山にのぼろ〜♪
作:清水ひかり





「時代は登山よ!」
 やけに通りのいいハイトーンが、むだに元気に響きわたる。なんの前フリもなく俺――倉敷嬉多(クラシキウレタ)の日常は、あっけなく終わりをつげた。
 理科室のひき戸は耳ざわりな音をたてて滑る。いやいやながら首をまわせば、予想どおりの見慣れた、というよりも見飽きた少女――味噌根揺李亜(ミソネユリア)は立っていた。茶のポニーテイルは左右にゆれ、赤みをおびた瞳は今まさに好奇心に輝いている。非常に悪い兆候だ。
「リピート・アフター・ミィーッ! 時代は登山よっ!!」
 なぜ繰り返す必要がある?
 ユリアは意味不明なことをわめきながら、こちらに向かって突っ込んでくる。藍色のスカートをひるがえすと、俺の目前で急ブレーキをかけて停まった。息つく間もなく、ひとがつっぷしている机に両手を叩きつければ、
「時代は登山よ、登山なのよ。完全無敵にパーフェクトにエクセレントに。独善的かつ包括的に、時代は登山を推奨しているのよ。ああ、近頃はなんて天気がいいんだろう、まるで神様が山に登れといっているみたいね、そうでしょ、うれた。あ、やっぱりあんたもそう思う? 思うでしょ、思わないわけないわよね、思わなかったらそれはあれよ、神への反逆? よくわからないけど、悪い感じの何かよ!」
 と一気にまくし立てた。あまりに唐突すぎて、寝ぼけた頭では全くついていけない。その戸惑いも消え去らぬうちに、どこからか声は降ってきた。
「死体はトタンだと……なぜ小生がトタン屋根の裏に死体を隠したことを知っている? スパイか、北のスパイなのか!?」
 反射的に天井を見上げれば、薄汚れた板が一枚ずれていく。完全に開ききると、気の抜けたかけ声を発し、黒い影は落ちてきた。着地と同時に、ゴベシッと香ばしげな音が明快に響く。落ちてきたソレはバランスを崩し、床へと倒れうずくまった。
 紛れ込んだ衝撃的事件にユリアは、どうしようかというふうに視線をよこした。ほっとけと伝わるように、俺は首をすくめる。
 若干の間をおいて、その物体はのっそりと、何事もなかったかのように立ち上がった。白衣の埃を無言ではらい、癖っけな黒髪を乱雑にかき乱すと、スッと丸いサングラスを押し上げる。ゆっくりと上げた顔には、薄っぺらな笑みが浮かんでいる。
 立ってはいるものの、その右足はあらぬ方向に曲がったままだ。どう考えてもポッキリいっている。
「一応程度にきいてはやるんだが、大丈夫なのか?」
 俺の気まぐれ親切心に、彼はわざとらしく哄笑を返す。何がおもしろいのか腹をおさえ、身をよじったまま、ハッと人を小馬鹿にするよう吐きすてた。
「拙者ドクター・ニグルス。不死身の男なり」
 言いながら腰に右手をあて左手を額にふれると、斜め四十五度を見上げる。ポーズを決めているつもりなのだろうが、かっこいいなんてことは微塵も感じられない。
 なんにしろ、その珍妙な格好も一瞬にして崩れ去った。いきなり飛んできた丸底フラスコは緩やかな弧を描くと、ニグルスの顔面へときれいに入っていった。
 あたりに破片を撒き散らしながら、ガラスは砕ける。放課後の理科室で、いやに現実的な音だけが残った。
「試してガッテン!」
 フラスコが飛んできた方向をみれば、ハイテンションでユリアが両手を挙げて喜んでいる。つづけて彼女は第二波を繰り出そうと、褐色のビンへと手を伸ばした。そこにははっきり『硫酸』の二文字――流石にそれはやばいだろう。
 立ち上がりユリアを止めようとしたところ、白衣がさっと俺の前をさえぎった。
「待ちたまえユリアン。何か言うことがあるだろう?」
 頭から血を諾々と流したまま、ニグルスは意味不明に笑っている。傍から見れば随分とスプラッタな様相だ。
 ある意味命がけなニグルスの言葉に、ユリアはしばらくの間首をかしげると、ポンと手を打ち口を開く。彼女はこともなげに満面の笑みを浮かべた。
「笑ってるケガ人って不気味ね」
「ちょっと待てッ! ごめんねとか死んでなかったのかとか、そういうのだろうがッ!!」
 俺は思わず熱くなってツッコんでいた。
「不穏なものがあるがせいぜい53点だね」
 再びニグルスは短くハッと笑いをこぼす。自分から振っておいてそれはない――俺の非難がましい視線を気にもとめず、彼はピッと一本、指を立てた。
「ちなみに、ユリア君の解答は『ケデスバペデスの介護原則』より142.3点だ」
「私の勝ちね、うれた」
 いきなり立ち上がると、ユリアは俺を指差し笑いはじめた。一人で騒いでいるだけのはずなのに、やたらうるさく感じられる。
 このバカ二人の傍若無人ぶりは今に始まったことでもない。今更だが、どうして静かにできないんだ? 時には平穏を尊ぶことも必要だろうが!
