鬼寇の天蓋 4
作:草渡てぃあら





  4 

 京都市の北の外れ――遥か昔、貴船や鞍馬の辺りは鬼の国として魔界と繋がっていた。千年前に尊鬼王の命令により入り口が固く閉ざされてからも、人々はこの土地を神聖な場所として大切にしている。
(人間の気が強い京極辺りに比べて、やはりこちらの方が落ち着くな)
 紅牙は山々を見上げて目を細めた。
 決して人が嫌いなわけではないが、ここ百年の間に京都にはいささか人が増えすぎたように感じる。おっとりとした時間が流れていた頃の都を懐かしく思い出す。しかし。
「すべては昔――移ろわぬ世はないか」
 北山杉の清らかな香りを胸に感じながら、紅牙達は暗い山道を登っている。
 鞍馬山一帯は岩盤が固く、地下に根を張れない杉の根が地表に浮き出しているために気を抜くと足を取られてしまう。注意しながら、紅牙とルカは鞍馬寺の仁王門を通過し由岐神社から金堂、さらに山奥へと歩みを進めていた。尊鬼王との約束の場所は、奥の院魔王殿である。
 事情を知らぬ誰かが見たら、心配で声を掛けるかもしれない。なにしろ年端もいかぬ少女達が、連れ立って山奥へと入っていこうとしているのだから――。
 だが外見がどうであれ、紅牙にとってはよく知った道だ。何も恐れるものはない。
 杉の木立が夏の光を最小限に押さえているためか、ここは昼でも一種独特の冷暗を保っている。
「ずいぶんと強い霊力が満ちた場所だな」
「魔界が人間界への道を閉ざす以前、ここら当たりはちょうど両界の境だったのだ」
 紅牙の説明に、ルカは改めて辺りを見渡した。厳然とした比叡山とは異なり、どこか野性的な雰囲気の霊域である。
 ひたすら山奥へと入り人気(ひとけ)も絶えて久しくなった頃、目的地である奥の院魔王殿が建ち現れた。自然の中にあって不思議なほど馴染んでいる。
「六百五十万年前、金星から降り立ったという破壊と創造を司る魔王尊。現代においても時々人間が行者となり、稀にその絶大な霊力の片鱗を享受している」
「享受、できるものなのか?」
「気前がいいお方なのだ、魔王尊様は」
 どうやら、紅牙にとって魔王尊は顔見知りらしい。
 サタンについても色々と話を聞いてもらえるかもしれない、とルカはひとまず安堵する。しかし。
「おい。そこの小童ども」
 幼い少年のような高めの声が響く。見上げると五メートルほど上部、急勾配の林間に異形の生物が木立にふんぞり返って立っていた。
「……?」
 日本文化に馴染みのないルカにとって、その生物は未知の存在だった。魔物ではない。強引にジャンル分けするとそれは人間に違いなかった。
 しかし人間だと言い切るにはあまりにも不自然だ。鼻の高い赤い顔。背中には翼があり、高下駄を履いているにもかかわらず背はルカよりも少し低い。
「鞍馬の下っ端天狗ではないか。そんな未熟者に小童呼ばわりされる覚えはないぞ。我らにちょっかいを出す暇があれば、修行に励んでもっと立派な天狗になるんじゃな」
 紅牙の言葉に、子天狗は「なにを!」と腹を立て上からぴょんと降りてきた。
「今日はお前らに魔王尊様より大切なものをお預かりしてきたのだ。お前らの態度によっては渡さねぇぞっ」
「魔王尊から預かりもの? じゃあ、今はこちらにおられないのか」
 ルカの言葉に子天狗は横を向いて、
「おられぬ」
 と短く言い放つ。
「なぜ? 今どこにおられる?」
「貴船の竜神様と会っておられる。実は内緒のことだが、我らの聖域である鞍馬山に十日ほど前から招からざる客が来ていての、魔界との付き合いもあるから対応に困っているんだな。こういうときいつもなら小野を呼ぶんだけど、あいつ今なんか忙しそうだから」
 初対面のわりには、ずいぶんと人懐っこく内緒話を聞かせてくれる。魔界と聞いて紅牙の表情が変わった。
「魔界? では客とは鬼のことか?」
「それは言えん。秘密だ。極秘の秘密だ」
「魔界といえば鬼しかいないだろう。それに、小野に頼むことと言えば」
「……」
「で、預かりモノとは何なのじゃ?」
 少々呆れ気味に、紅牙は子天狗の話を促した。
「言っただろ。お前らの態度が悪いからもう渡さん」
 すっかり機嫌を損ねた子天狗は背中を向けてしまう。
 予想していなかった展開に、ルカは困った顔で紅牙を見る。紅牙は「心配するな」と身振りでルカに伝えると、子天狗の小さな翼に向かって話かける。
「子天狗、機嫌を直せ」
「ヤだ」
 仕方ないのぅ、と紅牙は大袈裟にため息をつく。
「偶然、今日はこの鞍馬山に尊鬼王様が降臨される。子天狗に意地悪されて、魔王尊様からの大切な預かりモノを頂けませんでしたと報告するかの」
「ま、待て。それは困る。これだ。早く受け取れ」
 可哀相なぐらいに効果覿面である。
 子天狗がいそいそと懐から出したものは、まさにルカの望んでいた【鎖】の破片であった。
「!」
「そうだ、蒼い目の人間。お前の宗教世界から来た咎人は、かつてこの地で魔王尊様が預り受けていた。しかし、どのような理由かは知らんが今はここにおらぬ」
「ではどこに?」
「それは我らも知らん。罪人のその後は、魔王尊様とお前の神がたったお二人で決められたことであり、本来人間が知るべきことではない」
 子天狗が、幼い顔に精一杯の緊張感を持って語る。
 言いたいことは、ルカにも痛いほど分かった。神々への行過ぎた好奇心は身を滅ぼす。どれだけ人間が霊力を得ようと、思いあがって神への畏れを失ってはいけないのだ。それはいかなる信仰でも変わらない鉄則だろう。それでも。
「私達は、真実にたどり着かねばならない。人間界を守るためにも」
「……そう言うだろうと魔王尊様もおっしゃった。だから、この【鎖】だけを黙って渡すように命じられたのだ」
「……」
 あとは自力で真実を掴み、人間だけで世界を守ってみよということか。
「分かった。魔王尊様に伝えてくれ。心より感謝致します、と」
 子天狗は満足そうに「うむ」と頷くと、ばさりと小さな翼を広げる。そして手に持った扇で風を起こすと、その気流を上手く捉えて中へ浮かんだ。
「さらば」
 子天狗はその声だけを残して、山林の緑へとあっという間に姿を消した。
「……結局、何だったのだ。あの生物は?」
 消えた空間を見つめ、ルカが紅牙に聞く。
「かつて人間だった行者が魔王尊の霊力を得て生まれ変わったのじゃ。我らは天狗と呼んでいる。天狗は生まれ変わった後も、より高度な霊力――彼らは神通力と呼んでいるが――を求めて修行を続けている」
