ウサギの休日2 -Blue, Blue, Blue-
作:きぁ





 僕の手には、今、“青”しかない色鉛筆セットがある。
 メーカーや規格によるだろうが、普通、色鉛筆は8本とか12本のセットで売られている。必ず入っているのは、いわゆる基本三原色。つまり、赤、青、黄。それから、緑、橙、桃、白、黒。これが8色セット。更に肌色とか茶色、紫といった子供では作り出せないような色が混じって、12色セットになる訳。
 ところが、ここにあるのは、ただひたすらに“青”しかない色鉛筆だ。勿論、セットというからには1本だけじゃない。ちゃんと12本揃っていて、しかも、全色違う色だ。
 それは、ありとあらゆる“青系”の集合体で、薄氷色に始まって、薄荷(はっか)色、水色、秘色(ひそく)、空色、青磁色、藍色、群青色、紺色、瑠璃色、桔梗色、藤色。一応美大に通ってる僕でも、色鉛筆そのものを見ないと色が分からない、妙に古風な和名の羅列。
 もっとも、色鉛筆と言うよりは、色付きマッチ棒、と表現する方が正しいかも知れない。ブリキのケースがちょうどマッチ箱サイズで、それを潰さないように恐る恐る開けると、ままごと道具のようなその“青”がズラッと並んでいる。ブチ撒けたら拾うのに根気がいりそうで、僕は使用する気にはなれない。
 それなのに、どうしてこんな物を購入したかと言えば――。

「あのーぅ、お客様ぁ、本日は、どのようなご用件でしょう?」
 僕の足許数十センチのところから、何とも頼りない声が聞こえた。仁王立ちした僕の前には、真っ白な毛玉が――いや違う、それこそタンポポの綿毛のような、柔らかそうな毛並みのウサギが畏まっている。
 このウサギこそが、僕にこの色鉛筆を売り付けた張本人、いや、張本ウサギ。別に店で買った訳じゃない、っていうか、現物見てたら買わない絶対。いわゆる訪問販売ってヤツだ。それも真夜中に、何のアポもなくやって来て、カタログ見せて、注文取り付けるまでテコでも動かない、超アコギな商法だった。
 僕は、それにハマってしまった。そして届いた商品こそが、このまるで使途不明な色鉛筆だった。
「いや、用って言うか……、コレ、何の冗談?」
「は?」
 ウサギはきょとんとした目で、問い返した。
「冗談?」
「だってコレ、使えないよ」
「え?」
 金色の瞳は、本当に何の事か分かっていないらしく、まん丸に見開かれたまま。ウサギは心底不思議そうに、首を傾げてみせる。
「お使いいただけませんか?」
「だって、考えてみてよコレ。もんのすごく小さいじゃないか」
「いやぁ、小さいと仰られても、弊社ではこれが標準サイズでして……。あっ、分かりました!アレですか?色数がお気に召されませんでしたか?それでしたら、この――、こちら!200色超徳用セットなんていうのもございますよ、お客様!えー、只今セール期間中でして、こちらをお求めいただきますと、もれなく月の石で出来た包丁3点セットが――」
 言いながら、ウサギは体毛の下に隠しているらしいポケットから、折り紙を更に4つに折り畳んだくらいのサイズの、小さな小さな本を取り出した。表紙には『月一丁目商事 特選カタログ 初秋の超特大号』とか書いてある。どうでもいいけど、どうやってこんな物入れてんだろ?実は、ガリガリの骨だけみたいな身体で、カタログで着膨れでもしてるんだろうか。
 僕は慌てて首を振った。これ以上、訳の分からない物を増やされても困る。大体何だよ、その『月の石で出来た包丁3点セット』って?テレビショッピングじゃあるまいし。
「いらないよ、そんなの。僕が言ってるのはさ、純粋にこの色鉛筆のサイズ、長さとか大きさの事なんだけど」
「はぁ、サイズ、ですか」
「僕がコレ使おうと思ったらさ、こう、人差し指と親指でつまんでさ、みみっちく動かさなきゃならないじゃない?」
「はぁ、まぁ、ちょっと大変そうですねぇ」
 こいつは色鉛筆なんか使わないんだろう。僕が抗議している理由が相変わらず掴めないらしく、しきりに首をひねっては、曖昧な相槌を打った。
「僕としては、コレじゃなくてさ、ちゃんとしたサイズのを頼んだつもりなんだけど」
「はぁ、それですと……、そのぉ、お取り替え、ってことでしょうか?」
「てゆーか、コレ、商品な訳?お試し用とか、景品じゃないの?」
 そんな事を聞いてみると、ウサギはいきなり、がばっと垂れ下がっていた頭を上げた。先程までの歯切れの悪さが嘘のように、ぺらぺらっと喋る。
「いえっ!これで立派な製品です!」
「え?」
「はい?」
「これで?」
「はい?」
「りっぱな?」
「はい」
「せいひん?」
「はい!……って、ひぁぁぁあ!お客様、何なさるんですかぁ!」
 ウサギが絶叫して、僕の足にすがり付いた。僕はといえば、使い物にならない色鉛筆を売り付けられた腹いせに、それをゴミ箱に放り込んだところだ。
 きれいな放物線を描いて、色付きマッチ棒は空だったゴミ箱に消えた。ゴミ箱にしてみれば、今日最初の獲物だったが、それでもカロリー量は控えめだ。
 ウサギの方は、時代劇のありがちなシーンのように、僕に2,3歩ほど引きずられた。僕が邪険に振り払うと、あっという間に身を翻し、ゴミ箱に駆け寄った。よっぽど驚いたんだろう、さっきまでの2足歩行はすっかり忘れてしまったようで、4つ足で走っている。
 見事な助走に続いて、これまた見事なジャンプ。ぴょーんと飛び上がって、ゴミ箱に頭っからダイブした。
 ごんっ、と鈍い音。「あいたたたた……」と、漫才のような台詞が聞こえた。
 「あぁぁ、こんな、ひどい……」「ごめんよ、大丈夫だったかい?」と気味悪い独り言を呟きながら、自分の身の丈ほどあるゴミ箱から色鉛筆を救出すると、ウサギはそれを丁寧にはたいた。ひっくり返したゴミ箱を起こすことも怠らない。なかなか根性のあるウサギだ。
「悪いけどそれ、返品するよ」
「え?」
 こっちを向いたウサギの、その金色の瞳にはダイビングヘッドのせいか、うっすらと涙など浮かんでいる。
 その純朴そうな目にチクチクと罪悪感を刺激されながら、それでも僕は虚勢を張って、せいぜい意地悪く言い放つ。こういうのは、言いくるめられたら負けだ。逆にこっちが言い負かす位じゃなきゃ。
「これで3000円だって?バカにするなよ。100円だって買わない。100円均一の方がまだマシ。50円がいいところだろ?」
「ご、ごじゅう……」
 ……言い負かしすぎてしまったらしい。
 文字通り白目を剥いて、ウサギはその場にパッタリと突っ伏してしまった。ウサギって確か、ひどく臆病でデリケートな生き物だったっけ。大丈夫だろうか?っていうか、こんなところで野垂れ死なれても困るんだけど。
 ひょい、と持ち上げたら、ウサギはぐったりとしたまま、ぼそぼそと呟いた。
「あぁぁ、スイマセン部長ぉぉ……。今日も……売れませんでしたぁ……」
「……」
 寝言らしかった。
 仕方がないので座布団に乗せて、一応夜だから、上からタオル地のハンカチをかけてやった。コバルトブルーのチェック柄が、月明かりを受けて青白く見えるウサギに、妙に似合った。

