旅の料理人 話の一 別れは唐突に訪れて
作:みのやん



話の一 別れは唐突に訪れて




  1

 馬車や商人が慌ただしく往来する大街道。その街道とは、帝都から発する五大街道の一つである。その一本の街道のほとり、ちょうど帝都から五日ばかりの場所に、その二人はいた。一人は男で、すぐ横を流れている川のそばで釣り糸を垂らしている。しかもどうやらかなりの盛況のようで、傍らに置いてあるカゴの中は魚でいっぱいになっていた。
 男は竿を持つ手に神経を集中して、じっと水面を眺めている。右手をピンと伸ばし、人差し指で竿の先を指差すように竿を構えて微動だにしない。そしてそのままどれほどの時間が過ぎただろうか。とにかく、変化はその時起きた。ちょうど水面に顔をのぞかせるように糸に付けておいた鳥の羽が、不意に水面下へと沈みこんだ。男は待ちに待ったその瞬間を見逃しはしない。ほんの少しだけ、餌に食いつき逃げようとする魚の口に針が深く刺さるくらい、竿を微妙に引き上げる。いわゆるアワセという動きだ。そうして口に針が刺さった魚の方は当然暴れ始める。糸を伝わって、竿を伝わって、暴れる魚の動きが男の手にまで伝わってくる。しかし男は焦らず、騒がず、じっと魚が疲れるのを待つ。魚の動きに合わせて竿を左右に動かしてやるのだ。こうすれば、糸を切って逃げられる心配はない。
「……なかなかの大物だな、こりゃあ」
 男は口元にニヤリと笑みを浮かべると、慎重にタイミングをうかがった。そしてそのタイミングは、遠からず訪れる。魚の動きがどんどんと弱々しいものになってきたのだ。
「……うしっ!」
 男は一気に竿を立てて魚を引っ張り上げる。すると確かに魚の方も疲れ切っていたらしく、あっさりと引き上げられ、空中を飛んできた。そんなに勢いよく引っ張っても魚は落ちもしない。これはアワセがうまくいっている証拠である。
 男はうまく受け止めた魚から針をはずし、横のカゴへと放り込む。これで、本日通算七匹目である。いつもと比べると、今回はかなりの釣果を上げたようで、男自身も随分と嬉しそうな顔をしている。
「へへへ、これだけ釣っとけばあいつだって文句は言えねえだろう」
 男はようやく釣果に満足したらしく、傍らのカゴを小脇に抱えて立ち上がった。そして一段低くなっている川縁から街道の方へと土手を上がる。その土手の上では、連れの女が、どうやら大きな平たい石の上で小麦粉をこねているようだった。
「へっへっへ、見てみろよ。大したもんだろう?」
 男は女にそう声をかけ、自分の釣果を自慢するようにカゴを掲げてみせる。しかし相手は男の期待するような反応を見せず、それどころか辛辣な一言を返してきた。
「……親父ごときに釣られるとは馬鹿な魚達だな。まあはっきりと言えるのは、どうやらこの辺りの川の魚はおつむが悪いらしいということだ」
 どうやら男の娘であるらしい女は、女らしからぬ言葉で遠回しな表現を使い、結局のところ父親を馬鹿にしていた。いや、軽蔑する父親に釣られた魚達を軽蔑した、と言うべきだろうか。これには男も渋い顔になって、思わず言い返した。
「こらこら、お前は親をなんだと思ってんだ?」
「それなら親父は子供をなんだと思っている? 親父のような変人を父に持って、幼い頃からさんざん虐められてきた子供をなんだと思っている?」
 愛娘、まあ父からすればそうであろう娘にそんなことを言われては、父親としての面目もなにもあったものではない。男はがっくりと肩を落としてため息をついた。
「はぁ……俺って世界一軽蔑された父親なんじゃねえのか?」
「そうかもしれないな。なにしろ兄貴も、私と同じように嘆いていたからな」
 ざくざくと言葉の包丁で滅多刺しにするようなことを平気で言う娘に、男は頭を抱えてしまう。
「ああ、どうりで嫁の行き手がねえわけだ。俺だってお前を嫁にもらったりしねえぞ」
「ふん。別に親父にもらってもらおうなどとは考えていないから安心していい。それとも私に、母の代わりになれと言うのか?」
 平然と、いや無表情にそう言う娘は、別になにを思ったのでもないようで、ただひたすら小麦粉をこねている。