「京都には、本当に色々な者がいるのだな」
 深い実感を込めて、ルカは首を振る。
 そして、気持ちを切り替えるように表情を引き締めた。
 ともかく、ハルの仮説はひとつ真実に近づいた。
 あとは霊力の高い人間さえ探せば……それについては、ハルが事前に陰陽師達に指示を送ってくれている。
 一斉にかつ迅速に動けばさほど時間をかけずに、めぼしのついてある人間を保護できるだろう、というのがハルの見解だ。そして彼らを結界内にさえとどめておけば、『新しい神』の復活は止められる可能性も出てくるのだ。
「あと私に出来ることは、これをハルへ届けることぐらいか」
 ルカは一枚の和紙を取り出す。それはハルから渡された護符だった。ルカには馴染みのない術具だが、使い方なら教えてもらっている。
 手に残る【鎖】の欠片を、ルカはその護符に押し当てる。霊体である【鎖】は抵抗するように光を放つが、やがて吸い込まれるように消えていった。
 そっと護符を地面に置き、ルカは魔硝機を構える。銃声。
 護符の中央に撃ちこまれた弾丸から青白い焔が立つ。ハルが身につけた陰陽師の術とエクソシストであるルカの技の共同作業である。
 焔の中に小さな鬼が生まれる。陰陽師の使いである式神だ。式神は両手を使って【鎖】の破片を抱き、行儀良くルカを見上げている。
 式神は陰陽師によって魔界より召還される鬼である。安倍晴明の時代、陰陽師に戦いを挑み破れた鬼が、死を免れる条件として陰陽師に使役されるという契約をしたのだという。それは千年経った今でも守られている。
「ハルの元へそれを届けて欲しい。場所はわかるな?」
 賢そうな黒目の鬼はおおきく頷くと、腕の中にある【鎖】の欠片を大事そうに持ち直す。そして、ゆらりと姿を消した。


 社の向こうは、奇妙な空間が支配していた。ムッするような熱気と背筋を凍らせるような冷気が渦巻いている。光と闇は不完全に融合し、闇の濃淡が不自然な明るさを生み出していた。
『くくく』
 小野と雪善の進入を待っていたかのように、“怨”の声が響いた。その声は幾重にも反響し、まるで“怨”の体内にでもいるような不快感が全体を包む。
 見えざる声に、二人はそれぞれ身構えた。
『歓迎するぞ。鬼を宿す者――人間ではない者たちよ』
「怨! どこだっ!」 
 威勢良く小野が叫ぶ。相手の手の内での戦闘は圧倒的に不利だ。せめて気持ちだけでも負けずにいなければ。
『慌てるな……鬼追よ、その真の姿を拝見させていただく』
――!!
“怨”の言葉を合図に、足元がぐらりと揺れた。防御姿勢を崩さぬまま、視線を走らせた二人の先に――。
「雪善……あれ!」
 小野が息を飲む。地面から数百体もの土人形が、ゴボゴボと不気味な音をさせてわいて来たのだ。ちょうど成人男子ぐらいの大きさである。よくみると片腕が無かったり、左右の目の位置が違っていたりと、無理に人間に似せてある分余計に気持ち悪い。
 土人形達は、恐怖感が欠落しているのかうつろな眼差しのまま、小野と雪善に向かってくる。これは鬼ではない。ただの人形だ。恐らく“怨”に操られる為だけに生み出された存在――強度も戦闘能力も比較的低く、本来なら小野や雪善の相手ではない。だが。
「小野、気をつけろ。後ろに羅眼鬼達がいる……」
 雪善が耳元でつぶやくと、顎でその方向を示した。闇の中で、ひときわ巨大な身体が数体浮かび上がっている。
「鬼退治は俺が受け持つよ。雪善は“怨”と慈雨ちゃんの居場所を」
「分かった」
 身体を寄せて素早く打ち合わせる。いずれにせよ、と雪善は静かに言う。
「あの雑魚どもを片付けないと」
 小野は大きく頷くと目を閉じて『気』を高める。身体に鬼の力がみなぎっていくのが分かった。両手に集められたエネルギーは風を生み、小野の髪を煽る。
「!」
 カッと開かれた瞳。同時に土人形に向かって走り出す。間髪いれず、雪善も駆け出した。一面を埋めるほどの土人形が、波のように大きく揺れる。
「行け!」 
 小野の放った鬼力が、赤い閃光となって土人形達を崩した。一方、雪善は完全な肉弾戦だ。降魔を主とする雪善の能力は、強大な鬼の存在自体をその身体に宿す。それは雪善の体力と精神に大きく負担をかけるのだ。その点で小野とは違い、雪善に長時間の戦闘は不可能だった。
 だが“怨”の作った土人形など、日頃から比叡山で鍛えている雪善の敵ではない。手際よく鮮やかに倒していく。
 その様子をちらりと確認すると小野は、両手に宿る赤いオーラを一本の長い刀に変化させる。そして自分の目の前で斜めにかざすと、群がる土人形に向かって叫んだ。
「かかってきやがれっ!」
 誘われるように群がってきた土人形達五、六体を一気になぎ払う。そのまま小野は身体を反転させ、振り向きざまに背後の敵の胴体部分を切りつけた。吹っ飛ばされた人形は、後ろに控えていた仲間を巻き込んでガラガラと崩れる。
 小野はさらに切り込んでいく。怒涛のごとく勢いに乗る小野に――。
 ふと影が落ちた。見上げるより早く、小野の背中に悪寒が走る。
「――っ!」
 瞬間。わずかの差で小野は避ける。数センチ横で、羅眼鬼の拳が突き刺さっていた。
(鬼の力……尊鬼王の力……何故、なぜお前ごときに……)
 小野の頭に中に、羅眼鬼の声が響く。驚いて顔を上げると、そこには目を見開いた羅眼鬼の姿があった。比叡山のときに出会った羅眼鬼とは格が違う。
「お前……意識が?」
 “怨”に操られているのではないのか? 小野は息を飲む。羅眼鬼が自ら“怨”に協力するなど、通常ではあり得ない話だ。
「尊鬼王に――逆らおうというのか?」
 小野の言葉に、羅眼鬼は不気味に顔をゆがませる。笑っているのだ。
(人に媚び、欲望を抑えて生きるのはうんざりだ……我々は新しい神を見つけた)
「何だと」
「小野!」
 その時、少し離れた場所で雪善の声がした。小野のすぐ後ろに、何十体もの土人形が迫っていた。逃げ場が塞がれる。小野は目前に迫った羅眼鬼を見上げた。
「勝手なことを言うな! 尊鬼王は鬼達のためにどれほど心を砕いているか、お前! 知ってのことか!」
 状況的に悪化していることは承知しながらも、小野は思わず声を荒げる。
(尊鬼王が心を砕いているのは人間に対してであろう……あの下らぬ生き物のために……!)
 そう吐き捨てると、羅眼鬼は小野に向かって拳を振り上げた。
――早い!
