新聞バトルロワイヤル 第五章
作:大谷時江美





〜国籍〜


「おらおらおら、出るんだよ!」
 がちゃり。精肉トラックの扉が開くと、一気に氷冷化していた空気が和らいだ。すわーっと重く垂れ込めていた雲が、嵐の中に溶け込んでいくような錯覚を覚えた。四人はふらふらと立ち上がった。しもやけを感じてひりひりするくらい痒かった指先に、じーんと暖かさがにじんできた。夏の暑さがこれほどありがたいとは思わなかった。
 外は薄暗い、なにか倉庫のような感じがする。生の魚の匂いがした。
 大輔たちはトラックから降ろされて、床に立たされた。しゃりっと音がするところを見ると、アスファルトではなく土のようだ。おそらく、埼玉から相当距離を走って来たに違いない。かすかに潮の匂いもする。漁港……か?
 ここは、どこだ?
 大輔は、あたりを見回した。
 たいして目に映るものはなかった。四角い木の箱らしきものが、いくつも段になって重ね合わさっている。天井からなにか、紐のようなものが垂れ下がっているようにも見えるが、ひょっとすると鎖かもしれない。なにか、陰険な蛇のようなものを連想させた。魚や木の腐ったような匂いもさることながら、どんよりと重くたれこめた雰囲気としびれるような手足の感覚とが、妙にマッチしていた。
 非常に不快な感じがする。
 この、魚の匂いのためではなかった。独特の、なにか異様な空気が、柔道をしている彼にはびりびりと感じられている。こういうのを「悪意」というのであろうか。ともかく、このまま無事では済まされそうにない雰囲気だ。彼は手足をあたためようと、息をはきかけた。たいして役に立たなかった。
「よく来ましたねえ。野木大輔くん」
 聞き覚えのない声が響き渡った。
 かしゃん!
 三流スパイ映画のように、照明がそこだけ照らされた。巨大な男だ。ひげが物凄く生えている。
「だれだ、あんた」
 声が弱々しくなるのが悔しい。
「名乗るほどのものでもありませんよ」そいつはそういってにやりと笑った。
「あなたの噂はかねがね聞いております……ま、わたしのことは、石川五右衛門とでも弁天小僧とでも、なんでも好きなように及びなさい」
 石川五右衛門だ?
 弁天小僧だ?
 泥棒じゃないか。
「お尋ねしたいことがあります」そいつが口を開く前に、
「こっちも聞きたいことがあるね」大輔はイライラしていた。「母を刺したのは、あんたか」
「なにをおっしゃいます。わたしがそんなまねをするとお思いですか?」そいつは大げさに驚いて見せた。
「思想を持っている奴は、言論の自由を抑圧するので有名だからな」大輔はきっぱり言い切った。
「その点では右翼であれ左翼であれおなじことだ」
「なんですかそれは?」そいつは眉をしかめた。
「ともかく、おまえらの脅しには屈服しない! オレは忙しいんだ、さっさとここから帰してくれ」大輔は、無駄だと思ったものの一応は抵抗を試みる。特攻服を着ていた暴走族をとりしまるはずの、警官が一人もいなかったところを見ると、どうやら警察とこいつとは裏で手を結んでいるのだ、と彼は踏んだ。あんなに大立ち回りをしても、また、群集の目の前で大輔たちを連れ去っても、パトカーひとつ現れなかった。なにか、権力の匂いがする。それも並みの権力ではあるまい。昨今の警察は、市民にしたしまれることを主眼においているから、市民の一人が無理やり連れ出されるのを黙ってみるはずがないからだった。
 こいつ、いったい何者なんだ。
「わたしの質問に答えてくれたら、わたしもおかえしにちゃんと家にお返ししますよ」
 そいつは悠然としている。
「母親を刺したやつに答える義務なんてねーな」大輔の声には当然ながら、かなり刺がある。