「てな訳で、うれたは私の奴隷よ」
 それが必然であるかのように、ユリアはきっぱりと言い放った。
「はっ、何でそうなる訳だ!」
 まったく理解できない展開に思わず、俺の声もあららぐ。ユリアはそんな俺に冷たくため息さえついた。
「二秒ほど前に決めたじゃない」
「そうそう、我輩も聞いた。『俺が負けたら世界の中心付近で愛を叫ぶ』と、君だかユリアンが言ったり言わなかったりしたのを」
「どっちだそれは!? 曖昧すぎだ!」
 ため息をつきたいのは俺のほうだ。頭の芯がぐらぐら揺れ、奇っ怪な音が脳内を反射する。
「だいたい二秒前つったら、もう点数聞いた後だろ」
 その場で考え得る最も適切な指摘だった。
「じゃあ二分前ね」
 対してユリア、考えなしの即答――我慢しきれず机を叩いて、立ち上がった。
「じゃあ、じゃねえよッ!」
「全く君も文句の多い男だね。それでも武士かい」
 したり顔でニグルスがあきれたようにもらした。
「俺は武士じゃないッ!」
 魂の赴くままに絶叫する。
 ふっと暑さを感じて、額をぬぐえば袖口がぬれた。どうやら相当に興奮してしまっているようだ。舌打ちを一つし、椅子に座りなおす。こいつら相手に何を言っても仕方がない、そんなことはとっくの昔にわかっていたはずだ。
 細胞一つ一つがざわめいていた。視界はときおり歪んだ色彩を見せつける。落ち着かせようと、腹の底から深く空気を押し出した。
「あーもうあれだ。話をはじめに戻そう」
 どっと押し寄せてくる疲労感に、頬杖をつき俺はなげやりに言った。
 がたんと大きな音を鳴らし、椅子は激しく床を叩いた。ひょいと目をやれば、二人は驚愕をその目に映し固まっている。
「いくら窮地に立たされたからって、ごまかすなんて!」
 口に手を当て大仰におののくユリア。
「同意だ。ごまかすなんてナンセンスな上に卑怯だよ」
 ニグルスは肩をすくめ、がっかりだという風に息をはく。
 そのときだった――頭の中で回路が一つずれ、激しく熱く爆ぜたのは。
「うるさい」
 言の葉に、最大限の殺気をこめて――。
 一瞬走る沈黙に冷徹を見出す。理科室を緊張が疾駆した。足裏は弾と苛烈に机を打ちぬく。手の内には、硬く怜悧な感触がよみがえってくる。握りしめたグリップを通して、鋼鉄は荒れ狂う脈動を貫いた。戦いに臨み死を求める。漆黒に染む機関銃が俺の手によって構えられた。
 呆然あっけにとられたのか、場は完全な静止に落ちる。だがそれも一瞬のみ、すぐさま音は跳ね上がった。
「待ちたまえェ、ここは平和的にィ、日本国憲法第九条辺りにもッ!」
「女の子には暴力をふるわないべきだと思うのよ。フェミニストとかいうのはなしよ」
 手をはげしく振り回し、眼球を上下左右に巡らせ、口を高速に開閉させながら、二人は足をばたつかせる。こっけいにも後図去ろうともがいている。
「黙れ」
 腹の底から全ての憎悪をぶちまけた。重苦しい鋼鉄が咆哮する。強固な反動が頭蓋を震わせた。銃線は窓を枠ごと飛ばす。壁そのものを抉りとる。なにもかも跡形もなく崩れ去っていく。壊れる、壊れていくんだ……つーか、壊れてまえ! オケラだって、アメンボだって!!
「それは蜜柑のことだろうがァッ!!」
 形を失う世界の中で、俺はひとり哄笑をあげていた……ような気がする。
 物々はその意義を失い骸と化す。粉塵と果てコンクリートは降り注いだ。次第に大きな破片を交えて。乱れる銃火が鋭い金属音を響かせた。それを合図に、天井は一息に右へと傾く。こらえきれずにその形と意味を放棄した。瓦礫の雨の中、それでも俺は叫んでいた。
 ――血色の光が両目を刺す。ふとあたりを見渡せば、俺を閉じ込めようとするものなど何一つないと知る。両手を目の前に掲げてはじめて、ひどく震えていることに気づいた。
 砕け散った灰色のコンクリート、鉄筋は剥き出しにその姿をさらす。黄昏どきの斜陽はすべてをじかにオレンジ色へと染め上げていた。
「戦いとは空しいものだ。すべてを失ってしまうとはな」
 一人感慨深げに立ち上がる。右ポケットに手を入れると、タバコを一本だけ取り出した。ゆるりと空に紫煙をくゆらす。というのは嘘で、未成年の強がりに俺はシュガレットをくわえた。
「あんたのせいでしょ、きっぱりと」
 瓦礫の海からユリアが顔を出す。どういうわけか無傷なのがちょっと気に食わない。
 その横からひょっこりとニグルスも生えてくる。こいつにいたっては白衣すら汚れていない。それどころか血まみれサスペンスも回復してやがる。
「いったい、我々は何の話をしていたのだろうか……」
 紅くなった空に視線をうつし、誰にいうでもなくニグルスはつぶやいた。
「そうよ、話を戻しましょ」
 ユリアはざっと破片を落とすと、こほんとひとつ咳払いした。それは何か大切なことを言う際の、ユリアの癖だったりする。
「死体はトタンよっ!」
「もうお前黙ってろ」
 ぞんざいにシュガレットを投げつければ、うまい具合にニグルスは口でキャッチした。
 ユリアはもう一度咳をすると、場の空気を正す。何のための演出かわからないが、若干の間が生じる。そうして――いつもの緊張感のない、やや高めの女声をあげた。
「時代は登山よ!」

 まるで光を忌避するように、その一室は暗く閉ざされていた。空気に浮かぶ塵さえ落ち、何一つ存在を主張しようとはしない。ゆったりと時すらもその動きを止めようとする。
 目張りの隙間から細く、光の線が走った。二つのシルエットがかすかに浮かびあがる。
 一人は豪奢なつくりのソファーに、深くその身をまかせていた。赤く透き通る液体のみちたグラスを片手に、くつろいだ余裕の姿を見せる。けれど、その態度とは裏腹に映る影は細く小さい。体が薄く、肉付きが悪いのだろう、ひどく弱々しい印象を与えている。
「奴等をこのまま、山に行かせてもいいんスか?」
 もう一人が、ゆっくりと顔を上げた。くぐもった声を重く場に響かせる。対称的に彼の体躯は大きい。全身を覆うは、鍛え抜かれた硬き肉の鎧だとうかがい知れる。巨躯の男は椅子の男に向かってかしずくと、正面を力強く見据えた。
「この学園の登山を仕切るのは我々のはずっス」
「もちろんだとも」
