古い城の狼 4 |
作:坂田火魯志 |
「それは・・・・・・」
僕は止めようとした。だが彼はそれに構わず短剣を掴んだ。
魔性の息吹を受けた者にとって銀は猛毒である。それを持つ彼の手は瞬く間に溶けていく。
「いいのです」
彼はその手が溶け消えてなくなるより前に動かした。そして自らの首を掻き切った。
「な・・・・・・」
それを見て僕も神父も唖然とした。まさか自決するとは。
「私は彼女の美しい姿を心に留めたまま去ります」
彼は短剣を僕に返して言った。
「そして彼女を待つことにします」
そう言うと倒れた。
「お願いしますよ。彼女を。そしてこの地の禍を取り除いて下さい」
彼の身体が溶けていく。
「私はそれが出来ませんでした。本来なら真っ先にそれをしなければならない筈なのに」
貴族の務めはその土地と領民を護ること。それこそが高貴なる者の務めとされてきた。まあ中にはそれをせず特権に胡坐をかき愚行の限りを尽くした者もいるが。
「わかりました」
神父はそれに答えた。
「安心して旅立って下さい」
優しい声であった。まるで死に行く者の不安を取り除くように。
「有り難うございます」
主人はその言葉に対し安堵したかのような声で答えた。
「その言葉を聞いて安心しました」
そう言うと完全に消えた。
「さようなら」
それが最後の言葉だった。彼はその姿を完全に消した。
「行かれましたね」
僕はそれを見て神父に対して言った。
「はい。あの方は最後まで人でした」
彼は瞑目するような顔で言った。
「その心は最後まで人のものでした。ですから」
彼は言葉を続けた。
「その願いを叶えなければなりません」
「はい」
僕はその言葉に頷いた。
「行きましょう。おそらくもうすぐこの城に戻って来る筈です」
見れば夜になっている。本来ならば明け方にならないと帰って来ないが今は状況が違う。自身のクグツが消えたことは彼女も察知しているだろう。おそらく今頃恐るべき速さでこの城に戻ってきている筈だ。
「わかりました」
僕は頷いた。そして踵を返した。
「ご主人の心を無駄にしない為にも」
僕達は部屋を出た。そして城の中で息を潜め彼女が帰って来るのを待った。
正門が破壊される音がした。凄まじい衝撃が城内に伝わる。
そして恐ろしい冷気が城内を支配した。間違い無い、戻って来た。
僕達は食堂にいた。そしてそこで彼女を待ち構えていた。
「準備はいいですか?」
神父は僕に囁きかけてきた。
「はい」
僕は答えた。気配が一歩一歩こちらに近付いてきているのがわかる。
「来ますよ」
神父が言った。
「はい・・・・・・」
僕は頷いた。今扉が開こうとしている。
奥方が入って来た。金色の髪は月の光を照らし美しく輝いている。白いドレスが夜の闇の中に映し出される。
「ようこそ帰られました」
彼女は僕に対し微笑んで言った。
「我が牙の餌食となりに」
そう言うとニイィ、と笑った。白い牙が見えた。
「もう一人尾お客様もいらしてますし」
神父の方を振り向いて言った。
「お二人も来られるなんて。今夜は楽しくなりそうですね」
その全身から恐ろしい気が立ち昇った。ドス黒くそれでいて悪寒が全身を走る程邪悪な気だった。
「思う存分もてなさせて頂きますわ」
彼女が口を開いて笑った。その歯は既に狼の牙となり白く光っている。
「・・・・・・ご主人の言葉をお伝えしましょう」
神父は彼女に対し静かに言った。
「・・・・・・・・・」
彼女はそれを聞くと表情を消した。そして神父に顔を向けた。
「貴女を退治して欲しいと。そして先に待っていると」
「・・・・・・そう」
彼女は一瞬悲しそうな顔をした。だがそれをすぐに消した。
「けれどそれは適いませんね」
彼女は再び顔に笑みを作って言った。
「何故ですか!?」
僕は問うた。
「貴方達が代わりに行くからですわ」
そう言うとその青い眼を光らせた。
「私は誇り高き人狼の者。人間などに倒される筈がありません」
その顔を金色の毛が覆いはじめた。
「そしてこの永遠の命を楽しむ。血と肉を楽しみながら」
毛が腕も覆う。手が狼のものに変わっていく。
身体が人のものから狼のものになっていく。そして服から出て完全に人ではなくなった。
そこにいたのは黄金の毛を持つ巨大な狼であった。月の光に照らされたその姿は気高いまでに美しかった。
だがそれは外見だけであった。全身は黒い瘴気に覆われ青い眼は血に餓えて燃え盛っていた。
「フフフフフフフフ」
彼女は笑った。狼の笑いではなかった。何と人の声だった。
「さあ楽しみましょう」
左右の燭台が宙に浮かび上がった。
そしてそれは僕達に向かって飛んできた。僕達はそれを剣と短剣で叩き落とした。