「そんな事言っていいんですか?」そいつの顔に、かすかに面白がっている色が浮かんだ。
「あとで這いつくばってお願いしても、知りませんよ?」
「おまえなんかの言いなりになんか、なるものか」
「これはずいぶん余裕がありますなぁ」そいつは言ってにやっと笑った。
「お母さんのこと、心配じゃないの?!」香花は信じられない、という表情だ。
 もちろん大輔だって心配だ。いま、生死の境をさまよっているのだと思うと、いてもたってもいられない。こいつの目的が何であれ、言ったとおりにしていれば無事に戻れ、母の顔を見ることが出来るかもしれない。
 しかし、戻れないかもしれないのだ。
「おまえらの言うとおりにして、たまるかっ!」
 豪語しているのは、別に逃げ出す自信があったわけではなく、そう言わなければ屈服したのとおなじことになるからだった。暴力をふるうようなやからが、なんの取引もせずに「協力して」くれるなんて思えないし、あまつさえ関係のない人まで巻き込んだりするのだ。
 そんな人の言うとおりにしていたら、骨までしゃぶられてしまう。
「そんな意固地なことをしていたら、生きてお母さんに会えなくなりますよ……?」
 そいつはそう言った。
 邪悪な微笑が浮かんでいる。
 決めた。と大輔は思った。こいつの名前は、『武田信玄』だ。
 なにかにとり憑かれたような目つき。そして傲慢な語り口。その一方でなめらかで流れるような語調が、カリスマ的な魅力をかもし出している。言葉には力があり、かなりの自信もうかがえた。だれであれ、人を支配することにかけてはプロなみのようだ。
 手下どもが下品な笑い声を立てている。
 大輔は、こぶしをにぎり、たち尽くした。
 父が行方不明になったのは、特ダネのためではなかったのだ、と思った。そして母が刺されたのも、なにかこいつと関係がありそうだ。コノヤロウ、という思いが突然沸いてきた。
「おいっ」彼は考えるより先に、言葉が飛び出すのを感じた。「父さんはどこだっ!」
「あなたがそう来るとは思ってませんでしたなぁ」『信玄』はすっかり楽しんでいる様子だった。
「しかし、昨今の大学生にしては、ずいぶん骨がありますな」
『信玄』はかつかつかつ、と近づいてきた。
 近づくにつれ、そいつのカリスマ的な風貌が、一種の圧力になって大輔にのしかかった。黒々としたあごひげ、がっぷりとした肩幅、筋肉質の腕が半そでのシャツから覗いている。
 殺気。
 大輔は、さっと身構えた。だてに柔道を学んだわけではない。
「お兄ちゃんッ!」
「野木さん!」
 叫び声があがった。振り返ると、手下の一人が香花と与謝野を羽交い絞めにしているところであった。大輔は一瞬、ひるんでしまった。相手は複数だ。こっちがこいつを投げ飛ばしている間に、二人が傷つけられるかもしれない。肩や肘ならいいが、顔だったら……大輔は、香花の美しい顔と、与謝野のあばた面を脳裏で比較した。まあ、与謝野はこれ以上ひどくなりはしないだろう。とか思ったりする。そして、強烈に後悔してしまう。オレってやっぱり、美人に弱いんだろうなぁとか次の瞬間に考え、そんな場合じゃないと自分を叱り付ける。健二と協力して、こいつらをやっつけられないものか。
 と思ったのがどうやら顔に出たらしく、『信玄』はみょうになれなれしい仕草で大輔に近づき、その顎をひとさしゆびで差し上げると、
「おまえも愚かな民衆の一人になるのですか?」
 と野太い声で聞いてきた。
「なにっ」
 大輔はカチンと来た。
「人を傷つけるようなやつが、なにを言う!」
「きみだって人を傷つけたことはあるでしょう。人間というものは、傷つけあって生きていくものなんですよ」
