新聞バトルロワイヤル 第四章
作:大谷時江美





〜失踪〜


 武司は、一週間経っても帰ってこなかった。
 ―――しかしご主人は、新聞記者でしょう。三日や四日帰らないのが普通なんじゃありませんか?
 母親は迷惑そうな警察の声を思い出した。
 ―――え。血のついたメモ? まあ、一応調べてみますけどねえ……
 どうやら首都圏にサァドが入り込んだという匿名のタレコミがあったために、一般人の失踪(しかもしょっちゅう消息を絶つような記者)の捜索などに部下を割くつもりはないようであった。
 メールがきたことを話さなければよかったかもしれない。心配ないと連絡があった、だけど心配だ……なんてたしかに子供っぽかったかもしれないが、この嫌な予感はますます強くなるばかりだ。
 サァドはたしかに要注意人物である。あのオサマ・ビンラーディンの息子だというだけで充分、要注意なのにちがいない。しかし一方でそんな匿名のタレコミにいちいち反応して警戒していたのでは、本物が来たときにくたくたになってしまわないだろうか。
 父親があんな人間だからって、息子までそうだとは限るまい。
 大手の大新聞は、こんな情報は無視している。当然だ。ウラが取れないうちに行動するわけにはいかない。いやもしかしたら主人の失踪は、この眉唾物の情報と、なにか関係があるのかも。
 大輔はあいかわらず、旭日新聞を眺めては「小学生の子供にインタビューすりゃぁ、親や先生の意見をそのままいうのは決まってるじゃねーか」とか、「読者の声、かぁ……新聞の記事だけを見ていたが、ここで本音を語るんだねえ、やるもんだねえ」などと突っ込みを入れている。母としては、ますます気もそぞろである。なんども話そうになった。しかし打ち明けられなかった。もちろん武司の行方は気になるが、かりそめになりつつある家族の平和を、たった一本のメールとメモきれだけで壊したくはない。そんなことをしてあとで「特ダネを追っかけてただけ」だと知れたら、子供たちにあきれられたり馬鹿にされたりするに決まっている。
 とは思ったけれど、何も知らずに新聞を比較している息子や、今日も外泊している娘のことを考えると、あまりののんきさぶりにこの平和な環境をぶち壊しにしたくなるような、危険な欲望も存在する。
 この嫌な予感も、その欲望から来るのかもしれない。
 と思って、なんども自分に、平和が一番、平和が一番と言い聞かせるのだが、あれからもうすでに一週間経つのである。
 一週間。
 血(?)のついたメモの鑑定は、もう済んだはずなのに。
 警察から連絡が来ないのもまた、嫌な予感をさせる一つの原因であった。


「日の丸・君が代っていうのはなぁ。そんなにこだわるこたぁないんだよ」
 大輔は、相変わらず『ホワイト・ライオン』で与謝野祥子とやりあっていた。
「だいたい、日の丸が戦争をしたわけでも、戦争を命じたわけでもないだろ」
「それじゃ、命じたら戦争責任があると認めるわけ」
「……モノが命令するはずないじゃないか。いや、オレが言いたいのはさぁ、何の罪もない日の丸を責めたってしょうがないってことだよ! 戦争してたときだって平和国家の時だって、日の丸は相変わらず国旗だったんだからサ」
「歴史があれば、なんでも許されるっていうんだったら、身分制度だって小作人だって歴史があったのよ。特に小作人は数百年以上もずーっと小作人だったんだから。荘園時代のときも戦国時代のときも、江戸時代のときも。その歴史を尊重するならあなた、今のサラリーマンにまた小作人に戻れっていうんじゃあないでしょうね?」
