LOVE HAZARD 6
作:草渡てぃあら





 6

 散々迷った末、鷹明は再び病院に来ていた。戸津川の母親に話を聞くためだ。
 戸津川は今日、どうしても抜けられない剣道の試合があるらしく、病院で顔を合わすことはない。チャンスは今日しかなかった。
 ちなみに巳子と嘉穂は、仲良く風邪を引いて学校を休んている。これに懲りてくれれば、鷹明も何の心配なく魔物退治に専念できるのだが。
 昨夜は入谷の意外な応援もあって勢い込んでみたものの、具体的に何をどうすれば良いのか見当もつかない。鷹明の知っている情報が少な過ぎるのだ。
「このまま魔物倒すだけでは、ナオの悩みには近づけない気がするし」
 とはいえ、やはりナオが秘密にしようとしていることを無理矢理聞くのは気が引けた。アレクに聞こうかとも想ったが、なんせ相手は自分や王を騙しているのだ。そんな相手が素直に情報を与えてくれるとは思えなかった。それにアレクは、
(恋敵かもしんないしっ!)
 鷹明は一気に表情を険悪にさせる。
 そういうわけで、消去法でいくと残ったのが戸津川の母親一人が残ったのだった。
「ナオのこと?」
「はい。ちょっとあいつ最近、何か悩んでるじゃないかと思って。ストゥームザイムとして魔物と戦うのもつらいことだろうし」
 ベッドの上で午後の穏やかな光を背に受けながら、母親は「そうね」と言った。
「父を亡くしてから、ナオも色々と大変だと思う。でもね鷹明君。私が夫と出会ったとき、彼はすでにストゥームザイムとして生き方を受け入れていたわ。マザーサイドが闇で覆われ、魔物が日増しに増えていく中、あの人は世界のために必死に戦っていたの」
「……」
「ナオはあの人の息子よ。簡単に弱音を吐くような子じゃない」
 母親であるからこそ言える、自信に満ちた顔だった。
「あの人が亡くなるまでの数年間、ナオは何度もマザーサイドへ一緒に行ってストゥームザイムとしての戦い方を学んできたの。だから今さら魔物との戦いが原因で、何かに悩むことはないわ」
 父の死の三年前より前から、ナオはストゥームザイムとして世界を守っていたのだ。年齢からいってもまだ小学生だったはず――そしてその後も、父親の死を乗り越えて戦い続けている。
「……」
 鷹明の心中を察したかのように、母親はにっこりを笑った。
「えらいでしょう? 親バカでしょうけど自慢の息子なのよ」
 そしてかみ締めるようにもう一度「本当に、自慢の息子」と言った。
「その、おばさんは今回も王家の誰かが魔物を呼んだと?」
 鷹明の言葉に、母親は首を横に振った。
「……分からないわ。犯人はベビーサイドにまで魔物を呼び込めるほど強い執念を持った人間かもしれないし、あるいはまったく別の要因で魔物は現れている可能性だってある。魔物がベビーサイドにまで現れるなんて初めてのことなのだから」
 姿なき魔女=\―鷹明はその言葉を思い出していた。マザーサイドに存在せずに、魔物だけを呼び出せる人間。ナオとアレクは、恐らくその人物をすでに探し出している。しかし、それはナオが殺すのをためらう相手であり――。
「鷹明君。本当は私に息子なんていないの」
 必死に思考を整理していた鷹明は、その言葉を聞き逃す。母親が何を言ったのか、鷹明は聞き返そうと顔を上げた。
「……おばさん?」
 窓の外を見たまま、母親は泣いていた。頬にツッと涙が伝わって落るのが見える。
「私はね、もともと身体が弱くて子供を産めないのよ。だからナオは……直樹は……」
 そこまで言うと、母親は自分の膝に顔をうずめて肩を震わせる。
 鷹明は耳を疑うしかなかった。今、この人はなんて言った――?
「子供じゃ、ないって……?」
「それでもね。それでもあの子は私を母さん≠ニ呼んでくれたの。呼んで、くれたのよ」
 覆った手の奥から涙が流れ落ちる。
 鷹明には、かける言葉が見つからない。混乱した頭のまま、鷹明は呆然と立ちすくんだ。
(どういうことだよ? ああ、もう! 昨日から頭ン中ゴチャゴチャだ)
 知れば知るほど、分からないことが増えていく一体、自分の周りで何が起こっているのか。不吉な予感にめまいがしそうだ。
 鷹明君、と母親は泣きながら言った。
「お願い、あの子を助けてあげて……お願い」
「助けるって……でも、俺何をしたらいいか」
 鷹明の脳裏に、ナオの悲しげな横顔が浮かぶ。黒い瞳、流れる髪――。
(ナオ、お前は一体誰なんだよ?)
