破るあたわざるものサィドゥ |
作:天青石 |
壱
乾いた風が沙漠を渡り、悲しげな音色を奏でながら城壁に吹きつける。
見張り塔の男は、空を見あげて眉を寄せた。
月が消えている。
先ほどまでは見えていたというのに、一瞬にして星々までが消え失せた。
雨雲が広がったのか、砂嵐の前兆か。空は漆黒に塗りこめられている。
男は表情を曇らせて、下方を見つめた。
大地に広がるのは、底の見えぬ深い闇。塔から続く城壁はおろか、地平まで広がっている砂丘までもが全く見えない。
男は目を細めて、闇を見透かそうとした。
果たしてどこまでが空でどこまでが沙漠か。もはや区別がつかない。
空も大地も支配するは漆黒の闇。
男はまるで闇に溶けこんだかのように身じろぎもせず、ひたすら闇を見詰め続けた。
どのくらい刻が経っただろうか。
不意に、闇の中に小さな光が灯った。温か味を微塵も感じさせない、冷たい光だ。
左右に揺れ動く光は、近くのようにも、遥か遠くのようにも見える。
男は初め、再び星が現れたのだと思った。
沙漠に舞い上がる砂塵が、星の光を揺らいでいるように見せているのだと。
だが、一向に月も他の星も現れない。
光は揺らめきながら、次第に近づいてくるようにも、一箇所に留まってゆらゆらと動いているだけのようにも見える。
また、光が生じようとしていた。
漆黒の闇の中、砂丘の中央部が音もなく沈んでいく。やがて、痩せ細った骸骨のような手が突き出た。
手は闇の中を蠢いて砂を強くつかみ、力を込めた。ぼろ布を被った頭が砂の中から現れる。
続いて蒼ざめた光を纏った身体が這い出た。身震いをすると、異様に長い痩せこけた脚でゆらりと立ち上がる。
脚は闇に溶けこみ、纏う光だけが闇に浮かび上がって見えた。
見張り塔の男は、新しく現れた光を見て顔を顰めた。
すぐさま床で寝ている少年の背を蹴る。
少年は弾かれたように起き上がり、緊張した面持ちで男の顔を見つめた。
男は無言で沙漠を示す。
少年は沙漠の闇に浮かぶ光を見ると、喰人鬼と小さく呟いた。
すぐに踵を返し、塔の階段を勢い良く駆け下りていく。
男は少年を見送ると、再び闇を見つめた。
光が増えている。
砂丘が崩れて、痩せこけた腕が天を突く。
砂が流れて、ぼろ布を纏った身体が露になる。喰人鬼が砂から這い出した。
喰人鬼は次々と砂の中から現れる。
光が増えている。
だが、喰人鬼の放つ光は、より一層闇の濃さを増すばかり。沙漠は一向に明るくならない。
喰人鬼たちはゆらゆらと動きながら、少しずつ城壁に近づいている。
沙漠は、喰人鬼の放つ蒼ざめた灰色の光に埋め尽くされた。
喰人鬼の纏う光が、灰色から紫色へとちらちらと移り変わる。
剥き出しの足は沈むことなく砂を踏み、滑るように砂の上を渡っていく。
骸骨のような痩せた手を、城壁に向かってつかみかかるように突き出したまま進んでいく。
最初に城壁にたどり着いた喰人鬼が、鉤のような手を石壁にかけた。
杭のような足を石の隙間にかけて、壁を登りはじめる。
城壁にたどり着いた喰人鬼たちは、次々と壁を登りはじめた。
〈告ゲヨ。是ゾ創造者、唯一ナル神、永劫不滅ノ神ゾ。生マズ生マレズ、並ブ者無キ御神ゾ。〉
弐
乾いた風が沙漠を渡り、砂塵を巻きこみながら城壁に吹き上げる。
城璧上の男達は、風に混じる腐臭に眉を寄せた。
喰人鬼が来る。
一定の間隔で並べられた燈架上の油皿に、次々と火が投げ込まれて行く。
城璧の上に一斉に緋色の焔が立ち昇り、勢い良く漆黒の夜空を舐める。
鉄製の焼印を持つ男達は、長い柄を両手に持って燈火を取り囲んだ。勢い良く燃え盛る焔に聖句の刻まれた焼印をかざす。
燈油の燃える音に、読誦の声が重なる。
〈告ゲヨ。是ゾ創造者、唯一ナル神、永劫不滅ノ神ゾ。生マズ生マレズ、並ブ者無キ御神ゾ〉
