新聞バトルロワイヤル 第一章
作:大谷時江美





〜発見〜


 時は西暦二千十五年のある夏のことだった。
 昭和とか平成とか、いちいち面倒なんだよなぁ、紀元を使ってもらいたいなぁ。
 と思いながら、野木は旭日新聞を広げた。シミシミシミシミ。蝉が絶叫している。
 政治欄に目を落とす。
 「【新国旗及び国歌に関する法律】が、明日参議院で審議される」
 難しそうな出だしだ。
 しかも、語調はおだやかで冷静で、中立といっても良かった。
 ざっと見渡したところ、公の機関や民事機関の式典で国旗掲揚と国歌の斉唱を義務付ける法案、という事実をのべ、愛国心の低下への危機感に歯止めをかけるという意味も含まれているだろうが、日の丸・君が代への嫌悪感もあるから、視野に入れて欲しいというものである。
 旭日新聞は、日本を代表する新聞の一つ。
 どうしたんだいったい。いつもの反骨精神はどこ行ったんだ。
「今後の議論が期待される」
 ちっとも面白くなかった。
 政治欄なのだからあたりまえだ。
 しかし野木は違う意味で、違うものを期待していたのである。
 ……また、図書館に行くしかないのかなぁ。
 野木はため息をついて、旭日新聞を眺めた。
 家で取っているのは、この新聞と嫁入新聞だけだった。


 歩いて十分のところに図書館があるのだから、新聞を見比べるならすぐにも出発するべきで、家で二つの新聞を取っているだけでは、満足が出来なかった。
 新聞は日本では数十種類発行されている。全国規模の新聞は数種類。思想を比べるのには絶好のチャンス。
 野木は鼻の穴を膨らませて得意そうに道を歩きはじめた。
 旭日新聞が左翼思想で、嫁入新聞が右翼思想で、とというくらいの知識は持っている。垢肌新聞を基準にすれば、嫁入新聞なんか右翼の権化だということになるが、逆に嫁入新聞から見れば赤肌新聞は極左であるのだ。しかし新聞フリークなわりには、肉桂新聞と枚那智新聞は眼中になかった。
 比較したらこの二つが二つとも、微妙に立場が違っているのだが。
 細かいことはさておき、野木は旭日新聞の政治欄を見るとすぐに、他の新聞がどう書いているのか見るために、図書館に出向いていった。思想などというといかにも、うさんくさくて面倒くさそうと、思わず引いてしまうので、こんな単語は他にないのかと思うところだが他にない。日本語には思想というと色物めいた扱いをされるのでこういうことになる。
 思いつく限りの新聞を並べて、なんとか旭日新聞の本音をあぶりだそう、と野木は考えた。
 たぶん、なんとかなるはずだ。
 司書はすぐ、リクエストに応じてくれるだろう。
 がらがらの図書館で新聞を借りる人はほとんどいないためか、司書は顔を見るなり、「今日は垢肌新聞? それとも説教新聞?」と、まるでマックの店員のような対応をしてくる。これは結構恥かしい。まっかになって戸惑って、「いえ、その両方を」と言うのが常で……なんて話をすると、別の話になってしまう。
 司書がとてつもなく美人なので、それを目当てにいつも野木が新聞を読みにくる……のはストーカーじみているが、野木にとって気の毒なことにこの美人さんは、彼が新聞で面接のための情報を集めている気の毒な就職浪人だと思い込んでいた。
 知らぬが仏である。
 まあなんにせよそういう間柄なので、今日もまた新聞を見せてくれ、「毎度ありがと」とウインクの一つもしてくれるのではあるまいか。
 いやあ常連というものはいいものだなあ、と勝手に安心しきってしまったのだが甘かった。
 いつもの司書が出てこなくて、かわりにはじめてみるあばただらけの女がカウンターの向こうに坐っていた。それもそのはず美人司書は棗(なつめ)のような中年男とお見合いして結婚してしまったのであった。
 棗のように膨らんでいて、脂ぎっていて、浅黒いのである。しかも窓際公務員。美人さんは不幸になるに違いない。
 話がまたそれてしまった。
 ともかく、野木は改めて図書館に置かれた新聞を、あばた女から手に入れて覗き込んだ。
 まず、旭日新聞をもう一度確認する。
 隅から隅まで、なめるように見て気がついた。
 特集だ。
「君が代・日の丸問題を考える」。
 今日の日付。
 気がつかなかった。
 しかし、これで旭日新聞の目的がまたハッキリした。
 野木は思わず、小躍りした。
「やっぱりだ! こうでなくっちゃ!」
 大きな声が、図書館中に響き渡った。
 そして、新聞を振り回しながら、そのあばた女にみせびらかせた。
「ねえねえ、これ見てよ。やっぱり旭日新聞だねえ、やるもんだねえ」