 その時だった。
 鷹明は厳しい表情で顔を上げる。覚えのある気配がした。
「鷹明、君?」
「ちょっと俺……後でまた、来ますっ」
 泣いている母親一人を置いていくのは気が引けたが、それでも気配が本物ならば一刻を争う事態である。
 不思議そうに見送る患者や看護婦の間をすり抜けて、一気に廊下を走り抜ける。
 一階の突き当たりの奥、胸騒ぎはそこに向かっていくにつれて強くなった。
 夜の学校で何度も体験した独特の気配――これは。
「嘘だろ……? なんで魔物が、病院に」
 緊張で乾いた喉を鳴らして、鷹明は「霊安室」と書かれたプレートを見上げる。間違いない。魔物はこの中にいる。
 そっとあけたドアの向こうは真っ暗だった。
 霊安室あるが、幸い現段階では使用されていないらしく、何もない空間が広がっている。
 ただ、その部屋はとても暗かった。電気が消えているとかそういうレベルではなく、不自然なほどに暗過ぎる。目を凝らすと、鷹明のすぐそばで看護婦がひとり倒れていた。
「……入谷?」
 見覚えのあるその顔に驚きながら、鷹明は入谷を揺り起こす。恐怖で失神した後だったのか、入谷はすぐに意識を取り戻した。
 同時に、鷹明の胸へとすがりつく。日頃とは全く違う入谷の怯えように、鷹明は魔物は本当に病院にいるのだと改めて確信した。あり得ない話だと言っている場合でもなさそうだ。
「入谷だけか? 他には?」
「大丈夫、一人。掃除してたら急に電気が消えて……それで、闇が」
 そこまで言うと、入谷はぎゅっと指先に力を入れた。肩先が震えている。
「入谷。ここは俺が何とかするから騒がずにここから出るんだ。その後も何もなかったようにしていろ」
「でも、そんな……!」
 驚いたように入谷が言う。事情が分からない入谷に、今の状況を説明している時間はないだろう。鷹明は焦る心を抑えて、祈るように言い聞かせた。
「大丈夫。俺を信じて」
 しっかりと目をみてそう伝える。まだ何か言いたそうな入谷の唇はしかし、そこで止まった。意を決したようにうなずく入谷をドアの出口まで送り、鷹明は「待たせたな」とゆっくりと振り返る。
 部屋の隅でうずくまっている闇の怪物に向かって――。
「学校内だけの約束だろ? 出る場所、間違えてんじゃねぇよ」
 当然、返答はない。代わりに、地響きに似た低音が、空気を震わせた。渦を巻きながら、闇が一点に集中していく。
 鷹明は、誰も来ないように内側から鍵を掛けると、胸に埋め込まれた赤い石に指を置く。この一週間で何度も体験した変身だ。
「ストゥームザイムの名の元に! 女神よっ加護と光のお力を――我、正義を為す!」 
 光があふれる。輝く粒子は密閉された部屋を満たし、魔物の存在をより明確にする。大きな黒い塊が一気に膨らみ、変身したアキを覆うように立ちはだかる。アキは素早く下がり魔物との距離を保つと、光の剣をかざした。
 触手を伸ばす闇の手が一瞬、怯えたように引き下がる。だが次の瞬間、魔物は逆に襲い掛かってきた。
「!」
 反射的に魔物を剣で払う。手ごたえはあった。光の剣によって引き裂かれた闇は、曲線を描きながら真っ二つにされる。普通ならばそれですべて終わるはずだった。
 しかし。
「何っ!」
 両サイドに分かれた魔物は、それぞれを大きく膨張させ再びアキに襲い掛かってきたのである。
 挟み込まれるような形で、アキは二対の魔物と対峙する。身を反転させ、わずかの差で攻撃をかわす。
「くそ!」
 弱点である心臓の赤い炎を探す。アキの心理を知ってか、二つの魔物は今までにないほどのスピードで宙を回転し始めた。混ざり合いながらまた分裂して、鷹明へと伸ばされる何十もの触手は、不吉な牙のように止まることなく伸ばされる。
 必死に魔物を追うアキの視線が止まった。闇の奥に赤い流線が見える。
 剣を構える手に力が入る。――だがしかし。
 気をとられた一瞬の隙をついて、背後からもう一体の魔物がアキを襲った。アキの華奢な身体を飲み込む勢いで闇は覆いかぶさる。
「……っ!」
 幾たびの魔物との戦いの中で、アキは初めて敵と接触した。病院の魔物は、それほど学校にいた魔物とは力の差があるのだ。
(これが魔物の思念……闇の、感情……!)
 強い憎しみが、深い悲しみと恨みが混沌とした空間を満たしている。静かだ。なにも音はしない。だが、鼓膜がびりびりと震える感覚はあった。耳ではなく、身体全体でものすごい悲鳴を聞いているような不快感がアキを包む。
(違う……静かなんじゃない……!)
 あまりの音量に聴覚が飽和しているのだ。
 力尽きたようにがっくりと膝をつくアキ。光は急速にその勢いを失っていく。
 死ぬかも、とアキは漠然と思った。少し前にも同じ気持ちになった。マザーサイドでのことだ。
(あのときはナオが助けてくれたんだよな……)
 凛とした声。真っ直ぐな瞳、柔らかな手の感触――思い出すだけで、今でも胸が震える。ナオの為に頑張ろうと思った。けれどナオには謎が多すぎて――。
信じるってさ、そういうことなんじゃないのか
 入谷の声が聞こえる。そうだよな、とアキはその言葉をかみ締めていた。
「負けたく、ねぇな」
 このまま負けたくない。この戦いも、ナオへの気持ちも。もう一度立ち上がり、剣をかざすのだ。ナオの為に、ナオを信じて――。
「……」
 しかしアキの意思に反して、実際には指先がかすかに動いただけだった。それっきり、アキは全く動かなくなっていた。
 再び闇はゆっくりと、その部屋を満たしていく。


 気がつくと、鷹明は病院のベッドに寝ていた。
 心配そうに覗き込む戸津川、少し離れたところにアレクがいる。
「……あれ。俺、助かったとか?」
 心痛で泣きそうな戸津川を慰めるため軽く言うつもりだっただが、声がかすれて悲壮な感じになってしまう。とりあえず上半身を起すと、それだけで頭が割れるように痛かった。
「危なかった。私とナオが駆けつけたときには魔物はすでに去ったあとだったがな」
「見逃された?」
 さあな、とアレクは疲れたように首を振る。そしてナオの方を見ると、
「私はもう行く。アキの無事も確認できたし、最後の準備に備えなければ。ナオもこれでよく分かっただろう。今後は自分のやるべきことを行うように」
 と言った。アレクの言葉に戸津川は黙ってうなずく。しかし背を向けたままで、アレクの方は見なかった。
