新聞バトルロワイヤル 第三章
作:大谷時江美





  〜対立〜


 いつものように翌日になっても父が帰ってこなかったので、野木大輔は旭日新聞を広げた。父が見ないから新聞紙はぴんぴんだ、と言いたいところだが、実際には母親が乱暴にポストから引っ張ってくるのでじゃっかんの皺は残る。
【特集】のページをあける。
「今回の新法は、日の丸掲揚と君が代の斉唱が義務付けられる」
 いきなりそんな文字が目に飛び込む。
 それくらいは知っている。昨日ふたつの新聞の紙面にも書いてあった。
「日本の国籍でない人たちにとって、日の丸・君が代はどのような存在なのだろうか? 都内に住む八十五歳の韓国国籍の女性に尋ねてみた」
 野木は気持ちが浮き立つのを感じた。これは期待できそうだ。
 韓国国籍の女性が涙ながらに、今でも忘れられない思い出があると訴える記事が続く。くだらない。もう六十年も前のことじゃないか。一度ならず総理大臣に「遺憾だ」と謝罪させておいて、だいたいおまえ、しつこいぞ。なにが今でもいい思いがしません、だ。続いてその女性の、辛かった思い出があることや天皇の名のもとに虐げられたという言葉には、不覚にも苦笑が浮かんでくる。……民主主義というのは建前だけで本質は変わっていないのではと疑念を持ってしまう、と言う言葉には、思わずひざを叩いてよろこんでいた。
 安直なお涙頂戴モノだよまったく。
 そして、新聞のコメントが一行置いて続いている。
「日の丸・君が代には、このように嫌悪感を持つ人たちも大勢いる。新法を、このような人たちを無視して推し進めてしまって本当に良いのであろうか? まだ検討の余地は多分に残されていると言わざるを得ない」
 健気だ。
 野木はうきうきしている。
 予備知識の無い一般市民の情に訴え、理性を排し、なんとなく新国旗国歌法案に悪いイメージを抱かせる。
 コメントはあくまで中立を装い、どうにかして読者を反日の丸・君が代に世論を誘導したいという欲望がありありと見えるではないか。
 もっと痛快なことにそのイメージ戦略は、まったく成功していなかった。
 小野寺健二を見ていても判る。友達もそうだ。
 テレビ報道を見ていても、しかたないんじゃない? という台詞が良く聞かれる。
 みんなオレと同じように、一部の新聞なんかに躍らされたりはしないのだ。そうなって当然だ。
 愚かな旭日新聞め。相手を誰だと思ってる。
 そう思うと、なんとも旭日新聞がいとおしかった。
 他の新聞はどう書いているのだろう。
 図書館に行こうと思った。小野寺も連れて行こう。図書館にあばた女と一人で対決するのは、ゴジラと地球防衛軍が戦うのと同じで勝ち目は無い。少なくとも、援軍は必要だ。
 野木大輔は立ち上がった。ケイタイを鳴らした。小野寺健二と朝一番に図書館で待ち合わせることになった。
 この体験を、小野寺と共有したい。相手が迷惑だろうとか苦痛だろうとか思ったことは一度も無い。毎日マラソンをする中年ぶとりのおじさんがいるが、野木にとってはこれはマラソンと一緒で、いずれは遠い理想の地に到着できるというものだった。理想の地とはどこにあり、どんなものなのかは知らないが、少なくとも旭日新聞のような甘ちゃんの論理など通用しない、もっと生きがいのある世界に違いなかった。その理想を実現するために、インターネットという道具も使うつもりだ。
 野木はテレビを見ることにした。朝の「新聞チェック!」が終わる。ニュースが続く。チャンネルを変える。
 朝の連ドラだった。
 ちょうど反戦をテーマにしている。不覚にもまた微苦笑が浮かんでしまった。
 日本は既に、全世界に散らばるテロを叩くために、後方支援のみならず積極的に前線に出ている。
 いつまでこのテーマが続くのか、かなり興味深い。
 女性が主人公だったが、この女、戦争で一般人の夫を失いつつあった。
 戦争なんだから、一般人が巻き込まれるのは当然だ。そんな常識も知らないのか。
 野木は馬鹿馬鹿しくなって外に出た。図書館に行くのは少し早いが、こんな三流の番組を見ているよりあばた女のほうがよほど面白いことに、やっと気づいたからだった。