「お客さん」愛想のない役人口調であばた女は言った。「ここはどこか、お判りでしょうね」
「はあ」
 野木は一瞬たじろいで、
「いや、図書館です……」
 蚊の鳴くような声でうつむいた。結構気弱なのである。
「図書館では、お静かに」
 『アルプスの少女ハイジ』に出てくるロッテンマイヤーさんみたいに、あばた女は宣言した。
「いや、それどころじゃないんですよ」
 野木は新聞をばっと広げておいて見せた。棒がカウンターに叩きつけられてがしっと嫌な音を立てる。折り目のところにカーテンのレールみたいな変な棒が入っているのでそうなるのだが、これは新聞を取りやすくするためにあるものだ。一般的に新聞は、のりの養殖のような棒にぶら下がっているときが多い。
「あの! 机に傷がつくんですけど!」
 あばた女は眉をつりあげた。
「あ、いやその」
 野木はたじろいでもごもご口の中でつぶやいた。いいじゃないか、ちょっとくらい机に傷がついたって。
「ええっ? 今なんとおっしゃいましたッ?」
 あばた女は威圧的だ。
 野木は新聞を抱えたまま、一歩退いた。
「な、なんでもありません」
 この女じゃぁ、話にはならない。
 もっと別なエモノはないか……
 そうだ! お隣のケンジに見せてやろう。
 彼は躍り上がって出入り口に走り出した。
「お客さんッ!」
 背後であばた女のキンキン声が響いた。やばい。走ってはいけなかった。
 瞬間、足を緩めると、なおも女が叫んだ。
「新聞を持って出ないでくださいッ!」
 思わずびくんと身を震わせて、おずおずとカウンターに引返した。
「ども、すみません……」


 それから十五分後、野木大輔は小野寺健二のところで、麦茶を飲んでいた。片手に新聞。日本の現状に目にもの見せてくれると思い、野木大輔は、小野寺の私室に座って正義の怒りに燃えていた。
 四畳一間の机の上に、小野寺の趣味のゴジラ・フィギュアが置かれている。野木と小野寺は机のそばに坐っている。友達の家にいても、野木はいつものようにリクルート・スーツだった。髪は七三に分けているが、暑い日ざしによる汗でぐちゃぐちゃになっている。ねっとりした風が吹いている。図書館に行くときだってこの格好だから、美人司書がカンチガイするのももっともである。この記録的に長い不況のために、就職口がないのも事実であったが、野木は大学三年生でスーツが似合う自分を知っているのでそれで着ているだけのことである。嫌味なヤツというわけではなく、単に背が百九十センチ近くもあるので、Gパンを穿いていても奇妙に間延びするのがイヤだっただけ、のことだ。野木大輔のところは、オヤジもいつもスーツを着ている。これはスーツが似合うとか似合わないとかは別の次元で、単にとりあえず着ておれば安心というだけ。そういう日本のおっさんは多い。野木大輔には妹がいて、こいつはイケイケギャル(死語)であった。まあなんにせよ、よそのうちに来て新聞を振り回しているマッカーサー元帥のような巨体というのは、それはそれなりにかなり迫力があった。
「これ見ろよ。なにか気つくこと、ねーか?」
 その迫力に驚いている小野寺の机の上へ新聞を広げる野木。
 がらがらっと机の上からゴジラ・フィギュアが落ちて行く。下に落ちたゴジラが壊れる前に、慌てて小野寺は拾い上げて大事そうにそばの戸棚に置いた。戸棚にはゴジラと名のつくありとあらゆるビデオが並んでいる。
「うーん」
 小野寺健二は、考えに沈んだ。何か気づくことと突然言われても、どっちも灰色の紙で、気絶しそうなくらい小さな文字がたくさんあって、なんだか難しそうだということには変わりない。
「うーん……」
 とは言え、親友の気をそぐような真似はしたくなかった。元来大人しい性格で、友達もあまりいないので負い目があるのだ。野木はたくさん友達がいるから小野寺なんかいつもなら鼻もひっかけないのだが、たまたま近所だったのでエジキにされているのであった。自分でもそれは判っていたが、あまり気にはならないでいる。
「どうなってる?」
 野木が聞くので、小野寺は一面を見た。新聞の名前が印字されている。
「うん、旭日新聞だね」じっと眺めている。
「そういう意味じゃない。違う個所があるだろう、よく見れば」
 野木はイライラしてヒントを出した。
「違う個所ねえ……」
 小野寺は面食らった。よく判らないが、それなりに返事をしないと野木にどやされてしまう。彼の家は嫁入新聞を取っていたので、旭日新聞ははじめてだった。まっさきに見るページをめくってみる。先ほどは気がつかなかったが、なるほど、違うことはすぐわかった。
