古い城の狼 2
作:坂田火魯志





 この辺りには狼はもういないそうだ。既に狩り尽くされているらしい。これはこの辺りだけでなく欧州全土で言えるらしい。
 欧州は昔から牧畜を行なってきた。彼等にとって家畜を狙う狼は恐るべき脅威であったのだ。
 その為人々は狼を怖れ憎くんだ。狼はことあるごとに悪魔とみなされ退治されていった。これは長きに渡った。
 そして気が着いた頃には狼は殆どいなくなっていた。狼王クルトーはもう遥か昔の物語である。
 ジェヴォダンの野獣ももういない。あの野獣も狼ではないのではないか、という説も多い。
「そういえば」
 捜査が終わり警官達が去り森を離れ田園を歩きながら僕は考えていた。あの野獣についてである。
 あの野獣が狼ではない、という人がいる根拠の一つが狼は首を切らない、というものであった。先程警官に言われ今考えるまで不覚にも気が付かなかった。
 そしてあの死体にはもう一つ気になることがあった。
「うつ伏せだったのはどういうことだ」
 木の上にいるというだけではない。普通狼や犬に襲われた場合喉を狙われるから死体は仰向けになる。ところがあの死体はうつ伏せであったのだ。
「考えてみれば妙だ」
 僕はそのことについても考えた。おそらく警察も同じであろう。
 そう考えながら田園を歩いていた。ドイツによくある牧歌的な風景である。
「同じ田園といっても我が国のとは雰囲気が違うな」
 麦畑を見ながらそう思った。ジャガイモ畑もある。ドイツ人の主食は何と言っても麦とイモである。
「何処かに食べるところはないかな」
 ジャガイモ畑を見ていると急にお腹が空いてきた。時計を見ようとした。だがない。どうも何処かで落としてしまったらしい。
「参ったな」
 よりによって時計を。財布と時計と携帯電話だけは落としたら困るものだ。
 その時鐘の音がした。見れば近くの教会からである。
「綺麗な教会だな」
 僕は人目見てそう思った。その音を聞いて村の人達は作業を止めて自分の家へ帰って行く。
「昼御飯を食べに行くのか。僕も何か食べないと」
 とりあえず店を探した。しかしそんなものは何処にも無い。
「・・・・・・もう少し歩かなくてはいけないかな」
 僕は少し落胆してそう思った。教会の前を通り過ぎた。
「もし」
 そこで教会の方から声がした。
「はい」
 僕は日本語を口にして振り向いた。するとそこには黒い服を着た神父さんが立っていた。
「旅の方ですか?見たところ東洋の方のようですが」
 白髪の痩せた身体をした初老の男性である。顔付きは穏やかで落ち着いた物腰である。
「はい、そうですが」
 僕はドイツ語で答えた。
「そうですか」
 彼はその言葉を聞いて微笑んだ。やはり穏やかな微笑である。
「どうやらお腹を空かせていらっしゃるようですが」
「いえ、そんなことは」
 僕はそれを否定しようとした。だがその時腹が鳴った。
「そのようですね」
 彼は微笑んで言った。
「神の御前では隠し事は出来ません。そして困っている者を救うのは神に仕える者の勤めです」
「はあ」
 僕はそれを黙って聞いていた。
 実は僕はキリスト教徒ではない。特に偏見はないつもりだがあまり親しんでいるわけではない。だから教会に入るのは少しはばかれるのだ。
「こちらへ。丁度私も食事にしようと考えていたところです」
 僕は教会へ招かれた。
「どうぞ。大したものはありませんが」
 ジャガイモとパン、そしてソーセージであった。
「如何ですか」
 神父はテーブルの向かい側に座り僕に尋ねてきた。
「いえ、美味しいですよ」
 それは本当であった。特にバターを塗ったジャガイモは最高であった。
 どうも日本のジャガイモと違うようだ。これはドイツに最初に来た時から思っていたことだがこの国のジャガイモは我が国のジャガイモとは何かが違う。
 どう調理されるかという前提が大きく関わってくるのだろうか。我が国のジャガイモはカレーに入れたり肉じゃがにしたりして食べることが多い。これに対してドイツのジャガイモはマッシュポテトにしたりパイにしたりする。勿論こうして茹でてバターを塗って食べることも多い。
 ソーセージはやはり本場だろうか。こちらの方が美味しいと思う。作り方の歴史的な年季もあるのだろうか。