「……」
 何か言いたげなアレクだったが、それをため息に変えると黙って病室を出て行く。
 固い表情のままの戸津川にちらりと目をやると、鷹明は大げさに肩をすくめてみせた。
「相変わらず冷たい男だねぇ。あ、今は女だけどさ」
「ごめん、ゴメンねアキ。危ない思いをさせてしまって」
 突然、戸津川はそう言って顔を伏せた。シーツを掴む手が震えている。
 いいよ、とそんな戸津川に鷹明は力なく笑いかけた。
「正直、最初は面倒くせぇとか思ってたけど。ナ、じゃなくて戸津川が健気に頑張ってるのとか見てると、力になりたいって思えるし」
「アキ……実は」
「無理に言わなくてもいい。ややこしい話ならごめんだ。ただ、俺は絶対にお前の力になるから」
 それだけだ、と鷹明は言った。そして、先ほどの戸津川の母親との会話を伝える。
「ナオを、息子を助けて欲しいって」
 黙って聞いている戸津川の表情は固く凍りつき、そこから感情を読み取ることはできない。言うかどうか少し迷ってから、鷹明はポツリと付け加えた。
「泣いてた」
 戸津川は静かに顔をうつむかせた。
「そう。母さんがそんなことを」
「頼まれたからじゃないが、悩んでいるなら相談にのる」
 少しのためらいがあって、戸津川は「そうだね。本当はもっと早くに話したかった」と弱々しく微笑んだ。そしてひとつ呼吸をすると、意を決したように語り出す。
「僕を生んだのは父さんなんだ」
 言葉の意味を理解するのに、しばらく時間がかかる。やがて鷹明の顔に驚きの表情が浮かんだ。
「!」
「鷹明が母さんから実際聞いたように、生まれつき身体が弱く、妊娠に耐えられない母さんの代わりに、父さんはマザーサイドで僕を生んだ。そして二人の子供として育てたんだ、ベビーサイドの男の子としてね。少し特別な子供の誕生だけど、それ以外は平凡で幸せな家族だったと思うよ。けれどもその間にもマザーサイドの魔物は少しずつ増え続け、僕と父さんは再びストゥームザイムとしてマザーサイドに行く機会は増えてしまった。そして三年前、魔物退治にマザーサイドに向かった父さんは、二度とこの世界に戻ることはなかったんだ……」
 戸津川はそこで言葉を切る。そして当時の悲しみを思い出すように目を伏せた。
「父さんが亡くなって、アレクが正式に僕を迎えに来た。新しいストゥームザイムとして。そして姿なき魔女≠ニ運命の子≠フ話を聞かされたんだ。最初はアレクと二人だけですべてが片付くはずだった。けれども僕は浮かび上ってきた真実を、自分の運命を受け入れることができなかった。そして今でもアレクの忠告を無視して、世界の崩壊を止めることなく、アキを危険に晒し続けている」
 だから、と戸津川は力なく首を振った。
「本当はアキが戦わなければならない理由なんてないんだ。僕が姿なき魔女≠フ殺害に専念できるよう、アレクが魔物退治を任せられる人間を探し出しただけなんだから……アキにまで世界の危機を背負わせることは間違っているんだ」
 戸津川の話を聞いていた鷹明は、ベッドの上で考え込む。戸津川が言った「受け入れがたい真実と運命」について――。
「アレクはどう思っているのか知らないけど、俺はナオを助けるためにこの仕事を引き受けたつもりだ。王にもそう頼まれたし」
 鷹明はそう言って、一度目を閉じた。その言葉に嘘はない。だからこそ、今、確かめなければならないことがあった。ナオの口から直接言わせるには、その事実は辛過ぎる。
「姿なき魔女ってのはやっぱり、戸津川の母親なんだな」
 沈黙は肯定として、鷹明の胸に静かに染み込んでいく。戸津川は、その残酷な事実を自分の胸に刻むように繰り返した。
「そうだ。僕の母さんだ」
 的中してしまった嫌な予感に、鷹明は大きく息を吐く。戸津川の胸の痛みが伝わってくるようでつらかった。ナオが悩んでいた原因はまさにこれだったのだ。
「アレクの話では、念願の子供が出来た父さんはだんだんと母さんから心が離れ、魔物退治を理由にマザーサイドに入り浸るようになった。僕とともに、こちら世界に戻ってくることが少なくなってしまったんだ。それを恨んだ母はマザーサイドを呪い、その闇の感情に魔物が反応して呼び出され続けている」
「そういうことか」
「初めてその話を聞いたとき、僕は今まで育ててくれた母さんが、そんな恐ろしい感情を持っているなんて信じられなかった。けれども魔物は増え続け、二十年前と同じように運命の子≠ェ死んだ。継承者は不明のままで――悩んだ末に僕は思いついた。僕が息子として母親の孤独を癒すこと、それこそが魔物を減らし世界の危機を救う手立てにはならないかと。けど」
 戸津川はつらそうに続けた。
「きっと母親にとって魔物は、無意識の領域でのことなんだ」
 魔物の数に変化はなかったということか。鷹明の脳裏に、泣いていた母親が浮かぶ。
「父さんが殺されてから魔物の数は益々多くなり、今では学校に張られた結界すらも破るほど強力になっている。愛する父さんの、心も命も奪ったマザーサイドという存在自体を、母さんはそれほどまでに憎んでいるんだ」
 だからもう、と戸津川は言った。まるで自分に言い聞かせるように。
「ためらっている時間はないんだ。母親との時間は今日を最後にしようと思う。明日、僕は病院へ行ってすべてにケリを着けるよ」
 そのつらい選択に、鷹明は何も言えなかった。確かにこのままでは世界は本当に滅んでしまうだろう。病院まで来る力を持ってしまった魔物。入谷の怯えた顔が思い出される。
 ただ世界を救うことだけが、正義なのか=\―出会った頃に屋上でつぶやいた戸津川の言葉が、今更ながら胸に染みていた。


 次の日は土曜日だった。自分の部屋のベッドの上で、鷹明は今までの出来事を思い返している。時間は間もなく正午になろうとしていた。
(結局、俺は何の力にもなれなかったなー……)
 ナオはもう病院へ向かっただろうか。アレクの話では、今日の夕方までにナオが姿なき魔女≠抹消し、マザーサイドへと帰るのだという。運命の子の発見は、すでにアレクが済ませ、あとはすべてを終わらせるのを保健室で待っているはずだった。
 鷹明にできることはもう何もない。
「……」
 にも関わらず、鷹明の心は落ち着かなかった。これで解決したとは、どうしても思えないのである。
 ナオの苦悩、母親の涙――本当にそうなのか? これでいいのか?