 図書館の前で二人は開館を待っていた。相変わらず蝉が鳴いていたが、住宅地の前のアスファルトの照り返しはほとんどない。それは別にいいのだが、あばた女など見たくないという台詞は健二としてはいいにくい。いちおう、女の子は大事にしなくちゃという思いがある。だからあばた女でも一応、敬意は払いたい。でも連れてこられてまで見たいものでもない。本音と友情の天秤が揺れる。もちろん野木大輔にとっても女の子は大事だ。BMWとかフェラーリとかランボロギーニカウンタックとかデロリアンとか乗り回し、俳優なんかとコネがあって、あちこち万札を撒き散らす、女の子はそんな男にあこがれるにきまっている。金持ちになりさえすれば女など選り取りみどり。スポーツ万能で笑顔がきらりとしていて……
 しかしマッカーサーほどの巨体で「スポーツ万能」「笑顔がきらり」もないものである。それならそのスーツを何とかしてもらいたいものだがスーツは絶対に着替えない。家にいるときもスーツなのだ。それはまあ趣味だからどうこう言えないが父親のその収入でBMW、というのはどうみても高望みである。武司を尊敬していたので収入が無いのが恨めしいと思ったことはないが、小説で一発あてたらBMWの一つや二つすぐ買えそうだと思っている。無理がある。しかもそれを口実に就職活動をやめている。母にはナイショである。これはほんとうにファザコンかもしれない。小野寺はそう判断している。息子が母親を愛してしまうエディプス・コンプレックスでなくて父親を愛するからファーザー・コンプレックス。女の子がファザコンだと「エレクトラ・コンプレックス」と言う専門用語に変貌するのだが、エディプスもエレクトラもどちらもギリシャ神話に由来する。野木は外国の神話など興味は無い。小野寺は一応心理学に入っているので知識としては知っている。そして現実に野木が、「この記事はお父さんが書いたんだぞ」とか、「今日も帰りが遅いんだ、でも世論を作ってるんだぜいっ」とか、なんかそういう話をしょっちゅう聞かされているので、それだけでほのぼのしてしまう。いやぁお父さんも、ここまで思われていたら本望だろうなぁ、一度うちでも大都新聞を取るように言って見ようかなぁ。かつて頼んだことがあり「あんなゲスな新聞」と父から一刀のもとに切り捨てられたのにまだ未練がある。人がいいというかのんびりしているというか、彼女が出来てもその調子で、「女の子を一時間待たせて平気なのねっ」とか「デートのときくらいびしっとできないの、びしっと!」と言われたりしてフラれてしまう。小野寺は損をする性格である。 
 図書館は既に電気がついていて、司書の人があちこち机の周りをうろついているのが窓の向こうで観察される。なにをしているにせよ、そろそろ開館である。小野寺はそっとため息をついた。早朝だから涼しいと思ったのは間違いだった。たしかにアスファルトからは照り返しはないのだが、既に八月の太陽はじりじりとTシャツの背中を照りつけている。図書館は茶色の屋根をした二階だての天井が平らな建物で階段を昇って入っていくと二階に「ホワイト・ライオン」という名前のしゃれた喫茶店があって、ここでお茶でも飲みながら借りた本を読んだりすることもできる。ここでの常識だが、どんな本でも汚さなければ、持ち込み可である。受験生がここでノートを広げて勉強していても、マスターはニコニコ笑っている。おまけに小野寺健二や野木大輔と仲がいい。マスターは息子も大学生なので三流でもちゃんとした大学に通っている学生を見るとついつい、甘くなってしまうのである。喫茶店のマスターになるまでの話はそれはそれでドラマがあるのだが、それはまた別の話。
「図書館が開くまでサ店で一服しよう」
 野木は小野寺をつついた。小野寺はのぼーっと立っている。背中が熱いなぁ〜、やっぱ夏だよなぁ、いや、前からそうじゃないかと思ってたんだけど、地球は確実に温暖化しつつあるんだなぁ。いやー、オレは自動車もってなくてよかったなぁ。東京の大学(東大ではない)に通うときは、いつも電車通学なのでそれだけを自慢している。もともと健康優良児で快活な性格なのでちっとも嫌味ではない。『ホワイト・ライオン』で待つのかぁ、いつもそうだけど一番安いレモンティー飲んで三時間以上ねばるんだよなあ、わるいよなぁ。でも野木とこのまま立っているのもいやだよなぁ。煮え切らない。 