「……あいつのことは言うなって。俺だって辛かったんだぜ、あいつが死んだときは」
 男は遠い目をしながらそう言った。どうやら妻が死んだとき、というのを思い出しているらしい。
「まあいい。とにかく親父はさっさとスープを用意してくれ。麺はいつでもできるぞ」
「おっ、そうか。わかった」
 男は娘の周りに置かれた旅用の調理道具の中から大ぶりの鍋を取る。そしてあらかじめ娘がおこしておいた火の上に鍋をかけ、湯を沸かす。
 しばらくしてできあがった二杯のそば。二人はこれと先ほどの魚を焼いてゆっくりと食べ、すでに空腹の極みに達していた胃を落ち着かせる。これがこの親子の、いつも通りの風景であった。



 男の名はシャオロン。今現在は、旅の料理人である。優しそうな風貌と同じく、優しい心を持ったいい歳の中年である。が、その容姿は中年と呼ぶには惜しいほどに若々しいものだった。現に町などでは、よく二十代にさえ見られるほどだ。今は降ろしているが、いつもは背中に中華鍋、腰には調味料の入った筒と幅広の包丁、そして背負い袋といった簡単な持ち物で旅をしている。
 そして一緒にいるのは娘のパイラン。素っ気ない旅装束を着てはいるものの、美しく長い黒髪に整った顔立ちと、かなりの美人である。惜しむらくは、自分を女と思っていない生来の気性と、男顔負けのぶっきらぼうな言葉遣いだろう。ちなみに彼女も料理人で、二人の自己紹介の時は親子料理人で通っている。
 シャオロンにはもう一人、パイランの兄に当たる息子もいるのだが、今回の旅には参加しなかった。今までの仕事場から二人が逃げ出すのを手伝い、自分はその二人の穴を埋めるために残ったのだ。はっきり言って孝行息子である。
 二人は、いわば地方独特の名物料理を調べて旅をしていた。これは言ってみれば、料理人としてのサガなのであろうが、彼らを抱えていた仕事場は、あくまで旅に出ることを許さなかったという。二人は仕事場が手放すのを惜しむくらいの、他に並ぶ者がいないような腕利きだったのだ。
 しかし強引に仕事場を逃げ出した二人は今、遙か南にある港町を目指している。その町には海の幸、特にエビやカニを上手く使った、素晴らしい料理があるという。二人はそれを聞いて、新たに学ぶことはないかとやってきたのだ。
「おいパイラン、茶ぁ煎れてくれ」
 親子で合作したそばと焼き魚を頬張りながら、シャオロンは娘に言った。いたって自然な親子の風景である。が……
「怠け者め、自分で煎れろ」
 こう返ってくるのがこの親子の怖いところであった。しかも言われた当の父親は言い返すこともなく、ただ肩をすくめてすごすごとお茶を煎れるから情けない。かなり子供の力が強い親子の図、といった感じだろう。
「……なあパイラン、本当にあんな小さな港町で俺達も知らねぇような料理にお目にかかれると思うか? ……ひょっとしたらあの町だけの名物なんてなくなっちまってるかも知れねえよなぁ? なにしろ港町って言やぁ、人の行き来が激しいからなぁ」
 と、口から湯飲みを離したシャオロンが呟いた。目は遙か空の彼方に向けられている。その方向こそ、二人の向かう港町がある方向であった。
「……そんなことを私に聞くな。だいたい親父がその話を聞きつけてきたのだろうが」
「うん? そうだったっけか?」
「……もういい、親父と話していると疲れる」
 そう言ってパイランは鍋や包丁などを片付け始めた。シャオロンの方など、等分に分けた料理で足りない分を干し肉で補っているというのに、たいした少食さである。
「お、そう言えばパイラン、旅に出る前に作った饅頭の味はどうだった? 感想聞くのを忘れてたんだが、結構いけてただろ?」
 突然妙な話を持ち出したシャオロンは、それが自分に危機を招くなどとは思っても見なかった。どうしても愛すべき娘との会話を持ちたかったらしいのだが、それが裏目に出てしまうとは思いも寄らなかっただろう。
「ああ、親父の好物ばかりが入っていてうまかったぞ。私の好物は耳掻き一つ分も入っていなかったがな」