 パンは黒パンである。教会だから質素にしたのだろうが日本にいる時は白パンばかりなのでこれは珍しかった。
「本当に気に入ってもらえたようですね」
 神父は僕が食べる姿を見て微笑みながら言った。
「我が国は食べ物は今一つだとよく言われますのでこれ程美味しそうに食べて頂けるとは思いませんでした」
「いえいえ、とんでもない。日本でもこんな美味しいソーセージは食べられませんよ」
 僕はソーセージを頬張りつつ答えた。
「おや、日本から来られたのですか」
「はい、一人旅で」
「ううむ、珍しい方ですな。遠い東の国からわざわざこんなところまで一人で来られるとは」
「まあドイツ語も話せますし。それに旅は一人の方が何かと気楽ですしね」
「そうですか。それでここには何が目的で来られました?」
 神父は少し探る目で尋ねてきた。
「森を見に来ました」
 僕は素直に答えた。
「森、ですか」
 それを聞いた神父の顔色が暗くなった。
「もしかして今日の午前にも」
 何を聞きたいか僕にもわかった。
「はい、見ましたよ。残念ばがらこの目で」
 僕は答えた。
「そうですか・・・・・・」
 彼は視線を落として呟いた。どうやらこの話はもうこの小さな村にも聞き及んでいるようだ。
「実は僕は生物学を学んでいたのですが」
 僕は神父に対して言った。
「あれは狼がやったとはとても思えないのですが」
「そうですか。それでは何だと思われます?」
 神父は顔を上げて僕に尋ねてきた。
「それは・・・・・・」
 急に突っ込まれたように感じ僕は口籠もった。
「狼男だと思ってはいませんか」
 神父は探る様な目で僕に尋ねてきた。
「うっ・・・・・・」
 僕は言葉を詰まらせた。その通りであった。こうした話は信じるほうなのだ。
「やはり」
 神父はそれを聞いて静かに頷いた。
「私もそう考えています」
 神父は瞑目して言った。
「ご存知かも知れませんが我が国は昔からこうした話が多いのです。森と城に囲まれた国でありますから」
「はあ」
 僕は頷いた。ドイツ語を学ぶうえでこの国の歴史や文化についてもある程度は学んできた。そしてこの国の話には幽霊やそうした魔物の話が多いことに気付いた。
「死霊や妖精、魔女・・・・・・。古来より森には多くの異形の者が潜んでいると言われてきました」
「それは僕も。我が国でも童話等でよく読みましたし」
「意外ですね。我が国の事が童話で伝わっているとは」
 神父は僕の言葉に対し意外といった顔をした。
「日本人は色々と細かい人達だとは聞いていましたがそんな事までご存知だとは。しかしこれでお話をしやすくなりました」
「はあ」
 僕は相槌を打った。こうした態度は外国ではよく怒られるらしいが日本人独特の話の聞き方だと思うのでここでも使った。
「狼男はご存知ですね」
「童話や映画に出ている程度なら」
「それだけで充分です」
 神父は微笑んで言った。まるで年老いた教師が幼い生徒に接するような笑みである。
「ただ一つ付け加えることがあります」
「それは何ですか?」
 僕はあえて尋ねた。
「狼男は彼等の一部の名に過ぎないのです」
「といいますと?」
 僕は話を突っ込んでみた。
「本来は人狼というのです。狼の力を備えるのは何も男だけではありません」
「そうなのですか」
 知っていたがそれを聞きたかったのだ。もしかしたらここから僕の知らない話が聞けるかも知れないと思ったからである。いささか意地が悪いと自分でも思うが。
「女も変身出来るのです。しかも」
「しかも!?」
 僕はまた尋ねた。
「その力は男のそれよりも大きいと言われております」
「・・・・・・・・・」
 それを聞いて僕は絶句した。それは知らなかったからだ。
「男の人狼は力が強いのですが女のそれは魔力が強いのです。これは魔女が人狼になることの影響だとも言われておりますが」
 魔女の中には変化の術を身に着けている者も多かったという。そして異形の者と交わり恐るべきものを産むことがあったという。
「特に目にその力を持っていると言われております。その目を見た者を意のままに操ったり睨んだ屍を自身の操り人形にしてしまったり」
「かなり強大な魔力の持ち主のようですね」
「はい。その為古は教会もかなり苦しめられた聞いております」
