鬼寇の天蓋 2
作:草渡てぃあら





  2

 比叡山を後にしたルカは、兎柳家の自宅へと招かれた。
 ハルは陰陽師の本陣である晴明神社に寄ってから帰ると言い残し、家の者に車を用意させるとルカだけを乗せた。今後の対策を立てる為らしい。
 比叡山から四十分ほど車を走らせると、京都東山・岡崎と呼ばれる土地に出る。
 そこに、ルカの想像を絶する大邸宅があった。
 『兎柳』と書かれた風格ある表札。その和風建築の巨大な門を抜けると車はさらに奥まで進み、本邸の玄関に音もなく滑り込んだ。
「お帰りなさいませ」
 和服に身を包んだ女性達がいっせいに頭を下げる。
「ようこそいらっしゃいました。ルカ・プレチア様。お話は晴彦坊ちゃまから伺っております。さぞかしお疲れでしょう。ささ、こちらへどうぞ」
 まるでどこかの高級旅館のような待遇に、ルカは戸惑った心地のまま長い廊下を渡り本邸の外れにある部屋へと案内される。
「こちらが、滞在される間のルカ様のお部屋になります。至らないところは何でもおっしゃって下さいませ」
「ありがとうございます。こちらこそ色々とお世話になります」
「まぁ、日本語がお上手なのですね」
 感じ良く微笑みながら、和服の女性は手際良くお茶を入れてくれた。
 隅々まで心遣いが行き届いた部屋はこざっぱりと美しく、異国育ちのルカの精神をも和ませてくれる。
 雪見窓のついた美しい障子からは、枯れ山水の見事な日本庭園が見えた。
「陰陽師の末裔は、ずいぶんな資産家なのですね」
 修道士時代の質素な生活を思い出しながら、ルカはそう言った。
 それを聞いた和服の女性は「いいえ」と微笑んで言った。
「兎柳家は代々京都の呉服屋を営んでおりまして、本来陰陽師の方々とはご縁がありません。晴彦坊ちゃまはご養子でいらっしゃいますから」
「養子? ……そうでしたか」
 本人が不在のときにあまり詳しいことを聞くのも失礼だと思い、ルカは話題を変えることにする。
「ハルはまだ帰ってこないのかな」
「晴明神社へ寄られるとなると、晴彦坊ちゃまのお帰りは遅くなると思います」
 独り言のようにつぶやいたルカの言葉にも、女性は丁寧に答える。
「ルカ様にはお風呂のご用意も出来ていますので、よろしければいつでもどうぞ。それから、もうお食事をお持ちしてもよろしいですか」
 どちらも諒解すると、女性は再び丁寧にお辞儀をして部屋を出ていった。
 それを見送って、ルカはひとつ大きなため息をつく。
 一人になって整理しなければならない事柄が多い気がした。
(それに……) 
 鬼追達のそれぞれの能力、『怨』と呼んでいた者の正体など、ハルに直接聞きたいことはいくらでもある。しかし。
「忙しそうだからあまり無理強いも出来ないか」
 ひとりごちると日本画のような見事な庭園に目を向ける。
 そのハルがルカの部屋を訪れたのは、風呂と食事が終わって、夜も十時を過ぎた頃だった。
「ルカ。起きている?」
「ああ。もちろんだ」
 魔硝機の手入れをしていたルカは、その手を止めて部屋の障子を開ける。
「一緒にどう? 日本文化にもそろそろ飽きた頃だろうと思ってね」 
 ハルは手には、銀のトレイにのったウエッジウッドのカップが二つ。
「何て言ったかな、イギリス王宮御用達の有名な紅茶で香りがとてもいいんだ」
 普段なら、ハルが客人に自ら何かを運ぶようなことはしないのだろうが……。
 心遣いに感謝しながら、ルカは部屋に招き入れる。
「マカイバリのシルバーティップス」
「?」
「この紅茶の銘柄」
「そっか、ルカはイギリス生まれなんだっけ」
 元来柔らかい表情をするのは苦手だが、忙しい合間を縫って顔を出してくれたハルに対して、ルカは出来るだけの笑顔を向ける。
「イギリスには十四歳までいて、今は本籍イタリアだ。最近はチェコを中心にヨーロッパ各地を転々としているから、あまりヴァチカノにはいないけど」
「そっか。エクソシストというのもなかなか大変な生活を送っているんだね」
「ハルこそ」
 今日の出来事を思いだしながら、ルカはそう言った。
 ルカの的を得た返しに「確かにそうだね」とハルは苦笑する。その横顔に疲労の色がかすかに滲む。助けたいのだろう、あの慈雨という娘を。
「あの女の子の消息は?」
「今、うちの陰陽師達を使って行方を追っている。でも誘拐の犯人が『怨』だと分かった以上、見つけ出すこと自体はさほど難しいことじゃないんだ。京都には東西南北に四神相応――青竜、白虎、朱雀、玄武の守り神がいて独特の結界を張っているから、一度迷い出た悪しき霊魂は容易に京都から出ることは出来ないからね。あとはうちの陰陽師達が各所にレーダーを張って情報を集めて追い詰めていくだけ。見つけ出すのは時間の問題だよ。ただ……」
 そこでハルは一度言葉を切る。
「ただ、今回の場合は見つかればいいという話じゃないから」
「……そのようだな」
 ルカの脳裏に、雪善と激しいやり取りが思い出される。
「慈雨ちゃんの器を使って怨≠ヘ何をしようとしているのか。僕達鬼追が着き止めなければいけないのは、そこだと思う」
 ハルの真剣な眼差しは、思案するようにルカの少し手前の空間を見つめる。
「ハル、分からないことがあるんだ」
「分からないこと?」
「ハル達が言う『怨』は鬼とは違うものなのか? 我らエクソシストは神に背き人間をたぶらかす存在は皆、悪魔と呼んでいて抹消の対象になる。けれど祇園祭で、小野が紅牙という鬼を連れているのを見た。聞けば主従関係とか……悪魔がエクソシストに仕えるなど、我らの感覚では神の意に背く行為だ」
「鬼は、日本独特の存在だから急に理解するのは難しいのかもしれないね」
 そう言ってハルは、静かにカップに口をつけ紅茶を一口飲む。。
 男にしておくのは勿体無いほど、ハルはきめの細かい肌をしている。その華奢で可憐な姿は、ルカにイギリス時代、特に仲の良かった少女を思い出させた。
(地元でも可愛いと評判の子だったけど……)
 高校生にもなって可愛いという評価は、きっと本人の気分を害することだろう思い、あえてそのことは黙っておく。
「紅牙はある事情でその姿を人間に変えているけど、本質は純粋な鬼だ。鬼は、人間界の僕らと同じように魔界に住んでいて、彼らの存在自体が即、人間に害をもたらすようなことは決してない。それどころか僕達人間の死後には、その魂に残った怨念を浄化してくれてさえいるんだ」
「鬼が人間の怨念を浄化?」
「そう。この手の話は小野の方が専門なんだけど、魔界には尊鬼王という統治者がいる。尊鬼王は人間の怨念を鎮めることがすなわち鬼の平穏にも繋がると考えたんだ。鬼にとって、人間の持つ『怨念』はけた違いの強大な力に成り得るが、同時に鬼を悪鬼へと変貌させてしまう」
「鬼の特性なのか? その、人間の『怨念』で変化するというのは」
「いや、厳密に言うと鬼だけじゃない。京都にいるすべて人外の者にとって、人間の『想い』は重要なエネルギーなんだ。日本古来の神々は人々に『祈り』を求め、鬼や成仏できなかった魂達は『怨念』を求める。それが彼らに力を与え、善悪の存り方そのものをも左右する」
「善悪の存り方そのもの……」
 これも西洋では有得ない話だろうけど、とハルは額に軽く指を当て、どう説明しようかと悩んでいる。
