鬼寇の天蓋 1
作:草渡てぃあら





  1

 京都の夏は暑い。ものすごく暑い。
 四方を山で囲まれたこの土地は、まるで巨大なフライパンのように太陽の熱を逃がさないのだ。特に祇園祭がある7月の京都はそんなフライパンの土地に、これでもかと言うほどの観光客が、全国どころか全世界から押し寄せてくる。
そして京都は、満員電車をそのまま蒸し風呂にでもしたような最悪の状態に突入するのである。
「こんな暑い土地に、わざわざ都なんてつくらなくて良かったのに」
 昔の人間の気が知れない、と灼熱のアスファルトを苦々しく見つめながら小野は大きくため息をついた。
 四条大通りの人ごみを避けるかのように細い油小路通りへと入り、町屋風家屋の軒先の日陰へと座り込む。
 どこにでもいるような平凡な少年である。歳の頃は十六、七といったところか――Tシャツにジーンズというラフな格好を見ても、地元の人間に違いなかった。背はそんなに高くないが、全体のバランスが良いのですらりとした印象がある。気負ったところのない顔立ちは、人好きのする穏やかさと不思議な透明感を持っていた。
「夏は暑い。千年前の人間はそれを受け入れ、楽しむ風雅を持っていたものだがな」
 小野のすぐ隣から、厳しくも真っ当な意見が差し入れられる。
 見るとそこには、小学校中学年ぐらいの可愛らしい少女が立っていた。腕を組んで胸を張っている様子は、どことなく偉そうでもある。
 まるで齢人のような口調やあどけなさの欠片もない大人びた表情にも違和感を覚えるが、何よりも目を引くのは髪の色だ。それは、人工の染髪では出せないような美しい紅である。
 しかしそれを除けば、小野と少女はごく自然に会話を交わす歳の離れた兄弟のようでもあった。
「そりゃ平安時代の人みたく風雅さはないけどさ、現代人だって色々考えてるんだって」
「例えば?」
「例えば……お手軽に喉の乾きを潤して冷を取る方法とか」
 そう言って小野は、近くの自動販売機を指差す。
「何か飲む? 紅牙」
「うむ、あれだ。喉がシュウシュウせぬやつ」
 紅牙と呼ばれた少女は「悪くない」という顔で、小野の提案を受け入れる。
「炭酸系以外ね、おっけ」
 ポケットの小銭をチャラチャラといわせながら、小野は自動販売機へと近づく。
 軽く迷った末、紅牙の為に冷たい緑茶を買い自分用にコーラのボタンを探す。その時になって、小野は初めて彼女の存在に気がついた。
 自動販売機と紅牙がいる場所のちょうど中間地点に、金髪の美少女が立っている。
 目の覚めるような白い肌と蒼い瞳。隙のない端整な顔立ちは、日本の暑さの中にあっても、そこだけ冷気を放っているようだ。
(外国のキレーな人って、本当に人形みたいだよなぁ)
 平凡な感想を持ちつつ、あまりジロジロ見ないことにする。
 高校での英語の成績は悪くなかったが、日本の英語教育だけではどうしても会話に不安が残る。変に目が合って、道でも聞かれたら大変だ。
「はい、紅牙。お茶でいいよな」
 心持ち、その外国美少女から背を向けるようにして紅牙の元へと戻る。
「……何だ、あの見慣れぬ風貌の女は」
 小野の背中越しに、紅牙もその少女を見つけたようだ。
「あんまり見るなよ、失礼だろ」
「しかしな、小野。あの女、こっちを銃で狙っておる」
「へ?」
 慌てて振り向いた小野が目にしたものは、確かに紅牙が言うように銃口をこちらに向ける少女の姿であった。
「な、何!? ってか、ここ日本だから銃刀法違反でつかまるよっ?」
「動くな、少年」
 小野の言葉に、少女は驚くほど正確な日本語で返してきた。
「これは銃ではない。銃タイプの魔硝(ましょう)機、健全な人体に影響ない」
「?」
「そこの赤い髪の子供は悪魔。そして私の名はルカ、悪魔を狩る者だ。今から速やかに、その悪魔を抹消する」
「だれが悪魔じゃ! 失敬な」
「ちょっと」
 狙われているのが紅牙だと知った小野は、素早く自分が盾になるように身体を移動させる。
「ええとルカ、さん? なんかものすごい誤解があるようなんだけど」
「お前も隣の者が人間ではないことぐらい自覚しているはず。それともお前の魂は、すでに悪魔に囚われたか?」
「いえ、あの。確かに紅牙は人間じゃないんだけど。つまり鬼で……それも怨化していなくて、その早い話が悪い鬼のほうじゃなく。ええと。外国の人には馴染みがないかも知れないけど、知り合いっていうか仲間っていうか。とにかく悪魔とかではないので、はい」
「そうじゃ! あんな人の闇につけ込む卑劣な生き物と一緒にするでないわっ。無礼者!」
「こら、そういうこと言ってる場合じゃないってば」
「小野は人が良過ぎるのじゃ! こんな厚顔無恥な女に、馬鹿丁寧に説明する義理はないわっ」
「でも説明しなきゃ撃たれるよ?」
「それがすでに理不尽なのじゃっ、おい! そこの馬鹿女っ」
 小野が身体を張って庇った甲斐もなく、怒り心頭の紅牙はルカの前に堂々と立ちはだかって指を突きつける。
「我と小野一族は、はるか千年も昔から主従関係にある」
「あ、紅牙があまりにも威張ってるから分からないだろうけど、一応俺の方が主人」
「それはどうでも良い。我は魔界を捨て、人間界で小野に仕えることを許された唯一の鬼じゃ。それを悪魔と一緒にするなど……笑止! 貴様の狭い尺度で物事を判断するな、愚か者めが!」
「……」
 悪魔は言葉巧みに人間を誘惑するので耳を貸してはならない、というのがエクソシストの鉄則である。
 よって、紅牙という悪魔の説明自体には特に耳を貸す必要はない。しかし、紅牙の言葉の中には、ルカの心に引っかかる名前があった。
「小野? 小野とは小野鷹人(おのたかと)のことか。では京都に住む地獄の使いとはお前のこと……?」
 枢機卿会から知らされた情報を思いだしながら、ルカは尋ねる。
「地獄の使いって……なんかスゴイ表現されてるけど。まぁ小野鷹人ってのは、正真正銘、俺のことだと思います」
 まず一人、とルカは心の中でカウントする。
 ヴァン司教の話では、鬼追(おにおい)と呼ばれる日本的エクソシスト達が四人確認されている。伝説の陰陽師の末裔である兎柳晴彦(とやなぎはるひこ)、降魔大師の能力を有する澄雪善(すみせつぜん)、源家の宝刀・蓮華丸を受継ぐ武者、高杉皓矢(たかすぎこうや)。そして、地獄との行き来が許され、異界の力を与えられたという目前の小野鷹人。
(……随分イメージとは違うな)
 ルカは眉を寄せる。
 ヴァチカノ市国のエクソシスト達はみな、想像を絶するプレッシャーの中で日々戦っているのである。世界を魔の手から守り抜くことを誇りに――。
それに比べてこの少年には緊張感がないというか凡庸というか、つまり。
「間が抜けている」
「?」
「いや、こちらの話だ」
 話を切り上げるように、ルカは魔硝機の銃口を紅牙から離した。
「我らは鬼と悪魔は同種族であると認識しているが、まあいい。小野鷹人、おまえも一流のエクソシストなのだろう? ならばその腕を信用して、その紅い悪魔はひとまず預ける」
「……エクソシストってあのホラー映画の?」
「……」
 あまりの俗物的発想に、ルカは小野の言葉を無視することにする。
「非常に不本意ではあるが、近いうちにまた会うことになるだろう」
 そう言ってルカは、小野達に背を向ける。そして、
「エクソシストである鬼追が悪魔を共に連れているなど――やはり、枢機卿のお言葉通りだった。ここは神のご加護と善なる光の届かぬ魔界都市だ」
 と、吐き捨てるようにつぶやくと祇園祭の人ごみの中へと消えていった。
 その後ろ姿を見送りながら、小野はようやく安堵の息をつく。
「最初から最後まで気にいらぬ奴だったの」
「んー……でもすごい美人だったね」
 いささか検討違いの返答をしながら、小野は自分の手元に視線を落とした。
 買ったばかりだったコーラは、一瞬の冷気を残して生ぬるい液体に変わっている。
「一体何者なのだ、あれは? 鬼と悪魔の区別はつかぬが、私が人間でないことは分かる。己を過信して浅はかな知識に殺されるタイプじゃな」
 紅牙は苦々しくそう言いながら、緑茶のボトル口をぎこちなく開け小さな両手で丁寧に包み込むようにお茶を飲んだ。
「そういえば」
 ぬるくなったコーラなど正直飲む気になれない小野だったが、そんなことがバレるとまた紅牙に「もったいない」と怒られるので仕方なくプルを抜く。
「ローマの何とか大聖堂ってとこから司祭が来日するから、家の者にホームステイの準備をさせているってハルが言っていたような……ひょっとしてあの子だったりして」
「なぜ今になってそんな重要なことを思い出すのじゃ、小野は」
「だってさぁ、司祭っていったら白髪の人の良さげーなおじいちゃんみないなの想像するだろ、普通」
「勝手な想像で物事を判断するな。大体、らしくないという話なら小野の方がよっぽど鬼追らしくないわ」
 だから日頃から鬼追として自覚をもって身を正し、と紅牙の説教が続く。
 適当な相槌を打ちながらぬるいコーラを一口飲むと、小野は油小路通から四条に出て、烏丸の交差点を見遣る。