 目を開いた羅眼鬼の動きは、まるで別の鬼だ。
 不意を突いた攻撃ではない分、間合い的には避けられたはずだった。だが、身を引いた背後には土人形が控えている。
――っ!
 逃げ場を失って避け損ねた小野の肩に、羅眼鬼に拳が掠める。それだけで絶えがたい激痛が電撃のように身体を貫いた。
 刹那。動きの止まった小野を見逃すことなく、羅眼鬼は腹部を蹴り上げる。
 鳩尾に激痛が走る。一瞬、息ができなくなった。地面に屈した小野は、痛みに絶えながら、グッと己の拳を固める。
「!」
 止めとばかり振り下ろされた羅眼鬼の拳(こぶし)を、小野が身を翻して避けたのはただ本能だった。顔の横で、強烈なエネルギーが地面を抉り風鳴りを起こす。
「……」
 強く。つよく唇を噛む。心の奥底で、じわりと怒りの感情がにじんだ。
 小野は自分のことを決して強いとは思っていない。己の力の及ばない敵などざらにいるし、今の自分にそれらすべてを倒せる力があるとは思わない。でも絶対に譲れないことが――ただひとつ。尊鬼王の敵にだけは。
「負けるわけにはいかないんだよっ!」
 肩をつらぬく悪夢のような痛みに耐え、強引に引き上げた小野の左手から赤い閃光が放射線状に撃ち放たれる。予期できぬ動きに、羅眼鬼が怯んだ。
 小野は素早く身を起こすと、刀を逆手に構え直して体勢を低く保ちながら、一気に敵との距離を詰める。
 羅眼鬼の巨体が裏目に出た。小野の地面を這うような攻撃が捉えにくい。
 そのまま足元へと転がり込んだ小野は、間髪いれず羅眼鬼の脇腹を切り捨てる。
「ぐぁぁぁっ!」
 その強烈な一閃に、羅眼鬼の身体は真っ二つに裂けた。地面を揺るがす断末魔が響く。
 その声に、少し離れたところにいた別の羅眼鬼が反応した。
 苦々しい顔で小野は大きく息を吐いた。たかが一匹の鬼を倒したところで勝利は遠い。決して戦闘の気合いを失ったわけではないが。
 正直、これはちょっと。
(きつー……)
 軽い眩暈を感じながら肩から腹部にかけての痛みを必死に堪える。
 新たな羅眼鬼との距離が、出来るだけ広く取れるように円を描きながら、小野は体勢を立て直す。改めて攻撃の機会を窺うつもりだった。
「!」
 ふいに一匹の土人形が駈け寄り、小野の腕を掴んだ。弱敵とはいえ予想外の土人形の動きに、羅眼鬼と小野の間のバランスが崩れる。
 それに呼応するかのように、土人形達は次々と小野に群がった。
「……っの雑魚が」
 小野の身体が、防御のオーラに包まれる。小野の鬼力とて無限ではない。まだ数体はいる羅眼鬼との戦闘を前に、無駄な力の消費は避けたがったが、それは状況が許さないようだ。
 だが次の瞬間――小野の肩にかかった土人形の手が砕け散る。
 壊れた土人形の狭間から、駆けつけた雪善が見えた。
「小野、下がってろ」
 雪善が言葉短く言い放ち、わざと土人形の山の前に無防備に立ちふさがる。
 もちろん、敵はそんな雪善を放っておく訳がなかった。誘われるように一気に襲いかかる。数多の土人形の群れに、雪善の身体はあっという間に見えなくなった。
 だが、次の瞬間。
「降魔! 刹那月」
 雪善の凛とした声が響く。
 落雷のような激しい光が、中央に突き刺さった。群がった土人形が一斉に砕け散る。そして――。
 崩れ去った敵の山の真中に。
 鬼がいた。
 すらりと均整のとれた筋肉質の身体に、腰あたりまでの長い銀髪が流れる。頭には、天を貫く高貴な角。それはもはや人ではない。だが、毅然としたオーラはまさに降魔大師・雪善のそれである。
 雪善に降臨した刹那月は、土人形の群像に手をかざす。それで十分だった。手の平から放たれた蒼き光は、美しく輝きながらはるか遠くの土人形までもを、一瞬にして消滅させていく。
(つ、強ぇー……)
 思わず肩の痛みも忘れて、小野はその様子に魅入ってしまう。
 一掃、という言葉がふさわしい。あとには役に立たない数体の土人形と羅眼鬼が三体残るばかりだった。そして、その後ろに控えている透明なゼリー状の物体――。
『よいぞ、刹那月。その姿を待っていた! もうすぐだ……間もなくあの方の封印が解かれる』
「“怨”!」
 刹那月の姿を宿した雪善が叫んだ。その透徹した強い眼差しに一瞬怨≠ヘ無意識に怯む。
『……刹那月を捕らえろ……』
 かみ締めるように低くつぶやく怨≠フ言葉に、ゆっくりと羅眼鬼が動いた。小野の感覚が目敏く状況を把握する。
(狙いは、雪善? ……だとしたら)
 小野はわざと怨≠ゥら離れた場所にポジションを移動する。そこから怨≠目掛けて鬼力を放った。その攻撃自体は結界に阻まれる。だがそれで否応無く、数体の羅眼鬼が小野へと標的を変えた。小野の誘導によって、雪善が対峙すべき敵は怨≠ニそれを守る羅眼鬼が一体だけどなる。
「雪善、今のうちに!」
 小野の言葉に、雪善は頷くと怨≠ヨと真っ直ぐに向き直る。怨≠ニ刹那月の間の空気が揺れる。怨≠フ傍で控える羅眼鬼が、我慢できずに刹那月に飛びかかった。刹那月は、その拳を正面から受け止める。
 バチッという電撃にも似た気の衝突が起こる。間髪入れずに刹那月の痛烈な足払いが飛ぶ。まともに食らった羅眼鬼はもんどりうって倒れるが、すぐに起き上がると怒りの咆哮を上げた。
 小野は雪善の方をちらりと見ると、大きく息を吸い込んだ。目の前には二匹の羅眼鬼が立ちはだかる。どうやら、雪善を心配している余裕はないようだ。小野は鬼力を集中させると二本の刀に変化させた。右手には刃渡り百センチ程の日本刀。左手にはその一・五倍ほどの長刀を持ち、それぞれを攻撃の構えで静止させる。
「そろそろケリ着けような。あの世で尊鬼王に悔いるがいい!」
 小野の言葉に、羅眼鬼達は嬉しそうに牙を向いた。


「……あとは尊鬼王に会うだけか」
 鞍馬山の巨大な杉の根元に腰掛けながら、ルカが言った。隣で紅牙が思い出したように尋ねる。
