新聞バトルロワイヤル 第二章
作:大谷時江美





     〜家族〜


 ひとしきり、自分がいかに新聞を冷静に眺めているかという論説を小野寺健二にぶったあと、野木大輔はマンションにとって返してもう一度旭日新聞を眺めていた。政治欄はまあまあ普通だが「特集」は合格点。何度読んでもケッサクであった。オヤジも同じ意見のはずだ。いちおう、時事問題には敏感なはずだった。
 大輔のオヤジは大都新聞の政治部記者で、日帰り出張したり徹夜になったりする不規則な生活。そんな父が新聞を二つ取っていたのは、そうしないと政治家や上司との接待の話についていけないあるいは話題をリードできないからである。接待ゴルフや宴会もそうだが、お得意さん(つまり政治関連の役人や議員)と個人的に一杯飲むときなどでもニュースの話題がよく出る。この不況でリストラされたくなかったら、勉強は欠かせない。それに少しでも多くの情報を知っていれば、ライバルと差をつけることができる。父は帰って来ると必ず、新聞を比較する。嫁入新聞に載っていない話題が旭日新聞に載っていたり、またその逆だったりする。それだけのために五時起き。たいていの新聞は五時から六時に配達されているのだが、二つのうち一つでも新聞が配達されていないと、電話をかけて配達させてしまう。無理やり届けさせ、じっくり紙面とにらめっこしたあと民放で「新聞チェック!」番組を必ず見る。「新聞チェック!」という名前の番組ではなくて、新聞各紙のニュースをそれぞれ独自の視点で取り上げて紹介する番組である。何という番組名だったのかは覚えていないが時々ご飯を忘れるほど夢中になって見ている。父が仕事に行った後、または、帰ってこないときもそうだが、インクの匂いが薄れて新聞紙も若干くしゃくしゃになってから、大輔が読んでもいいことになる。インターネットでも親子は新聞を読んでいる。ここまで来ると、新聞フリークというより新聞ストーカーである。資源ゴミのときに出す古新聞はひどく重い。ちり紙交換車などないので、力仕事は野木大輔の仕事になる。小野寺健二と違って一戸建てではなくエレベータのない古いマンションの8階(中古で手に入れた)に住んでいたので、重たい古新聞を出すのは母親には少し荷が勝ちすぎていた。別に立候補したわけではなく、母親に怒鳴られてしかたなく協力してやっているのである。束ねた新聞を持って収集所に行くと、業者が待ち構えて奪うように取っていってしまう。ちり紙と交換してくれたことは一度もない。けちだなぁと思う。一度くらい交換してくれてもよさそうなものだ。面と向かってそうタンカを切りたい。と思って面と向かって業者と張り合ったことは一度もない。結構気弱なのである。紙が再生されていくのは地球環境にもいいはずだった。新聞から知識が増え、用済みになっても資源が流用されるのも結構なことだ。
 なにはともあれ、特集の中に出てくる小学教師の話はこんな風だった。
「日の丸・君が代は、日本のアジア侵略という大きな過ちの象徴です。すでにご存知のように、政府は一九九九年に強引に国旗国歌法を制定してしまい、国による思想の押し付けへの懸念はますます増加していっております。政府のこのような行為は、この過ちを我々日本人が反省すべき罪だ、ということを教育する上で矛盾になるのです」
 ここで野木はうんうんと目を細めた。―――これまでさんざん聞かされてきた「日本侵略者論」の持ち主だ。まったくすばらしい正義感の持ち主が教育担当者だな。
 どうせとんがったメガネをずり上げて、キーッ! とわめく、あのあばた司書みたいなヤツだろう。
 同時に思った。くだらない教師だ。日の丸・君が代がおおっぴらになったからといって、侵略者論をぶつだなんて論点がショートしすぎている。政府がそんなに悪意があるものか。考えすぎもいいところじゃないか。
 野木大輔は続く数行を読み始めた。一行あけて、旭日新聞の主張が述べられている。
「ここ数ヶ月のうちに、新しい国旗国家法が制定しそうだ。しかし教育の現場では、このようにわれわれの子供たちへの悪影響が心配する声もある。日本の戦争責任を考えると、とても日の丸・君が代と両立しないと考える人もいるという。
 もう一度、平和というものを主眼にして、この問題を考え直す必要があるのではないだろうか」