「話をすりかえるなよ。日の丸を否定したからって戦争責任がなくなるわけじゃあないだろってば。日の丸がいいイメージをもたれるよう、一生懸命努力すればいいことじゃないか」
「殺人をして、従軍慰安婦相手にレイプして、責任を取るべき天皇はアメリカの温情で助かって。日の丸を否定しないことは、すなわち、日本の名のもとにいろいろ悪さしておいた歴史を、尊重すると受け取られたってしょうがないと思うけど? それに君が代が民主主義理念に適合するとはとても思えないわ」
「君が代は、確かに民主主義理念には適合しない。それは認める。しかし、日本は民主主義国家であると共に、天皇を国民の象徴としているだろ、憲法にもそうあるし。
 現状の日本に適合しないとは、言いきれないのではないはずじゃないかなあ。
 天皇は長い長い歴史があるだろ。歴史の時間で学んだはずだ。
 日本を長い歴史の中で捉えれば、この国歌はふさわしいのではないかとも思うけどね」
「なにを言っているのよ。天皇は『個人』よ。民主主義国家になった以上、個人をあがめてたたえるのが理想かしら?  天皇なんてたかが人間じゃないの」
「なに言ってるんだよ。天皇はそんなんじゃないぞ」
「じゃあなによ。神だとでも?」
「……何が言いたいのかよく判らないけど、天皇をそんなふうに貶めないでくれよ! 国民の象徴じゃないか!」
「なーにが国民の象徴なんだか。あれはれっきとした王様じゃないの。英語ではちゃんと、<皇帝>って言ってるわよ。あんなのがいるから、日本は民主主義にはなれないのよ!」
「あんまり大声で言わないほうがいいよ、黒塗りのバスに乗ったにーちゃんたちに、ひどい目にあわされるだろうからサ」
「暴力ちらつかせて自説を抑えさせようとするなんて、卑劣だし卑怯じゃないの。わたしたちの表現の自由はどうなるのよ。だいたい黒塗りのバスがなによ。そういう連中がバックにいないと、あんた、持論を展開できないってわけなの」
「いいたい放題だね」
 いきなりマスターが入り込んできた。
「お代わりは?」
 コーヒーポットを持ってきている。
「つまらない議論ばっかりしてるんだよ」健二はマスターにぶーぶー言い始めた。
「国旗がどーとか、国歌がどーとか言ってさぁ」
「きみはこの議論を、くだらないと思ってるんだね」マスターはニコニコ笑っている。
「そりゃそーだよ。思想を比べてなんの特になるんだよ? つまらないよオレ」
「きみなりに意見があるんじゃないか」
「いやー」健二は一瞬、目をぱちくりさせた。「意見? 意見と言われても…… 別にないよ。日の丸は綺麗でインパクトがあるから好きだけど、君が代は暗くて歌詞が変だから嫌いってだけ」
「歌詞が変?」三人は同時に聞いた。
「だって小さな石がどんどん大きくなってコケが生えてくるなんて気味が悪いよ。そんな石あるのかなぁ」
「だーーーーーっ」
 大輔は頭をかきむしった。
「マスター、こいつに思想の話をしても無駄だよっ」
 そのとき、からんからんからん、と扉の鈴が鳴り響き、凄い勢いで香花が入ってきた。
「お兄ちゃん! お母さんが!」
「なにっ」大輔は立ち上がった。
「だれかに刺されて……いま病院にいるわ」
「母さんがか? 刺されたのか?」
「そう言ってるじゃないのっ!」
「誰に!」
「判んないわよっ!」
 香花はヒステリー気味である。
 大輔はくるりと向き直った。
「この議論は後に回そう」
「そうね、わたしも一緒に病院に行くわ」
「え」その場の全員が目を丸くした。与謝野祥子はかーっと顔を赤らめた。
「ちょうど昼から休みを取ってるのよ」議論のためだろうと思われた。
「関係ないよきみには」
 そう言いながらも、大輔は少し祥子を見直していた。
