鬼寇の天蓋 3
作:草渡てぃあら





  3

「そっち行ったぞ、皓矢!」
「あいよ、任せろっ」
 絶妙の掛け合いで、手際良く魔物を追いつめる。
「ギィィィィ」
 不愉快な音をさせて黒い牙を剥き出しにした魔物は奇妙な風体をしていた。
 見た目は左足を失ったクマのぬいぐるみだ。しかし薄汚れたぼさぼさの腹部からは、十センチ程度の女性の白く長い腕だけが伸びている。醜く剥げた真っ赤なマニキュア――。
「複合悪霊なんぞ、趣味が悪過ぎだっ」
 皓矢が遠慮なく剣先を魔物につき付ける。バチリと鈍い音がして、魔物は動きを止めた。虚空をみつめるクマの大きな黒い目が血を吸い込んだような色になる。
 とある少女に愛され、その『想い』の強さから霊体を得たぬいぐるみ。もちろん、それ自体は悪さをしない。それどころか一度でも物に宿って生まれた霊体は、その命を与えてくれた人間を切ないほど憎みはしないのだ。後に少女が大人になり、飽きてそのぬいぐるみを棄ててしまったとしても。
 問題はそのあとだった。
 供養されることもなく引越しゴミとして捨てられたぬいぐるみは、何も知らずに待っていた。再び抱きしめてくれる暖かい手を。少女の幸せな笑い声を。
 しかし雨に濡れそぼったぬいぐるみを拾ったのは、愛する男に何もかも奪われ棄てられた女だった。
 女はクマに向かって毎日ささやき続けた。
 お前は捨てられたんだよ。もう愛されることはない。それは自分の分身への呪詛。
 クマの霊体は女の吐き出す数多の『怨恨』を取り込んだ。
 やがて部屋で首を吊って死んだ女の霊自体がクマのぬいぐるみに入り込んだ。
 それが魔物の誕生であり、間もなく人間を襲い始めることになる。
『うちの子の小学校で噂になっているの。近くに自殺者出したっていうマンション、あったでしょう? あの道を夜に通ると黒い小さな影が横切って、顔に爪で引っ掻いたような痕が残るんだって。そりゃ今は対した被害じゃないわよ? でも何だか気持ち悪くて。うちの子、塾で夜にその道通るものだから、余計にねぇ』
 近くの住宅地で立ち話をしていた主婦達の話が気になって、皓矢と小野はそのマンションに来てみたのだ。
 皓矢よりも感覚の鋭い小野には、魔物を一目見てヌイグルミに『何が起こったのか』が伝わった。クマの視線に合わせるように小野は静かに座り込む。
「大人しくその『怨念』を手放せ。このまま消滅したいのか」
「甘いぞ、小野。俺なら今すぐこいつの首をぶった切る」
 クマは困ったように、二人の顔を見比べる。そして自分の腹部にある女の手を護るかのような仕草をする。大事だった。
 人間界に存在するだけで精一杯だった自分に、まるで人間のように行動できるエネルギーを与えているのは『女の怨念』なのだ。
「騙されるな。こんなことをしてもあの子には会えない」
「? 何の話だよ、小野」
 戦闘能力は抜群だが、魔物を正確に捉える感覚がいまいちな皓矢は、不思議そうな顔で小野と魔物を見下ろす。
「独りが寂しいなら、俺が人形寺に連れて行ってあげるよ。大丈夫、同じ仲間がたくさんいるから。ゆっくりと浄化されたらいい」
 クマを包む気が変わった。泣き出す直前のような幼い魂が揺れる。刹那。
『邪魔するな』
 ぞっとするような女の声が遮った。
『浄化だと? くくく愚かな。知らぬのか? 間もなく新しい神が降臨する。貴様らは悪霊に食われ、我らの魔物と鬼の世界が来るのだ』
「誰がそんなことを……」
『まつろわざる神。貴様らが必死に探している『怨』のことよ』
「新しい神とは一体?」
『貴様ら人が――』
 ふいにぬいぐるみから黒い塊が飛び出した。
『知る必要はないわっ』
 覆い尽くすように小野に襲いかかる。しかしそれより早く、小野の手のひらから凄烈な光弾が放たれた。
 光の道筋の部分だけ、暗黒が蒸発するように消え去る。残った闇は、逃れるように再びヌイグルミの腹部に渦を巻いて吸い込まれていった。しかし。
 間髪入れず、ザンと空気を唸らせて皓矢の日本刀がクマの首を落とす。
 それで、魔物の存在は完全に消滅した。
 ころりと転がったクマのぬいぐるみはただの物となり、その時になって小野はそのクマがとても可愛らしい顔つきをしていたのだと知った。
「……殺ってよかったよな?」
 小野のスタンスを知っている皓矢が、少しだけ心配そうな顔をしている。
「うん。こっちこそサンキューな」
 皓矢の気遣いを嬉しく思いながら、小野は立ち上がる。
 そんな小野の肩を、皓矢はバシッと叩いた。
「おし、ちょっと休憩! 偶然にもいい感じのカフェ発見っ」
 指差した方向には、確かに洒落たカフェがある。
「休憩ってお前なぁ、さっき昼飯食ったばかりだろ?」
 真面目にやれ、という小野の背中を「いいからいいから」と強引に押して、皓矢はカフェへと向かった。
 慈雨がいなくなって、早くも二十日が経とうとしている。祇園祭も無事終わり、暦は七月から八月へと移った。小野達、高校生は俗に言う夏休み真っ最中である。本来は楽しいはずの夏休みなのだが――。
