旅の料理人 話の二 見知らぬ面影、感じる想い出
作:みのやん




話の二 見知らぬ面影、感じる想い出





 街道から少し離れたところにある小さな村。パイランは父と別れた後、偶然にもその村を見つけていた。そして村の中を歩きながら、喧嘩別れしてきた父のことを思い出していた。
(……お前を料理でやっつけるのは久々だからな……お前はこの熊肉を一日では食えるように出来ないと言ったんだ。だが俺には出来た。どう見たって俺の勝ちだろうが……俺に負けたのがそんなに悔しかったのか……)
 パイランはそんなシャオロンの言葉を思い出し、そして思わず呟きを漏らしていた。
「……私は悔しかったわけではない。ただ……悲しくなっただけだ……」
 パイランはまさに心ここにあらず、という状態だった。旅をしていない時でも、父と仕事のとき以外で離れたことなど今までにはなかったことだ。いつでも自分はあの父を可愛らしく感じ、また頼りにもしてきた。
(なのに、なぜ今ごろになってこんな……それに、あのとき親父はそんなに……いつもより酷いことを言っただろうか?)
 パイランは自分の心情の思わぬ変化に戸惑いを感じていた。あのときのシャオロンの言葉は自分をそんなに傷つけるようなものだったのかと、気を落ち着かせて思い出そうとしてみる。が、まったく思い出せない。あまりに感情的になりすぎて、記憶することすら出来なかったのだろう。しかし、やはり答えが出ぬままでは戻れない。そういう結論に達したようだ。
「……そうだな、やはり戻れない。もう親父のところへは……」
 そしてパイランはしばらくの間、村に居座ることにした。だが宿に部屋を取るわけでもなく、どこかで食事をするわけでもなく、ただただ無味乾燥な毎日を酒で癒しながら過ごしてゆく。
 パイランは、今日も朝から酒場にいた。いつもと同じ酒を注文し、いつもと同じように飲み続ける。別に酒が好きなわけではなかったが、それでも飲むことで嫌なことは忘れられた。が、酒場も静かなところではない。おまけにパイランのような美人では、その賑やかさも更に加速する。
「なんだいお嬢ちゃん、暇ならおじさんにつきあって酌をしてくれよ?」
「実は私、先ほどからあなたの美しさに目を奪われていたところです。ぜひ、私と朝まで語り合いませんか?」
「へっへっへ、お前みたいな女がこんなところに一人でいるなんて、別にいやなわけじゃあねえんだろ? ほら、俺様の部屋に来いよ」
 パイランにかかった数え切れないほどの誘い。そしてそれと同じように、数え切れないほどの拳を繰り出した。そのおかげかここ二、三日は誰も声をかけてこない。
(……静かでいいな。毎日こうならいいのだが……)
 パイランは手酌で酒を飲みながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。なにもない、誰もいない世界に行ってしまいたかった。あんなに寂しい別れをしなければならなくなるくらいなら、もう出会いなどしなくてもいいとさえ思った。
 そんなパイランのすぐ後ろ、厨房の方からいきなり甲高い声が上がった。
「あいたっ!」
 突然酒場の中に響き渡った声は、どうも聞きなれていると思えばこの酒場主の声だった。どうやら肴を作っている最中に指を切ってしまったようだ。パイランはそれを見て、持ち前の面倒見のよさからか、すぐさま主に駆け寄った。
「……無理はしないほうがいい、主。かなり血が出ているから数日は包丁を握れないぞ」
 パイランは冷静にその怪我を見てやり、そう結論を出した。別段骨まで達しているわけでも、神経を切ってしまったわけでもないが、あくまで主の安全を考えてのことである。が、主はそんなパイランの言葉を黙って聞いてはいられなかった。
「そ、そんな! いくらなんでも数日店を休んだらとても家族を食べせてやれませんよ!」
「私にそんなことを言われてもな……」
 パイランは主の言葉を聞き、なんとか解決してやりたくなった。生来の世話好きなのか、はたまたおせっかいやきなのか、とにかくこう申し出ることにした。
「それならば主、私が料理を作ろう」
 その一言からパイランの、まさに不死鳥のごとき復活は始まったのだった。
 意味のある毎日、楽しい仕事、そして自分を必要としてくれる人。それが自分には必要だったと、今ようやく気付いた気がした。