 椅子の男は不敵な笑みをこぼすと、大仰に右手をかかげる。親指と人差し指を擦らせパチンと音を鳴らした、つもりだったのだろう――ぱすっと情けない音が、静かな空間に余計に響いた。
 ひざまずく男は気まずさからか、沈黙を保っている。椅子の男は右手を手持ち無沙汰に上げたまま、か細い声で叫んだ。
「特殊諜報係よ!」
 けれども、応える声はない。彼の叫びは狭い部屋へと有限に反射を繰り返した。その余韻も消え去ったころ、巨躯の男はおずおずと小さく左手を上げた。
「それは俺のことッスか? もともとこの部屋にいるっス。ていうか、一緒に話してたっス」 
「いやお前はいなかった、そういうことにしよう。こういうのは雰囲気が大切だからな」
 椅子の男は彼の言葉を、ふっと鼻であしらった。あきらめの感を呈して、巨躯は無情にため息をつく。そういったもろもろの事を無視したまま、椅子の男は言葉を続けた。
「それできゃつらの登山予定は分かったのか?」
「恐らくっスが、或ケ岳では無いかと……」
 二つの視線が暗室に交差する。四つの瞳は同時に揺らめき、妖しげな輝きを放った。全ての言葉が空間へと解けていく。
 ゆっくりと意図的に、椅子の男は口の端を吊り上げた。
「フフフ」
 はじめは押し殺され潜められた笑い声だった。
「ハーハッハッハッハッ」
 次第に増してゆく勢いに空気が弾けた。天を仰ぎ、神仏をも一笑に付すかのように激しく哄笑を上げる。
「ハハハハッハハハ、ゴホゲホゲホゲホ」
 むせた。シンとしなる冷気、再び床に埃は積もる。脆弱な咳が不自然に部屋にこだましていく。
 随分たって息を整えると、椅子の男は勢いよく右手を横に伸ばした。
「妨害だ! きゃつらの登山、なきものにしてくれようぞ!!」
 黒のガクランは翻り、より一層細い体を見せる。先の失敗を踏まえ、控えめな哄笑をまじえた高らかなる宣誓に、巨躯の男は右手を左肩に当て敬意を表した。
「御意」
 重厚な音色で彼は確かに応える。その眼光のあまりの鋭さに椅子の男でさえ一瞬怯んでしまう。
 やせた男はふっとその緊張を解くと、ソファーへと身を沈める。再び口の端をつりあげ、巨躯の頼もしさに暗闇に笑い声を響かせた。優雅な所作で左手のグラスで円を描く。彼は満足したかのように、なだらかに波打つ半透明の液体を口へと運んだ。
 淵を辿りソレが唇にふれた途端――男の左手からグラスは滑り落ちた。硬いタイルにふれ砕け散ったガラスは、細かに光を反射する。
「ど、どういうことだ……」
 左手で口元を抑え、わなわなと体を震わせる。驚愕に目を開きながら、正面へと視線を移す。巨躯はその姿を直視し得ず、目を逸らした。その顔にはあせりの色が浮かぶ。
 椅子の男は眉をひそめると、ようやく言葉を発した。
「なんかシュワシュワする〜〜」
 口をへの字に曲げ、情けない声で。
 巨躯は顔を背けたまま、ぼそっと呟きを落とした。
「今日のジュースはオレンジ微炭酸『パーチパッチみかん色』ッスから」
「それじゃだめなの。『100ぱーオレオレおれんじ』がいいの」
「いや、まあ、そのー……。売り切れだったッス」
「100ぱーじゃないとやなの、だめなの、100ぱーがいいのぉ」
 椅子をガタガタと揺らし、手を上下に振り回す。目の端にはうっすらと涙さえ浮かび、今にもなきそうな雰囲気だ。駄々っ子以外の何者でもない。
 その姿にある種圧倒されながらも、マッチョはガクッと大きくうなだれる。そうしてのしかかる疲労感からか、あるいは単なるあきらめなのか、深く――肺に溜まった空気の塊を押し出した。

 右を見ても木、左を見ても木。どこからか小川のせせらぎが聞こえてくる。小鳥もぴーちくぱーちくやっている。
 或ヶ岳、或途市南東に位置する。まぁよく知っているというわけでもないが、高くなければ低くもない、もちろん有名でもない。
「って……なぜ俺はここにいるんだろう?」
 誰に言うでもなく、自然と愚痴がもれた。独り言――ややもすると自己の年齢に重みを感じてしまう。本来は元気一杯、青春真っ盛りであるはずなのだけれども。
「随分と哲学的な台詞ダネェ」
 後ろから軽く肩を叩かれた。どうしようもない疲労感に打ちひしがれながらふりかえれば、いつもと変わらぬヨレヨレ白衣のニグルスがうすっぺらに笑っている。
「いや、そういう問題じゃねえんだよ」
 今日何度目かのため息を俺は落とした。より一層倦怠感はつのる。
「俺は登山がしたいわけでもないのに、なぜ登山ルートの入り口に立っているんだ?」
「ならば、帰ればよかろーに」
「そうもいかねえだろ」
「なにゆえ?」
「あれだ」
 ぞんざいに右のほうを指差させば、その先にはユリアが立っている。
 彼女の格好は何というか冒険者っぽい。抹茶色の布地のしっかりした服に、無意味なほどにつばの広い帽子をかぶり、鉄板が仕込まれていてもおかしくない程、ゴツい様相を見せる靴をはきこなす。日帰りで帰れるだろうにテントまで持ち歩いている。背負うリュックサックもパンパンに膨らみ、なぜだか黒い柄が飛び出していた。
「あそこまで張り切ってるユリアを無視して帰ると……」
「帰ると?」
「殺されるな。最低限」
「それもそうだ。我輩とて命は惜しい」
「いや、それはまだ良い方だ。それ以上かもしれん」
「それ以上?」
「ん……ああ」
 自分からふったにもかかわらず、俺の言葉のキレは自然と落ちる。嫌な汗が背中をじっと濡らしていた。虫の羽音に似たノイズが、耳障りにくりかえされる。
「たとえば、なんだというんだい?」
 体が発する警告を振り切り、俺はふっと目を閉じた。
 瞬間、思考の渦がねじれた。頭蓋そのものが激しく、全方位から押し潰される。駆け巡る激痛に、体は勝手にのたうちまわった。叫びをなそうと口を開くも、こぼれるのは意味を成さない喘ぎでしかない。
「だめだ。思い出しては。い、命が、危ない。忘れていなければ、精神が崩壊しかねない。体が忘れようとしている!?」
 止まらない悲鳴、湧き出る血飛沫、赤く染まった部屋、僕をにらむ幾つもの目、そして冷ややかな声――。
 思考の幕は降り、瞬時にブラックアウトする。我にかえれば、目に映るのは青々と豊かに繁る木々だった。額にはべったりと脂汗がまとわりつく。無様にも膝を折り、俺ははいつくばっていた。
