雨の日に
作:隼





 朝から鬱陶しい雨が降り続いていた。いっそのこと土砂降りになればかえってさっぱりするのかも、と彼女は思っていた。ちらりと時計を見る。彼がきたのは、五分前。
 指定の喫茶店に今は、窓際のテーブルに彼女とその目の前に座る恋人、そしてカウンターでコーヒーを入れるマスターの三人だけだった。白とグレイと黒を基調とする店内、少し薄暗く感じる程度の明かりの、見事な調和。このレイアウトが好きだから、彼とのデートの始まりはいつもここからだった。
 昨日の晩、電話で彼に呼び出された。今日の今から五分前にこの店で話がある、とほとんど一方的に。ところがその彼は、ずっと窓の外を眺めている。この調子からしてデートではなさそうだ。マスターにコーヒーを注文して、それからずっと口を開かない。
 何の、話だろう。
 彼の視線を追って彼女も窓の外を見た。休日の昼間というのに通りを歩く人々は少ない。きっとこの半端な雨のせいだ。降り出した雪が途中で水滴に変わった、半端な雨か。この気温なら、まぁそういうことも起こるかも知れない。
 陶器がこすれ合う音がして、彼の手元にコーヒーが置かれた。テーブル端には伝票。二人は同時に会釈する。穏やかな顔を浮かべてマスターは「ごゆっくり」、とささやいた。
 彼は一口コーヒーをブラックのままですすり、再び窓の外に顔を向ける。彼女は手元のココアの入ったマグカップに口をつけながら彼の顔を見る。眺めるとなく、見つめるとなく彼の横顔を見る。ぼんやりと彼の横顔を視界に捉えながら、彼女は考えた。
 昨日の電話での彼の態度。少し、変ではなかったか。
(別れ話……まさか)
 と、たったそれだけ考えて、彼女は思考を止めた。自分でも『まさか』の持つニュアンスが読めなかったのである。淡々と「そんなわけないじゃない」と揺ぎ無い自信を以って否定するニュアンス、あるいは声を荒げて「そんなわけないじゃない」と言いつつ現実から目をそらそうとするニュアンス、どちらだろう。多分、どちらでもない。日本語の曖昧さが感じられるわ、だいたいねぇ表音文字の日本語は……と彼女の思考は変な方向に流れそうになった。そうではなくて、と心を制御する。
 やや、乱暴にマグカップを下ろす。直接聞けばいいのだ。
「ねぇ」
「……何」
 のんびりとした、静かな声が返ってきた。
「何って……」
 彼の声に毒気が抜かれた。しかし、ここは強気に……。
「……何、見てるの」
 行けなかった。一瞬、彼と目があったからだった。力強い、穏やかな目で。ぞくりとした。優しい目だった。4年付き合って、初めて見た目だった。彼の、心の中が見えた気がする。心臓が、どくりと喚いた。
「雨を、見てるんだ。雨を見てたら、思い出した」
 彼女が何かを言おうとするのを遮って、彼は静かに語った。
「どうでもいいことだよ。ずっと昔、幼稚園に通っていた頃さ、こんな寒くて鬱陶しい雨の日に、歌を習ったんだ」
「……」
 優しく遠くを見つめる彼を、彼女は見ていられなかった。顔が、熱くなる。
「なんだっけ……歌詞は忘れたけど、たしか雨が飴玉だったらいいな、ていう歌。子供だったからね、すごくいいなそれって思ったよ。ああ、でも水飴だったら嫌だな」
 彼女は何も言わなかった。何も言わず、俯いていた。心臓がどくどくしているのが判った。反則だ。こんな、いまさらそんな新しい一面を見せるなんて、そんなのずるい。これではまるで、自分が中学生の女の子みたいではないか。まるで、一目惚れしたみたいな。
「んー、ホントどうでもいいことだな……あれ、どうしたの? 顔真っ赤にして」
「ど、どうって……な、なんでもないわ、大丈夫よ」
 少し冷静さを取り戻す。心臓は相変わらず早鐘のようだったが、大丈夫、すぐに落ち着くはずだ。大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。そう、少し落ち着いてきた。
「なら、いいんだけど」
「いいの、大丈夫。大丈夫だから。それより……えっと」
 まずは落ち着かなければならない。そのためにも、まず話題を変えたがいい。そうだ、それがいい。話題、話題。何にする。ええ、と……そう。
「ね、ところで……話って、なに?」
 少し声が上ずった。しかし彼は気がついていない。いいぞ、そう、今のうちに落ち着いていくといい。
「話……その話をするために、呼んだんだよな」
「そうよ、早く話してよ……え?」
 びくり、とした。真剣なまなざしで彼女を見つめ、彼が言った小さな言葉。
 一気に心拍が加速する。カウンターのマスターにさえ心音が聞こえそうだ。顔が真っ赤になった。彼を見つめすぎて、視界が白濁した。彼以外のなにもかもが目に入らない。
「………ウソ」
「ホントだよ」
 こんな雨の日に、する話じゃないかもね。別れ話ならともかく。 
 もはや彼の言葉は、聞こえない。それどころではない。
 涙が、溢れた。彼の顔すら見えない。
 わずかな沈黙。雨音が少し大きくなった気がして、再び彼は口を開いた。
「……結婚、してくれるかな」
 口を開いても、言葉が出ない。
 彼女は必死に、頷いた。















後書き:

 半年以上も「富士を見よう」を始めあちらこちらに顔を出していたくせに、まったくといっていいほど作品の応募をしていなかった隼です(ごめんなさい)。
 今作品ですが、うーん、短いなぁ。本来「Text Junky」のSSS作品用だったネタから生まれたもので、書いているうちに自然とこうなってしまいました。一時は企画短編「嘘」に送ろうか、とも思っていましたが、ぜんぜん嘘が入ってねぇので諦めたという、なんとも一貫性のない作品です。いいのかな、こんなの送っても。
 お目汚しだったかもしれませんが、みなさんのご感想をお待ちしております。