 それから数日後、村に一人の旅人が訪れた。その旅人は、服の端々からのぞく身体に無数の傷がある。いったいなにによってついたのかは想像も出来ないが。
 その旅人は村人を捕まえて、急かすように評判の酒場の場所を聞くと、転ぶのではないかと言うほどの勢いで酒場に転がり込んだ。そしてそこにはやはり、男にとっては最愛の娘がいた。
「いらっしゃいませ! お一人ですか、旅のお方?」
「……」
 旅の男は主の言葉に答えもせず、ただただ調理場の娘を凝視している。そして向こうもそれに気付いた。この瞬間、二人の視線は一つになった。
「……親父、か……」
「……ああ、他に親父が出来たんじゃなけりゃあな」
 相変わらずのように見える……いや見せている感じの強いシャオロンは、娘の元気そうな姿にほっと胸をなで下ろした。この際自分が元気かどうかなどは気にもならなかった。
「……なぜ、追ってきた? このあたりには都の兵士もすぐに来ることができる。危険だとは思わなかったのか?」
「可愛い娘を置いて先に行けるわけねぇだろうが! ……これでもちったぁ心配してたんだぜ?」
「……その顔と傷を見れば大体はわかる。帝都へ……戻ったのだな?」
「ああ。ひょっとしたらと思ってな。お前に……話したい事があった」
 パイランは数瞬考えた後頷いて、調理場から静かに出てくる。そして主におたまを預けると、シャオロンの後について外へと出た。後には呆気にとられたままおたまを抱える主だけが残された。



 二人は村から少し離れた丘の上で、信じられないほどに大きな空を見上げていた。こういう空を見上げていると、心が和んでいくのが実感できる。そうして幾刻が過ぎただろうか。なんの前触れもなく、シャオロンが呟いた。
「……なあパイラン、お前に聞いてほしかった話ってぇのはな、別に言い訳じゃねえんだ」
「……そんな前置きなどいいからとりあえず話してみたらどうだ? あまりもたもたしていると店へ帰るぞ」
「……ああ。まあぶっちゃけた話、母さんの話だ」
 シャオロンの言葉に、パイランは多少なりとも反応を見せた。
「そう言えば母の話など、六歳の時以来聞かされていない気がするな」
「そうか? そりゃあお前、聞いて来ないからだろう。俺だって聞かれりゃあ答えてやったぜ。別に隠すもんでもないしな」
「ならば、聞かせてもらおうか」
 そしてシャオロンは話し始めた。今は亡きパイランの母の話を……。





 その日のルゴウの街、大帝国の南の端にあるその街の中でも一番の名店『龍花飯店』は、もの凄い人でごった返していた。その理由はただ一つ。この超有名店の主が、まだ駆け出しと変わらぬような若者と、娘を賭けての料理勝負をするというからである。これでは確かに話題性としては充分すぎる。これだけの人が集まってもおかしくはない。おそらく、街中の暇を持て余した者はここに来ていることだろう。
 当の主、龍花飯店店主のタンゲンはいつもと変わらぬ調理装束をきちっと着込み、用意は万全といった雰囲気である。それに対する若者、若き時分のシャオロンはと言うと、これがまた冴えない風体であった。なにしろ古びた調理着に、年季だけは入った大きな包丁。無造作に伸びている髪は後ろで、やはり無造作にまとめられている。これでは誰の目にも結果は明らかだった。いや、明らかに思えた。まさか大どんでん返しが起きるとも思わずに。



 正午、どこから用意してきたのかは知らないが、大きな銅鑼の音で勝負は始まった。店主タンゲンがシャオロンに声をかける。
「シャオロンよ、本気で娘を、メイランを欲しければ腕ずくで奪って見せよ!」
「そう来なくっちゃ! さすがは親父さん、話がわかるぜ」
「ええい、まだ親父と呼ぶのは早いわ! 見事わしに勝てたらそれも許す。だが勝てないようであれば……」
 タンゲンのその言葉に、シャオロンは神妙な面持ちになり言葉を返す。
「もちろん、俺はこの街を出ていきます」
 タンゲンの方も、そのシャオロンの神妙な態度に黙って頷いてみせる。そして判定人が紹介された。いずれも名のある料理人と、街の有力者達である。
 判定人の長、この街の料理協会長がさっそく口を開いた。