「例えば、北野天満宮という神社には「菅原道真」という神が奉られている。今でも民衆の間では学問の神として深く信仰され慕われている神様なんだけど、実はかつて京都を呪い滅ぼそうとした怨霊なんだ」
「!」
「千年前の権力争いで敗れ非業の死をとげた菅原道真は京の都を呪い、時の最高権力者だった桓武天皇を呪った。その浮かばれぬ霊魂が呼び寄せる悪鬼や厄は膨大で、京都は荒れに荒れた。そこで京都の人達は考えたんだ。成仏させられないのであれば、ずっと居てもらえばいい。荒ぶる魂を敵視して滅ぼすのではなく、深く理解し慰めて『祈り』を捧げる。人々の信仰を新たな糧として、道真公の霊魂は怨霊から神へと生まれ変わる――」
「神は絶対唯一の存在だ」
「ああ、ルカの宗教はそうだったね。日本では霊力に長けた存在を、結構何でも神様と呼ぶんだよ。だからGodという訳は当てはまらない場合が多い。現に、僕が陰陽師として活動の拠点としている晴明神社も安倍晴明を神として奉っているし」
「八百万(やおよろず)の神か。日本と私の国とでは何もかもが違うんだな」
 ルカはため息をついて首を振る。
「数多の神々を奉るこの国では、神にも死がある。それがどういうことか分かる?」
「……見当もつかないな、正直」
「神の死とはすなわち信仰を失い人々から忘れ去られること。だから神々は信仰を切望する。いや、もっと正確に言うと信仰という形だけじゃない。信仰の元は『人間の想い』――そこには怨念や呪術も含まれるんだ」
「京都で感じた善悪のカオスの正体が見えてきた気がする」
 そう? とハルは微笑んでティーポットから紅茶を継ぎ足してくれた。
 ティーカップに新たに注がれる温もりを指先で感じながら、ルカは言った。
「何故、京都の人は菅原道真の怨念と最後まで戦おうとしなかったんだろうか?」
「戦う?」
「もし我らがその怨霊と対峙したとき、エクソシストの名にかけて最後まで戦っただろう。たとえ自分が倒れても、それを引き継いで戦ってくれる同志を信じて。我らのかざす正義とは、そういうものだ。鬼追の力を見ていても、決して魔物に引けを取る力ではないはず。しかし京都の人々は戦いを止め、悪霊に媚びるような真似をして平穏を得た。何故なんだろう?」
「どうしてかな。憎悪の中で人々に苦しみを与えるその怨霊と、いつかは分かり合えると信じたのかもしれない。それは恐らく、僕らの心にもある感情だから」
「人間の中には、元々悪魔がいるということか」
「そんなことを言うと、またルカに叱られるかな」
 おどけたように首をすくめるハルに、ルカは慌てて首を振る。
「いや。違うんだ。確かに最初は京都の宗教感の違いに抵抗も反感もあった。でも今は違う。まだ上手く言えないが、自分の持っている迷いの答えがここで見つかる気がしている」
「何か深い悩みがあるんだね」
「……」
 顔を上げると、そこにはハルの優しい眼差しがあった。
「京都はね、なぜか昔から迷い人を引きつける。それは、京都にいる様々な霊体が苦悩する人間の『怨』を呼び寄せているからだという説もある。でも――僕は違うんじゃないかって思うんだ」
 ハルはそう言って静かに立ち上がると、庭に面した障子を開けた。視界が開け、隅々まで手入れの行き届いた日本庭園が月の光の中に浮かび上がる。
「京都の結界は、なにも対魔物の為だけじゃない。結界自体が魂にとって浄化と癒しの装置なんだよ。人々はきっと、無意識にそれを求めて京都に訪れる。だからルカがここへ来たのも偶然じゃないよ、きっと」
「確かに私は、導かれたのかもしれない。私は……」
 ルカは何かを言おうとして唇を止めた。 
「……」
 まだ、言えない。それを言葉にすることが出来ない。
 いつまでも鮮やかに胸に迫る過去。傷。血が止まらない。繰り返し自分を裁く、暗黒の十字架。
 悔しそうに唇を噛んだままのルカに、ハルは「無理しないで」と穏やかに首を振った。
「人に心を開くことと自分の傷をさらけ出すことは違う。痛みを堪えて無理に本心を言葉にしなくてもいいんだよ。大丈夫。僕が君を信頼する気持ちに変わりはないんだから」
「……!」
 心の泥濘に沈んでいた不安を掬いとられたような気分だった。
 陰陽師とは、こんな風に人の心の闇へと近づけるのか。
「それにさ。白状すると僕、向いてないんだよね。人の悩みを聞くの」
「とてもそうは見えないな」
「でしょ? 皆そう言うんだけど、どちからというと相談する側の人。甘ったれなんだよね、基本が」
「じゃあハルは一体誰に相談を?」
「小野だね、断然。僕自身、本当に何度も救われたよ」
 ルカの頭の中に、緊張感のない小野の笑顔が浮かぶ。
 いまいち納得出来ない話だが、ハルと小野は幼い頃から付き合いだと聞いた。きっとルカには窺い知れない信頼関係があるのだろう。
「大いに悩めばいい、と比叡山で言われた」
 小さなため息と共に、ルカはそう呟く。そして、突然ハルの正面に向き直った。
「な、なに?」
 外国人であるルカの、慣れない土下座である。
「ハルに頼みがある。私にも、今回の事件解決までの手伝いをさせてくれないだろうか。不謹慎だが、その中で私も大きく成長できる気がするんだ。微力ながら、何かの助けにはなると思う」
 何を言い出すかと思ったら、とハルは笑った。
「そんな。ルカにはもう、たくさん助けてもらっているよ? 実際、比叡山での結界強化は見事だった。ルカの助けがなかったらどうなっていたことか」
「ありがとう……しかし、もっときちんと役に立ちたい。教皇様のおっしゃた『光』の意味が分かるまで」
「光?」
「そう……言われたんだ。京都で救いの光を見るだろうと」
「そっか、分かったよ。こちらこそ改めてよろしくね」
 そう言ってハルは伸びをすると「さぁ」と立ち上がる。
「すっかり長居してしまったね。もう夜も遅い。今日は疲れたでしょ、早く休むのがいいよ」
「お互いに」
 そうだね、とハルは微笑んで廊下に出た。そして、部屋の外に控えていた家の者に声をかけると紅茶の食器を下げさせる。
 その一連の所作に全く嫌味がない。
 本物の上流人なんだな、とルカは改めて思う。
「じゃ、おやすみ」
 ハルを送りだし、「そう言えば」とルカはひとり庭に目をやる。
 清源和尚に派手に叱られていた皓矢と小野の二人は、果たして無事に比叡山延暦寺の修行を終えて帰ったんだろうか。
 夜空には、無関心を装ったような上弦の月が見事な美しさで輝いていた。


 市立堀川第一高校。放課後。
 夏の強い日差しが、消し忘れた黒板に照り返している。教室にはまだ、まばらに人が残っており、とりとめのない日常のざわめきが広がっていた。
「でさぁ鷹人のやつ、祇園祭の約束ドタキャンだぜ?」
 黒板に背を向け机に腰掛けながら、クラスメイトの谷崎が仲間内に大袈裟に話している。
「悪かったな、ホント。今度、仕切りなおすからさ」
 HRで配られたプリントを鞄に押し込みながら、小野は谷崎とその周りの友達に謝る。純粋なクラスメイトである彼らは、小野が鬼追であることを知らない。当然、それにまつわる諸事情も理解できるはずがなく、昨日のようなことがあると、小野はひたすら頭を下げるしかないのだ。別に隠さなければならないわけでもないのだが、小野だって、魔界を忘れて馬鹿騒ぎできる友達は大切にしたい。
「絶対、約束だぜ?」