焼印を持たぬ男たちは長剣や棍棒を持ち、燈火と燈火の間に散った。
城壁から絶え間なく、石に爪が当たる鈍い音と、喰人鬼が身体を引きずる音が聞こえてくる。
喰人鬼が迫っている。
焔がひと際高く上がって、得物を構える男たちの横顔を赤々と照らした。
老人たちは後方の薄暗がりに座りこみ、古びた書に記された文字を追う。
喰人鬼たちの立てる音に、読誦の声が重なる。
〈告ゲヨ。是ゾ創造者、唯一ナル神、永劫不滅ノ神ゾ。生マズ生マレズ、並ブ者無キ御神ゾ〉
城壁の縁に皺だらけの指がかかった。鋭く尖った爪が石に食い込み、焔に照らされて赤黒く輝く。
続いて暗灰色のぼろ布を被った頭が現れた。掴みかかるように腕を前へ伸ばし、身体を引きずりながら城璧上へ這い出す。
喰人鬼がいる。
一人の男が蒼白い光に気づき、警告の声を放った。
燈火を囲む男たちは焼印を持つ腕に緊張を走らせて、一斉に声の方を振り向く。
老人たちは声を合わせて、ひと際高く聖句を読誦した。
〈告ゲヨ。是ゾ創造者、唯一ナル神、永劫不滅ノ神ゾ。生マズ生マレズ、並ブ者無キ御神ゾ〉
身に纏う光を灰色から紫色へと移り変わらせながら、喰人鬼がゆらりと立ち上がる。
真っ赤に焼けた焼印を持った男が一人、喰人鬼の元へ駆けつけた。
喰人鬼が枯れ枝のような長い腕を振りまわす。鋭い爪が男の腕の皮膚を裂き、血が滲み出す。
男は傷に構わずに、焼印を喰人鬼の胸に押し付けた。
喰人鬼の爪が男の腕から滑り、力なく垂れる。
刹那、焼印の聖句が白い閃光を放つ。
〈全能ナル者ニ栄光アレ〉
喰人鬼の爪が崩れた。
指が、手が、腕が、形を失い、砂となって城璧上に崩れ落ちていく。
頭に被っていたぼろ布も、身に纏っていた灰色の布も、砂に還る。
男は焼印を喰人鬼の身体から離した。
身体も長い脚も灰色の砂に変わっていく。砂粒は次々と滑り落ち、風に飛ばされて城璧上に散っていく。
男は腕に残った傷を一瞥すると、再び焼印を熱するために燈火の元へ戻った。
男が離れた場所に、すぐさま別の焼印を持った男が駆けつける。
〈告ゲヨ。是ゾ創造者、唯一ナル神、永劫不滅ノ神ゾ。生マズ生マレズ、並ブ者無キ御神ゾ〉
喰人鬼の爪が城壁上の石を掴む。
待ち構えていた男は、身を乗り出して喰人鬼の頭を狙って焼印を突き出した。
喰人鬼の鉤のような手が、素早く焼印の柄を掴んで強く引く。
男は慌てて柄から手を離したが、喰人鬼もろとも城壁から落ちていった。
喰人鬼の被っているぼろ布が捲れ上がり、赤い二つの目が光る。
男は砂上に叩きつけられ、首が捻じ曲がった不自然な姿勢で倒れ込んだ。
夜風に乗って男の上に聖句が響く。
〈告ゲヨ。是ゾ創造者、唯一ナル神、永劫不滅ノ神ゾ。生マズ生マレズ、並ブ者無キ御神ゾ〉
落ちた男に喰人鬼たちが一斉に群がった。
頭に被ったぼろ布を翻し、鋭い歯を剥き出す。
皮膚を裂き、骨を噛み砕く。
飛び散った血を吸い、撒き散らされた臓物を啜る。
目玉も、歯も、爪も、衣服も、全て喰い尽されていく。
群がっていた喰人鬼たちが離れると、そこには僅かな砂の窪みが残っているだけだった。
〈告ゲヨ。是ゾ創造者、唯一ナル神、永劫不滅ノ神ゾ。生マズ生マレズ、並ブ者無キ御神ゾ〉
参
乾いた風が沙漠を渡り、獣の咆哮のような音を立てながら城璧上を通り抜ける。
燈火を囲む男達は、焼印を熱しながら眉を寄せた。
焔が乱れる。
強風に煽り立てられた焔が、男達の煤で黒ずんだ肌をさらに炙っている。
次々と形を変える火焔を背負い、男達は喰人鬼と相対していた。
向い来る喰人鬼へ長剣を突き出す。
長剣は喰人鬼の胸へ深々と刺さった。
喰人鬼は胸を剣を貫かれたまま両腕を振り回す。
長剣を失った男は飛び退って、鋭い爪を避けた。
喰人鬼は長い腕を掴みかかるように前へ突き出す。