 ああ、そういえば、このハンカチ、彼女にもらったんだったな。ぼんやりと、そんな事を思い出した。
 今更思い出したって、何の役にも立ちはしないのに。もう、礼も言えない。お返しも出来ない。


 彼女は死んだ。
 交通事故で、即死だった。
 彼氏という肩書きを持った僕がそれを知ったのは、事もあろうか、彼女の命日から2週間も経った後だった。

 付き合い始めて、1年と2ヶ月と11日。そんな仲じゃ、当然ながらお互いの両親が僕等の関係を知るはずもなく、友人達も余計な気を回してくれやがって、彼女の話題には触れようともしなかった。結果的に情報網は見事に寸断され、僕は2週間、事情を知らないまんま、最近ちっとも連絡を寄越さない彼女の携帯に、バカみたいにメールを送り続けていた。
 たまたま現場近くを通りかかった時、彼女の妹に会った。と言っても、本人には面識が無く、昔見せてもらった写真に一緒に映っていた、それだけなんだけど。よく似てるなぁ、と思ったから、覚えてたんだ。
 人通りの少ない交差点で、彼女の妹はしゃがみ込み、まるでそれが彼女の人生をかけたモニュメント制作のように、一心不乱に、菊の花を牛乳瓶に活けていた。
 梅雨を抜けたばかりの、初夏の蒸し暑い昼下がりだった。彼女の妹の額から、ぽた、ぽた、と、音がしそうなほど大粒の汗が流れ、アスファルトを打った。
 彼女の妹の友達の誰かが死んだんだと思ったんだっけ。完璧な誤解な訳だけど、事情知らなかったんだから仕方ない。
 僕は声をかけた。我ながらナンパみたいな軽さで。
「どうしたの?誰か、ここで亡くなったの?」