「ではさっそく始めていただく。料理の題材は……エビとカニをふんだんに使った料理を三品作ってもらう。どちらをどのように使っても、また使い方の配分は各自に任せるものとする。そして一品ずつ、出来た方から随時試食をしていく。さらに制限時間は特に儲けないものとする。以上のような決め事で双方よろしいかな?」
「うむ」
「……あ、ちょっと待ってくれ」
 即答したタンゲンとは対照的に、顎へと手を当ててなにやら考え込んでいたシャオロンは、不意に勝負の開始を止めた。こうなると、ふつう主催者側はよい顔をしない。今回もそれは間違いなかった。
「いったいどうしたのかね?」
「ああ、食材のことなんだが……この店にある物だけしか使っちゃまずいんだろうかな? 俺は他に使いたい物があるんだが……」
「ほう? ……そこまで言うのならば勝負の前に材料調達の時間を設けようか。タンゲン殿も、それでよろしいか?」
 協会長はタンゲンの方を気にし、それに反して素っ気ない返事が返ってきた。
「別段断る理由はない」
「では行きなさい。納得いく材料を、そうだな……半刻以内に調達してきたまえ」
「ありがたい」
 そしてシャオロンは店を出ていった。なにやら策があるのか、その顔には笑みさえ浮かべていた。
 そして約束の半刻後、シャオロンは約束通り戻ってきた。
「いや、待たせちまってすまない」
「うむ。納得いく物は手に入ったかな?」
「ああ、ばっちりだ」
 親指を立てて片目を瞑るシャオロン。こういう行動からも、どことなく愛嬌のある男だとわかる。
「さて、それでは今度こそ始めるとするかな?」
「いつでも」
 二人の頷くのを確認すると、協会長は声高々と開始を宣言した。
「では料理勝負、始め!」
 そして勝負は始まった。シャオロンにとっては一世一代の大勝負の始まりである。



 シャオロンはまず、たった今仕入れてきたばかりのカゴの中身を一気にひっくり返した。そして出てきたのは、なんと数多くの薔薇の花だった。これにはさすがのタンゲンも目を見張った。
「……奇をてらった料理を作るのか?」
 小さくだが呟いたタンゲンに、シャオロンは堂々と言い放った。
「いいや、俺はこいつで最高の料理を作るんだ!」
 そしてシャオロンは小さめの鍋を用意する。そのシャオロンは終始笑顔を絶やさず、周囲の者達に注目されているのが楽しくて仕方がないといった風にすら見える。
 さて肝心の料理だが、まず用意した鍋に水を張り、湯を沸かす。そしてその中にはなにやら細かく刻んだ黒い物を入れて煮込んだ。そしてしばし煮込んだ後、それを持って厨房の奥へと消えていく。ちなみに先ほどの薔薇の花も一緒である。
 そして出てきたときにはなにも持っておらず、完全な手ぶらだった。先ほど持っていった鍋の中身がいったいどうなったのかと、観衆全員が疑問に思ったに違いないが、シャオロンはまったくそれには答えようとしなかった。そして新しい食材を用意し、違う料理を作り始める。
 これでは当然観衆の罵声が飛ぶのだが、シャオロンは相変わらずの笑顔で料理を続ける。
 シャオロンはまずエビを用意し、エビの殻をむきにかかった。頭を覆う殻と胴体を覆う殻を両手に持ち、ねじりながら一気に引きちぎる。続いて二つに別れたエビの頭の方を鍋に放り込む。胴体の方はと言うと、一口大に切りそろえて脇に寄せておく。ここまでの一連の作業が、その年齢にそぐわぬように滞りなく行われ、観衆達は先ほどまでの罵りの声も忘れてただただ見入っていた。
 と、そこまで来て、シャオロンは不意に意中の人の方へと目を向けた。そこには確かに目を見張るような美女が立っていた。いや、美人と言うよりは可愛らしいという表現の方がぴったりかも知れない。亜麻色の髪は腰に届くほどに長く、まだ若々しい肌には艶と張りが溢れんほどに満ちている。それでいて小柄ながら、一心にシャオロンを見つめる大きな瞳が、同じように愛の大きさをあらわしている。
 とにかく彼女は、小動物のような印象の可愛らしい女性であった。シャオロンはとにかくメイランのことが好きで、暇さえあれば毎日のように口説いていた。それが功を奏したのか、はたまた神の思し召しか、ついに昨日、求婚に承諾してくれたのだ。が、二人にとっての障害は、目の前に大きくそびえ立っていた。それこそがメイランの父タンゲンの存在であった。そして今、その障害を乗り切れるかどうかが決まる……。