男は腕を避け、姿勢を低くして喰人鬼の脚に組み付いた。
喰人鬼は仰向けに倒れ、頭部のぼろ布が捲れ上がる。感情のない赤い双眸と、鋭く尖った歯が露になる。
すかさず焼印を持った男が駆けつけて、喰人鬼の顔に押し付けた。
〈全能ナル者ニ栄光アレ〉
喰人鬼が砂に変わっていく。
爪も指も頭部も次々と砂に変わり、最後に長剣が砂の山へ転がり落ちた。
男は屈んで長剣へ手を伸ばす。
その途端に、何かが男の脚を引く。
男は咄嗟に長剣を掴んで振り向いた。
痩せ細った喰人鬼の手が足首を掴み、城璧上へ這い上がろうとしている。
足首を掴む力が強まる。
男は急いで長剣を振り下ろし、喰人鬼の腕を叩き斬った。
黒ずんだ血が僅かに飛び散る。が、手はまだ男の足首を掴んでいた。
男は長剣を放り出して座り込むと、喰人鬼の指を引き剥がそうとした。
喰人鬼の骸骨のような指が足首に食い込み、男の赤い血が滲む。
灰色の爪が肉に刺さり、骨を締め上げていく。
男は悲鳴を上げた。
骨の砕ける音が響く。それでもまだ、喰人鬼の手は男の足首を放さない。
男はたまらず、助けを呼んだ。
ようやく駆けつけた仲間が、喰人鬼の手の甲に焼印を押し付ける。
喰人鬼の爪が、指が、砂に変わっていく。
無残な傷口には、灰色の砂が手形のように残された。
喰人鬼が城壁を登り来る。
男達は休む間もなく喰人鬼を屠り続けた。
棍棒で叩き、焼印で滅し、砂に変えていく。
しかし、すぐに次の喰人鬼が這い上がる。
這いあがった喰人鬼の手が、城璧上の石に彫られた僅かな窪みに触れた。
閃光がほとばしる。
〈全視者ハ偉大ナリ〉
喰人鬼は城璧上から弾き飛ばされた。
大きく弧を描いて城壁の縁を越え、沙漠の中へ鈍い音を立てて落ちる。衝撃で首が折れた。
喰人鬼は首が折れたまま立ち上がると、再び城壁へ向かってゆらりと歩き出した。
火焔が次々と形を変えて、光と影を投げかける。
老人たちは声を嗄らして聖句を唱え続けた。
次々と喰人鬼が這い登る。
斧を持った男は、頭を出した喰人鬼の首を刎ねた。
赤黒いどろりとした血を僅かに滴らせながら、首が沙漠に転がり落ちていく。
首を失ってもなお、骨と肉の断面を晒しながら喰人鬼は立ち上がった。
斧の男は後ろに下がりながら、喰人鬼の腕を切り落とした。落ちた腕は、獲物を求めて石に爪を立て、いつまでも蠢いている。
首のない喰人鬼は、残った腕を掴みかかるように前へ突き出して、一歩前へ出る。
男は更に後ろへ下がると、振り向いた。後ろの燈火には誰もいない。
首のない喰人鬼は、骸骨のような指を広げて、また一歩前へ出る。
男は迫り来る喰人鬼へ向かって、渾身の力を込めて斧を振り下ろした。
喰人鬼の肩に深々と斧が突き立つ。
首のない喰人鬼は肩に斧を刺したまま、一歩前へ出る。
得物を失った男は、慌てて左右を見回した。
両隣の燈火にも、焼印を持つ仲間が一人も居ない。皆、目の前の喰人鬼に手一杯だ。
首のない喰人鬼は、尖った爪を振りかざして、また一歩前へ出る。
男は口の中で聖句を繰り返した。
首のない喰人鬼は、また一歩前へ出る。伸ばした腕が、燃え盛る燈火に突き当たった。
油皿が燈架から転げ落ちて、煮え立った燈油が男と喰人鬼に降り注ぐ。
辺り一面に燈油が広がり、火の粉が飛び散る。
すぐに男と喰人鬼は紅蓮の焔に包まれた。
焔の中で黒焦げになった男が崩れ落ちる。
首のない喰人鬼は、黒焦げになりながら、一歩前へ出る。
斧の柄は既に焼け落ち、首に刺さったままの刃は赤く熱せられている。
首のない喰人鬼は、火の海の中で、また一歩前へ出る。
失った腕を振りかざし、獲物を求めて身体を左右に揺らしている。
駆けつけた男が、焔の中の喰人鬼に向かって焼印を突き出した。
刹那、紅蓮の焔の中に白い閃光が走る。