 鷹明は頭を抱えて考え込む。
 マザーサイドを襲った魔物。暗黒の感情――孤独、憎しみ、嫉妬。
(嫉妬……?)
 心に何か引っかかった。子供が欲しくて欲しくて、それでも叶わなかった夢を夫婦はマザーサイドの特性を活かして成功させた。ではどうやって? ストゥームザイムだ。ベビーサイドへ行けば性別は変わる。そうして父親はナオを生んだ。ナオはストゥームザイムの父親から生まれ、戸津川直樹としてベビーサイドで育った。
「……ナオの誕生」
 もう一度よく考え直す。何かがおかしい。ナオは――誰と誰の子だ?
「そうかっ!」
 カチリと頭の中で音がした。これで全部説明がつくはずだ。
 勢いよく、鷹明はベッドから跳ね起きる。王が言ったアキの存在理由とナオの出生の秘密――もやもやとしていた物事が、今一本の線で繋がった。
「急がないと」
 玄関に出ると、すでに夕闇が街を包み込もうとしていた。急がないとナオは取り返しの付かないことをしてしまう。知らせなくてはいけない。真実を。
「頼むから待ってろよ、ナオ!」


 「面会時間は終わりましたよ」という受付の制止を振り切って、もどかしげに階段を上がる。戸津川の母親がいる病室の前では、数人のナースと共に入谷が心配そうな顔で立っていた。
「早瀬! 戸津川君が病室にこもってしまって。何を言っても入れてくれないんだ。思いつめた顔だったから何だか心配で」
 背中で入谷の説明を聞きながら、鷹明は閉ざされたドアを乱暴に叩く。
「戸津川、いるんだろ? 開けてくれ」
 しかしドアは内側からしっかりと鍵が掛けられており、耳を澄ませても中からは何も音が聞こえなかった。間に合わなかったのか――。
「戸津川、いやナオ!」
 開けてくれ、と鷹明は繰り返した。
「……アキ?」
 分厚いドアの向こうから、ナオの声がかすかに聞こえる。何故鷹明がここに来たのか、戸惑うような細い声が痛々しかった。
「開けてくれナオ! 俺達は間違っている。世界を救う為にお前がその人を殺すことなんてないんだ」
 殺す、という物騒な言葉に背後のナース達がざわめき立つのが分かった。
「アキ……もういいよ、ありがとう。心の迷いがマザーサイドを悪化させ、こちらの世界まで迷惑を掛けた。すべて自分の責任だ。だからこれは自分の最後の務めなんだ」
 ドアに当てた鷹明の耳に、ナオの言葉が静かに流れ込んでくる。ナオの強い決意が悲しかった。
「ここを開けろナオ! 俺を信じてくれ。本当にその人姿なき魔女≠ネんかじゃないっ」
 返事は、なかった。ダメだ、と鷹明は悔しさで拳を固める。思いつめているナオには、自分の言葉などただの慰めにしかとられないのだ。届かない。このままでは自分の気持ちが届かない。
 いいか、と鷹明は声を低くして言った。
「本当にその人が姿なき魔女≠ナあるならば俺が、俺が手にかける。お前だけに罪を背負わせるのは絶対に嫌だ」
「アキ……どうして、そこまで」
 戸惑うようなナオの言葉に、鷹明はひと呼吸置いてきっぱりと答えた。
「お前が好きだから」
「……」
「情けない話だけど、俺が一番に救いたいのは世界なんかじゃない。お前だよナオ……何よりもお前を救いたいんだ。お前が苦しむ姿を見たくないし、今ナオがその人を殺せば一生後悔するって分かってる」
「でもこうするしか方法がないんだよ。話しただろう?」
「違う! 頼むから一人で背負い込むなよっ。俺の予想が合っているかは分からないけど、確かめる価値は十分にある。だから一緒に何とかしよう。な?」
「……これ以上、迷惑はかけられない」
 その言葉を打ち消すように、鷹明は大きな音をさせてドアを叩いた。悔しかった。
「これ以上迷惑だなんて言うな! 俺は自分のためにこうしている。俺の大切な人が消えない傷を抱えたまま一生生きていくなんて耐えられないんだよ。だからっ!」
 ふいにドアが開いた。同時に泣き腫らした瞳でナオが鷹明の胸に飛び込んでくる。手には小さなナイフ。ナオのしっとりとした温かさを感じながら、鷹明は柔らかな髪に鼻を寄せる。
 奥のベッドの上では、母親が上半身を起こしたままナオを鷹明を見ていた。いや、見守っていた。穏やかな眼差しで。
 きっと、と鷹明は思う。きっとこの母親(ひと)ならば何も言わずに死を受け入れていただろう。
 心配したナース達が病室へと入り、素早く脈が取られる。そこには健気に動く入谷の姿もあった。
「なんか分からないけど、まだ全部は終わってないんだろ」
 相変わらず愛嬌のない表情で入谷は言う。
「あとは任せて。大丈夫だから」
 そう言ったっきり背を向けた入谷に感謝しながら、鷹明はナオを連れて走り出した。すべての原因を作り出した、本当の魔女を倒すために――。


 夕闇を迎える土曜日の学校は、人気もなく静まりかえっていた。
「どういうこと? 姿なき魔女≠ェ学校にいるって」
 鷹明の後を追いながら、息を切らせて戸津川が聞いた。
 部活用の裏門からグラウンドに入り、学校全体にまだ魔物の気配がないことを確認すると、鷹明は一息ついたように振り返った。
「俺の考えでは、ナオの母親は姿なき魔女≠ネんかじゃない。あの人はたとえ生みの親じゃなくても、本当にナオの誕生を心から喜び子供として愛している。そんな人間が魔物を呼べるはずがないんだ」
「……でも」
 何を信じていいかわからない様子で、戸津川はうつむいた。
 鷹明はそっと保健室のドアを開ける。そこには腕組をしたアレクがいた。
「待っていた。アキも一緒とは」
 珍しい、と目を細める。鷹明はしっかりとした口調で言った。
「姿なき魔女の抹消は失敗だ。俺がナオを止めた」
 ふいにアレクの顔色が変わる。険しい表情が浮かんだ。
「……なんだと?」
「こんなことをしても魔物は消えない。あの人は姿なき魔女≠ネんかじゃないんだから」
「余計なことを! ナオがどれだけの思いをして決意したのか分かっているのか」
 分かってるさ、と鷹明は負けずに言い返す。
「それだけじゃない。本当の姿なき魔女は」
 大きく息を吸い込んで、鷹明は言った。姿なき魔女、本当に世界の滅亡を願っているのは――!