「あーあ」
 アイスカプチーノのストローを咥えながら、皓矢が情けない声をだす。
「夏休みですぜ? こんなことでいいんですかい、旦那」
「なんだよ、急に」
 だれが旦那だ、という突っ込みはあえて流して、小野は胡散臭そうに皓矢に視線を投げる。
「俺達のセーシュンは一度しかないってのに、海辺では可憐なビキニ達が花咲かせてるというのに――」
 そこで皓矢は一呼吸置いて、力強く続ける。
「なーにが悲しくて野郎二人、サ店でだべってなきゃならないんだ?」
「お前が入りたいって言い出したんだろ?」
「だって暑いじゃんよ! でもって、暑いだけで楽しくないじゃんかよ夏なのに、夏なのにっ」
 皓矢の言いたいことは分かる――いや、それどころか共感したい部分も多いのだが。
 小野はため息とともに答える。
「仕方ないよ。慈雨ちゃんが消えてから二十日も経つのに、俺達は全然ことの真相に近づけないんだから」
 そうなのだ。あれから、『怨』は不気味なほど静寂を保っていた。まるで、見つけ出してみろとでも言わんばかりに――おかげで小野達は連日、休日返上で慈雨の捜索にあたる羽目となっている。
「だからさ、そういうお膳立てぜーんぶ下っ端のさ、ハルんとこの陰陽師集団と延暦寺の坊主達にまかせといてさぁー。俺らは鬼追専門の業務だけをやればいいんじゃないの」
 ダルそうにガラステーブルに突っ伏したまま、皓矢は言う。
「鬼追の専門業務?」
 そ、といって皓矢は西陣織の高価な鞘袋に包まれた日本刀を手にする。
「悪を見つけて、切る――それだけだろ、俺たちの仕事は」
「ハルと雪善はそういうわけにもいかないだろ?」
 ハルは陰陽師の若き統率者として、『怨』についての調査と場所の特定を指揮している。その発生原因やゆかりの場所によっては『怨』だけを成仏させることも可能だからだ。
 雪善はというと、和尚や魔道衆とともに各地に点在する京都の結界の強化に勤めている。京都で生まれた『魔物』が、他府県に出るということは前例なき未知数の恐怖だ。それだけは絶対に避けなければならなかった。
 そして、そんな表立った二つの大きな動き以外をフォローするのが小野と皓矢である。それは、慈雨の捜索に他ならなかった。
 とはいえ『怨』とともにいることが可能性としては高いので、結局はハルの手伝いとなる。ハルが術を使った捜査で晴明神社から離れられない分、実際に足を使って動けるのはこの二人だけなのだ。
 今日も朝から京都の南、羅城門から伏見稲荷まで妖しいところはすべて当ってみだが大した収穫はなく、仕方なく京都駅まで北上してきた。
「しっかし怨のヤロウ、隠れるほどの劣勢じゃないはずなのに……俺達の夏休みを台無しにしようと嫌がらせしているとしか思えねぇぜ」
 小野も黙って同意する。
 一向に新展開しない状況に、小野だって愚痴りたい気持ちがないわけではないのだ。
 だが慈雨の安否を思うと居ても立ってもいられないというのもまた、本心である。小野の中には、もう一つの焦りがあった。
(ハル達が『怨』を見つけ出す前に、俺が早く慈雨ちゃんが結界から出た理由を見つけないと……)
 その理由がわかれば慈雨がこの世に残したい気持ち、強いては目覚めさせるきっかけになるかもしれない。
 雪善もあきらめ、尊鬼王も不可能だといわれた慈雨の救出を、まだ小野は真剣に考えていた。このまま『怨』と対決しても、比叡山のときと同じ事の繰り返しだ。
 それどころか、ハルが食い止めようとした悲劇は今度こそ起きてしまうだろう。
(せめて慈雨ちゃんの意識が戻れば……)
 慈雨の意識を取り戻すためにも、結界を出た理由を知りたかった。
「慈雨ちゃん、辛い目に合ってなきゃいいけど」
 小野の言葉に「慈雨ちゃんなぁ」と皓矢は背もたれに体重をかけて、天井を見上げる。
「小野、慈雨ちゃんが自分から出たって言ってたよな」
「うーん、まだはっきりとは言い切れないけど」
「いや、絶対そうだって。3ヶ月も一人で閉じ込められて平気なわけねぇじゃん」
「お前と一緒にすんな。慈雨ちゃんは我慢強い子だ」
「わかってねぇな、お前らは」
 そう言って、皓矢は小野に強い視線を投げる。皓矢は時々こんな風に、みんなから距離を置いて物を言うことがあった。
「そういう人間離れしたストイックさが落とし穴なんだぜ? 人間の行動なんて理性で片付くことばかりじゃないさ、追い詰められたらなおさらな」
 皓矢の言葉を聞きながら、小野は案外そうかも知れないと納得する。
 子供の頃からつらい思いをしてきたのは皓矢も同じだ。清和源氏の血筋を引く武将源頼光の子孫である皓矢は、本来ならば「源」という苗字でなければならない。だが、何千年の続く家系なかで鬼追として力を受け継ぐには、源家はあまりにも有名すぎた。呪をかけられたり、命を狙われることも少なくなかったのだ。