 娘に不機嫌そうな声でそう言われて、シャオロンは少したじろいだ。言われてみれば、自分の好物ばかりを材料に選んで作った記憶がある。
「……い、いやな、それには、海よりも深ぁ〜い理由が……」
「ほう、それはどんな理由だ? 是非とも聞かせてもらいたいものだ」
 ますますドツボにはまったシャオロン。詰め寄ってきたパイランに、思わず顔の筋肉が引きつるのを自覚した。
「……あ、そうそう、あん時はお前の好物のイカがどういうわけか獲れなかったみたいでな、それで、しょうがなく、ま〜ったく不本意ながら牛肉を買ったんだよ」
「……親父があの饅頭を作っていたのは、確か旅立ちの三日前だったな?」
 腕組みをして、思い出すようにパイランが問う。
「おう!」
 自信ありげに答えるシャオロン。が、それがいけなかった。突然目の前のパイランがふっと笑みを浮かべる。
「語るに落ちたな、親父。あの日買い物をしてきたのはこの私だ。親父は家で寝ていただろうが。御丁寧に買ってくる物のメモまでくれて、な。その私が市場でイカを見たというのは一体どういうわけなのだろうな?」
 そう言って懐からそのときのメモを取り出すパイラン。恐るべき用意周到さである。いつか問い詰めてやろうと持っていたのだろう。
「な、汚ねぇぞパイラン! お前いつまでもそんなもんを……」
「うるさいっ! 元はと言えば親父の悪行だろうが!」
 そう言われては元も子もない。シャオロンは肩を落として膝を抱え込んだ。
「ううぅ……俺ってなんて可愛そうな父親なんだ。ただ可愛い娘と話をしたかっただけなのに、その娘にはいじめられて、母さんはいないし……俺って可愛そう……」
 さすがに中年男のいじけポーズは不気味である。終いには地面に『の』の字まで書きだす始末。こうなっては本当にお終いである……普通の親子ならば。しかしこの親子は、明らかに普通という範疇を越えていた。間違っても慰めるようなことはしない。
「そう思うなら可愛がられるような親になれ。先ほども言ったが、兄貴も嘆いていたぞ。うちの親父は変人だ、とな」
 その変人親父はその言葉で、さらに深いところに墜ちていった。
「い〜んだい〜んだぁ。俺なんてさぁ……」
 何か悪いものに取り憑かれてしまったような父親をよそに、ようやく片付けを終えたパイランはさっさと歩き始める。もちろん食料、調理器具全般を持って。それを見て、シャオロンは血相を変えて追いかけ始める。
「うわっ! 悪かった。私が悪ぅございました!」
 さすがに商売道具である調理器具まで取られてはまずいと思ったのか、勢いよく跳ね起きて追いかけ始める。
 ……とりあえず、これが二人のいつも通りな日常であった。





 陽は暮れて、辺りが闇に覆われしんと静まり返る頃。シャオロン達はようやく夕食の支度を整える。用意するのは熱いお湯。ただそれだけだ。
 二人は各々の持つ袋から、各々の夕食を取り出す。それはシャオロンにとっては乾し肉であり、パイランにとってはスルメであった。
「……なあパイラン、なんか食い物も心許なくなってきたと思わねえか?」
 シャオロンは不本意ながらも鳴り響く腹の虫を、なけなしの根性で押さえながらパイランにそう問いかけた。が、パイランの方はと言うと、いつもの食事とあまり変わらないので平然としている。
「そうか? 私はそうでもないが……まあ親父は大食らいだからな。で、あと何日くらいもちそうなのだ?」
 と、パイランの言葉に、シャオロンはいささか引きつったような顔になる。その顔を見て、パイランは非常に不安になった。この父親がこういう顔をするときは、たいてい大変なことが起きるのだ。そして今回も、その例には漏れなかった。
「……実はな、俺の方はもう全然残ってねぇんだ、これが。ほれ、袋の中も空っぽ。この乾し肉で最後だったんだよ。いやぁまったく、こりゃあまいったなあ。はっはっは!」
 シャオロンはなぜか大笑いしながら、おまけに自信ありげに袋を開けてみせる。パイランは一応それを覗き込み、自分の予想と違わぬことを確認して大きく落胆した。パイランは自分の身体から立ちのぼる殺気を、このとき自覚していたというのは余談である。