〈全聴者ニ栄光アレ〉
後方の老人たちは熱気と黒煙に包まれながら、聖句を唱え続けた。
〈告ゲヨ。是ゾ創造者、唯一ナル神、永劫不滅ノ神ゾ。生マズ生マレズ、並ブ者無キ御神ゾ〉
四
乾いた風が沙漠を渡り、 砂塵を巻き上げながら吹き荒れる。
見張り塔の男は窓から下方を覗き込んで眉を寄せた。
喰人鬼がいる。
身に纏う蒼白い光をちらちらと移り変わらせながら、真っ直ぐに塔の外壁を登ってくる。
男は窓の両脇にある鉄製の板戸に手をかけた。甲高い軋み音を立てながら、鉄戸で窓を塞ぐ。
暗闇に塗り込められた部屋の中、男は手探りで鉄の閂をかけた。
何かが石を打ちつける。何かを引きずる鈍い音が聞こえてくる。
男は窓から離れて、部屋の中央に座り込んだ。
音は少しずつ近づいてくる。
頑丈な足で塔の外壁を叩き、鋭い爪で石の隙間を抉る音だ。
腐った息を吐き、重い身体を擦りつける音だ。
闇の中で男は一人、窓を見つめ続けた。何も見えないと解っていても、窓から眼を離せずに居た。
轟音が鳴り響いた。
閂が折れて、高い音を響かせながら石床に転がり落ちる。
鉄の戸が開き、白い閃光が迸る。
一瞬の後に光は消えて、元の闇が戻った。
男は窓に近づいて閂の片割れを拾いあげた。表面が錆びて、脆くなっている。
男はため息を吐くと、外を覗きこみながら、鉄板を撫でた。
指先が、僅かに熱を持つ窪みに触れる。鉄板に刻まれた聖句だ。
〈全視者ハ偉大ナリ〉
下方に幾つかの光を見つけた男は、再び鉄の戸で窓を塞いだ。
再び訪れた闇の中、背中を戸に押しあてて体重をかける。
男は唾を飲んだ。
背後から音が聞こえる。
石壁を叩き、鋭い爪で掻く。
ぼろ布を引きずり、這いまわる。
壁を隔てた向こうに、喰人鬼がいる。
獲物を求めて壁に張り付き、蠢いている。
男は窓から離れたい衝動を抑えて立っていた。
喰人鬼が爪で鉄板を掻く、耳障りな音が頭に響く。
刹那、凄まじい衝撃が男を鉄板もろとも弾き飛ばした。
男は一瞬のうちに部屋の隅まで飛び、石床に打ちつけられた。
白い眩い光がわずかに部屋の中を照らし出し、すぐに闇が戻った。
男は床に這いつくばったまま、動けずにいた。
鎚を打ち鳴らしているように頭が痛み、四肢に力が入らない。
腐臭を含んだ風が吹き込む。
男は闇の中、首を曲げて窓のほうを見つめた。
血のように赤い双眸が、窓から覗き込んでいる。
男は声にならない悲鳴を上げた。
双眸はすぐに消え、蒼白な光を纏った手が二つ突き出た。
奇妙に長い指で、左右の窓枠を強く掴む。鋭く尖った爪が石に刺さり、灰色に光る。
ぼろ布を張り付かせた頭が、ぬっと突き出た。
少しずつ肩が、胸が、胴体が、窓枠を通り抜ける。
男は石床を舐めるような姿勢のまま、どうすることも出来ずに喰人鬼を見ていた。
窓から上半身を滑り込ませた喰人鬼は、威嚇するように真っ赤な口を開いた。
ずらりと並んだ鋭い歯の隙間に、淡い紅色の瑞々しい肉片が引っかかっている。
喰人鬼は急に動きを止めると、ゆっくりと身体を滑らせた。
少しずつ胴体が、胸が、肩が、窓の外に消えていく。
男は眼を見開いて窓を見つめた。
いつの間にか、外が明るい。
喰人鬼の頭が窓から消えて、窓枠から手が離れた。
男は眼を細めて、昇ったばかりの陽を見つめた。
淡い朱色に染まった空の下、城壁に張り付いていた喰人鬼たちが次々と降りていく。
赤く染まった沙漠へと降り立ち、砂上を滑るように移動して、生まれた場所へと還って行く。
城壁の上で、屠られた喰人鬼の残した砂が、風に巻き上げられる。
男達は、砂を浴びせられながら聖句を読誦し続けた。
〈告ゲヨ。是ゾ創造者、唯一ナル神、永劫不滅ノ神ゾ。生マズ生マレズ、並ブ者無キ御神ゾ〉
やがて来る裁きの日まで、決して破るあたわざるものサィドゥ。