恋する魔法使い(中編)
作:ASD





     5

 まるで、魔法使いの手際でも見ているようだった。
 てきぱきと茶を煎れるタナーシアの素振りを、リューイリアは一秒も見逃さないようにと凝視しながら、感心の声をあげてしまった。
「ね? 特別な事は何もないでしょう?」
 確かに、見る限りはその通りだった。それゆえに、逆に困ってしまう。
「困った」
「……何がですか?」
「手順だ。私の時と、どう違うのだろう……?」
 溜息混じりにそんな事を言うリューイリアに、タナーシアはただくすくすと笑っただけだった。
「失礼します」
 そんな折に、キッチンに顔を出したのは屋敷の使用人。
「将軍閣下が、ヒューム伯にぜひタナーシア殿のお茶を、とご所望にございますが」
 歓談している二人に申し訳なさそうに割って入った彼に、リューイリアが気さくに声をかける。
「分かった。私が持って行く」
 恐縮して去っていく使用人。何事も人任せにしないのがこの屋敷の主の信条だ。貴族の家ならば考えられない事かも知れないが、この家では使用人の仕事を奪いたがる人間が二人もいて、彼らもそれは心得ていた。
「……タナーシア殿は、早くパルミエリ殿の所に戻ってくれ。今頃、フレデリカに質問責めに合っている頃だ」
「よろしいのですか? 将軍閣下のお言いつけ通り、私が持って行って差し上げた方が……」
「伯には気の毒だが、私のまずい茶で我慢してもらおう」
「まずいだなんて、そんな」
 そう言って、二人は笑いながら顔を見交わした。
「……でも、大尉殿。それでしたら、大尉が向こうにお戻りになった方が良くはないですか? 私からフレデリカ殿をお諌めするわけにもまいりませんし」
「……それは、そうか」
 リューイリアはそう言って頷いた。そのまま、二人で七人分の茶の用意をすると、タナーシアはさっさと将軍達の分を持ってキッチンを出ていってしまった。
 そしてリューイリアは一人、その場に取り残されてしまった。
 パルミエリと、その妻タナーシアと、騒々しい双子と、彼女自身の五人分。それを確認して、持っていこうとする。そこでふと、とある事に思い当たってしまった。
 彼女は思わず、ポケットをまさぐった。
 そう、その日彼女は何故か、それを持ち歩いていたのだ。下手にその辺に置いたままにして、誰かに見咎められるのが気にかかった。何となく心配で、肌身離さず持ち歩いていたのだ。
 そう、ポケットに入っていたのは、例の小さな小壜だった。そっと取り出して、中の液体を光にかざす。やや赤みを帯びた、透明の液体が揺れていた。
「これを一滴……」
 彼女の目の前には、五つのカップ。パルミエリに出すカップは、彼女が選んだものだ。彼が最初にこの屋敷のお茶会に来てから、ずっと同じものを使っている。ずらりと並べても、どれが彼のカップなのか、彼女には一目でわかった。
 老婆の言葉が、心の中で繰り返される。
(お嬢様が、本当にその殿方を想っておいでなら……これがきっと、お役に立つでしょう。ほんの一滴……効果はたったそれだけで現れまする)
「老婆よ、嘘はつかぬだろうな……」
(お食事かお飲み物に盛るのが、何より手っ取りばやいでしょうなあ。必ずお嬢様手ずから盛っていただく事、これだけはお忘れなきよう)
 手の中に小壜。目の前にカップ。条件は揃っていた。
 彼女は息を呑んだ。
 お茶会にパルミエリを呼ぶように主張したのはリューイリアだった。けれど今は、将軍自身が話相手としてお気に入りでもある。毎週末ごとに、ほぼ毎度呼ばれている彼だから、別に今すぐに盛らなくても、チャンスは今後いくらでもあるかも知れない。
 同時に、これが最後かも知れない……リューイリアはそうも考えた。今キッチンには、見事なまでに人目がない。
 彼女は逡巡した。
(もちろん、お使いになるか、なられないかはお嬢様のご自由ですよ)
 老婆は、そうも言っていた。
(お嬢様のお悩みを解決する薬です)
 そう、老婆はそう告げただけで、どのような効果があるのか、それについては何一つ言わなかった。
(死んだり……しないよね)
 ごくり、と唾を飲む。恋の秘薬……ひょっとしたら、自分は思いっきりバカバカしい事で思い悩んでいるのではなかろうか。効果があると言って、どのような効果があるというのだろう?