 かって教会は魔女狩りと称して多くの無実の人々を虐殺していた。これは教会の権力欲、台頭してきた新教に対する焦りや自らの勢力の衰えに対する焦り、物欲、そして無知と偏見によるものであった。だがそのおぞましい宴の陰で闇の者達と戦う者達もいたという。
 神父は語った。
「多くの犠牲が出ました。そして教会はようやくあの闇の者達を人の世から追い出すことに成功したのです」
「多くの犠牲ですか」
「はい。それでも彼等は森の中に潜み続けました」
 彼は森の方を見て言った。
「シューベルトやワーグナー、ウェーバーの音楽をお聞きになられたことはあると思いますが」
「はい」
 僕は彼等の音楽は好きである。学生の頃からよく聞いている。
「聞かれていると森をイメージすることが多いとおもいます。これは我々の心の無意識に森があるからです」
 先程も出たようにドイツは森の国である。彼等の心の奥底に森があるのは当然なのだ。
「その中に潜んでいたのです。その恐怖はいかばかりでしょうか」
「・・・・・・・・・」
 我々にとって鬼と同じであろうか。鬼も我々の無意識にある山に隠れ住み人々に害をなしてきた。その為だろうか。僕は子供の頃山が怖かったのだ。
「そして我々は森に入りました。そしてその異形の者を倒していったのです」
「それでもまだ残っていると」
「はい、おそらくは」
 彼はそう言うと表情を暗くさせた。
「実はこうした事件は以前より度々起こっているのです」
 彼は沈痛な声で言った。
「森の中で異形の者の餌食にされたという事件が。私はそれを聞きこの村に派遣されたのです」
 どうやら彼はただの神父ではないらしい。
「そうだったのですか。そして何か手懸かりは?」
「何も・・・・・・」
 彼は残念そうに首を横に振った。
「森の中に潜んでいると思われますがはっきりしたことは・・・・・・。上手く潜んでいると思われます」
「そうですか・・・・・・。それにしても」
 僕はある疑念を神父に対して言った。
「僕のような通りすがりの男に言っても構わないのですか?その様な重要なことを」
「それは構いません」
 彼は穏やかに微笑んで言った。
「貴方がここに来られることは運命なのですから」
「運命?プロテスタントでいう予定説ですか?」
「はい」
 彼は答えた。
「私はここへ来る時協力者が現われると聞いていたのです。それは今日現われると」
「それが僕だったと」
「そうです。私は貴方がここへ来るのを待っていたのです」
「それは・・・・・・」
 これには正直驚いた。まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。
「これも神のご意志でしょう」
 神父はそう言うと微笑んだ。
「そうだとしたら何故僕が!?」
 これが第一の疑問だった。
「貴方の身に着けている知識を神は望まれたのでしょう」
「僕の知識ですか?そんな大したものは・・・・・・」
 僕はその言葉を聞いて恥ずかしくなり苦笑した。
「精々動物に関するものしか」
「それを望まれたのでしょう」
 彼はにこやかに笑って言った。
「それが如何なる力になるかは私にはわかりません。ですがそれが必ずや役に立つでしょう」
「そうだったらいいですけどね。ということは僕も人狼の退治に参加すると!?」
 この時ようやく気付いた。よく考えたらそうなのだ。だからここにいるのだ。
「そうです。それも運命です」
 神父は相変わらずにこやかに笑っている。
「生憎僕は化け物のお相手は・・・・・・」
「それは私がします。これでも法皇様より直々に任じられた退魔師なのですから」
「そうなのですか」
 どうやら神父というのは仮の姿らしい。それにしても退魔師とは。噂には聞いていたがまさかこの目で見るとは。
「貴方は狼についての知識を私にお教え下さい。出来れば思い当たることも知らせて頂ければいいですが」
「それだけですか?」
 僕はその要請が存外にささやかなものであったのでいささか驚いた。
「はい。魔物を倒すのは私の務めですから」
 真面目な宗教関係者の共通点だろうか。自分が進んで仕事をしたがる。その為に周りが見えなくなることも度々だがそれはご愛敬というものであろうか。僕はこうした人が結構好きである。
「それでしたら喜んで」
 僕は笑顔で彼に対し言った。
「有り難うございます」