「大体、小野が尊鬼王に頼んだことって何なのだ?」
「それは私も聞かなかったな。小野の個人的な依頼だから、ハルにも言わなくていいと口止めされたが」
「何を考えておるのだ、あいつは」
 ため息をつこうとして、紅牙はふと顔を上げた。
 ルカも同じように何かを感じたらしく、素早く立ちあがると怜悧な瞳を奥へと向ける。緩いカーブを描く林道の外れ、山の中に何かがいる。薄暗がり中に、大きな塊が見えた。
 獣や人間でないことは、気配ですぐに分かった。
 ガサリ。
 音を立てて、それは立ち上がる。巨大な影――。
「まさか」
 乾いた声で紅牙が言った。緊張で胸が高鳴る。
 まさかあの鬼が人間界にいるとは。魔界を閉ざすという尊鬼王の判断に最後まで逆らい続けた、鬼の一族。
 隣でルカがゆっくりと魔硝機を構える。
「待たせたな、紅牙」
 巨大な影はそう言った。
「お前は!」
 紅牙は叫んだ。途端、空気が歪む。不快な気圧の変化に、紅牙は顔をしかめた。
 闇の鬼が近づいてくる。ゆっくりと、だが確実に。
 紅牙は動けなかった。鬼の姿を見て、呆然と立ちすくむ。
「……羅眼鬼」
 羅眼鬼が比叡山で現れたという話は小野から聞いていた。しかしそれは怨≠ノ操られ、目を閉じた状態だったはずだ。しかし、今は違う。しっかりと開かれた瞳は、真っ直ぐに紅牙を見下ろしていた。
「いかにも我は羅眼の鬼。凶暴であるがゆえに、尊鬼王から瞳と意識を奪われた哀れな一族の末裔だ。だが人間界では本来の力を手に入れられる」
 背筋の凍るような笑いとともに、羅眼鬼はそう告げる。
「紅牙、お前を迎えに来た。あとわずかで人間界は終わる」
「……!」
「千年もの間、鬼の力を取り上げられ人間界にひとり残されたお前は、さぞ辛かったであろうな。だがもう我慢せずとも良いのだ。新しい神のもと、我々鬼がこの世界をも支配する」 
「新しい、神……だと」
「愚かな人間どもが生み出した怨≠ェ教えてくれた。我々の世界が始まるのだ」
 紅牙は息を飲んだ。羅眼鬼の言葉はあまりにも唐突で、どれも信じることができない。だが。 
 その内容は、鬼追達の話と奇妙に一致している。 
(一体、何が……何が人間界で何が起ころうとしているのだ)
 さぁ、と差し出された羅眼鬼の大きな手に、紅牙は反射的に身を引いていた。 
「義理堅いことだ。小野の一族との約束を守ろうというのか?」
「……如いては尊鬼王との約束だ」
 紅牙の返事に、羅眼鬼は顔を歪めた。
「あの方の時代は終わる……人間など滅びるべきなのだ」
「勝手なことを!」
 しかし、紅牙はそれ以上の言葉を発することが出来なかった。
 羅眼鬼が紅牙の首を持ち上げたのだ。
「くっ」
「離せっ!」
 銃口を向けたまま、ルカは羅眼鬼に言う。
「愚かな。それが人間の生み出した武器か? 良いだろう、撃ってみろ」
 羅眼鬼は挑発するように、さらに紅牙の首を高みへと持ち上げようとする。
 それよりも早く、ルカの的確な銃弾が羅眼鬼の額を貫いていた。しかし。
「……!」
「何も効かぬわっ」
 羅眼鬼の言葉通り、ルカの撃った弾は水を貫くように通過し傷も残していない。
「何故か分かるか? その武器は『魔』にしか反応しないからだ。我は誇り高き鬼の一族。悪しき存在ではない。そう、我の思いは正しいのだ。人間など滅びれば良いのだ!」
 羅眼鬼の圧倒的な力を前に、小さな紅牙の身体はいとも簡単に中に浮いた。
「……っ……!」
 苦しさで、視界が涙に歪む。それでも紅牙は、羅眼鬼から目を逸らさなかった。
「小野篁(おののたかむら)――千年もの間、お前をひとり人間界に置き去りにした人間だ」
 間近にある羅眼鬼の口元から、鋭い牙が見えた。
「憎かろう? 人間界を守れと命じておいて、自分は勝手に魂を手放した。たかが千年も生きられず何が第二の冥官、何が尊鬼王の右腕だ」
 朦朧とする意識の中で、紅牙は、かの人のことを思い出していた。
 遥か昔、ともに京の都を守った人――豪快な笑顔。優しくて大きな手。
「き、貴様ごときが……気安く名を呼ぶな……その名、は……」 
 魂の管理者である尊鬼王からの不老不死の申し出を断り、人間として死を選んだ人。
 小野篁。それは。
 その名は――。
「私の、愛した人の名だ……」
 苦しみに息を詰まらせながら、それでも紅牙はきっぱりとそう言った。
 羅眼鬼の表情が険しくなる。愚かな、という声が聞こえた。
「人間なんぞに心を奪われよって……我々、鬼を愚弄しておるのか!」
「貴様こそ、何も分かって、いない。尊鬼王のお心を……鬼と人間の成り立ちを……っ…くっ!」
「もうよいわ。鬼ですらなくなったお前は」
 紅牙の華奢な首に、羅眼鬼の鋭い爪が食い込む。 
「死ぬがよい」 
「紅牙!」
 ルカの悲痛な声が聞こえる。
 紅牙は目を閉じた。怒りや痛みでなく、深い悲しみを感じていた。
 こんな風に終わってしまうのか。自分の魂は、自分の想いは――もう。
(……小野……)
 不思議なことに最後に思い出したのは小野篁ではなく、現代の小野一族、鷹人の平穏な笑顔だった。
  ――刹那。
「グゥァァァァッ!」
 耳を劈くような叫び声が、紅牙を襲った。
 身体が浮くような奇妙な感覚がする。瞳を開けた紅牙は、羅眼鬼が真っ二つに割れてゆくのを見た。
 思考の止まった紅牙の身体が、ゆっくりと落ちていく。地面に叩きつけられるはずの身体は今、大きな力で支えられた。
「救えてよかった……私はかけがえのない者を失うところであった」
 姿は見えない。だが、限りない魂を感じることができた。絶対的な存在感。すべてを超越する鬼力。
「尊鬼王……様?」
「よくぞ耐えてくれた。紅牙には辛い思いばかりさせておるのに」
 そんなことっ、と紅牙は叫ぼうとして、喉の痛みに咳き込んだ。
 尊鬼王の悲しみに比べれば、自分など……!
