「大丈夫。何でもないよ」と明るく首を振った。
「それより学校の魔物退治、よろしく頼むね。アキには何かと迷惑をかけてしまうけど」
「いや俺は別に。迷惑とか、思ってないから」
 アレクがいたら「嘘をつくな」と突っ込まれそうな発言だが、鷹明はいたって真剣だ。
 突然知らされた世界の崩壊。変身という自分の中にある未知の能力。魔物。複雑な悩みを抱える同志――そして恋。
 解決の糸口さえ掴めない複雑な想いに、鷹明は深いため息をついた。