「それはやたら怖いね……」
 顎に手をあてがいながらニグルスは呟いた。精神の安定を図るためか、本能がその記憶を封印しているのかもしれない。
「でも、まあ一日。ユリアの道楽に付き合ってやれば良いだけだ」
 乱れた呼吸を整え、俺は山を見上げた。あきらめ半分に、自分に向けて言い聞かせる。
 山頂もそう遠くはない。一日もかからず行って帰ってこれるだろう。少なくとも精神の危機に遭遇することはあるまい。
「果たしてそうかな……」
 小さな声でニグルスが囁いた。その言葉は脳幹へとこびりついた。
 生ぬるい風は山の麓で淀んで消えゆく。それはどこか不吉さを孕む。背後でいきなり、黒い茂みが音をたてた。言い知れない焦燥に、俺は体ごと振り返る。
「はたしてそーかなっ」
 とうとつにも、忍び笑いを交え響いた。かすれた余韻があたりに漂う。そのか細い声質は三人の誰のものでもなかった。
 茂みが再び震えだす。ぬっと黒い棒が突き出された。あまりに細く、生きたものとは感じられない。だがよく見れば、それは人の腕だ。先端についた五本の指は何かを求め、わしゃわしゃとうごめいている。もう片方の腕が現れ、ついで毛に覆われた頭が飛びだした。下を向いたままで表情は隠れている。
 腕同じく脆そうな足が抜け出すと立ち上がり、それはユラユラと全身を揺らした。その体つきは人間というよりも、どこか骸骨じみている。身長は低く、小学生ほどしかない。
 硬く乱れた黒髪に、ぎょろっと飛びでた目玉、右の口端だけを吊り上げ、薄気味悪い形相をこちらに向けた。――ただ、どことなく、なんというか、間が抜けている。
「いや、そのくだりはもう終わったし」
 思わず俺はぽつっと呟く。
「直前にニグルスが言ったセリフともろかぶりしてるだろ」
 緑の山へと俺のツッコミは響きわたった。
 謎の男は硬直する。口をあんぐりと広げたまま、眉一つ上げることもない。あからさまなまでに、驚愕を体現している。
「隙ありっ!」
 俺の背後からユリアが叫んだ。突然走り出すと、俺とニグルスの間を駆け抜け、高く飛び上がった。その手には例の黒い柄――まさしく日本刀が握られている。ユリアは落下の勢いを活かし、殺傷武器を謎の男に叩き付けた。硬い何かが砕けてしまったような、そんなリアルな音が鳴った。一瞬の間をおいて男は地に落ちる。
「安心して、峰打ちだからっ!」
 切り下げた刀を放り投げ、こちらに振り返りながら、ユリアは親指を上に立てた。その後ろでは謎の男が泡をふいている。
「ならば安心だね」
 俺の傍らでニグルスはほっと胸を撫で下ろす。
「お前ら、峰打ちだったらなんでも許されるとかないんだぞ、おい」
 笑い始める二人に一応程度にツッコミを入れておいた。なんだか展開が急すぎて、逆に頭は冷えていた。
 がさがさと茂みがもう一度音をたてた。今度はすっと素早く巨体が出てくる。がっしりとした体躯に、刈り上げられた頭、垂れがちな優しそうな目――って、どこかで会ったことのあるような……。
「同じクラスの太田だったっけ?」
 マッチョは深く頷きを返すと、俺にむかって小さく頭を下げる。とりあえず挨拶程度に俺も会釈を返した。太田君は倒れたままの男に近づき、ひょいと担ぎ上げると、
「じゃあ、そうゆうことで」
 と呟きながら、出てきた茂みへと去っていった。
 ユリアとニグルスは変わらず、哄笑を上げている。いったいなんだったんだ、今の一連の流れは? まったくついていけないんだが……。
「ぼちぼち出発だよ、うれた君」
 ニグルスにぽんと軽く、背中を叩かれる。『ああ』と短く俺は返した。
「さあさっそく山に登ろー!」
 ユリアはいつものハイテンションで、空へと右手を上げる。その背中にはあの重装備はない。首をめぐらせ捜してみれば、そこいらに乱雑に投げ捨ててある。置いていくのかよ!
 空は晴れあがり雨の心配もない。絶好のハイキング日和とも言える。なんとなく――長い一日になりそうだ。

 みずみずしく繁る葉を掻き分ける。細い枝が折れ、軽快な音をたてた。いったいこの動作を何度繰り返したことだろうか? いい加減にもう『うんざり』も『げんなり』さえも越えて、あえていうなら『うっへり』とした気分だった。
 足元はでこぼことしていて、うっすらとしか道を見出すことはできない。いわゆる一つの獣道というやつがずっとつづいていた。
 俺の前を白衣の背中が進んでいく。さらにその前では、ポニーテイルが揺れている。彼女を先頭にたたせたのが、やはりまずかった。どう考えてもここは登山道ではない。
 道なき道を歩いたこの二時間。俺は何度、引き返そうと言ったことか。だが、そのたびにあの脳天気娘は、根っからの楽観的口調で言った。
『私の前に道があるんじゃなくて、私の歩いた後ろに道ができるのよ』
 とかなんとか。ほっぽりだして俺だけ帰るわけにもいかず、ついでに帰れる保証もなく、今もこうして三人で列なして歩いているというわけだ。
 そんなことをやくたいもなく考えていると、ユリアが突然にあっと声をもらす。ふと出た感嘆詞には、喜びと驚きとが交じりあっていた。伏せていた顔を上げれば、遠くのほうにうっすらと光が見える。なんとか開けたところに出たらしい。
「はっはっはっ、絶景かな絶景かな」
 ニグルスの笑い声がつづいた。前方から涼しげな風が吹き、頬を撫で去っていく。自然、足取りは軽くなり、あまつさえリズムを刻みはじめる。木々のトンネルを抜けるとそこは――
 ――飛び込んできた視覚的情報を即座にシャットダウンする。迷うことなく目をつぶれば、視界は黒に埋め尽くされた。
 いったん落ち着こう。深呼吸して気分リフレッシュ。夢だ、あれは夢だったんだ。いくらなんでもありえないだろ。人生ってのはさ、幸せの不幸せのバランスってやつがとれてるもんなんだよ。俺は今まで苦労して歩きとおしてきたんだ。それなのに、あれがこうあれな具合だったとしたら、どうにもこうにも不公平すぎるだろう。バランス崩れまくりだ。
 いや、待て、倉敷うれたよ。現実から目を背けてはならない。真実を二つのまなこでしっかと見極めるのだ。たとえそこに一筋の希望すらなかったとしても。頑張れ、頑張るんだ、俺。現状を強く受け止めろ!