 歩行者の為に広く開放された二車線道路は、おびただしい程の人達で賑わっていた。四条通りと呼ばれるこの通りには、祇園祭の主役とも言える山鉾達が絢爛豪華にそびえ立ち、観光客達の目を楽しませる。そして、その間を埋めるように出店や屋台が立ち並び、威勢の良い呼び声が飛び交うのだ。
 小野が守りたいのは、そんな当たり前の観光地・京都だ。
「魔界都市、ねぇ……」
 先ほどのルカという少女の言葉が引っ掛かっていた。
 お祭りの賑わい――巨大な山鉾は、そんな俗世の人々を見守るかのような優美さで存在している。
 その華麗な装飾に魅了され、毎年この祇園祭に足を運ぶ人は多い。
 だが、と小野は思う。
 それら山鉾が、実は六十六の武器であることを知っている人間がいるだろうか。祇園祭で八坂神社からかつぎ出される神輿は、都に災いをもたらす疫神――古代日本で虐殺の限りを尽くした荒ぶる神スサノオであることを知っている人間が、果たしてどれほどいるというのか。
 確かに京都には、千年以上も前から伝統的に受け継がれてきた裏の顔がある。
 しかし『魔界都市』は言い過ぎだ、と小野は思うのだ。
 京都は断じて魔界都市などではない――ただ。
(ただ、魔界の者達と寄り添って発展してきただけだ……)
 コンチキチンという祇園祭独特の祗園囃子が、にぎやかな雑踏に織り込まれながら響いていく。何も知らず祭りを楽しんでいるゆかた姿の少女達に、小野はちらりと目をやった。高校生だろうか、小野とそんなに変わらない歳だ。
 何度かのにわか雨に泣かされたものの、昨日無事に宵山(よいやま)を終え、今日の昼には、山鉾巡行が終わる。そして二十九日の神事済奉告がされれば、小野の仕事はひとまず終わりを告げる。
 もちろん、無事に終わればの話なのだが――悲しいことに毎年、そのささやかな小野の希望は打ち砕かれている。
(今年は何が起こるのやら) 
 小野は思わずため息をつく。
 それに答えるかのように、携帯が鳴った。
 小野は慌ててポケットから携帯を取り出し、液晶画面に目をやる。仕事仲間のハルからだ。
『小野!』
 間髪入れずに、緊張したハルの声が電波越しに響いた。
『新町三条付近の結界に、鬼が掛かった。距離的に小野が一番近い。すぐに向かって』
 確かにハルの言った場所は、ここから走って10分もかからない。
「怨化は?」
『今のところ大丈夫。きっと魔界から来たばかりの鬼だと思う。ただ人に憑いている可能性があるんだ。小野の感覚なら見逃さないと思うけど』
「了解」
 ハルの指示に、小野は小気味よく答えると「あとでまた連絡入れる」と携帯を切った。
「鬼が出たのか」
 紅牙が緊張した面持ちで見上げている。
「新町三条だってさ。怨化はしていないらしいからすぐに人間を襲う危険はないみたいだけど、とりあえず様子を見てくる。紅牙はこの場所で引き続き四条を見ててくれる? ハルはあんな性格だから三条の鬼のことしか頭にないみたいだけど、俺らとしては四条の警戒も怠るわけにはいかないしね」
 下手な嘘だ、と紅牙は思う。
 紅牙は千二百年前に鬼の住む魔界を捨て、人間界を選んだ唯一の鬼だ。その代償として鬼力は角とともに消滅させられ、残ったのは人間と共に歩むには長すぎる寿命だけだった。
 つまり今の紅牙は、人間から見たら永久とも思える寿命を持った七、八歳の幼い少女でしかない。もちろん、鬼と戦える力など皆無なのである。
 その紅牙をひとり残して、小野は三条へ行くという。それは四条が安全だという小野の判断に他ならない。
 紅牙を連れて行かない理由はただひとつ――。
「……思いやっているつもりか、小野」
 複雑な心境で、紅牙は顔をしかめる。
 そんな紅牙に対して「とんでもない」と小野は大げさに首を振った。
「紅牙がいると色々とうるさいしさ」
「なんだと」
 たちまち怒り出す紅牙に小野は軽く笑いかけた。
 その笑顔に、紅牙は逆らえなくなる。
「じゃ、俺行くね」
「……気をつけろ」
 不機嫌に横を向いたまま、ぼそりと紅牙は言った。
「了解」
 頭の中で山鉾の出ていない比較的人の少ない通りを思い浮かべながら、小野は残ったコーラを飲み干す。
 祇園祭用に設置された大きなゴミ箱まで、距離は3メートル強といったところだ。小野は軽く目を細めて狙いを定めると、そのゴミ箱に空き缶を投げ入れる。 
(行け……!)
 カラン、と乾いた音を立ててコーラの缶はゴミ箱に消えた。
「ナイスッ」
 満足げに方眉を上げると、小野は最短距離で三条へと駆け出していた。 


 比叡山は、滋賀と京都の境の位置する霊峰である。
 遥か一千二百年も昔、密教僧最澄が桓武天皇の命を受け、ここ比叡山に延暦寺を創建した。以後、京の都を守る最大の霊場として、比叡山延暦寺は現代も多くの修行僧達を抱える。
(似ているな)
 山林に佇む大小の寺を眺めながら、ルカは感じていた。
 たとえ宗教が違っていても、サンピエトロ大聖堂が持つ雰囲気と比叡山延暦寺のそれは、驚くほど似ている。国が変わっても人々の幸福を願い、悪しきものを祓うという目的は同じだということか。
「ここ比叡山延暦寺の開祖であられる最澄は、もともと近江国(滋賀県)の僧侶でございました。ちょうど京都から比叡山を挟んで反対側、琵琶湖という大きな湖を抱く美しい郷です」
 ローマカトリック教会の司祭として、ルカは延暦寺から非常に丁寧なもてなしを受けた。聞けばお互いの知識の交流は、上層部レベルでは盛んに行われているのだと、恒静(こうせい)と名乗る目の前の若い僧侶が教えてくれた。
 日本での調査において、まずは比叡山延暦寺を尋ねるようにと枢機卿会から指示を受けていた理由がよくわかる。
「ここではどのような教えと修行を?」
「我らの宗教は密教といって元来、唐の国で生まれたと言われております。苦しい修行によって人間の持つ仏性を磨くという教義が基本であり、千日回峰行や二千日篭山などが有名ですね」
 延暦寺の中心といわれる東塔から横川中堂へと向かう山道を歩きながら、恒静はルカにも分かり易いよう丁寧に説明してくれた。
 どこからか聞こえてくる修行僧達の読経の声は山林に絶え間なく響き、ここが厳然たる霊峰であることを教えてくれる。
「ですが、この寺にはもう一つの顔があるのです」
 ふと恒静の声色が変わった。
「失礼ながら、ルカ殿が普通の司祭ではないことはすでに伺っております。魔物を狩る使命をお持ちだとか――?」
 少し迷ってから、ルカは頷いた。
「最澄が唐の国から持ちかえった『密教』という新しい仏教が表の顔だとすれば、延暦寺の裏の顔は『魔道』です」
「魔道?」
「ええ。実際に延暦寺では四大魔所と呼ばれる場所が存在し、その場所に魑魅魍魎、西洋風に言いかえれば悪魔達を封じております」
「まさかこの聖域に?」
「はい」
「それは……悪魔を消滅させ切れず、封印だけを施したと理解していいのですか」
「いいえ、そうではありません。悪魔を滅するだけならば、表の顔だけで済みますから。ここ比叡山は、京都から見て鬼門にあたります。鬼門いう言葉はご存知ですか」
「確か、悪魔の通り道のようなものだとか」
「そのような理解で問題ないかと思います。つまり、魔界の入り口であり悪魔の巣窟であったこの地に、開祖・最澄はわざわざ延暦寺を建てたということです」
 ルカは息を飲んだ。
 この清々しい空気をたたえる聖域が、まさか魔界の入り口だとは――。
「なぜそのようなことを?」
 若い僧侶は何かを試すかのようにルカへと視線を改めた。まるで、ルカの反応を見るかのように。
「裏の顔とは、すまわち魔の力を指します」
「……」
「正確にいうと、より強大な魔と戦うために我ら自身が魔力を極め、その力で以って魔界からの侵入者を食い止めるということです。そういう意味合いにおいて、この比叡山は魔道を身につける最適の場所だと思いませんか」
「そんな」
 ルカは上手く言葉を返すことが出来ない。
 足元から、何かが這い上がってくるような不快感があった。
 恒静は「そして」と言葉を続ける。
「その裏の顔こそが、四神相応の都・京都の鬼門を現在も守り続けているのです」
「馬鹿な……京都を守るために悪魔の力を極めるなど」
 ルカの明らかな嫌悪の表情に、恒静は「こちらに参られた異教の方々は、みな同じ反応をなされます」と微笑んだ。
 そんな若い僧侶の清々しい横顔からは、悪魔の片鱗も伺えない。
 腑に落ちない思いが、ルカに中に広がった。
「最初から何もかもを理解しようとされないことです。まずは様々なものに触れ、大いに迷い悩みながら答えを探し出せばよいのだと、私は思いますが」
「我らの信仰に、迷いや悩みは禁忌です」
 厳しい顔つきで答えたルカに、恒静は穏やかな眼差しを向ける。
「これはご無礼を。ただルカ殿が苦しんでいるように見えたもので……いや、出過ぎた忠告でした。申し訳ない」
 礼を尽くした態度で深々と頭を下げられると、ルカの方が困ってしまう。