 ……悩むことだろうか。これは単に、彼女に自己暗示を促すだけの代物なのかも知れない。王都の往来に店を並べているインチキ占い師が売りつけているような薬なら、その程度のものだ。……これもきっと、そういう物のたぐいに違いない。
 瓶の蓋を外す。そっと傾けて、パルミエリのカップに一滴だけ垂らした。
 それだけで、準備は完了だった。彼女は再び壜に蓋をして、ポケットに戻した。
 何食わぬ顔でキッチンを出ていこうとして、その場で深く深呼吸をする。
 その時だった。
「……リューイリア」
 不意に彼女を呼ぶ声がした。リューイリアはびくりとして、思わずカップの並んだ盆を少し小突いてしまった。
 カップががちゃりと、微かに音を立てる。割れるほどの衝撃ではなかったが、リューイリアは慌ててカップを抑えにかかった。
「……どうしたのさ」
 声の方を振り返る。そこに立っていたのはフレデリックだった。
「フレデリック。脅かすな」
「ごめん」
 心臓が縮み上がるかのような思いをしたリューイリアは、胸を撫で下ろした。それでもまだ、心臓がどきどきと言っているのが分かる。
「……お茶、冷めちゃうよ?」
「あ……ああ」
 リューイリアはもう一度深呼吸をする。動悸がまだ収まらない。もう一度、深呼吸。
「……それはそれとして、何をしに来た?」
「何もかもあるもんか。退屈だったから」
「フレデリカは?」
「君が心配なのは、あの魔法使いどのの方じゃないの?」
 何気ない一言に、リューイリアは口をつぐんだ。
「それは……」
 そのまま、彼女は黙り込んでしまう。フレデリックはその続きを辛抱強く待っていたが、やがて自ら口を開いた。
「あの人……将軍の客人? それともリューイリアの客人?」
「……何故そんな事を聞く?」
「別に……ただ、何であの二人、こんな所に呼ばれているのかな、と思って。ま、将軍閣下が物好きで呼んでいるんならそれでいいんだけど」
「……」
「ね、ひょっとしたらさ」
「……何だ」
 リューイリアは、注意深く問い返す。言葉が喉に引っ掛かって、上手く声にならない。内心を見透かされるのが嫌で、彼女は目を逸らす。
 フレデリックもまた、言葉を選ぶように注意深く口を開いた。
「……リューイリアの、心配事って。あの魔法使い殿なんじゃないのかな、と思って」
 馬鹿な事を言うな。
 笑い飛ばす事が、リューイリアには出来なかった。
 何かを言おうとして、口を開きかける。何も言えなくて、口を閉じる。それを何度か繰り返した後、彼女はうつむいたまま、こう呟いた。
「……お前には、関係ない」
 そのまま顔を上げないリューイリアを見やって、フレデリックは、そうかと軽く相槌を打ったきり、キッチンを後にした。




     6

 部屋に入る直前、リューイリアは深く深呼吸をした。
「お待たせ」
 茶の乗った盆を手に、部屋に足を踏み入れる。
 リューイリアが戻ったその部屋では、パルミエリが青い顔をしていた。
「……大丈夫か?」
「あ、大尉。ご心配なく……」
 そう呟いた彼の声は、力が無かった。
 部屋の片隅には、フレデリックの姿もあった。タイタス将軍の姿がない所を見ると、「仕事の話」というのはそれなりに込み入った話であるらしい。その将軍の所にお茶を持っていったタナーシアも、まだ戻ってきてはいなかった。
 リューイリアは、パルミエリのすぐ隣に身を乗り出しているフレデリカに批難の目を向けた。
「フレデリカ。何を話している?」
「別に、何でも無いわよ」
 そう言って、リューイリアに笑顔を向ける。
「彼の生まれ故郷の話を、色々と聞かせてもらっていたの」
「生まれ故郷の話、ねえ……」
「彼の国では、双子が生まれたら、普通の子とは別に、離して育てるんですって。寺院の奥に、兄弟とも一度も合わせずに、誰にも合わせずに、祭祀として丁寧に丁寧に育てるんですって。……双子は神聖な存在なのだけど、言葉を交わしたり、近くに行ったり、目にしただけで不幸が訪れるって」
「そこまで話を聞けたのなら、あんまり彼をいじめないで」
「いじめる? 私が?」
