ウサギの休日 -Workaholic under the Moonlight-
作:きぁ





 そう言えば、あの晩も、今夜のように月の冴える夜だった。


 土産に貰った“信玄餅”を肴に晩酌などしていると、ベランダでどさり、という音がした。近所では最近、空き巣が出ているらしかったが、集合住宅の4階にある、男一人暮らしのむさ苦しいねぐらに侵入されるとは思いもしなかったので、酔狂な自殺志願者がボロアパートに忍び込んで、飛び降りでもしたんだろう、と薄情な想像をして、そのまま眠りに就いた。
 翌日は日曜だった。会社は休みだが、とある出版社の営業担当なので、平日も休日も朝も夜も関係なく出勤する。昨日は強くもないくせにビールなど飲んでしまったから、風呂にも入らず、歯も磨かなかった。目が覚めた時には明け方4時で、つけっぱなしのTVが青白い砂嵐を映していて、浦島太郎が砂漠に置き去りにされたような気分になった。
 客に会うのに二日酔いで汗くさいままじゃあまずかろう、ということで、シャワーを浴びることにする。一週間も溜め込めば当然衣類も枯渇するので、昨日大慌てで干した着替えの下着を取り込むことにする。
 半ば寝ぼけたまま、ベランダに出た。スリッパなんてご丁寧な物は置いていない、素足のままだ。
 その右足が、ぐにょりとした何かを踏んだ。生暖かい、ふかふかの、毛むくじゃらの白い物体だった。
 はじめ、ベランダに出した衣類の何かを踏んだのかと思って、気にもしなかった。パンツを取り込んで、いざ、部屋に戻ろうとしたその時、その“ぐにょり”が、口を利いた。
「あのーぉ、……すいません。足、退けてもらえます?」
 そして、昨日の物音の正体を知った。
 そいつは、空き巣や転落死体よりも希有な存在だった。
 ウサギだ。いや、ウサギ――の、営業マン、もとい営業ウサギだったのだ。