 その防衛策として力のある子供は離縁され、血のつながらない家に養子縁組という形で入る。それは血筋を守り鬼追の力を絶やさぬようと考えられた、苦肉の策なのであった。
 ハルも同じ理由で安部晴明を祖とする土御門家から出されている。
 もともと小野家は鬼の加護があり、その必要はない。また、雪善達降魔大師≠ヘ血を選ばぬ存在なので関係なかった。だがハルは兎柳に、皓矢は高杉へと、それぞれ名を変えて親から離れて生きていくことを強制されたのだ。
 ハルは同じ京都に肉親がおり、離縁とは形だけでよく会っていると聞く。受け入れた兎柳家もたいした資産家で、大切なご子息をお預かりするのだからとそれはもうVIP待遇である。
 だが、皓矢は違った。皓矢の本当の家族は東京にいる。京都の古い習慣を毛嫌いする親は、皓矢一人をまるで厄介者を切り捨てるかのように、京都の里親に預けたのだと言う。もちろん今も会いに来たりはしない。高杉家とは仲良くやっているみたいだが、高校に入ってすぐに皓矢は一人暮らしを願い出た。
 どうしてそうなったのかは小野も知らなかったが、皓矢が幼い頃から随分辛い思いをしたであろうことは分かる。
「きっと寂しかったんだろうな」
 誰が、ということなく小野はつぶやいた。
「決まってんだろ? そんな慈雨ちゃんの気持ちも分からないで、なにが結界だよ」
 まさか自分のことを考えているとは露知らず、皓矢は勢い良く言いきった。そして、少し肩の力を抜くと、
「なんで分かってやれなかったんだよ……」
 と繰り返して、悔しそうに窓ガラス越しの街に目をやる。皓矢なりに、慈雨を救えなかったことに苛立ちを感じているのだ。
 だが、湿っぽいのが嫌いな皓矢はすぐに空気を切り替える。
「ま、さすがの俺様もあの慈雨ちゃんが寂しい≠チてだけで結界を出たとは思えないけどさー」
「大きな要因のひとつってところだな」
「そーいうこと! だから悪いのはあの和尚というわけよ? あのヤロウ、助けてやった俺達にエラそうに説教たれやがって! 一度、鬼に食われろってんだ」
「……お前、結局それが言いたかったんだな」
 比叡山での一件を、まだ恨んでいるのだ。とばっちりを食らったのは小野の方なのだが――。
「こんなとこで何やってんの?」
 そんな二人の会話に、突然入ってきた声があった。
「エリカさん!」
 皓矢が嬉しそうな声を上げる。見上げると、女子大生風のかなりの美人が立っている。
「コウが女連れじゃないなんて、珍しいわね」
 ずいぶんストレートな挨拶である。その言葉に、皓矢はガーンと大袈裟にのけぞった。
「なーんてひどいことを! それはエリカさんが相手してくれないからだろー?」
「下手な嘘」
 ねぇ、と肩をすくめてエリカは小野に同意を求める。
「ですね」
 小野も正直に答える。
「フォローしろよ、小野! 友達だろ?」
「お前のフォローはしないことに決めたんだよ。延暦寺の修行の成果だ」
「君、賢明な判断ね。コンパでこいつの同類って思われたら最後よ」
 情け容赦のない二人に、皓矢は一人固まった。ひどい、とテーブルに泣き崩れる。
「まったく、子供なんだから」
 呆れてエリカが言った。
「……その少年っぽさにキュンとなったりしない?」
 テーブルに顔を埋めたまま、皓矢のくぐもった声が聞こえる。
「しない」
 即答である。「じゃあ私、買い物の途中だから」と席を離れようするエリカに、
「ああ、待って! これ」
 と、皓矢はテーブルに往けてあった花を紙ナプキンに包むと、即席のミニ花束を作る。そして、営業スマイルよろしくニッコリと微笑んで、エリカに渡した。
「?」
「誕生日だろ? 来週の水曜日」
「……あんたよく覚えてるわねー」
「あったりまえじゃん! 俺はエリカさんのことを」
「誕生日か……!」
 突然、小野が大きな声を出した。
「な、なんだよ急に」
 皓矢が気持ち悪そうに小野を見る。
「あ、ごめん。俺ちょっとハルんとこに行ってくる。皓矢、携帯つながるようにしとけよ!」
 小野はそう言って席を立った。
 そしてお愛想程度にエリカに微笑むと、
「テキトーに相手してやっててくださいね」
 と言い残して店を出る。同時に、ハルに連絡を取ろうと携帯の手を伸ばす――その手がふと止まった。
(そっか……今は晴明神社で術を使っているんだった)
 ハルは他の陰陽師達と一条橋のたもとにある晴明神社に篭もり、『怨』の行方を追っている。その術は磁場を使うため、携帯は使用できないのだ。
「直接行くしかないか」
 小野は一人そうつぶやくと、うだるような夏の日差しを見上げた。


 千年、待った。
 たった一人で――。
 別に約束があったわけではない。限りある命を持つ人間のあの人と、鬼の自分が再び会えることなど、奇跡でしかないということは十分わかっていた。
 にもかかわらず、紅牙は待った。
 千回繰り返された八坂の桜。陽炎の祇園や鞍馬の紅葉、比叡の雪――流れゆく季節の中、気がつけばいつもあの人の面影を探していた。