「アレク、お前だ」
 後ろで戸津川が息を飲むのが分かった。
「魔物を呼び、ナオを騙して母親を殺そうと仕組んだのは全部アレクなんだろう?」
 鷹明の推理を決定的にしたのは、マザーサイドで見せたアレクの表情だった。姿なき魔女≠と口にしたときの、あの深い憎しみ、嫉妬に燃える表情。あれはどこから来る想いなのか。それがずっと引っかかっていた。
「アレクは戸津川の、いやナオの母親がずっと憎かったんだ」
「嘘だ。どうして……どうしてアレクが僕の母さんを……」
 鷹明は説明しようと口を開く。しかしそれよりも早く、アレクが言った。
「そうだ。私はあの女が嫌いだった」
 吐き捨てるようにアレクはそういうと、呆然と立ちすくむナオに向かってさらに言葉を続ける。
「ナオ。私はお前の父親も憎い。何故だか分かるか? お前の父親はストゥームザイムであることを利用し、この私と交わってお前を産んだのだ」
「な……!」
「マザーサイドで生まれた子供は可愛い女の子だった。間違いなく私の子供だ。だが、生まれた子供はベビーサイドで男の子として育てられた。この悔しさが分かるかナオ? 私はお前の父親を心から愛していたというのに、あいつは最初からベビーサイドの女のことしか考えてなかったのだ!」
 だから、とナオは震える声で確認する。
「父さんを殺した……?」
「そうだ」
 きっぱりと答えたアレクの顔に後悔はなく、満足した表情すら浮かべている。
「最初に、私は運命の子を殺害し、継承者にナオを指名させた。そうすればナオはマザーサイドの統治者として迎えられ、もうベビーサイドには戻れなくなる」
「……戸津川の母親をひとりにするためか?」
 鷹明が口を挟む。
「ナオは私の子供だ。何の関係もないあの女と暮らしていいはずがない」
「そんな……そんなのあんまりだよ」
 あまりのショックに、ナオはがっくりと膝を付く。いたたまれなくなって鷹明はアレクに言った。
「もういいだろうアレク。魔物を呼ぶのを止めるんだ。こんなことをしてもナオが苦しむだけじゃないか」
「魔物を呼ぶのを止める? 無理だ。いつからか私は、魔物へと向かう自分の暗い感情を抑えられなくなっていた。魔物はもう、私の命令を無視して増え続けている。だからこそ今回の計画を実行したのだ」
「……なんだって?」
 魔物は止まらない。その事実はさらに鷹明達を驚愕させた。
「私はただ、世界を救いたいんだよアキ。自分の息子だと思い上がっているあの女を、ナオに殺害させる。これで長い間抱き続けた、私の闇も消えるはずだからな」
「なんてことを……!」
 魔物を呼ぶ暗い感情がどうやったら消えるのか今の鷹明には検討もつかないが、ナオの心をこんなにも痛めつけたアレクを許せなかった。
「無駄だよアレク。お前の闇は消えない! お前がどんなに細工しても、人の想いは変わらない。いいか? ナオのためらいは死んだ父親のためらいだ。アレクも自分の愛した人ならばそれぐらいわかるだろう? お前は一生、愛されることはないんだよ、ナオからも、その父親からも!」
「おのれ、好き勝手なことを」
「お前がでっち上げた世界崩壊の芝居はもう終わった。いい加減諦めろ」
 鷹明の言葉に、アレクはゆっくりと顔を伏せる。それは後悔しているようにも、何かを考えているようにも見えた。しかし、次の瞬間アレクは静かに笑っていた。
「世界を滅ぼすことがでっち上げだと?」
 笑い声からも全体を包む異様なオーラからも、アレクが殺気立っているのが伝わった。
 いいだろう、とアレクは鬼の形相で鷹明を睨みつける。
「今からでも遅くはない。この手で世界を滅亡させて見せようではないか!」
「何だと?」
 あまりの気迫に、鷹明は後ずさりする。アレクの様子は明らかにおかしかった。大きく両手を広げ天を仰ぐ。その指先に、闇の力が集まっていく――!