 どう見ても、ウサギだった。ちょうどウサギサイズの真っ白い胴体に、これまたウサギサイズの頭がちょこん、と乗っかっている。耳が普通のウサギより少々長い気もするが、ウサギに造詣がないので分からない。唯一違う点と言えば目玉で、まん丸のそれは、アルビノ種特有の赤ではなく、金色をしていた。
「いやぁ、外回りの途中で、よそ見していたら、ついうっかり、足を滑らせて落っこちまして。どーもすいません、あ、これ名刺です」
 “信玄餅”を3包みほどぺろりと平らげ、冷茶を要求したウサギは、茶を舐めながら、小さな小さな紙切れを取り出した。毛皮の中から。
『株式会社 月一丁目商事 営業1課 ウサギ』
 ふざけた名刺である。「一丁目」という社名のくせに、連絡先の一切が書かれていない。名前にしても、苗字だか名前だか判別不能だ。子供向けの雑誌に付いてくるような、マッチ箱くらいのサイズで、うっかりすると無くしてしまいそうだった。
「あの、ですね。ここでお会いしたのも何かのご縁だと思いますので、ひとつ……、あのぉ、如何でしょう?ちょうど今、こちらのカタログの商品、お値打ちなんですよ、ハイ」
 そう言って、次から次へとカタログを出してきた。また、毛の中から。四次元ポケットでも付いているんだろうか。
 時刻は午前6時を回っていた。そろそろ仕事へ出たいところなのだが、このウサギ、部屋に入れてやって、あまりにぐったりしていたので、不憫に思って平皿に水をやったら、
「あのーぉ。そちらはもう、召し上がられないんでしょうか?」
 と、食いかけの“信玄餅”を指して、言った。図々しいが、持て余していたのでくれてやった。すると、茶菓子には茶が付き物だ、というような内容を、慇懃無礼とも思える口調で強請られた。猫舌、いや、ウサギ舌だろうから、製氷器からそのまま氷を放り込んだ。するとウサギは、何とそれに“信玄餅”の残った黒蜜を溶かして、ペチャペチャと啜り始めたのだ。相当な甘党らしい。
 今思えばその全てが災いしたのだが、ウサギは、あの“ぐにょり”とした毛皮のような状態から一転して、見る間に回復した。そして、喋りだした。以来1時間近く喋りっ通しだ。逃げ出そうにも逃げ出せず、ウサギの向かいに何故か正座で座り、だいぶ温くなった茶を啜った。
 カタログとやらは、文庫本の半分のサイズだった。
「そうそう、これこれ!これなんて如何ですか。お客様だったらきっとお気に召していただけると思うんですよね、ハイ」
 言いながら前足で手揉みする。器用なもんだ。
 どれ、と目を凝らす。『月一丁目商事 特選カタログ9月号』と表書きされたそれに書かれているのは、浮き輪型をした枕だった。1ミリ以下のサイズで、何やらちょこちょこっと説明が書き添えられているが、米粒以下の文字で、読めない。
「これ、ヒット商品でして。こう、耳と頭の間にね、挟んでいただくと、こう、寝返り打っても耳が潰れないってゆー、スグレモノなんです、ハイ!」
 ウサギはごろん、と畳の上に転がって、自分の耳と頭部の間にそれを挟む真似をして見せた。どうやら、耳の部分に浮き輪を通すような格好になる商品らしい。人間で言うところの首枕か。
「……あのさ」
「はいっ、何でしょうっ?」
 声をかけると、ウサギは文字通り跳ね起きた。四つ足揃えて正座(?)する。
「これ……、ウサギ用じゃない?」
「は?」
「だからさ、ウサギ用でしょ?」
「は?えぇーと、そうですね、まぁ、ヒト型仕様ではないですけど。ウチはホラ、一般のお客様には滅多にお売りしない、顧客重視の会社でして。ウサギ用と言いましても、お客様でも充分にお楽しみ頂けるかと、ハイ。そうですね、あの、指に通して頂くなんていうのは如何でしょうかねぇ?」
「……ちなみにそれ、幾らなの?」
「お値段ですか?いや、お客様、運が宜しいですよ!只今セール期間中でして、特別価格!1万円、1万円でご提供させていただきます。いえ、勿論、サービスさせていただきまして、今お買い上げいただきますと、この、月の石で出来ました包丁3本セットを無料でお付けいたします、ハイ。あ、お支払い方法ですか?一括払いでも分割でもローンでも、何でも仰って下さい!」
「……」
 そろそろ、摘み出す気になった。


 「そうですかぁ、絶対お勧めなんですが」
 とブツブツ呟き続けるウサギの首根っこを掴むと、玄関を開けた。ベランダに放り出すと、また性懲りもなく室内に入ってきたからだ。何とも、商魂逞しいウサギである。同じ営業マンとして少々同情する。と言って、あの使途不明な枕を買って、ままごと用の包丁を付けてもらっても困る。
 ぽーん、と廊下に放り出すと、ウサギはべしゃりと無様に着地した。拍子に四次元ポケットから荷物が飛び出してしまったらしく、それらを慌てて拾う。
「あ、あのぉ、お客様ぁ」
 ウサギが情けない声を出した。
「客になった覚えはない。余所でやってくれ」
「余所で、と仰ってもですね。あの、我が社は基本的にですね、夜、お伺いさせていただいておりまして」
「そんな事知るか」
 にべもなく言い返す。こういう商法は漬け込まれたら負けだ。経験から言って、一度でも商品を買ってしまうと、間違いなく事ある毎にたかられて、しぼり取られる。同業者が言うのも何だが。
 付き合っていても埒があかない。むしろ、悪循環への第一歩だ。なので容赦なく戸を閉める。
「お客様、あの、先程はどうも、あの、お餅、ご馳走様でした」
 無理矢理閉じたその隙間から、一瞬だけ、真っ白い毛皮の固まりが頭を下げるのが垣間見えた。
 ウサギだから当然なのだろうが、40度傾斜のその後頭部はひどく小さく見えた。
 ちくり、と、棘が刺さった気がした。気にも留めないほど小さな、けれど確かに傷口と呼べる、見えない棘が。身体のどこかに。
 午前7時だった。


