MAKE UP! 〜ムーンライト・セレナーデ〜
作:さくら





 月の光がいつもより明るい夜は、なんだか安心して眠れる。
空気がうんと透明になって、怖いものが近づいてこないような気がする。


「リク!どうしてパパにご挨拶もしないで出てきちゃうのよっ!」
 新幹線のグリーン車ではしゃぎっぱなしのお姉が言う。平日の新幹線はガラガラで、この車両なんか貸切り状態だ。
私はまだテンションが上がりきっていなくて、背の高いお姉が網棚に荷物を乗せてくれた時に小さな声でありがとうと言ったきり、口から出るのはため息だけ。
 それに比べてお姉はしゃべりっぱなしだし、笑ったり歓声をあげたり、写真を撮ったりしている。
私のテンションの低さなんかお構いなしで。
 それでもお姉は、私をおいてきぼりにしない。ちゃんと二人がいる空間でお互いが自由にできる雰囲気を作ってくれる。
「リークっ。聞いてる?」
「私、あの人苦手なんだよね…。」

 一週間前、父が急に家族旅行をすると言い出した。一度言ったらきかない父。のんびりしていて嬉しそうな母。面倒だけど断れない私。
一泊二日で温泉旅館に行くことが一瞬で決まった。
 いつものように遊びに来ていたお姉に話したら、雑誌にも載ってる有名な旅館だと言って、誘われてもいないし、第一家族でもないくせに興奮していた。
 ところが、お姉と同じくらい張り切っていた父が出発の前日に高熱を出し、インフルエンザで入院してしまった。
旅行はキャンセルだし、父がいない家は静かでいいな。と思っていたら、せっかくの宿がもったいないからと母が私たちに旅行を勧めてきた。私が黙り込んだ一瞬の隙にお姉が大賛成したせいで、あっさりと二人旅が決まった。
 母はお姉のファンだし、すっかり仲良くなって、最近は二人で洋服を買いに行ったりするほどだ。
「お父さん、怒らないかな…」
 私が言うと、母は自信たっぷりこう言った。
「大丈夫!!若い二人で行ってらっしゃい!」

 私とお姉は、小学生の頃からの友達。お姉の本当の名前は松岡 創一で、男の子だった。背が高くて洋服のセンスが良くて、無理やり変な友達をつくらない人だった。高校で離ればなれになったけど、なんとなく連絡をとりあってた。
大学も別のところに入ったけど、二人とも美術を専攻した。私は卒業して実家に帰って、夕方集まってくる子どもに絵を教えている。
時々趣味の大人に教えたりもするけど、のんびり働いている。
 帰郷したら家の敷地にアトリエと絵画教室の入っている二階建ての建物があって、びっくりした。
 お姉は卒業してすぐにフランスに留学した。ファッション関係の専門学校に通っていたけど、どんなことをしていたのかは詳しく知らない。フランスで人生を見つめなおした創ちゃん(前はこう呼んでいた)は二年後、なぜか女になって帰ってきた。少し痩せて、すごく綺麗になってたし、パワフルで気さくで、最初はびっくりしたけど、今は女友達としてかけがえのない存在になりつつある。
フランスでは女性としてファッションショーのモデルもしていたらしくて、お姉の写真が載っている雑誌を見せてもらった。
 うちの能天気な母は、美しい元・創ちゃんを気に入って、とても仲良くしている。
父は私たちが会うことを快く思っていない。なぜなら、身も心も女になったとは誰も聞いていないから。
私も旅行のことをきいた時は動揺したけど、お姉には下心のかけらもなさそうだったし、とりあえず行くことにした。