 しかしながらシャオロンは、意外にも鼻歌混じりで料理をしていた。この男は、いつも楽しそうに料理をする。もっとも鼻歌混じりで料理をしていても、それは手抜きではなかった。彼は常に心を込めて仕事をしている。それでいてそう見えない、どこか謎めいたところがメイランの気を惹くもっともたるものなのだが、本人はそれに気付いてすらいなかった。



 そうこうしている内に、まずタンゲンの一品目が出来上がった。大皿に盛られたその料理は龍蝦通天(エビの前菜)である。エビの身を生、半生、蒸し、焼きと、変化を持たせて盛ることで深い味と食感の四重奏を奏でている料理である。これは見事だ。当然審査員達からも文句が出ない。
「いや、相変わらず素晴らしい腕だ。なにしろこの火の通し具合の絶妙なことと言ったら……」
「いや、それだけではない。このつけダレの味の奥深さと言ったら……」
「これはエビの味噌を溶いてあるようだ。そのほろ苦さが味の奥行きを遙かに増している」
 さすがに街一番の料理店の主である。その腕には、五十を過ぎた今でも衰えは見えなかった。



 さてシャオロンの料理はと言うと、こちらもちょうど一品目の仕上げに入ったところだった。が、まだ先ほどの薔薇の花は出て来ていない。
 先ほどバラしたエビの頭を煮込んだものを更に煮詰めてタレ状にする。そして身に軽く塩胡椒をして、湯葉で包みこんだものを油で揚げた。
 と、シャオロンはそういった料理にしては珍しく深皿を用意した。普通ならば浅い皿に、美しく盛りつけるものなのだが……。
 とにかく、こうして一品目は完成した。シャオロンは大きな深皿に盛ったエビの湯葉包み揚げを審査員達のテーブルへと持っていく。が、その後ろでは、まだ一つの鍋がもうもうと湯気を上げている。
 しかし、審査員達の反応は明らかに悪かった。なにしろ……。
「……シャオロン、これはどういうことかね?」
「と、申されますと?」
 シャオロンは、まったく身に覚えのないことで問い詰められているような顔をして聞き返した。その顔があまりに無邪気すぎて、言っている方も呆れ顔になる。
「今もあそこで煮込んでいるタレをかけずに出すのか、と聞いているんだ」
 その言葉と同時に、周囲から大きな笑い声が出始めた。なにしろそんなミスをする者は、料理人にはそうそういない。やはり正式な料理人資格も持たない奴は、と誰もが思った。が、それはあくまでもシャオロンの作戦の上で踊らされているに過ぎなかったことを、彼らはすぐに知ることになる。
「いや、そいつはわざとですから」
「……わざと?」
「そうですよ。かけてみればわかります」
 そうしてシャオロンは、ぐつぐつと煮立ったタレを、鍋からそのまま身にかけた。すると、もの凄い音が辺りに響き渡った。湯葉包みを揚げたときの熱い油と、煮立ったタレの水分の、はじけ合う音が響き渡ったのだ。
「おおっ、これは凄い……」
 呆気にとられる審査員一同に、シャオロンは得意げな笑みを浮かべて料理の説明を始める。
「おこげのあんかけって料理があるでしょう? あれを応用して作ってみたってわけです。さて、名付けて炸溜龍蝦(エビの変わり揚げ物あんかけがけ)。最初にいい見せ物になったでしょう?」
 シャオロンは悪びれずにそう言った。確かにこれは、いい見せ物になった。周囲からも自然と拍手が起きる。
「ふむ、なるほど。そういうことだったか……まあ、とりあえずいただいてみるとしますか」
 協会長は他の審査員達を促して、料理に手を伸ばした。そしてそれを口に入れじっくりと味わい、自然と目を見張っていた。
「これはうまい! 揚げられた湯葉の香ばしさ。その中でまだ半生状態のエビの身が格別だ……」
「おお、確かに。それにこのタレがまた絶品だ。エビの殻から出た深い味わい、そして頭を入れることで味噌のうまみを完全に出し切っている。これは……タンゲン殿の料理と並んでも文句の付けようがない」
 審査員の評価はすこぶる良かった。今までのシャオロンにこんなことがあったかと、タンゲンは横で驚きの表情を見せていたが。
「さて、じゃあ二品目を作るとするか」
 シャオロンはそう言ってさっさと厨房に戻って行く。年齢の割には、たいした落ち着きようである。
 シャオロンの二品目の材料は、数多くのカニの中から小ぶりな種類のカニを選んだ。このカニは、数多い種類あるカニの中でも、もっとも味噌がうまく、また身が締まっている。カニの中でも最高のうまさだと評する者も少なくない。