 そう言ったフレデリカは、いつのまにかタナーシアの席に座って、彼に向かって身を乗り出していた。フレデリックは気を利かせてか、テーブルからちょっと離れた場所に椅子を移動している。
「……おかまいなく。なあに、単なる迷信ですよ。ははは」
 渇いた笑いが、なんとなく哀れに聞こえるのは気のせいだろうか。
「パルミエリ。お茶でも飲んで、気を沈めて」
「大尉……どうもすいません」
 パルミエリはよろよろと手を伸ばし、カップを受け取る。その手付きも何だか弱々しく、今にも取り落とすかのように思えた。カップの中で揺れる液体を見て、リューイリアははらはらせずにはいられなかった。
 彼は無言のまま、早速カップを口に運んだ。そのまま口に含もうとして、そこで手を止める。
「……?」
「どうか……したか?」
 リューイリアの問いに、しばらく返答はなかった。琥珀色の透きとおった液体を、パルミエリは無言のままに凝視する。
「……これ、大尉が煎れたんですか?」
「……何か、おかしいか?」
 そう問い返したリューイリアの声は、少しうわずっていたかも知れない。
 その瞬間、リューイリアの内心に不安がこみ上げてきた。
 考えてみれば、パルミエリも魔法使いだ。何か一服盛ったところで、それを見破ってしまうことくらい造作もない事かも知れない。彼女はその可能性を、まったく考えていなかった。
 毒が入っている、などと難癖をつけられたら、どうその場を取り繕おうか。
 だんだん、心細くなってくる。やらなければ良かったと後悔の念が押し寄せてくる。気のせいか、足元が震え出してきているように思える。そんな風に心細い思いに捕われるなんて、どれだけぶりだろうか……。
 しかし。
「……気のせいか」
 小さな声でそう呟くのを、リューイリアは聴き漏らさなかった。
 パルミエリはその表情に何の疑いも見せずに、秘薬入りのお茶をゆっくりと口に流し込んだ。
(パルミエリ……済まない)
 内心、そんな事を呟くリューイリア。ふと気が付けば、パルミエリが彼女をじっと見つめていた。
「……な、なんだ?」
「それは僕のセリフですよ、大尉。何だか浮かない顔をしてますけど……」
「あ、いや、それは……」
 リューイリアは口篭りながらも、その場を取り繕った。
「……奥方に、伝授していただいたのだが。味はどうかなと思って」
 渇いた作り笑いを浮かべる自分が、ちょっとだけ惨めだった。
「……おいしいですよ。とても」
 パルミエリはその口の端にかすかに笑みを浮かべると、優しい口調でそう告げた。
 その言葉が嘘なのか、本当なのか。リューイリアには判断がつかなかった。




     7

 何か、夢を見ていたような気がする。
 目を覚ましてみれば、その夢がどんな夢だったのか思い出せないという事はよくあることで……その朝も、結局はそうだった。
 どんな夢だったんだろう。
 思い出そうとするけれど、まるで思い出せない。
 嫌な夢を見た朝は、とても後味が悪く、二度と眠りたくないような嫌悪でその胸は満たされてしまう。
 いい夢ならば、その朝は幸せに満たされていて……けれど、朝の到来はそんな幸せとの決別を意味し、結局は未練を残したまま、一日に寂しい影を落としていく。
 夢なんて、そんなものだ。
 だから、思い出せなかった夢の事は思い出さない事にする。だって、記憶に残らない夢なんて、きっとどうでもいい夢だったんだろう。そう思っておけば、三分後には全部忘れている自分がそこにいるはずだった。けれど……けれどそれで忘れられなかったら、その日一日を、思い出せなかった記憶への未練と一緒に過ごす事になる。分からないことを分からないままにしておく、そのもどかしさ。それもやっぱり、あまりいい気分じゃない。
 それでもし、記憶が蘇ったら……それでどうしようも無い夢だったらがっかりだ。でも、それはひょっとしたらとてもとてもいい夢だったのかも知れない……そんな淡い期待を胸に、一日を過ごすのも悪くはない。けれど……。
 けれど、そんな夢ならば、何故忘れてしまった?