「いくら苦手だからって、失礼じゃないの。あんたのパパが働いてるから駅までリムジン、新幹線はグリーン車に乗れるのよ?しかも予約でいっぱいの有名旅館をすぐにとれるなんて、普通できないことなのよ?
それにしても、リクの家って本当にお金持ちなのね…あたし、結婚しちゃおうかしら?」
「うちのお父さんと?」
「バカ!!リクとに決まってるじゃない☆」
「結婚式は二人でドレス?やだよ。お姉のほうが綺麗だもん。」
「ドレスはあたしだけ〜!ホラ、見てよこの足の長さ。ほら、ねっ、ねっ?」
 お姉はブーツカットジーンズから伸びている形のいい足を私のほうに投げ出した。
「せまいっっ!!!」
 お姉が履いてる華奢なミュールを脱がせて後ろの席に放り投げた。つま先まで手入れの行き届いた淡いピンクのぺティギュアには、たくさんのラインストーンがちりばめられている。私とおそろいの爪。
「バカ!!いくらしたと思ってんのよっ!!」
 慌ててミュールを取りに行くお姉を見ていたら、だんだん楽しくなってきた。
「やっとエンジンかかってきたんじゃない。スロースターターのリクちゃん。」
 お姉は、にっこり微笑んだ。

「リク、もしかして私たちまたあれに乗るの?」
「うん。ここから10分で着くよ。」
 私たちは黒くてぴかぴかで無駄に長い車に乗り込んだ。恐ろしく温泉街に似合わない車だ。
車は静かに走り出し、あっという間に宿に到着した。

「ようこそいらっしゃいませ。二名様、こちらの新館にお部屋をご用意してお待ちしておりました。」
 上品な女将に挨拶を済ませて、私たちが案内されたのは、畳が青くて清々しい香りを放っている清潔で新しい部屋だった。
「社長さんがお元気になりましたら、また皆様でいらして下さいね。お荷物はこちらに置かせていただきます。では、ごゆっくり。」
 家族三人で泊まるはずの部屋。和室が二つに、小さな庭園付き。垣根の向こうには一般の客室と大庭園、そして向こうまで続く竹林があるようだ。
「夜は竹林の散歩道がライトアップされて、けっこう綺麗みたいだよ。」
 私がパンフレットを見ながらそう言ってお姉のほうに視線を向けると、窓を全開にしてお姉がこっちを向いた。
「素敵。見てよ、ちょっとこっちいらっしゃい。ホラ、家族風呂がついてるーー!」
 小さな庭園には、檜の香りのする露天風呂まであって、透明なお湯から柔らかい湯気がたっていた。
「足湯でもする?」
 一瞬ひるんだ私を気遣ってくれたのか、お姉はあっさりとそう言った。
「やっぱりヒールの高いのばっかり履いてると、足がむくんじゃうのよね…。フットケアのクリーム持ってきたから、後で足ツボマッサージやったげる。ピーチの香りで、すっごくかわいいのー。」
 お姉は嬉しそうに部屋に入ってきた。
「あたし、早速お風呂行ってくるわね。」
 畳にペタンと座ると、大きなキャリーバッグを開けた。たった二泊するのにこの人はどうして海外に行くような量の荷物が必要なんだろう。今日の青空みたいな明るいブルーのバッグの中には、化粧品や洋服、そして箱が四つ。
「コレ、わざわざ…?」
「あら、中身分かるの?」
「だから、アレでしょ。まったくこのオカマは…」
 オカマと言われたのが気に入らなかったお姉は、わざと私に中身が見えないように箱の中をのぞいた。
「今日のは特別なんだから。ビックリするわよ?特注!なんとイタリア製!か〜わいぃ。リクには見せてあげないからねっ!」
「どうせズラでしょ?」
 私はげんなりした。こんな山奥の温泉街でイタリアのズラをかぶって自慢げに歩くお姉を想像する。
一緒に歩きたくない…。
「オカマって言ったこと、取り消しなさいよね。そしたら見せてあげてもいいけど…。」
「はいはい。見てほしいんでしょ?ごめんなさぁ〜い。」
 お姉のズラ。イタリア製の特注のズラ。綺麗なブロンドがルーズな後れ毛をたらしながら一つにまとめてあって、しかもお風呂で頭に着けるパイル地の太いヘアバンド付き。
 お姉は得意満面の表情で今被っているセミロングの巻き毛ズラをゆっくりとはずした。私たちは一言も言葉を交わすことなく、なんだか張り詰めた雰囲気で見つめあっている。お姉はそっと巻き毛のほうを畳に置き、箱の中から新品を取り出す。お姉のスキンヘッド、久しぶりに見た。
まじめな顔でイタリア特注を慎重に被ると、スッと立ち上がって、すごい勢いで服を脱いで、真っ赤なランジェリーの上にさっと浴衣を羽織った。
「じゃ、お先に〜。」
 にっこり微笑んだお姉は、鼻歌をうたいながら部屋を出ていった。
「…浴衣美人。」
 私の声は、お姉には届かなかったと思う。