 図書館が開いた。待っているのは野木大輔と小野寺健二だけだ。二人はガラス戸を開けてくれた女司書に目をやった。すわーっと涼しい空気が中から広がった。まるで美術館のようだ。たしかにバンガロー風とはいっても、階段右側には喫茶店、左側は図書館の中扉、ちょっと見ると芸術的な雰囲気すら漂っている。
「はあ、でもあの人、わりと美人じゃないかなぁ、そりゃ好みじゃないけれど」
「そいつじゃない、こっちだ」
 ずんずん入っていく。入り口そばにロッカーがあって、荷物を置くことになっているのだが、野木は一切お構いナシ。荷物を持ったまま中に入っていった。入り口カウンターに司書がいる。小野寺は思わず立ち止まった。
「いやぁ、これが新しい司書かぁ変われば変わるもんだねえ」のんびりとカウンターの司書に話し掛けた。司書は太い眉毛をつりあげ、分厚い唇を営業用の冷たい笑顔に変えた。
「おはようございます」
 ずいぶん変わった司書だなぁと思った。頭なんか刈り上げだし、着ている服も野木と同じくワイシャツに上着(安物)でタイピンなんかしちゃってるし、椅子に坐っているのをよく見るとなんだこれ、タイトスカートじゃないや黒スラックスなの?
 それになにより、あばた面じゃあない。その顔は彫りが深くてちょっと見ると外国人みたいだ。
「なにか御用ですか」不思議そうに顔を上げている。
「きみが噂の?」小野寺は不思議そうだ。
「そんな趣味はないっ」野木が絞め殺されそうな声を上げた。
「図書館では、お静かに」そいつは、高倉健のような渋い声で言った。
「なに考えてるんだよっ。そいつは男だろーがっ。こっち来いっ!」
 もともとの目的(「思想比較」)をすっかり忘れ、大輔はぼんやり立ち尽くす健二を引っ張ってもっと奥のカウンターに連れて行った。ずんずん書架がとおりすぎる。書庫のほうだ。この図書館は蔵書が一杯あるので有名である。書架に並んでなくても書庫にはたいていのものが並んでいる。漫画以外は。ベストセラー小説、時代モノもあるが主としてアカデミックなものが多い。
 カウンターにたどり着いた。すでに女性がこっちを睨んでいる。
「何か御用でしょうか」
 冷たい声であばた女が言った。
 おお、そのまんまのあだ名だなぁ。なんかいかにも役人って感じするぞ。小野寺はのんきにそう思い、
「ああ、本物のあばた女ですね」
 野木は思わず飛びのいた。そんなこと言うなよ、と慌てて止める前に。
「なんですって」
 毒キノコを食べたあとみたいな緊張が二人の間を走り抜ける。
「ねーねー、名前なんてーの? どんな新聞取ってる? コイツ野木大輔っていうんだけど、コイツはさぁ、お父さんが記者なんだよ。大都新聞。きみの職業は……て、そうか、司書だよね、あはははは」
 頭に手をやる。小野寺はのんきなものである。
「あ、大輔から聞いたけど香花ちゃんと友達なんでしょ。あの子結構美人だと思わない? きみもあばたさえなければ美人になれる素質があると思うんだけどなぁ。 イヤー。それでも結構イケてるボディしてるんじゃないの。すごいすごい」
 ほうっておくとどこまでも喋っている。
「ここはお喋りをするようなところではありません」
 司書は能面のような顔だ。怒っているのだろうが、昨日の「キーッ」から考えると驚くべき自制心である。
「名札ちょっと見せて」いいと言っていないのに頭をカウンターの向こうに乗り出して、「与謝野祥子……? あ、あの有名な与謝野晶子と、なにか関係が?」
「関係ありません」
 いよいよ能面になっている与謝野祥子。
「御用件をどうぞ」
 その顔でスチュワーデスのように事務的だ。
「今日の垢肌新聞、出してくれ」
 野木はなんとかその場をとり繕おうとして口をはさんだ。
「垢肌新聞」
 与謝野祥子はぴくりと身を震わせた。
「昨日は旭日新聞でしたね」
「よく覚えてるね」野木は目を丸くした。
