雨の日に 〜after story〜
作:隼





 朝から鬱陶しい雨が降り続いていた。土砂降りでもなく、といってすぐにはやみそうにない、中途半端な雨。ああほんとウットウシイわ、この雨。ウットウシイって漢字を思い出すのもウットウシイ。
 ……そんな難しい漢字、私書けない。読めるけど。
 そんなどうでもいいことを考えながら、彼女は通りを歩いていた。雨と地面の水溜りは鬱陶しいけれど、おかげで休日の昼間というのに人通りは少ない。これで晴れていたら、それはそれで鬱陶しい目にあっていたはずだ。どちらがマシだろう。
 パタパタと傘を叩く雨音。この季節独特の透明感と、匂いのようなものを孕んだ風が過ぎていく。凛とした空気がたまらなく、おいしい。寒いのはいやだけど、この感じはとても好きだと、彼女は思った。冬でしか味わえない身を切るような、この鋭い感じ。
 そんなことを考えているうちに、目的の場所についた。喫茶「Der Regenbogen」。彼女は休日の昼、たいていはここで食事する。半年ほど前初めて来たとき、白とグレイそれに黒を基調とする内装のシックな感じに魅せられ、続けてそのランチセットの味に打ちのめされた。以来の常連である。大学生の彼女にとって多少値は張るものの、過酷な講義とアルバイトに耐えた自分への、休日ごとのご褒美と思えばそれほどでもない。
 傘を傘立てに突っ込んで店に入ると、外の通りと同じく空いていた。もはや馴染みのマスター、奥のほうのテーブルには社会人らしいふたり……カップル。彼女は少しギョッとした。女性のほうが泣いていたからだ。
(………………)
 ここで外に出るのもアレなので、見なかったことにした。ただいつも彼女が座るカウンター席は一番奥、つまりカップルのテーブルに一番近いので今日はやめておく。何食わぬ顔で手前から四つ目、ほぼ中央の席について、「いつもの奴ね」とマスターに注文した。頷くマスター。たったそれだけで通じるのは、まさしく常連の特権。普段なら味わえるはずのちょっとした優越感より、今の彼女は別の好奇心に囚われていた。
 奥にいるカップルのことである。
 失礼とは思いながらも、想像力が働いてしまう。
 ……別れ話? ああ、浮気……。
『貴方、私というものがありながら……』
 いやいや、そうではない。
『(泣きながら)あたしたち、もう……別れましょう……』
 これも違う。
『俺たち、もう……終わったほうがいい』
『そんな……そんな……あなたのこと、愛しているのに……』
(これかな……?)
 いささか安っぽい昼ドラの影響が窺える気がするが、まあ気にすることはない。勿論、まったく赤の他人様の事情をどうこう想像するのがいいことのはずもないけれど。
「どうぞ」
 突然思考が打ち切られた。打ち切ったのはカウンター越しのマスター。手元には食後に出るはずのコーヒー。
「あれ、マスター、これ……」
「ああ、俺の奢りだ。待ってる間暇だろう?」
 それに、とマスターは小声で付け加えた。今、いらんこと考えていたろ。
(あたぁ……見抜かれてた) 
「……ごめんなさい、いただきます」
「よろしい」  
 ここのコーヒーは絶品……とまではいかないまでも、すごく気に入っていた。なんと言うか、彼女の趣向に合っている。何度も豆の種類と入れ方をマスターに聞いているのだが、企業秘密といって教えてくれない。
 彼女はしばし、そのコーヒーの香りに心を奪われていた