 移動中の電車の中で、カバンの中に入れっぱなしの、児童向け学習教材と参考書の類を念のため確認する。『営業マンたるもの、自分の顧客は自分で獲得せよ、自分の商品は自分で管理せよ』というのがうちの上司の口癖で、サンプル商品は決して無償では支給されず、自分で売る物をまず自分で購入しなければならないシステムになっていた。要りもしない商品に自腹を切り、それを持って小学校やら学習塾やら一般ご家庭を一軒一軒回り、現物を見せて契約を取り付ける。従って、製品がひとつ売れてやっともとが取れ、それ以上売らないと損をする。子供向けと言って侮る事なかれ、これが決して安くない。一万二万はざらにある。
 同期に馬鹿な奴がいて、勢い込んで全商品を買い、それを車に満載して意気揚々と営業活動に出かけた。が、余程運が悪かったのか、それとも他の外回りのテリトリーに誤って迷い込んでしまったのか、見事にひとつも売れなかった。それを捨てるわけにも行かず、かと言って売ろうにもどんどん新商品が開発されてしまって、時代に取り残され、彼の車は売れないガラクタで満員御礼になった。恋人に、ドライブに連れていってくれないことを理由に交際を断られ、今、本気で退職を考えているらしい。
 “退職”。
 若いうちは何でも出来た。やり直す気になれば幾らでも修正が利いた。だが、こんなご時世だ、三十路を半ばにしての転職は厳しい。しがない下っ端に、華々しい功績があるわけもない。経験は豊富だが、それも実績を上げていれば認められる話であって、万歩計の数値だけが上昇して、給与と投資の収支決算がとんとんな俺や、マイナス赤字を日々計上している彼にその当てがあるはずもない。
 顔に笑顔を貼り付かせ、内心でいかに客の弱みに漬け込めるか、必死に探り続けている。商品の善し悪しは全く関係ない。どこまで言葉巧みに修飾出来るかにかかっている。会社の言うところの、『道端の石も宝石にしろ』という奴だ。
 これが日常。文句を言っても始まらないし、奇跡を信じるほど子供でもない。


 昼飯に駅の立ち食い蕎麦を啜っていたときのことだった。
 不意にあいつを思い出した。それまでは、すっかり忘れていた。月見蕎麦の上に浮かぶ、オレンジっぽい黄身のふっくら膨らんだ具合が、何となく似ていたからだった。今朝、玄関から放り出したあの営業ウサギの、金色の目玉に。
 あいつは、ずいぶん楽しそうだった。商品を説明するにも、妙に気合いが入っていた。自分の売っている物の素晴らしさを、信じ切っていた。駆け出しの新米営業マンのように。いや、新米なのかも知れないが分からない。
 あいつ――、どこへ行ったんだろう?
 それこそ、おとぎ話の世界から抜け出てきたような、人間語を操るウサギ。本人は「ウサギとはちょっと違うんです、これが」とか何とか言っていたが、間違いなく容姿はウサギなのだから、ウサギだ。名前だってウサギだったし。
 支度をして家を出たときには、ウサギの姿は玄関にはなかった。他の家に押し売りに行ったのだろう。四次元ポケットに、小さなカタログと名刺を詰め込んで、どう考えても人間向きではない商品を、きっと一生懸命に勧めるに違いない。
 普段、一体どんな相手に――いや、恐らくはウサギなんだろうが、だとすれば売り上げがあるのかどうか、怪しいもんだ――あんな口調で喋るのだろうか。あるいは人間相手に商売しているんだろうか。いつも、ひょい、と放り出されるんだろうか。それでも、いちいち頭を下げるんだろうか、無碍にあしらわれた相手に向かって。対等なつもりで。
 そんな世話焼きな事を考えていたら、朝、どこかに刺さったらしい棘が、ちくちくと疼いた。それの伴う感覚なんてわずかなものだったが、だが確かに、それは痛むのだった。
「……」
 よし、帰ってもしまだあのウサギがいたら、晩酌ぐらいは交わしてやろう。炭酸水は飲めないだろうから、日本酒がいいか?それとも、やはり冷茶だろうか?“信玄餅”がいたく気に入ったようだったから、買って帰ってやろうか?確か駅ビルで、あの地方の物産展をやっていたはずだ。
 残った蕎麦をかき込んで、勢いよく店を飛び出した。妙に浮ついた気持ちを、温んだ9月の風が後押しした。