「これは一体」
 怯えたようなナオの声を掻き消すように、魔物の咆哮が響く。保健室のベッドが吹き飛び、細かい備品は跡形もなく破壊される。
 そしてその空間を埋め尽くすように、アレクを取り込んで巨大化した闇の魔物がいた。
「グァァァァッ!」
 劈くような叫び声とともに、魔物は闇のエネルギーを取り込んでいく。
 突然、足元が重力を失った。一瞬、身体が浮いたような錯覚に陥り――。
 鷹明と戸津川は、ものすごいスピードで落下していく。どこか。どこかあり得ない空間へと。
「わ!」
 落ちたところは、今まで鷹明が見たこともない空間だった。そこには何もないのである。天も地も。ただ果てしなく広がる灰色の世界に、自分さえも失ってしまそうだ。
「アキ、見て!」
 戸津川の指差した方向には、かすかに光の残骸が見えた。
「マザーサイドへの扉が破壊されているんだ……っ!」
「だとしたらここは、一体?」
 見えない敵に警戒しながら、鷹明は戸津川に尋ねる。アレクの姿も魔物も、未だ見えなかった。
「わからない。鷹明が女性化していないからマザーサイドでないことは確かだけど」
「ここは両世界の狭間――受胎道。魔物の、本来の住処だ」
 突然、アレクの声が響いた。しかし姿はない。
「出てきやがれ!」
 鷹明は空へと向かって叫ぶ。答えるように不気味な笑い声が響き渡った。
「闇よ、乾いた私の悲しみに潤いを。憎しみを昇華させるエネルギーを!」
 何もなかった空間に闇が生まれた。ものすごい引力ですべての闇が引き込まれていく。ナオも鷹明もただ見ていることしかできなかった。
 膨れ上がった巨大な闇は、見上げるほどになる。何重もの不気味な声が響いた。
「世界に滅亡を――!」
 心臓を鷲掴みにされたような恐怖が、鷹明を襲う。不気味な地響きは鳴り止まず、気圧の歪みに心拍が悲鳴を上げているのがわかった。
(な、なにが起きている――!)
 闇を取り込んで濃淡の激しくなった異様な空間は、ひどく視界が悪い。
「アキ! 変身するんだ」
 背後で戸津川の声がした。ここがマザーサイドでない以上、今魔物と戦えるのはアキしかいない。
「了解」
 短く返事をして、鷹明は胸の深紅の石に神経を集中させる。意識的に恐怖を打ち払い、祈るように目を閉じた。胸に埋め込まれた赤い石が反応して輝きだす。
 指先に温かさを感じた。大丈夫、自分に言い聞かせる。大丈夫だ。
「ストゥームザイムの名の元に。女神よ加護と光のお力を。我、正義を為す!」 
 闇の中で光が爆発した。同時にいくつもの光の柱が立つ。幾億もの光の粒子が、鷹明の身体を守るように包み込み、生き物のように躍動しては闇の力を飲み込んでいく。
 待っていたかのように闇が動いた。光との戦いを喜ぶかのように雄叫びを上げる。
「グォォォッ!」
 光と闇――両者は互いに溶け合いながら、混沌とした空間に満ちていく。やかて光がその輝きを増した。その中心には、鷹明が立っている。いやその姿はすでに、鷹明ではなかった。アキである。
「アレク、目を覚ませっ!」
 光の剣をかざして、アキが叫ぶ。応える様にアレクだった魔物は咆哮した。見上げるほどの巨大な魔物――その中央部分に取り込まれた、ものすごい形相の凍っているアレク。そして魔物の心臓部とも言える赤い炎が見える。そのあまりにグロテスクな光景にアキは思わず鳥肌を立てた。
 魔物は覆いかぶさるように、アキ目掛けて触手を伸ばす。アキもすばやく光の剣で応戦していく。
 襲い掛かる闇と、それを切り裂く光。いくつもの闇が切り離され、その分だけいくつもの魔物が増えていく。赤い牙がいっせいにアキに向かって吼える。
 止まらない攻撃。放射線状に放たれた闇の触手を次々とかわしながら、アキは素早く身を反転させた。振り向きざまに剣をはらう。
「ギャァァ!」
 今度は確実に魔物の中の炎を捉える。魔物は分裂できずに煙のように消え去った。
「でかくなっても弱点は同じなんだな」
 勢いついたアキは、そう言うと自ら闇に向かって走る。追っ手の魔物はそれを避け切れず、正面から光の制裁を受けことになった。
 落ち着く間もなく次の闇が襲いかかる。アキは左へと走りながら、視線を逆の戸津川へと走らせた。嫌な予感がしたのだ。
「ナオ!」
 叫んだアキの警告はしかし、戸津川の悲鳴で塗り替えられる。
「嘘だろ……」
 アキは愕然と魔物を見上げる。巨大化した魔物は、手の中にしっかりと戸津川を捕らえていた。
「やめろ! 今さらナオを傷つけてどうなるものでもないだろっ?」
「愚かな、まだ分からぬか?」
 魔物全体からアレクの低い声が響く。
「ナオはストゥームザイムであると同時に運命の子でもあるのだ。マザーサイドの統治者が魔物に殺されれば、マザーサイドはじきに死ぬ。それはアキ、お前の世界も同じだぞ。私に孤独を与えた世界は今消えるのだ。闇よ、すべてに終焉を!」
「うぁぁっ!」
 魔物に捕らえられた戸津川の叫び声がアキに聞こえる。苦しげに顔をゆがめ、何とか抜け出そうともがくが、魔物の手はしっかりと戸津川の身体をつかんでいた。
「これでも食らえ、バケモノ!」
 アキは力任せに、光の剣を振り下ろす。だが、切り裂いたはずの魔物は、瞬時にしてその傷を埋めていく。光の剣さえも闇に取り込まれそうになったアキは、慌てて距離を置く。気持ちばかりが焦ってどうすればよいのか分からなかった。
「くそ……っ!」