 野木は一度読んだあとでもそうしたのだが、今度も胸をなでおろした。
 やはりこうでなければならない。
「あら―――なにしてんの、そんなとこで」
 大輔の母親が、旭日新聞に張り付いている大輔を、珍しそうに眺めた。
「やけに帰りが早いわね」
 野木大輔は旭日新聞をさっと隠した。彼はこの母が苦手だった。美人だから苦手というより、女は概して苦手であった。もちろん司書やマック、ローソンにスーパーなどの役人や店員は除いての話。彼らは単なる店または図書館の飾り物であって、「女性」ではない。カノジョいない暦二十一年。野木自身は自分を、性格が良くて思想にも強い、立派な人物だと思っているが、それに似合ったカノジョをまだ作れなかった。
 野木の住む埼玉には、いい女などいないのだろう。しかし周りは合コンや部活やその他もろもろ(たぶんバイト先)から、どんどんカノジョを調達している。そしてどんどん「アレはよかったぞー」と自慢する。どーせオレだけ童貞だよ。でも変な病気もらわねーから、健康優良児なんだよっ! と野木は小野寺に当り散らす。小野寺もカノジョがいないが、それは最近彼女に振られたからだ。なんでもセックスが下手だったからだという。それはそれで結構情けない。
 大学卒業まであと一年。一度は自立して下宿したい、ということを言ったこともある。高校のときからずっとその話をしているのだが、「仕送りにするお金がない」と断られ続けている。バイトもすると言って説得しようとしたけれど、「女の子を連れ込むに決まってる」と母親に言われてしまう。もちろんそういう気はたしかにある。女の子に関心のない青年なんていないに決まってる。だけど家にいたらテレビはある、『鳩よ!』はある、新聞は二つもある、ネットでチャットにハマりたいしプレステ5でFFもしたい。おまけにプレステ5で遊んでいると「いい加減にプレイさせてよッ」とすごい剣幕でやってくる妹の綺麗な足が気になってしょうがない。プレイさせてという言葉に思わずぞくっとくる。そんな言葉まで気になってしまうなんてオレって変態かなぁ。ともかく誘惑がありすぎるんだよな。それで自立したいのだけれど、両親は全然理解してくれない。カノジョが相変わらず出来ない。
 母親にちょっと言われたくらいで自立を諦めるなんて、やっぱマザコンなのかなあ、オレ。と深く反省する。マザコンでもいいじゃないか、と開き直る。でも内心は自分がマザコンだとは思いたくない。複雑である。
 ともかく、新聞を背後に隠したものの、がしゃがしゃっと紙がほどけて床に散らばってしまった。慌てるとロクなことはない。
「まーた、新聞を読んでたの。そんな暇があったら、就職活動なさいッ」
 母親は、いつものお小言を繰り出した。「あんたみたいな三流大学生が、偉そうに新聞なんか読むもんじゃぁないわよ」それは偏見だろうと思ったが、「青田刈りが普通なんだから、来年になってから行動したんじゃ遅いんだよっ」一言もない。「いったい、どういうつもりで役にも立たない思想なんかに関心を持つのかねえ」「困ったもんだねえ、誰に似たんだろうねえ」自分の遺伝子にはそんな部分は全くないと言いたいらしい。大輔は不満の声を押し殺す。野木大輔は、無愛想で昔かたぎの父親を尊敬していた。自分を子ども扱いせずに新聞の比較も教えてくれた。お陰でオレはそんじょそこらの大学生より、ずっと個性的だ。変わった趣味を持っているといって、友達に自慢しているんだぞ。
 もちろん思想の比較というのは野木にとっては魅力的だし、半ば本気で自分は個性的だと思っていたのだが、本当は「新聞比較が趣味」というのではなくて、「新聞フリークなのだなと人に思われること」が趣味だと言えばそうに違いなかった。人に「歴史は面白いぜ」とか「海が俺を呼んでいる……」とか、ちょっとインテリがかった、あるいは気障といってもいいが、そういうことを言って「おお、なかなか面白い趣味を持っているね」と年上や友達に感心されたりするのが好きという屈折した人間がいるが、そのお仲間になったのは別に野木に責任があるわけではなくて主に小野寺にその原因がある。