 シャオロンはそのカニを、圧倒的な速さで身と殻に分けていく。これも今まで見せたことのない速さだったのか、またもタンゲンは驚きに目を奪われている。能ある鷹は爪を隠す、といったところだろうか。
 殻と別々に分けられたカニの身は、そのままスリ鉢の中へと直行した。そしてシャオロンのたくましい腕で回されるスリコギによって力強くすりつぶされていく。だんだんと粘りを出してくるそれは、やがて完全な練り物状になった。それをとりあえず鉢から取り出すと、適当な入れ物に入れておく。
 次に用意するのは小麦粉。台上に小麦粉を山のようにあけると、真ん中をくぼめてやる。そのくぼみに水を入れ、こぼれないように気をつけながら器用に混ぜていく。それが適度な固さ、詳しく言えば耳たぶより少し柔らかいくらいの固さになると、先ほどのカニの身をそこへ混ぜ込んでいった。丁寧に、偏りが出ないよう気をつけながら練り上げていく。そしてそれを棒状に伸ばし、小さく切り分けながら包丁の腹で器用に、丸く薄く伸ばしていく。出来上がったのは、どうやらなにかを包む皮のようであった。



 さて、対するタンゲンは、またも先に二品目を作り上げた。今度はなにやら小どんぶりのような物を審査員達の前に差し出す。
「おお、やはり早いな。さすがは熟練者という所かな?」
「……二品目は明炉蟹粥(焼きカニの雑炊)だ。食べてもらおう」
 そう言って開けた中身は、米とカニ、そして細いネギだけである。カニは確かに焼いてあるようで、所々焦げ目がついている。しかしまたそれが香ばしそうな見た目で食欲をそそる。
「ではさっそくいただこうか」
 協会長に促され、審査員達は一斉に箸を延ばす。そして雑炊を一口食べ、全員が一斉に脱力したような声を出した。あまりのうまさに、身体中の力が抜けてしまったらしい。
「う……うまい……」
「……むう、確かに。焼き上げられたカニの香ばしさ。そしてなにより、このスープに秘密がありそうだ。違うかな?」
「……これは鶏のスープに、秘伝のタレを加えた物だ。食材は厨房の中にあるもの。違反ではないはずだな?」
「もちろんだとも。しかしこの味では、そうそう太刀打ちできるものもあるまい」
 まさしくうまいものを食べた後の笑顔を浮かべて、協会長は頷いた。
「さてシャオロン、君はどうやって対抗するのかね?」
 そんな協会長の言葉は、ひたすら料理を作るシャオロンの耳には届いていなかった。
(……さっさと作らねえと、ちょいとあっちの時期を逃しちまうかな?)
 シャオロンはそんなことを考えながら、ひたすらそれを作っていた。
 豚挽肉とカニの味噌をざっくり合わせたものの中に、細かく切られたシイタケなども入れる。そして更によく練りあげる。ちなみにその間中、シャオロンは手を水に浸して冷やし続けている。こうしないと肉に手の熱が移り、風味が損なわれてしまうからである。そして出来たのは、焼売のタネである。その味噌入りあんを先ほどのカニ肉皮で包み、上にはカニの卵を乗せる。完全なカニ料理の出来上がりである。
「さて、じゃあ召し上がってもらいましょうか。今度の料理は蟹皮焼売(カニ製皮の焼売)です」
 自信満々でシャオロンは料理を出す。しかし、審査員達はまたも良い顔をしない。いくらなんでも、これではただのカニ焼売にしか見えなかったからだ。だが、彼らはその考えを完全に否定することになる。その瞬間が今、やってきた。
「こ、これは……うますぎるっ! うますぎるぞぉぉっ!」
 まさしく吼えるように審査員の一人が言った。それは他の審査員達にも伝染し、やがて全員の意見となる。
「このカニの卵の味と来たら……たまらんわい」
「いや、この皮にも工夫がされているようだ。どうやらカニ肉を混ぜ込んである。それをこのなめらかさに仕上げるとは……」
「なによりあんに混ぜ込められた味噌が凄い。これがもし抜けていたとしたら、皮と卵のうまさの前に、あんの存在感が消えていただろう」
 なし崩しに誉め始める審査員達。シャオロンはそれを笑顔で聞いている。が、誰よりも驚いているのはタンゲンである。今まで店で働いているときにはまったく見せなかった料理への情熱を、今この時になって始めて見せるシャオロンに対してどこか納得いかないところがあったからだ。そんなに腕があるのならば普段からやれぃっ! ということか。