谷崎の念押しに適当な相槌を打ちながら、だが小野はまったく別のことを考えていた。
(……いや、ただの怨霊ごときなら比叡山に近づくことも出来ないはず。まして横川の結界を破るなんて不可能だ。やっぱり慈雨ちゃんは自分で……)
 そうだ。小野の考えが正しければ、慈雨は自分で結界外に出たはずだった。そこで怨≠ニ会った。怨≠ェ何故、慈雨を狙ったのかはわからない。何かの復活を待っているような話だったが……いずれにせよ、と小野は目を伏せる。
(もう少し調べて見ないと、答えは出ないか)
「聞いてンのか、鷹人」
「小野っち、スミって人が呼んでるよ。校門のところで待ってるって」
 神崎と、もうひとつ別の声が重なった。同じクラスの香奈だ。女の子だからというわけではないが、小野としては後者の声を聞くことにする。
「スミ……?」
 一瞬、きょとんとする。いつも下の名前で呼んでいるから、すぐにはピンとこなかったが、雪善の苗字は確か澄――。
「ああ! サンキュー」
 ガタガタと音を立てて机から立ち上がると、小野は香奈に礼を言った。下校途中にわざわざ教室まで伝えに戻ってきてくれたのだ。
「どういたしまして、小野っちの役に立ててよかったよ」
 可愛らしくウィンクして、香奈はサラサラのボブを揺らす。でさ、と香奈は声のトーンを少し下げた。
「あの人ってその……業界のヒト? なんかぁ超似合いまくりの和服着ててさ、めちゃくちゃかっこいいんだけどぉ!」
「業界……ねぇ」
 小野は首を傾げる。
 言われて見れば確かに雪善は、世俗を寄せつけぬ凛とした雰囲気を持っている。
 しかし雪善は延暦寺に住んで修行を受ける身ではあるが、正式な僧侶ではない。それが証拠――になるかは定かではないが、頭髪だってごく普通の高校生――よりも少し長めで通している。雪善はなぜか美容院の大きな鏡が苦手らしく、極力避けているのだそうだ。
 うーん、と小野は唸った。まさか鬼追仲間であるとも言えない。
「ま、とりあえず堅気。高校生。独身ってとこで……機会があったら香奈にも紹介してやるよ」
 小野の言葉を聞いて、周りの女の子達が一斉に騒ぎ出した。
「あ、私も見た! 背ェ高くてモデルみたいな人でしょ? 小野ってば、ホントに知り合いなの?」
「香奈、ズルーイ! 私にも紹介してよね」
「私も、私も!」
 へいへい、と彼女達の分かりやすい反応にいささか傷つきつつ、小野は軽く騒ぎをなだめる。
「あ、でも小野っちもなかなかイケてるよ」
 香奈が無邪気にフォローを入れてくれる。なかなかですか、と小野は心の中でつぶやいた。
「そうそう、人気第一位にはならないけど、五位以内にはなんとなぁくいるタイプなんだから」
 隣の女の子も同意する。なんとなくねぇ、と小野は再び複雑な心境である。
「だよね。絶対にナンバーワンではないんだけど、さりげなく好位置についているっていうか」
 さりげなく。
「……ビミョーな評価をどうもです」
 心なしかしょげている背中で、小野は教室をあとにする。
 ともかく、と小野は気分を切り替える。雪善が学校まで会いに来るなんて初めてのことだ。事態に何か変化でもあったのか。
 だが廊下に出てすぐの場所で、小野はもう一人の知り合いを発見した。
 その姿に、小野はあきれて立ち止まる。
「当学校では、関係者以外の立ち入りを禁止しています」
「……だからこうやって変装してきた」
 声を掛けた小野に、紅牙は身長百二十センチの位置からキッと睨み付ける。
 どこで手に入れたのか、変装だという名のごとく確かに小野の高校の制服姿だ。
 体型は幼児そのもので高校生と言い張るには無理があるが、キツめの眼差しは妙に大人っぽく、真っ赤な髪にも良く似合う。
 似合うのだが――。
「校則では染髪も禁止。こんな赤い髪でお前、風紀委員にでも捕まったらどう言い訳するつもりだよ?」
「人間ごときに捕まったりしない」
 捕まるってそういう意味じゃ、と言おうとした小野より早く、紅牙は、
「なぜ鬼を逃がした?」
 と睨み付けた。その眼差しはさすが鬼の子だけあって凄みがある。
 紅牙は人間界から完全撤退を強制された鬼達の中で、唯一尊鬼王から直々に人間界に残ることを許された鬼だ。そしてその名目は、鬼として小野一族に仕えると同時に、尊鬼王から鬼力を受け継いだ小野が正しく@ヘを使っているかの監視にある。
「逃がす……? おかしーな。比叡山の鬼は、俺と皓矢で倒したけど?」
 紅牙の問詰めに、心中では「まずい」と思いながらも、小野は軽く誤魔化してみる。だがもちろん、紅牙は引っかかってはくれなかった。
「違う! 祇園祭のときの鬼だっ」
「……ああ、あれね。ごめん、ちょっとドジッた」
「お前の使命は人間界にさ迷い出た鬼を狩ること。魔界を出た時点で、その鬼は裁かれねばならんのじゃ。お前はそのために尊鬼王から鬼力を受け継いだ――勝手な振舞いは許さぬぞ」
「うー…だってさぁ」
 小野はささやかな反撃を試みる。
「何も殺すばかりが任務の遂行じゃないだろ? 現にあの鬼は素直に魔界へと帰ったんだし」
「その勝手な判断が命取りなのだ! 馬鹿者っ」
 が、結果は炎に油である。小さな顔を真っ赤にさせて怒っている紅牙にを見下ろしながら、小野は小さくため息をついた。
 彼女のいうことは間違ってはいない。だが尊鬼王の本心を知る小野は、むやみに鬼を殺す気にもなれないのである。
「ごめん。俺、人を待たせてるんだよね。続きはまた」
「こら! 逃げるな」
 結局、いつものように逃げ出すことを決めた小野は、早々にその場を去ることにする。
 そんな小野の背中に怒声を投げながらも、紅牙はそれ以上追うことをしなかった。
 分かってはいるのだ。小野の甘さはまた優しさ≠ナもあるということを――けれど。
「優しさが己を殺すことだって……あるのだぞ」
 小野が見えなくなってから、紅牙はひとりつぶやいた。


 校門を出たところに、雪善が立っていた。本人は全く意識していないのだろうが――。
(こりゃ、目立つわ……)
 人目を引くのは、なにも和服姿だからというわけではない。一陣の風のようにすらりと伸びた背、ひと目を惹きつける涼やかな容姿――あまりにも身近すぎて、小野は普段意識していなかったが、雪善は典型的かつ正統派の美しい男、だった。
「なんで和服なわけ? 何かの撮影でもしてるのかと思われるぜ」
「撮影……?」
 挨拶抜きで話し掛けた小野に、雪善は怪訝な顔をした。
「芸能人とまちがわれるってこと!」
 ずいぶん俗物的な発想だな、と雪善が笑った。そのクールな表情は、小野と同い年には見えないばかりか、ちょっと浮世離れした観もある。
「袈裟は己にかけた呪縛だ。封魔の香を焚き染めてある――京都は延暦寺と違って、すべての魔所に結界を施してあるわけじゃないからな。俺にとっては危険な土地だ」
「……?」
「俺の中の鬼が-――騒ぐ」
 いたって真面目な雪善の答えに、小野の表情が固まった。雪善は、京都からいって比叡山の逆側、滋賀県の高校に通っている。あまり京都に遊びに来ないと思っていたら、そんな事情があったのだ。
(ごめんなー香奈。こいつを紹介する勇気、俺にはないかも……)
 雪善の端正な横顔を見ながら、小野は心の中でクラスメイトに手を合わせた。
「で、なんか進展あった?」