 その間に京都では、都を焼き尽くす大きな火の戦があって、それから大小の数え切れないほどの争いがあった。建物も風景も、人の姿も変わった。
 本来住むべき魔界を拒んだ彼女は、人間界において死ぬことはおろか歳を取る事もできない。角を捨て鬼力を失い、童女の姿のまま千年の孤独を抱いて人の世をさ迷った。
 最初の百年は小野家の血筋に子供が授かるたび、明るい気持ちで見に行った。けれどどれほど待っても、彼女の存在に気付く御子は生まれなかった。
 当初の軽い失望が、やがてなだらかな曲線を描いてゆっくりと絶望に変わる頃、すでに八百年に月日が流れていた。
 もう逢えない――あの人との約束は決して叶わない。
 そう悟った夜、彼女は初めて悲しみに心を明け渡した。一度許した悲しみと孤独は、容赦なく彼女に襲いかかった。
 暗黒の泥沼を生きるような苦しみが二百年続き、やがて何も感じなくなった頃、彼女の生きる世界である京の都は、千二百年を迎えていた。
 京都でもっとも車通りが多い烏丸御池の交差点に佇みながら、彼女は車の流れをぼんやりと見ていた。人々も車も無関心に過ぎていく。誰も彼女の姿を鬼だと捉えることはない。
 それは、鬼と人間との大きな違いのひとつだ。
 物質世界の支配が大きい人間は、誰とも関わらなくても肉体的死を迎えるまで存在が消えることはない。
 しかし鬼は他の霊体と同じように精神世界の影響を強く受ける。
 つまり『人間に思い出してもらう』ことがなくなれば、人間界では物質的に消えて見えなくなってしまうのだ。
「私の姿など、人間界では無用の産物か」
 流れが止まった。凶暴で熱のない自動車達が一斉に大人しくなる。その指示を出したであろう頭上の大きな信号機の光色を見上げて、彼女は小さくつぶやいた。
「山の緑葉、菜の花咲く色、血の紅……」
 その時だった。
 彼女はふいに肩をつかまれた。
 あまりの驚きに息が出来ない。有り得ない。
 あれから千年、彼女に触れることが出来る存在など有り得ない。
「ひょっとして……紅牙(くれが)って、君のこと?」
 硬直した感情のまま、彼女はゆっくりと振り返る。
 そこには幼い面影を残した少年が立っていた。あの人に似てない。
 烈火のごとき激しさは影をひそめ、射竦めるような眼差しも消えていた。代わりに、そっと見守るような、とても優しい目を持っている――でも。それでも。
(間違いない……あの人だ)
 そう感じた途端、真っ白な意識の空白が赤い憤りで染め尽くされた。
 何故この世を捨てたのですか、と掴みかかろうと思った。
 私がどれだけ待ったかと、怒鳴ろうとした。
 だが。どれほどの怒りもすべて紅牙の喉元でむなしく消え去った。
 どうすることも出来ないまま、紅牙の瞳からはただ――。
 一筋の、涙がこぼれ落ちた。
(……あれから三年か)
 八瀬川の穏やかな流れを見下ろしながら、紅牙はひとり懐かしそうに目を細めた。
 出会った頃の小野は、まだ中学生だった。幼さの残る眼差しも今ではすっかり消え、頼りなげだった背中も驚くほど逞しくなった。
(人は瞬く間に変わってゆくのだな)
 紅牙が住んでいる八瀬の里は、現在も京都に実在する小さな集落である。
 国立大学に程近い、出町柳の駅から電車で十五分――そこから八瀬川に沿ってさらに北へと山林を行く。
 都会の喧騒は嘘のように消え、変わりに時が止まったかのような静けさがあたりを支配すようになると、そこはもう八瀬の里だ。
 八瀬は「矢背」とも書く。平安時代において延暦寺に仕える「寄人」の住む村であり、村人は天皇を始め位の高い貴族の【輿】を担ぐことを生業としていた。
 彼らの最も重要な勤めは護衛である。もちろん人間相手の護衛なら、別にいる。
 平安時代、一番恐ろしいのは人ではなく物の怪や鬼であった。
 それら魔の手から高貴な人を護る為、八瀬の村人は鬼の力に頼った。
 だからこそ、この里は鬼の存在が身近である。村人の中には今でも自らを『鬼の子孫』だと信じている者もいる。
「紅牙」
 ふいに名を呼ばれ、振り返るといつぞやの金髪少女が立っていた。
「ルカ……だったかの」
 顔をしかめて出迎える。なにせ出会いが最悪だった二人だ。
 しかし、そんな複雑な関係を一掃するだけのニュースが、ルカにはあった。
「ハルからの伝言だ。怨の居所がわかった」
「! まことか」
「ああ。怨が生まれた原因も、大体は掴めたらしい」
「さすが陰陽師だな」
 紅牙は感心したようにつぶやき、先を急ぐように言葉を続けた。
「して何用じゃ? 我らも怨≠フいる場所へ向かうのか」
 いや、とルカは短く答える。
「現場へは鬼追だけで臨むらしい。ハル以外の陰陽師も魔道衆も行かない」
「どういうことだ?」
「ハルの判断だ。真の敵が掴みきれていないらしい」
 危険だから鬼追だけが行くということか。紅牙は悔しそうに唇を噛む。
 小野達の力になってやれない。大事なときに何の役にも立たないのだ。