 ともかくシャオロンはそんな審査員たちを見てニヤリと笑うと、踵を返して厨房の奥へと消えていった。
「む?」
 自分の三品目を手がけながらもそのシャオロンの行動を見ていたタンゲンは、ようやく先ほどの薔薇を出す気なのかといささか興味を引かれた。
 そして戻ってきたシャオロンは、小さいカゴと、大きなトウガンを抱えていた。トウガンというのは大きな瓜科の野菜で、まあ甘くないスイカという喩えが一番適しているだろう。そのトウガンを、シャオロンは器用に刳り抜いていく。真ん中を刳り抜いて器状にし、壁面には透かし彫りなども入れていく。これは見事な細工物である。
「……ほう、見事なものだ……」
 タンゲンもつい見とれるほどの素晴らしい出来である。透かし彫りにはシャオロン自身を意味する龍も描かれ、その隣にはメイランを意味する蘭の花。明らかにシャオロンとメイランを意識して描かれている。当然これにはタンゲンも父として頭に来るが、それを差し引いてもその細工は見事な物であった。
 その細工が出来上がると、シャオロンは小さいカゴを調理台の上に出す。これは、確実に例の薔薇を使った物であるはずだ。そう思って全員の意識がそこに集中すると……シャオロンは上に掛けていた布巾を少しだけずらして中を確認し、またすぐにしまい込んでしまう。この行動には審査員も含め、観衆全員が非難の声を上げた。が、これもシャオロンの作戦の内である。こうして注意を引くことで、後での反応が微妙に変わってくることをシャオロンは知っていた。
 そして料理は続いていく。シャオロンは掌くらいの大きさのエビと、先ほどの小ぶりなカニを出して、小さめのカメに放り込んだ。そしてそのまま腕組みをして目を瞑ってしまう。周囲の誰もが不審に思って声を上げるが、シャオロンはそんなことなどお構いなしだった。ただひたすら目を閉じ、なにかを待っているようにも見える。
 そうしている内に、タンゲンの三品目が出来上がった。観衆から大きな声が上がっている。しかしシャオロンには、タンゲンの料理内容が目を瞑っているままでもわかっていた。漂ってくる香ばしい香り、その中でほんの少しだけ感じる辛そうな匂い。恐らくこれは、エビとカニの炒め物。味付けはトウバンジャンとカキ油、塩、胡椒と隠し味の魚醤。間違いない、これはタンゲンのもっとも得意とする料理であり、料理の王道であるはずだ。
 そしてそのシャオロンの予想は、完全に当たっていた。味付けから材料に至るまで、シャオロンの感じたものはすべてその料理に当てはまっていたのだ。そして今、その料理を食べた審査員達の絶賛している様子まで、ある程度の予測がついていた。
(……でも、それでもあれだと俺の料理よりも下、だな。大事なことを忘れてるぜ、親父さん。料理には順番があるはずだろ?)
 シャオロンは心の中でそう呟き、ようやく目を開く。そして下に置いていた例のカゴを取り出し、中身をトウガンの容器に全部あける。その上からカメの中身、なにやら液体のものと一緒になったエビ・カニを、汁を切って入れてしまう。そして新たに別の液体を注ぎ込み、料理は完成した。
 シャオロンは未だタンゲンの料理による興奮も冷めやらぬ審査員達の目の前に、このトウガン容器をどんと置いた。審査員達はおろか、観客全員の目がこの料理の方へと注がれる。そしてシャオロンは高々と言った。胸を張って堂々と。
「さあ、最後は俺の料理で締めくくってくれ」
 シャオロンは小皿を持ってくると全員に一皿ずつ手渡し、穴の開いたおたまを持ってきた。そして中のエビ・カニと共に、なにやら透き通った球体の物も盛りつける。これはいったいなんなのか、審査員達の目はただそれだけを考えているように感じる。
「シャオロン、これは……いったいなにかね?」
 協会長が、透明な球体をまじまじと覗き込みながら呟いた。それにシャオロンは、親指を立ててこう答えた。
「そいつがあの薔薇の花を使った料理。名付けて玻璃薔薇杏仁(杏仁薔薇封じ)」
「……杏仁……薔薇封じとな?」
「そいつは透明な杏仁豆腐に薔薇の花びらを閉じこめたもんだ。その薔薇は砂糖煮にしてあるから、まあデザートだと思ってくれればいい。とりあえず先にエビとカニの方から食ってくれ」
「ふむ、ではそうしようか……」
