みかん
作:シオン





 冬と言えば、やっぱりこれ!っていうのが、人間誰しも一つや二つあるんじゃないだろうか。
 で、僕の場合。やっぱりみかん、なんだよなぁこれが。

 鍋もいい。時期じゃないけどクリスマスツリーとか、もう食べ飽きたお餅とかさ。いろいろあるけど、僕はやっぱりみかんが一番だと言って聞かない人種なんですよ。
 こたつの上に、籠一杯のみかん。これに勝る幸せがあるだろうか?いや、ないだろう。あ、これ反語ね。昔習ったんだけど。用法間違ってるかもだけど、気にしちゃいけない。昔のことだから。
 とにかく、寒い外から帰ってきたらこたつにダッシュする。この幸せは、やっぱり冬ならではだと思うわけですよ。猫はいないんだけどね。猫アレルギーだから。

 シーズンが到来した時からみかん、みかん、みかんの日々。朝昼晩はみかんで過ごす……なんてことには挑戦したことがないけれど、それはまあ経費の問題かな。みかんってそれなりに高いじゃない?一個で腹が膨れるものでもないしさ。一食分となると、いくつ食べれば足りるんだろう。うーん、今度挑戦してみようかな。

 みかんばっかり食べているので、友人Aに「そんなに食べるとみかんになるよ」とかわけのわからないことを言われた経験有り。みかんになるって、どういうことなんだよ。耳とか目とか鼻とか、首とか腕とか胴体とか、そういった大事な部分は何処行くんだよ。ついでに、りんごばっか食べてたらりんごになるのか!と言いたい。―ま、言わなかったけど。

 そういえば、みんなでババ抜きをしてた時、僕からカードを取ろうとした友人Bが呟いてた。
 「みかんをたくさん食べると手がみかん色になるって、本当なんだね……。」……そんな、しみじみ言われましても。
 確かに、手はみかんっぽい色に染まっている、かもしれない。別に毎年のことだから気にしてないけどさ。それでも女の子に、そんなふうに哀れんで言われると、結構ショックなんだなこれが。


 ―と、まあ僕のみかん好きの具合はわかってくれた、と思う。願う。信じてる。
 そして今日も、テレビを見ながらみかんに手が伸びまする。これで三個目。

 みかんを食べる前に、二、三回宙に放ってキャッチするのが僕流のこだわりだ。前にテレビで白衣を着た学者さんかなんかが仰っていたのだ(随分と髪の毛が寂しくなっておられた……なんだか、そういうのを見ると不思議な尊敬が沸いてくるね)。
「みかんを食べる前に何回か宙に放ってやると、その衝撃で実が甘くなります」とかなんとか。本当かどうかわからないけど、まあそういう動作がみかんに馴染む気がして、もはや習慣になっている。

 で、皮を剥く。僕の右手の親指の爪は、他のと比べて長めに保ってある。不衛生だとか言わないで欲しい。こうしておかないと、みかんの皮が剥きにくいのだ。長年の経験と知恵っていうヤツですよ、ふふふ。あ、すみません調子に乗りました。

 みかんって、一房一房の形が均一なものとそうでないものがある。僕はどっちも好きだ。だって味には関係ないし。けれど、形やら大きさやらが異なっているものは面白い。
 例えば、とびきり大きい一房。ああいうのって、大抵二つの房がくっついて大きくなっている場合が多い。それを割ってみる時、間に薄皮が残っているか残らずに完全な一房となっているか。妙なスリルが味わえる。だから僕はいつも大きいものは最後の方に残しておくのが好きだ。
 或いは、耳たぶみたいなちっちゃな房を見つけることもあるだろう。そういうのは他の普通サイズの房の間に挟まれていて、まるで親の間に守られている子供みたいだと思う。ごめんなさい、年甲斐もなくメルヘンなこと言ってますね。って、相手に年なんてバレるわけないんだった。そうだ、堂々としていよう。エッヘン。メルヘン万歳!

 そして、食した後のみかん。皮は天日に干して、お風呂に浮かべるとわ〜みかん風呂。嗚呼素晴らしきお婆ちゃんの知恵袋かな、ってね。皮まで大事にっていう精神はまことにご立派、天晴れなものだ。

 皮まで大事に、と言えば、友人Cの友人(仮にDさんとでもしておきますか。平凡でスミマセン)はみかんの皮まで普通に食している、らしい。
「巨峰の皮とか、そのまま食べる人いるでしょ。それと同じ感覚で考えれば別に普通じゃない」と友人C。成程、そういう考え方があったのか。

 で、ものは試しで僕も食べてみた。いざゆかん、みかんの皮の味とはいかなるものか!? ―その感想はちょっと教えられませんね。
 皆さんがご自分で、是非ともお試し下さい、と言うのが精一杯です、ハイ。