 ……今思えばひどい台詞だ。

 当然、報いを受けた。
 左耳が突然、キーンという超音波に包まれた。
 それが、彼女の妹が繰り出した強烈な平手打ちの副作用だと気付くまで、数秒かかった。認識した瞬間から、じんわりと左頬が熱くなる。
「バカっ!アンタなんか、死んじゃえ!」
 彼女の妹は、訳が分からず立ち竦む僕の前で、ぼろぼろと涙をこぼした。目の下には、僕に向かって怒鳴るより前から泣いていたと分かる、派手なくまが出来ていた。瞳は、本物のウサギより真っ赤だった。
 が、(向こうにしてみれば初対面の)僕をブン殴り、挙げ句天下の往来で怒鳴り散らした拍子に正気を取り戻したみたいで、彼女の妹は、自分の行動に、自分自身で驚いてしまったらしい。
 リトマス試験紙のように、彼女の妹の顔は、激怒と興奮の赤から、恐怖と萎縮の青へ、一瞬にして変色した。
「うわっ?」
 彼女の妹は、空気の抜けた風船みたいにヘタヘタとその場に座り込み、その変貌を呆気に取られて見ていた僕の都合なんてお構いなしに、気絶した。


 ウサギが目を覚ましたのは、それから2時間くらいしてからだった。
 どうやら途中から熟睡モードになっていたらしく、僕が遅すぎる夕食を作りはじめた頃、ウサギは明らかにイビキと思われる騒音を立てながら、ゴロゴロと座布団の上を転がっていた。午前1時を回って、いざ食事にありつこう、という段階になって、ウサギは突然、ウサギだけに跳ね起きた。
 ふんふん、と、鼻を動かし、何かを嗅いでいる。
 くるるるるー。猫が喉を鳴らしたような間の抜けた音が、例のポケット辺りから聞こえた。
 ものすごく、イヤな予感がした。


 彼女の自宅は知っていたので、仕方なく彼女の妹を担いで、えんやこら長い道のりを歩いた。
 両親共働きだと聞いていたが、僕が彼女の妹を背負ったまま訪問した時は、母親の方は家にいて、彼女の妹以上に蒼白な顔で僕らを出迎えた。
 マンションの3階、陽当たりの悪い、薄暗い廊下。側にある広場だか公園だかに集まってるらしいセミの声が、とにかくうるさかった。
 マンション特有の、あの重くて分厚い金属製のドア。真っ直ぐに室内を突き抜ける廊下の向こうはベランダらしく、彼女の母親は、真夏の陽射しを背に受け逆光で、顔が真っ黒に塗り潰されて見えた。
 真夏で暑いはずなのに、その部屋にはエアコンすら入っていなかった。ムッとする熱気がこもっている。なのに、全てが凍り付いたようにカチカチに固まっていた。それは動かし難い重さがあって、客の少ない博物館の常設展示を覗いたような感じだった。現実の中にあって、間違いなく時間は動いているのに、その部屋は完璧にフリーズしてしまっていた。

 ――カチカチだったのは、僕の方かも知れない。

 全てがモノトーンで埋め尽くされた世界で、二次元の彼女は笑っていた。僕の見たことのない笑顔で。


「ははぁ、これが噂の月見うどんですか。へぇぇ、これはこれは……」
 僕の食事をジロジロと眺めながら、ウサギは感慨無量、といった感じの溜息を何度も何度もこぼした。
 そのたびに、生卵の表面がぷるぷるっと波打って踊る。
 『噂の』って、どんな噂だよ。
「即席だけど」
「いやぁ、即席でも月見うどんですよねぇ?」
「まぁ、そうだけど」
「はぁぁ、凄いなぁぁ、お醤油の味がするんですよねぇ、これ」
 何が凄いのか、さっぱり分からない。
 それより気になるのは、ウサギの口の辺りからタラッと垂れてきてる、透明な……、ヨダレ?らしき液体。
 あの腹の音もずっと鳴りっぱなしで。
 これはどう見ても――、食べたがっている。
「あぁぁ、いい匂いだなぁ。磯部餅の匂いみたいですねぇ。凄いなぁ、本当におつゆに泳いでるんだなぁ、玉子が。不思議だなぁ、どうやって浮かんでるんでしょうねぇ、これ……」
 何でウサギが磯部餅を食べた事があるのか、その方がよっぽど不思議だ。
 黙々とうどんを啜り続ける僕の前を、ウサギはウロウロと歩き回っては観察するようにこちらを(主にうどんメインで)覗き込み、溜息をついてはヨダレを拭う。
 時間にして約3分。純粋そうなウサギの眼差しに耐えていたが、ウサギのウロウロは次第にスピードアップし、それに反比例して僕からの距離は近くなって、テーブルの上を行き交う足音がどんどん騒々しくなって、しまいにゃ立ち止まって足踏みし始めたので、僕は観念した。このままシカトすると、ヨダレを直接生卵に落とされるのは時間の問題だと判断したからだ。
「……熱いのでいい?」
「はっ?」
 我に返ったウサギの足が止まる。僕は丼を慌てて手前に寄せた。間一髪で、うどんがあった辺りを銀色の雫が通過した。
「熱いの食べられるのか、って訊いたんだけど」
「え?あ、イヤ、その、出来れば人肌ほどが……」
 どんなうどんだよ。