 その朝――パルミエリは、そんなとりとめの無い堂々巡りの中にあった。
 いや、そうじゃない。彼にははっきりと分かっていたはずだった。自分が見ていた夢。どんな夢だったのか。どんな形をしていて、どんな匂いをしていて……それが彼にとって、どういう意味を持っていたのか。
 そう、それは醒めてはいけない夢。
 そう……彼は、引き戻されてはいけない現実に引き戻されてしまったのだ。帰って来てはいけない場所に、戻ってきてしまったのだ。そんな感覚は錯覚だとして、感じているばつの悪さは本物だ。
 目を開けて、上体を起こす。そこは見慣れたはずの彼の寝室。
 けれど、何かがおかしい。違和感がある。
 部屋を見回してみる。どこか薄暗い、陰気な感じのする部屋だった。閉め切ったカーテンは重く、窓からはろくに朝日も差し込まない。
 深呼吸をする。淀んだ空気が肺に流れ込んでくる。何だか、部屋の中が妙にほこりっぽい。
 ほこりっぽい?
 パルミエリは首を傾げた。なぜ部屋が埃っぽいんだ。奇麗好きのタナーシアが、いつも掃除をしているというのに……。
 目を覚ましても、傍らにいるはずの妻の姿はない。むしろ、そこにいつも……彼の側に、常に誰かがいるという事実そのものに、何故かしらパルミエリは違和感を覚えた。だって、考えて見て欲しい。彼はずっと一人っきりで……。
 ……待て。
 何かがおかしい。この胸騒ぎは何だ。自分は一体、何に不安を覚えているというのか。
 慌てて飛び起きる。床には、何やら文字を書きつけたメモや、研究室から持ち出した書類が無造作に散らばっている。注意深く歩かないと、簡単に何かを踏んづけてしまいそうだった。事実、部屋を出る間際に分厚い書物を蹴飛ばしてしまう。勢い余って部屋の壁まで飛んでいったその書物は、先週老師に借りたもので、今日返さなければいけない……。
 そんな事を思いながら、パルミエリの胸に去来するもの。
 果たして、本当にそうだったか?