「そんな顔をするな、なにも鬼追だけが負担を負っているのではない。役割が違うだけ。現に今でも陰陽師達は、怨の影響を受けないように京都の人間に気を配っているし、魔道衆も各所の結界の強化に全力を注いでいる。だから鬼追達が決戦に集中できるのだろう?」
「しかし私には何の力も……」
「小野からの伝言だ。『尊鬼王が鞍馬へ一時的に降臨される。お迎えよろしく』と」
「何?」
「ちなみにこれは、小野以外では紅牙にしか頼めない仕事らしい。本当か?」
「……当然だろう」
 ルカと――それから小野の作戦にはまって機嫌を直すのは不本意だという顔をして、紅牙は愛想なく答える。
 それにしても。 
 尊鬼王が人間界に姿を現すなどこの千年の間、一度もなかったことだ。一体、何が起こっているというのか。
「何でも、小野が尊鬼王に何か依頼したようだ。その用意が出来たからと言っていたが……」
「尊鬼王に依頼っ! なんと畏れ多いことをしでかしたのだ、小野は!」
 怒り狂う紅牙を、ルカは「まぁまぁ」となだめる。確かにどこか飄々としている小野らしい行いではあるが。
「とにかく鞍馬に急ごう。それとも、出迎えは止めておくか」
「そんなことが出来るか、馬鹿者!」
 そう言って紅牙は、猛然と先頭を歩き出す。
 言い忘れたけど、とルカは苦笑いで幼い背中に呼びかける。
「八瀬から鞍馬までの護衛は、微力ながらこの私がつく。鞍馬には別件で用事があるんだ」
「別件だと?」
「向いながら話そう。ハルの予想が当たっていれば、あまり時間がない」
 それは昨日、深夜のことだ。
 疲れた顔をして、ハルがルカの部屋を訪れた。
「何だって? 怨の居場所の手がかりが見つかった?」
「ああ。あとは明日、詳しい場所と状況を掴み次第、小野達に連絡する予定だ」
「良かった、本当に」
「そうなんだけど……それ以上に重要なのは、慈雨ちゃんを器にして降臨させようとしている『新しい神』の存在なんだ。京都の悪霊達が噂しているにも関わらず、皆目見当がつかない」
 悔しそうに眉を寄せる。
「あまり無理するな、ハル」
「ああ、ごめんね。僕は大丈夫。それより」
 ハルは身を正してルカに向き合った。
「ルカに大事な頼みがあるんだ。慈雨ちゃんを連れ去った怨≠ェ言っていた新しい神という存在について、僕らはあらゆる可能性を探さなければならない」
「そうだな」
「日本の神々については大体調べ終えたんだけど、絶対唯一神のルカの世界にも霊力の強い存在はたくさん登場するよね?」
「そうだな、紀元前なら大天使や異端の神。後なら聖人などが威霊という点で当てはまるか……でも、なぜ?」
 不思議そうな顔で見上げるルカに、ハルは「まだ確定できるほどの情報ではないけれど」と一枚の紙を差し出した。
「これは?」
 正三角形を重ね合わせた五芳星。
「最初に『怨』の正体を占ったときに現れた形だ。占いと言っても、大まかな方向性を定める儀式に近い。そしてこの五芳星は陰陽師のシンボルでもあるから、他の陰陽師は「京都内で人間から生まれた怨念」という解釈をした。つまり普段から陰陽師達が浄化している『怨念』が今回の事件の首謀者であり、それは陰陽師が退治すべき存在、そう占いは示しているとね。でも……」
 何か違和感がある、とハルは言いよどむ。
「まだ誰にも話していない、もうひとつの可能性をルカに調べて欲しいんだ。あまりに突拍子もない話で驚くかもしれないけど」
 黙ったまま、ルカは軽く頷いてハルの話を受け入れる意思を示した。ハルは意を決したように一息つくと、真摯な眼差しを向けて話し始める。
「京都の北に鞍馬寺という寺がある。そこに奉られている魔王尊は、ルカの信仰する神が地上に追放したという反逆の大天使ルシファーの物語と奇妙に一致するんだ。これについては聞いたことある?」
「詳しくは知らないが、確か金星とともに降臨という共通点があるとか。しかしあの話は」
「うん。陰陽師の間でもただの寓話で確定している」
 ハルはあっさりと認める。
「鞍馬寺に鎮座する魔王尊は確かに日本古来の神ではないけれども、ルシファーと同一では決してない。大体、堕天使ルシファーの存在は世界的に有名だし、その独特の霊力は、鞍馬寺にいて、我ら陰陽師から隠し通せるわけがないんだ」
「……」
 けれど、とハルはそこで声をワントーン下げた。
「京都はあらゆる神々を受け入れる土地だ。いかなる可能性もあり得る」
「つまり、私にもう一度、その可能性を洗い直せと?」
「ルカに調べて欲しいのは、追放され地獄で鎖に繋がれたあとのルシファー。つまり地獄の王サタンになってからのことなんだ」
「まさか怨≠ェ降臨させようとしているのがサタンだと?」
 そんな馬鹿な、とルカはつぶやく。
「確かに馬鹿な予想だよ。言うまでもないけど可能性は非常に低い。でも、もし……もしサタンほどの威霊が降臨し怨≠ェそれを利用出来たとしたら? もし京都でその力が暴走したら――そうなればもう誰も止められない。結界は消滅しすべての魔物が京都外に散るだろう。間違いなく世界は、終わりだ」