「それじゃみんなで来て頂戴、重傷なの!」香花はそう叫ぶとまた外へ駆け出そうとした。
「待ちなさい」マスターが声をかけた。「病院へは遠いだろう、タクシーで」
「いえ、わたし車回してくるわ」祥子はそう言い残し、「図書館の正面入り口で待ってて、おつりはいいわ」と言うと余分に払って出て行ってしまった。
「行動力あるなぁ」小野寺健二は感心しきっている。「ああいうのオレ、もんのすごぉく好みだなぁ」
「なーに言ってるんだよ」
 そう軽くいなしながらも、野木大輔はいままで出会った女性の中で、与謝野祥子が一番インパクトがあり、また、知的レベルが非常に高いことを悟っていた。天皇が<皇帝>?! 考えたこともなかった。国旗についてはまだまだ議論したいことは山ほどあったが、新しい考え方には感心させられる。
 もちろん、感心したからと言って賛成するかどうかは別ではある。
 女なんて家事と化粧とファッションの話だけすればいい、なんて思ってたけど、案外こういう知的な議論をするのは楽しいじゃないか。ああいう人と毎日議論できたりしたら、退屈しないだろうなぁ。
「ああ、いまはお金を払ってないで早くお母さんのところへ行きなさい」
 マスターがそう言ってくれたので、野木ははっと我に帰り、すぐサ店を出て図書館の前に向かった。赤いミニカが止まっている。香花が助手席の扉を開けるのが見えた。
「早く早く!」手招きしている。
「おれたち、後部座席なの?」
 健二はどうやら、与謝野の隣に座りたかったらしい。
「くだらないこと言ってねーで早く入れよっ」
 大輔はそう言って、健二を車に押しやった。
 車は出発した。
「おめー、ミニカの半分以上占領してねーか?」
 健二は押しつぶされそうになっている。大輔のマッカーサーのような巨体にミニカでは、ぬいぐるみをつめこんだおもちゃ箱みたいに狭苦しい。
「どこの病院?」
 祥子の単刀直入な質問の仕方には、まったく無駄が存在しない。
「斉正病院……いま手術中なの」
 香花は涙声だ。一瞬の後ぐん!と加速がかかったので、健二は大輔が押さえつけるような気分に陥った。
 タイヤが悲鳴をあげ、景色がぶっとんだ。すごいスピードだ。
「警察につかまるっ」
 健二は悲鳴を上げた。
「その前に病院に着いてるわ」
 あくまで冷静な祥子である。
「で、母さんは。どうなってるんだ、説明しろ」
 大輔の声は怒っている。すし詰め状態にされているのだから、当然といえば当然だった。
「えとね」香花は泣きじゃくりながら、「家の中血だらけだったの」
「家で刺されたのか!」
「ていうか……扉がこじ開けられていて……」
「なんだって」
「もう、家の中めちゃめちゃよぉ……」
 あとは泣きじゃくり続けるだけである。野木は考えに沈んでいった。母親は、たしかに神経質なところはあるが、だれかに恨まれるような真似はしないはずだ。知らない人間を叱り付けることもないし。いや、そもそも人を傷つけるような奴らと係わり合いになるような危険な真似を、普通の主婦に過ぎない母がするはずがないのだ。
「いよいよ始まったのね」
 祥子がつぶやいた。
「なにが?!」
 はっとして顔を上げたが、急ブレーキがかかって止まった。
 斉正病院であった。
 そして、その周りに暴走族がたむろしていた。
「暴走族?」
 小野寺健二は眉をしかめた。
「……なんだいったい」
 大輔も扉を開けながら不審に思った。アタマでも入院したのだろうか。
「おいおいおいおい」
 中の一人が特攻服を着て、ミニカに近づいてきて言った。
「野木大輔は、どいつだよ?」
 はっとして大輔は身構えた。相手は自分の名前を知っている?! なぜだ!