「どうか頭を上げて下さい。こちらの信仰をそのまま受け入れることは出来ませんが、よく学ぶようにと教皇からもお言葉を頂きました」
 そうですか、と恒静は嬉しそうに頭を上げる。
「私のような愚僧から見れば、世界の信仰や教えはそれぞれに素晴らしいものがあり、どちらが正しいというような判断は出来かねます。愚僧が比叡山延暦寺と出会ってしまったように、ルカ殿もまたローマカトリックに出会われたのが運命であるのではと思うのです。ですから、その信仰を大切になされませ。ただ」
「ただ?」
「ルカ殿の抱えておられる苦しみが少しでも和らぐのであれば、京都にいる間ぐらいは大いに悩み迷われるのもよろしい気も致します。ひょっとしたら、その為に教皇様はルカ殿をこちらへ送られたのでは?」
 その言葉にルカは唇をかみ締める。
 そうだ。教皇の真意は未だ掴めずにいる自分だが、ヴァチカノ市国にいた時と同じ考えでは日本に来た意味がないことぐらいは分かる。
「そうかも、しれません」
「ルカ殿と出会ったのも何かの縁。ルカ殿の苦悩が晴れるよう、私も心より願っております」
 では案内を続けましょう、と恒静は気分を変えるように明るい声で言った。
「今からお連れする場所は、延暦寺第十八代天台座主・良源上人のおられた元三大師堂といいます。このお方は平安時代中期すなわち比叡山延暦寺の全盛期に、比叡山僧侶の頂点に立たれた高僧であると同時に、魔道を極めたお方でもありました。その能力はまさに特殊という以外に表現する言葉がありません。なにしろ御身に自ら鬼を宿し、僧侶から角を持つ鬼へと姿を変えて、比叡山と京都を襲う魔を祓うというものですから」
「鬼に姿を、変える?」
 京都に来てから聞く話は、どれもルカの想像を絶するものばかりだ。
「しかし……鬼を身に宿して、人間としての精神はどうやって保ったのでしょう。我らの常識では悪魔を身に宿した人間はたちまち思考能力を失い、狂暴化してしまうものですが」
「厳しい精神鍛錬と修行はその為にあるのです。恐らく元三大師の精神世界では、ともすれば暴走し身体を支配しようとする鬼の意識とそれを凌駕し鬼を使役する元三大師自身の意識の葛藤が常にあったのでしょう。そんなギリギリの精神を維持するには、何よりも鍛錬が必要です」
 もし枢機卿会の認識通りに鬼と悪魔が同義語であるのならば、元三大師の行ったことは到底ルカには真似の出来ないことである。
 悪魔を身に宿したまま、正常な精神を保つなど本当に可能なのだろうか。
「我らの感覚では、神に背く恐ろしい行為のような気がします」
「そうでしょうね。しかし京都では違いました。元三大師は、その鬼のお姿から角大師という名でも親しまれ、今日(こんにち)でも魔除けのお札として民衆に慕われております。また降魔大師という異名も」
「降魔大師?」
 枢機卿会の情報にあった名前だ。確か、鬼追の一人にこの肩書きがあったはず。
「ご明察です。今回、ルカ殿が調査したいとおっしゃられた鬼追の方々に、降魔大師の能力を受継ぐ方がおります。名を澄 雪善(すみせつぜん)。今年十七歳になったばかりの若い少年ですが、すでに他の追随を許さぬ圧倒的な力で京都を守護する大きな要になっております」
「鬼を身に宿す能力は、修行によって得られるものなのですか」
「いいえ。雪善殿は鬼を身に宿してこの世にお生まれになったと聞いております。ですから彼の修行は、その鬼の力を押さえコントロール出来る様になることが目的で行われます」
「鬼を身に宿して生まれるなど」
「もちろん非常に稀ですが、可能性はゼロではありません。初代降魔大師が誕生してから千年――その間に十八人の資格者が延暦寺で確認されたという記録が残っています。しかし、降魔大師として鬼と戦えるようにまで『力』を昇華させたのは雪善殿が元三大師以来初のこと」
「その他の人は?」
 何か嫌な予感がして、ルカはふと顔を上げる。
 恒静の表情に、わずかの悲しみの影が差した気がした。山林の奥のほうで、鋭い鳥の鳴き声が響く。
「身の内の鬼に負け、魔物に身を落としました。一度でも魔物に精神を明渡した人間は、もう救う手立てがありません。そのあたりのことはルカ殿の方が詳しいと思いますが」
 僧侶の言葉に、ルカはうなずく。
「大勢、見てきました」
 嫌になるほど――。
 たとえ悪魔に魅入られても、人格が入れ替わっている間はまだ救える可能性はある。それは、とり憑かれる人間側の精神がまだ悪魔を追い出そうと戦っているからだ。しかし一度でも完全に支配されてしまうと、その状態を反転させることは不可能である。かつて人間だった悪魔を殺す――ルカは何度もその苦い経験を味わってきたのだ。
「そこは、日本でも同じなのですね」
「しかし雪善殿以外の資格者すべてが、魔に身を落としたわけではありません。延暦寺では、降魔大師としての道を望まぬ資格者に特別な封印を施し、身に宿った鬼を意識の奥深くに眠らせる術があるのです」
「では、その封印を受けた資格者は?」
「普通の人間として生活できます。十八人のうち、半数以上はそれを望みました」
「そうだったんですね」
「実際に、今でも雪善殿にはひとりの妹様がいらしゃいますが、その方も同じく鬼を身に宿して生まれました。が、未だその鬼は意識の奥深くにて眠っているとのことです。彼女の鬼は一生眠り続けます。人間側の寿命が尽きるまで」
 ちょうど話が途切れたところで、視界が開けた。
 山林の間から、趣深い木造の建築物が現れる。
「着きました。ここが元三大師堂です」
 世界遺産に登録されている延暦寺は広く一般に開放されており、実際に西塔や東塔には沢山の観光客がいた。
 しかし、ここには観光客の姿は見当たらない。
 その寺はただ静かにそこにあった。まるで何かを守るかのように――。
「この寺の奥にある道をゆくと、すぐに琵琶湖へ続く断崖絶壁になっております。そこは延暦寺の北の果て、横川の鬼門であり『元三大師御廟』になります」
「御廟?」
「お墓のことです。元三大師はそこに御身を埋め、決して掃き清めてはならぬという遺言を残されました。横川は比叡山延暦寺の鬼門。そして、その比叡山延暦寺は京都の鬼門――そこが、どういう場所かお分かりでしょう」
「……」
 恒静の言葉通り、原種の椿や椎の樹木がうっそうと生い茂る山林の間を縫うように、寺から奥へと細い道が続いている。
 その先には一体、どのような世界があるというのか。
「恒静殿!」
 背後からふいに第三者の声が響く。
 二人が声のする方へと振り返ると、恒静と似たような出で立ちの若い僧侶が駆けてくるのが見えた。
 日頃から修行で山道を駆ける訓練をしているせいか、その動きはまるで野生の動物のように敏捷である。
「ルカ・プラチア殿ですね。遠路遥々、ようこそおいで下さりました」
 急用で走ってきたにも関わらず、その若い僧侶は丁寧に頭を下げる。
「恒静、清源和尚より伝言だ。緊急の事態により、しばらくは魔所には近づくなとのこと」
「緊急の事態と?」 
 僧侶は少し迷ってから、恒静の耳元で何かを言った。
 恒静の顔色が変わる。
「何……慈雨殿が?」
「ともかく、ここから先は危険です。元三大師堂に部屋を用意させましたので、どうかそちらにてお休み下さい」
 しかしそれを聞いていたルカは「待ってください」と若い僧侶の言葉をさえぎる。
「微力ながら、私にも何か力になれることがあるのでは」
「しかし、ルカ殿は枢機卿会からお預かりした大切な客人。何かあっては」
「私は観光にきたわけではありません。エクソシストの名にかけて、もし魔所に異変があるならば、それに対して常人よりかは何かの対応は出来るはず」
 戸惑うように顔を見合わせる二人の僧侶に、ルカは強い視線を投げた。
 今の状況において別室で休んでいろなど、屈辱もよいところだ。
「!」
 そのとき、元三大師御廟へと続く山林から大きな風が流れてきた。
 血の香りを含んだような生ぬるい空気が満ちる。
 ルカにも分かる。大気がざわめいている。何かが起こっている。何か、良くないことが――。
 ゆっくりと手を伸ばそうとする悪しき存在。しかし次の瞬間。
 そんな不吉な囲繞をきっぱりと拒絶する凄烈な『気』がルカ達を守護していた。
「客人」
 頭上から届く、若い男の落ち着いた声。
 その凛とした声と共に、たちまち一陣の風が立つ。
 それは不吉な大気を切り裂く清涼の刀のような風だった。
「この先は魔と怨の世界。素人のあなたが来ても迷惑なだけだ」
「な……!」
 失礼な、とルカは激情を以って振り返る。そして次の瞬間、息を飲んでいた。
 立っていたのは背の高い少年。十七、八歳ぐらいだろうか。鴉の羽根ようなしっとりと黒く艶めいた髪が印象的だ。陶器のような整った顔立ちに切れ長の瞳。
 確認する必要などなかった。
 煌然と輝く内なる魂、その風格。高邁な精神を宿す美しき器を持つ者。
 間違いない。この人物こそが。
 降魔大師――雪善だ。


「おい!」
 振り返ったその顔は、どう見ても普通の若者である。やんちゃそうな今風の顔に、派手に染めた金髪と方耳だけの3連ピアス――。