小学生の頃から小野寺はまったく人畜無害な人間だったので、野木がどんなに個性的なことを言おうと、「ふーん」とか「へー」とか感心はするけれどもそれっきり頭からそんな話題は消えてしまって、代わりに「そろそろ弁当だねえ」とか「今日は休講だよ」とか「蝉ってあんなに鳴いて苦しくないのかねえ」とか、とにかく場にふさわしくないようなズレたことを言って、野木の期待をことごとく裏切っていた。それでかえって奮起して、新聞比較という趣味に没頭しているのである。小野寺はそれでも、「へー」としか言ってくれない。こんな男でも見捨てなかったのは、単に野木の話を聞いてくれる同世代の連中が、小野寺健二のほかに誰もいなかったからというだけが理由なのだ。野木でなくても屈折する。別にそれはいい。屈折したい人はしなさい。誰かは同情してくれる。
 ともかく、父が記者だから自分でも作家の素質があると思い込んでおり、「三島由紀夫のような、立派な文学者になるんだ」と思って文章の一つもちまちま書いていて、あちこちのサイトや出版社に投稿している。父はあまり優秀な記者ではなかったので、コネがないから仕方がないのである。それにインターネットのアマチュア作家友達がたくさんいる。しょっちゅう掲示板にも書き込んでいる。ハンドルネームはそのものずばり、「三島由紀夫」。マッカーサーのような巨体に「三島由紀夫」というのもミスマッチだが、「立派な文学者」が思想を体現していると言われる二つの新聞に入れ込んでいるさまは、どうみても「趣味」というより「怨念」のようなものを感じてしまい、普通の人はそれだけで一歩引いてしまう。少なくとも、小野寺は二歩も三歩も引いている。
 ということで、新聞に妙なこだわりを持っていて、一度でいい、旭日新聞にコラムでも書いてみたいという野望を抱いている野木にとって、新聞の思想比較は「文学鍛錬」のための大事な一ルーチンであり、それは彼以外には誰も思いついていない、独創的な趣味であるはずであった。
 少なくとも、野木の周りにはそんな趣味を持つ人は、誰もいない。
 と自負して作家を目指しているのに、なぜか「経済学部」に入っている。
 今ひとつ、燃えていないのである。
「まあいいから、早く新聞片付けて。あーあ、そんなに散らかしちゃって……」
 母親はうんざりしたようにため息をついた。いったい、いつからこんな子になったんでしょう、と彼女はつぶやいた。脳裏に大輔の小さい頃が浮かんでは消える。昔は素直な子だったわ、昔かたぎのお父さんを説得して、TDSに家族で行ったこともあったわねえ。妹が走り回りそうになったので、兄の大輔は彼女の手をしっかり握り締めて海のそばのアトラクションを眺めていたものだわ。そんな無邪気な少年が、こんな変な子になるなんて、あの時はほんとうに思いもしなかった。まったく、いびつな子だよ。母親だからいいたい放題である。
 シミシミシミシミ。
 蝉が痛そうに鳴いている。
 母親の愚痴を聞くのがイヤだったので、さっさと新聞を片付けて自分の部屋に戻って行った。中古なので一般の首都圏通勤距離内のマンションとしては部屋はかなり大きいが、一応、プライバシーは確保している。母親はそんな彼に気づかないまま、リビングでぶつくさ愚痴をこぼしつづけている。
 まったくなぁ。新聞比較がカネになれば、こんないい商売はないんだよなぁ。
 野木大輔はため息ついた。
 実際にはテレビで比較しているしそれで食ってる評論家もいるのだが、そこまで気がつかない。
 来年は大学四年。不況で就職口を見つけた学生はいない。このスキに就職活動をしなくちゃいかん、という気はある。頭かきむしりたくなる。就職さえすれば経済的にも自立できるから下宿だってできるに決まってる。そして女の子とああしてこうして……いや、そんなことを考えてはいけないのだ。野木は小説家になりたいのである。禁欲生活をしなければ。下宿は自分を試すいいチャンスになるはずだ。昼は会社、夜は執筆。うーん、我ながら素晴らしい未来予想図。
 大輔はパソコンのスイッチを入れた。インターネットで掲示板に書き込みをするつもりだ。そういう会話用文章なら得意なんだけど、肝心の文章には全くもって気合が入らない。遊びなら実力以上に書けるのに、これはいったいどうしたことか。でもレスが返ってくるととっても嬉しいし、チャットだって掲示板でおなじみさんや知らない人ともお話できるし。いや、お話じゃないんだ、実際に喋ってるわけじゃないんだ、と思い返す。作家になるんだったら言葉は正確に使わないと。「話した」んじゃなくて、チャットしたんだ。いや待てよ、チャットは英語でお喋りって意味だなぁ。あはは、とんだ間違いだな。もっと新しい言葉はないのか。いやいやそんなことを考えていてもしょうがない。掲示板でも見ようっと。