 覚悟を決めると俺は顔を上げ、前を見据えた。正確に言えば、見上げた。これはどうしたものだろうか――正直そう思う。いきり立った崖が立ちはだかっている。高さはざっと三百メートル程、だろうか。角度はほぼ垂直に近く、こちらがわに反り返ってさえいる。落ちたら死ぬ、間違いなく死ぬ。
「次々と立ちはだかる難関……燃えるわねっ」
「うむ、一句詠みたい気分だね」
 ニグルスは顎に手をあて、うんうんと頷きを繰り返す。ユリアにいたっては拳を握り、俄然、闘志を燃やしている。
 ここは或ケ岳の中腹、だろう。せめてそうあって欲しい。いや、大切なのはこれからどうするかだ。まともな思考を辿ったら、結論は一つしかないだろう。
「戻るか」
「は?」
 すっと自然にきびすを返せば、後ろから不満もあらわな声がかかった。
「なんでそうなるわけ? 戻るのは敗北と同意、すなわち死を意味するのよ」
 仕方なく振り返ると、ユリアが全く理解不能というふうな視線を俺に向けている。
「お前が何でそう考えるのか、こっちが聞きたいぐらいだよ!」
「そこに山があるから?」
「疑問形で返すな!!」
 一メートルほどの距離をとって、対峙する。説得の余地はまるでない。どころか、言葉が通じているかもあやしい。
「人は何から生まれたと思う。このみなぎる大自然パワーの中で死ねるなら最高ですか? 最高です!」
 ニグルスが二人の間にわいてでてきた。相変わらず、言っていることの意味はほとんどわからない。というか、ややこしくなるからお前は出てくるな。
 ――ひゅっと、何かを弾いたような音が鳴った。
 どこからか勢いのない矢が一本、ひょろひょろと視界を横切ってゆく。崖のところまで飛んでいくと、刺さらずぽてっと地面に落ちた。
「矢?」
 しゃがみこみ、落ちた矢を手にとる。よく見れば、根元になにかくくりつけてある。
 そのとき、誰かが俺の頭にそっと触れた。
「うれた、今なんて言ったの?」
 そのトーンは異様なまでに静謐だった。けれども、声質から彼女以外には有り得ない。
 置かれた手にぐっと力がこもる。俺は頭をしっかと掴まれ、無理矢理に後ろを振り向かされた。
「『いや』って……そう、うれたはそういうコト、言うんだ……」
 うつむき加減に笑いを零した。その目には安寧など僅かもなく、おぞましいほどの愉悦が揺れていた。
「ち、違う。矢だよ矢!」
 雰囲気に圧され、どもってしまう。持っていた矢を必死になって差し出した。より一層に、ユリアの殺気は猛っていく。
「あら……こんな殺傷武器まで持ち出して。本気で私に反逆するというのね」
 反逆って、おい……。本当は声に出してツッコミたいのだが、今はそんなことをしている状況じゃない。
 必死になって眼球を左右に動かした。しゃがみこんだ白衣の背中が見つかる。
「助けてくれ!」
 力の限りをつくした叫びに、ニグルスは興味なさそうに首だけこちらに向けた。
「今、人生ゲームの途中でね」
「どういうマイペース加減だよッ!」
 まったくあてになりゃしない。すさまじく無駄なことをしてしまった。
「……覚悟はできたのかしら」
 冷たいトーンを保ち、ユリアが囁いた。俺の背筋をツーッと何かが滑っていく。
「安心して。私って結構寛容だから、ここで死ぬか登って死ぬか、選ばせてあげる」
「死ぬことはすでに決定事項なのか!?」
「正当防衛ってヤツね」
「断じて正当じゃないッ!」
「じゃあ、あれね、合法殺人」
「そんなものあるかぁっ!!」
「あれ、今年から改正したんだったっけ?」
「昔からそんな法律は、この国ニッポンには欠片もないッ!」
「ここってインドだからいいんじゃない」
「インドなわけないし、インドだってそんな法律があるわけあるかぁッ!」
 生死をわける戦いに、俺は残る生命力全てを賭けた。声帯がぶっ壊れて、使い物にならなくなるほどツッコんだ。息切れするほどの連続技に、ようやくユリアはようやく口を閉ざす。興ざめしたのか、あっさりと未練なく手を開いた。
 多分――早々に飽きたのだろう。ユリアは非常に熱しやすく、冷めやすい。なんとか助かった……。
「で、その矢ってなんなの?」
 彼女の興味は早速、別なものに移っている。俺の右手をじろじろと見つめて、彼女は言った。矢って、お前はもしかしてちゃんと聞こえてたんじゃないのか? 勿論わざわざむしかえすことはしないが。
 随分とつける位置が後ろのほうではあるものの、その矢には手紙が結われていた。
「なんだい、それは、うれた君?」
 都合よく終わる人生ゲームもあったものだ。細く折られた紙を広げていると、ニグルスも後ろから覗き込んできた。
 紙切れは折られすぎて、グシャグシャになってしまっている。手で押し広げれば、いくぶんかマシになる。そこにははでかでかと汚い字で『TZB参上』とだけ書いてあった。
「TZBってなんだよ?」
「簡潔すぎて逆にわけわかんないよパターンってやつかい。全く何でも頭文字をとって略したがるとは、愚かな傾向だね」
 ふっとニグルスが嘲るように笑う。
「おそらく我輩が思うに、とんま・雑魚・ブス。低俗きわまりない」
 あっさりと答えるが、それだけは絶対に違うと俺は確信する。ユリアがハイと元気よく手を上げた。別に挙手制で大喜利やってるわけじゃない。
「ターニング・ゾーン・ブラストじゃない」
「なんだよ、それは?」
「ターニングでゾーンなブラストの事よ」
「余計に意味がわからないだろ」
 まったく一体なんなんだ? 考えても見当すらつきそうにない。というかヒントがほしい。脈絡なく謎をつきつけられても、本当にどうしようもないだけだ。