 そう告げたハルの蒼ざめた横顔と憂える唇は、今でもルカの脳裏に焼きついている。
「……それで鞍馬に行くのか? 鞍馬寺のルシファー降臨説は、千年も前から何百回に渡って陰陽師達が調査し、結果ただの噂だと決断を下したのだぞ。いまさら手がかりがあるとも思えぬが」
 紅牙が怪訝な顔をする。
「そうだな。でも、ハル達も不安の中で精一杯頑張っているんだ。私に出来ることがあれば何でもするさ。それにハルが言った【サタンのその後】という切り口が妙に気になって、すぐに枢機卿会に連絡してみたんだ」
「それで、何か手がかりが?」
 ああ、とルカは慎重に言葉を選ぶ。
「最高天使ルシファーの天界追放は、数百万年という気の遠くなるほど遥か昔のことだ。聖書を中心にあらゆる情報を保管しているヴァチカノでも、それについての記述は曖昧で、数多の伝承が錯綜している。ただ」
「ただ?」
「様々な解釈の中で、ひとつ興味深い話があったんだ。地獄に鎖で繋がれていたルシファーは、醜悪なサタン王になった。しかし後に、神より新たな役目を与えられたというんだ。それは人間を誘惑し闇へと惑わせてる役目。つまり悪魔とは神と敵対する存在ではなく、人間が神の領域へと己を高めるために必要な障害だという解釈だ。その真偽については確認のしようがない。しかし――この話を真実だと仮定すると、ひとつの事実が浮かんでくる」
 ルカはそこで言葉を切り、ひとつ深い深呼吸をした。
「サタンは今、人間の傍に」
「!」
「陰陽師達がその存在に気づくことが出来ないのは、何か強力な結界がサタンの気配を消しているからなんじゃないか」
「強力な結界……?」
「例えば、そう。サタンが人間の肉体に宿ることが出来れば?」
「人間がサタンに憑かれて暴走すれば、今度は小野や魔道衆が見過ごすはずがなかろう」
「人間に宿ることがサタンの意思だけならば暴走もするだろう。だが、人間の行いを見守るという神との契約として、人間と同一化していれば、それは陰陽師達を欺く格好の隠れ場所になるはずだ」
「なるほどな。だが、サタンほどの神格を宿せる人間などそうそうはいないだろう」
「だからこそ、だ」 
 ルカは強い視線で言い切る。
 現在の鞍馬寺にサタンはいない。きっとそれは確かだ。
 しかし数百万年前、鎖で繋がれたルシファーがサタンになったのはやはり鞍馬ではなかったのだろうか。そして後に神との契約により鎖を外され、人間界へと放たれた。人間がより高みの光を得る精神鍛錬への障壁となるために――。
 今、ルカが鞍馬寺で探そうとしているのは【鎖】だ。もちろん常人の目には見えない霊的なものだが、だからこそ時の流れに朽ちることはない。
「この途方もない仮説を立証できる唯一の証拠である【鎖】さえ見つかれば、あとは神格を宿す可能性のある人間を探し出せばいい。紅牙の言った通り、その数は多くないはずだ」
「しかし……それで本当に真実にたどり着けるのか? 京都を救えるのか?」
 不安な顔で紅牙が見上げる。言いたいことは分かる。
「なにしろ時間がない。間に合ったところですべては無駄かもしれない」
 それでも、と躍動する心拍を感じながらルカは言う。心が、再び熱を帯びて動き出そうとしている。京都へ来るまではずっと冷たく沈んでいた心が――。
「それが、今の私に出来ることだ」
 そう言って笑ってみせる。
「……」
 初めて会ったときよりも、頼もしい顔になっていると紅牙は感じていた。
 下を向いて小さな声でつぶやく。
「未熟者の唯一の利点は、成長できるということか」
「ん? 何か言ったか?」
 首をかしげて問い返すルカに、紅牙は「何でもない」と空を見た。


 堀川通りを北上して、二条城を越えたら晴明神社までもうすぐだ。だが小野の予想に反して、そのずっと手前の丸太町の交差点から、走ってきたハルと合流した。
「小野の気≠ェ近くにあったから、携帯鳴らすより早いかなって思って」
 息を切らせながら、ハルが言った。
「なんか動きがあったのか?」
「そうなんだ。慈雨ちゃんと怨≠フ居所がわかった」
 ハルの言葉に、小野は顔を上げた。
「どこに?」
「神社に車をつけてあるから、中で話すよ。とにかく現場に!」
 やたら高級そうな黒ベンツに乗り込んで――もちろん兎柳家の所有物だ――小野は皓矢に連絡を入れ、京都駅で拾うことを伝えた。隣ではハルが雪善の携帯を鳴らしている。
「うん、和尚達は近付かない方がいい。こっちも一足先に向かった陰陽師達に、結界を張ったらすぐに戻るように指示してあるんだ。怨≠フいる社の状態がどうなっているのか詳しく掴めない――鬼追以外には危険すぎるよ」
 ハルはそう言うと、詳しい場所を伝えている。どうやら雪善は、バイクで直接向かうようだった。ハルの口調がいつもより固いのは、緊張のせいと――あとは雪善との確執だろう。恐らく、雪善はまだハルに慈雨の安否を尋ねてはいないのだ。