「なにを自信満々で……まあ、とにかく食料が無いのは確かなようだな。で、どうする気だったのだ? その分では昨日か、一昨日くらいから見当がついていたのだろう?」
 パイランの言葉にシャオロンは口元を痙攣させてしまった。あまりに着眼点の良い娘に、関心すらしたようだ。
「いやあ、お前ってやつはホントに凄ぇ娘で……すまんっ!」
 突然平謝りするシャオロン。他になにを言ったわけでもなかったが、それでもパイランにはすべてが理解できた。なにしろ生まれてこのかた離ればなれになった記憶など無い。ということは、今年十八歳のパイランには十八年間のつきあいがあったということだ。
「……余計な浪費をするなと旅立ち前にあれほど言っただろうが!」
「すまんっ! 本っ当〜にすまん! いや、俺もまさかこんな事になるとは思わなかったんだ! つい夜中に腹が減っちまって……」
「……親父は子供か!」
 端から聞いただけではよくわからないような言葉を叫び、パイランはシャオロンを思い切り蹴飛ばした。当のシャオロンは顔面を思い切り蹴られて遙か後方へと吹き飛んだ。
「のわっ!」
 そしてゴロゴロと草地を転がり、先にあった木にぶつかってようやく止まる。大袈裟にも見えるが、これは別にわざとやっているわけではなかった。それだけパイランの怪力が恐ろしいということだ。
「ふん! 少しは反省しろ、馬鹿親父め!」
「は……はひ……」
 恐らく世界一情けない父親シャオロンはその場で逆さまになって、潰れたままそう返事した。
 パイランは、どうやって父の馬鹿な行動を穴埋めするか頭を悩ませた。まさかこんな事になるとは思ってもみなかっただけに、なかなか良い案が浮かばない。しかしこうなってしまっては、たった一つの方法しか残されていなかった。
「……こうなったら……方法は一つしかないな」
「つまり、食料を調達する、ってことか?」
 いつの間にか起きあがっていたシャオロンが、さも当然そうな顔をしてそう意見した。相変わらず大した回復力である。パイランもいちいち相手をするのが面倒なので、どうやらそのまま放っておくことに決めたようだ。
「そうだな。この辺りは緑も豊かだからなにかしらあるだろう。キノコでも、野生の獣でもかまわない」
 シャオロンはその言葉に頷き、自信ありげな表情を見せた。
「そういうことなら任せておけよ。こう見えても俺だって料理人だ。食材調達の一度や二度、簡単にやってやるぜ」
「わかったわかった。で、親父は山と川、どっちを探す気だ?」
「俺は魚でも獲ってから山菜や木の実を探そう。お前は食えそうな獣でも探して来いよ」
「娘をあえて力仕事になりそうな方へ送り出すとは……相変わらずの『可愛い子には旅をさせよ』的考えだな」
 と、パイランは嫌味を言う。しかし自分の父親がそんなことでめげるはずもないし、なにより適材適所なことも理解していたので冗談半分である。
「お前の腕っぷしにはかなわねぇからなぁ。どうりで嫁の行き手がねぇわけだ」
 シャオロンも負けじと嫌味を言い、そして森へと割って入った。パイランはシャオロンとは反対方向の森へと入る。果たしてそんなに簡単に食材は見つかるものなのだろうか……。



 シャオロンはまず川を探した。先ほどまで街道に沿って流れていた川は、今ではかなり遠くなっている。結構な距離を歩いて川まで辿りつくと、時間が時間だけに冷え切った水の中へと足を突っ込む。そして一言。
「ちべてぇっ!」
 子供のような声を上げるシャオロンだが、まあ水の冷たさはよくわかる。自らの身体を抱え込むようにしながら川の端の方を歩くと、なにかに気付いたのか、ふと足を止める。そして草に隠されるような形になった川の縁へ素早く手を突っ込んだ。ちなみにその手には、細い竹串が握られていた。そして川から手を引き抜くと、持っていた竹串に魚が痙攣しながら刺さっている。これは夜だからこそできる芸当だった。さすがに暖かい昼間では、魚の活性が良すぎてこうも簡単にはいかない。
「おしっ! 完璧だな」
 シャオロンは獲った魚を岸に投げ、次の魚を探して歩く。そんなことの繰り返しだった。