 小野の高校から歩いて少し――四条大橋の架かる鴨川のほとりに腰掛けながら、小野はそう切り出してみる。もちろん、慈雨の一件だ。こうやって雪善が小野を尋ねて来る理由は他に考えられない。
 ああ、と雪善はうつむいた。そして鴨川のおおらかな流れを見つめながら、
「小野に、頼みがある」
 とだけ言った。
「これを」
 と差し出された雪善の手の中には、野球ボールほどの水晶玉があった。小野は目を細める。
「中に鬼が」
 よく見ると、それは慈雨にそっくりの鬼だった。額にある第3の瞳。耳の後ろあたりから生える小さな角を別にすれば、慈雨本人といっても分からない。
「これは……?」
 不思議な鬼だった。日ごろ目にする鬼達とはまったく異なる生き物にも見える。
「慈雨の中で共に育った鬼だ。横川の庵のそばで泣いているのを見つけた」
「慈雨ちゃんの中で、育つ?」
「そうだ。本来なら一生慈雨の中で育ち、その姿を目にすることはあり得ない存在」
 だが、と雪善は続けた。
「何者かが、その鬼を慈雨の中から追い出した。慈雨を器として使うために……」
 雪善はそこで、かすかに顔を曇らせる。慈雨を思ってのことだろう。雪善の気持ちを慮って、小野はそっと横顔を見た。
 しかし、そんな小野の視線を吹っ切るように雪善は強い表情を向ける。
「小野、和尚に罠だって言ったらしいな」
 その瞳は、冷静に事件を解決しようとする鬼追の責任感に満ちていた。小野はあまりに雪善らしいその強さに、一瞬胸が痛くなる。
 だが、それを気づかせないようにひとつ呼吸を置くと小野は「ああ」と静かに答えた。
「どうして罠だと?」
 雪善は怜悧な瞳を細める。
 ただの予測だけど、と小野は前置きして話し出す。
「玄関に、慈雨ちゃんの靴がなかったんだ。普通、攫う人間相手に丁寧に靴を履かせる奴なんていない。人間以外の者ならなおさら」
「では、あいつが……慈雨が一人で結界の外に出たと?」
「たぶん。理由までは分からないけど。そして結界の外で怨≠ノ捕まり、術にはまった。そのあとに怨≠ヘ、わざと結界の力が破られたように見せかけたんだ」
「結界が再び張られないように。和尚達に結界は役に立たないと思わせた」
 雪善が結論を引き継ぐ。その答えに小野はうなずくと、静かに付け加える。
「それで羅眼鬼たち魔界の住人を、人間界に呼び寄せることができる」
 鬼門である横川の結界は、そのまま魔界封じの扉でもある。
 恨みや憎しみなどの強い思念である怨℃ゥ体では、何かを傷つけたり殺めたりすることはできない。だから人に取り憑いて人格を歪めたり、鬼を操ったりするのである。今回のことでも怨≠ェ巧みに魔界の鬼を利用している――そしてその為には、魔界を封じる結界が邪魔だったのだ。
「何にしても怨≠フ目的が分からないとなぁ」
 そう言って小野は、河原に寝そべる。冷やりとした土の感触が背中に心地良い。小野の言葉に、雪善もうなずいた。
「何かの復活を望むような口ぶりだったが」
「復活かぁ……でもさ怨≠ェ取り憑くことができるのはもっと精神の不安定な人間だろ。子供とはいえ、慈雨ちゃんみたいな強い霊力の子に降臨し支配することが出来るのは」
「尊鬼王レベルの鬼か、もしくは神……」
「恐らく、その辺りだろうな。俺達を襲った怨≠ェ、そのまま慈雨ちゃんに憑いたとことで完全に力負けだろう?」
 雪善は大きなため息をつく。
「何故、慈雨は結界の外になど……」
 雪善は口元で両手を組むと苦しそうに目を閉じた。それは、恐らく昨日から何度も、雪善の中で繰り返された想いなのだろう。
 小野は寝転んだまま、黙って暮れゆく空を見ていた。
 慈雨のことを誰より心配しているのは、やはり雪善なのだと改めて思う。小野にはそれが分かるからこそ、慈雨に手を下すことができなかったのだ。なんとしても助けなきゃ、と思う。二人の間にわずかな沈黙が流れた。
「この鬼のことだが」
 と、雪善は再び水晶の中で眠る鬼の子を覗き込んだ。
「半身である慈雨と離れて随分弱っている。水晶は時間を止める作用があるから、中にいる限り死ぬようなこともないだろうが、ずっと閉じ込めておくわけにもいかないだろう……だいたい、この手の鬼が単体で生きていけるものなのか?」
 雪善の言葉に、小野は身を起こしてその水晶を手に取る。水晶の中の鬼は、泣き疲れて眠ってしまっていた。
「今は何とも言えないな……降魔の鬼なんて俺も初めてだし。まぁ、とりあえず預かるよ」
「いや、もう俺の手には戻さなくていい。慈雨を失った以上、その鬼が人間界にいてもつらいばかりだろう。小野から、魔界に返してやってくれないか」
「慈雨ちゃんを失うって……」
 その言葉に小野は戸惑いを隠せない。答えを出すにはまだ早いだろう、と語る小野の目に雪善は、
「ハルに嫌われるのはこんなところなんだろうな」
 と薄く笑った。そして、降魔大師である自分の両手を見つめながら表情を厳しくする。
「俺達はその身に鬼を宿す。精神を鬼と共有するということは、常に起こりうる鬼の暴走を、理性で押さえ続けるということだ。俺達兄妹は、その強い精神力を得る為に、幼い頃から比叡山で世話になってきたんだ」
 だから自分は感情で動くことはできない。雪善の横顔はそう語っていた。
「……ハルはきっと怒ったんじゃないよ」
 小野は川面を見ながらそう言った。小野の言葉に、雪善は怪訝な顔を返す。
「ハルは優秀な陰陽師だ。あの一族は千二百年もの間、人間の心の闇と戦ってきた。だから、誰よりも人の心に敏感なんだ。人の痛みや悲しみ、苦しみが手に取るように分かる」
 そこで小野は少し置いて、再び繰り返す。
「――隠していても、分かる。雪善の心の痛みが」
 驚いたように顔を上げる雪善を、小野の真っ直ぐな目が捉えた。
「だからハルは怒ったんじゃない。雪善。お前が、お前の心が心配であいつは――でも上手く伝わらなくて……結局ケンカみたいになっちゃったけど」
 だいたいさ、とそこで小野は笑って続ける。
「ハルとは一番長い付き合いだからよく知っているんだけど。あいつ女の子みたいな顔して結構、不器用で気が短いんだ。ガンコオヤジみたいなトコあンだよな」 
 小野の言葉に、雪善は目を閉じた。そして、ゆっくりと開けると自分の手を見る。
「……分からなくなる。慈雨を切り捨てようとするのは、俺か鬼か。もはや俺は、人として生きてゆくことはできないのか」
「そんな、雪善」
「小野……俺の中にいるのは鬼だけではない。もっと何か――大きな意識を感じるんだ」
雪善は、その端正な眉をひそめる。
「正直に言おう。俺にはそれが怖い。ときどき自分が何者かわからなくなる」
 その言葉を聞いて、小野は雪善が抱きつづけている不安を初めて知らされた気がした。鬼追の中で最も己に厳しく、やるべきことを確信している印象しかなかった雪善だったのに――。
(そうだよな……)
 本当は、雪善の真の苦しみに触れることはできないのかもしれない。鬼追は、それぞれが唯一の存在である以上、背負う痛みもまたそれぞれだ。
 それでも。
 同じ鬼追として、一番近くにいる仲間として、小野には伝えなければならないことがあった。夕映えの赤が、鴨川を鮮やかに染め上げる。
 上手く言えないけど、と小野は言った。