 トップページに目を落とすと、ちょうどキリ番で、7777とフィーバー(死語)であった。ちょっと嬉しい。
 ひとしきり掲示板でカキコ―――書き込みをしたあと、野木はパソコンの電源を切って、テレビをつけた。ちょうど、「ちびまる子ちゃん」の再放送だ。オレは「サザエさん」のほうが好きなんだけどなぁと考えに沈む。「サザエさん」が再放送されているのを見たことはないが、一時期存続を危ぶまれるほど視聴率が落ちたことがある。それで野木は録画してまで必死で「サザエさん」を見たものだった。波平さんは父によく似ている。いや、頭に毛がないわけではなくて、性格が似ているのだ。だから波平さんが出てくるシーンは、録画を何度も繰り返してみる。そのたびに新しい発見をしている。「サザエさん」にはまるっきりの性格ブスや陰気なキャラは一人もいない。みな、ほのぼのしていて暖かい。
 と思い返してふとあばた女を思い出した。キリキリっと声を切り上げて、「図書館ではお静かに!」と叫んでいる。なにがお静かに、だ。自分のその声、なんとかしろよっ。ああいう「お局さま」タイプはオレは嫌いだなぁ、もう、図書館行くのをやめようかなぁ。前の女の子、どうなったんだろう。あの子のほうがずっと好みだったんだよなぁ。
 野木の部屋は小野寺の部屋より、ずっと片付いていなかった。委細構わずマックやケンタのくず紙が散らかり放題。あちらに「大東亜戦争・特集<一:それはアメリカの陰謀だった>」のビデオがあるかと思うと、こちらにはボールペンが転がっていたり、ノートが開けっ放しになってたり、乱雑なことこの上ない。
 そのとき、妹が部屋を覗き込んだ。
「おにーちゃん」言うなりえへへへへ〜とからかうような表情である。
「んだよ」
 いちいち構っていられない。イケイケぷっつんギャルなのである。お兄ちゃんお兄ちゃんとなついてくれるのは嬉しいが、ともかくその足なんとかせいっ。綺麗過ぎるぞッ。
「おにーちゃんさぁ、お小遣い貸してくんない?」
 またか、とうんざりした。今月でもう三回目である。そのたびに断ろう、断ろうと考えるのだが、妹が援交に走るかもしれない、夜の女に引き入れられるかもしれないという恐怖感がある。妹はよく「出会い系サイト」に出没しているらしい。あるいは恫喝なのかもしれない、と思う一方で、大事な妹が中年男に蹂躙されるきっかけをつくるわけにはいかない、という考えが脳裏をよぎる。母親のことはあまり言えない。
「またかよ」憮然とした顔をしながらも、こんなかわいい妹を持っていることが嬉しくて、ついだははは〜と頬が緩んでしまう。いかんいかん。
「少しは勉強しろよな」
 一万円を財布から取り出しながら言うと、
「だーって部屋は共同じゃーん。そんな乱雑なところでべんきょーなんてできないよぉ」
 そんな言い訳があるかと言おうとすると、妹は
「そりゃそうと、今度来たあの司書の人って、結構かわいいと思わない〜? オトモダチになっちゃった(はあと)」
 ぎょっとして凍りつく。妹はひらっと一万円を奪って、
「のろけ、聞かせてね〜」
 意味不明なことを言い置いてさっさと出ってしまった。
 前からプッツンだと思っていたが、やっぱりそうだったか。
 あれで香花という名前なのだ。名前だけは立派である。
「かわいい、だと?」
 慄然としてつぶやいた。
「のろけ、だと?」
 背筋がぞっとした。
「ご飯よ〜」
 母親が声をかけてくる。
 野木大輔はおき上がった。
 そして、部屋から台所に通じる廊下に出た。
 閉めきって冷房をしていたので気づかなかったが、マンション中が野菜炒めの匂いだ。
 しかし大輔は別なことで頭が一杯だった。
 あのあばた女のことが、妙に気になってしょうがない。
 年はいくつだろう。けっ、どうせ年上なんだろうな。
 あんな女にほれる男なぞいるんだろうか。
 ゾマホンなんかをテレビで見た後に、どうせ「あなたみたいな低レベルの人間に、いちいち忠告する人などいませんッ」などと言いそうだ。