 と、審査員達は料理に手を出す。すると、あろう事かまだエビとカニは生きていた。手に取った瞬間、エビは大きく跳ね、カニは足を動かしたのだ。これには審査員達も驚きと怒りをあらわにした。
「シャ、シャオロン! これはまだ生きているではないか! なにも調理せんで相手の前に出すなど……こんなものは料理とは言わん!」
 だがシャオロンは平然と、真っ向からその言葉を放った協会長の瞳を見返している。
「……批評は食ってから聞く。食いもしないで評価を下すなんて審査員のする事じゃあないはずだ」
「き、貴様!」
 協会長がシャオロンに掴みかかろうと身を乗り出したが、それは脇の審査員に止められた。なにやら脇の男たちは、協会長の行動とは別のことで驚いているようだ。
「協会長、このエビは……れっきとした料理です!」
 その言葉には、協会長が一番驚いた。いったいこの男はなにを言っているかという表情でその審査員を見る。が、その男は頑として退こうとはしなかった。
「これは料理です、協会長。シャオロンの言う通り、食べてみればわかります」
 協会長の怒りはまだおさまってはいなかったが、一応席に戻り、そのエビをしげしげと見つめた。するとどうしたことか、なにやら芳醇な匂いを感じる。それはこの、目の前の生きたエビからしているようだ。
「……これは?」
 協会長はエビを自らの鼻の前まで持っていき、大きく空気を吸い込んだ。すると、明らかに酒の匂いがした。
「これは……老酒か?」
「その通り。この料理すべてまとめての名は海鮮花老酒酔(活き海鮮と花の老酒漬け)。さあ、食ってみてくれ」
 協会長はいつの間にか怒りも忘れ、そのエビの殻をむいていた。そして手の中で踊るエビの殻をむき終えると、そのまま口の中へ放り込む。そして、第一声はまったく言葉になっていないようなものだった。
「お……おぉぉぉ……」
 まさしくうまさ故に声の出ない顔。そんな顔をしていた。次にカニへと手を伸ばす。甲羅をはずし、中の味噌を指ですくう。そして味わうと、まさに至福の時が流れるが如く、であった。
「これは……いかん、なんと表現して良いのかもわからん……」
 それは他の審査員にしても同感であった。あまりのうまさに言葉もなく、ただひたすら食べている。そんな感じさえあった。そして審査員の一人が薔薇の球に手を伸ばし、ほんわかという顔になる。
「これは……なんという優しい味だ。まるで……そう、自然に囲まれた、それでいて野性味豊かな味だ。薔薇の香りがそうさせているのだろうか……」
 審査員達は全員が同じ感想を抱き、そして試食は終わった。協会長は先ほどの非礼を詫び、それまでに抱いていた疑問を口にした。
「……シャオロンよ、なぜ薔薇を料理しようと考えたのかね?」
「……薔薇は……その……メイランの、一番好きな花なんだ。だから……入れてやりたかった」
 シャオロンは柄にもなく赤くなって、小さくそう言った。そして観衆の真ん中では、メイラン当人もうつむいてしまっている。
「はっはっは! なるほど、これは見事だった。タンゲン殿、安心してこの男に娘をやりなさい。腕前は今見ていたとおり、あなたにも引けを取らないものだ。おまけにあなたが間違えた料理の順番も、きちんと守っている」
 協会長はタンゲンにそう声をかけた。と、いつの間にかシャオロンの料理を味見していたタンゲンも、同じ思いを持ったらしかった。
「……そのようだ。わしが雑炊と炒め物の順序を間違えたというのに……シャオロンは最後に軽い物を持ってきた。この腕前と結果では……仕方がない。約束は約束だ」
「おっしゃあ!」
 ガッツポーズをとり、喜びをあらわにするシャオロン。そして駆け寄ってきたメイランを抱きとめてやる。
「やったぜ、ついに結婚できる!」
「うん! ありがとう、シャオロン!」
 喜ぶ二人の背後では、なんとも苦々しい笑顔を浮かべているタンゲンの姿がある。娘を嫁がせる父親にはよく見られる光景ではあるが、タンゲンのそれはひときわであるように思える。なにしろ握り拳が震えている。もうこうなっては、シャオロンなど悪党にしか見えないだろう。そこでタンゲンは意地悪く、こんな一言を付け加えてやった。
「シャオロンよ、今まで手抜きをして仕事をしていた分、これからは毎日が地獄になるほどしごいてやるから覚悟しておくがいい」