「一つの仮説としては有力だが、如何せん証明がない。まぁ、どうでもいいことだ」
 悩む俺からニグルスは唐突に矢文を奪いとると、やたらめったら破って捨てた。
「そうね」
「そうか?」
 いまいち釈然としないが、ニグルスとユリアの間では完結したらしい。二人は他愛のない会話を繰り広げながら、崖のほうへと歩いていった。
「そうかそうか――TZBが何の略か聞きたいか」
 背後から、いきなり声は響いた。一応俺だけはそちらに目を向けてやることにしよう。
「知りたいのだろう。教えてやろう、それは――」
 暗い森から枝葉を踏みしめ、その男は現れる。間違いなく麓であった例の骨っこだった。
「いやもうその話題は終わってしまったし」
 あわれだとは思ったが、俺は言ってやった。
 ガーンとかズゴーンといった感じの擬音が、彼に落ちていく。謎の骨は落胆して地面に倒れ込む。目は恍惚とし何も見えていないようで、その色を失っていた。全体的に白く灰のようなオーラに包まれている。題をつけるなら『絶望』しかないだろう。
「なんだかなあ……。出てきて名乗るんなら、矢文の意味ってあるのか?」
 かなり分かりやすく落ち込んでいる。はた目から見ればおもしろい。
 大きく枝が揺れ、森からもう一人でてくる。マッチョの太田君だった。とりあえず俺が小さく会釈をすると、彼もこちらに少し頭を下げる。
「毎度お騒がせ致しました」
 そんなことを呟きながら、ガリガリ少年をひょいと拾い彼はまたもや森へと消えていった。あのコンビはなんだってんだ? なんというか、間の悪いところにタイミングをあわせるのが凄くうまい。
 振り返ればそこに崖がある。現実というか、現実で、現実だった。あんまり死にたくはないんだがなぁ……。

 一歩一歩を確実にのぼってゆく、それこそが基本のキ――などとあれこれ考えている場合ではない状況下に、俺はわが身を置いていたりする。
「なんだってこんなことしてんだ……」
 一人寂しく呟けば、青空に声は消えてゆく。
 次の段差に手を伸ばすと、土くれはあっさりと崩れ落ちた。はるか下へと転がってゆく。しばらくたって、遠くのほうで何かが砕けるような音が小さく鳴った。思わず自分の身と重ねてしまう。
 ユリアは当たり前のように、命綱など用意してはいなかった。生身でロッククライミングの真っ最中というわけだ。
「遅い、うれた。早くしないと落石が発生するよ」
 すでに崖を登り終えたユリアが、上のほうで叫ぶ。こっちは命の危機に瀕しているというのに。
「そうだね。人を待たせるのはマナーに反する事だ。して、ユリア君。この地盤で落石はそう簡単に起きないように思われるのだが」
 そしてもう一人、ニグルスの声がふってくる。あいつはいったいどういう体の構造をしているのか、家庭内害虫のようにすばやく登っていきやがった。
 それにしても、会話の内容が聞き取れるということは案外に崖の終わりも近いのかもしれない。緊張が緩み、どっと汗がふきだした。
「落ちないなら、私が落とせばいいじゃない」
 声を潜めたつもりなのだろうが、はっきりとユリアの声は俺の耳へ届いた。えらくあっさりと言ってくれるが、それは明らかに犯罪だ。
 とりあえず、つかれきった体に再び気合をいれておく。いかな悪事であろうとユリアなら実行しかねない。急ぐに越したことはないだろう。
「ったく、なんで俺だけ苦労してんだ」
 再び、無駄な呟き――本当に無益だ。今更だとも思う。生まれてこのかた、幼なじみのこいつらにずっと振り回されてきた。自然と自分の半生が省みられるのは、死期が近づいているせいだろうか?
 ゆっくりと慎重に、忘れかけそうな平凡な方法で、崖を登っていく。伸ばした先は不安定な出っ張りではなかった。最後とばかりに腕に力を入れる。土の壁ではなく広がる大地が顔を出した。足を踏みおろせば、強い反動が返ってくる。久しぶりの崩れない大地に喜びが押し寄せた。
「早すぎよ。これから、石落とそう思ってたのに」
 ユリアが俺につっかかってくる。ひょいと視線を移せば、彼女の隣には直径一メートルほどの灰色の塊が転がっていた。
「それは岩だろ」
「だって大きくないと当たらないじゃない」
「誰に当てるんだ。というより、そもそも当てようと思うな」
「そんな勝手なことばかり言わないでよ」
「勝手はお前だろ」
 けれどもやはり、身の危険は去った訳ではなかった。こいつらといる限り、俺に命の保証はないだろう。とりあえず一時の身の安全に、俺は大きく深呼吸した。頂上に目をむければ、案外高いところまで来たのだとわかる。
 首をまわしてふと気づいた。珍しいことに、ニグルスが一人黙って立っている。
「何かあるのか、ニグルス」
「いや、君たちの方もおもしろそうだが、あれもおもしろいのでね」
 ニグルスは視線の先、登ってきた崖とは逆の方向を指さした。
「あり?」
 呆れて出てきた言葉はそれだった。例の謎骨が茂みから出たり入ったりしている。うんうんうなったり、時にはよくわからない――芸術的とも取れるポーズをとったり。確かにおもしろい見世物だ。逆立ちしたり、逆エビぞったり、のたうちまわったり、時には駄々をこねたり。説明不能なほどに意味不明なポーズもすくなくない。
「なんであいつがここにいるんだ?」
 俺たちのほうが先に出発したのだから、すでに来ているなんてのは、おかしなことだ。
「あれあれ」
 言いながら、ニグルスが少年の横手を示す。そこにはたった一つ、立て札がそっと佇んでいた。
『楽々ハイキングコース』
 今までの苦労はいったいぜんたい何だったんだろうか? 俺の人生、俺のすべて――わざわざ崖を登った危険とかは? なんだ、その無駄さ加減はよ!?