 神父はやはり微笑みでもって返してきた。僕はその言葉を彼と同じく微笑みで受け取った。

 僕はとりあえず教会を後にした。そして森に戻った。
「ただの旅じゃなくなっちまったな」
 僕は森に入り苦笑した。まさか魔物退治に協力する破目になるとは。
「けれどこれが運命なら仕方が無いか」
 そう言って森の中を進んだ。これは先祖代々からなのだろうか。どうも僕は何でも楽天的に考えてしまう。親父やお袋も
そうだ。一家全員が楽天的である。
 本来なら化け物を相手に戦うのである。命の危険がある。逃げ出してもおかしくはない。
 しかし余裕をもって神父に協力している。死ねばそれまでだとも思っていた。
 先程死体があった場所に行くと警官達がまだいた。残って捜査を続けているようだ。
「おや、どうしました?」
 先程の獣医さんが声をかけてきた。
「いえ、ちょっと落し物が無いかと思いまして」
 僕はあえて臭い嘘をついた。ありたきりだが実は実際に腕時計を落としている。
「これですか?」
 獣医は腕時計を差し出した。僕のものであった。
「あ、これです」
 これで嘘をついていないことになった。偶然というか幸運であったが。
「ところで一つ気になることがあるのですが」
 獣医は表情を暗くして言った。
「何ですか?」
 僕はその様子に只ならぬものを感じていた。
「時計に毛が付いていたのですが」
「毛!?」
 何か得体の知れぬ不吉なものを感じた。
「これです」
 獣医はそう言うと僕にあるものを見せた。
 それはビニールの袋に入れられた金色の毛であった。
 短い。五、六センチ程であろうか。それは見たところ犬の毛に似ていた。
「死体にも同じ毛が付いていました」
「・・・・・・・・・」
「近くの木の下に落ちていたのですが。どう思われますか」
 獣医はそう言うと言葉を改めた。
「あっ、別に貴方を疑っているわけではありませんよ」
 そう取られることを懸念したようだ。
「これはどう考えても人が起こした事件ではありませんし。ただこの時計が見つかったのはついさっきのことです」
「さっき、ですか」
「はい。何かが動いたと思ったら」
「何かが、ですか」
 僕はそれを聞いてピン、とした。
 素人の僕ですらそうだったのである。警官である彼等は既に確信していた。
「どうやら木の上に隠れていたようですね。そして立ち去ろうとしたその時に持っていたこの時計を落としてしまった」
「そうなのですか」
「この時計は何処で落とされました?」
「何処でですか!?」
 その質問に僕は考え込んだ。
 言われてみると何処で落としたのだろう。よくわからない。気付いたのは村に入ってからであった。
「ええと・・・・・・」
 とんと見当がつかない。まずは起きてからの時を思い出してみる。
 朝起きて腕に時計を着けたか。記憶にない。
(あの時か!?)
 どうもそんな気がする。だがこれはありえない。
 何故城にある筈の時計が今ここに。それだけでも充分不可思議だ。
「思い出されましたか!?」
 獣医は尋ねてきた。
「その・・・・・・」
 僕は口籠もった。確証は無いしもあひあったとしてもこんな話誰も信じてはくれないだろう。
「どうもこの森みたいですね」
 僕は嘘をついた。そういうしかなかった。それに幾ら何でもありえないからだ。
「そうですか。では容疑者は貴方が落としたこの時計を拾ったようですね」
「はあ」
「そして現場から逃走する際に落とした。そう考えられます」
「そうですか」
 僕は警察の捜査というものはよくわからない。正直そうですか、とかはあ、とか答えるしかない。幾ら何でもドラマとは違うということ位わかる。
「申し訳ないですがこの時計は暫くお預かりします」
「やはり」
 これは予想していた。
「犯人捜査の重要な手懸かりですので。検査が済み次第すぐにお返しします」
「どうも」
「その間どうされます?よろしければ腕時計をお貸ししますが」
「いえいえ、いいです」
 流石にそれは図々しい。僕は断った。
「これがありますから」
 そう言って携帯電話を取り出した。そこにはタイマー機能もある。
「携帯電話ですか。それなら問題ありませんね」
 獣医はそれを見て微笑んだ。
「ええ。日本製ですよ」
「おや、奇遇だ。私のものもですよ」