 大輔は、握り締めたこぶしがかすかに震えてくるのを感じた。なるほどさっきはこいつら暴走族をやっつけた。傷ついたやつもいるだろう。しかしナイフを持って襲ってくるのが悪いんだ。オレが悪いんじゃないぞ。
 これはきっと、左翼の連中に違いない。オレや父さんが常識的なのが、がまんできないんだ。こいつらには正論など通用しない。世間並みの常識だって。男のオレや父親を襲うのはまだ理解できるし、そういうやつらにはかかってこい、と思えるが、香花や与謝野までまきこむやつには、倫理もなにもないのだ。
 許せない。
 高校のときを思い出した。思想について、自分の思うことを述べたら、「カゲキだ」という友達と対立したことがある。もちろん大輔にはたくさんの友達がいて、たいていの友達は彼の新聞比較を、奇妙な習慣を持つ変なやつとは思っていても、面白いやつだと許してくれていた。健二など、その件について感想を言ってくれたことがある。
 しかし、どうしてもソリのあわない人がいた。
 そいつの雰囲気と、この『信玄』とは、とてもよく似ている。
「言うことをきかないと、血を見るのは一人だけではすまないですよ……」
『信玄』はそう言うと、腹のそこから湧き出る邪悪な泉のように、含み笑いをした。
「香花や与謝野さんは関係ない、帰してやってくれ!」大輔は、むなしい抗議だと思ったが、
「そうはいきませんよ。大事な人質なんですから」
 やはり返事はこれだった。大輔は唇をかみ締めた。さびた鉄の味がした。どうやら唇を噛み切ってしまったようだ。血がにじんでるぞと理性は告げていたが、感情的にはそれすら気づいていなかった。
「なにが目的だ。かあさんを殺そうとして、なにをしようというんだ」
「殺そうとした?」
『信玄』はにんまり笑った。
「いや、そんなことはしていませんよ。あなたをおびきよせるためにうその情報を流したのです…… 香花さん、今です!」
 えっ。
 と思って振り返ると、背後にぴたりと硬いものをつきつける気配。
「ナイフなのよねこれって……」
 背中を強くつっつく。なるほど、たしかに痛い。振り返ると、香花がにっこり笑いながら、そのナイフらしき物体をつきつけているのであった。
「いったい、どういうことだ!」
 大輔は混乱した。さっきまで味方だった彼女が、どうしてこんなまねをするのか理解できなかった。この邪悪な微笑を浮かべてこちらを見つめているのは、ほんとうに自分の妹なのだろうか?
「お母様は、傷ひとつなくピンピンしておいでです」『信玄』はそう言って、いとおしそうに香花の肩を叩いた。
「よくやったね、香花」
「野木さん! これはワナよ!」
 与謝野が叫んでいる。
「そう、ワナです」『信玄』はゆったりとうなずいた。
「あなたをここに案内するためにしたことなのです…… 香花さん、もっと強く背中を押してやりなさい」
 ぐいっと背中の異物感が強くなった。大輔は奥歯をかみ締めた。ぎりぎりと、歯がきしんだ。
「香花……なぜだ!」
「えと……」香花はちょっと首をかしげた。
「ちょっと借金がかさんじゃってさ〜。この人に、いいバイトがあるって言われたんだぁ。ねえ、お兄ちゃん。お父さんの居所、知らない?」
 香花の眸は微妙に揺らいでいる。いちおう、良心が痛んでいるようだ。
「これで大輔くんとも、話がしやすくなりそうですな」
『信玄』はうそぶいた。
「人間は、死の前では平等です。人間必ず一度は死ぬのですから…… 死にたくなければ、正直に言うんですね」
「その前に、名を名乗れ!」大輔は叫んだ。
「そちらでつければいいでしょう」そいつは応じた。
「オレなんかに名乗る名はないってか!」と言ったとたん、ぐいっと背中に再び異物感。
