鬼寇の天蓋 プロローグ
作:草渡てぃあら





 千年の刻を経て
 祈りと恨み 守護と呪縛 栄華と怨闇
 巡り逝きまた出づる想いに
 久遠の闇より鮮やかに浮かびあがる
 そこは――
 鬼と人との絆が息づく都


  プロローグ

 ローマ・ヴァチカノ市国。サン・ペテロ大聖堂。
 真夜中の闇を吸い込んだ大理石の床は、太陽の残滓も残してはいない。日の明るいうちは信者や観光客で賑わうこの場所も、深夜ともなると人の気配は皆無だ。
 半円の天井まで優に百メートルはあるこの巨大な大聖堂に、充溢していたはずの人々の生気は消え去り、今では静謐で濃厚な死が空間を支配している。しかしそれは決して忌むべき不吉な変化ではなく、ただ命の別の顔に過ぎないことをルカはよく知っていた。
(知り過ぎるほどに……)
 胸の奥にある、ずっと消えない疼痛。苦い思いが胸に染み広がっていく。
 システィーナ礼拝堂から廊下を渡り、大聖堂入り口へと向かう。
 月光を微かに孕んだ優しい暗闇の中、そのピエタ像はあった。
 ピエタ――愛する息子キリストを抱き、その死を嘆く聖母マリア。
「ルカ・プレチアとは、そなたのことかな」
 背後から名を呼ばれて、ルカはゆっくりと振りかえった。
 カーディナル(枢機卿)会に席を置く、ヴァン司教だ。
 本来ならば、口も聞けぬほど高位の人である。ルカは敬意を示すため素早く膝を折り、頭(こうべ)を垂れる。
「数々の悪魔を地獄へ送り返してきた稀代のエクソシストだと聞いたので、どんな人物かと思っていた。まさか、こんなに普通の少女だとは」
 ヴァン司教は穏やかに微笑みながら、指先でルカに立ちあがるように指示する。
 ルカは蒼く透き通る一対の瞳孔をついと司教に向けた。
 そして戸惑いながらも静かに立ち上がる。その拍子に、肩まで伸ばした癖のない真っ直ぐな金髪がさらりと揺れた。
 イギリスの教会に孤児として引き取られ、ルカはすぐに特殊な才能を見出された。カーディナルから直々に、エクソシストとして最前線で戦うよう命を受け、ヴァチカノ市国へ迎い入れられて二年――ルカは今年で十六になる。
「私はまだ、普通の少女のように見えますか」
 ルカがぽつりと呟いて辛そうにうつむく。
「どうかな。もう一度よく、顔を見せてくれ」
 穏やかな声に導かれるように顔を上げると、ヴァン司教の見守るような瞳があった。
 近くで見るヴァン司教こそ、普通の四十歳前の温厚な男性に見えた。もし自分に父親がいれば、こんな人だったのだろうかとルカはぼんやりと考える。
「いや、失礼。普通の少女ではないな」
 司教は微笑むとこう続けた。
「普通よりも可憐で心優しい少女に見える」
 ヴァン司教の言葉には、ルカへの温かな心遣いに溢れている。
 しかしその優しさに、今のルカは喜びよりも先に苦しさを感じてしまう。
 刹那。
 フラッシュバックのようにルカの視界は赤く染められる。
 懐かしい瞳がこちらを見ていた。驚愕の眼差しで。その男の胸に打ち込まれたのは、ルカが放った聖銀の銃弾。
 ひどく緩慢な時間の中で、男は死という黒い影に絡め取られていく。
 その姿はすでに人間ではない。彼には邪悪な悪魔が宿っていた。
 ルカにはそれが分かっていた。分かっていたのに――。
 銃弾に倒れたのは、しかし悪魔ではなく。
 奇妙な感覚の中でルカはかつて人間だった『何か』に近づく。
 両手を真っ直ぐに広げ、後ろに倒れた彼の身体をルカは見下ろす。
 自分が今、正義の制裁を下した相手は確かに悪魔だったはず。それなのに。
 それはまるで、自分を裁く黒い十字架のように――。
「……」
 ルカ、と自分の名を呼ぶヴァン司教の声が耳元で聞こえる。
 倒れこみそうになる自分の腕を、司教が支えていた。かすかに伝わる温もり。しかしそれに甘えてはいけないのだと、ルカは強く目を閉じる。