 そして小一刻が過ぎた頃、獲った魚は二十二匹。釣竿も使わずに大漁である。
「ひい、ふう、みい……ざっと二十匹以上はいるな。こんだけいりゃあいいだろう。後は……キノコか山菜あたりか」
 シャオロンは魚すべてのエラから口へ紐を通して肩から下げた。そして今度は、足下に注意しながら森の奥へと入っていく。
「ここらはいい感じの林だな。って〜ことは、キノコとかもあるか? しかし……時期的にちょっとばかし早えぇかな?」
 シャオロンは鋭い目つきで足下を眺め歩いていく。が、そのまましばらくすると、林の終わりが見えてきた。期待はずれである。
「やっぱりこの時期じゃあなんにもねぇか。ま、諦めて山菜でも探しに行くしかねぇな」
 シャオロンはそう言って、今度は開けた場所へと出た。するとそこは、まさしく山菜の宝庫だった。
「おおぉ〜、ワラビにゼンマイ、コゴミもあるな。これならパイランの奴も文句は言えねぇだろう」
 シャオロンは嬉しそうに呟くと、見つける端から背負い袋の中へと詰め込み始めた。
 そしてしばらく。シャオロンがようやく袋いっぱいの山菜を摘み終えたとき、ふと足にぶつかるなにかがあった。あまり硬くはないので石ではない。そしてひんやりと冷たいわけではないので物ではない。そう、そこにあったのは……いや、いたのは、とんでもなくやつれてしまっている男だった。
 慌てたシャオロンは、その男を軽く揺すって意識のあるなしを確認する。すると男は、呻き声を上げながら微かに目を開いた。
「おっ、目が覚めたか? ほれ、水ならあるからゆっくり飲みな」
 シャオロンは自らの水袋を差し出し、男にゆっくりと飲ませた。どうやら空腹で倒れていたらしく、もう何日も食べていないような雰囲気が男にはあった。それを見て思わず涙ぐむシャオロン。自分の食糧危機に、男の姿を重ねているのかもしれない。
「……す、すまない。急ぎの旅だったもので大した食料も持たずに出てしまい……」
「ああ、そういうことはよくあるもんさ。俺も似たようなもんだしな」
 そう言ってシャオロンは水袋を受け取る。中身はもうほとんどなかったが、またさっきの川まで行けばいいだけの話だ。そう気にもならない。
「で、これからどこへ行くんだ? 食料もなしで行くなら……帝都にでも行くのか?」
「い、いや……帝都から来たところだ。これから……チャンナンの都にでも向かおうと思っていた」
「はぁ……しかしあそこまではまだ結構あるぜ? 食料なら……ああ、じゃあこいつを分けてやるよ。足りなさそうならすぐそこに山菜が山ほど生えてる。そいつを取っていくといい」
 シャオロンはすぐ後ろの山菜草原を指さしてそう言った。すると男は苦笑いしてこう言った。
「そうか、そんな近くに……私も料理人だというのに、まったく間抜けなものだな」
「へぇ、あんたも料理人なのか? 実は俺もなんだよ。俺の名はシャオロン。しがない旅の料理人だ」
「ほう? 私の名は……テンリョウだ。助けてもらったことには礼を言う。だが……すまない。実は先を急ぐ旅なのだ。これで失礼させてもらう」
 テンリョウと名乗った男は、そう言ってそそくさと山菜草原に向かって消えてしまう。シャオロンはそんな男を、首を傾げながらしばらくの間眺めていた。



 その頃のパイランはと言うと、なんとイノシシと真っ向から睨み合っていた。野生の獣と目を合わせるのは大変危険な行為だが、逃がすよりは襲われてでも捕まえた方がいいというパイランの自己犠牲的な考えによりこうしているのだった。しかしお互い微動だにしない。先に動いた方が負ける。そんな雰囲気だった。
「……どうした? 野生の獣のくせに、たかが人間に怯えているのか?」
 パイランはまるで相手も言葉がわかるかのように喋りかける。すると、それまでとは一転してイノシシの鼻息が荒くなった。完全な攻撃態勢である。
「……そうだ、かかってこい」
 パイランはイノシシを手招きする。その瞬間、その手招きに応じたようにイノシシが突進してきた。
「来たな、獣!」
