皇・氷・穿   第一章<刹>
作:鋼



第一章<刹>



 吐く息が白い。かなり冬に近づいてきた証拠だ。
 コートを羽織らなければ、かなり寒い目に遭うことは確実だ。
 手は冷たい。新しい手袋を買っておいた方が良かったかも知れない。去年のものは穴が開いてしまっていた。
 少しかじかんでわずかに動きが鈍くなった手で、ブレーキを握る。自転車は徐々に速度を落とし、すぐに完全に停止する。
 しかし、直後に信号は青に変わった。完全に止まったことで少し損したように思えてくる。
 両足を再びペダルに乗せると、ギアを軽くして踏み出す。
 周りにいる生徒達のあいだを縫って横断歩道を渡りきる。いつもの癖で、腕時計に目を落とす。七時二十七分。余裕とまではいかないが、間に合う時間だ。
 グリップをひねって、ギアを重くする。加速して、前をゆっくりと走っている同じ学校の男と女の生徒二人組を追い抜く。
(いいですねぇ、女連れは。独り身はつろうございますよ)
 皮肉を込めて胸中でつぶやく。皮肉になっていないような気もするが、そんな事はどうでもいい。自分さえ気にしなければ、誰が気にしようと関係ない。
「邪魔だ」
 悪癖だ。
 歩いていても自転車に乗っていても、邪魔と思ったらつい口に出てしまう。聞こえないことが多いのだが、耳がイイヤツはたまに聞こえたりするから困る。
 改善しようとしているのだが、一向になおる気配がない。
(ま、いいさ。誰かに迷惑がかかるわけでもないし)
 わずかに肩をすくめると、強く踏み込んでまた人を追い越した。



「はい、広東料理!」
 声に起こされる。昼飯を食べ終わって、気温も上がってきていい具合で寝ていたのに。
「はい、じゃあ次、川西!」
 こちらを見て先生が言う。
「四川料理」
 とりあえず正解を言っておく。寝ていたからと言って、全く聞いていなかったわけでもない。
 しかしその後のことは、何も聞かない。聞こえない。なぜなら再び睡魔が不戦勝したからだ。
「はい、そう北京ダック!」
 また声に起こされる。イマイチ要領を得ない説明なのだから、せめてもっと小さい声で話してほしい。
「そう、綿花!」
 学校で、分かりにくいと評判なのも聞いててうなずける。ちなみに地理の時間なのだが。
(ち・・。チャイムまだかよ)
 腕時計によれば、終了まで後30秒という事になっている。
 キーンコーンカーン・・・
 このチャイムの名が愛の鐘とはよく言ったものだ。少なくともこの教室内の生徒にとっては救いとなるのだから。




 適当にほうき片手で教室を掃いて回る。
 右手は、ポケットの中でブラブラと暇を持て余している。
 さっさと後ろにゴミを集めると、用具入れにほうきを放り込んだ。
(ホコリっぽい)
 ホコリアレルギーなのだ。アレルギーとは言ってもただの鼻炎だが。
 廊下に逃避する。廊下はいくらか風が通るので教室ほどはホコリがひどくない。
 窓を開けて顔を出す。中庭を掃除していた生徒と目が合う。
 別に合ったから悪いというわけではないが、ふいと目を横にそらした。
 しかし、そこにも二つの目があった。
 5秒ほど動けなくなる。動くな、と銃を突きつけられたかのように。目を動かせない。心臓も、もしかしたら動いていないかも知れない。ポケットの中の右手も、髪の毛の先程も動いてくれない。
(・・・ふん)
 しかし、動こうと思えば動ける。自分の身体なのだから当たり前だ。現に、きっかり5秒後には中庭のすっかり葉の落ちた銀杏の木に目線は当たっていた。
(何だ?何が言いたい?)
 ちら、と横を盗み見る。
 また、目が合う。
(鈴木梨香)
 顔は悪くない。むしろ良いだろう。性格も、猫をかぶっているのでなければ相当良い。
横の窓から顔を僕と同じように出している、その人だ。
 不意に、何故かは分からないが、向こうが口の端に笑みを浮かべた。僕がいつも好んでするような、唇の片方を釣り上げる笑みとは全く異質な、優しい笑み。
(何? どうして欲しいってんだ?)
 目を閉じる。目を閉じれば、目を合わさなくても済む。同時に苦笑する。意味は特にないが。
 体重を預けていた壁から身体を離した。気配で、鈴木さんも同じようにしたことが知れた。
(どういう意味だ?)
そろそろ終礼の時間だ。教室に戻ろう。
 教室の後ろのドアから入ろうとする。
(・・・ん?)
 ドアが開かない。
「このっ」
 力を入れると、ビクとはするが開いてくれそうにもない。
「そこ、壊れてるから無理」
(鈴木さんか)
「・・・・・・。お先にどうぞ」
「開けてよ」
「壊れてるから無理」
 踵を返すと、さっさと教室の前のドアから入室した。
「はい、席につけー」
(言われなくったって)
 先生が大声を上げている。
「きりーつ」
 級長の声で全員が立つ。
「れい」
 級長の声で全員が座る。
(・・・今日は早く帰ろう)
 先生が話していることは聞き流す。
「きりーつ、れい」
 遊びの誘いがかかる前に教室を出なくては。
 一斉に蜘蛛の子を散らしたように動き出したクラスメートの間をスイスイと進む。
 廊下はまだ他の学級は終礼が終わっていないのか、がらんとしている。
 足早に階段を下りて、コートを羽織りながら自転車へと向かう。駐輪場に着けば、誘いはかからない。
ガチャ、と鍵を開けると乗るが早いが校門を出る。
(・・・・・。間にあった、か?)
「皇樹くん♪」
(ダメだったか・・・・)
 振り返る。鈴木さんだ。
「一緒に帰ろ」
(帰る?どっかに行くんじゃなくて?)
「別に、いいけど」
(どこにも寄らないんなら、ね)
 左手だけで運転しながら言う。
「ねぇ、前から聞きたかったんだけどさ」
「何?」
「いっつも、右手ポケットに入れてるね」
(これのことか・・・・)
 少し、ポケットの中の右手を外から見て分かるように動かす。
「ただの癖」
「ホントー?じゃあ、右手見せてよ」
「やだ」
「何で?」
「秘密」
「私のこと、信頼できない?」
「いや、そう言うわけじゃないけど」
(右手は・・・)
「じゃあ、見せてくれたっていいじゃない」
「誰にも言うなよ?」
「わかった」
(出来れば、見せたくないんだけどね)



      〜続〜