「紅牙、大丈夫か?」
 ルカが駆け寄る。ルカの霊力でも、尊鬼王の姿のすべてを捉えることは出来なかった。それでも伝わる。敬虔と慈悲に満ちた高邁な魂を。
 絶命した羅眼鬼の身体が闇に溶けていく。同時に、どこからともなく白檀の香りが立ち込める。尊鬼王のせめてもの供養なのだろう。
「羅眼鬼の苦しみもよく分かる。人間界と我らが共存するために、私が選んだ道は……結局、この者達を苦しめるだけだったのか」
 愛する存在を手にかけねばならぬ悲しみが、痛いほど伝わってくる。紅牙は息を整えてゆっくりと言った。
「尊鬼王様、私は尊鬼王様の選ばれた道を信じます。人間と鬼は必ず共に生きていけます」
「その言葉、深く受け止めよう。だが今、我らの及ばぬところで人間界が大きく変わろうとしている」
「……!」
 紅牙は瞳を上げた。やはり先ほどの羅眼鬼の言葉は、嘘ではなかったのだ。
「今、小野達が――例の社(やしろ)を調べに行っています。助けに向かった方が良いでしょうか……!」
 紅牙の言葉に、しかし尊鬼王はしばらく黙した。
「我ら鬼の力では、あの復活は止められん。今はただ、見守るしかないのだ」
 そんな馬鹿な。
 紅牙は唖然とした。鬼の力で止められぬことが、人間だけで解決できるのか。
 それと同時にもうひとつ疑問が湧いた。助けられぬという尊鬼王が何故、わざわざ人間界に?
「……尊鬼王様?」  
 紅牙はその時になって初めて、こちらを見ている小さな女の子の存在に気がついた。隣でルカも目を見張る。見覚えのある少女――しかし、これは?

 
 刹那月の強烈な蹴りに、羅眼鬼は吹っ飛んだ。
 その軌道上に血がしぶく。
 重低音とともに、羅眼鬼はあお向けに倒れこんだ。それが致命的な一撃であったことは、ドクドクと流れ出す血の量で分かる。それから、二度ほど巨体を痙攣させると、羅眼鬼は動かなくなった。
 それを見届けると、刹那月は最後の敵に振り返る。
「怨!」
 まさに鬼の形相で、刹那月が“怨”をにらみつけた。
『やるな……褒美だ、お前の望むものをお目にかけよう』
 さほど焦りもしない、“怨”の声がする。刹那月のすぐ横で、ドサッと何かが落ちる音がした。その小さな身体。見覚えのある花の髪留と艶やかな黒い髪――。
「慈雨……!」
 雪善は思わず駆けより、そっと慈雨を抱き寄せる。“怨”の含み笑いが、空間を揺らす。策は成った。
 雪善が慈雨に気を取られた一瞬――。
 死に絶えたはずの鬼が動いた。空になった羅眼鬼の器に“怨”が取り憑いたのだ。
「雪善!」
 危ない、という小野の警告は間に合わなかった。
 小野の周りには、すでに生き絶えた二匹の鬼の残骸があった。
 怨≠ノより甦った羅眼鬼は、刹那月の頭を鷲掴みにする。
 『動くな! この鬼追の頭を握りつぶすぞ』
 助けに入る小野の反応よりも先に、しかし“怨”の厳しい声が飛んだ。
「くっ!」
 小野が硬直する。雪善は、すでに意識がないのか抵抗もしない。ギリリと、刹那月の艶やかな銀髪に羅眼鬼の爪が食い込んだ。
『さあ、そのお姿をお見せください……』
 “怨”が陶酔した声色で刹那月に呼びかける。その奇妙な行動に小野は眉を寄せた。確かに“怨”は、雪善に向かって言ったのだ。
「なんだよ……お前らのいう新しい神って……一体……!」
 突如。
 雪善の体が光を放った。その光はものすごい勢いで雪善を包み込み、さらに圧倒的な輝きで空間を支配していく。小野はまぶしさの中で、必死に様子を探ろうと目を細めた。
『おお! そのお姿は間違いなく!』
 “怨”の歓喜が聞こえる。視線の先には、すでに“怨”の手から離れた雪善が立っていた。その姿は刹那月から雪善へと戻っている。だが。
「――!」
 小野は目を疑う。
 雪善は、寒気がするほど美しかった。それはもはや人間ではありえない美しさ――無表情の雪善の背中から、ふわりと何かが浮かび上がる。
 純白の大きな翼が4対。正視するのを躊躇う神々しさだった。“怨”の取り憑いた羅眼鬼が、恍惚の表情でゆっくりとその名を呼ぶ。
『堕天使――ルシファー様・……』
 小野は言葉を失って、目前の現実に呆然と立ち尽くした。
 驚愕する感情の裏側で、しかし小野の頭は理性的にパズルを解いていく。
 鞍馬に繋がれた異国の堕天使。後に神との契約で人間界へと紛れて消えた。通常なら隠しきれぬほどの存在感。しかし同化できるだけの霊力の高い器なら――優れた霊力と支配されぬ強靭な精神を併せ持つ人間なら。そして、それはまさに。
「雪善……だったんだ……」
 ルシファーはずっと、雪善の中に眠っていたのだ。
(ハル、お前の予想が当たってたよ)
 戻ったら真っ先にそう告げようとごく自然に思ってから小野は、自分の考えの甘さにぞっとする。
 戻れるのか?
 羅眼鬼や怨≠ネらば、まだ己の管轄である。どれだけ難題であろうと挑んで乗り越える可能性のある戦いだ。だが、この状況は完全に自分達を超越したところで起こっている。
 果たして戻れるのか、自分達は。ありきたりの日常に。
「愚かな……何ゆえに我を呼び出した?」
 雪善の身体を借りて、ルシファーがゆっくりと口を開く。
『その鬼追から貴方様を解放し、貴方様を神と崇めるため――どうぞこの少女の器に御降臨ください』
 畏れかしこまった“怨”の言葉を、ルシファーが鼻で笑う。
「我の力もずいぶん見くびられたものだ。解放だと? 我がこの者に囚われていたとでも思うたか? 我が存在するのに、本来は器など必要ない」
 雪善の身体から白い霧のようなものが浮かび上がる。その霧は、そのまま大天使の姿となった。
 崩れ落ちる雪善の身体を、ルシファー自身が背後から抱きとめる。
「神の作った人間に宿り、我はその未来を見届けているのだ。我がその気になれば貴様などの力がなくとも、この人間を使って世界を滅ぼしてくれようぞ」
 それに、とルシファーは、雪善の頭を愛おしそうに自分の胸に寄せた。
「我はこの魂、この身体を気に入っている。常に善悪の狭間でさ迷い、最後には必ず良き光を選び取る、この崇高なる精神をな」