 奇妙に静かな時間が流れていた。窓の外では雨、冷たい空気を切り裂いて走る車、手元のコーヒーの香り、奥ですすり泣く女性、持ってきた読みかけの本を開く。マスターはいま、あたし注文したものを作っている……。そのどれもが奇妙に調和した、モノトーンの世界だった。意味もなく、そして価値のある時間。それを味わえただけで、ここにきてよかったと彼女は思う。
 ふと、奥に座っていたカップル二人が立ち上がった。一瞬目をやってしまう。女性の方はまだ目元が潤んでいる。しかし……笑っていた。二人とも微笑んでいる。
『ばか、泣きすぎだ』
『……だって、だって……』
 そんな会話をしながら二人は彼女の後ろを通り過ぎ、金を払って出て行ってしまった。
「…………」
 彼女は極力、二人を見ないようにしながら、視界の端の二人を見ていた。
「お待たせ……どうした?」
 マスターが、彼女の注文した、いつものランチセットを運んできた。今日はサラダ、サンドウィッチ、コーンポタージュ、そして食後のコーヒーだ。
「ずるいよねぇ……」
「なにが」
「だって、わかっちゃったもん」
「は?」
 マスターは何を、という顔をした。
「あの二人の顔見たら、わかっちゃった」
 別れ話などではなかった。まったくの逆だった。そしてなんとなく……なんとなく彼女は、あの二人がこれからずっと、ずっと幸せな生活を送ることが分かってしまった。予知能力とか、そういう類のものではなく、いわば女の直感。
 あの二人は、幸せな家庭を築いて、幸せに暮らすのだと。
 そう思うと、なんだかこっちまで幸せな気分になってしまった。
「わかっちゃったもんねぇだ」
「だから、何を」
 マスターは首を傾げて、咥えたタバコに火をつけた。
「ずるいよね」
「さっきとなんか違うこと言ってるぞ。何がずるいんだ」
「だって、ねー。だってあたしにはいないもんね」
「いない。……男が?」
「ううん、じゃなくって……あたしを幸せにしてくれる人」
「は?」
 こんな会話をしているうちに、彼女はなんだかわくわくした気持ちになった。自然に微笑む。本当にわくわくとした……暖かい、幸せな気分だ。
「いーのいーの、わかんなくって。ああ、いいな、うらやましいなぁ」
「…………? 幸せじゃないのか?」
「うん、そうなのー♪」
 ニコニコとしながら言われても、説得力がない。マスターは首を傾げた。
「そうなのか? じゃ、俺の淹れたコーヒー飲んで幸せになるといい」
「え?」
 今度は彼女がきょとんとする番だった。
 一瞬の沈黙。
(やば、ちっとキザッたらしかったか?)
 と、マスターは後悔した。言わなければよかった。
 しかし。
「あははははははっ、やだ、マスター、なにそれぇ、あははははは」
 彼女は爆笑しだしてしまった。
「……え」
「はははあははははは、ひー、ひぃー、マスター、面白いぃぃ……ぷっ、あはははは、あははは、ははははははははっ」
「……………?」
 つぼに入ったらしく、彼女はずっと笑いつづける。バンバンとカウンターを叩き、口を開けて、腹を抱えながら、ずっと笑い続けた。


 女って、よくわからんなぁ……
 爆笑しつづける彼女を前に、マスターはそう思った。



















後書き:

 なんとも微妙な作品になってしまいました。果たして、この作品を無理やりジャンル分けするなら、一体どこに分類されるのでしょう。
 とにかく、ここに『雨の日に 〜after story〜』をお送りいたします。この『after』は前々から書きたいなぁと思っていた作品です。つまり、前『雨の日に』の雰囲気を受け継いだ作品を。本来意図していたものと微妙に方向が変わっていったものの、自分的にはとても満足のいく雰囲気を醸し出して……いるといいな(弱気)。
 前『雨の日に』を書いた時点では考えていなかったことですが、おそらくもう一本この続編を書きます。というか、この『after』だって考えてもいませんでした。まさか三部構成になるとは思ってもいなかったな、自分でも。きっと血まみれドロドロの作品が嫌になったのでしょう。
 なにはともあれ、今作『after』のご感想をいただけたら幸いです。
(しかし三部作の一つだってのに前作とジャンルが異なるって……)