「俺は雪善が好きだよ、たとえ鬼でも人でも。ハルだって、嫌いな相手に対してわざわざ本気で怒るほど親切な奴じゃない」
「……小野」
 意外な言葉だったのか、雪善は少し驚いたように顔を上げる。
 慰めでもなく同情でもなく、ただこの胸の真意が伝わればいい、と小野は祈るように強く思った。そして気を取り直すように一息つく。
「この鬼のことは俺に任せてくれていいよ。どっちにしろ、ここらで魔界には一度行っとくべきだろうし、尊鬼王にも相談してみる。他にも今回のことは色々報告しないと……ほら俺の立場はみんなとは違うし。鬼追とはいえ、俺のクライアントはあくまで尊鬼王だからな」 
「尊鬼王が今回の手から手を引けと言い出すことも?」
「それはないと思う。人間界で鬼が暴れるのは、あの方も嫌がるからな。その原因を絶つのが、俺の仕事だし。基本的な目的は和尚達と変わらないさ」
 小野はそう言って、軽く笑う。
 そしてふいに雪善の肩に手を置いて言った。
「頑張ろうぜ、慈雨ちゃんが……」
 次の言葉を探す。もう一度意識を戻せるように? 生きて雪善の元へ帰るように? それはどれも悲しい絵空事でしかない。現実味のない残酷な約束だ。
 一度は言いよどんだ小野はだったが、しかし次の瞬間確信を持って言葉をつなげていた。
「慈雨ちゃんが、せめてもう一度笑えるように」
 そうだな、と雪善はかみ締めるようにつぶやく。
 鴨川は、京都の夏の風物詩である『納涼床』目当ての客で賑やかになりつつある。
 都は、ゆっくりと夜を迎えようとしていた。


 雪善から慈雨の鬼を預かってから数日後――。
 深夜である。
 満ちた月を見上げながら、小野は一人六道の辻に立っていた。
 京都最大の観光名所である清水寺に程近く、昼間は観光客で賑やかなこの場所も丑三つ時にもなれば人影もない。
 そこからしばらく歩くと『篁堂』と呼ばれる御堂があり、かの有名な閻魔大王が安置されている。その隣に並んで鎮座している像がもう一体。この像の名は小野篁――小野のはるか昔のご先祖様である。
 小野が血を受継いだこの人物は、平安時代に朝廷の高級官吏として働きながら、漢詩に長けた歌人でもあり、同時に魔界への出入りを許されていた唯一の人間であった。人間として初めて単身魔界へ乗込み、そのまま『閻魔庁第三の冥官』として尊鬼王に仕えたという、なかなかのツワモノである。
「こんばんは、じいちゃん。あなたの末裔は今日も元気で頑張っおります」
 篁の像に向かって手を合わせる。お墓参りでもあるまいし、たいした意味もないのだが、これは小野が魔界に降りるようになってからなんとなく始めた習慣だった。
「まぁ、じいちゃんには全然かなわないけどね」
 そう言って軽く手を振ると、御堂の裏手にある小さな井戸へ向かう。一見、なんの変哲もないこの井戸だが、これこそが尊鬼王が小野篁のためにと開いた、人間界に存在するたったひとつの魔界への正式な入口であった。
 もちろん、誰でも入れるというわけではない。井戸そのものは一般の人でも見ることができるが、その井戸の闇の中には、人間界の物理理論を無視した巨大な空間が広がっており、それを捉えることができるのは小野の血を引く者だけだ。
 古来の最高神、天照大神(あまてらすおおみかみ)が愛した世界が日本であり教え導いたのが人間であるのなら、魔界はその兄神にあたる月読命(つきよみのみこと)の守護する世界だと言われている。
 太陽神だった天照大神の対して月読命はその名のとおり月の神であり、満月の夜に限り、人間界から魔界への道が開ける。
 しかし、魔界へと続く階段を降りることが許されているのは現代において小野鷹人だけであり、それが尊鬼王の定めた規則だった。
 小野はゆっくりと階段を降りていく。
 一歩ごとに人間界の空気が薄くなっていくのが分かる。かわりに、この世のものではないねっとりとした空気が小野を包む。生暖かい気圧の壁。柔らかな抵抗――。
 延々と続く螺旋状の階段の所々に鬼火が燈っている。熱を持たない不思議な炎は、青白く小野の足元を照らす。
 幼い頃、小野は父親から人の怨念というのは、鬼にとって麻薬のようなものだと教えられた。鬼はその魔に取り憑かれて己を失い、力を暴走させる。怨念に取り憑かれた人間はそんな鬼を取り込んで悪鬼となる。人と鬼――お互いは、それぞれの魂を見失い、虐殺を繰り返しながら破滅の道を突き進むしかないのだ。
 千年前の都で、そんな人と鬼の悲劇は後を絶たなかった。血族同士の権力争い、愛を待ちわびる女の情念、貧困の中で引き離される親子……愛と憎悪は混沌とした世界を覆い尽くし、怨念はいくらでも誕生した。
 ちょうどその頃、魔界の統一に成功したのが尊鬼王である。
 鬼の世界を正常に保つため、尊鬼王は諸悪の根源である人間界と隔離した。さらに閻魔大王として人の魂を管理し、少しでも人間から怨≠ェ生まれないように業の浄化の手助けを行ったのだ。
 その浄化の方法が少々荒っぽい分、魂の汚れた人間にとっては恐怖となり――これが後に、人間界でも語り継がれることとなる『地獄の閻魔大王』の誕生である――そしてそのシステムの構築に、人間界代表として力を貸したのが、小野篁、その人である。鬼とともに京都の平安を築くことが、篁の理想であった。
 だからこそ、怨化した鬼(あるいは悪鬼と化した人間)を退治し、京を守ったハル達陰陽師とは、鬼という存在の捉え方が異なる。小野家は常に、鬼の立場と人間の中間であることを位置付けられた。
 悪鬼から人間を守るとともに、人間の怨念からも鬼を守ること。尊鬼王から小野に与えられた鬼の力は、すべてはその為にある。
 雪善との会話に中で、クライアントが違うといっていたのはこのことだ。
「……」
 小野は顔を上げる。
 無音だった世界に、かすかに人間達の叫びが聞こえてきた。子供の泣き声や女の悲鳴。男のうめき声など、耳を覆いたくなるような阿鼻叫喚は、歩みを進めるにつれだんだんと大きく響いてくる。魔界と人間界の隙間にさ迷う、成仏できない魂たちの叫びだ。
 偶然これを聞いてしまった者は、地獄絵図を思い浮かべたに違いない。
 小野も魔界に来たばかりの頃は、子供心に足にすくむおもいだが、慣れとは恐ろしいもので、今の小野には何の恐怖もない。
 やがて夕焼けのような朱色の光が小野を包んだ。魔界の中枢までもう少しだ。気が付くと階段は消えている。
 突然、光が量を増した。その明るさに、小野が思わず目を伏せた途端――。
「鷹人!」
 後ろから首筋に抱きつかれる。それは小野の腰ほどまでしかない子鬼であった。
「コラ、境界で遊ぶなって言われているだろ?」
 背中にぶら下がった子鬼を地面に降ろしながら、小野は注意する。
「鷹人を待ってたんだよ」
 拗ねたように口を尖らして、小野を見上げる。そして、
「ギオンマツリは無事すんだのか? 尊鬼王様が心配しておられるぞ」
 大人ぶって人間界のことを心配してみせる。そんな子鬼に、小野は笑って答えた。
「おかげ様で……それより、今日は別件で来たんだ。尊鬼王にお目通し願えるかな?」
 お目通しもなにも、小野が魔界に来て向かうのは尊鬼王の元以外ありえない。それでも子鬼は嬉しそうに「了解」と敬礼した。これはもちろん人間のマネだ。
 人間界への出入りを固く禁止しているのも関わらず。
(一体、どこで覚えてくるんだ?)