「だいすけぇ、こいつらに協力してやろうよぉ」与謝野と同じく暴走族に羽交い絞めされている健二はすでに、弱気モードであった。こころの中で舌打ちをする。こいつはいつも、そうだった。肝心なときになると逃げ出してしまうのだ。もう二十歳すぎているのだから、大人の自覚と責任感があっていいようなものじゃないか、と思った。
「オレは断じて協力しない」
 男には、命をかけて名誉を守らねばならないときがあるのだ。
「お父さんの居所、知らない?」
 なおも香花は質問を繰り返す。答える義務はないので、
「母さんは? 刺されたってのは嘘なんだろ」
「そうよん〜。あたし演劇部なんだぁ。真にせまってたでしょー」
「お前なに考えてるんだ」
「おかーさんなんか元気元気。刺されたくらいじゃ死なないもん、ほんとに刺してやろっかな〜」
「冗談言ってる場合か!」
 と言ってから、香花が冗談を言っているのではないことに気づいた。
 いったい、借金はどれくらいあるっていうんだろう。この男はそもそも、なにものなのだろうか。
「まあ、あまり意地を張らずに、リラックスして話を聞いてくださいよ」
 そういうと、『信玄』はかつかつかつ、と靴音を立てて大輔の周りをゆっくり歩き出した。
「野木大輔くん…… 妹に脅されたのでは、自慢の柔道も形無しですなぁ」
 あざけっているのだ。
 いい大人が、年下相手になにを勝利感に浸ってるんだよ、ばか。
 大輔は内心で罵倒したが、口には出せなかった。
「あなたのことは、徹底的に調べさせてもらいましたよ。裏も表も洗いざらい全部。ハッキリ言いましょう。香花はわたしの手下になりました。あなたも手下になるつもりはありませんか?」
「願い下げだ」即答した。
「香花はわたしの手下になって、わたしの手元で大活躍していますよ。あなたにはそれをとめる手立てはないのです。それにあなたにとってもいいことがありますよ。お父様を探すお手伝いをしてさしあげられます」
 甘い口調だ。背中のナイフが異様に意識された。
 飴と鞭。使い方を知っているやつなのだ。ただのチンピラとは違う。警察との関係はどうなっているのか?
 だいたい、こいつと父さんは、どういう関係なんだ?
「おい、オレがそんな取引に応じると思ってるのか。そもそも、なんで父さんの居所を知りたがる。父さんは今、特ダネを追いかけてるところなんだ……」
 ふと、思いついたことがあった。
「その特ダネとあんた、なにか関係があるんだな?」
「おお、三流大学に通っていても、さすが頭はいいみたいですねぇ。新聞比較が趣味と言うだけはある」
 そう『信玄』は言うと、
「そのとおり。あなたの父上の握っている情報は、大変わたしにとっては都合が悪い。握りつぶしてくれるよう、お願いしようと思っているところなんですよ」
「お願い……?」大輔は皮肉っぽくなった。「強制の間違いだろう」
「あなたは普段から、新聞は思想を誘導すると批判しておいでだ。なにもはじめから存在するものに対して、いちいち指摘する必要はない、とも言ってこられたではないですか。わたしもいちいち、お父さんとの関係について説明する愚は犯しますまい」
『信玄』はそう言って、にんまりと微笑んだ。
「ただ、お父君の行方さえわかれば、それでいいんです」
「知らないね」大輔は憮然となった。「知ってても言うものか」
「そんなこと言うと、後悔しますよ」
「オレをどうにかしようったって無駄だからなっ!」
「どうやらあなたは、思ったより意志が強いようだ。おい、近藤。やれ」
 突然、びりびりっと布の裂ける音がした。女の悲鳴が響き渡る。ぎょっとして振り向くと、与謝野が身をもがいている。その赤いスカートが裂けている!