 あふれ出そうになる涙を堪えるその最中、骨男の近くにある茂みが一つ、大きく揺れ動いた。
「ブチョー、やつら見てるっすよ」
 マッチョの太田君、三度目の登場。土の上でバタフライ中の骨人間の肩を叩く。正確に言えば、骨折を恐れたのだろう、太田君はそっと触れた。 
「邪魔しないでくれ、部内特殊諜報係君。僕は今、登場ポーズの研究を……えぅ。何だって。奴らが来ているだと」
 太田君いわく『ブチョー』は妙に機敏に立ち上がった。俺たちの姿を確認すると、大仰に驚きを示す。
 あたふたとおろおろを存分に繰り返した後、キッとこちらを睨みつけ、どびしと指を突きつけた。
「いっ、いつの間に? 貴様ら、伝説の勇者の末裔か。もしくは駅前のビル四階のざ・忍者スクールの生徒か!?」
「いやなんというかまあ……忍者スクールの生徒よかは、伝説の勇者の末裔と思われた方がマシか」
 一応思ったことを素直に呟いておく。いつのまにやら俺の右にニグルス、左にユリアが立っていた。ブチョー&太田君に対峙する形ができる。覇気とかそういうのはまるでないけれども。
 俺の呟きを聞いているのかいないのか、ブチョーはとうとつながら高らかに哄笑をあげた。
「そうか、そうか、気になるんだな」
 一人腕を組み、大げさに深く頷いた。十分な間を空けると、彼は言葉を続けた。
「我々はTZBすなわち、」 
「かなり強引な展開じゃないか」
 セリフをさえぎり、率直な感想を俺はもらす。ニグルスも同感なのか、首を縦に振る。
「ちょっと、待ってくれっす」
 太田君が遠慮がちに手を上げた。
「ブチョーに言わせてあげないと、話がススまないっすよ」
 離れたところで、ブチョーは背を向け座り込んでいた。『の』の字を地面に書き、わかりやすくいじけている。
「なんだかなあ……」
「実に面倒極まりないネ」
「相手してあげるしかないんじゃないの」
 どうにもグダグダな進行に、三人ともうんざりといった感じだった。場の空気に緊張感などまるでない。
「で、TZBって何なの、早く言いなさいよ」
 流石のユリアもなげやりな口調だ。右足を揺らし、落ち着かないそぶりを見せている。
「そうせかされても困る……」
 ブチョーは立ち上がると、眉を下がらせ、口を歪ませ、どことなくいやな表情をむけた。
 その態度に早くも、彼女にしてはついに、右足で地面を激しく踏み抜いた。さっきのブチョーに対抗するように、ずいっと指を突きつけた。
「注文が多いわよ。注文が多い料理店は名作かもしれないけど、あんたが注文するのは論外よ!」
「えっ……だって……」
「だっても、ヘチマもない」
「ヘチマは関係ないような」
「つべこべ言わずに、早く名乗りなさい!」
 ユリアと部長のやり取りには、早くも絶対的な上下関係のようなものがあった。これが捕食するものとされるものの差だというのか。
 消極的にうつむきかげんに、ブチョーはぼそぼそと口を開いた。
「えーと、じゃあ、名乗るけど」
「がんばるっすよ。ブチョー」
 後ろから太田が声援を飛ばす。傍目わかりやすく、ブチョーは少し勢いを取り戻す。
「そうだそうだ。そう! 我々はTZ……」
「中略」
 奮闘むなしく、途中でユリアの声がさえぎった。絶対的な力の違いを見せつけられ、
「そのあの、僕たちはアルト学園登山部です」
 後半の方は尻すぼみになりながらも、ブチョーはなんとか名乗りをあげた。
 とりあえず第一段階を三度目の登場にしてようやくクリアといったところか。流れを止めると厄介なので、俺はとなりのニグルスに小声で話しかけた。
「登山部をTZBにするのは、間違っているだろ」
「確かに略称にはなっていないな」
「うちのガッコって登山部あったのか」
「いや、さあ」
「そうだよなあ……」
 そんなヒソヒソ話を打ち消したのは、向こうサイドではなくこっち側の笑い声だった。ユリアがうつむきかげんに震えながら、異様な雰囲気を垂れ流している。
「こ、こわれた?」
 そう思えるような押し殺された笑みだった。存分に異質な空気をかもし出した後、ユリアはぱっと顔を上げると、再び大上段に構えた。
「やはり、わたしたちの妨害にやってきたのね! アルト学園登山部っ!!」
「そうとも、我々登山部は貴様らの登頂を阻むため、ここまで来たのだよッ!」
 さっきとうって変わって、高圧的な態度でブチョーがユリアに対する。この人は相手にしてもらえると調子に乗って性格が変わるらしい。
「登山部以外の人間に山を登らせる訳にはいかないのだ」
 無意味にポーズをつけつつ、ブチョーは言い放った。その様に太田は一人拍手をそそいだ。
「ブチョー、決まったっすね」
「ああ、念願の夢がかなったよ。練習してきたかいがあったね」
 登山部二人は泣いて喜びあう。ひとしきり嬉しさを味わい満足すると、再度こちらに向き直った。
「と言う訳だ。ここは、登山部の名に賭けて通さん」
 叫ぶ部長の後ろには、或ケ岳の山頂がある。謎の骨男――通称ブチョーは全然問題ない。あんなガリっ子は一網打尽の一撃必殺だ。危ないのは彼の背後に立つマッチョ、本名は確か太田松千代(おおたまつちよ)。あの巨体をくぐりぬけ頂上に向かうことができるかどうか、非常に難しいかつ面倒だ。
 そんなに山に登りたくはないというのが、本音ではあるが。
「先にいけっ! ウレタあ〜んどユリアン」
 何の前触れもなく、手を振りかざしニグルスは叫んだ。登山部二人と、俺&ユリアの間に割って入ると手を広げる。
「はっ、うえっ」
 驚きのあまり俺に言えたのはそれだけだった。
「小生のことなら、気に病むことはない。この場は我が命をかけて守り通す」
「だめよ、ニグルス。あなたをおいて行けないわ」
 ユリアが涙混じりに言った。俺の知らぬところでこの展開は成立したようだ。
 幾分か間を空けて、ニグルスは呟いた、風に乗せるような感じで。
「……ずっと好きだった」
「は? 意味不明すぎるだろ」
 言ったとたん、無言でユリアにはり倒される。理不尽きわまりない。
「ニグルス……」
 余韻を残してユリアが囁く。
「ユリア……」
 ニグルスも同じように。
 全く何だってんだよ。支離滅裂でどこにツッコめばいいかすら分からない。
「条件二十九、泣きながら別れる二人。これで大体の条件はクリア、と」