「あー」健二は全然気づかず、「えと、きみたちは?」
「おまえが野木大輔か!」言うなりかちり! と小さなナイフを取り出した。しゃきっと刃が突き出した。
「覚悟!」
 必殺の一撃だった。もし、大輔がぼんやりしていたら、健二はたちまち血まみれになって倒れていたはずである。しかし大輔は柔道の心得があった。ダテにマスコミ関係者ではない。父の記事に恨みを持つ連中は多いのである。父を守るためにいままで訓練してきたことが役に立つときが来ようとは。しかも親友を助けるために。
 彼は勢いよく健二に体当たりをかまし、その刃から親友を救った。と同時に、それをみた暴走族の他の連中が恐ろしい速さで近づき、乱暴な手つきで背後から襲いかかった。いくら柔道をしていても、いちどに五人は無理だろうと健二は思い、道に手をつくと襲い掛かる連中の頭に頭突きをかました。効果はあった。一瞬、大輔にかかる力が抜けた。そこを逃さず、力をこめて両手を伸ばし、ばねではじいたみたいに広げた。一瞬のうちに三人がふっとんだ。車の扉が開く音がした。「野木くんっ。後ろっ!」与謝野の声にはっとして振り返ると、いままさに後頭部に刃物が突きつけられようとしているところであった。とっさに頭を下げると、ぶんっと音がしてびりびりびりっと空気が震えた。腕をとっさに伸ばしてそいつの刃物を奪い取ろうとした。させじと相手はのけぞり、次の瞬間バック転をした。
「すごいっ」
 香花の声だ。サーカスを見ているつもりなのか。
 大輔は再び起き上がってくる少年の胸倉をひっつかみ、浮き腰一本で他の連中の頭に投げつけた。だかん!と音がして、後頭部と額がぶつかるのが見えた。これで二人。あと三人。しかしそのうち一人は逃げ出している。そうしたほうが身のためだぞ、と大輔は思った。オレはいま、めちゃくちゃ怒ってるんだからな。
 しかし特攻服を着た残りの連中は、それを見ても動揺していない。しゃきんしゃきんしゃきん! 刃物が飛び出してくる。二つ。こっちは素手だ。どうする。
 ためらっている暇はなかった。
 二つ同時に繰り出すナイフが、目の前に迫ってくる。彼は片方のナイフをすばやくかわし、もう片方を内股すかしの技をかけて道に転がした。
「いててて」
 ナイフがコンクリート道に転がっていく。からんからんからん、と音を立てていくそれを見ながら、彼はもう片一方の男に掬い投げをかけた。
「うわっ!」青年は叫ぶと、ごつんと後頭部をアスファルトにぶつけてしまった。この分では気絶しただろう。
「どうだ」
 大輔は息切れ一つしていなかった。
「そろそろ、あきらめたらどうだ?」
 諦めるだろうと思った。普通、わざを見せればチンピラどもはそそくさと逃げだす。
 ところが残った一人はカラテの構えを見せた。もう一人もどこからか現れて加勢する。こいつもカラテだ。
 柔道とカラテ。どっちが優れていると言う問題ではない……カラテの達人。ただの暴走族ではありえない。
 雇われたのか?
 一瞬の思考はとぎれた。一番右端の少年が、奇声をあげて飛び掛ってきたからだ。大輔は足を払って勢いをそぎ、くらりとよろめいた隙に背中の襟をひっつかんで道にひっくり返した。こうなるとほとんど解剖直前のカエルのように見える。カエルにしては派手な服を着てはいるけれども。
 もう一人が背中にカラテをぶちこんだが、すばやく大輔はくるりと振り向き、その突き出した腕をひっつかんでその勢いで彼を後方に倒し、そのまま一瞬のうちに組みふした。
「おい、誰に頼まれた!」
 大輔は声が荒れてくるのを感じた。
「う」そいつは下卑た顔で恐怖に顔を引きつらせた。「い、言えねえ!」
「おい」大輔は組みふした腕に力をこめた。「骨おってやろうか」
 そのとき、背後で悲鳴が上がった。
「おにいちゃん!」
 香花だ。はっとして振り返ると逃げたはずの暴走族の一人が、妹と与謝野にぴたりとナイフを当ててニヤニヤ笑っているのが見えた。小野寺は情けないことに鼻汁を出して泣いている。一瞬苦笑が浮かんだ。
「笑うんじゃねーよ!」
 ナイフ男はいきりたった。
「さ、いっしょに来てもらおうか」
「どこへ」
「いいとこさ!」ナイフ男が笑った。
「卑怯者!」与謝野はさけんだ。