 人肌を計ってやるほど僕はお人好しではないので、ウサギの分は冷やしうどんになった。
 うどんを茹でて水にさらし、平皿に盛る。丼はウサギがひっくり返す恐れがあった。その上に水で割った出汁をかけ、生卵を割ってやる。
 ウサギは器用に流し台によじ登り、その行程を好奇心に目を輝かせてじっくりと観察していた。
 皿をテーブルに載せると、ウサギは慌てて追いかけてきた。椅子に飛び移った時にカタログが数冊こぼれ、それを律儀に拾い、またよじ登って……、を3度やってから、ウサギは食卓についた。
「……。これも、月見うどんなんですかねぇ?」
 ウサギは皿の上の料理に、不思議そうに首を捻った。
「……ちょっと、違うかも……。いや、かなり、かな……」
 それは何とも形容しがたい、焼きうどんに汁をぶっかけて冷やしたような奇怪な食べ物になっていた。うどんは冷やし方が足りなかったらしく、まだ仄かな湯気を立てていて、つゆは冷たく、生卵は冷蔵庫から取り出したばかりで更に冷たい。白身の端が、うどんの熱気にじわじわと白濁して半熟卵と化していく。
 それはどう見ても、月見うどんではなかった。というか、現代日本人の食卓に上るどんな料理とも一線を画していた。
「では、ありがたくいただきます」
 ウサギはあまり外見にこだわらないタイプらしく、ちょこん、と頭を下げてお辞儀をすると、うどんに囓りつこうと顔を突っ込んだ。
「あ、ちょっとっ……!」
 制止するのが、1/2秒遅かった。
 ぬちょ、と、マヨネーズをチューブから捻り出したような不快な音がした。
「……ほへ、ろぉしららいぃんれひょうれぇぇ?」
 顔を上げたウサギは、確かにうどんをくわえてはいたものの、鼻先から目の真下まで、見事に黄色に染まっていた。白身の固まりが、ぬるり、と流れ落ちていく。汁がはねたらしく、真っ白い毛皮に点々と黒いブチが垂れていた。
 ウサギは金色の目玉をぱちぱち瞬かせ、それから困惑して首を傾げる。口からぶら下がったうどんが、毛皮の上にヘビみたいに這いつくばって、フワフワの綿毛は道端で雨に濡れたセイヨウタンポポみたいに貧弱になった。
「ほへ、ろうひゃっれらべるんれふかぁ?」
「……あ、あははははははっ!」
 一気に笑いがこみ上げてきて、僕は困り顔のウサギを放ったまま、文字通り腹を抱えて笑った。
「……。え、えへへへへへ」
 ウサギは僕が笑い転げるのをぽかん、とした顔で見ていたが、そのうち自分が間違った食し方をした、と悟ったようで(間違っていたのはうどんの方だったのだが、ウサギはそれに気付いていないらしかった)、照れ隠しのような力ない笑い声をこぼした。
 ポロリ、とウサギの口から長い長いうどんがこぼれ落ち、ぼちゃんと音を立てた。


 あとも見ずに、彼女の妹を玄関に置き去りにして、僕はそこから駆け出した。彼女の母親が僕に何かを叫んでいたけど、セミのコーラスしか聞こえなかった。ミーン、とか、ジージー、とか個々の音声ではなくて、波動の固まり。うねるような大合唱が、マンション中に木霊している。
 マンションが見えなくなるまで走って、走って、走りまくって。もうこれ以上走れないって足が抗議し始めて、立ち止まった。肩で息をしながら、自爆したんだけど息が苦しいなぁ、と思いつつ、バカみたいに青い空を見上げた。雲一つない空は澄み渡って鮮やかで、向こうが悪いわけじゃないけどムカついた。
 苦しいので、仕方なく公園の自販機でコーラを買った。汗だくで喉がカラカラに渇いていたのに、混ぜ忘れたチューハイのソーダ部分みたいに味がなくて、美味くも何ともなかった。