 相性のいい血液型だったらどうしよう。
「ヤマダハナコ」って名前かもしれない。
 子供は嫌いに違いない。
 あばたが不気味。
 政治や思想の話なんか、出来ない。出来ないに決まってる。出来ないんだってば。
 数々の欠点の中でも特にこの点だけは、絶対に譲れない一線だった。
 女なんて化粧とファッションの話と家事の話だけしてりゃ、いいんだよ。
 野木大輔は食事をはじめた。


 大都新聞の編集室は、喧騒に包まれていた。
 社内の電話の呼び出し音だけではなく、記者たちの持つケイタイがそれぞれ持ち前の曲や呼び出し音を奏でる中、怒号や叱咤や罵詈雑言が飛び交う。締め切りは間近だ。
「おいッ野木ッ! 『新国旗国家法とAV女優』の、次回の連載はどうなってる?」
 編集者がわめいている。
「すみません、まだあがってません!」
 野木武司が苦しそうに答えた。真っ白の原稿用紙を眺めながら、ため息をついている。一行書いてみた。少し進んだ。でも、まだ四百字近く残っている。記者なのに、こんなことではいけないと思う。思うが進まない。実際には野木の父武司には文才はなく、こんな仕事に就くんじゃなかったといまだに後悔している。新聞記者にあこがれてあちこち面接したものの、採用してくれたのはこの三流も下の下の小さな新聞だった。「大都」なんて立派な名前を付けているけれど、決して規模は「大」ではなかったし「都」とついているのに所在地は埼玉。ガセネタはさすがに載せなかったが、キワモノぎりぎりの記事を載せてそれで読者を獲得しているのだ。今回の『国旗国歌法』関連記事だって、特集を組む真面目さは一応あったものの、専門家の意見なんか一切聞かない。戦争をAVと絡める専門家などいるものか。名前も聞いたことのないような人間を「専門家」と称して、彼または彼女の言葉を載せる。大学教授と名前がついていたら、たとえ日体大の教授でも質問に行く。そして「とある大学の教授」と書いてお茶を濁しているのだ。肩書きが何であれ教授というだけでありがたがって読む読者は多い。野木はコラムを任されている。締め切りまであと一時間。
 乱雑に散らかったデスクの上で、野木武司は頭を抱えた。くしゃくしゃになった原稿がデスクに散らかる。パソコンは大嫌いだった。こんなもので記事を書いたら文章に心がこもらない。キーボードを見るとめまいがした。画面に浮かぶ文字は明朝体というらしい。どいつもこいつも、同じような活字になりやがって。まったく腹が立ってくる。じゃまだからどけてくれと言ったこともあるが、今時パソコンをつかえないのは出世にも響くなんて言われてしまい、ただでさえ狭い机がディスプレイで埋め尽くされることになった。超薄型だから大丈夫だ、とか、液晶だから大事に扱ってくれよとか、キーボードをそんなに乱暴に叩くなよと隣でごちゃごちゃ言ってくる同僚がうざったく、上司は上司でおまえにはそんなものは無理だよと言わんばかりの薄笑い。中間管理職にすらなれなかった野木武司にとって、この職場は地獄と同じであった。
 しかし、マンションの借金はまだ残っているし家族を食わせねばならない。一家の主としての、矜持もある。でも、筆が進まない。記憶の中にある二つの新聞の内容を思い浮かべる。左翼右翼と一言で言っても、内容的には二つとも同じである。要するに、「平和と日本」をテーマにしていれば、ともかく読者を釣り上げることができるって寸法だ。楽そうに見える。視点を変えれば簡単だ。平和とはAV女優のことだし、日本とはやる気まんまんの男だと思えば簡単にできる。そんな文章は書きたくなかったが、食って行くためには仕方が無い。
 自宅に帰れなかったので、新聞をメモすることが出来なかった。いったん家に帰ろうかとも思った。一時間あれば帰れるところに住んでいる。つまり東京に会社があるわけではない。なのに「大都新聞」である。ここからして看板に偽りがある。
 偽りがあるのは新聞だけではなかった。