「新聞を持って出ていきそうになった方は、あなただけでしたから」
 つんととりすましている。
「あー。図書館から盗もうとしたんだぁ。悪い奴だなぁ大輔はぁ」
 茶々入れしている小野寺健二。
「しばらくお待ちください」
 与謝野祥子はさらっと言うと椅子から立ち上がった。
 立ってみると彼女はあばたを除けば美しかった。すらりとしたボディ、しなるような腕、出るところもばっちり出ている制服姿。その服とボブの髪型がとてもよく似合う。地味ではあったが成熟した女の持つ独特の色気。背は野木大輔よりも低かったが、まあたいていの人は大輔よりも低いので当然である。健二とほとんど変わらない、というか、健二は男としては小柄なので同じくらいと言うのはある意味侮辱的と言えなくもなかった。でも小野寺は素直に感心している。なんかステキな女の人だなぁ、あちこちしなやかですらっとしていて。
「すらっとしてて色気があって」
 知らずに言葉が漏れてくる。与謝野はにこっと笑った。こういう風に笑うとなんだかかわいい。
「ありがと(はあと)」
 それだけ言うと書庫のほうに向かってしまった。
「なにゴマすってんだよ」
 大輔はあまり、面白くない。どうして自分ではなく、いつも健二にばかり人気が集まるのか。ひがみだとは思われたくないがどうみてもこっちのほうが男前のはずだった。たしかに男前ではあるが、肝心なものがなかった。カネではないので念のため。
「おい、旭日新聞と嫁入新聞こっちによこせ」
「あ、家に忘れてきた」
「忘れたぁ?」大輔は鬼のような顔になった。健二は大きく頷いた。
「いーじゃないか、借りれば」
 概してこだわらない。
「またあの女に頼むのかぁ? おまえ頼めよ」
「ああ、いいよ。オレああいうタイプ好みなんだぁ」
「あんなあばた……」
 言いかけて飲み込んだのは、本人が現れたからである。
「垢肌新聞です」
 高校野球の選手に優勝旗を渡すみたいに渡したので、小野寺はおずおずと、
「悪いけどさぁ、旭日新聞と嫁入新聞持ってきてくんない?」
「いいですけど……」
 与謝野祥子の目に、いぶかしげな色が宿った。
「そんなに持ってきて、どうするつもりです?」
「どうでもいいだろ、あんたには関係ない」
「あります。新聞がめちゃめちゃになったら他の方の迷惑です」
「大事に扱うよ。ちょっと紙面をみくらべるだけだから」
「もしかして、テレビの真似ですか?」与謝野は目を光らせた。あれ、この女、あの番組知ってるのかな。
「何だよその目は」
 大輔は思わず気色ばんだ。こんな女にミソつけられてたまるものか。「何か悪いことでも?」
「旭日新聞はともかく、なんでこんな参詣新聞なんか読むんです」
 与謝野祥子の声に緊張感が張り詰めている。
「いーじゃねーか、オレの勝手だろ」
 野木は言った。
「ま、いいですけどね」
 与謝野祥子はなにかをこらえているようだったが、新聞を手渡した。
「コピーとってくれ」
「判りました。そこの紙に必要事項を記入してください」
 びー、びーとコピー機が動いている。
「すごいや、さすが参詣新聞ともなると読むところたくさんあるね」
 健二が小さな文字が一杯並ぶ、B4用紙を眺めている。
「いろんな新聞を集約して縮小コピーしてるだけだよっ、持ち運びに便利だろうがッ」
「持ち運び?」
「おまえんちに行って、思想の比較だ!」
「あー……」健二はぼんやりと頷いた。
「それ、ちょっとキミが困るんじゃないかなぁ」
「なんでオレが?」
 と聞く前に、あばた女の冷静な声が飛んだ。
「図書館では、お静かに」
 コピーが終わると、二人はB4用紙を二つに折って、図書館をあとにした。
「なあ、おまえんちに行ったほうがいいと思うよ?」
 健二はなおも言っている。
「オレんちは片付いてねーし部屋も共同だから肩身が狭いんだよな。真中をカーテンで仕切りやがって、なにがプライバシーの侵害だよったく」
「あー。そうか、妹さんもうそんな年になったんだねえ。オレがあのコをよくおんぶして、庭をあちこち案内したもんだよ。そーか、花も恥らう十代なんだねえ」