「やめろ、この変態やろうっ!」
 一瞬のうちに理性が飛んだ。主義主張は違っていても、男たるもの女性を守れなくてどうする。そんな矜持から、彼は自分に向けられたナイフの存在を綺麗に忘れてしまった。
 彼はまっしぐらに与謝野を守ろうとして身をはぜた。健二はあてにならない。その隣で男二人にしっかり捉えられている与謝野めがけてダイブした、その直後、ずきんと背中に強烈な痛みを感じた。
「あーん、お兄ちゃん、急に動かないでよぉ」
 香花の悲鳴のような声。
「早くっ! こっちにナイフをよこしなさい!」
『信玄』の声が同時に響き渡った。
 すべてがスローモーションのようにゆっくり動いているようだった。ぎぎぎ、と背中のシャツが裂ける音がした。強烈な痛みを感じながら、彼は身を躍らせて与謝野を押さえつける二人組のほうへとんでいく。一人が下劣な声をあげながら、ナイフを振り回した。健二がふらっと身をくねらせ、その場に倒れこもうとした。砂がきしむ音。倒れこむように子分どもがゆらいで腕を離し、健二は自由の身となった。狙ってやったのだろうかと一瞬考えた刹那、与謝野祥子がナイフを持った手下を、乱暴につきとばした。でたらめに突き飛ばしたので、彼らはまっしぐらに健二のほうに投げ出された。健二は明らかにうろたえている。武術の心得はないのは明らかだ。
 そこで、大輔がそいつらに向かって跳躍し、当て身を食らわせてナイフを奪い取った。同時に健二はというと、さっと与謝野をかばって暴走族たちの手の届かないような場所を探して目をあちこちさせているようだ。しかし観察している時間はなかった。男が立ち上がって、獲物を横取りされたゴリラのようにこっちに向かってきたからだ。
 たちまち大輔は、右手首をつかまれて、背中に向けて引っ張られた。折れそうなほど力が強い。しかも、かなり戦闘慣れしている。むこうはカラテもするのにこちらは柔道一直線、お互いにわずかな隙も逃がすことはない。
「大輔、助けてくれっ」
 小野寺健二がわめいている。男の癖にだらしないやつだ。
 大輔は後ろ手になった体勢で手をぴんとはねあげ、敵を木箱のほうに投げようとした。しかし、敵もさるもので、逆にその体勢を利用して大内刈りをかけてきた。相手もそうとう、柔道をやっているようだ。しかも、向こうのほうがうまい。大内刈りがうまく行かないと見ると、払い腰、その直後崩れ上四方固めに切り替えてきた。対処しようとしていた大輔は、次々と、しかも急にまったく違う技をかけられて、一瞬気をとられた。
 その一瞬が致命傷となった。
 ぐらり、と視界がゆらめいた。
「大輔、だいすけっ!」
 健二が叫んだ。気がつくと彼の顔が泥とキスしている。ぺっとつばを吐きかけると、ほほに冷たい水の感触。水溜りに顔を突っ込んだらしい。髪が濡れたために、唇のところまで貼りついてきた。息をするのが苦しい。ぎりり、と背後の髪の毛がひっぱられ、水からひきあげられた。彼が反抗的な態度を取り次第、いつでも水に突っ込ませるつもりなのだ。
「まったく、やるもんですねえ」
『信玄』はうれしそうにそう言った。
「しかし、抵抗は無意味だということが、これで判ったでしょう、おとなしくお父君の居所を吐いてもらいましょうか」
「し、知らないんだ」大輔は声がしわがれるのを感じた。
「そんなはずはない」『信玄』は、優しい子供のようにやわらかく、だがそれだけに不気味な声で言った。
「身内だからといってかばいだてすると、ためにならんぞ」
 それまで丁寧な口調だったのが、突然暴力団の組員のように、脅迫めいた(そして品のない)口調になっている。
「正体をあらわしたな」
 大輔が言うと、顔がびしゃりと泥の中に突っ込んだ。直後固いものにぐりぐりと後頭部をおしつけられる感触。窒息させるだけでなく、おぼれさせるつもりなのだ。靴で体重を乗っけてから。息が止まった。ぎりり、と再び顔が持ち上がった。泥だらけでみじめになった大輔の姿を見て、与謝野があえいだ。その声は、空砲のようにその場を突き抜けていった。
 こんなみっともない姿を、彼女には見られたくなかった。
 彼女の存在は、大輔にとっては運命的なものだった。それだけに彼女のイメージを壊したくなかったのだ。年上でも、この人は特別な人なのだから。
「こいつのケイタイには、なにも載ってなかったっす」