 だが、小野の鋭い感覚はそれを見逃さなかった。
「人に憑くとは……怨霊の真似事か?」
 自分より少しだけ背の低いその身体からは、わずかだが異形の気配がする。
「趣味にしては悪すぎる。鬼の名が泣くぞ。それとも」
 この尋常でない会話をできるだけ周りに聞かせないように、少年の襟首をグッと自分に引き寄せていった。
「何か悪巧みでも?」
 驚いた様子で見上げる少年を、有無を言わさず細い路地裏に連れて行く。
 引きずられるようについて来た少年は威嚇するように、突然カッと目を見開いた。
「貴様……!」
 その瞳が一瞬朱に染まり、同時に口元にもかすかに牙が見える。間違いない、こいつは鬼だ。小野はそう確信する。
 しかしこの鬼には、とり憑いた人間の魂を食らい支配するつもりはないらしく、ただの人間の器を間借りしているような印象を受ける。
 人間には身体と精神という二つの器がある。通常身体には精神が宿り、精神には魂が宿る。もちろん、本来それらはすべて同じ所有者であらねばならない。
 しかし、鬼は一定の条件下で己の存在を人間の精神に宿らせることが出来るのだ。精神に宿った鬼は、そこにある人間の魂を食らって己の居場所を得る。魂を食われた人間は自我を失い、鬼にすべてを支配される。
 しかし鬼の方にもそれなりの代償はある。それは鬼にとっての理性とも善心だとも言われており、人間の魂を食らった鬼は本能のままに狂暴化し、己自身が同化した人間もろとも破滅するまで暴れまわるのである。
 それを小野達は『怨化』と呼んでいる。
「我を鬼と見破るとは……さては貴様、安部晴明か!」
 怒りに震える目前の鬼はしかし、怨化はしていない。
(ただの憑依か……ひとまずは安心だな)
 小野は少し安心して肩をすくめた。そして、改めて鬼の質問に対して「違うよ」と答える。
「俺は小野家の者だ。ついでにいうと晴明殿は亡くなられた。もう千年も昔の話だぞ?」
 まったく時代錯誤もいいところだ。この鬼、あまり人間界にも執着していないようである。祇園祭の賑やかな雰囲気に、つられて出てきたというところか。
 呆れ気味の小野を尻目に、「そうか死んだか」と少年は安心したように息をついた。
「あいつは凶悪だからな。鬼とわかれば殺されるか、式神として死ぬまでこき使われる……いずれにせよ恐ろしい話だ」
 心底嫌な顔をして、少年は身震いをしてみせる。一千二百年も昔に、陰陽師として京の都から魔を払い続けた阿部晴明という人物は、魔界でも強烈なインパクトがあったらしい。
「今の安部晴明殿の血筋はみな、優しい人ばかりだけど」
 ハルの穏やかな笑顔を思い出しながら、小野はそう言った。
「時がどれだけ経とうと本質は同じだ。あの血は鬼を受け入れぬ。我々のことを、式神の材料としてしか見ておらん」
 それに比べて、と少年に憑いた鬼は目を細めた。
「同じ人間でも小野家の血筋はいい。小野篁(おののたかむら)殿は、我が尊鬼王も優秀な右腕として認めておられる唯一の人間だ」
「褒められるのは嬉しいけど、その尊鬼王の許可を得て人間界に? 俺だって『鬼追』の端くれだ。鬼に対して親切そうな顔をしている分、晴明殿より腹黒いかもしれないぞ?」
 小野の言葉に鬼は黙った。ふいと顔をそむける。
 まるで子供のような鬼の反応に、小野は思わず吹き出した。
「嘘だよ。大人しく魔界へ帰ってくれればそれでいい」
 何も戦うばかりが鬼を払う方法ではないのだ。
 話して分かるような相手ならば、人間であれ鬼であれ出来るだけ穏便に事を済ませたい――それは小野の変わらない願いでもある。
 小野の言葉に、少年は顔をしかめる。
「せっかく苦労して魔界から出てきたのだ。そうそう簡単には帰れん」
「この一ヶ月は、都の人間にとって厄を払う大事な日だ。我ら鬼追もいつもより気を張っているのはわかるだろう? 大体、こんな時期にわざわざ何をしにきた?」
「……八坂神社に眠るスサノオ。荒ぶる神の恩恵を与りたいと願うは、なにも人ばかりではない」
 ふてくされたまま、鬼はそう言った。やれやれ、と小野はため息をつく。
 スサノオは絶大な霊力を誇る、日本古来の最高神のひとりである。
 そう簡単に恩恵など授かれるはずがない。おそらく、この鬼は好奇心でやってきただけなのだ。スサノウが奉られている八坂神社に参拝するぐらいは、個人的に許してやりたい気もするが、なにぶん人は鬼を怖がる。
 それに実際、こんな会話が正常に行える鬼ばかりではないのだ。気の毒だが、と小野は意識的に語調を強めた。
「ここは人間界だ、お前の来る場所ではない。さっさと魔界へ戻れ……それとも」
 小野は脅すように、自分の拳を強く握り締めた。いままで何もなかったはずの空間に小さな歪が生まれ、熱を持たない冷炎が小野の手を包む。
「お前が尊敬するスサノオと同じように、生きたまま、この人間界に封じられたいか?」
 小野の左手から発せられる強烈なエネルギーに、鬼は息を飲んだ。それはまさしく、魔界を統べる尊鬼王の鬼力(きりき)――怨を封じ、魔を払い、鬼を統べるに至った、最強の魔力であった。そしてその力を有する武器を与えられた人間は、この世でただ一人――見上げる鬼の瞳に、小野の顔が映る。
「いま大人しく帰るなら、今回だけは尊鬼王には黙っといてやるから」
「本当か」
 それは鬼にとって、取っておきの殺し文句だった。
「……分かった。仕方あるまい」
 鬼は名残惜しそうに、もう一度山鉾に目を向ける。そして、小野に向かってこう言った。
「尊鬼王のお叱りは、覚悟の上で魔界から抜けてきた。しかし隠せるならばそれに越したことはない」
「今回だけだからな、感謝してくれよ」
「礼と言っては何だが、人間界の精霊達から気になる噂を聞いた。せっかく鬼追に会えたのだから教えておこう」
「噂?」
「人間界に新しい神が降臨する。古き神の秩序は古き世界とともに滅びると」
「何だよ、それは」
 えらく物騒な話である。
 しかし鬼の方はその噂に興味がある様子もなく、
「それ以上は知らぬ」
 と、あっさり言い放つ。
「……。まぁ、とりあえずはありがとう」
「それよりも約束だ。くれぐれも尊鬼王にはお伝えするなよ」
「はいはい」
 早く行け、という小野のジャスチャーに少年は表情を和らげた。
「名を聞こう。我が魔界の主に仕えし唯一の人間、小野篁殿の生まれ変わりであるお前の名を――」
「俺は鷹人。小野鷹人(おのたかと)だ。生まれ変わりではなく、ただの祖先だがな」
 小野の言葉に、鬼は眉をひそめた。
「ソセン……? 生まれ変わりとはまた違うのか。やれやれ、人間界は難しいものよ」
 そして、諦めたようにゆっくりと顔を伏せる。少年の首の後ろあたりから、熱の塊のようなものが沸きあがり、微かな陽炎を作った。常人には姿も見えないだろうが、小野の特別な視覚は、それが額に一本の角を持つ異形の生き物だと正確に捉える。2mはあるかという巨体を、くの字に曲げたまま少年から抜け出た鬼は、天を仰ぐように立ち上ると忽ち空にかき消えていった。その影がきれいに消えてなくなるまで見届けると、小野は足元に視線を落とす。
 あとには、ぐったりと抜け殻のようになった人間の若者が残るばかりだ。
「おい、大丈夫か?」
 肩を揺するが反応はない。一時的とはいえ、自分の魂以外のものが身体に入り込んだのだ。同じ人間の生霊ならまだしも異形の鬼となると、その器に影響のない方がおかしい。
(とはいえ、命に別状はないだろうし……この先は俺の仕事じゃないよな)
 小野はあっさりと諦める。そして一番近くにいた警察官に、すみませんと声をかけた。
「あっちの方で人が倒れているみたいなんですけど……」
 人の流れを整理していた警察官の一人が慌ててかけて行く。その様子を見届けると、小野は足早にその場から離れつつ、携帯を取りだした。ワンコール半で、聞き慣れた声と繋がる。
「大丈夫だった? 今、そっちに向かおうと思っていたところなんだけど」
「問題なし、ただの野次馬だよ。ハルがわざわざ封じるような相手じゃないって」
 電話口でハルの笑い声がする。
「そうやって簡単に言うけど、話し合いで鬼を魔界へ帰すなんて小野ぐらいしか出来ないんだからね」
「そういえばあの鬼、お前のことも話していたな」
「僕の?」
「ああ、安部晴明の血筋は鬼を式神の材料としか見てないってさ」
 なんだよそれー、とハルの不服そうな声がする。
 正統な陰陽師の血筋を受け継ぐハルが、鬼に嫌われるのは仕方ないことではあるが、日頃の彼の苦労を想像するとそう言い切るのはいささか酷な話でもある。事実、鎮めた怨念が目覚めないように観光地開発を食い止め、人々の悩みを聞いては魔≠取り込まないように日々励んでいるのは、ハル達、陰陽師なのである。鬼追の仕事だけを単独で受持つ小野とは、立場が違う。
 もちろん、そんな苦労など鬼に伝わるはずもないが――。
「ま。そういうことで鬼退治も無事に済んだことだし、俺はそろそろ一般高校生に戻って祇園祭を純粋に楽しむことにするわ」