 彼はそう言って自身の携帯を取り出した。
「今までは我が国のものを使っていたのですが評判がいいので。噂通りの性能ですね」
「そうでしょう。僕も好きですよ。色々と細かい機能もついていますし」
「人によってはそれが煩わしいと言いますけれどね」
「まあそれは人ぞれぞれです」
 携帯の話をして別れた。森を出た時は夕刻近くになっていた。
 夜の森は危険だ。人狼がいるならば尚更だ。僕は城に戻った。
「お帰りなさいませ」
 執事が出迎えた。そして僕を夕食に誘う。
「わかりました」
 僕は一旦部屋に戻り荷物を置きシャワーを浴びた後食堂に案内された。昨日と同じく主人が待っていた。
「グーテナハト」
 主人は微笑んで挨拶をしてくれた。僕はその微笑みを見てふと思った。
(やはりあの神父とは違うな)
 当然といえば当然であるがそれ以前に何か異質なものを感じる。
 何だろう、僕は考えた。やはり何処か生気が感じられないのだ。
 人はその身体にそれぞれの気というものを持っている。生きているという息吹である。
 それが全く感じられないのだ。まるで人形のようである。
 それはこの主人だけではない。執事や他の使用人達もである。まるで城全体が作り物のように感じられた。
 僕はようやくそれに気付いた。気付くとあまりにも不気味であった。
「どうかなされましたか?」
 主人はその無機質な声で僕に問うてきた。
「いえ、何も」
 僕はそれを打ち消す様に答えた。そしてテーブルに着いた。
 今日は羊料理だった。だが羊の匂いはあまりしない。
「ラムですか」
 僕は一口食べて言った。
「はい。良い肉が入りましてね」
 主人は顔をほころばせて言った。やはり何処か無機質である。
「日本ではあまり食べられないと聞いていますがどうですか?」
「僕は結構好きですけれどね」
 僕は答えた。
「我が国は肉を食べるようになってまだ日が浅いので。残念ながら羊にはあまりなじみが無いのですよ」
 実際ヨーロッパに行って羊がポピュラーなのに少し驚いたものだ。オーストラリアではもっと一般的だった。
「そうなのですか。まあちゃんとした料理を知れば広まると思いますけれどね」
「そうですね。我々は幸い食事に関するタブーはあまりありませんので」
「ならば問題ありませんな。いずれ広まりますよ」
「だといいのですが」
 どうも匂いが苦手という人が多い。僕はこの匂いが逆にたまらないのだが。これは人それぞれといったところか。
 ここで僕はあることに気付いた。
「奥様はおられないのですか?」
 そういえば昨夜もいなかった。
「ええ。夜はいつも早いのです」
 主人は答えた。
「早いといってもまだ夜になって少ししか経っていないですが」
「まあそれが妻の生活ですので」
「そうですか」
 僕はそれ以上聞こうとはしなかった。他人の、しかも女性の生活に立ち入るのも無作法だからだ。
 僕は部屋に戻った。そして服を着替えベッドに潜り込んだ。
 ふと窓を見る。そこには昨夜と同じ黄金色の月があった。
「相変わらず明るい月だな」
 僕はその月を見て呟いた。
 しかも大きい。それは窓から部屋を照らしている。
 僕はベッドから出てその月を見た。漆黒の空をその光で黄金色にしている。
「そういえば月は人狼と関係があったな」
 僕は昼の神父の話を思い出した。
「不思議な話だ。僕があそこへ行ったのが運命だったなんてな」
 有り得ない話だ。そもそも人狼自体が有り得ないのだが。
「まあ明日も行ってみるか」
 思い返すと担がれている気もする。明日もう一度よく話してみようと考えた。からかわれているのならもう相手にはしないだけだ。
 そう結論を出すとベッドに戻った。そして眠りに落ちた。
 
 その夜不思議な夢を見た。何者かに追われている夢だ。
 そこは森だった。昼に入った森だ。僕はそこで何者かに追われていたのだ。
 後ろを振り返る。だがそこには誰もいない。しかし誰かが追って来ているのだ。
 逃げる。森を出ても逃げた。そして今泊めてもらっているこの城に逃げ込んだ。
 城門を閉める。そして城の中を進んでいく。城の中には誰もいない。
 城主の部屋に来た。だがそこにも誰もいない。
 その時後ろの扉が開いた。そして僕を追って来ている何者かが入って来た。
 それは巨大な狼であった。金色の毛に全身が包まれ青い目をした狼だ。