「まあ、あいつはほとんど外泊が多いからな、カーテンで仕切ろうがどうしようがオレには関係ないんだが、なにしろ半分しかつかえねーから使い勝手が悪くてよ」
「それでオレんちに来るのかあ? ちょっと考えなしじゃないかなあ」
「どうしてだよ」
 言っているうちに、健二の家が見えてきた。トラックが置かれて、中から大きな食器戸棚が現れている。重そうに業者らしき人が抱えて降ろそうとしていた。かたかたかた……かすかにトラックの扉が揺れている。もう一人、助っ人がほしいところだ。
「あらいいところに来たわ、大輔ちゃん。ちょっとこの戸棚、入れるの手伝ってくれる?」
 健二の母親が戸棚を示した。
「ほら、ね。いま、模様替えの最中なんだ」
 健二はぼそっと言った。大輔はがっくりきてつぶやいた。
「それを早く言え!」


 というわけで、真昼の『ホワイト・ライオン』。
 クーラーが寒いなか、大輔はぼそぼそささやいている。
「まだ模様替え、かかりそうか?」
「抜け出すなんて、かーさんがっかりするだろうなぁ」
「お決まりでしょうか」
 ウエイトレスがニコニコと話し掛けてくる。
 健二はスパゲティを頼んだ。大輔は少し声を荒げた。
「抜け出したんじゃないっ。昼メシを食べにきただけだよっ」
 と言いながらも、ポケットにつっこんだB4四つ折りの用紙を机の上に広げる。
「まーたそれかー。熱心だねえ」
「こういう、思想をうまい言葉で表現してこっちに引き込もうとするのは、外国では当然のことなんだぜ」
「でもさー。オレたち、海外で活躍できるのかなぁ」
 健二はつぶやいて、コーヒーを飲んだ。
「国際交流って言うけどサ、インターネットでメール交換する程度じゃん?」
「おまえのメル友は、どこか抜けてる奴ばかりだもんなぁ」
「たはっいや、褒められるようなものでも」
「褒めてないっ!」
「あの、お決まりでしょうか」
 ウエイトレスは辛抱強い。
「あ、こいつもナポリタンで」
 健二は気を回して注文した。しかし大輔はほとんど意識していない。
「まあ見ろよ。旭日新聞のこの記事……」
 そして、彼がいかにしてこの記事が滑稽なのかを力説していると、いきなり前の席の人が顔を出した。
「あ、与謝野さん」
 健二はちょっと慌てた。思想に興味があるというだけで、変人だと思われるのは、とくに彼女の前では嫌だった。与謝野は立ち上がり、すらりとしたボディで二人を見下ろした。
「あなた、右翼?」
 いきなり先制攻撃。
「なんだよいきなり」大輔は自分では中立だと思っているので、「関係ないだろ」
「新国家国旗法案の、どこがいいんですか」
 与謝野の声は嵐の前だ。
「じゃ、どこが悪いんだよ?」
 不穏な空気になりつつあったが、大輔は構わず、
「そういうふうに思うようになるのがあの新聞社の思惑じゃねーか。コントロールされてるとおもわねーのか、卑劣だとは?」
「卑劣? 自分の主張を述べることのどこが卑劣なんですの」
「感情に訴えるところが卑劣なんだよっ。少し歴史を勉強すれば、こんな記事書けるわけがないんだ」
「あらそうかしら、歴史を勉強するのもいろいろありますわよ。わたしだってただ新聞を鵜呑みにして単純に感動したわけじゃないんだから。たとえば日本を侵略した元寇の手先になって、朝鮮の人が日本を攻めたってことも知ってますわ」
「はあ?」なんだか意外な気がして、思わず与謝野をじろじろ眺めてしまった。
 この女、ただものじゃねーぞ。
「わたしは政治家とコネがあるんですのよ!」与謝野は堂々と宣言した。
「おれのとーさんだってコネがあらーな。しかも総理と仲がいいんだぜい」
「総理……? って南雲総理?」
「決まってるじゃん!」
「そう……」
 与謝野は少しうつむいた。
「どーせあんたのコネなんて、総理のメルマガにレス書きしたくらいなもんだろ。たいしたコネでもねーのに自慢そうに言うなよな」
 与謝野の顔がさーっと赤くなり、それからすぐにさーっと青くなった。
 なにか言いたそうだ。
「あのさー」小野寺健二はのんびりと割り込んだ。「二人とも、もしかして知り合い?」
「知り合い?!」
 大輔は一瞬おののいた。
「おまえ、どこからそんな考えを拾って来るんだよ?」