 自分が思っていることが、本当に事実その通りだという自信がない。どこかで、それはすべてお前が勝手に夢見ていたもの、勝手に真実だと思い込んでいただけのものだと囁く声が聞こえる。
 嘘だ。自分は真実を見ている。事実を知っている。首を振りながら、慌てて廊下に飛び出る。
 廊下も薄暗かった。明かり取りの窓は閉め切られたままで、ほこりの積もった留め具を見る限り最近開け放たれた事があるようには到底見えなかった。
 例によって廊下の空気はほこりっぽく、淀んでいた。違和感と、既視感との間で、パルミエリの感覚は板ばさみにされていた。
「一体……どうなっているんだ?」
 何となく……何となく、頭がきりきりと痛い。昨日の午後からそれとなく感じていた頭痛。何故痛いのか、原因が分かるようでいてまるで分からない。
 彼はそのままキッチンに出向く。ドアを開け、中に足を踏み入れても、そこに人影を見出すことは出来なかった。
 真っ白なエプロンを身にまとって、かいがいしく動きまわる最愛の女性……パルミエリはその脳裏に、その姿を、笑顔を、笑い声を容易に思い描くことが出来た。けどその記憶はどこか遠く、おぼろげで、輪郭がぼやけてしまっていた。昨日までそれを毎日のように見ていたはずなのに、容易に像が定まらない。……いや、昨日まで観ていた光景もまた、彼自身がその脳裏に勝手に思い描いた、ただの幻に過ぎなかったのだろうか。
 幻を観て、自らの記憶を形取る。その記憶から像を描き出して――その幻をまた、脳裏に刻み込む。繰り返すうちに、像は次々とぼやけていって、やがて元の形がどんなであったかを、ついに思い出せなくなってしまう。
 けど、名前くらいは覚えているだろう?
 パルミエリは自問し、心の奥底からその名前を呼び起こす。簡単に脳裏に浮かび上がってくるその名前。名前と一緒に、哀しみが彼の心を突き動かした。
 タナーシア。
 その名前を、声に出さず呟いてみる。蘇ってくるのは記憶だけではない。彼女の可憐な立ち姿、はにかんだ笑顔、透き通った声……その細い手のぬくもりも、髪の匂いも……すべてを簡単に思い起こす事が出来た。脳裏に思い描くだけで、目の前に彼女がいるかのような錯覚に陥る。
 そうやって、すべてが蘇ってきたその瞬間……その記憶が、感覚が、思い出がパルミエリを押し潰す。
 脳裏に浮かび上がる光景とは裏腹に、彼の二つの目が現実を捉えていた。
 キッチンもまた、寝室や廊下と何一つ変わる所はなかった。窓は閉め切られ、薄暗い。光の射さない部屋はやはりほこりっぽく、空気がどんよりと淀んでいた。不快な空気に、呼吸をするのも嫌になってくる。そうやって嫌悪を覚える一方で、そんな空気に慣れてしまっている自分もまた存在していた。今更、ぶつぶつと文句を言うことじゃないだろう。
 緒戦は男一人の暮らしだ。誰が掃除などしてくれるというのだろう。キッチンには、溜りに溜まった洗い物が手つかずのままに放置されていて、見るも無残な光景を示している。けれどパルミエリの心は動かない。何日も何週間も何ヶ月も、そんなものは見慣れた光景だったから。
 そう、彼はずっと一人で、その家で暮らしてきたはずだった。
 力なく崩れ落ちていた彼は、そっと立ち上がってキッチンのテーブルについた。彼の座っている向かい側は、いつもタナーシアの座っていた場所。彼女が笑顔をこぼしてさえいれば、パルミエリはいつだって幸せだった。
 そう、いつだって。
「タナーシア……」
 そう呟いたパルミエリは、一人嗚咽を漏らした。




     8

 例の泥人形のプロジェクトを離れたパルミエリの、新たな職場はかつて彼自身が学んでいた大学だった。
 軍の付属大学で魔法を学んだパルミエリは、そのまま軍の研究員の職につき、あの泥人形の研究に従事していた。そこから離れた後、彼はかつての恩師の助手として、大学に舞い戻っていていたのだった。
「イズラエル老師」
 朝の出勤時刻からは、少し遅れていた。申しわけなさそうに研究室のドアを潜ったパルミエリは、力なく挨拶をしてみせた。
「……おお、パルミエリか」
 老師は書物から顔を上げると、それだけ挨拶を返した。遅刻したパルミエリに説教を垂れようという素振りも見せない。