 僕はその目を何処かで見た気がした。そしてその目を見た時動きが止まった。
 動けない。まるで金縛りにあったように。そして狼はその間にこちらにゆっくりと歩み寄る。
 狼が跳んだ。僕に襲い掛かって来る。
 そこで僕の目が覚めた。不意にベッドから起き出す。
「・・・・・・夢か」
 やけに生々しい夢だった。見れば全身から汗が噴き出している。
「そんなに暑くないってのに」
 むしろ寒い位だ。ヨーロッパは日本に比べかなり寒い。
 僕は窓を見た。そこには相変わらず月が輝いている。
「それにしても狼なんてな」
 僕は一言そう呟いて苦笑した。
「話を聞いてすぐに夢に出て来るなんて」
 窓の方に歩いた。
「幾ら何でも気にし過ぎだな」
 暫くしてまた落ち着いてきた。僕はベッドに戻った。
 そして再び眠りに入った。そして朝まで眠りに入った。

 翌朝目が覚めると暫くして執事が呼びに来た。食堂に案内される。
 見れば奥方はいる。どうも朝も早いようだ。
「お早うございます」
 僕は彼女に挨拶をした。彼女は微笑んで挨拶を返してくれた。
 僕は食事を終えた。すると奥方が話しかけてきた。
「今日はどうなさるのですか?」
「また森に行こうと思っていますが」
 僕は答えた。
「そうですか」
 その時奥方の目の色が一瞬変わったように見えた。
「!?」
 それはほんの一瞬だった。しかし確かに変わった。
 それはまるで獣の目であった。血に餓えた獣の目であった。
「それではお気をつけて。あの森は色々と噂がありますから」
「はい」
 どうやら昨日の事件のことを言っているようだ。僕はそれを聞いた後城を出た。
 僕は森には向かわなかった。昨日の神父のいる教会に向かった。
「これはようこそ」
 神父は僕を笑顔で出迎えた。
「必ず来られると思っていました」
 彼はそう言うと僕を自分の部屋に案内した。
「ところで」
 僕は自分の疑念について言おうとした。
「何を仰るおつもりかはわかっていますよ」
 彼は微笑んで言った。
「私が貴方をからかっているとお考えですね」
「はい」
 これには内心驚いた。まさか読んでいるとは。
「まあそうお考えになるのも当然ですが」
 向こうもそう考えているか。しかし神父が人をからかうというのも不自然だ。怪しげな新興宗教の教祖ではあるまいし。この教会はどうやらカトリックらしい。仮にもあのローマ=カトリックの神父が人をからかって何か利益があるとも思えない。まさか詐欺を企んでいるわけでもあるまいし。
「ご安心下さい。私は貴方を騙すつもりはありません」
「そうなのですか」
 とりあえず騙されているわけではないようだ。だがまだ疑念がある。
 この神父が正気でないかも知れない。だがそれも違うようだ。
 見たところこの神父は至って普通の人である。退魔師が普通かと言われれば困るが人としては常識かある人物のようだ。少なくとも神父としてはごく普通の人である。
「昨日のお話の続きですが」
 僕の自分への疑念が消え去ったのを感じ取ったのだろう。神父は語りはじめた。
「貴方はどうやらその人狼の側にいたようですね」
「・・・・・・そのようですね」
 昨日の事件を思い出した。僕があの遺体を発見した時おそらくその人狼(本当にいるならばだが)は僕のすぐ近くにまだいたのだろう。
「もしかして森でのことだけと考えていませんか?」
「違うのですか!?」
 僕はその言葉に驚いた。
「はい。貴方の身体からは妙な妖気を感じます」
 神父は静かに言った。
「それも何処かで纏わり付いたかの様な」
「・・・・・・・・・」
 だとすれば何処か。残念ながら僕には検討がつかない。
「失礼ですが今何処におられます?」
「お城の方で泊めてもらっています」
 残念ながら城の名前までは知らなかった。
「ほう、あの城ですか」
 神父は僕の話を聞いてピンときたようだ。どうやらこの辺りなら誰でも知っている城というのは事実のようだ。
「あの城にはかってこの辺りの領主だった方々が住んでおられますね」
「ええ、そう聞いていますが」
 僕は答えた。
「あの城ですか・・・・・・」
 彼は言葉を繰り返し考える顔をした。
「何かおかしなことはありませんでしたか?」
「おかしなことですか」
 僕はその問いを聞いて考えた。