「おいしかったわね、カニ鍋。」
 私たちは部屋でテレビを見たりお酒を飲んだりしながら、満ち足りた夕食を終えた。
「もう胃がちぎれそう。私お風呂行ってくるね。」
「じゃあ、あたしももう一回行こうかしら。」
 すっかり血行が良くなって、ほんのり顔が赤くなっているお姉は、とこのまの上に置いたイタリアのズラを取ろうと手をのばしかけた。
「一緒に入るのなんて絶対いやだからね!男湯行ってよ。」
 私が言うと、お姉はあっさりとズラをあきらめて、潔く立ち上がった。

 大浴場に続く廊下は人もまばらで、外はもうすっかり闇に包まれている。
「さっきはどっちに入ったの?」
 私の質問を笑顔でごまかして、スキンヘッドのたくましいお姉は男湯ののれんの奥に消えた。

 食べすぎでぽっこりと出てしまったお腹を隠すように洗い場に座り、髪の毛と体を洗った私は、すぐに露天風呂に向かった。
外気に触れた肌は恐ろしく冷たく感じる。急いで透明なお湯に体を沈めると、白い湯気が風で流されてゆく。まるでお湯の表面が剥ぎ取られているような現象を、しばらくぼーっと見ていた。お姉の悲鳴が聞こえたのは、その時だった。
「きゃーーーー!!無理よっ!!リク!助けて〜〜〜!!!」
「創ちゃん!?」
 竹垣で隔てられた向こう側から、お姉は確かに私を呼んだ。まさか本当に女になった創ちゃんが…?
竹垣は3メートルほどの高さだったと思う。


「さいあく…」
 さっきから私はそればかり言っている。
「ごめんなさいね。」
 お姉はいちいちそう答えて、優しくて大きな(でもとてもキレイな)手で、私の頭をなでてくれる。
どんな悪態をついても「さいあく」しか言えなくなって、たとえ100回繰り返しても、傷ついた私がこの人から責められることはない。
 
 露天風呂で男に襲われている(であろう)お姉を助けようと、私は3メートルの竹垣をすごい力でよじのぼり、男湯の空間に片足をかけたところでお姉と目が合った。
 お姉はびっくりしていた。温泉につかっていた人や、洗い場にいた人もびっくりしていた。
 お姉は、垢すり台の上に腹ばいになっていて、パンチパーマのおばちゃんが黄緑色の作業着にゴム長靴という格好でお姉の足の裏をこすっていた。あまりのくすぐったさに絶叫したお姉を、襲われてると勘違いして暴走した私は、顔が真っ赤になって、泣きながら部屋に引き返した。

 それからしばらく、私は畳にぺたんと座って泣いたり絶望したりしている。
体を洗っただけで、お湯に入りそこねた私の体は冷えきっていた。だけどお姉の手は温かくて、いつまでも優しく頭をなでてくれているから、なんとなくトゲトゲした気持ちが和らいでいった。
「リク、風邪ひいちゃうからもう一回お風呂入ったら?」
「もう恥ずかしくて温泉なんか行けないよ…」
「あら、家族風呂があるじゃない。」
 お姉は立ち上がってタオルの準備をした。てきぱきと機敏に動く浴衣姿のお姉は、すごく女っぽい。
「見ないでね。絶対だからね。」
 私は腫れたまぶたを両手でこすって、お姉を睨んだ。
「はいはい。」
 タオルを渡されて、障子とガラスを開ける。冷たい風が顔に当たる。手足はすごく冷たいのに、顔と頭は火照っている。
急いで浴衣を脱いでお湯に飛び込んだ。
大浴場とは泉質がちがうのだろうか。乳白色のお湯が柔らかい香りを放っている。
「湯加減はいかが?」
 ガラスと障子越しにお姉の声が聞こえる。
「すごく気持ちいい。」
 せっかくの旅行。あんなに喜んでいたお姉。私の早とちりでお姉を責めてしまったことに反省する。
今さら謝るのも恥ずかしいけど、やっぱり楽しくこの旅を終わらせたいと思った。
「お姉も入ればぁ?」
 できるだけすっきりと言った。それ以上の意味なんかないと示すために。
「そうするわ。」
 お姉は、またイタリア製のズラを装着しているようだ。障子の影で分かった。