 そう言って電話を切ろうとした小野に、ハルの慌てた声が重なった。
「ああ、ちょっと待って! 緊急の召集がかかっているんだ、比叡山から」
「比叡山? 雪善か?」
 小野の頭にすぐに浮かんだのは、同じ鬼追仲間の雪善だった。
 比叡山を隔てて滋賀の高校に通っている雪善は小野達とは逢う機会も少ないのだが、同い年ということもあって仲の良い友達関係には違いなかった。
「ううん。連絡があったのは清源和尚から」
 げ、と小野は嫌な顔をする。それは確実に楽しい話ではない。
 先日も鬼追の使命について延々と説教されたばかりだ。
「詳しいことは僕にも……とにかく来てくれの一点張りでさ」
「無事に終わった祇園祭の早めの打ち上げ、とか?」
「――あの清源和尚が? 比叡山延暦寺で?」
 たたみかけるようにハルの質問が返ってくる。
「だよなー」
 『厳格』という文字が世界一似合う人物である。和尚に限りそれは、ない。小野は諦めたように同意した。
(参ったなぁ)
 これから紅牙を家まで送ったあと、クラスメイト達と河原町界隈で夜まで遊び倒す予定だったのだ。
 小野は大きくため息をついた。祇園祭を断っただけで、付き合いが悪いと随分文句を言われた。その上、今夜の約束まで破るとなると……高校の友人達の怒った顔が浮かぶ。
「小野、大丈夫?」
 電話越しにハルの心配そうな声が聞こえた。
「ああ、うん。了解、何時にいけばいい?」
 覚悟を決めて、小野はそう返事した。ハルも立場は同じなのだ。自分ばかりが我がままを通すわけにはいかない。それにしても……小野は空を仰ぐ。
――鬼追も楽じゃないよなぁ。
 そんな小野には無関心とばかり、空には相変わらずの太陽が全開で輝いていた。


「慈雨殿が……まさか!」
「焼け爛れた護符、異形の腐臭……疑う余地はあるまい」
 北に突き出た台地の先端、切り立った断崖から絶えず風が吹き上げるこの場所は、比叡山の北の外れであり延暦寺の鬼門でもある。そんな不吉な方位を守るかのようにひっそりと佇む庵の前で、清源和尚と数人の僧侶が深刻そうに話し込んでいた。
「しかし慈雨殿は」
「言うな。ここは魔界と現世の交わる場所――安易な発言は言霊となりて新たな敵を増やすばかりぞ」
 和尚の厳しい声に、僧侶達は黙り込んだ。魔をはらんだ不気味な北風が、彼らの袈裟をはためかせる。慎重に言葉を選んで、別の僧侶が口を開いた。
「雪善殿は、このことを……?」
 和尚の顔がわずかに曇る。
「今、比叡山全域を必死で探しておる。いずれこちらに参るだろう」
 しかし、と和尚は無残に食い破られた庵を振り返る。
「これほどまで頑丈に施した結界が、こうもあっさりと食い破られるとは……」
 鎮痛の面持ちでうつむく。和尚の言う通り、この庵は比叡山延暦寺最強の結界で守られていたはずだった。それが跡形もなく破られた。しかも何の気配も感じさせずに、だ。敵は鬼か、怨霊か……それとも人間のまだうかがい知れぬ『魔』が為したのか。
 正直、何者の仕業なのか検討もつかない。だが和尚は、その穏やかな瞳に強い意思をたたえてこう言った。
「よいか、比叡山延暦寺の滅びるときは京の都が滅びるときだ。皆の者――心してかかれ」


 何と言ってもこの空気が苦手だ。密教の修行場である独特の厳格さが、必要以上の緊張感を与えるのだ。この地に住んでいる雪善には悪いが、小野は早くも帰りたくなっていた。床の間にある、地味だがやたら高価そうな水墨の掛け軸にぼんやりと目をやる。
――仕事の打合せなら、せめてどっかのカフェにてお願いしたい。
 しかしもちろんそういう訳にもいかず、比叡山の本堂から少し奥まった座敷で小野とハルは和尚の登場を待っていた。
 隣ではハルが、神妙な顔つきで正座している。天然栗毛色の前髪が、華奢で色白の横顔にかかって柔らかな影を落とす。今でこそ優しい感じの少年という印象のハルだが、幼い頃はそこらへんの女の子よりずっと可愛いらしく、ホリプロのスカウトマンに「女の子」として声を掛けられたのは、仲間内では有名な話だ。
 そのハルに、小野はそっと耳打ちする。
「今回の呼出しって、鬼追限定だっけ?」
「そのはずだよ」
 ハルが小さく返事した。と、なるといつものメンバーが足りない。
 京都に巣くう鬼退治を生業とする『鬼追』は、現代の世に小野をいれて四人しか許されていない。しかも一言に鬼追といっても、それぞれの能力はまるで違うので、彼らはまさにこの世に二人といない稀有な存在であった。
 四人の共通点はただひとつ――京を惑わす魔や怨霊、鬼と戦えるかという点のみである。単に京都を守るというだけならば、魔道を受継ぐ比叡山の僧侶『魔徒衆』や晴明神社がかかえる『陰陽師』達がいるが、彼らは主に結界を守護するだけの職であり、直接、鬼や怨霊と対峙することは出来ない。
 そして今回の召集は、鬼追だけにかかった。比叡山に住む雪善はよいとして、小野達と同じく京都市内に住む高杉皓矢は、すでに着いていなければならない時間だ。
「皓矢は?」
 それが、とハルはさらに声を小さくする。
「連絡したんだけど……デート優先だって断られた」
「なっ!」
 小野は思わす言葉を失った。ハルも困った顔でため息をつく。皓矢の性格を考えると、十分予想できた回答とはいえ――。
(あの野郎……! 友達の約束を振り切って来た俺の立場はどうなるんだ)
 小野は思わず握りこぶしを固める。とにかく連絡をとってみようと、携帯に手を伸ばそうとしたその時。
 障子が静かに開き、清源和尚が姿を見せた。作法に厳しい和尚らしく、丁寧に障子を閉めるとゆっくりと部屋を見渡す。小野とハルは、素早く深く頭を下げていた。
 京都育ちの幼馴染でもある二人は、共に幼稚園の頃から清源和尚に厳しい指導を受けており、さすがに雪善ほどの密教修行ではないが、それでも細かい礼儀作法から武術の基礎、『鬼追のあるべき姿』の教えを厳しく叩きこまれた。
 幼児体験のトラウマとも言うべく、小野もハルもほとんど条件反射的にこの和尚が怖い。中学生の時に東京から引越して合流した皓矢とは違うのだ。
「?」
 和尚の後にもう一人の気配を察して、小野とハルは顔を上げた。
「あ、ルカさん」
 小野が頓狂な声を上げる。
 和尚の後ろに立っていたのは、確かに昼間に見かけた物騒な金髪美少女である。
「……近いうちにまた会うとだろう言ったはずだ」
「ホント、すぐに会ったね」 
 相変わらずの無愛想なルカだったが、小野は気にせず笑顔を返す。
「すでに知り合いであったか」
 和尚もそう言って目を細めた。
「あ、はい。ハルは初めてだと思うけど、俺……じゃなくて私は祇園祭の警備中に」
 言葉遣いを目で咎められ、小野は身を小さくした。紅牙が撃たれそうになったことは、話がややこしくなりそうなのでこの際オフレコとしておく。
「では改めて紹介しよう。サンピエトロ大聖堂から参られた司祭、ルカ・プラチア殿だ。この度は、鬼追のことを学ばれる目的で来日された。ルカ殿は、悪魔退治を専門とされていることから、おぬし等と共通することも多かろう」
「……日本に来てから、己の無恥を身に染みて反省することばかり。未熟者ですがよろしくお願い致します。それから兎柳晴彦さん、この度の滞在中に宿を貸して頂けるようで、何かと世話になります」
 これで三人目、とルカは心の中でつぶやく。小野、雪善、そしてハルと呼ばれているこの陰陽師――残るはあと一人だ。
 ハルは人懐っこい可愛い笑顔を向けて言った。
「ハルと呼んで。滞在中不便なとこがあれば、遠慮なく言ってね」
 柔らかそうな茶色の髪に、丸くて小さな顔がよく映えている。鬼追というより、育ちの良い女の子のようだ、とルカは思う。
「ルカさんってさ、異常に日本語上手いよね。流暢だし変なアクセントも全然ないし」
 小野が感心したように言う。
「私のこともルカと。語学は嫌いではないので、出来るだけ正確に身につけようと努力している。任務上、様々な言語を理解することが必要だから」
「じゃあ日本語の他にも?」
「英語とイタリア語。それからスペイン語とアラブ語を中心に」
 すげーと唸る小野に、ルカは「日本人は一般的に言語習得の苦手な国民である」という話を思い出す。世界的に優秀な頭脳を持つ日本人の、島国という地理上の弱点か。
「それはそうと」
 和尚が改めて部屋を見渡した。
「まだ高杉の姿が見えぬようだが……」
 ルカの紹介で一度は和んだ場の雰囲気が、再び一気に緊張していく。
 小野もハルも、自分が怒られているかのように身のすくませる。
「時間も守れぬような者に鬼追の資格はないぞ」
 清源和尚相手に、まさか「皓矢は今日デートなので召集をすっぽかしました」などとは死んでも言えない。とっさに小野が機転を利かせる。
「はい。岩倉の塚の様子があやしいようで偵察にいかせています。何もなければいいのですが……」
 岩倉のあたりは常に不安定だから、あながち嘘ではない。嘘ではないのだが――。
(皓矢の奴め! 清源和尚相手に嘘つかせやがって……これは大きな借りだからな!)