 小野は、ハルに電話を代わるように合図する。
「雪善、慈雨ちゃんの意識を戻せるかもしれない」
 いきなりそう切り出した。受話器の向こう、雪善が息を飲むのが分かる。
「詳しいことは合流してからな。とりあえずお前に知らせたくてさ」
「――分かった。俺は直接バイクで向かうから現場で会おう」
 小野、と携帯越しに雪善の声がする。少しの沈黙があって。
「……感謝している」
 どういたしまして、とだけ小野は答えた。
「慈雨ちゃん、助けられそうなの?」
 電話を切るとすぐ、ハルが聞いてくる。その問いに小野は少し顔をしかめた。
「尊鬼王には、かなり厳しいこと言われたんだけど」
「そっか……そうだよね」
 ハルの顔が曇る。怨≠ニ関わった人間の行く末は、ハルも十分理解しているはずだ。
「正気を取り戻せる可能性はある。慈雨ちゃんが一番望んでいたことを思い出せばいいんだ。そして、それこそが慈雨ちゃんが結界を出た理由なんだと思う」
「理由が――分かったの?」
 ハルが大きな瞳をついと上げた。小野は少しためらう。
「あの日は雪善の誕生日だったんだ。慈雨ちゃん、きっとそれで……」
「そうだったんだ……」
 車のシートに身を沈めながら、ハルは泣きそうな顔をしている。
「ハルの方は? 怨≠フ正体が分かったのか?」
 うん、と頷いてハルは顔を上げた。
「怨≠ヘもともと兵庫県との境にある村に祭られていた土地神だったんだ。ところが、今から二十年も前にダムの建設で村は沈み、そこにあった社は京都に移された」
「待てよ、何で土地神が京都に?」
 そこで小野が口を挟んだ。土地神とは、その名の通りその土地に住む守り神である。何のゆかりもない京都に社を移すなんて、筋違いもいいところだ。
「きっと社の処分に困った建設業者の人間が、表面上だけでも取り繕くろうとしたんだろう。神抜きの儀式もせずに、勝手に新しい社を作ってご神体を置いた。それも、よりによって京都に」
「馬鹿な、そんなことしたら」
「そう。違う土地の神様を崇める人々がいるはずもなく……その社は間もなく廃れた。神の力の源は人々の信仰心だ。普通、それを失えばただ消えていくしかない。そのことを恨んだ土地神はやがて、その身を怨≠ワで貶め、消えていくことを拒否した――皮肉にも京都が持つ霊力が作用したんだ。そして怨≠ヘ行動を起こした。すべてはこの世への復讐の為に」
 なんてことだ。小野は目を閉じる。建設業者の人間の行った何気ない行動――親切心ですらあったのかもしれない――がこの悲劇を招いた。結果的に怨≠ヘ生まれ、慈雨はその幼い命を奪われようとしている。
 やり場のない思いを静めながら、小野は努めて思考を整えた。そうだ。問題はまだ何も解決していないのだ。
「だが怨≠ノ成り果てたとはいえ、土地神だけでは復讐するほどの力はないだろ? 何かきっかけがあったはず」
「それが奴の言っていた『復活』だよ」
「新しい神、か」
「今の人間界に不満を持っている悪霊や悪鬼達に世界を一変させる『新しい神』の降臨を説いてまわり、怨≠ヘその信仰で霊力を持てるようになった」
「人間の信仰じゃなくでも、霊力は得られるってこと?」
「彼ら悪霊悪鬼の力は、すべて元は人間の怨念だよ」
「そっか。信仰の資質は同じってことか」
 納得している小野に、ハルは「まぁ稀なケースだとは思うけど」と補足する。
「で、その『新しい神』って本当にいるのか?」
「普通に考えて、限りなく眉唾な話だと思う。たかが信仰を失って消えていく怨£度に降臨させられる『神』などいるはずがないんだ」
「でも嘘だと切り捨てるには、あまりにも多くの魔物が降臨を信じている。それも人間世界を滅ぼせるほどの霊力をもった最高レベルの神の存在を」
「そうなんだ。どうやら僕らの常識的見解が及ばない所で、物事は進んでいる。そう考えを改めなければ、新たな事実は見えてこないんだと思う」
「……」
 ハルはしばらく沈思する。そして、
「今、ルカに鞍馬に調べに行ってもらっている」
 とだけ言った。
「鞍馬? まさかハル、鞍馬寺の魔王尊がサタンだって信じているわけじゃないんだろ? そんな可能性があるわけ……」
「まず、ないだろうね。しかし僕ら陰陽師達がこれだけ調べても『新しい神』の存在が見えてこない。だから『新しい神』は日本の神ではないし、現在京都にいる異国の神々でもない。それは確かなんだ」
「だからってハルほどの陰陽師が、そんな迷信を」
 小野の言葉に、ハルは苦笑いで答える。
「ひとつの可能性さ。でも」
「?」
「僕らの危機にルカが京都へ来ていたことは、偶然じゃないのかもしれない。何か尊大な流れを感じるんだ。ううん、ただ僕も信じたくなったのかもしれないな。ルカの信仰する神の意思を」
「……そうだな」
 ハルの言葉に小野は深く息をついて、やたら座り心地の良い後部座席に身を沈める。
「鬼追をやっていると、何か名前のつけられない、存在すら確認出来ない――でも確かに人間を見守っている『何か』を感じることが確かにある」