「ふん、おまえもいっしょに来てもらおうか」特攻服の三人は、与謝野と香花と健二をひきずるようにしてトラックに連れて行った。
「この中にな!」
 ばたん、と荷台が開いた。その中には肉の塊がぶらさがっていた。どうやら精肉業者から盗んできたらしい。
「四人でなかよくしてたら、熱くなるだろうよ」
 ひっひっひ、といやらしい声で笑うと、暴走族は扉を閉めた。
 冷気があたりにたちこめた。まっくらななかで、かすかに揺れる肉の塊の気配がする。
 大輔は、多分無理だろうとは思ったが、扉と思われるところに体当たりをかました。
 びくともしない。
 おそらく、扉にかんぬきがされているのだろう。
「ごめんなさい」
 与謝野が突然涙声になった。「わたしのせいだわ」
「そんなことないよ」そう言いながら、香花を探した。部屋のすみのほうで嗚咽をこらえている様子だ。
「どこへ連れて行くんだろう」
 健二が不安そうにつぶやいた。
 牛肉と一緒に冷凍になる前に、ここを脱出しないといけない。と思ったが、どうみても八方塞であった。
「お互いに身体を引っ付けあおう」
 大輔は言って、健二を探した。「男は男、女は女だ」手を伸ばした。
 そしてやわらかい感触。
「なにするの、このスケベっ!」
 与謝野の声がして、ばしーん! 大輔ははり倒されていた。


 一方、南雲総一郎は、総理官邸で電話で大統領と話をしていた。
「テロについては、まあ、記者団にそれとなく指示をしておきましたから、反米感情をかきたてるような記事は書かないはずです」
 南雲がそう言うと、電話の向こうでアメリカ大統領は、
「しかし、たった一人、違うことを書いた人もいるようだな?」
 と突っ込みを入れてきた。
 南雲は口篭もった。
「いくら親友だからといって、そんなことでは困るんだよ」大統領は冷淡に言った。「正義がどういうものなのか、はっきり思い知らせてやらなければ」
「しかしですね」南雲はできるだけ穏やかに、「どんな思想を言おうと、それは新聞社の自由と言うものですからして」
「自由だと!」大統領は答えた。「おまえらの世界には、ほんとうの意味での自由など、存在しない、それくらいのことはそろそろ、判ってきてもいいころだと思うが?」
 南雲はため息をついた。
「しかしあなたの国では、自由こそが価値のあるものだというのが建前なんですから……」
「たしかに私の国では、そうだ」大統領はきっぱり言った。「しかし、おまえらの国には自由などない」
 それは確かにそのとおりだ、と南雲はぎりぎり歯を噛みしめて思った。二十年前、湾岸戦争時にアメリカに言われるままにお金を拠出して、返ってきたのは侮蔑のまなざし。十年前にはテロに対抗するために自衛隊を出したのに、やっぱり評価はされなかった。自分の国の信念として、何かを成し遂げることができなかったのだ、自分の国に自由があるなんて思いはしない。
 あるのはアメリカの自由だけだ。
 アメリカの軍の施設があり、アメリカに「思いやり予算」を組み、アメリカの要請で自衛隊を動かして……どこに自国の自由があるのか? 大統領に指摘されるまでもなく、そんなものは日本には存在しないではないか。
 彼にだって、それくらいのことは判っている。
 そこのところを、大統領に言われるのは、彼にとっては忸怩たる思いであった。
 電話を切ると、南雲総一郎は深い思いに沈んでいった。
 自由の意味を、判ってくれる日本人があまりいないのは、非常に悔しい思いだった。
 なぜなら、自由があると思っている人ほど、コントロールしやすいからだ。
 総理は先ほどまでインタビューに答えていた記者団の顔を思い出した。国民がシラけきっているとも知らず、必死で「新国旗国歌法案」に反対運動をしている旭日新聞。自由があるからだという。バカな連中だ。あれで俺たちを批判しているつもりなのか。ありがたいことだよ、こっちの思惑どおりに動いてくれるとは。オレたちのやり方が判ってないんだな。
 日本にほんとうの自由など、必要ない。そんなものがあっては、困るんだ。そこのところを、旭日新聞はわかってないようだ。というより、やつらに判ってもらっては困る。
 言論の自由などというものは、マスコミ各社には存在しないのだ。