 早く早くとせっつく子鬼に半ば引っ張られるようにして、小野は尊鬼王の元へと向かう。
 城門には朱色の柱が天高くそびえ立つ。その遥か奥には、見上げても天井の見えない巨大な扉が見えた。その扉の向こうに座する偉大なる魂こそが、尊鬼王――すべての魂の管理者。地獄の閻魔大王である。
 見上げる空は、絵の具を溶かしたように常に色を変えて続ける。子鬼をそこで帰し一人で城門を通る小野は、比叡山の和尚とはまた違う緊張を感じていた。それは、尊鬼王の信頼を失ってはいけないという使命感にも似た思いだ。
 扉は、小野が近づくと待っていたかのように地響きを立ててゆっくりと開いた。
「お久しぶりです、尊鬼王様」
 小野はそう言って、尊鬼王の前に跪いた。
 その威圧感。全体を把握するのは不可能だ。小野の目で像だけを追っても、顔までは正確に捉える事ができない。しかも大きいというだけではなく、全体を包み込む気≠フすべてが、如いてはこの魔界すべてが尊鬼王なのである。
「鷹人か……よう来た」
 はるか彼方の頭上から、深く包み込むように、大きな声だけが響く。
「羅眼の鬼どもが魔界から消えた。人間界で悪さをしておらねばよいが」
「お心遣い痛み入ります……うち2匹は比叡山に現れました。怨≠ノ憑かれたようで――なんとか無事に済みましたが、結局は鬼を殺めることに……」
「その為に授けた力じゃ、気に病むことはない」
 鬼たちを誰よりも愛している尊鬼王である。人間界にさ迷い出て悪鬼となった鬼は殺されるという決まりは承知しているものの、羅眼鬼を失った悲しみは、深い憂いの声で分かった。
どうしようもないとはいえ、小野が暗澹たる気持ちになるのはこんな時だ。
「しかし何故じゃ……何故、羅眼たちが人間界に」
 尊鬼王の声に、小野は瞳を上げた。
「そのことでご相談したいことが……」
 そして、比叡山の一件を事細かく話して聞かせる。
「その怨≠フ存在――時々感じることがある。そうか、あれは人間界のものだったか」
「怨≠、感じるのですか?」
 尊鬼王が、どんな風に怨≠感じ取っているのか、小野には想像もつかなかったが、尊鬼王の言葉は有力な手がかりになるはずだ。
「怨≠ニは、純化した思念じゃ。その思いがあまりに強い場合、わしの耳に聞こえることもある。場所まではわからなんだが……そうか人間界から聞こえていたとはのう」
「……怨≠ヘ何と?」
「悔しい寂しいとすべてを憎んでおる。だが、器を見つけたと――復活が成功すれば、この世の恨みを晴らせると」
「器!」
 小野は思わず声を上げた。慈雨のことだ。
「慈雨ちゃんを器に、何を&怺させようと?」
 その質問に、尊鬼王は唸った。
「どう表現してよいのか。神であって神でない者。善であり悪」
「神であって神でない者。善であり悪……」
 禅問答のようだ。小野は首をかしげた。尊鬼王も知らない神など――。
(日本古来の神々とは違うということか)
「あれはいかん……数多の無縁仏を取り込んで巨大に膨れ上がっておる。まるで宇宙のチリを集めて星が出来るように――」
そこまで言うと、尊鬼王は大きくため息をついた。
「人間界にいるとすれば、時間がないぞ。五山の送り火までに始末をつけないと、京に成仏できない魂達があふれかえり、出口を失った魂は怨念へと変わる。そうなれば鬼追の力だけでは封じきれぬ」
「五山の、送り火……」
 小野はつぶやいた。五山の送り火とは、大文字焼きとも呼ばれる京都の夏の恒例行事である。毎年大勢の観光客が集まるこのイベントも、祇園祭と同様、京都を魔から守る上で重要な意味があった。行われる日は八月十六日――あと一ヶ月もない。
「とにかく探すしかあるまい」
 尊鬼王の言葉に、小野は頷くしかなかった。何としても探し出さなければ――。
 そしてもう一つ、小野には成し遂げたい望みがあった。
「先ほど話した、怨≠ノ囚われた少女にことですが……助ける方法はないですか?」
「不可能だ。一度壊れたものは決して戻らん」
 尊鬼王はきっぱりと言い切った。それは恐らく、小野を慮ってのことだ。予想されていた答えとはいえ、小野はさらに食い下がる。
「ですが、怨≠ノ憑かれたわけではないんです。復活を食い止めることができれば……」
「小野、そなたの哀しい顔を見るのは辛いが……あきらめよ。鬼も人も、一度怨≠ノ魅入られたら終わりじゃ。だからこそ我々は怨を恐れ、日々努力しているのではないか」
「……」
 返す言葉がなかった。分かっている。それは千年前から普遍の悲劇なのだ。だが絶望的な状況の中、それでも諦めきれずに小野は目を閉じる。雪善の哀しい決断を、ハルの勇気を、どうしても無駄にしたくはなかった。
「すべてが元には戻らぬが……」
 小野の様子に耐え切れず、尊鬼王は重い口を開いた。それは、不要な優しさなのかもしれない。不可能な望みに希望を託しても、無駄に傷が深まるだけだ。だが、諦めの悪い小野の、人間らしい魂の輝きに尊鬼王はどうしても弱いのだった。
 よいか期待はするな、と尊鬼王は言う。
「何度もいうが、その者は死ぬしかないだろう。だが、一瞬だけ意識を通わせることができるとすれば、それは身体から魂が離れるときだ。その者に強い意思がある場合だけ、正気に戻る場合がある」
「強い意思……?」
「生きていく者に伝えたい何か、だ」
 厳しい話だった。だが、それが現実なのだろう。慈雨が伝えたいこと――小野はふと顔を上げた。
「この水晶の鬼ですが」
 手の平に、雪善から預かった水晶をのせた。その水晶は、尊鬼王が近くで見るために、ゆっくりと空へと消えてく。
「これは珍しい……降魔の鬼とは」
 やかて声が降りてきた。
「囚われた少女の中で育った鬼です。もし伝えたいことがあれば何か知っているかと……弱っているように見えたので、水晶からは出さずに魔界へ連れてきました」
「やはり単体で生きていくには生命力が足りんか……」
「何か――言っていますか?」
「あまりに小さい声だが……小野にも聞こえるかの」
 耳を済ませて神経を集中する。鈴の音のようなかすかな声が響く。
〈……ごめんね……大切な……だから〉
 細かいところまでは聞き取れない。
「かすかに声がする程度ですが」
「一時的に気を入れることは可能だが、この鬼の命を救うのならそれは良い方法ではないだろう」
「その鬼の命を助けてください」
 小野は反射的に言った。そして尊鬼王を見上げて言う。
「そして――もう一つだけお願いが」
「何か考えがあってのことなのだろう? 小野の要望なら、答えねばなるまい」
 しかし小野の望みを聞いた尊鬼王はふうむ、と考え込んだ。
 小野はもう一度、尊鬼王に深く頭を下げた。


 ルカにとっても忙しい日々が続いていた。
 京都市内に現れた魔物の駆除をハルに頼まれているのである。