「そういえば・・・・・・」
 家の主人や執事、メイドのことを言った。
「成程」
 神父はそれを聞いて頷いた。
「そしてあの城の奥方ですが」
 僕は彼女のことについても語った。だが彼女は別に妙だとは思わなかった。
「そうですか」
 彼は話を聞き終えると頷いた。
「その奥方は夜早くに休まれるのですか」
「はい。僕が夕食に来る時にはもう」
「ふむ」
 彼は考える顔をした。
「夜の間城の中を少し気をつけて見ると何か見えるかもしれませんね」
「といいますと?」
「具体的に言いますと起きて城の中を調べて下さい。ただし城の方に見つからないように」
「わかりました」
 僕はそこまで話をすると神父と別れた。そして森へと向かった。
「待てよ」
 昨日事件があったばかりである。今日行っても警官達がいて森の中を見て楽しむことは出来ないだろう。
 引き返した。そして手頃な店で食事と酒を楽しむことにした。
 店はすぐに見つかった。ドイツの家庭料理の店だ。質素だが美味い料理と黒ビールを堪能した。ビールも我が国のものより美味しい。やはり長年ビールに親しんでいる人達だけはある。残念なことに日本酒が飲めない僕はワインやビールを飲むがやはり自分の国のビールを贔屓にしたい。それでもこの黒ビールは最高だった。
「長居してしまったな」
 僕は上機嫌で店を後にした。もう夕方になっていた。
 城に帰った。だが誰もいない。門のところにある鈴を鳴らしてみた。
 暫くして執事がやって来た。彼は僕の顔を見て少し驚いたようだ。
「貴方でしたか」
 普段の生気の無い様子とは違う。表情に変化があった。
「はい」
 僕はその様子にいささか面食らった。妙な感じがした。
「森に行かれたのではなかったのですか?」
「いえ、そのつもりでしたが」
 僕はそこで自分の息がビール臭いのに気が付いた。
「まあこういうわけで。飲んでいました」
「そうですか」
 彼は納得したようである。
「それではお風呂を用意しておきますので。暫くしたらお呼びします」
「これはどうも。いつもすいません」
「いえいえ、大切なお客様ですから」
 彼は先程見せた戸惑いを消し僕を部屋に案内した。僕は風呂に入った後食事に呼ばれた。それにしてもこの国は酒に関しては我が国程五月蝿くはないようだ。フランスと同じく子供も酒を飲んでいる。水が悪いせいであろうが最初見た時にはかなり驚いた。あの総統は酒を飲まなかったそうだがこれはかなり珍しかったのだろう。
「で、森には行かれなかったと」
 夕食の時主人も僕に森に行かなかったとことを聞いてきた。ここまでくるとわずらわしくなってくる。
 しかしそれは顔には出さなかった。やはり失礼だからだ。
「ええ。気が変わりまして」
 僕はフォークで猪の肉を切りナイフでそれを口に入れながら答えた。
「そうだったのですか」
 主人は残念そうに言った。何故彼が残念そうに言うのか理解出来なかった。
(別に僕が森に行こうが行かなかろうが関係ないだろうに)
 心の中でそう思った。しかしそれは言わなかった。
 夕食を終え僕は部屋に帰った。そして時間が過ぎるのを待った。
 真夜中になった。こっそりと部屋を出る。
 もう皆寝静まったようだ。家の中は静まり返っている。
「よし」
 僕は城の中を見回ることにした。ここに来て三日経つ。ある程度は覚えている。
 部屋の一つ一つに耳をそばだててみる。執事達の部屋からは物音はしない。寝ているようだ。
 主人の部屋に行く。やはり寝ているようだ。
「覗いてみるか」
 ふとそう思った。だがそれは危険だと思った。今は止めることにした。とりあえず妙な物音もしないので怪しいことはないのだろうと思った。
「後は」
 奥方の間だがやはり女性の部屋を覗くのは悪い。耳をそばだてるだけにした。
「おや」
 物音が一切しない。静かなのではなかった。寝息一つ聞こえないのだ。そして気配も無いのだ。
「おられないのか」
 そんな筈はないのだがそんな気がした。僕はそれを不気味に感じた。
「おかしいな」
 再び覗いてみようと思ったが止めた。やはりそれは良くない。
 部屋を後にした。そして自分の部屋に戻った。
「おかしいな、気配が全然感じられなかったぞ」
 それに寝息すら聞こえなかった。いくら何でも不自然だと思った。