「長い夜の宴を」
それが始まりの言葉だった。彼女は跳躍して僕達に襲い掛かって来た。
彼女はその牙と爪で襲い掛かる。僕達はそれに対し銀の武器と持って来た聖水等で対抗する。
「喰らえっ!」
僕は聖水を浴びせかけた。そして次に塩を浴びせる。
だが彼女は一向に動じない。それに構わず襲い掛かって来た。
「クッ!」
僕はその牙を側にあった椅子を投げてかわした。椅子は彼女の身体に当たり粉々に砕け散った。恐ろしい身体である。
「それならっ!」
神父が懐からあの拳銃を取り出した。そして発砲する。
しかしそれは命中しなかった。彼女は素早く跳躍しシャンデリラの上に上がった。
「フフフ、惜しかったですね」
彼女は自信に満ちた声で言った。
「折角に銀の弾丸も当たらなければ意味のないこと」
彼女は笑って言った。
「聖水も塩も通用しないとはな」
僕は彼女を見上げて忌々しげに呟いた。
「先程のお水ですか」
彼女はそれを聞いて嘲笑する声を出した。
「あの程度でこの私を倒せると考えておられるとは」
その声を聞いて僕は一瞬絶望しそうになった。
「クグツならいざ知らず」
彼女は僕達を見下ろしながら言った。
「この私には通用しませんわね」
そうであった。高位の魔族には聖水や塩程度では効き目がないのだ。
「私を倒そうと思ったら銀でもないと」
その銀を僕達は持っている。しかし。
「けれど私に傷を付けられなくては全く意味がありませんわね」
その通りだった。狼の戦闘能力は人と比べて圧倒的に高い。普通の犬でも人はまともに太刀打ち出来ないのだ。それが狼となると。
ましてや彼女は狼ですらない。魔界より来た魔性の人狼なのだ。
「ウフフフフフフフ」
彼女はシャングリラから跳び降りてきた。
「まだ夜も長いですし」
彼女はそう言って後ろに跳んだ。
「まだまだ楽しませてもらわないと」
眼が光った。すると彼女の身体が左右にぶれ動いた。
「なっ・・・・・・」
何と彼女が五人に増えた。そして僕達を取り囲んだ。
「これは一体・・・・・・」
僕はそれを見て思わず呟いた。
「幻術です」
神父はその中の一体を見ながら言った。
「ご安心下さい。彼女が増えたわけではありません」
彼はそう言いながら剣を構えた。
「このうち四体は幻に過ぎません」
それを聞いていささか安心した。
「しかし本物がどれか見極めないと」
「待っているのは死、ですね」
僕は答えた。
「・・・・・・はい」
神父はそれに答えた。五体の金狼が同時に襲いかかってきた。
「ウォッ!」
僕には二体来た。まず一体を屈んでかわす。だがそこにもう一体来た。
「まずいっ!」
僕は横に転がってそれをかわした。だが遅かった。その牙が襲い掛かる。
「こうなったら!」
僕は右手で護った。狼の牙がそこに来る。
しかしそれは幻影だった。牙は僕をすり抜け向こうに行った。
「助かったか・・・・・・」
だが神父はそうではなかった。剣を持つ左腕を傷付けられていた。
「グウウ・・・・・・」
床に血が零れ落ちる。神父は傷口を右手で押さえている。
かろうじて剣はまだ持っている。しかしその傷では満足に振れないことは明らかであった。
「これで剣は使えなくなった」
一体に戻った彼女はそれを見て満足気に笑った。
「あとはゆっくりと時間をかけていくだけ」
そう言うと間合いを取った。
「さあ、覚悟はよろしいですか?」
そう言うと僕に向かってきた。
「ウワッ!」
牙が右手を襲った。右の甲が切られた。
「かすっただけでか・・・・・・」
傷口からは骨が見えている。牙も狼のものより遥かに鋭い。
彼女は間髪入れず再び来た。今度は右肩をやられた。
速い。まるで鎌ィ足だ。到底かわせるものではない。
「如何でして?私の牙は」
彼女は着地して言った。
「見事なお味でしょう」
まるで猫が鼠をいたぶるのを楽しんでいるような、そんな声だった。
本来狼はそのような習性は無いのだがやはり魔性の者だけあり習性が異なっているようだ。彼女は明らかに僕達を嬲りものにして楽しんでいる。
「ええ。確かに」
僕は強がって言った。皮肉を込めようにも出来なかった。
「それは何より」
彼女はそれを言葉通り受け取った。圧倒的な力を持っている為の余裕であろう。
「しかしまだまだ終わりではありませんわよ」
そう言って再び間合いを開いた。
この時僕はその動きを見て気付いた。
速い。そしてしなやかだ。だがそれだけではない。
動きは狼の動きそのままである。そう、狼の。
(当然と言えば当然か)
僕はそれを見ながら思った。この時あることに気付いた。
(狼と同じというと・・・・・・!)