 もともと浄化が強く作用している土地にも関わらず、朝から街を巡回して狩った魔物は、今日だけですでに五匹を超える。それは、ルカが京都へ来た祇園祭の頃よりも明らかに増えていた。
(ハル達が言う『怨』が魔物を呼び寄せているのか)
 魔硝機に新たな銃弾を充填しながらルカは空を見上げる。真夏の熱気は、もうすぐ夕焼けの空に消えようとしていた。
「あ、ルカ」
 見ると、平安神宮参道の広い道路の向い側で小野が手を振っている。そのまま観光客狙いのタクシー達の間を器用にすり抜けて、ルカのもとへと駆けて来た。
「今日は小野ひとりか?」
「うん。祇園祭も終わったし、今の都はどこに『怨』がいるかわからないから、紅牙は八瀬の里に帰したんだ」
「八瀬の里?」
「京都の北にある里で、昔から鬼を匿ってくれる人々が住んでいる」
 小野の話にも、さほど驚かなくなった。
 京都に慣れてきている、とルカは実感していた。それが良いことなのかは分からないが――。
「『怨』の正体の手がかりは何か掴んだのか?」
「うーん……いくつかそれらしい情報はあるけど、決定打に欠けるんだよね。ルカこそ、魔物退治の成果は?」
「さっき美術館の裏で魔物が襲ってきたから退治した。それで今日は五匹目だ。ちゃんと小野達の指示通り、人を襲う意思を確認してから撃っているぞ。本来、エクソシストとしては悪魔を見かけたら即、抹殺だがな」
「面倒かけてルカには悪いけど。もし京都でそれしたら、魔物以外の存在も人間を怖がるようになっちゃうからなぁ。ここは人口の半分が異形の者だから、信頼第一なのです」
「なかなか大変だな」 
「そう? 俺的には片っ端から抹消ってのも大変そうだけど」
 生きてきた環境や常識、ポリシー違う。でも小野は決して自分の意見を押し付けることはしない。相違を悲しむでもなく憎むでもなく、ただ認めている。
 その余裕がお互いの尊重にも繋がるのだろうか、とルカはふと思う。
 自分と小野。人間と魔物――。
「ルカだけで五匹か。どう考えても魔物が多過ぎだよなぁ。こっちは七匹殺した。いつもは大人しい連中も狂暴になってるんだ。『怨』の気配が悪しき生物の心を乱すんだろうな」
 小野はそう言って表情を曇らせる。
 本心を言うと、魔物など一匹も殺したくない。
 彼らは何か理由があって人間に牙を向いているわけではない。人間が生み出した怨念を取りこんで狂暴化するのだ。
 しかも、平常ならば怨念を取りこむ霊力もない異形の弱き者達が『怨』の影響から負のエネルギーを得ている。
「何と言うかさ。ホント、参るよ」
 こうしている今も、京都のどこかに『怨』はいる。そしてそこには必ず慈雨がいるのだ。それなのに――。
「今は気持ち切り替えて、自分に出来ることだけに集中しろって。分かってるんだけどさ」
「時々、ふっとよぎる不安に居た堪れなくなる。違うか?」
「大当たり。よく分かるね」
「私も同じだから。しかし小野。焦っても……何も見えてこないぞ」
 自分に言い聞かせるようにルカは言う。胸を通りぬけるのは一抹の寂寥だ。
 今も続く疼痛をなだめるかのように目を閉じる。
「みんな同じ気持ち、か。そうだよな。焦ってもしょうがないんだよな」
 それでも悔しそうに小野は二度ほど頭を振った。
 そして「よし」と気持ちを改めるように勢いよく顔を上げる。いつもの笑顔だ。
「ルカ、今日は一緒に『一日お疲れ様会』しよ。良い場所知ってンだ」
 いや今日はこれからハルに報告が、と言いかけてルカは言葉を飲み込んだ。
 焦るなと言ったのは自分だ。その言葉は小野への慰めというよりも自分への戒めでもある。
「そうだな。今日は疲れた。一息つくか」
「そうこなくっちゃ」
 小野は平安神宮を横切り、疎水沿いの道を東に向かって歩いていく。
 緑に囲まれたなだらかな坂を登っていくと、間もなく立派な寺が現れた。南禅寺である。
「ここの寺の門は、天下竜門といって楼上に上がれるんだ。本当は入場料がいるんだけど、俺らは特別。鬼追のささやかな優遇制度だね」
 受付時間を過ぎて片付けをしている女性に挨拶すると、小野はルカをつれて楼上への入り口へと向かう。
「階段、気をつけて」
 小野の言葉通り、あきれるほど狭くて急な階段が続く。ルカには馴染みのない木造建築が指先に心地よかった。
(良い場所があると女性を連れていく所が寺の門とは……小野らしいな)
 小野の後ろ姿を見ながらルカはこっそりと微笑む。
 欠点がないのになぜか彼女が出来ないタイプだな、と思った瞬間。
 一気に視界が開ける。
「……!」
 無意識に、ルカは母国語でその美しさを称えていた。
 東山の高台に立つ天下竜門からは、夕焼けに染まる京都が一望できた。
 夕映えの都はしっとりと静穏に包まれている。
「京都タワーよりも個人的にはこちらがおすすめ」
「見事な美しさだ……こうして見ると、京都は本当に美しい都なんだな」
「誰かさんは魔界都市って言ってくれたけど?」
 小野の言葉に、ルカは吹き出す。そうだった。京都の第一印象は最悪だったのだ。
「今でも、不思議な都市ではある」
「俺なんてもう慣れちゃったよ。中学の修学旅行、九州だったんだけどさ。どこ行っても全然人間しかいなくて驚いた」
「それが普通だろ」
「そっちのお国事情どうなの?」
 小野の質問に、ルカは「そうだな」と考え込む。
「私達は、こちらの言い方でいう『怨に魂を食われた人間』のことを悪魔と呼ぶ。あるいは魂を食おうとする『怨』そのものを。そういう意味での悪魔はあとを立たないな。ヴァチカノ直属のエクソシストだけでも現在は三十人ほどいるが、ほぼフル稼動だ」
「三十人! その全員がルカみたいに悪魔と戦えるわけ?」
「ああ。魔硝機のおかげだろうな。エクソシストの歴史は紀元前に遡る。その間に武器も様々に開発されてきたんだ。魔硝機はその集大成とも言える。対悪魔のエネルギーを銃という最新の武器融合させることによって、極端に言えば誰でも悪魔にダメージを与えることが出来るようになったんだ。引き金を引けば、人間に向けても悪魔だけを、完全に悪魔化した人間ならもろとも――その存在を抹消できる。もちろん悪魔を捉える感覚と銃を扱える基本的技術がないと話にならないけど」
「何かすごいなぁ」
「何が?」
「いや、なんとなく色々なことが」
 何なのだそれは、とルカはあきれ言い小野は曖昧に笑う。
 あれ、とルカは奇妙な心地を感じていた。
 小野との何気ない会話が、どうしてなのかルカの心を慰めてくれる。
 心が温まるのだ。とても。しかしそれは、ヴァン司教やハルの優しさとは異なっていて。
 小野の前では、不思議なほど何かが解けていく。自分を守ってきた何かが――。
「小野」
「ん?」
 あとどれぐらいで夕日は落ちるだろうか。
「私は」
 朱に染まる世界を見つめながら、ルカの唇から言葉が零れ落ちる。
「殺したんだ。大切な人を、この手で」