 あからさまに盗作したことはないが、野木は取っている新聞二社の文章を真似しそれを野次馬的視点で表現する。大都新聞は一部の人間からは、「ポリシーがない」と非難されるから、それくらいでちょうどいいのである。それに、社説を立てるほどの文章力は、野木武司には無かった。どっちかというとコラム『国旗国歌法とAV女優』のとなりのコラム『宇宙人かはたまた風のイタズラか、ミステリーサークル』を書いているほうが気が楽で楽しかった。政治部の記者がミステリーサークルなんて書くのかと思うだろうが、この大都新聞にはほんとうにポリシーはない。経済部の記者が『猫のサーカス、明日来日』なんて書くのである。なんのために「部」があるのか不思議だが、記者は大都新聞では専門家ではなく、つぶしのきく総合職と同じであった。
 だから、死んでも「書けない」とは言えなかった。二つの新聞の盗作ぎりぎりがバレたら懲戒免職ものだ。だからどんなに話に詰まっても、職場に新聞を持ってきたことは一度も無い。家で新聞を見ながらとったメモで記事を書く。定年間近だとささやかれていても、なんとか現状にしがみついていられるのは、毎日の鍛錬のお陰だ。文才は無くても、努力だけは人一倍、人十倍くらいはする。
 野木はもう数行書いた。まだ三百八十文字残っている。のこりの白い原稿用紙を見ると自分の精力が搾り取られるような思いがした。
 そのとき、電子音が喧騒のなかを朗々と響き渡った。「ダースベーダーのテーマ」。いっせいに周囲が野木を見る。ケイタイだ。このケイタイの呼び出し音は編集長が勝手に電話を操作して「ダーズベーダー」。カッコイイと説明されたがまんざらでもなかった。わりと悪役とか憎まれ役は好きだ。柳生一族の陰謀とか犬神家の一族とか八つ墓村とかのどろどろした雰囲気も割と好き。洋モノは苦手だが、ダースベーダーは知っている。邪悪になっていくシーンも割と好きだ。いつまでもケイタイを鳴らしていたかった、しかしいつまでも注目されているわけには行かない。電話に出なければ。仕事かもしれない。表示盤に目を落とす。相手の電話番号が判ると説明されても、数字がずらっと並んでいるだけ。自宅の電話番号に似ている。社用と自宅が兼用だったので区別はできなかった。音楽を区別して演奏させることができないからだった。我ながら情けない。テレビすら扱えないのだ。特にリモコン操作。やたらボタンが並んでいて、パノラマだのリピートだのインターネット接続だの、なにがなんだかさっぱり。
 喧騒が邪魔だったので、いったん廊下に向かった。大都新聞はぼろっちいビルで間借りしている。ささくれだった床の上で、ダースベーダーのテーマを奏でながら歩くごつい男という構図は、これはこれで結構シュールである。
 外に出ると、すでに夜はとっぷり暮れている。野木は街路樹のそばで電話のボタンを押した。耳に当てる。
「はい、大都新聞政治部です」
 OK牧場で決闘でもするような口調。
「ああ、野木君かね」
 偉そうな声が耳元でびんびん反響した。
 さっと背筋が伸びて行く。
 南雲総一郎総理か?
 また飲みにいくのか?
 待ってくれよ、おい。
「すぐ来てくれ、それいゆで待っている」
 野木の頭から締め切りが消えた。
 それいゆ、というのは東京の歌舞伎町にある場末のバーで、普通なら南雲のような重要人物が足を運ぶような場所ではない。カウンターは汚いし綺麗なねーちゃんは一人もいないし、バーテンダーはやる気のないことおびただしい。ほんとうなら南雲のような人物だったら、一流バーで一番値がはる酒なんかを飲んだりするはずである。少なくとも野木の知っている政治家は、焼き鳥屋に行くにもSPを連れて歩き、グルメであることをいい散らかす、全く鼻持ちならない種族だった。でも、南雲は別。彼はいつも気さくで、昔「ベートーベン」とあだ名された灰色の髪を振り乱し、野木たち三流新聞紙の記者も差別せずに付き合ってくれていた。
「オレはなぁ、日本の危機を救った小泉のようになりたいんだよなぁ」
 が口癖で、小泉に倣って自衛隊法をより現実的な案に改正して旭日新聞に叩かれたこともある。
 武司のどこが気に入ったのか、彼自身にはサッパリわからなかった。たぶん、三流でもがんばっている姿がこころを打ったのだろう。こつこつやっていればいつかは報われる。こんなビッグなコネを持っていることが、誇らしかった。一方で『濡れ濡れ女と総理の陰謀』という企画を立てられるだろうかという思いが脳裏をよぎった。
 しかし彼は、自分の娘がこの総理と付き合っていることを、全く知らなかった。