狼もまた無敵ではない。僕はそれを思い出した。
大学で犬の生態について教えてもらった。犬の最大の武器は牙だと。
しかし逆にそれが犬の最大の弱点だと。
牙を使うには絶対に噛まなくてはならない。その時に隙が出来る。
今目の前に牙が迫る。鋭い牙だ。
その牙に触れてはならない。しかしその中には何も無いのだ。
「そこだっ!」
僕は叫んだ。そして奥方の口の中に右手を突っ込んだ。
その瞬間奥方の目が笑った。一気に噛み切り飲み込むつもりだったのだろう。
しかしそれは出来なかった。口は開いたまま閉じることは出来なかった。
僕はその舌を掴んでいたのだ。これならば力が入らない。
「・・・・・・・・・」
彼女はそれから必死に逃れようとする。だが出来ない。舌を完全に掴まれているからだ。
僕は左に持つナイフで彼女の喉を掻き切った。喉から鮮血が噴き出る。
「な・・・・・・」
神父はそれを呆然と見ていた。僕はその彼に対して叫んだ。
「神父さん、今です!」
彼はその言葉に我に返った。そして剣を再び構えた。
そしてその剣を彼女の腹に突き立てた。赤い鮮血が飛び散った。
「決まったな」
致命傷だった。僕はそれを確認すると喉から手を引き抜いた。
彼女はそのまま床に落ちた。そして自身の鮮血の中に沈んだ。
「グググ、まさか私の舌を掴むなんて・・・・・・」
彼女は呻きながら言った。そして次第に人の姿をとっていく。
「話さないほうがいいですよ。傷に触ります」
僕は言った。最早あと幾許かも生きてはいられないであろう。せめて安らかに死ぬべきだと思った。
「フフフ、お優しいのですね」
彼女は人の姿に戻って言った。
「けれど心配はご無用ですわよ」
彼女は魔法で白い服を出しそれで身を包んだ。他の者にその肌を見せまいとする彼女の誇りが為せることか。
「自分のことは自分が一番わかっております故」
そう言うと静かに立ち上がった。喉と脇腹からは血が噴き出している。
「それにしてもよくあんなことを思いつきましたね」
「狼の身体に気付いたんです」
僕は彼女を見据えて言った。
「狼の!?」
彼女はその言葉に対し問うた。
「はい」
僕は答えた。
「狼は相手に襲い掛かる時口が開きます。それはすなわち口の中に隙が生じるということです」
「そうでしたの・・・・・・」
どうやらこれは彼女自身も気付いていなかったことのようだ。
「その口の中にある舌を掴んで引っ張れば動けなくなります。そうすれば後は窒息させるなり今のように喉を切るなり思いのままです」
「誇り高き我が人狼のそんな弱点があるとは・・・・・・。迂闊でしたわ」
「いえ、それは迂闊ではありませんよ、奥方」
僕はそれに対し言った。
「どのような者にも必ず弱点があるのです。吸血鬼にもあるようにね」
人狼と吸血鬼は近い関係にあるという。僕はそれを出して言った。
「彼等が日を嫌うのとは事情が異なりますが。それでも今度ばかりは死ぬかと思いましたよ」
僕はそう言って苦笑した。
「犬の遊びの相手はしたことがありますが貴女の様な方ははじめてです。正直死ぬかと思いました」
「それは残念でしたわね」
彼女は微笑んで言った。
「まあ。けれどもうお相手するのはこれが最後でありたいですね」
「それはご安心を。私はもうすぐこの世を去りますわ」
「そうですか。ご主人がお待ちですよ」
「あの人が・・・・・・」
彼女はそれを聞くと顔を急に優しいものにした。
「あの人がいるのからいいわ。何処へ行っても寂しくはない」
「・・・・・・・・・」
それを見て僕も神父も不思議な気持ちになった。彼女もまた夫を愛していたのだ。
人と魔族、しかもクグツとしていたというのに。それでも彼女は彼を愛していたというのか。
「初めて見た時から忘れられなかった。あの人とずっと一緒にいることこそ私の望み」
どうやら彼女は森で彼を見てそれ以来心を奪われていたようだ。そして人の世に入ったというのか。
しかし彼女はやはり魔性の者であった。それにより夫をはじめとして多くの者を自らのクグツにし罪無き人達をその餌食としてきた。