 ルシファーの言葉に、“怨”は言葉を失った。
『そんな……そんな馬鹿な……あなた様は神の言いなりなるような御方ではないはず。今こそ、自らの御意志で自由になられませ』
「悪くない提案だが。お前の望みを叶える義理はない」
『……なぜっ? 我らの世界で、真の神になれるのですぞ』
 すべてを賭けて待ち望んだ神の復活が、脆くも崩れていく。そんな“怨”に、ルシファーは冷ややかに言い放った。
「去れ。お前は――醜い」
 美しき指先から放たれる清冽な光輝。
『ぎゃぁぁぁ!!』
 地を這うような憎悪のうめきは、やがて耳を劈くような金切り声へと変わる。
 純粋な御光を受けて、ただの影となった“怨”は断末魔を残して消えた。あとには乳白色の魂が散乱している。
「さて」
 愉しむようにルシファーは小野へと向き直った。
 小野は畏れを以って、素早く跪く。異国の階級では大天使とあるが、その桁外れの霊力は日本では十分神に匹敵する。
「神として人間界に降臨することを断ったのは、ただ怨≠フ野望に手を貸すのが嫌だったからだ。しかし、我はこうして目覚めた。結果的には良い機会かも知れぬな。どう思う? 若き少年よ」
 小野はさらに頭を深く垂れる。
 安易な発言はいとも簡単に怒りを買うだろう。ルシファーの前では、自分など脆弱な人間に過ぎない。意見など初めから求められてはいないのだ。
「……御心のままに」
「ふん。賢しい解答だな」
 慎重に答えを選んだ小野に、ルシファーは食えない奴だとばかりに鼻を鳴らす。人間界への降臨に少しでも反対すれば殺してやるつもりだった。それで道理が通るだけの力の格差が、両者にはある。
 しかし、この場でもし小野が威圧に屈して降臨を勧める発言をすれば、それは必然的にルシファーが神との契約を破ることに手を貸したことになるのだ。
 いずれにせよ、小野に選択の余地はない。
(でも一体、どうやって止めれば……)
 複雑な心境で悩む小野の視界に、ふと何か小さな生物が入ってきた。
「?」
 それは全長三十センチほどの式神だった。
 大事そうに何かを抱えて、とことこと歩いてくる。ルシファーと小野のちょうど中央で止まった鬼は、少し迷うように首をかしげてからルシファーに背中を向け小野に【鎖】の欠片を差し出した。
「く、鎖……? あ、ハルの言っていた鞍馬の!」
 ルシファーの御前であることも一瞬忘れて、小野が頓狂な声を出す。とすればルカは鞍馬で真実にたどり着いたのだ。
「なかなか面白い趣向だな。これで我を脅すつもりか、少年」
「あ、いえ。そういうわけでは」
 慌てて首を振る。
 しかし、それは神との契約を思い出せという無言の抗議に他ならない。
 興が冷めたとばかり、ルシファーは目を細める。
「深甚たる警告――とまでは言えないが。人間の行為にしては珍しく、我の心に響いたぞ? 良かろう、今回は大人しく帰る。契約された魂にな」
 そう言うと、眩い光とともにルシファーの姿が消えていく。
「雪善!」
 小野が走りこみ、倒れる雪善を何とか受け止める。ルシファーはすでに姿を消していた。腕の中の雪善に意識はない。
(雪善の身体の中に戻ったのか……?)
 小野は眉を寄せる。あれほど強大だったルシファーの存在は、完全に消え去り片鱗すらも感じ取れない。
 熱を失った雪善の顔を小野は心配気に覗き込む。雪善、と呼びかけた小野の声に少しだけ瞼が動いた。そして形の良い唇がかすかに動く。
「……慈雨、は……」
 祈るような声で告げた妹の名。怨≠フ支配から開放された慈雨は、その怨≠ェ消えた辺りで深い眠りに落ちている。かすかに上下する小さな身体と顔色を見て、小野は慈雨のひとまずの無事を確認した。
「大丈夫だ。眠っているけど心配ないよ。それよか、お前こそしっかりしろよ」
 小野の必死の呼びかけに、雪善はかなり強い意志を持って顔を上げた。
 身体はすでに限界を超えている。ただ強靭な精神だけで、雪善は立ちあがった。
「俺は……大丈夫だから、慈雨を」
「分かったから。あと少しだからな!」
 雪善に肩を貸しながら、意識のない慈雨を抱えて小野は出口へと向かう。
 “怨”の存在を失った空間は、不安定に歪み始めている。このあたりは、間もなく魔界に取り込まれるだろう。
 魔界空間は、今の小野や雪善の体力をさらに奪うことになる。それだけは避けたかった。出口にさえ行けばハルの浄化が待っているはずだ。
(そこまでなんとかたどり着かなければ――)
 歯を食いしばって、ひたすら出口を目指す。霞む視界に、やがて見覚えのある社の扉とそこから洩れる人間界の明かりが見えた。
 恐らくその付近は人間界へと取り込まれつつあるのだろう。入ったときよりもずっと手前でハルが待っていて、小野達を発見すると慌てて駆け込んでくる。
「大丈夫? どっか怪我はない?」
「俺は無事……それよか慈雨ちゃんと雪善を」
 そういうと、小野は安心して一気に膝をついた。結界を守っていたハルの顔の顔が、ひどく懐かしく感じる。
 だがその時――。
 小野の背後で、急速に闇が集まっていく。
「小野!」
 ハルが叫んだ。振り向くと霧散したはずの“怨”が再び形を取り戻そうとしていた。
「馬鹿な……っ!」
 雪善が搾り出すようにつぶやく。地を這うような“怨”のうめき声が響いた。
『うううっ……消えてたまるかぁぁぁ!』
 闇が激しく渦巻き始める。なんという執念だ。その暗いエネルギーに三人は愕然とする。
「ハル、昇道を開け! 強引に葬ってやるっ!」
 小野は最後の鬼力を振り絞る。その言葉にハルは素早く反応した。ハルの手の中で風が生まれ、やがて天を貫く大きな柱となる。
『無駄だぁぁぁぁ! 何度でも蘇るぅぅぅ何度でもなぁぁぁ』
 背筋も凍るようなその憎念。だがその意識は、ある人物に集中していた。“怨”は小野もハルも、雪善ですら見ていない。
「慈雨!」
 背後で雪善が叫んだ。驚いて振り返ると、眠っていたはずの慈雨が立っていた。
 小野は息を飲んだ。慈雨が意識を取り戻すのは、と尊鬼王の言葉が脳裏をよぎる。
(その魂が身体から離れるときだ……!)