「遅くなって申し訳ありません。……これ、お借りしていた本と、報告書です」
「ふむ」
 老師はそれを受け取って、さっと目を通す。
「……パルミエリ」
「はい」
「この写本も、他と内容がかなり食い違っているなあ。これについて、どう思うかね?」 
「カナン・カーナの写本は原書が紛失してしまってますからね……」
「そう、一体どこに行ったものやら……あれがどこかに現存していれば、話は早いのじゃが」
「原書そのものが、複数存在するという可能性は? カナン・カーナ自身の手で、内容の違う原書を複数執筆してあったとしたら」
「何の意味があるのだ」
「危険な秘術です。悪用を恐れたのかも」
「……興味深い推理だぞ、パルミエリ」
「どうも」
 彼はため息混じりに、そう返事した。
「……どうしたのかね。今日はいつもにも増して、冴えない顔をしておるのう」
「いつも冴えませんか、僕の顔は」
「いかにも」
 老師はそう言って笑ってみせたが、パルミエリは浮かないままだった。
「……パルミエリ」
「はい」
「もう半年だ。いい加減に忘れてしまいなさい」
「いえ、老師……まだ半年ですよ」
 そう言って、パルミエリは自嘲気味に笑う。
「今朝だって……笑ってくれて結構です。彼女が元気だった頃の夢を見て……朝目が醒めて、彼女がいないことを知った僕は……絶望のあまり、死んでしまおうかと思いましたよ」
「写本の解析が終わるまでは、死なれては困る」
 それもまた、老師なりのユーモアのつもりだったのだろうか。笑えないなりに、パルミエリははにかんだ笑みを浮かべてみせた。
「ご心配なく、老師。……僕には、自決するような勇気もありませんから」
 その暗い横顔に、イズラエルはため息をつかざるを得なかった。




     9

 彼女の歩く姿は、いやがおうにも人目についた。
 将軍の令嬢として、彼女を知らない者はいない。その美しい、かわいらしい顔立ちとは裏腹に、彼女はぱりっとした軍服に身を包み、物騒にも大剣を腰に下げている。彼女の体格にはあまり釣り合っているとは言えなかったけれども、やはり使いこなす自身があればこその得物だろう。飾りでいいのならば、お似合いのレイピアなんていくらでもあるのだから。
「リューイリア」
 不意に廊下の後ろから、彼女を呼び止める声がした。
 聞き慣れた声だ。彼女は無言で振り向いて、その人物の姿を確認した。
「将軍閣下。何かご用ですか」
「父と呼べ、父と」
 顔を合わせるなり、タイタス将軍はおのが娘に向かって、ため息混じりに嘆いて見せる。
「なぜそのように父に冷たい。三日も家に戻っておらぬのは悪いとは思っているが……それをすねる年頃ではなかろう」
「家が静かで結構。くつろいでおりますよ、将軍閣下」
 その言葉が本心かどうか図りかねて将軍はため息をついた。皮肉としては手厳し過ぎるし、本心であるなら何ともさびしい。
「……ひょっとして、週末の事をまだ怒っているのか?」
「別に、怒っていません」
 そうは言うものの、リューイリアのきつい口調を聞けば誰だって彼女の機嫌が悪いのだと思うだろう。
「いや、本当に謝る。……とは言ってもなあ。ヒューム伯はああいうお人だ。約束もなしにうちに来るなんて、いつもの事だろう。何をカリカリしているのだ」
「別にカリカリはしてません」
 澄まし顔でそう言いながら、リューイリアは再び振り返って歩き始める。階級ではずっと上の将軍の方が、おろおろと後を付いてくる始末だった。
「本当に、怒ってはいないのか」
「父上が彼らの訪問を、実は知っていて黙っていたのだとしたら本気で怒りますけど」
「……どういう事だ、一体」
「ヒューム伯から、何か言われているのでは?」
 リューイリアは不意に立ち止まり、父親をキッと睨みつける。
「……さすがは我が娘だ。察しがいいな」
 感心の声を上げる将軍に、リューイリアは冷ややかに告げる。
「……あの男が、私の許嫁ですか」
「まだそうと決まったわけではない。ヒューム伯からは、ぜひにと申し出を受けておるが。……先日の訪問も、息子をお前と引き合わせるつもりでの事らしい」
「それで、年寄り二人、密室で婚儀の予定でも密談していたと?」
「軍の研究予算の折衝だ。仕事はちゃんとしていた」