それは彼女が魔物だからであろうか。やはり人を愛していても魔族の心は消えなかったのか。
「もうすぐね。あの人の側に戻れるのは」
そう言うとニコリと微笑んだ。
「それならもうここにこれ以上いても意味はないわね」
彼女はそう言うとその手に赤い炎を宿らせた。そしてそれを床に投げ付けた。
「お逃げなさい。この城はもうすぐ燃えてなくなるわ」
僕達の方を振り向いて言った。優しく気品のある笑みだった。
「私はこうしてあの人の元へ行くわ。あの人と共にいたこの城と共に」
炎は次第に燃え広がっていく。僕達の足下にも近付いてきた。
「行きましょう」
神父は僕に対して言った。
「は、はい」
僕はそれに対して頷いた。
「さようなら」
彼女は部屋を出ようとする僕達に対して言った。それが最後だった。
扉を閉める瞬間に炎が部屋を覆った。僕が最後に見たのは炎の中に消える黄金色の美しい狼であった。
僕達は城を駆けて行った。途中荷物を取り門を出た。
城を出て暫くして城は紅蓮の炎に包まれた。石の城が今紅い炎の宮殿となった。
「・・・・・・終わりましたね」
神父はそれを見上げて言った。
「・・・・・・はい。思えばあっという間でしたね」
僕は彼と同じように炎に包まれた城を見上げて言った。
「それにしても貴方には助けてもらいましたね」
彼は静かに微笑んで言った。
「貴方がいなければおそらく私は生きてはいなかったでしょう」
「いえいえ、そんなことは」
僕はその言葉に思わず謙遜した。まさか法皇直属の退魔師にそのようなことを言われるとは。
「いえ、その通りです」
彼は強い声で言った。
「これが神の思し召しだったのでしょう。貴方のその知識を魔物を退けるのに使うようにと」
「そうなのでしょうか」
「はい。ですから貴方はここに来られたのです」
「・・・・・・そうですか」
正直人の運命というものはわからない。そもそもドイツに一人旅に来たからこうなったのだが。
それが運命か。それでもまさか人狼と戦うことになろうとは。これではまるで漫画である。
「これからどうされます?」
彼は僕に尋ねてきた。
「そうですねえ」
幾ら何でもここまで凄い体験をしたらまだ旅を続けようとは思えなくなる。
「傷が癒えたら日本に帰りますか。そしてゆっくりしたいですね」
もう魔物と戦うのは御免だった。
「おや、それは奇遇ですね」
彼はそう言うとニコリと微笑んだ。僕はそれを見て何か嫌な予感がした。
「私の次の仕事は日本の予定です」
「え!?」
僕はそれを聞いて思わず声をあげた。
「神戸という街に人々を騒がす悪霊が出るという話ですので。法皇様から伝えられているのです」
「何と・・・・・・」
ローマ法皇というのはやはり相当忙しいようだ。まさか遠い極東の一都市にまで目を向けなければいけないのだから。
この時僕は黙っていた。一つこの神父に黙っておかなければならないことがあるからだ。
「おや、どうされました?急に静かになられて」
「・・・・・・いえ」
僕はとりあえず誤魔化した。絶対に言ってはならない。
僕はその神戸に住んでいる。もしそれを言ったら今度は幽霊退治に駆り出される。
「傷が癒えたら日本へ行くとしましょう。そして悪霊を調伏せねば」
「・・・・・・はあ」
黙っていよう。
「もしまたお会いした時は宜しくお願いしますね」
願わくばそんな時は絶対に来ないで欲しい。
「しかしそれは全て神の御意志の下ですが」
僕は残念なことに自分の運命については全く知らない。しかしそんな運命は絶対に嫌である。
「ですがもし神が望まれるならば私達はまた会うことになるでしょう」
「そうでしょうか」
「はい。それこそが神の御力です」
僕はそれをもう殆ど聞いていなかった。そんな運命は絶対に来ないで欲しいと神に祈っていたのだ。
しかしその祈りは聞き届けられなかった。日本に帰って暫くしてよりによって学校に行く途中で会ったのだ。
「神よ、この思し召しに感謝致します」
彼は微笑んで言った。だが僕はその運命を天を仰いで嘆くばかりであった。人の運命とは本当に神の意のままである。
古城の狼 完
2004・3・11