 今頃、楽しくデートしているであろう高杉を思い浮かべながら、嘘が悟られないように小野はさらに深く顔を伏せた。
「和尚様、雪善の姿もみえないようですが?」
 ただでさえ鋭い清源和尚である。小野のでまかせが墓穴を掘る前に、ハルがさりげなく話題を変えてくれた。うむ、と和尚の顔が曇る。
「……今、必死で慈雨を探しておる」
「慈雨ちゃんを?」
 和尚の言葉に、小野は思わず視線を上げた。慈雨は雪善の妹だ。歳が離れた兄妹で、まだ小学校にも上がらない慈雨は、兄を慕い時々遊びに来る小野にもよくなついていた。
 いつも雪善の後ろに隠れている大人しい慈雨の、少し首をかしげた淡雪のような笑顔を思い出す。
 清源和尚は、二人の正面に座を正した。ルカもその後ろに静かに座る。
「では、さっそく本題に入ろうかの――慈雨のことは知っておるな?」
「もちろんです。慈雨ちゃんに何か?」
「今朝から行方がわからんのだ。何者かに連れ去られた可能性が高い」
 和尚の言葉に、小野は驚きを隠せなかった。それはハルも同じだ。延暦寺の中でも、このあたりは特別な聖地だ。
 人払いの結界により、一般人が入り込むことはほとんど不可能といってよい。
 しかも召集されたのは警察ではなく、鬼追――ということは。
「やはり『魔』が絡んでいると?」
 ハルが慎重に問う。その言葉に、和尚は思案するようにしばらく沈黙した。
「それが……分からぬのだ。魔を払う結界は厳重に執り行っておったし、魔の気配を察知した者もおらん。余程、邪気のない人間が偶然に入り込んだか、それとも」
 和尚の顔が厳しくなる。
「我らの力及ばぬ、新たな魔の仕業か」
 小野は、ようやく自分達が呼ばれた理由がわかってきた。比叡山延暦寺の結界が破られるなど、小野がこの世界を知ってから一度もなかったことである。
「ここで話をしても仕方あるまい。ついて来られよ」
 和尚はそう言うと、音もなく立ち上がった。小野とハルが、慌ててその後を追う。
「……私も一緒についていっていいだろうか」
 部屋を出たところでルカは遠慮気味に小野に聞く。
「問題ないと思うよ。ルカさん、じゃなくてルカもある意味専門だろうし」
 どうして、と聞く小野にルカはうつむいて答える。
「ここに来る途中、雪善という人物に会った。言われたんだ、私が来ても迷惑だと」
「会ったんだ、雪善に。まぁ、あいつの言いそうなことだけど。それはルカを巻き込みたくないんだよ、そういう奴だから。でも和尚がこの話をルカにも聞かせたってことは、俺らと同じように協力して欲しいって事じゃないかなぁ」
 先に行く和尚の背中を見ながら、小野は「でもまぁ、確かにオススメ観光スポットじゃなけど」と小さな声で補足する。
 望むところだ、とルカは内心で思う。
 本堂を出たところで、小野は立ち止まった。
「和尚様、方向が違うのでは?」
 清源和尚の足が向かう場所は、雪善と慈雨が住む家とは逆の方向だった。
「よいのだ。慈雨は七五三の厄を払う為、3ヶ月ほど浄化の修行に入っておる最中だった」
「では、鬼門である横川の庵に……?」
 そうだ、と和尚は歩みを止めずにそう言った。後ろから着いていく小野とハルは、思わず顔を見合わせる。そうなると慈雨の失踪はますます不可解だった。
「本当に気をつけて。今回の敵は、僕らにとっても未知数だよ」
 ハルが神妙な顔つきでルカに言った。 
 一般には子供の成長を祝う行事である七五三も、鬼を宿す雪善や慈雨にとっては、最も気をつけなければならない危険な時期となる。幼子の不安定な精神はただでさえ魔に魅入られやすく、また奇数を好む神々に神隠しに会う可能性もあるのだ。
 その為、雪善や慈雨のような特別な子はこの時期、結界で厳重に守られた場所で暮らすのが普通だ。そして慈雨の場合、比叡山横川の庵がその場所であった。
(そんなところから、慈雨ちゃんを連れ去ることができる存在など……)
 いるはずがない。それが小野の出した結論だった。だが、慈雨のいた庵を目の当たりにして、小野はその考えを改めないわけにはいかなかった。
「これは……一体?」
 隣でハルが絶句する。それは小野にしても同じで、すぐには言葉が見つからなかった。
 焼かれた護符、破壊された結界。見るも無残な爪跡が、わずかに原型を留めるだけの庵のあちこちにうかがえた。庵には後片付けを任された僧侶達が数人、掃除を続けている。
「小野、兎柳――この惨状をどう捉える?」
「確かに『魔』の異臭が致します。それ以外の仕業なら護符を焼く必要もないかと」
 的確にハルが答え、小野も黙ってうなずく。
 それはルカにしても同意見だった。
 常人には感じられないだろうが、この場所には確かに悪魔の放つ腐敗臭が立ちこめている。ただし、それは残り香である。
 すでに邪悪な影は消え去っていた。おそらくは慈雨と呼ばれる少女と共に。
「やはり……そうか」
 苦しい表情で、和尚はそう言った。『魔』によるものだと断定出来たところで、事態はいっそう深刻化する。
 それはつまり、慈雨を連れ去った何者かにとっては――。
「我らの結界など、たやすく破られるということか……」
 和尚の沈痛な声に、二人は言葉を返すことができない。無言のまま、小野は庵の周りを詳しく調べてみる。庵に残った傷は、その激しさを雄弁に伝えていた。慈雨はどんなにか怖かっただろう――そう思うと、小野の顔は自然と険しくなる。
「……!」
 ふと、小野の目にとまった場所があった。玄関である。何かおかしい。建て掛けてある鏡と小さな靴箱。その上には慈雨が置いたのか、ウサギとクマのぬいぐるみが仲良く肩を寄せ合っている。小野は注意深く見渡してみる。そこには、あるべきものがなかった。
(何だ……?)
 自分の中に沸き起こったかすかな違和感を慎重に手繰り寄せる。小野は指先を口元へ軽く当て、一人考え込む。
(……そうか……!)
 突き当たった答えに、小野は思わず目を見開いた。そして、慌てて玄関から表に飛び出すと、和尚に向かって叫ぶ。
「和尚! すぐに結界を張り直して下さい!」
 そうだ。結界は破られたんじゃない。意図的に壊された庵、焼かれた護符。自分の考えが正しければ――これはきっと。
「罠だ!」
 だが、和尚が返事をするよりも早く――耳を劈(つんざ)くような轟音が響き足元が激しく揺れた。
 地面が割れ、玄関近くの裂け目から異形の生物が次々と飛び出す。
 甲高い奇声を上げながら、庵の掃除をしていた僧侶達に飛びかかった。しかし魔物達は目的の獲物に達する前に、小野の放った鬼力の光線に背後から焼かれる。
「キィィ」
 小野からの攻撃を避けようと一匹の魔物が空高く飛びあがった。
 瞬間。銃声が山林に木霊する。
 ルカの放った魔硝機が、その魔物を完全に捉えていた。撃たれた魔物は空中であっという間に霧散する。
「サンキュー。すごいね、それ」
 庵の入り口から、小野がルカに声をかける。
 それに答えようと口を開いた途端。
 再び大きく地面が揺れる。しかも先ほどよりも、強い。 
 震動に高く舞い上がった砂埃に包まれ、小野達は何か大きな影を察知する。
「小野! あれ!」
 いち早く立ち直ったハルが指差した方向に、小野は素早く目を走らせた。その瞳に映ったものは――。
「なんだ、と……」
 最悪の状況に、小野の背筋に冷たいものが突き抜ける。
 魔界の入り口とされる鬼門から姿を見せたのは、5メートルはある2匹の鬼。
 不気味な咆哮が響き渡る。
 小野は目を見張って、呆然とつぶやいた。
「こいつらは……羅眼鬼……!」
 それは巨人のような外見をした人型の鬼だが、人間の目にあたる部分がない。力が最高潮に達したときにその目が開かれると言われているが、そこまでは小野も見たことがなかった。
 とはいえ閉じた状態でも十分視覚は有しているし、その腕力は鬼の中でも最高クラスだ。気性が荒く、目が開かぬうちは常に精神が混濁状況にあって人の言葉は通じない。一匹だけでも難儀な相手なのに、それがもう一匹となると――しかし。
(おかしい。こいつらだけで魔界から出てくるなんて)
 人間界に悪意を持つ鬼については尊鬼王も日頃から警戒しており、王の支配下にある羅眼鬼達が自らの意思で魔界から出られる可能性は極めて低い。
 ということは、答えが限られてくる。
 誰かが彼らを呼んだのだ。この人間界に――。
(羅眼鬼達を操っている存在がこの場にいるはず……)
 魔界の瘴気と土埃のせいで視界はひどく悪い。必死に視線を走らせるが、鬼達以外の姿は見えなかった。
 小野は、ゆっくりと目を閉じる。ともすれば、極度の緊張で荒くなりそうな息を必死に整え、慎重に気配をうかがう。
「……!」
 捉えた。羅眼鬼の背後、暗い闇の中に『それ』はいる。
 怨霊……それとも悪鬼か、いや違う……!