 攻撃すれど、まったく歯が立たない。今のアキの力では魔物の身体に傷ひとつつけられないのだ。絶望的な気分だけがアキを支配する。
 その時――。
「グアッ!」
 アキをものすごい重圧が襲う。戸津川を掴んだ手と逆の手で、魔物はアキの身体を押さえこんだのだ。あまりの衝撃に息もできない。ひどい耳鳴りの奥から、アレクの笑い声が響いていた。
「負け、るか……!」
 アキは渾身の力を込める。しかし巨大な闇の手に押さえつけられ、身体の自由はほとんどきかなかった。
 目線だけで魔物を確認する。心臓は悲鳴を上げ、肺も押しつぶされそうだ。苦しさのあまり、涙目の視界がブレる。
「我が子よ。父の手にかかって、世界とともに死ぬがよい!」
 アレクの声がして、戸津川の表情がいよいよ苦しそうになった。
「ウアアアッ!」
「させるかーっ!」
 戸津川の叫び声にアキは傷みも忘れて顔を上げる。そして、ほんのわずか自由の効く手首だけを使って、最後の力を振り絞るとアキは光の剣を投げつけた。
 最後の希望である光の剣は、魔物の首の辺りに弱々しく突き刺さる。もちろん、何重にも闇に覆われたアレクの身体までは届かない。闇の魔物は光の剣さえも飲み込もうと巨大に膨れ上がっていく。心臓部の炎に当たらなかったことで、アキの絶望感はいよいよ本物となった。
「こしゃくな真似を――」
 アレクは標的をナオからアキに変えようとわずかに体勢を崩した。
 その時である。
 ナオからアキへ、意識が逸れた一瞬の隙をついて、戸津川が魔物の手から抜け出た。巨大な魔物から落下する戸津川――何を思ったのか、素早く身体を反転させると、アキが突き刺した光の剣へと飛び移る。
「ナオ!」
 光の剣はストゥームザイムにしか扱えない。無駄だと叫ぼうとして、アキは言葉を失う。
 光が放たれた。
 すべての時が止まるような錯覚。
 そこには戸津川でなくナオがいた。鷹明が恋をしたその姿のままの、凛とした美しき光の戦士――。
 ナオはそのまま力を込めて、光の剣を奥へと突き刺す。信じられない様子で、アレクだった魔物は動きを止める。
 ためらわず、ナオは深く刺した剣に全体重をかける。そこには赤く燃える魔物の炎と、アレクの姿があった。
「さよなら……父さん」
 ナオの小さな声がした。刹那。
「おおおおお!」
 怒鳴り声とも叫び声ともつかない怒号が全体に響く。ないはずの地面が大きく揺れ、巨大な闇の魔物は崩れていく。
 やがてそれらは跡形もなく消えた。
 アキもナオも、魔物の終わりを言葉もなく見守っていた。
 最後の断末魔――あれは叫びなどではなく。思うのだ。きっと。
 きっと泣き声だったのだと。


 7

「なんだよ? どーいうこと? ナオも変身できたわけ? つーか大体、運命の子ってのは、性別が変わらないんじゃ」
 気がつけばそこは保健室だった。ベッドは壊れ窓ガラスがすべて割れている。荒れ放題の保健室が、もし奈々子先生にでも見つかったら大変なことだ。
 しかし、そんなことよりも鷹明には重大なことがあった。
「アキ」
 大混乱の中にいる鷹明をなだめるように、戸津川は上着を脱いで学生服のシャツに手をかける。第二ボタンを外したあたりから、鷹明の表情が変わった。
「……うっそ」 
 戸津川、いやナオの胸にはちゃんと谷間があった。
「僕の場合は変身じゃ、ないんだ」
「……」 
 やっと分かった。伸び盛りの新入生とはいえ、少し大きすぎた制服も、胴着で身を固める剣道部に所属していた理由も――。
「もともと女の子だったってことか!」
「父さんが亡くなる少し前から、身体の変化は起こっていたんだ。恐らく、前任の運命の子が僕を継承者をしたときから、僕の身体はマザーサイドでの姿、つまりナオの状態から変化しなくなっていた。つまり」
「女の子になってたってこと?」
 ナオは黙ってうなずく。鷹明が戸津川と出会ったときには、すでに女の子だったわけであり――。
「やった! 俺って、正常だったんじゃん」
 思わず拳を固めて喜ぶ鷹明に、ナオは不思議そうな顔をした。
「何の話だ?」
「い、いや別に」
「終わったようだな」
 突然、違う声が飛び込んできた。幼くも威厳に満ちたその声の主は――。
「国王様」
 ナオの表情を見て、王は残念そうに首を振った。
「やはりアレクは闇を捨てられなかったか」
「! では王はすべてご承知で?」
「すべてではない。だがアレクの苦しみは分かるつもりだった。ひょっとしてという思いもあった」
「では何故」
「理由はアレクと同じだ。あいつの闇を消すには、ナオや母親があいつの気持ちに気付くことしか方法はないと思った」
「ずいぶんとヒドイ話だな。王はそれで世界は救われれば良かったのか?」
 厳しい顔の鷹明に、王は首を横に振る。
「いいや。だからこそ私は、アキをストゥームザイムとすることを許可したのだ。アレクはナオを追い詰めるためだけにアキを利用しようと考えたようだが、私としては救って欲しかったのだ。ナオの苦しみや母親の不安、そしてアレクの苦悩でさえもな」
「国王様……」
 恐らく王は、すべてを見守ってきたのだろう。父親とアレク、そしてナオ。生まれてしまった幾つもの愛。どうしようもない想いとこじれていく感情を。
「でも僕は、結局アレクを救うことが出来なくて」
 うなだれたナオに、王は温かい笑顔を送る。
「いや、これでよかったのだと思おう。アレクの気持ちはすでに、抑えがたいところまできていたのだ」
 そしてひとつため息をつくと、ナオに向かって言う。