 パイランは背中の袋に刺していた長い菜箸を引き抜くと、それを持って身構えた。そして突進してきたイノシシをほんの紙一重の差でかわすと、その首の後ろに長い菜箸を突き刺す。するとどうしたことか、イノシシはまるでフグの毒にでも当たったかのように痙攣し始め、そして地面に突っ伏した。これはシャオロンが魚にやったのと同じ技である。生き物のツボを瞬時に見極める能力は、親子共々持っているのだった。
「まあこんなものか……ん?」
 ふと見ると、イノシシに数匹のウリボウ(子イノシシ)が擦り寄っているではないか。それを見たパイランははっとした。そう、このイノシシは子持ちの雌だったのだ。
「私としたことが……焦って見誤ったか」
 パイランは一言呟くと、イノシシの首から菜箸を抜き取り飛びすさった。すると雌イノシシは目をぱちりと開き立ち上がる。まるで何事もなかったかのように。パイランはそれを確認すると、母イノシシに向かって頭を下げた。
「すまなかった。子持ちの雌は魚以外のどんな生き物でも獲らないのが私の流儀。許してくれ」
 パイランのその姿を見て感じるところがあったのか、それとも関わることを嫌ったか、とりあえず母イノシシは茂みの奥へと消えていった。ウリボウ達を連れて。
「……ふう。また振り出しか」
 パイランはため息を一つつき、耳を澄ます。どこかで生き物の気配はないか。この常人離れした聴覚もパイランの強みであった。そしてその聴覚は、すぐ近くに異常なほどの重さの足音を感知させた。思わず顔がこわばるのを意識する。
「……! まずい、熊の気配か!」
 パイランは明らかに動揺してそう呟いた。さすがに一撃で人間の頭を吹き飛ばすような動物相手では分が悪いのだろう。早々にその場を離れようと、足音を消して歩き出す。が、その影は突然目の前に現れた。
「なにっ? 二匹もいるのか!」
 パイランの目の前には、ゆうに自分の背の二倍はある巨熊が二足で立っていた。いつでもその強力な一撃を繰り出せる体勢である。そして背後にも一頭の気配がまだある。おそらく、二匹の縄張りの境目あたりに入り込んでしまったのだろう。
 パイランは顔を一瞬しかめると、すぐさま踵を返して走り出した。が、背後からは二つの気配が追ってくるのを確実に感じる。
「親父! どこにいる! 緊急事態だ!」
 パイランはそう父を呼んだ。が、それがシャオロンに届いたかどうかはわからない。
「くそっ! こんな時になにをしている、親父め! 居眠りでもしていたら絶対に逆勘当だ!」
 パイランはそんな愚痴をこぼしながらも走り続ける。追ってくる気配はだんだんと近くなってきて、これは確実に危険な状況である。
 さすがに足も疲れ、諦めようとしていたところへその声は聞こえた。
「パイラン、跳べ!」
 その声がシャオロンのものだとわかったときにはすでに跳躍していた。パイランはひらりと着地すると辺りを見回す。すると、背後の方からもの凄い地響きが聞こえた。振り返るとそこには、巨大な穴が地面にぽっかりとあいている。
「……親父か?」
「おう!」
 穴のそばでシャオロンが手を振っている。その手は泥にまみれており、パイランの悲鳴を聞いてから大急ぎで落とし穴を掘ったことがうかがえる。しかしこの短時間で二匹の熊を落とせるほどの穴を掘るとは、このシャオロンという男、侮れない。
 パイランはそんなシャオロンの隣まで行き、一言こう告げた。
「来るのが遅かったが一応礼は言っておく。そっちも忙しいのに呼んで悪かったな」
 そんな憎まれ口をたたく娘に、シャオロンは笑って答える。
「娘が助けを呼んでりゃ駆けつけるのが親ってもんだろうが。もっと遠慮なく呼んでいいんだぞ」
「……そうだな。次からは真っ先に呼ぶことにする」
 なにはともあれ一件落着のようだ。しかし熊などを落とし穴で捕まえてどうする気なのだろうかとの思いがパイランにはあった。どうせならば谷底へでも落としてやればよかったのにと、パイランは物騒なことを考える。なにしろ熊の肉は臭みが凄いという欠点があるからだ。しかしこればかりはどうしようもないので、食べるのには不向きなのだ。だがパイランはこの状況を見て、その常識が覆されそうな予感がした。