 いつのまに取ったのか、大輔のケイタイを振りかざして手下のひとりがそう言った。
「おかしいな」『信玄』は眉をしかめた。「たしかにメールを送ったと聞いているが」
「あたしのとこにも来なかったよん」香花は明るい口調だ。
「だとすると…… おまえの家ということになるが……」
『信玄』は考え込むように、
「これはほんとうに、お母様にご協力いただくことになりそうですなぁ」
「いい加減にしろっ」
 言葉をしゃべったとたん、泥が口の中から飛び出した。
「かあさんたちを巻き込むんだったら、警察を呼ぶからな!」
「あっはっはっは」それを聞くなり『信玄』は楽しそうに笑った。「警察! あんな腰抜けどもに、なにができますか。あいつらは、小物のサァド・ビンラーディンでも追っかけているのが関の山ですよ!」
「……あんた、なにものなんだ」
「聞いてどうします」『信玄』はにっと歯を見せた。「手下になるつもりなのですか?」
 正直に言うと、自分の誇りを捨てても、与謝野と健二を解放させるつもりだった。そのためには、一番やりたくないこと…… コイツの手下になることくらい、どうということはない。しかし、関係のない人間がここまで関与した以上、彼らもまた命の保障はないだろう。なんとか『信玄』にゴマをすって、彼らの命を助けなければ。
 大輔は態度を一変させることにした。
「わかったよ、あんたの勝ちだ」ごぼ、と吐き出したのは、泥だと思ったが血が混じっていた。
「おまえの手下になろうじゃないか」
「そうこなくちゃね」『信玄』はそう言って、「香花さん、さすがあなたの言うとおり、お兄さんはなまっちょろい正義感の持ち主だということが、よく判りましたよ」
 悪かったな。
 と思ったものの、彼は情けないことにそれを否定する元気がなかった。二人の命を自分が握っていると思うと、うっかりしたことはできない。それに、手下になりすまして父の居所をさりげなく、追跡することもできるかもしれなかった。
 とそのとき、ケイタイが鳴り響いた。慌ててポケットをまさぐる。
「あ、メールだ」
 しかし、メールにはこうとしか書かれていない。505の、♪2020。
 発信者は、父親からだ。
 どうして、こんなときにメールなどよこすのだろう。しかも、電話番号じゃないかこれって。
「おい、そいつをこっちに渡せ」
『信玄』が手をさし伸ばした。
「言うとおりにすれば、二人を解放してくれるか」
 これが最後のチャンスだ、と大輔は思った。悪党と取引だなんて、ぜったいにやりたくなかったことだったが…… しかたがない。
「いいでしょう」
『信玄』はそう言うと、ぱちん、と手下に合図した。
「大輔君っ! 協力しちゃダメ!」
 与謝野祥子が叫んでいるが、この際無視する。二人は、引きずられるようにして倉庫の向こうに消えていった。
「お父さんの居所がわかったら、おまえも帰してあげますよ」
『信玄』は親切そうだ。
「俺にもわからないんだ」彼はケイタイを差し出した。「父さんからは、こんなメールしか送ってこなかった」
 俺が敵に捕まったことを、父は知らないんだなと彼は思った。


「ふーむ?」
『信玄』はメールを眺めていたが、電話をプッシュしてみた。
「……なんだ、ペットショップじゃないですか」
 ぷつん、と切ると不機嫌に言った。
「ペットショップに知り合いでもいるのですか?」
「別にいないけど」
 いても教えるつもりは無い。二人が解放されれば、きっと警察に知らせてくれる。そうすれば、きっと誘拐犯はつかまるにきまっているのだ。
 ……警察がどこまでアテになるかは、よく判らないのだが。アテにならないと知っていればこそ、二人を解放するにきまっているからである。
「ふーむ。505……これはSOSっていう意味ではないでしょうか」
 その場の手下が発言する。
『信玄』は目をぴかりと光らせた。
「するとこれは、暗号」
 はっとするほど優雅な身のこなしで、『信玄』は悠然とうなずいた。
「それを、この大輔くんに、解いてもらいましょうか」
『信玄』は勝利感を込めて宣言した。
 そんなことをすれば、父親がひどい目にあわされるだろう。絶対に、教えるわけにはいかない。
 ……そう思いつつ、大輔は、解放されていく親友と論客を背後から眺めているのであった。