「――来るぞ……!」
 大きな瘴気の塊が、爆風となって襲う。
 刹那――空気の質が変わった。突然の気圧の変化に、誰もが苦痛に顔を歪める。激しい耳鳴りと耐え難い重圧感。一気に呼吸が制限され、圧迫された全身の血管が悲鳴を上げているのがわかる。これは魔界の風だ。魔界に馴染んだはずの小野でも、この空気にいきなり襲われるとさすがに苦しい。まして他の人間など――。
「ハル、結界を張って和尚達を外に……!」
 小野の言葉に、ハルは素早く両手の指で印を組み込む。キーンという高い金属を打つような音が響いて、瘴気は一瞬浄化される。その隙を突いて、ハルは鬼達を囲むように直径8m程の結界を張った。和尚や僧侶達がその外側に急ぐ。
「ルカも結界の外に!」
「しかし」
 ハルの指示に、ルカは戸惑う。結界の中に小野を一人残してよいのか。
「大丈夫」
 心配そうに振り向いたルカの視線を、ハルは落ち着いて迎える。その瞳に、小野との絶対的な信頼感を読み取ったルカは、黙って指示に従うことにする。
「結界内は一時的に魔界になる。小野のように鬼の守護のある人間以外にとって、そこは精神の灼熱地獄。数分で意識を焼かれてしまう」
 ハルの説明に、ルカは目を見張った。
 信じられない体験だ。今、目の前にルカ達が地獄と呼んできた世界がある。
「……くっ……!」
 苦しそうにハルが顔を歪めた。
 本来ならば結界は、塩や清めの塩や水を使い、時間をかけて作るべきものである。それに比べてこの決壊はハルの念だけで作った、いわば即席の結界だ。補助となる護符もない。強力な敵を相手に、どこまで持つかは分からなかった。
 それでも、人間界と魔界との境を守る為に、ハルは全神経を集中させる。
(そうか!)
 機転を利かせたルカが、結界の四隅に銃弾を撃ち込む。銃弾のもとは、聖水に清められた銀であり、純銀には古来より悪魔を祓う性質がある。
(異国の土地でどれほどの効果があるかは分からないが……)
 先ほどまで凶器だったそれは、今度はハルの『気』を増幅させるツールとして青白い焔となって輝き始めた。即席の護符の代りである。
「ありが……とう」
 わずかに顔をほころばせ、ハルが礼を言った。
 苦しそうなハルの横顔を見て、ひとり結界内の小野は大きく息をつく。
(――手短に終わらせなきゃな……)
 呼応するかのように、2匹の鬼が咆哮を上げた。
 言葉や意思は通じない種類の鬼達だが、いきなり狭い結界に閉じ込められて機嫌が悪いことぐらいは分かる。だが、小野がもっとも気をつけなくてはいけないのは、鬼達を操っている『何か』の存在だった。
『くくく……待っておったぞ』
 結界内に不気味な笑い声が響いた。
「誰だ!」
 小野の感覚を持ってしても、その姿すら捉えることができない。だが、鳥肌の立つような邪悪な気配だけは感じて取れた。
『これほど早く鬼追に出会えるとは……その力、見せてみよ』
 羅眼鬼を隠れ蓑にするかのように、背後で声だけが響く。鬼追を恐れるどころか、その力に興味を持つとは……尊鬼王の支配の及ばぬ存在か?
 小野は両手を自分の前にかざした。拳に力を込める。どちらにせよ、羅眼鬼を倒さないと話は前に進まないようだ。
――だったら。
 小野の中に鬼の力が満ちていく。身体を包む紫のオーラ。その拳に赤い炎が生まれ、やがて激しく渦巻いていく。
「望みどおり見せてやるよ!」
 小野は地面を蹴った。瘴気をはらんだ風が巻き上げる。その動きに誘われるかのように、羅眼鬼達が同時に咆哮を上げた。小野に向かって大きな牙をむき出すと、間髪いれず襲いかかる。2匹の巨体に覆い被さられた小野の姿は、たちまち見えなくなった。
「小野!」
 結界の外から、和尚が叫んだ。いくら鬼力を有するとはいえ、小野は生身の少年だ。身体的な劣りは否めない。それなのに、まるで挑発するかのような小野の態度は、無謀としか言い様がなかった。
――が、次の瞬間。
 どう、と地面が揺れる音がして、右の鬼がバランスを崩す。片膝をついてうずくまったその隙間から、小野の姿が見えた。小野の左拳から発せられた光が、鋭い刃に姿を変えて片方の鬼のわき腹を切りつけたのだ。だが、巨体を誇る羅眼鬼にとって致命的な傷とは程遠い。
「……いかん!」
 和尚が眉を寄せる。中途半端な攻撃はかえって危険だ。もし怒りで羅眼が開けば、小野一人の力で抑えるのは不可能だ。それが証拠に、傷ついた鬼はもう立ち上がろうとしている。だが、和尚の心配に反して、小野は思わぬ行動に出た。
 立ち上がろうとしている鬼の立膝を足場に、素早く肩に乗る。そして立ったままの、もう片方の鬼の方へと跳んだ。きわどいバランスでその鬼の肩に飛び移る。驚いた鬼は、小野を振り落とそうと巨体を振るわせた。――だが、それより一瞬早く。
 小野は自ら飛び降りる。5mもの高さから落下しながら、小野は身体を反転させる。
「――食らえ!」
 その手から、幾筋もの赤い光が放射線状に放たれた。先ほどまで刃として形を結んでいた光は一旦小野の手の中に戻り、今度は強力な鎖となって鬼に襲いかかる。 
「がぁぁぁっ!」
 予測不可能な小野の動きに、振り払う間もなく、鬼はその鎖の餌食となった。赤い光が、鬼の首に幾筋も絡みつく。
 その鎖をブレーキにして、小野は地面に着地した。小野のスニーカーが、ザッと砂塵を上げる。鬼は、その呪縛をうるさそうに振り払おうとする。羅眼鬼にはまだ余裕があった。こうなればあとは力比べだ。いくら鬼の武器が使えようと、人間である小野が力で勝てるはずがない。羅眼鬼は一旦わざと首を突き出した。そして一気に片を着けようと、強く引いた瞬間――。
「縛呪――殺刃!」
 小野の声が結界内に響いた。鎖はたちまち針金のような刃物に変わる。その変化に、鬼が気付いたときにはもう手遅れだった。声を上げる間も許さず――。
 ゴロン、と不気味な音をさせて鬼の首が転がる。
「……あとはお前だ」
 そう言って小野は、もう一匹の鬼へと振り返った。さすがに小野の息も荒い。残った鬼は、何故仲間が死んだのか、また理解できないようだった。ただ不用意に動いてはならないと判断したのだろう。先ほどまでとは違い、その場で蹲ったまま機会を窺っている。
 一方、ハルの為にも早くと気はせるものの、小野の体力も鬼力もしばし回復を待たなければならない状態にあった。両者のにらみ合いが続く。――と、その時。
『そこまでだ』
 後ろの影が揺れた。いままで姿を見せずに様子を窺っていた何か≠ェ動いた。羅眼鬼はその声に従うように動きを止めた。やはり操られているのだろう、羅眼鬼はそのまま不自然に固まり、まったく動かなくなった。
『その鬼追の力……』
 不気味な声を響かせながら、透明なゼリー状の物体が徐々に像を結んでいく。警戒しながら、小野は目を凝らした。
(何だ……? この感じ……)
 それは、人間や鬼のように一定の形を持たない生き物。
 本来ならばまともな意識さえも持てない儚い物質。
 暗い想いや思念の塊――怨≠ニ呼ばれる存在だった。その中央に黒い渦が見える。そしてその渦が、あたかも生命体の核であるかのように不気味な鼓動を打っていた。
(狙うなら、あの渦か……)
 小野は身構える。だが、そんな小野の考えを読んでいるかのように怨≠ヘ言った。
『良いぞ……その鬼力見せてみよ』
 その言葉の真意はまだ分からない。何かの罠である可能性も高い。だが、解決の糸口が見つからない以上、いたずらに時間を引き延ばすのはハルの為にも良くない。今の小野には攻撃あるのみだ。
(とりあえず、黒い渦に鬼力を叩き込んで様子をみるか)
 狙いを定めるように目を細めて、小野は両手を突き出す。だが――。
 次の瞬間、小野は凍りついた。結界を守るハルも、和尚や僧侶達も、その光景に息を飲む。陽炎のように揺らめく何か≠フ中心部。その黒い渦を守るかのように――。
 慈雨がいた。
「慈雨ちゃん!」
 眠らされているのか小野の声にも反応せず、その瞳は固く閉ざされたままだ。
(無事…なのか?)