「……親父、ひょっとすると、この熊も食料にするつもりなのか?」
「うん? な〜に言ってんだよ、あったり前だろうが。そうでなきゃあなんでわざわざ落とし穴まで作って捕まえたんだよ。お前抱えて逃げりゃあすんだだろうが」
 確かにもっともなことを言うシャオロンに、パイランがつかみかかりそうな勢いで詰め寄った。そんなことができるはずがない。それが常識だ、と。しかし、シャオロンは平然としている。
「熊の肉を一日、二日で食べられるようになどできるか! 臭み抜きに最低一週間はかかるのだぞ!」
「……なあパイラン、お前……俺のことを全部知ってるつもりか?」
 突然そんなことを言い出したシャオロンに、パイランは一瞬目を見張った。いったいなにを言っているのかという目である。
「俺はお前が生まれる前から料理人なんだぞ? お前の知らない技だって腐るほど持ってるさ」
 なるほど、確かに言われてみればそうだ。シャオロンの技をパイランがすべて知っているという保証はどこにもないのだ。それどころか、数え切れないほどの技を持っている可能性だってある。パイランはこの父親とつき合って十八年、初めてその大きさを目にしたような感じがした。
「ま、そういうわけで、早く調理しちまおうぜ。こうしている間にも俺の腹はどんどん減っていくからな」
 そう言ってニヤリと笑うシャオロン。
「……ああ、そうだな」
 そして、とりあえず気絶している熊のうちの一頭を解体し、残りの熊とは距離を取って調理を始める二人であった。



「しかし本当に大丈夫なのか? なんなら私も手伝った方が……」
「……お前も一人前なことを言うようになったな」
「私ももう十八だ。嫌でも大人になるさ。特に親がしっかりしていないからな、尚更のことだ」
「言うねぇ、相変わらず。ま、そこがお前らしいと言えばそうなんだがな」
 相変わらず素っ気ない親子の会話だが、今に限っては暖かさに満ちていた。言葉の端々に思いが込められている。きっと先ほどの熊騒動による影響なのだろう。
 と、シャオロンの方はなにやらパイランも知らないようなことを始める。思わず覗き込むパイラン。
「……ん? ああ、暇なら山菜を調理しててもいいんだぞ? 魚の方は一応、薫製にしておいたから料理することもねぇからな」
 シャオロンは口元にいやらしい笑いを浮かべながらそう言った。が、まったく退こうとしないパイラン。その理由はこうである。
「熊肉を調理する気なのだろう? ならば見ておかねばまずい。せっかくの親父の技を盗みそびれてしまう」
 真剣な眼差しでシャオロンの手元を見ているパイラン。そんな料理馬鹿な娘に、シャオロンは一瞬口元をほころばせた。
「……まあ技を簡単に盗まれるのは癪だが、一応愛娘だからな。特別に見せてやろう」
「ならば一応恩に着ておこうか、愛娘として」
 相変わらずな親子である。
「いいか、まずこういう臭みのある肉から臭みを抜くには徹底的に煮ることだ。そいつは知ってるな?」
「料理をする上で初歩中の初歩だな」  
 まるで当然なこととでも言うように、素っ気なくパイランが答える。
「よし。それじゃあ短い期間で臭みを抜くには……こうするんだ」
 そう言ってシャオロンは一つの鍋の蓋を開けた。いつの間に用意していたのか、中ではすでに色々なものが煮込まれている。
「ショウガ、ニンジン、セロリにタマネギ……香味野菜ばかりだな?」
「そうだな。そうしたら肉に切れ目を入れて、ニンニク、ショウガ、セロリを挟み込む。そしてこのスープの中に入れて煮込む」
「……普通ではないか」
 明らかに軽蔑したような目をシャオロンに向けるパイラン。しかしシャオロンはそんなことなど気にもしない。
「まあまあ、そう焦るな。ちなみに同じようなスープが後三つほどもある」
と言って、後ろに用意していた三つの鍋を指さした。
「……! そうか、それは師匠が言っていた香りの四重奏というやつだな?」