 聞き覚えのある、鈴の音のような慈雨の声。
「ごめんね。お兄ちゃん……約束破ってごめんね」
 慈雨はそう言ってふっと泣き顔になる。
「横川の家から、出ちゃ行けないっていわれたのに……慈雨、慈雨ね……」
 そのまま、慈雨は泣き出した。許してね、と何度も繰り返す。雪善は、そんな慈雨を優しく抱きしめる。
「もういい。もういいから」
「良かっ……た」
 雪善は腕に力を込める――失うまいと。何かを予感するように。
 でも、と慈雨はぽつりと言った。
「慈雨がいたら、この子は成仏できないの。だから……一緒について行ってあげなくちゃ」
 そう言って、自分から静かに離れる。慈雨の指先を握り締めたまま、雪善は動けなかった。
「慈雨ね、本当はお兄ちゃんと……もっと一緒にいたかったよ……」
 涙を溜めたまま、それでも慈雨は少し笑った。
 そして“怨”に向かって優しく語り掛ける。
「一緒に行こう。もう寂しくないから、ね?」
 “怨”は誘われるように、慈雨に身体に溶け込んでいく。
 小野もハルも、それを止めることが出来ない。静穏な大樹のようにすべてを包み込む波動が空間を支配していた。
 怨≠取りこんだ慈雨はゆっくりと、ハルの作った昇道に向かって歩き出す。雪善の指先をすり抜けていく慈雨の柔らかな手。
 突然。
 雪善の中に、押さえようもない衝動が突き上げた。
「駄目だ! 行くな、慈雨!!」
 それは押し殺し続けてきた雪善の心だった。
「そいつが成仏できないなら、俺が何度でも戦うから! だからっ……だから留まれ、この世界に! 行くな、行くな慈雨!」
 血を吐くような雪善の叫びが天をつく。
 慈雨はたおやかな笑顔でそっと手を伸ばす。だが。
 最後に伸ばされた手は、この世に残るためではなかった。
 雪善の目の前でそっと開かれた、慈雨の小さな手の中には。
 一輪の、花。横川の庵に咲く小さな野花だった。
 強く握り締められたその小さな花は、すでにしおれている。
「お兄ちゃん――お誕生日だったから……」
「!」
 その言葉を聞いた小野は、胸が塞がれるような傷みを感じていた。
 慈雨はきっとこの花を雪善に渡したくて結界を出たのだ。その幼い思いを、悲しい過ちを、一体誰が責めることが出来るだろう。
「慈雨ね、お兄ちゃんが大好き……忘れないで、ね」
「慈雨!」
 それが最後だった。淡雪のような微笑を残して、慈雨は――消えた。
 地面に手を付いたまま、雪善は土を力任せに握り締める。
 声にならない慟哭が身を貫く。覚悟していたことだった。一度は自分自身が望んだことではないか。
「雪善……」
 小野が遠慮がちに雪善の肩に触れる。
 雪善はゆっくりと目を閉じた。予想外に静かで温かな涙が、自分の頬を伝うのが分かった。
「よかったのだな……これで」
 雪善がつぶやく。分かっていた。最初から、助からないと分かっていたのだ。
 よかったんだ、と雪善はもう一度言った。
 だが、それは決して諦めの言葉ではなく。
「小野が言った通りになった。最後にあいつ、笑った」
 そう言って、雪善はぎこちなく小野に瞳を向ける。
「そうだね。慈雨ちゃん、笑ってくれた……」
 雪善の肩に乗せた手に、祈るように力を込めて小野が言う。
 その言葉を受け入れるには、まだ激しい胸の痛みを伴うけれども――。
 

 小野と雪善の容体は、ハルの浄化によって大分回復した。だが、純粋な傷や全身に広がる疲労だけはどうしようもない。特に雪善は、比叡山での本格的な浄化が必要だった。
「とにかく二人が無事で良かったよ。途中で神レベルの霊力を感じたから、本当に不安だったんだ」
「で、式神を送ってくれたんだ」
「そう。役に……立った?」
「そりゃもう」
「じゃあ、あの仮説は本当に……?」
 懸命に介護するハルが、その手を休めることなく言った。
「詳しくは改めてってとこかな」
 疲れた顔で目を閉じている雪善をちらりと見て、小野は言った。そして疲労を解き放つように身体を伸ばす。
 とりあえず、一息つける。無性にシャワーが恋しい。
「でさ、ハル」
 俺も今、気付いたんだけど、と小野は苦笑いする。
「俺達、誰か……忘れてない?」
「ああ! 皓矢!」 
 ハルが高い声で驚く。慌てて祠の前まで駆けつけると、累々と積み上げられた妖怪や怨霊、鬼達の屍の山の中から、皓矢がひょっこりと顔を出した。
「こら、ハル! お前の式神、30分でダウンしたぞ! この役立たずが!」
 そういって、ただの紙人形になった式神を投げてよこす。
「ああ」
 と、必死になって受け取るハル。
「あーのーなー! その思いやりの半分でもいいから俺に向けろ!」
 その変わらないテンションと頑丈さに感心しながら、小野は皓矢に言った。
「よく、食われなかったな」
「あったりめぇーだろ! この皓矢様、女は食っても鬼になんて食われないっての!」  
「終わったようだな」
 そこに新しい声が加わった。小野が顔を上げると紅牙が立っていた。ルカも一緒にいる。
「紅牙。それからルカも!色々とありがとう。助かったよ、ホント」
「分かっている」
「そっか」
「尊鬼王からの伝言だ――約束の者を連れてきた。ともに育った娘の影響か、不思議な力を持っている」
 その言葉と同時に、新しい気配が生まれた。
 何も無かったはずの場所に、一人の少女が立っている。
「慈雨……!」
 雪善が叫んだ。少女は、その声に不思議そうに小首をかしげる。
「全く、小野も無茶なことを頼む。尊鬼王から話を聞いて、私は正直、あきれたぞ」
「うん。ご迷惑をかけました」
 小野は紅牙に、丁寧に頭を下げる。そしてそのまま顔を上げると、紅牙に向かってにっと笑った。
「おいで」 
 小野は少女を手招きする。警戒もなく少女は小野の傍に寄ってくる。雪善は複雑な表情で目を細めた。
「小野……まさかこの子は」
 小野は黙ってうなずいた。少女は、小野が魔界に連れて行った水晶の鬼の子だった。
 恐らく、尊鬼王の心遣いだろう――元々あった第三の目や、耳の後ろの角が消えている。
 子鬼の少女の小さな肩を抱きながら、小野は雪善に言った。
「人間界で育てることが正しいとは言い切れない。尊鬼王にもそう言われた。けど……この鬼もまた、魔界では異質な存在なんだ。どうか慈雨ちゃんの片割れと思って、大切に育ててやってくれないだろうか」
「小野……」
 雪善は言葉を失っていた。突然の出会いに、どう答えて言いか分からない様子だった。
 だが、雪善の戸惑いなど気にすることなく、慈雨とそっくりの子鬼は小野から離れて、雪善の元へとことこと歩いてきた。
 雪善の顔は、見ない。幼い子供独特の好奇心で、雪善の手の中にある枯れた花だけを見つめている。
 その小さな手が、花に触れた。
「――!」
 次の瞬間。みんな息を飲んでその光景に魅入っていた。
 雪善の手の中で、しおれていた花が色を取り戻していく。損なわれた生命に、新たな力が注ぎ込まれていく。
「!」
「お花、戻ったね」
 少女はそう言って、初めて雪善をみた。心に沁みるような無邪気な笑顔。
 それは確かに、見覚えのある面影だった。雪善はじっと手の中の花を見つめる。
 夕暮れ時の柔らかな風が、そんな二人の間に吹き抜けた。