 たとえば、放送禁止用語の問題。
 ちょっとでも「ヤバい」言葉があると、その言葉はカットされて放送される。そうしないとどうなるか。
 抗議の電話やファックス、Eメールが殺到する、ならまだいい。
 同じ内容のEメールが一時間に数百通。パソコンのメーラーが壊れてしまう。
 ファックスは用紙が足りなくなる。
 電話はパンクして通じなくなったりする。
 仕事にならなくなるのだ。
 だから作家もマスコミもテレビ局関係者も、そういう言葉には物凄く神経を尖らせる。
「差別していないんだから、別にいいじゃないか」
 と言って差別用語を使った人が、その後どうなったか、誰も知らないのだ。
 知らなくてもいい。
 オレたちの手先が、社会的に抹殺しているんだからな。
 その、特別な用語を使いさえしなければ、どんな差別的なことを言っても、許されるのが日本なのだ。
 差別ぎりぎりのことを言っても、「ベタな笑い」になるし。
 そんな、日本人の特質を知り抜いていればこそ、思想の押し付けという特別な行動が、権力者には許されるのだと彼は思っている。
 一般人のなかには、「国歌国旗法案は、みなが黙認していることを異常な方法でおおっぴらにしたのだ」という語調で自説を組んでくれる人もいる。
 嬉しいことではないか。
 こちらの思うように、みなが動いてくれるのを見るのは楽しいものだ。
 思うように行かないやつらには、押し付けがちょうどいい。それが日本人の気質に合っているのだ、だからオレのやっていることは間違ってない。
 旭日新聞がどんなに反対運動をしようとも、国民感情は確実にオレたちの味方だ。オレたちが苦労してマインド・コントロールしたとおりに。
 彼は、少し昔のことを思い出した。
 みんなでがんばろう! という健康的な番組を、「ださい」という一言で壊滅させてやった快感。
 シラケているということが、カッコイイことのように思わせたテレビアニメの数々。
 視聴率は、もちろん最初は取れなかったけれど、テコ入れのためにある有名なアニメ作家を登用してやった。
 そして、そのおかげでスポ根ものが売れなくなった。根性、というのはつまりださいことという意識を植え付けたためである。
 ちょっと惜しかったかもしれないな。
 とも思う。
 しかし、団結してもらっては困る。
 わがままなことを言うな、というアニメも放送させている。
 こうして、「わがまま」という名前の問題意識は抑えられる。
 自由な発想なんか、あってもらっては困る。
 オレの権力が、自由な発想で損なわれるのは、迷惑なのだ。
 いやいや、そんなことを思っていることなど、おくびにも出してはならない。国民には、自分たちには自由があると思わせておくほうが、なにかと都合がいい。そのためにマスコミを操作しているんじゃないか。
 たった一人を除いて。
 オレはどんな悪いことをしたか? と南雲は考えに沈んだ。構造改革もやった、ゼネコンも解散させた。それで景気は上向いた。記者の攻撃も弱まった。そしてそれでもなお食らいついてくる野木武司には、普通以上に親しく、そして密接して付き合ってきたはずだ。旭日新聞や嫁入新聞もネタにできなかった情報まで教えてやったつもりなのだ。そうやってオレは記者をコントロールし、うまく国民の支持を取り付けさせて、いまやかつての人気ナンバーワンの小泉首相を追い抜かす勢いだ。旭日新聞や嫁入新聞を操作するのは実に簡単なのに、あの野木武司だけは!
 いやいや、怒ってはならん。相手の思う壺だ。
 国民の特性、というやつを考えなくてはな。と南雲は思った。いままでの権力者は、みな、それを把握しそこねて失脚している。日本人の本質が、わかってないんだ。武司にもそれがわかるはずだ。
 判らせてやるのが、親切と言うものだろう。
 南雲は邪悪な微笑を浮かべた。
 記者クラブに電話した。
 そして、野木武司を記者クラブから追放するように、働きかけはじめていた。
 理由はただ一つ。
 彼は在日韓国人を差別している。
 それだけで充分だった。
 彼は電話をかけた。
「よお、佐伯……ちょいと野木武司の筆跡を真似できるやつをよこしてくれよ……大丈夫だって、野木武司はこっちに捕まえてあるからバレっこない……」