 居た堪れない、とは今のような心境を言うのだろう。
 司教が持つ善なるエネルギーに身を焼かれそうだ。悪魔は自分ではないのか、自嘲の念がこみ上げる。
「すみません。大丈夫です」
「可哀想に。そなたには、抱えきれないほどの感情が溢れている。それが黒い影のようにそなたの道を見えなくしているのだ」
「抱えきれない感情……?」
 司教は、黙ってピエタ像のマリアを見上げる。恐らく、その答えは言葉にする類のものではないのだろう。
 ルカも司教と同じようにピエタ像を仰ぎ見た。
「大天使ガブリエルから受胎告知を受けたとき、これから生まれてくるキリストの運命を聖母マリアはすでに知らされたという。ルカ……私はこのピエタ像のマリアを見るたびに考えずにおれないのだよ。人間の悲しみの深さについて」
 すでに息を引きとったキリストをのぞきこむマリアの顔は、涙を流すこともなく悲嘆に顔を歪ませているわけでもない。
 音もなく降り注ぐ恵みの雨のように、キリストの亡骸を見下ろす慈愛の眼差し。
「正義にもとる行動だとは、思っておりません」
 ヴァン司教に対して、ルカはぽつりとそれだけを言った。
 いや、それしか言えなかった。
 聖母マリアの悲しみがルカの心に少しだけ伝わった気がした。それは今まで経験したことのない想い――どれほどの慟哭や憎悪も、その悲しみの前では無力だ。
 すべての感情を凌駕して黙する、白い白い世界。
「それは我ら枢機卿会も皆、理解しているつもりだよ、ルカ」
「ですが今の私には神の示す道が見えません。私は裁きを、受けるべきです」
 ルカはそう言って唇をかみ締める。
 悪魔との止むことなき戦いの中、愛や優しさで人間が救えたことは一度もなかった。自分を支えていた力は、正義という名の計り知れぬ憎悪だ。
「ルカ。意に添わないかもしれぬが、我々はそなたを罰するつもりはない。ただ、迷える若き魂を救いたのだ。議論の結果、そなたには新しい任務を与えることが決まった」
 議会で決まったことに対して、ルカは異議を唱える立場にない。
「すべては御心のままに」
「ではそなたに新しい任務を与える。京都へ行き、とある調査を行って欲しいのだ。京都は知っておるかな」
「日本の都市ですね。行ったことはありませんが」
 今までの仕事とは異なる、とルカは瞬時に理解していた。
 エクソシストとしての仕事ならば、キリスト教圏の国々が主だった派遣先となる。
「……京都で私の力が役立つとは、思えませんが」
「そうだな。確かに私もそう思った。恥ずかしい話だが、私も京都については全く知識がない。しかし、教皇がおっしゃったのだ。京都には、我らとは異なる思想で悪魔と戦う人間がいる。そこで学ぶことにより、ルカ・プレチアの苦悩が解けるかもしれない。京都という場所で、闇に迷える魂は救いの光をみるだろうと」
「教皇様が?」
「しかし枢機卿は全く異なる見解で猛反対なされた。京都ほどおぞましい魔都はなく、ルカはそこで更なる闇と出会い、悪魔と同化するだろう。それは我らがルカに与えるもっとも厳しい裁きになるとおっしゃられた」
「……」 
「枢機卿会へ身を置くようになって、私は日が浅い。未熟な私には京都という場所が、我らの存在にどう影響しているのか見当もつかないのだ。しかし教皇も枢機卿も、なぜか京都という場所を強く意識しておられる。警戒、と表現してもよいぐらいに」
 ヴァン司教の言葉に、ルカは戸惑うように瞳を逸らした。
 分からない。悪魔討伐は自分が神に与えられた使命だと、ずっと信じてきた。
 しかしそこに迷いが生じた。信仰への迷いは罪だ。ルカは己を裁いて欲しいと望んだがそれは許されず、代りに京都へ行けという。
 それは、自分にとって救いなのか裁きなのか――分からない。
 分からないことが多すぎる。
 京都、ルカは小さくつぶやいていた。