 すると健二は羨ましそうに、
「だってすごいいい雰囲気じゃん、もう、すっかりおしどり夫婦みたい」
「夫婦っ」二人は同時に叫んだ。「あんたと!」
「政治の話しているときの眸って、きらきらしてたぜいっ。オレなんか入り込む隙すらないんだもん」
 すっかりすねている健二。
「オレはなぁ〜」野木はすっかり顔を真っ赤にして、
「こいつなんか趣味じゃねえんだよっ!」
「あーら言ってくれますわね。少しくらい世情に詳しいからって、なによ。上には上があるんですからねっ」
 負けていないのが与謝野である。大学生相手になにをムキになっているのだろうか。
「また明日も来てやるぜいっ。おまえの大事な旭日新聞を、こてんぱんにのしてやる!」
 言い捨てて大輔は、逃げるように『ホワイト・ライオン』を出て行った。
「オレが勘定、払うのかなぁ」
 健二は一人、つぶやいていた。


 そして一週間。
 小野寺健二は、はっきり言って退屈であった。
 野木大輔が彼を無理やり連れてきては、『ホワイト・ライオン』に旭日新聞を持って、「日の丸・君が代」擁護の意見を与謝野に言う。
 それに対して、与謝野祥子が、別な観点を述べていく。
 たとえばこんな風だ。
 「日の丸・君が代の悪いイメージを持たせようと、こんな記事を載せているじゃないか」
 ある日、大輔が『ホワイト・ライオン』のパソコンのキーボードを叩いた。もちろん隣に健二と与謝野がいる。
 旭日新聞のサイトには、「カトリックの学校」を例にあげて、具体的な話が載っているのである。
 たとえば、こんな記事だ。
『参加した聖職者や理事長らの意見はさまざまだった。関西の女子大幹部が「私立学校も国から補助金を受けている。国旗や国歌は尊重すべきだ」といえば、ある修道女は「若者を多く預かっているのに補助金はわずか。恩を着せられることはない」と反論した。別の神父は「日本社会が侵略戦争を心から反省していないから、こんなことが問題になる」と嘆いた』
「うまいよなあ、うまい。オレだって思わず、これは反省しなくちゃと思えてくるぜ」
「あら感心しているフリはおやめなさいな。日の丸君が代のなにが問題なのか、判ってないみたいだわね。この二つは戦争に使うにちょうど手ごろな道具じゃないの。昨日の旭日新聞の「象徴」って表現は当たってると思うわよ。日の丸を見て俺たちは太陽の昇る国に生まれたんだ、なーんて愛国心に燃えた若者たちが、天皇万歳っていう声のもと戦争に駆り立てられたんじゃないの。今だって自衛隊のみんなのこころのなかに、『陽の昇る国の子』って気概がないとは言わせないわ」
「気概のどこが悪いんだよっ」
 かろうじて大輔は反論した。話がよく判らなかった。
「そんなことを議論してるんじゃねーんだよっ。新聞って言うのはだなー、要するに思想をコントロールする道具なんだ、それを言いたいだけなんだよっ」
「それだけかしら、それじゃなぜ日の丸・君が代なの? よりによって一番政治的な部分を選んで比較するには、なにか理由があるからでしょう?」
「ご注文は……」ウエイトレスは激論している二人を面食らって眺めている。
「あのさー。早く注文してくれる? オレ、腹が減ってるんだけどなぁ」
 健二はうろんげにつぶやいた。助かった、と大輔は思った。
「おまえはそれしか、考えられないのかよっ」しかりながらも安堵は隠せない。
「だーってそんなこと言い合っても、なにかトクになるのかよ? なんかオレ、疲れたよォ」そう健二が言うのももっともで、もうかれこれ一時間近く『ホワイト・ライオン』で口論しまくっている。与謝野は時計を見て眉をひそめた。
「あらもうそんな時間」昼休みも終わりだ。「それじゃ、この問題は夕方五時以降、『ホワイト・ライオン』で話し合いましょう」
「あんたと話すことなんてねーよっ」
 大輔はうめいた。
 健二はかすかにため息をついた。


 大輔の母は、ケイタイのメールを見つめていた。
「重要な仕事を任された。しばらく家には戻れない。極秘事項のためこれ以上はいえない。心配するな。 武司」