「小野も?」
「もちろん。だからこそ、先のことはあんまり心配しないで出来るとこまで頑張ろうって気持ちになれる。今回のことだって、俺達の双肩に世界の存続がすべてかかっているなんて考え出すと、不安でもう逃げ出したくなっちゃうもんね、俺」
「僕ら陰陽師が、もっとちゃんと情報を収集できれば良かったんだけど」
 とハルは申し訳なさそうにため息をついた。その様子に小野は「何言ってんだよ」と元気付けるように肩をたたく。
「上等だよ。あとは怨≠ノ現場で吐かせればいい。大丈夫」
 怨≠フ狙いは見えてきたが、復活する『何か』の力は未知数だ。怖くない、といえば嘘になる。だが。
 攫われた慈雨、尊鬼王の忠告、そして怨≠フ正体――何かが、像を結び始めている。
「大丈夫だ」
と、小野は自分に言い聞かせるようにもう一度言った。


 それは、ごくありふれた小さな社(やしろ)だった。形式だけで簡単に作られたことがすぐ分かるような安物で、使用されている木材や金具は新しいが、それが却って空虚な感じを与えている。
 この場所には一番大切な『信仰』がない。外見の傷みこそないが、それはすでにうち捨てられ、朽ち果てた社だった。
「げ、何だこれ? 気持ち悪ぃー」
 皓矢が閉ざされたままの社の扉を指差して嫌な顔をする。その部分を見ると、何かが無理に抜け出たような五十センチ程の穴がぽっかりと口を開けている。木造であるにも関わらず、溶接でもしたような不自然な空き方だ。
――木が、溶ける?
 小野が眉をひそめる。こんな現象はあり得ない。人間界では。
(いるな)
 鋭い視線を上げて扉を見る。小野はその奥に異界を感じていた。そこには“怨”がいる。それから、慈雨も一緒だ。
「それにしても、この奥の空間は一体何だ?」
 雪善が覗き込みながら、ハルに尋ねた。
「魔界と人間界の境のような空間になっている。けど魔界の要素がある以上、僕と皓矢は入ることができないんだ」
「?」
「これ以上立ち入るには鬼の力がいる。つまり鬼の加護を得た小野と、その身に鬼を宿した雪善のみ……」
 そこでハルは一旦言葉を切り、慎重に付け加えた。
「気をつけて。“怨”はこの空間に身を潜めることにより、何かを選んでいる気がするんだ」
「選ぶ?」
「最初に会ったとき“怨”は、鬼追の力を欲しがった。“怨”にとってそれはどう考えても無意味だ」
「……俺達の存在が『復活』に関わるということか」
 雪善の言葉に、ハルが少し迷うように首を振った。
「確証は何もないんだ。ただ……ひとつの仮説をもとに、ルカには別行動を取ってもらっている。小野には車内で少し話したけど」
 サタンのことだ。小野は黙って頷く。
「ルカには護符を渡してある。もし仮説に関わりのある物が出れば、僕の式神を使って連絡してくる手筈だ。……必要ならば、小野達のもとへと送る」
「分かった」
「ここからは具体的な作戦だ」
 ハルは社から少し下がって両手を広げた。
「ここには二つの結界が張り巡らされている。先ほど、仲間の陰陽師達に作らせた社全体を包む結界、そしてこの社の内側にある“怨”が張った異世界の結界――この二つの間に、今から僕が第三の結界を作り、社の扉を開く。そして“怨”の成仏する昇道を創るんだ。小野と雪善はそこに“怨”を追い込んで欲しい」
「了解」
「おい大丈夫かよ、二人だけで? 俺と蓮華丸のスーパーテクが必要なんじゃないの?」
 ハルの計画に、皓矢は宝刀蓮華丸を軽く鳴らした。
「皓矢には別の仕事がある。社全体の結界は内部の者を外に出さないだけで、外部からの進入は防げない。だが、この扉の結界を破ると怨≠ノ引き寄せられた鬼や怨霊たちが襲ってくるはずだ。それを退治するのが皓矢の役目」
「俺一人で?」
 きょとんとして、皓矢は自分の鼻のあたりを指差した。
「……で、どれくらいいらっしゃる予定なんだよ?」
「少なくとも数百は……」
 大真面目に答えたハルに、皓矢の身体が派手に横倒しになる。
「ばかっ! いくら俺様が最強ヒーローだとしてもっ。んなもん、全部退治できるわきゃねぇーだろっ」
「社の中も、その理屈でいうと十分無謀だよ。皓矢には僕の式神を預けるから、協力してなんとか持ち堪えて欲しい」
 ハルはそう言ってあっさり皓矢を切り捨てると、小野と雪善に向き直った。
「あ……こら、ハル!」
 慌てて反撃するが、すでにハルの気持ちは小野と雪善に向けられている。
「ごめんね。一番重要な『復活する者』の正体が、正確に掴めていない。もちろん僕達の実力を遥かに超えた存在である可能性は高い」
 ハルの言葉に、小野は尊鬼王の言葉を思い出す。
「神であって神でない。善でも悪でもない者……」
「小野?」
「尊鬼王の言葉だ――行くしかないよな、何が出てこようがさ」
 小野の言葉に、図らずも4人は同時に、扉の奥を見つめる。
「終わらせよう」
 雪善が小さく、しかし力強くつぶやいた。