 不思議な物でも見るように、ルカは自分の手を夕陽にかざす。その白く透き通るような手は朱色に染め上げられていた。
「悲しかった?」
 小野が聞いてきたことは、殺した原因ではない。不思議な感情を持つ声だ。
 同情や嫌悪、思いやり――どんな感情にも偏っていない。それでいて突き放した感じのない奇妙で温かな温度だった。
「分からない」
 かすれた声でルカはつぶやく。
「分からないんだ。自分は悲しいのか」
 心の奥底にはいつも茫漠とした感情が広がっている。
「イギリスの孤児院で一緒に育った人だった。私は本当に、本当に兄のように慕っていて、いつも心底頼りにしていた……だから信じて疑わなかったんだ。彼は私よりもずっと強い人なんだと」
「……」
「でも真実は違った。エクソシストとして適性の合った私と違い、普通の民間人としてイギリスに残った彼は、間もなく自分の精神を孤独の闇へと追いやった。私がいない間に彼に何が起こったのか、何を思って悪魔に隙を与えたのかは分からない。マンチェスターの教会で悪魔が人を襲っているという報告を受け、何も知らない私はその教会へと向かったんだ」
 克明に焼きついた悪夢。それは、何度も繰り返し見せつけられたシーンだ。
 蝋燭の明かりに蠢く不吉な影。魔硝機を片手に慎重に近づく。十字架に架けられたキリストの前に、二十歳ぐらいの男性が不気味なほどに背を丸めてうずくまっていた。
 ロウソクの炎に揺れる男の影を見て、ルカはかすかに眉をしかめる。
 背中には巨大な悪魔の翼――ククク、と男が笑った。可笑しくて堪らないというように激しく肩を震わせる。
『待って……いた……ルカ・プレチア』
 無理に喋らされてるような怯えた人間の声と、邪悪に満ちた悪魔の声が重なる。
 名前を呼ばれ驚くルカに、男はゆっくりと顔を上げた。
 男の胸の前で抱きすくめられていた両腕の中には、青白い修道女の首。
『寂しかったよ私。は。だか、らお前を失った運命を呪い。呪い。お前を取り上げた神を呪った。たんだ。ずうぅと待っていた、んだ。待って。待っっっていたぁぁあ! ルゥゥウゥカァァァ』
 カッと見開かれた両眼は真っ赤に染まっていた。頬までぱっくりと割れた口には鋭い牙が並ぶ。あり得ない跳躍で飛びかかってくる標的に、ルカは冷静に照準を合わせていた。
 これは悪魔だ。もう人間ではない。もう私の知っている男では――ない。
「変わり果てた彼を、私は撃った。躊躇いなど全くなかった」
 それは確かだった。
 ルカはその時の感情を確認するかのように、強い視線を落ちていく太陽へと向けた。
「悪魔にすべてを奪われたあの人を、あの人の弱さを……私は今でも許せない。この手で息の根を止めたことに後悔もない」
 それなのに、とルカはうつむく。
 金色の真っ直ぐな髪が、肩から音もなくこぼれ落ちる。
「あの瞬間、私の心には悪魔への憎悪だけがあった。その感情は誇りある正義の刃であり、恥じることは何もないと何度も自分に言い聞かせた。周りのエクソシストも枢機卿会も、私の行いを褒めてさえくれたんだ」
 そこでルカは言葉を切り、大きく息をついた。
 小野はどこまでも黙って聞いていてくれる。
 まるで海のようだ、とルカは思う。絶え間なく波を送り続けてくれる、蒼く果てしない大海原。
「だが、どうしても教会側の反応に納得できない。でもだからと言って、悲しいとかそういうことでもないんだ。ただあの事件に対して、未だに自分の気持ちが決められない。こんな感覚は初めてだ。何故だろう……日々、心に澱のような物が溜まっていく。私は、私は一体どうしたいんだろう? あの事件を思い出しても今は何も感じないんだ、悲しみも充実感も」
「何も感じない、というのは嘘だよ。きっと」
 小野が初めて口を開いた。咎めるような口調ではなく、誠実に真実を告げる声。
「俺には、傷の痛みにルカの心が飽和しているように見えるけどなぁ」
「飽和、か。確かに自分の中の何かが限界にきている。でもどうしたらいいんだ」
「泣けばいいんだと思うよ、俺は」
 簡潔な口調で小野が答える。ルカは怪訝な顔を向ける。
「泣くことは間違っているだろう。私は決して自己満足を望んでいるわけではない」
「そう?」
「悪魔討伐は正義の行為だ。死せる悪魔への哀惜は、神への背徳に当たる。それにあの瞬間、躊躇いなく彼を撃ち殺した私がそれに対して後から泣くことなど――とても卑怯なことだと思わないか? 偽善者に成り下がることは救いにはならない」
「そっか」
 あっさり意見を引っ込めて小野は肩をすくめる。
 そして「夕陽、沈んじゃったねぇ」と西の空を指差した。
 太陽は消えたが空はまだほんのりと赤く、紫から紺色へと続く夜空へのグラデーションを創り出している。
「でも俺はやっぱり、そんな難しいこと考えずに泣いてみればいいんだと思う。ただ失われた命の為、ただ二度と会えない人の為に。正義や憎しみの後ろで大きな翼を広げている何者かに対して――そうしたらきっと、すぐに理解できるよ」
「……」
 何が理解できると言うのだろう。欲しいのは迷いの答えだ。慰めではない。
 エクソシストである自分が、心の弱い人間のように涙に甘えることなど。
 出来ない。出来るわけがない、プライドにかけて。
 それなのに――。
「ルカ?」
 心配げにのぞきこむ小野の姿がふいに滲んだ。
「私は」
 慌てて顔を背ける。なぜだろう誰よりも自信のあった自制心が、この少年の前では効かない。
「私は泣くつもりなどない。小野に、泣かされたんだ……」
 それが最後の強がりだった。
「そっか、ごめんね。泣かしちゃった。でもついでにさ、思いっきり泣いておいたらいいよ。何と言ってもここは京都、どんな想いも静かに受け止めてくれる」
 そっと背中を貸してくれる小野の優しさに感謝しながら、ルカはその背中に小さな頭をくっつける。
 諦めたような気持ちでこわばった肩の力を抜いてみる。心に安堵感が満ちてきて、瞳を閉じると一筋の涙が頬を伝った。その後は堰を切ったように熱い想いが溢れ出す。
 ルカは長い時間をかけて涙を送り続けた。傷ついた過去に向かって。
 ただ哀れに失われた命の為に。
 二度と会うことの出来ない人の為に。
 親が恋しいと泣いた自分を抱きしめてくれた、あの人のやわらかくて優しい掌。
 ルカの心は深く震えていた。今まで経験したことがないほどに。
 人の悲しみの深さ――ピエタ像で聞いた、ヴァン司教の言葉がよみがえる。
 サンピエトロ大聖堂の聖母マリアは、決して胸に抱くキリストの死に対してだけ哀しんだのではなかったのだ。
 それ以上に、愛したキリストを死に至らしめた悪に対して――心から悲しんだ。恨むのではなく、憎むのではなく。正義をかざすよりもただ、絶対的に憐れみ悲しんでいたのではないだろうか。
 小野の言葉通り、ルカは今、全身で理解していた。
 悪とは何と、悲しいものなのだろうかと。