「たしかに違うといわれれば、四コマ漫画は違うなあ。おれ、<にゃんチャン>って結構すきだな」
「漫画はいい、漫画はッ」
 野木は、乱暴に自分の持ってきた旭日新聞のある部分を突きつけた。
「新聞と言えば、記事だろうが。おまえ、ちゃんと新聞読んでるんだろうな?」
「なんだ、記事を読むのか」
 文字を読むのは面倒である。しかし、そんなことを言っている場合ではなさそうだ。小野寺は目を走らせた。そして驚きの声を上げた。
「これは……」
「いかにおまえでも、すぐ気がつくだろ」
 野木は鷹揚な気分に浸ろうと決意した。
「うん。気がついた。こりゃすげーおもしれーや、『今日のオススメ番組』が旭日新聞と嫁入新聞とでは違う」
「番組欄を見るなッ」
「だって他に、見るとこねーじゃん」
「新聞を見るんだったら社説か政治欄だろうがッ」
「そうなのかなぁ?」
「あったりめーだろうが、だからさっきからその話を……」
 と言いかけて、ちらと小野寺を見た。
「おまえな、旭日新聞は日本で一番発行部数の多い新聞だぞ?」
「ふーん。要するにベストセラーってことだね」
「コラムが大学受験にまで使われてるんだぜ?」
「オレはもう大学生だ」
「おい、真面目に聞けよ。世の中がこの新聞を読むってことはよ、世の中の意見をリードするってことじゃねーか」
「そうなのかぁ?」
「決まってるじゃねェか。旭日はこの特集を組むことで、世の中の動きを変えようって腹だ」
「ふーん」
 やっぱりなんだか、よく判らない。よく判る話題にしよう。
「それで? 美人司書とはうまく行ったのか?」
 前に一度、図書館に無理やり連れて行かれたときに、コイツが本命だなとピンときたのだ。野木だってはじめから、「新聞の思想」なんてコケオドシを標榜していたわけではなく、単に美人さんの気を引きたくて思想だの政治だのと言っていたのだろうと、小野寺は踏んでいる。
 ピンぼけもいいところだ、と野木は思った。
 しかし、いつものことなので取り合わないことにした。
「だからさ〜。旭日新聞ってやるもんだとおもわねーか?」
 野木は自慢たらしく、家から持ってきた旭日新聞の「特集」を示した。
「小学教師に日の丸、君が代について訊ねてるんだぜい。たった一人にインタビューして、それを全面的に記事にするんだもんな、いい面の皮だぜ。この小学生教師が日教組だってことくらい、オレにだって見当がつくもんな!」
 小野寺健二は野木大輔とは違って、ぜんぜん思想だの政治だのには関心がない。まして、この話のどこがポイントなのかさっぱり判らなかった。
「なんだ、カノジョにフラれたのか」
 小野寺は、勝手に解釈してくつくつ笑った。当たらずとも遠からずである。
「おまえんなー、少しは社会問題に気を配れよ」
 野木はため息ついた。
「ほらココここ。こういうところに特集を組むことで、左翼思想に読者をひきずりこもうとしてるんだぜ、ちょっとあからさま過ぎる気がしないか……」
 小野寺は、完全に無視した。
「でも、司書はその子だけじゃないんだから、めげずにがんばれよ」
「もう、あの美人司書はいなくなったよ。かわりにあばた女だ。ともかく、オレの話を聞けよッ! 旭日新聞の左翼ぶりをじっくり研究しようじゃないか」
 有無を言わせぬ言葉遣いだ。
「でないと、オレかえるからなっ」
 帰ってもらっては困る。せっかく遊びに来てくれたのに。
「左翼……。っていうと?」 しぶしぶ、話に参加する。
「日の丸・君が代反対勢力だよ」
「へー。それ反対してるの」話についていこうとするあまり、「反対勢力を勝利させるなんて非国民だねえ」
「そうそう」思わず賛成しかけて、「いやまだ反対勢力は勝利してないんだってば」
「あっ。あーそうそう、そうだったそうだった」小野寺は嬉しそうに頷いて、「新聞が反対するなんて、滑稽だねえ、はははは」
「そうそう」やっと話が通じて、野木も嬉しくなってきた。
「とにかく、やり方があざといんだよ。次はどんなテを使うのか、すごい楽しみになってきたよ。またくるぜ」
 ひらり、とそう言うと立ち上がり、
「あばよ」
 石原裕次郎の真似をして立ち去っていった。
 小野寺はへらへら笑いながら、今度はどんな司書が入ったんだろう、こんなに燃えてる野木ははじめてだぞぉ、とこころにつぶやいていた。
 旭日新聞は、この特集だけで終わらなかったのだった。
 そしてもちろん、司書と野木と小野寺の関係は、これだけでは終わらなかったのである。