 家に帰り着いたのは、夕方近くだった。ずいぶん早い。昔、このボロアパートで家族と暮らしていた頃は、夕焼け雲に追われるように会社を出、星が出るまでには近所の保育園に長男を迎えに行くのが日課だったものだが。それもまぁ、バブル景気で経済がひたすら上向きだった、古き良き時代の遺骸に過ぎず、その長男を連れて妻だった女がここを出て行ってからは、駅前の焼鳥屋で一杯引っかけてから帰るのが当たり前。会社の付き合いとか取引先の接待とかで、二次会三次会まである飲み会なんてのもよくある話だ。むしろ、こんな時間――ちょうど夕方の6時を回った――にアパートの階段を軋ませながら部屋に上がって行く自分に違和感がある。どうにも落ち着かない。それこそ空き巣が下調べにうろついているような気分なのだ。
 愛人に密会に行く中年サラリーマンのように、いそいそと足早に階段を上がる。
 部屋のある廊下で、近所のおばさんとすれ違う。
「あら、お帰りなさい。今日はお早いんですね」
「はぁ、まぁ」
 曖昧に相槌を打つ。近所付き合いが悪い、と妻がいたら怒るだろうが、今は気にする必要もない。こちらがこのような態度を取るのは別段珍しいことでもないので、おばさんも素っ気ない。
 錆び付いたノブに鍵を差し込む。ドアを開けると、安普請なアパートが、ぎいぃと、耳障りな摩擦音を立てた。


 そして。
 結局、営業ウサギは来なかった。次の日も、その次の日も。近所でもそんな話は耳にしなかった。あれだけ目立つ営業マンは他にはいまい。ちょっとでも顔を出したら、たちまち近所のおばさん達の噂話に花が咲いている。
 恐らくは、こんなボロアパートじゃ商売にならんと踏んだのだろう、営業としては賢明だ。


 こちらはと言えば相変わらずで、子供向け教材やらプラスチックの模型やらをでかいカバンに詰め込んで、うんせうんせと外回りの毎日が続いている。上半期の締めが終わって、経営状況はますます不振。赤字計上がこれで4期続いていることになる。一応株式経営してはいるもの、株価は底を打って、一部上場はあえなく頓挫した。何人かが依願退職し、何人かが“栄転”という体裁だけ整えた肩書きを背負わされて、地方へ飛ばされた。運良く残る事が出来たが、残ったら残ったで、人数が減った分の穴埋めで多忙には変わりないし、或いは地方に骨を埋める気になった方が楽だったのかも知れない。
 うちも、上司がいなくなってしまったので、タダ酒を飲みに行けなくなった。あの焼鳥屋も傾きかけているらしい。残念なことだが、仕方がない。世の中がみんなこんな風なのだから。
 全く不景気な話ばかりだ。


 賞味期限が近くなったので、腐る前に“信玄餅”を食べることにした。未練がましく取っておいたのだが、もうひと月も経つ。
 考えてみればおかしな話だ。何故、押し売りに来た営業マン、営業ウサギに、わざわざ物産展の菓子買ってきて、振る舞ってやらなければならないのか――。
 本当に、おかしな話だ。じんわりと、笑いがこみ上げてきた。
 あの晩とよく似た月明かりの下、ビールの肴に“信玄餅”を広げて、意味もなく笑った。景品のグラスに、横に膨張した、ひどく歪んだ青白い笑顔が映った。
 刺さった棘は、そのままだった。だが、いつか、それと知らないうちに溶けて消えていくんだろう。そう思うと、また笑えた。何だか情けなくて、笑えた。


 残った“信玄餅”を、ベランダに出しておいた。
 数日後、それはきれいになくなっていた。丁寧にビニールが畳み直され、黒蜜の入っていた小さなプラスチックのボトルは消えていた。
 そして、こないだ見せられたカタログの最新号らしいのが、添えられていた。
 元気でやっているらしい。
 また、ほとぼりが冷めた頃に、ひょっこりやって来るかも知れない。営業マンとは、そういうものだから。