「フレデリックなら、先だっての北方遠征でイヤと言うほど顔を合わせておりましたが」
「そういう意味ではなくて、だな」
「では、どういう意味なので?」
 再び睨まれて、救国の英雄とまで言われた男は縮み上がった。ため息をつきながら、弁解の言葉を吐く。
「……リューイリア。フレデリックは、いずれ伯位を継ぐ身だぞ」
「父上は、戦場で女に助けられるような男を、自分の娘の婿にふさわしいと……?」
 そのセリフに、タイタス将軍はたっぷり三秒、思案を巡らせた。
「……あの村での話だな?」
「私がいなければ、あの男は蛮族に斬って捨てられていた」
「それは、そうだが……」
 そう呟いた将軍の心境は、なかなか複雑だった。軍人として兵士として立派に成長した我が娘を、よくぞ育ったとほこりに思うべきか、なぜそう育ったと嘆くべきか。
「……ええと」
「将軍閣下。用事がなければ、これにて。私にも仕事がありますので」
「あの……ええと、だな」
「そうそう、今度のお茶会にフレデリックを呼んだら」
「……呼んだら?」
「不肖タイタス・リューイリアス、辺境に転属願いを出させていただきます」
 タイタス将軍は、娘が男の名を名乗ったのを聞き逃さなかった。
「おいおい……そんな事をわしが許すと思っているのか?」
「父上、それは越権行為ですよ」
「……まったく」
「来週また、パルミエリを呼びましょうよ。先日は話も途中のまま、帰してしまいましたし」
「……パルミエリだって?」
 彼女が何気なしに呟いたその名前に、将軍はあからさまに不審な表情を示した。
 なぜ、そんなに不審がる? パルミエリをいい話相手として喜んで屋敷に呼んでいたのは、タイタス自身ではなかっただろうか。
 その素振りに、リューイリアの方が不審を感じ、思わず立ち去ろうとした足を止めてしまった。
「何か、問題でも?」
「いや……久しぶりにその名前を聞いた」
「……? 父上、一体」
「そう……あの一件以来、もう半年にもなるのだな。そう言えばあれ以来、一度も奴の顔を見ていないが……」
「……父上、一体何を言っているのですか」
 嫌な胸騒ぎがする。父親に向かってそう問い質してみるが、声がかすれてはっきりと言葉にならない。
 タイタス将軍は腕組をしたまま、一人で勝手に喋っていた。
「奴はまだしばらくそっとしておいた方がいいと俺は思うぞ。……俺にも経験のない話ではないから分かる。お前の母が死んだ時も、俺にはショックだった。……俺にはお前という娘がいたからまだいいが、やつには忘れ形見もなく、その傷心ぶりや相当なものだろう……こういう問題を解決するのは、時間だけだ」
 リューイリアは、我が耳を疑った。
 父は一体、何を言っているのだろう。そっとしておいた方がいい? パルミエリの身に、何があったのだというのか……。
 次の瞬間。その記憶が、鮮明に蘇ってくる。
 そう、あれは雨の日だった。まるで彼の悲しみを代弁するかのように冷たく降りしきる霧雨。彼と、彼の知り合いだという幾人かの魔法使いと、個人的に親しかった将軍親子。彼らが見守る中、パルミエリが心の底から愛していた最愛の女性は、埋葬され永遠の思い出になったのだ。
 あの時の彼の横顔を、リューイリアは一生忘れないだろう。雨に濡れ、自ら悲しみのどん底に立ち、絶望に打ちひしがれるあの人の横顔。悲しみの余りに泣き崩れることも忘れてしまった、抜け殻のようなパルミエリ。そんな彼を見ているだけで、リューイリアの心もまた痛みを覚えた。
 その横顔を思い出すたびに、その痛みもまた蘇ってくる。
 …………。
 ……。
 待て。
 そんなはずは。
 そんなはずは、ない。
「……リューイリア?」
 ふと顔を上げると、父が心配そうな表情で彼女を見下ろしていた。
「どうした。急に黙り込んだりして」
「わ、私は……」
 その瞬間、蘇ったひとつの光景。
 そう……自分は一体何をしたというのだろう。彼の飲むお茶に一滴垂らした、あの秘薬。辺境の地で老婆より托された、あやしげな薬。
 彼女自身の恋が、これで成就する。
(そんな……)
 リューイリアは、胃の腑を冷たい手で撫でられたかのような、そんな不快感を覚えていた。
 私の……。
 私のせいなのか……?