「おお、ご名答。その通りだ。四つ用意したスープは、それぞれが独自の強い香りを持っている。それを次々に使って煮込むことで、素材が初めから持っていた臭みを包み隠し、スープの持っている香りを移していく。おまけにこの四つのスープの素材はすべて香味野菜として相性がいいものだ。これで素材の持ち味がグンと引き出される」
 このシャオロンの計算されつくした料理法に、パイランは完全に頭が下がる思いだった。こういう料理法があることは知っていたが、自分で試そうなどとは今の今まで一度も思わなかったのだ。パイランはそんな自分を恥じ、心を入れ替えようとすら思った。
「……私の勉強不足だった。やはりまだ親父は越えられないな」
「なに言ってんだ、パイラン。そうそう越えられたら俺の、お前が料理を始めるまでの何十年は無駄だったってことになっちまうだろうが。まだ追い抜くのは勘弁してくれよ」
 シャオロンは笑顔でそう言った。そしてそれは父としての最高の笑顔だった。パイランはそんな笑顔を見せるこの父親を、時々無性に好きだと実感する。きっと自分の亡き母親も、この笑顔に騙されたのだろうと確信していた。
「さてパイラン、悪りぃが交代でこいつを見てくれるか? ひょっとしたら賊かなんかが火を見てやってくるかもしれねぇ。寝られるときに寝といた方がいいだろう」
「わかった、そうしよう」
 そして朝まで火を絶やさず、熊の肉は煮込まれていく。明日のシャオロンの笑顔のために……。



 朝、寝起きの悪いシャオロンにしてはまことに珍しく、文字通り飛び起きた。しかし……。
「……パイラン、肉はどうなってる?」
 そう、理由はこれだけのこと。ただ肉が気になっていただけだった。
 パイランはそんな父に呆れながらも、一応の返事はしておく。
「もう臭いはないな。いつでも食べられそうだ」
 それを聞いたシャオロンはさらに嬉しそうな満面の笑みになる。ここまで来ると気味が悪いものだ。
「……親父、なにを考えている?」
「へっへっへ、どんなもんだ。お前には思いもつかなかったろうが」
 さすがのパイランもそう言い切られては頭にくる。たとえ父親が相手だとは言え、自分も料理人なのである。このような言葉を突きつけられれば自尊心にも傷がつく。
「……随分と得意げだな、親父?」
「そりゃあそうだろう。なにしろお前を料理でやっつけるのは久々だからな」
「……この料理で、私をやっつけた……だと?」
「当たり前だろ? なにしろお前はこの熊肉を一日では食えるように出来ないと言ったんだ。だが俺には出来た。どう見たって俺の勝ちだろうが?」
 シャオロンの言葉にパイランは疑問を持った。思いやりのかけらもない。そう思いすらした。
(なぜ娘とまで勝負をする? なぜ「こいつは覚えておいて損はないぜ」くらいの一言を笑って言えない? なぜ……私達は普通の親子のようになれない? 私は……なぜこんな父親のために朝まで寝ずの番をしていた?)
 パイランはひどく落ち着いている自分を感じながらそんなことを考え、不意に目頭が熱くなるのを感じた。が、シャオロンに涙を見せるのは癪だと思ったのか、くるりと背中を向けてしまう。
 しかしシャオロンは、パイランのこの行為を勘違いして受け止めてしまったから話はさらにややこしくなっていく。そしてあろうことか、追い討ちまでかけてしまったからたちが悪い。
「ん? なんだ、泣いてるのか? ……そうか、なるほどな。俺に負けたのがそんなに悔しかったのか。だったらこれからも腕を磨いて……」
 シャオロンが人差し指を立ててそう言った矢先のこと、突然甲高い音がその耳に飛び込んできた。それは、パイランの背負っていた鍋やおたまなどの調理道具が、地面に叩き付けられて上げた悲鳴だった。
「お、おい、パイラン! 調理道具は料理人の命だぞ! それを叩き付けるたぁ……」
 慌てて道具を拾いながら怒鳴り声を上げるシャオロン。と、そのシャオロンに予想外の言葉が浴びせられた。あまりに突然な言葉が、である。
「……もうお前を父だなどとは思わない。ここでお別れだ、料理馬鹿男」
 パイランは明らかに涙声でそう言った。そして駆け出した。どこへ行くあてもないまま。
 シャオロンはそんな娘の背を、ただ呆然と眺めることしか出来なかった。