 ニグルスはそんなことを呟きながら、どこから出したのか黄色い紙にチェックをつけた。何がなんだかさっぱりだ。限界などとっくにすぎたのではなかろうか。
「あー。もう、どうだっていい!」
 その思いは言葉となり、自然と口から飛び出していた。
「結局おまえらは何が目的だってんだ。まずは、そこの登山部部長!」
「えっ、何というか、その……」
 部長は俺の気迫に気圧され、言葉にならない呟きを繰り返す。あっさり見切りをつけると、マッチョの方に向きなおった。
「もういい。登山部員、代わりに言いやがれ」
「登山部は部員が少なすぎて、学校から部費が出ないっす。その腹いせに学園で登山に出かける奴の妨害をしようと、部長が言い出したっす」
「『っす』が余計だ」
「でも、これがないとおれのアイデンテ……」
「うるさい黙れ。鬱陶しい」
 うむを言わさず、登山部員にまわし蹴りを食らわす。巻き込まれて部長も倒れた。
「次っ。ユリア!」
「なによ。うれた。その態度は」
 反抗的態度をとるなら致し方がない。上着のポケットを探れば、硬い感触があった。
「言え」
 短く放ちながら、取り出した黒い拳銃をユリアに向ける。幾分かユリアは慌てふためいた。
「えーと、今日の南中に或ケ岳山頂に一番に到達したものの願いが叶えられる、という話を聞いて……」
「なんで、俺とニグルスを連れてくる必要があったんだ?」
「なんでって、そういう物に犠牲は付き物でしょ」
「人を犠牲にしようと思うな!!」
 手の内の拳銃を乱射する。無論、すぐに弾は尽きた。いささかの興奮に肩で息をする。適当にぶっ放したというのに、なぜだか誰にも当たっていなかった。
「我輩には聞かないのかい」
 ちっとも汚れていない白衣を身にまとうメガネ男、ニグルスがひょっこりと俺の前に出現した。
「お前には発言権なしっ」
「そこまで言われては、言うしかないな」
 この状況下なんだから少しは人の話を聞けよ。
「君が騒いだりするのがおもしろ……」
 言ってる途中のニグルスに、拳銃を投げ付けた。クリーンヒットで後ろにのけぞっていく。
「そういえば、うれた君はユリアンの言ったことが気にはならないのかい」
 だがそれでも地球外生物は体勢を立て直し、そんなことをのたまった。一瞬ではあるものの虚を突かれる。
「南中時に山頂で願いがかなうという……」
「ウソだろ」
「では、あれは」
 ニグルスは山頂を指さした。その先では何かが神々しく光り輝いている。
「何!?」
 確かに光っている。何かが光っていることは光っている。妙に気負ってしまう。そこにはまるで神が住まっているかのような。
「古文書によると、或ケ岳に棲むマヨネーズの神は千年に一度、山頂に降臨して人の願いを叶えるとか叶えないとか。ちなみに今日はそのちょうど千年の日だったり」
 頭の中で何かが盛大に弾け散った。純然たる真実に証拠は要らない。理性ではなく本能が理解する。
 今日一日でぼろぼろになっちまったスニーカー――最後の仕事だと言うように、何も考えず地を蹴った。山頂向かって一直線に走り出す!
「うれた! ちょっと、抜け駆けはセコいわよ!!」
 さっきまで倒れていたというのに、ユリアのスタッカートも加わる。
「あっ。ちょっと待って、山頂には我ら登山部の許可がないと」
 ブチョーの声がそれにつづいた。
「待ってくれっスよ、ブチョー」
 太田君も後を追って走り出す。
「さて、話の流れ的に小生も行くとするか」
 そして、ニグルスさえも地面を思いっきり蹴った。
 光り輝く山頂へと走った、全力で。誰もが自分が勝つ事を望んでいた――そのほうが盛り上がるから、そうしておこう。
「リミッター解除ッ!」
 興奮は力のたがを外した。数倍に能力は跳ね上がる。
 走った、ひたすら走った。足が痛む。それでも止まらない。止まるわけがない。俺は必ず幸せになってやるんだ。
 残りはわずか十メートルほど。完全に横一線に並んでいた。光はすぐそこにあった。誰が手に入れるかは分からない。誰もが自分とは思いつつも、それを疑っていた。
「俺だっ!!」
 手を伸ばせばもう光はあった。平穏も安全も何もかもが我が手に――、
「やったのう。頂上じゃ」
 え、あれ〜……そうゆうのってありなの、か?
 爺さんが立っていた。なんだかよくは理解しがたいのだが、よぼよぼの今にも死にかけな、入れ歯をなくしてフガフガいってそうな、骨と皮ぐらいで未来などない、ちょっと言いすぎかもしれないが、そんな感じのご老人が立っていらっしゃったそうな。
 一歩、二歩、静止。俺の足は勝手に止まっていた。
「山頂に足を踏み入れし者よ。汝の願いを聞きましょう」
 どこからともなく謎の声が聞こえてくる。
「さあ、年老いしものよ。汝のねがいを」
 数秒の間をあけて、老人は予想通りふがふがと口を開いた。
「最近、便所の流れが悪くてのう……」
「汝の願いを受け入れた」
 一瞬、激しく光を放つと、それを最後に霧散し消えた。
「よくはわからんがよかったのかのう」
 真っ昼間の山頂でじいさんは一人大きく伸びをした。

 腰を下ろし、草の感触を存分に味わう。心地よい山の風が吹いた。頭の中の整理がいまだにつかない。色々なことが一度にありすぎて。何かをやった後の達成感はある。何をした訳でもないのに。ため息のようで、微妙に違うように、俺は息を細く吐いた。
「ブチョー。山はいいっスねエー」
「そーだねー」
 登山部の二人は、草の上で仰向けに寝転んでいる。その視線の先には、どこまでも無限に空は広がってゆく。
「登山とは人生.lzh。そんなところ、か?」
 流れる雲を眺めながら、ニグルスは微笑を零した。サングラスの向こうに潜む、不似合いな鋭い眼光が緩む。アホであることには変わりはないが。
「ねえ、うれた……」
 いつの間にか、ユリアが俺の横に座っていた。
「何だ?」
 なるべく興味ない風にぶっきらぼうに答えておく。
「また山に登ろうね」
 ユリアの滑らかな長髪が流れ、口元にはうっすらと自然な笑みが浮かんでいる。そういう顔をされると、こっちはすっごく弱い。知らないだろうけど。
 山頂を吹き抜けてゆく涼風は、柔らかに頬を撫でてゆく。草の端がそっと舞い上がり、落ちていった。

 とまあ叙情的に締めてみたものの、追加でもう一人分ぐらい願い聞いてくれないかなあと、色々やってみたのは言うまでもない。ああ、平穏が欲しい。