 次の瞬間。リューイリアは何かに突き動かされるように、走り出していた。
「あ、おい!」
 父親が呼び止めるのも聞かない。放たれた矢のように駆け出していったリューイリアは、軍の庁舎を飛び出して、そのまま敷地の隣接している大学へと駆け込んでいった。血相を変えて飛び込んでくるリューイリアを見て、番兵が肝を冷やしているさまが見て取れた。それを気に止める暇もなく、リューイリアはそのまま研究棟へと駆け込んでいった。
 目指すのは、老師イズラエルの研究室。
「……パルミエリッ!」
 ドアを開け放つなり、彼の名を叫んだ。
 研究室はある意味、整理整頓という言葉からは乖離しつつあった。薄暗い部屋の中に、膨大な書物が整然と積み上げられている。リューイリアは不意に、あの老婆のあばら家を思い出してしまった。それでもまだ、老師の部屋は書物が痛まぬ程度に日の光が取り入れられている。
 その書物の群れの次に彼女の視界に映ったのは、驚きの表情をその皺くちゃの顔に貼りつかせた、一人の年寄りだった。それは言うまでもなくこの部屋の主、イズラエル老師だ。
「……大尉殿? 一体何事ですか、騒々しい」
 闖入者の正体を見極めて安堵の表情を示す老師だが、血相を変えてにじり寄るリューイリアを見て、再び不安に脅える表情を見せた。
 そんな老師を前に、リューイリアは乱れた息を整えるのに精一杯だった。
「老師……パルミエリは……?」
「あ……あやつなら、今日は休みですぞ」
「休み?」
 リューイリアはその短い言葉の意味を尋ねて、老師ににじり寄る。
「どういう事だ」
「ええと……週明けに一度来たっきり、ずっと休んでおりまして……」
「週明け」
「古い書物の解読を、頼んでおったのです。奴は自宅に持ちかえって、週末はそれにつきっきりだったようなので……無断欠勤ではありますが、わしも大目に見ている次第であるのですよ」
「……」
 リューイリアは取り敢えず、老師ににじり寄るのを止めた。それでもどこか納得の行かなさそうな表情のまま、思案顔で狭い研究室をうろうろと歩き回る。
「老師は、助手の無断欠勤を大目に見るほど鷹揚なお人なのか?」
「それはまあ、困っておらぬわけでもないのですが……」
 老師は、ややためらいがちに話し始めた。
「大尉殿もご存じでしょう。あんなことがあった後ですからな。月に一度くらいはこういう風に欠勤しておるのです。……困るといえば困るのですが、責めるわけにもいきませぬし。いつもの事だと思えば、今更どうのこうのと言う事は……」
 それだけ聞けば充分だった。彼女はいきなり飛び込んできた事を詫びる暇もなく、来た時と同じように慌ただしく駆け去っていった。
「……元気のいいお嬢さんじゃわい」
 嵐のように駆け去っていった少女を見送りながら、老師はため息をついた。