「おまたせぇ〜。」
 なんとなく見ちゃいけない気がして、私は背中を向けていた。
お姉はちゃんとバスタオルを巻いて入ってきた。
「あんた、なに緊張してんのよ。おかしな子。」
 お姉はいつも通り完璧な女性で、私の女友達だった。
「見て。月がきれい。すっごくきれい!!」
 空を仰ぐとブルーをうんと濃くしたような空に、白い月がとても明るく浮かんでいた。
しっかりした光で私たちを照らしている。フラフラしたり間違えたりしてばかりの私たちを、きちんと見届けていてくれるような
優しくて強い種類の光。
「お姉みたいだね。」
 私はそれしか言わなかったけど、お姉にはちゃんと伝わる。いつも言葉が足りない私の気持ちを、この人はいつでも分かろうとしてくれる。
「あたしはあんな地味じゃないわよ。強いて言うなら太陽かしら。リクはホウキ星ってとこかしら。」
「ホウキボシってどんなの?」
「知らなぁい。なんか頭に浮かんだだけ。」
 私と同じくらいめちゃくちゃなことをたまに言う。酔ってるのかな?
「リク、恋してる?」
「うん。」
「彼氏できたらちゃんと紹介すんのよ?本当にふさわしい男かどか、あたしが見てあげるから。」
「うん。」
「あれ?文句言わないのね。つまんない。」
「お姉はいるの?…恋人。」
 彼氏、とか彼女、とか、どっちを言えばいいのか一瞬迷って言葉につまった。
「ヒミツ☆だけど、あたし今幸せだし。…それにしてもキレイなお月さま!!リク?」
「あ?」
「そのヤンキーみたいな返事やめなさい。」
 お姉が急に立ち上がった。タオル、巻いてない…。
「あ〜あ!のぼせちゃった!!先上がるねっ。リク、お月さまに失礼よ!!早く恋をしなさい!!」
 お姉のキレイなヒップが見えた。足、長い…。ウエストなんて私より細いかも???
女として接することが普通になってるせいで、私はお姉のプロポーションに嫉妬しただけで、肝心な時に例の疑問を解決することをすっかり忘れてしまっていた。でも、かえってこれで良かったのかもしれない。
 お姉はさっきまで体に巻いていたタオルをギュッと絞って部屋に入っていった。

 お風呂から上がって心も体もホカホカになった私たちは、ミネラルウォーターを飲みながら念入りにフットマッサージをして布団に入った。とても静かだ。別館だからよけいに物音が聞こえてこなくて、世界に二人で閉じ込められているような安心感があった。
 お姉は私の頭をなでてくれた。その手がいつ離れたのかわからなかったから、きっと私のほうが先に眠ったんだと思う。


 朝目が覚めると、お姉はもう起きていた。
「おはよう。おねぼうさん。」
「いま何時…」
「8時半。あたし、6時に朝風呂入っちゃった。リクも入れば?気持ちいいわよ。」
 私はのろのろと起き上がっった。
「お姉も入る?」
「やめとくわ。」
 障子越しに朝の光が射している。そっとガラス戸を開けると、昨日と様子が違う。
「お風呂、透明だ。」
 そう言って振り返ると、すごくいたずらっぽい顔で、温泉のもとを持っているお姉と目が合った。
「もしかしたらリクと混浴できるかなぁと思って、昨日こっそり混ぜておいたの。でも朝起きたら新しいお湯に全部入れ替わっちゃったみたい。」
 そういえば、ここに来てすぐ、私たちは透明なお湯が張られている家族風呂を見ていた。

「さいあく!!」
 私はやっぱりそう言ったけど、朝なのに珍しく自然に笑顔がこぼれた。