エピローグ

 小野は、ハルと紅牙、それからルカの四人で大文字の送り火を見に来ている。
「本当に明日、ヴァチカノに帰っちゃうの?」
「ああ。任務は完了した。それに今回のことは報告あって然るべきだろう?」
 名残惜しそうな小野に対して、ルカはいたってクールな返答だ。
「そっかぁ。でもさ、やっぱエクソシストって言うからには魔方陣みたいなのでドロンと消えてヴァチカノまで帰るわけ?」
「……京都駅からはるかに乗って、関西空港へと向かう。で、普通に飛行機に乗って帰る」
「あれ、そうなんだ?」
「その稚拙で俗物的な発想、直したほうがいいと思うぞ」
 ルカがあきれて言う。
「そう?」
 あまり気にする様子もなく、小野は気持ち良さそうに伸びをした。
 雪善は比叡山で療養中、子鬼の慈雨も一緒だ。人間として生きていくのは大変だろうが、強くなって欲しいと思う。
 皓矢は、カフェで会ったエリカさんと二人で、この大文字をどこかで見ているはずだ。あの状況から今日の約束までこぎつけるとは、皓矢の口説きテクは結構ハイレベルなんじゃないかと、小野は改めて感心する。
「今夜、慈雨ちゃんの魂も送られるね」
 ハルが穏やかな表情で夜空を見上げる。
「そうだな」
 ルカと、それから鬼追の中でも特に感覚の鋭い二人には、幾千の魂が成仏されていくのが見える。それはまるで、天に放った蛍の大群のようだった。
「僕は……雪善にあやまらないといけないね」
 その儚い光達を見上げながら、ハルがぽつりとつぶやいた。
「結局僕は、雪善を傷つけただけだった。えらそうに正義を振りかざして、雪善一人を責めて――自分は何もできなかったのに……」
 ハルは辛そうに唇をかむ。細く綺麗な髪が、柔らかい肌に淡い影を落した。
「今回の一件で、誰かが謝るようなことは何もないさ。特にハルは今回、ものすごくよく頑張ったと思うし」
「私も小野の意見に賛成だ。ハルの的確な指示がなければ、私は何も動けなかった」
「そうじゃ。強いて言えば、悪いのはみんな小野なのだぞ。祇園祭で鬼を逃がしたりしたから」
「おいおい、それは関係ないだろー? まったく紅牙はなんでも俺のせいにするんだから」
 紅牙と小野のやりとりにルカは微笑み、ハルも弱々しく笑った。 
 小野はそんなハルの横顔をちらりと見る。昔から、ハルの辛そうな表情が苦手だ。なんとなく女の子を苛めているような、落ち着かない気分になる。もちろんそんなこというと、ハルにグーで殴られるに決まっているが――。
「小野はやさしいね。優しくて……どうしたら人の傷を癒やすことができるかちゃんと分かっている。僕は……全然だめだ。小野の優しさが羨ましい」
「そんなかっこいいもんじゃないって――」
 慌てて手を振る。相変わらずだな、と小野は思う。ハルとは幼稚園からの長い付き合いだが、こういう真面目で素直なところは何も変わらない。そのくせ頑固で気が強い。
「じゃ、正直言うよ」
 小野は観念して告白することに決める。誤解されたままでは、いささか夢見が悪い。
「?」
「俺、本当は雪善に殴られる覚悟だったんだ。慈雨の代わりなんていらないっとか言ってさ」
「そんな……代わりなんかじゃ」
「まぁ、そうなんだけど、それはあくまでも俺の気持ちだろ? 相手の受け取り方なんて、ぶつかってみないと全然わかんないよ」
「……そうだね」
 噛締めるように、ハルが言った。
 それに、と小野は付け足す。
「ハルに一度怒られてなかったら、雪善はあんなにちゃんと悲しめなかったと思うな。あいつ、ものすごぉく不器用だし」
「……僕……今から雪善のとこに行ってくる」
 突然ハルはそう言った。かかったな、と思う。
 思い詰めたように見上げるハルの可愛い顔に、小野は内心、笑いをかみ殺すのに必死だ。
「急いでいって来るね!」
 そう言うと、ハルは人ごみの中を軽やかに走って消えた。
「何だかよく分からん説得の仕方だな」
 いまいち納得出来ないルカである。
「いいんだよ、あれで。ハルは繊細そうで、結構根は単純なんだ」 
 駆け出したハルを見送りながら、小野はやれやれと息をついた。
 そして隣の紅牙に向かって言う。
「それより……今回のこと。すべてが解決したわけじゃない。特に鬼と人間の絆を守る俺達にとっては、新しい問題が山積みだ」
「そうだな」
 とは言え、と小野はそこで表情を崩した。いつもの人懐っこい笑顔が浮かぶ。
「とりあえず休息が必要だよな。切ないことに宿題も手付かずで残ってるし。それが済んだら、またよろしく頼むよ、紅牙」
「お前に頼まれなくても、それが――私の仕事だ」
 ぶすっとしなから、紅牙は顔を伏せた。そしてぽつりとつぶやく。
「全然、似てない」
 え、と顔を上げた小野に、紅牙は続けた。
「お前は、小野篁殿と全然似てないな」
 その言葉にルカは、鞍馬で羅眼鬼に襲われたときの紅牙を思い出す。愛した人――紅牙は確かにそう言ったのだ。
 紅牙も切ない想いを抱いて生きているのだな、とそっと心の中で思う。
「お前は本当に、小野篁殿の生まれ変わりなのか?」
「生まれ変わりじゃないってば。あの人はただのおじいちゃんだよ。でも……」
 そこで一旦言葉を切り、小野は空を仰いだ。
「でもその意志は確かに受け継いだと思う。人はさ、紅牙。永遠の命も生きられないし、思いのままに転生することもできない。けれど、その想いや意志を受け継ぐことはできるんだ、きっと」
「小野……」 
 その横顔を、紅牙は複雑な思いで見ていた。鷹人は本当に、かつて愛した人と似ていないだろうか。
 もちろん、そんな紅牙の心中に小野が気付くはずもなく――。
 一人、全く異なることを考えていた。
 毎年繰り返される夏に祇園祭や大文字を鮮やかに織り込んで、京都は美しく時代を超えていく。にぎやかな人ごみを見つめながら、小野はこの街がすきだなぁ、としみじみ思うのだ。めくるめく歴史の中で、街も人もどんどん変わって行く。だが今、大文字の送り火を見上げる気持ちは、小野も京都の土地の人も、観光客も、きっとみな同じだ。
 何千年も昔から変わらない気持ちがあるとすれば、それはこの都を好きだということ。
 怨≠フ正体はまつろわざる神の恨みである。誰も忘れ去られることを恐れている。人も鬼も、神や魂も。
 ―――信仰心をなくし、無に帰されることを心底恐れ、憎んでいる。
 だとしたら、この観光客たちこそがこの京都を守っているのだ。
 大文字の大きな炎に照らされて、みんなの顔が闇から美しく浮かび上がる。
 キレイだな、と小野は思うのだ。
 観光客やそれを暖かく迎える地元の人々――たとえ意識になくても、この賑わいこそが霊を慰め、呪いを諌めて、京都に祈りを呼ぶ。魔界の一番近くに存在する人間界に清らかな流れをつくっていく。
 ――俺たち鬼追は、その手伝いに過ぎないんだよな。
 千二百年も昔、この都を守り続けた偉人達も、きっと理由は同じだ。京都が好きだという理由だけでいい。それだけで、この都は生きていける。
 なんだか満ち足りた気持ちで、小野は五山の送り火を見上げる。そして、その胸に浮かんだのは、
「今年の夏も終わるなぁ……」
 という、実に平凡な高校生の意見だった。