「ナオには本当につらい思いばかりをさせてしまった。申し訳ない。しかし」
 そこで王は言葉に詰まる。何故か嫌な予感がして、鷹明は顔を上げた。
「しかし、さらにつらいことを言わねばならない」
「運命の子、ですね」
 すでに決心したようにナオは静かに確認する。王は黙ってうなずいた。
「ストゥームザイムではなく運命の子として生きる上で、ナオはもう二度とこちらに来ることはかなわぬ」
「はい。承知しています」
「いいのか? それで」
「母親も、それを望んでいますから」
「本当に偉大な母親であるな」
 かみ締めるように、王はそう言った。
「ま、待てよー」
 泣きそうな顔で鷹明が割って入る。しかし、それより先に「国王様」とナオは語調を変えて言った。
「『運命の子』としてこの扉を閉じ、マザーサイドへいく前に……ひとつだけお願いを聞いて下さいますか。戸津川としての僕の、最後のお願いです」
 そういうとナオはゆっくりと顔を上げる。視線の先には、確かに鷹明がいた。


 7 

「な〜にぃ? 気持ち悪い。早瀬ったらニヤニヤしちゃってさ」
 さっきからずっと部室の鏡を独占している鷹明に、嘉穂があきれて声を掛ける。
「な〜にぃ? って、よくぞ聞いてくれましたっ! 俺、これからデートなんだよなっ」
「マジ! そりゃ、気合入るね、早瀬」
 まるで自分の幸せのように、にこにこと笑う嘉穂に鷹明も「そりゃ、気合はいりますよー」と上機嫌で返す。
「なんせ男女の組み合わせでナオと会えるのは、これが最後だからな」
「……え? なんか言った?」
 なんでもない、と鷹明は再び鏡へと視線を戻す。
「そういえばさ、巳子はどうなった? 愛しのヒロインはもう諦めたのか?」
「んー、何とか熱は冷めていつもの巳子ちゃんに戻ったみたいよ。それが証拠に」
 嘉穂は部室の窓を指差す。
「?」
 そこには遠くから鷹明の存在を発見し、例の種類を降りながら「部長になってくださぁい」と叫ぶ巳子の姿があった。
「げげげっ。急いで退散せねば」
 慌てて荷物をまとめると、鷹明は部室のドアを開く。そこには、バスケの助っ人を終えて戻ってきた入谷が立っていた。タンクトップのユニフォームから、すらりと伸びた手足が美しい。
「なんだ早瀬。バカみたいな顔してるぞ?」
「ほっとけ、これが俺の幸せ顔なの」
「早瀬クンてば、これからデートなんだってさ」
 後ろから嘉穂の声がして、入谷は少しだけ寂しそうに笑った。
「……ああ、道理でバカづらなわけだ」
「バカは余計だっつーの、バカは」
 ホラさっさと行って来い、と入谷は鷹明の背中を小突く。
「いつまでも幸せそうな顔見せてんじゃない」
 そう言うと、入谷は小さく付け加えた。
「ちょっとは気をきかせろよな。こっちは、失恋したばっかなんだから」
「え?」
 なんでもない、と入谷は部室に入り、そのまま鷹明の鼻先でピシャリとドアを閉めた。
「……何だ、あいつ?」
 首をかしげながら渡り廊下を進む。遠くから「早瀬センパーイ」と巳子の声が聞こえた。見ると、こちらに向かって巳子が手を振っている。
「ヤバ」
「あ、センパイってばぁ!」 
 条件反射的に走り出した鷹明は、そのままの勢いで巳子とは逆のグラウンドに出る。見上げると、やたら大きくて青い空が広がっていた。
 なんというか、実に平和な風景である。
 グラウンドを渡る優しい春の風に、鷹明は足を止めた。
 この数週間で起こった様々な出来事が、鷹明の脳裏を駆け巡る。
 お姉さんのセクシーな罠から始まって、ナオとの出会い、運命の一目惚れ。そして変身できるようになった鷹明は、アキとして魔物との戦う日々が続いた。そしてナオへの不信感と入谷の言葉――未だにピンときていないが、一度は本当に世界は滅びかけたのだ。
 目まぐるしく変わっていく状況の中で、鷹明は様々な人間の想いを知った。誰が悪いとは言い切れない複雑な人間模様には、すべて愛という感情が関係してした。では、世界を崩壊の危機に追い込んだのは『愛』だったのか。
(違うよな……)
 鷹明は考える。
 確かに、どうしようもなく愛しい思いをアレクは憎しみに変えてしまった。しかし、迷うナオを導き世界を救ったのもまた、『愛』だったような気がするのだ。それは父の愛であり、母の愛でもある。そして何より――。
「俺の愛、でしょーここは!」
 そんな自分の考えに、鷹明はひとり満足気にうなずく。
 一人の人間が、何かの拍子に救世主となり世界を守っていく理由……少なくとも、鷹明に関して言えば、それは『正義』などという分かりやすい言葉でないことは確かだ。
(まぁ、結局のところ)
 世界を救うのは愛なんだな〜と、まるで二十四時間テレビのような感想を鷹明は持ちながら、最後のデートの場所へと急ぐのだった。
           
                                     (終わり)















  〜あとがき〜
               
 最後まで読んで下さった読者の皆様、本当にありがとうございました。
 ラストだけものすごぉく長くなってしまいましたが、最終回のドラマみたく時間延長バージョンってことで許して下さいませー(笑)この作品が皆様のもとへ届くのはいつになるのか分かりませんが、私的には今年最後の投稿となります。来年はもう少〜し上手く書けるようになりたいなと願いつつ、このへんで失礼致します。良いお年を〜v