 あの瞬間に、僕は謎を解き明かした名探偵みたいに明快に、理解してしまった。
 彼女は死んだ。

『例の色鉛筆、来週届くって電話があった。こないだのウサギが持ってくるらしい。見に来る?運が良ければ君の好きなウサギに会えるよ。』

 メール送りまくったって、届くはずないじゃないか。あの世なんて圏外に決まってんだから。


「いやぁ、何だか、本当に申し訳ありません。お食事ご馳走になって、お風呂まで頂いて……」
「だって、そのまんまは帰れなかったでしょ?」
「はぁ、まぁ、そうなんですけれどもぉ……はぐっ!」
 どうやら足が滑ったらしく、ごぽっ、と排水溝の詰まったような音がして、ウサギが洗面台に沈む。
 卵と汁でベタベタになったウサギを風呂場に放り込み、洗面台に水を張った。今度は人肌だと熱いと言うので、素直にそのまま水道の蛇口をひねる。
 こちらの方が慌てて腹を抱えて引っ張り上げると、ウサギが思い出したように顔を上げた。スイミングスクールの出来の悪い生徒みたいだ。息継ぎをうっかり忘れて、苦しくて溺れるタイプ。
 びっしょりと濡れたウサギは貧相で、痩せ細って骨と皮だけになっていた。ウサギの骨格標本に皮を貼ったらきっとこんな感じ。やっぱりあのカタログで着膨れしていたらしい(さすがに濡れるとまずいので、カタログはテーブルに全部置いてある)。
「あぁぁ、危うく溺れるところでしたぁ!どうもありがとうございます」
 ウサギはそう言って、えへへ、と笑う。何だかちっとも営業らしくない。
 そもそも、こんな怪しいウサギから何で色鉛筆なんか買う気になったかと言えば、ウサギが訪ねてきた時、ちょうど運悪く――ウサギにとっては大変運良く、僕が“青系”の色鉛筆なんていうマニアックなものを捜していたせいで。別にウサギのセールスが上手かったからでも信頼がおけたからでも何でもないのだった。
 その時もウサギは、今みたいに屈託なく笑って、意味不明に感激してたっけ?
「えぇぇ、ご注文下さるんですかぁ!あぁー、ありがとうございますっ!お客様神様みたいです。いえっ、お客様は神様ですねぇ、はい!」
 深夜に叩き起こされ、2時間も、たったひとつの色鉛筆について、やれ色味だの原材料だの製造方法だの語られた挙げ句、しまいにゃ涙ながらに注文を訴えられれば、流石に睡眠時間の危機を感じて、色鉛筆のひとつくらいは頼んでやろう、って気にもなる。僕があの言葉を聞いたのは、半分夢枕とやらに頭を突っ込んでいた頃。無意識でサインしたみたいだから、僕の字はきっと、このウサギでも簡単に偽造出来るだろうけど。だからひょっとしたら、このえらくフレンドリーなウサギは全部演技で、僕の名前を騙って勝手に色鉛筆を頼んだのかも知れないけど。
 今はもう、どうでも良くなっていた。何だか、久しぶりに笑った気がするし。
「あのーぉ、つきましては、そのぅ、大変申し訳ないのですが、……タオルなどお借りできますでしょうか?」
「あ、そっか。タオル……、タオル、ね」
 手の中のウサギが訴えて、僕はウサギを抱えてそのまま、部屋へ引き返した。

 あの色鉛筆に、紙を細く切ってグルグル巻きにして、太さを出来るだけ上げよう。長さはどうしようもないから、鉛筆キャップを挿そう。箱に収まらなくなる。――それは、その時考えよう。
 僕はぼんやりとそんな事を思いながら、恐縮するウサギの毛皮を拭いてやる。彼女のくれたタオル地のハンカチで。

「3000円も払ってやるんだ、モデルくらいやるよね?」
 僕が言うと、ウサギは不思議そうに首を捻って、それから頭がもげそうな勢いで縦に振った。
 ぼたぼたと、フローリングの床に水滴が散らばって、それは何だかあの時の、彼女の妹の汗みたいだった。

 最初の絵は、彼女の好きだったウサギ。月明かりの下で寝てる、タンポポの綿毛みたいな真っ白いウサギ。勿論、このタオルも一緒に。12色もあれば、描き分けには事欠かないし。

 “青”しかないから、目玉は書けないけど。