 ひと目では、慈雨の生死を確認することはできない。
『くくく。撃てるか? この娘を……かまわぬぞ』
 試すような声がする。小野は動けなかった。慈雨を助けたかったが、正直、どうしていいか検討もつかない。
『この器は美しい――が、まだ力がたりぬ』
 声が一段、低くなった。ぞっとするような黒い野望。
『あの方が復活するための……力が』
 そのとき、結界の外から声が響いた。
「かまわん! 撃て小野!」
 振り向くと、結界から少し離れた高台に、厳しい顔をした長身の少年が立っている。雪善だった。
 小野はその言葉が、実兄である雪善から発せられたことを知って愕然とする。雪善もたった今駆けつけたのだろう、わずかに息が荒れている。
「慈雨は怨≠ノ魅入られた。もう助からない――今、こいつを逃せば大変なことになるぞ!」
「な、何言ってんだよ、雪善……そんなこと」
 出来るわけがないだろ、と信じられない思いで小野は、雪善を見上げる。
 しかしその表情は兄としてではなく、優秀な鬼追のそれだった。
 漆黒の闇を思わせる真っ直ぐでつややかな髪。透き通るような雪色の肌。
 ついと上げた雪善の怜悧な瞳に、迷いはなかった。
 なおも躊躇う小野を見て、雪善はゆっくりと右手を上げる。その先に雲が生まれる。凝縮された小さな雲は、渦巻きながらエネルギーを増していく。いくつもの雷が雲を走り、やがて大きな電気の塊となって青白く輝きはじめる。雪善の行おうとしていることに、小野は息を飲んだ。
「小野に出来ないなら……」
「やめろ、雪善!」
 小野が止める前に、印字を組んだままのハルが叫んだ。ハルの意識と深くコミットしている結界が大きく揺れる。
「我ら兄妹はこの身に魔を宿す器だ。強い意志がなければ破滅を招く……慈雨とて覚悟はできている」
 視線を慈雨から逸らさぬまま、雪善ははっきりとそう言った。
「なに言ってんだよ! 覚悟なんて……雪善が一番っ……!」
 ハルが、白い顔を紅潮させて必死に怒鳴る。
『下らぬ』
 興醒めしたような怨≠フ声が響いた。雪善が自分を、慈雨もろとも消滅させようとしていることは、怨≠ノも伝わったらしい。恐れと怒りのオーラが膨張する。まずい、と小野は身構えた。
『このうっとうしい囲いを何とかしろ』
 ピシッ、という氷の割れるような音が幾重にも重なる。ハルの表情がさらに苦しくなった。結界が壊れようとしている。怨≠ヘこの結界から出るつもりなのだ。
「迷っているひまはない!」
 雪善が叫んだ。そして慈雨めがけて力を放つ――!
「やめろーっ!」
 ハルの悲痛な叫び声が重なる。結界が崩れた。その力は集約されて一枚の盾となる。慈雨の前に立ふさがった結界の盾は、わずかの差で雪善の放ったいかずちから、慈雨を守護することに成功する。
『くくく。人間とは弱く醜いものよ』
 だがそれは同時に怨≠ノ隙を与えた。
『この器はもらっていくぞ』
「待て……!」
 小野の声もむなしく、慈雨を取り込んだ怨≠ヘ音もなくかき消える。同時に怨≠ェ創り出していた魔界空間も失われていた。
 ハルはなんとか慈雨を守った。
 が、崩れた結界の前に和尚や僧侶達が無防備になる。
 その時、止まっていたはずの鬼が動いた。
 怨≠フ呪縛から解かれた鬼は、たちまち咆哮を上げ立ち上がる。それは怨≠フ残した置き土産でもあった。
「いかん……鬼の眼がっ!」
 和尚が叫んだ。羅眼鬼の目がゆっくりと開こうとしている。結界を失ったその場は、一瞬にして鬼の独壇場と化した。何を思ったか羅眼鬼は、身を翻し小野から離れると5人ばかりの僧侶達とルカのいる方向へ向かう。
 驚いて小野が振り返る。だが小野の動きよりも早く、鬼はその歩みを進める。
 すかさずルカの魔硝機が撃ち込まれた。だが、羅眼鬼ほどの巨体には効かないのか、悪魔性の低い鬼なのか、その弾丸はむなしく貫通するばかりである。
 羅眼鬼は躊躇うことなく一番手前の僧侶に手を伸ばした。
(ダメだ! 間に合わないっ……)
 小野の心臓が一気にせり上がる。
 ハルも雪善も、僧侶を助けるには距離があり過ぎた――戦慄が走る。
 と、次の瞬間。
「ギャァァァァ!」
 ものすごい叫びが響く。羅眼鬼の発した断末魔だった。
 なにが起こったか分からない小野の目の前で、背中から袈裟切りにされた鬼が倒れ込む。その巨体は真っ二つに切られていた。大きな地響きと共に、
「このタイミングはもしかして――ヒーロー登場ってやつ?」
 妙に明るい声が飛んでくる。
 ことの成り行きに唖然としている一同の中、場違いの気軽さで茶髪の少年が登場する。その手には宝刀、蓮華丸。
「皓矢!」
 小野がその少年の名を呼んだ。そして、
「遅刻だよ、バカ」
 内心ホッしながら皓矢に駆け寄る。小野のせリフを聞いて、皓矢は「けっ」と鼻を鳴らした。
「俺だって来る予定はさらさらなかったんだよ。せっかく苦労して漕ぎ着けたデートだったのにさ、祇園で弘美の彼氏とバッタリご対面。まったく、男は怒るし弘美は泣き出すし――で、面倒くさくなって逃げてきたんだ」
 軽妙な仕草で、高杉皓矢は事情を説明する。
「お前なぁ……」
 あまりの現実的且つ能天気な話に、小野はがっくりと肩を落とす。だが皓矢の登場が、絶望的だった状況を救ったのも事実だ。
 こわばっていた小野の顔が、微かに笑顔を取り戻す。
 傍で見ていたルカも、苦笑いとはいえ表情を崩した。
「それよかさ」
 皓矢はぐいっと小野の腕を掴むと、素早く耳打ちする。
「誰よ? この麗しい外国人美女は。紹介しろ、紹介」
 ルカのことだ。
「ああ。ええとイタリアから来た司祭さんで、名前はルカ。俺達鬼追のことについて調査に来てて、ご本人もエクソシストなんだって」
「ルカ! なんてエキゾチックな響きでしょおっ。お美しい姿にぴったりっす!」
 皓矢は明らかに、小野の説明の後半を聞いていない。どさくさの勢いで手を握られたまま、ルカは目前の少年を見上げた。
 事前の情報によると小野と同じ高校に通う学生らしいが、恵まれた身長と流行の私服をさらりと着こなす様子は、学生というよりもまるで若手モデルのようだ。
 とても先ほど、鬼を一刀両断した人間とは思えない。
 これが四人目。最後の鬼追か――。
 ルカは黙ったまま、四人の鬼追を見比べる。
「何でだよ!」
 突然、ハルの厳しい声が飛んだ。
 見ると、少し離れた所でハルが雪善に詰め寄っている。
「慈雨ちゃんは雪善の妹だろ?! なんであんなことっ」
 ハルの言葉に雪善は表情ひとつ変えず、静かに答える。
「……あれを逃したら、被害は京の都に及ぶ」
「だからって雪善が手を下す必要なんてあるのかよ!」
「あの状況では、俺が一番躊躇いがなかったはず」
「そういう話じゃないだろっ」
「同じだ! あれを逃した責任を、お前は取れるのか?」
 雪善が初めて声を荒げる。
 そんな二人を見て、小野はやりきれない気持ちになる。
 ハルも雪善も、きっと間違ってはいない。だからこそ自分はあの場面で動けなかったのだ。
(2人とも、普段は滅多に怒鳴ったりしないのに……)
 雪善の、とハルはうつむいたまま押し殺した声で言う。
「慈雨ちゃんを手に掛けた雪善の行動が正しいというのなら――本当に、心も痛まないというのなら」
 ハルが顔を上げる。それは、真っ直ぐに生命を見つめる瞳だった。
 「お前が鬼だ!」
 そう言い捨てると、ハルはその場を立ち去った。
 千二百年前から受け継がれてきた安部晴明の血を色濃く残した、魔≠寄せつけない凛とした横顔。
「雪善……あの」
 残された雪善に、小野が心配そうに声をかける。
 だが小野の気持ちを振り払うかのように、雪善は言葉を遮る。濡れたような黒髪がさらりと揺れた。
「小野、皓矢。それから客人も、寺の者を救ってくれた礼を言う。ハルにも……そう伝えてくれ」
 そう言って雪善は背を向け、本堂の方に消えていった。
「なんだよ? 仲間割れか?」
 片手で蓮華丸を軽く肩に乗せて、皓矢が言う。なにぶん途中参加の為、2人の事情がよく飲み込めない。
「そんなんじゃ……ないよ」
 小野は答える。そんなことではないのだ、きっと。
 小野にはどちらが正しいとはいえなかったし、そのことを上手く皓矢に説明できなかった。それはルカにとっても同じである。
「和尚様、ご無事でしたか」
 話の見えない皓矢は「ま、そんなこともあるか」とそれ以上詳しく聞こうとはせず、近くにいた和尚達に声をかける。
「助かった。礼を言うぞ」
 お役に立てて光栄ですよ、と皓矢が意味ありげににっこりと笑う。日頃から、鬼追の『不良』とレッテルが貼られている皓矢の、これは名誉挽回のチャンスなのだ。
 だが、と和尚は続ける。
「先ほどからおぬし話、どうも小野から聞いたものとはちと違うようだが……高杉」
「はい?」
「そちは今までどこに行っておったのだ?」
「どこって……」
 きょとんとして、皓矢が答える。
(やべ!)
 小野が慌てて間に割り入るが、間に合わなかった。何も知らない皓矢が口を開く。
「祗園の方に」
 和尚の眉がひくりと動いた。小野は思わず目をつぶる。
「祗園とな……岩倉ではなく?」
「岩倉? なんの話っすか?」
「あー! 和尚!! そろそろ本堂に戻られた方がっ」
 もちろん、そんな小野のフォローが効を成すことはなく――和尚はギロリと2人をにらみつけて言った。
「高杉! 何度も言ったはずだ。鬼追の使命を軽んじるな!」
 ド派手な雷が落ちる。さすがの皓矢も肩をすくめた。それから、と和尚は続ける。
「小野! 悪人を庇う優しさは善≠ノあらず。2人とも、延暦寺でしっかり学んで帰れっ!」
 それから、たっぷり3時間――小野と皓矢は、仏教おいてもっとも過酷とされる密教の修行を受けることとなる。