 母は平凡な主婦だが、パソコンもDVDもばりばりに使える。夫に隠れてHP作成ソフトや画像作成ソフトを使いこなし、SOHOで月六万稼いでいて、仕事も家庭もばっちり。コンピュータウイルスだって自分でワクチン作って撃退するほどなのである。ちょっと神経質だが、武司と違って先端技術にはアレルギーはない。だからメールを見て不審に思った。
 野木武司はリモコンも使えない男なのだ。古風な男なのでケイタイのメールも嫌っていた。先端技術は人類の本質を変えてしまうと危惧しており、どうしても必要がなければインターネットすら(昔よりずいぶん使いよくなっているのに)触れようとしていない。母親は、夫が著作権違反ぎりぎりをしていることを、うすうす知っていた。
 もしかしたら……
 嫌な予感がする。
 遠くで雷の音がしてきた。
 もうじき雨が降りそうだ。
 大輔のやつ、また図書館だな。母の洞察は相変わらず鋭い。
「香花! 大輔に傘を持ってやりなさい!」
 奥の部屋に向かって叫ぶ。
 しかし、返事はなかった。
「香花?」
 部屋をのぞきこんだ。相変わらずすごい乱雑ぶりだ。椅子はひっくり返ってるし、机のものはすべて床に転がっているし、いつものマック、ケンタの紙に新聞、チラシ、なぜか折り紙まである。
「しょうがないわねえ」
 片付けるのはいつもわたしなんだから、とぶつぶつ言いながら、紙くずをゴミ箱に捨てていくと。
 なにか変な紙がくしゃくしゃになって置かれている。
 見慣れない小さな紙だ。
 何気なく、広げて覗き込む。
「午後四時、いつもの場所で。N」
 紙のあちこちにケチャップが飛び散っている。茶色に変色して、まったく食べ物をこぼすなんていったいいくつのつもりなんだろう。
 そう、思って捨てようとしたとき、なにかが気になってもう一度その紙を眺めた。
 ぎょっとなった。
 いや……これはケチャップじゃない。
 血だ。
 血が変色しているのだ。
 香花の母は、すばやく一番近い警察に電話した。
 しかし、誰も出なかった。
 ―――巡回に出てるのよ。
 彼女はずんずんずんとこめかみのあたりに脈を感じ始めながら、こころに独り言をつぶやいた。
 ―――暴走族とかヤンキーとか、そういう連中を保護しているのよ。
 しかしたしかに夕方ではあったが、暴走族やヤクザ予備軍などの出没するには少し早かった。
 事件が起こったのかもしれない。
 窃盗とか、チカンとか……
 誘拐とか。
 あらためて部屋を眺めた。
 そう思ってみると何かを探したようなあとのように見える。わたしが買い物に出かけている間に……
 だとすると、見張られている?
 そして、血のついた紙切れ。
 ―――殺人事件とか。
 そう思うといてもたってもいられなくなった。
 と、その直後ケイタイが鳴り響いた。
「大草原の小さな家」。
 およそこの場にはふさわしくなかったが、香花のテーマである。
 母親はさっと耳に当てた。
「香花?!」
「あ、ママ〜?」香花の脳天気な声が響き渡った。「あのねー、いまTDSなんだけどぉ、ぴーたんとこに泊まる……」
「すぐ帰りなさいっ」
 母親は安堵のあまり怒りが込み上げてきた。やっぱりあれはケチャップだったんだわ。まったくどういうテーブルマナーしているの! 自分が育てたのに人のせいにしている。
「えーーーっ。もう、約束しちゃったよお〜」
「あんたの都合はどうでもいいのっ。早く帰ってきて!」
 嫌な予感がどんどん強くなってくる。
「どしたのママ?」香花は不思議そうだ。「なんかあったの?」
 何もなかった。父親が変なメッセージをよこしただけだ。変どころではない。異様だ。電話ではなく、メールだという点だけでも不吉さを感じてしまう。そして、あの血……のようなもののついた、紙切れ。
 取り越し苦労かもしれないが、嫌な予感がびりびりする。
「ともかく」母親は背筋をピンと伸ばした。
「お父さんがしばらく帰ってこないのよ。無用心だから一緒に……」
「あたしと一緒にいたって、意味ないじゃーん。おにーちゃんのほうが役に立つよお、男だしー」
「早く帰りなさいっ」
 半ばヒステリックになって母親は電話を切った。


 雨は大ぶりになってきていた。