 このタンゲンの言葉には、さすがのシャオロンも額を押さえてしまう。しかし横にいたメイランは、そんなシャオロンの頬に優しく口づけしてやるのだった。それはささやかながら、愛する人を苛める父への反抗でもあった。
「……しかしシャオロンよ、お前は本当にメイランを愛しておるのか? 街に来てたかが一年程度で、本当に愛していると言えるのか?」
 タンゲンは、苦し紛れの一言をシャオロンにぶつけてみた。が、シャオロンもメイランも、別段焦るわけでもなく、ただ静かにこう呟いた。
「……親父さん、確かに俺もメイランも、初めは小さな湧き水くらいの想いを寄せるだけだった。でも……そんな小さな恋心だって、いつかは山を下り、河を渡り、大きな海に流れ着く。今はもう、広い海くらいの愛に育ってますよ、俺の想いは」
 ここまでの言葉を返されては、もはやどうしようもなかった。何よりも、隣の愛娘の嬉しそうな顔を見ては、止めようという気さえ失せてしまった。
「……決してメイランを不幸にするでないぞ。もしそうなったときは……」
「わかってますって。そのときは……この首を、差し上げましょう」
 本気でそう言うシャオロンに、タンゲンも大きく頷いた。
 こうして二人は結婚することになった。そしてそれは、街の全員が祝福することでもあった。





「そうか、親父が母のためにそんな勝負を……」
 パイランは目を瞑ってその頃のことを想像するようにしている。おそらくパイランの頭の中には、幸せそうな顔をして結婚式を挙げている母の姿があることだろう。
「なあ、パイラン。俺が悪かったことは認める。なにもかもを料理や勝負に結びつけちまうのは、俺の悪いところだとメイランにもよく言われたのを思い出したよ。だから……今回一度でいい、俺を……許してくれるか? あのときの料理は、メイランとの思い出のあの料理だけは、なるべくお前に継いで欲しい」
「……兄貴よりも、か?」
「ああ。あいつには似合わねえ料理だしな。それに……お前にはそれくらいしかメイランの思い出を与えてはやれないしな」
 シャオロンはパイランを見ながら力なく笑った。確かに男の作る料理ではないのかもしれないとパイランも思ったし、なによりシャオロンの気持ちが痛いほどわかったから、あえて反論しなかった。
「なかなか興味深い話だった。やはり聞いて良かったな」
「まあ他にもいろんな話はあるが、結局帝都への旅の途中で身体を壊しちまったメイランはそのまま……な」
「……しかし、親父がそんなにも一途だったとは知らなかった。もっと、女と見れば見境のない男だと思っていたが?」
「なに言ってやがんだ。一途だから未だに再婚もしねえんだろうが」
 シャオロンはもはやいざこざのことも忘れて、いかにも心外だといった表情でそう言った。
「そう言えばそうだな、すまなかった。それに……今回のこともだ。こんなに傷だらけになるほど……私のような馬鹿娘を探し回ってくれたのだな?」
 パイランはそう言って、父の身体の傷を優しく撫でた。シャオロンはくすぐったかったのか、それとも照れているのか、とにかくその手をはがして飛びすさる。そして一言だけこう言った。
「馬鹿なことを言うんじゃねぇよ。親が子供の為に身体を張るのは当然のことだろうが」
 今のパイランには、その一言にシャオロンの本当の優しさが詰まっていることが感じ取れた。そしてその声からも、表情からも、そして近寄って来たシャオロンの、パイランの頭に乗せられた手の平からも、すべてからその優しさは伝わってくる。思えばこんなに暖かい気持ちになったことは、ここ数年なかった気がする。
「……見え透いたお世辞はいらないぞ、親父。気色が悪い」
 だがそれでも、パイランは強がってみせた。そうすることで、今も前と変わらぬ自分を伝えたくて。そしてそれは、正確に父親へと伝わっていた。
「へいへい、そうですか」
 シャオロンはそう言って話を終えた。そしてパイランもそれ以上話を延ばさず、ただ黙って立ち上がった。しかしそれだけでも、今やこの親子の心は確実につながっていた。それだけは、どこの誰にも負けないとの自信が今の二人にはあった。



 そして二人は、翌日の朝に旅立った。店主はパイランがいなくなることを嘆いてやまなかったが、もはや二人を止められる者などいはしない。
 港町への通過点、チャンナンの都がもう目の前であった。