 単に壁や扉が厚いのか奥方の寝息の音が小さいのか。しかし気配までしないとはあり得ない。
「一体どういうことだ」
 僕は暫く考えた。だが結論は出ない。
 そうこうしているうちに目が冴えてしまった。どうにも眠れないので起きて月の灯りを頼りに本を読んでいた。
「明日はしんどいだろうな」
 そう思いながらも本を読んでいく。こちらで買った娯楽小説だ。ファンタジーものである。
「そういえばこちらじゃファンタジーは我が国でいう時代劇みたいなものなのかな」
 僕はふとそう思った。しかしよく考えてみると東映等がよくやる我が国の時代劇は江戸時代が舞台だ。それに対してドイツやイギリスのファンタジーは大体中世を舞台にしている。時代が異なる。
「そうして類型化して考えるのはよくないな」
 僕は思い直した。そして本をそのまま読んで楽しむことにした。
「こうして読むほうが面白いな」
 僕はあらためてそう思った。読んでいるうちに夜が更けてきた。
 携帯の時計を見る。もう四時半になっている。
「少しだけでも寝ておくかな」
 明日も色々と歩き回る。やはり少しでも寝ておいたほうがいい。
 だがその時正門の方から音がした。
「?」
 部屋から出ず耳だけそちらに注意を向けた。誰か来たようだ。
「こんな時間にか!?」
 幾ら何でも異常だ。こんな時間に来るなんて有り得ない。
 しかしどうも違うようである。来たのではないようだ。
「お帰りなさいませ」
 あの執事の声がした。朝が早いとは思っていたがもう起きているとは。
 それにしても妙だと思った。お帰りなさいませ、とはどういう意味か。
 彼がそのような挨拶をするとすれば二人しかいない。この城の主人か奥方だ。しかし二人共この城にいる筈である。
「あの日本人は!?」
 奥方の声がした。どうも帰って来たのは奥方らしい。
「ではやはり部屋にはいなかったのか」
 僕は何故部屋から気配がしなかったかわかった。
 それにしても何故僕のことを聞くのか。これまたわけがわからない。
「もう戻っていますが」 
 執事が答える声がした。やはり僕のことについてだ。
「そう。森にいないと思ったら」
 何か言葉に棘がある。いや、棘ではない。
 言葉の中には何処か飢えがある。何かを欲しているような。
「まあ機会は幾らでもあるわ」
 奥方はそう言った。
「食事の用意をして。今日はたっぷりとね」
「かしこまりました」
 奥方はそう言うと正門を後にした。そして自分の部屋に戻っていった。
「夜の間何処かに出掛けていたようだな」
 僕はそう結論付けた。
「しかし何故だ」
 それが不思議だ。
「夜に散歩するにしても一晩中だとは妙だ」
 逢引、と邪推したが違う。大体主人公認の逢引というのもあるにはあるが毎日というわけにもいくまい。
 結局わけがわからない。それに彼女は今えらくお腹を空かしているようだ。
「夜の間何をしていたんだ」
 僕はそれについて考えた。そうしているうちに月が消え太陽が姿を現わしてきた。
「寝そびれたな」
 白くなっていく空とその光を見せはじめた太陽を見て呟いた。仕方なくほんの少しまどろむことにした。
「それでも少しは寝ておきたいな」
 そしてベッドに入り少し眠った。
 一時間程しただろうか。部屋の扉をノックする音がした。
「はい」
 僕はベッドから出て扉を開けた。
「お食事の時間です」
 執事だった。僕は彼に導かれ食堂へ向かった。
「お早うございます」
 見れば主人も奥方も僕を笑顔で迎えてくれる。こうして見ると先程の正門から聞こえた話が夢だったように思える。
「はい、お早うございます」
 僕はそれに応えた。そして席に着いた。
「今日は何処へ行かれるおつもりですか?」
 奥方は早速尋ねてきた。
「わかりませんね」
 僕ははにかんだ顔を作って答えた。
「あら、そうですの」
 奥方は素っ気無く言った。だがその表情に微かに見えるものがあった。
 それは舌打ちであった。整った美しい顔がその時一瞬だけ変わった。 
 醜くおぞましい顔であった。それはまるで血に餓えた獣のようであった。
「・・・・・・・・・」
 僕はそれを無言で見ていた。だが気付かれるのを怖れて主人の方へ顔を向けた。
 見れば主人は黙々と食事を採っている。その動きはやはり何処か無機質であった。