旅の料理人 話の四 医食同源
作:みのやん




話の四 医食同源





 結局二人が帰ってきたのは、もう夜も更けてしまった頃だった。そして陽が落ちると共に出てきた霧が、街を覆い始めた頃だった。
 シャオロン達は、揃って厨房にいた。明日からの営業に向けて、なにか名物料理を作ろうということになったからである。やはり一度無くなってしまった信用を取り戻すためにはかなりの労力と日を要する。それを一気に取り戻すために、こういう策に出たのだった。隠居のコウリンも厨房の脇にイスを置き、皆が止めるにも関わらず料理を眺めることになった。確かにコウリンにとっては他人事ではない。気になる気持ちも大いにわかる。
「さて、じゃあパイランの考えた料理ってのを、まず作ってもらうとするか。そういうのも考えて買い物をしたんだろ?」
「当然だ。私にできることと言えば、それくらいしかないのだからな」
 父の言葉にパイランはさっそく袖をまくり、旅の荷物から自らの専用包丁を取り出した。その包丁はとんでもなく見事な業物で、恐らくそこらの料理人では到底持ち得ないような代物であるに違いなかった。それを目に留めたコウリンは、イスの上から訝しげな視線をパイランに向けたが、パイランはあえてそれを無視し、料理を始めた。どうやらそんなことなどいつものことらしく、もう慣れてしまったらしい。
「ではまず材料の下ごしらえから始めよう。スープの材料はスズキ、鯛のアラを使って作る。三枚に下ろし、すべてのアラと香味野菜を鍋に入れて、アクをこまめに取りながらゆっくりと煮出していく。これでとりあえずスープはできる。では次に具の材料だが、イカ、タコ、クジラ、シジミ、そしてサメだ」
 そう言ってパイランが出した材料は、あまり主役として料理に使われない、いわば脇役ばかりであった。特にサメなどは、フカヒレ以外で食べることなど滅多にない。
「サメの肉を使うのか? そんなのは聞いたこともないぞ?」
「貴方が聞いたことはなくとも、私は食べたことがある。心配せずに、試食まで待って欲しい」
 心配そうなコウハの言葉にパイランはそう答え、まずサメの肉から包丁を入れた。
「サメは肉が尋常ではないほどに軟らかいので、少し厚めに削ぐように切り、歯ごたえを残しておく。次にイカだが、これは細かく包丁で筋を入れて、炒めたときに開くように切る。いわゆる花切りというものだ。それからタコは、吸盤と皮を剥いでおき、これを一口大に切りイカ、サメと一緒に湯通ししておく」
 パイランは説明しながらも、手際よく仕事をこなしていく。この手際の良さには、コウハも驚いた様子で見入っていた。
「さて残るクジラとシジミだが、クジラの方はタコと同程度の一口大に切り、シジミは熱湯に入れて口が開くのを待つ。そして口がほんの少し開いたら、すぐに熱湯から出して強引に口を開ける。その後身を取り出して、ニンニク、鷹の爪、ショウガを入れた醤油に漬け込んでおく」
「ふむふむ、それから?」
 急かすシャオロンを、パイランはきっと睨み付ける。手際が悪いわけでもないのに、速度を乱させるなと言いたかったのだろう。シャオロンはそれを察して、慌てて口をつぐんだ。
「では今までの物はひとまず置いておき、麺の支度にかかろう。私が作るのは海鮮麺、名付けて南鱗海鮮五宝麺だ」
「凄え名前だな?」
「それくらいの強調性があってもいいかと思ってのことだ。そんなに気にすることではない。だが、これなら一度は試しに食べてやろうと思うのではないか?」
「なるほどな、それは良い考えだ。俺も真似しよう」
 シャオロンが懐から小さめの紙を出し、そこになにやら書き始めた。どうやら本当に真似するらしく、書き込んだ紙をさも大事そうに懐へとしまいこんだ。
「さて、この麺には鯛の身をすりつぶし、練り込んでいく。鯛を選んだ理由は、あまり濃い味のものを練り込むと上品な他の海鮮の味わいが消されてしまうからだ」
 そう言いながら、パイランは以前旅の途中で打ったときのように麺を伸ばしていく。何度見ても見事なものだ。コウリン、コウハはおろか、ヘキレイやチョウリンもその見事さに見入ってしまう。
「さて、さっそく麺を茹で、具を炒め始めよう。具の方はまずショウガ、ニンニク、ネギを炒めて香りを出す。そしてクジラを入れて一煽りしたら、次に湯通ししたイカ、タコ、サメを入れる。最後に漬け込んでいたシジミを入れて、片栗粉を使ってとろみをつける。これを茹で上がった麺にかけて完成だ」
 そうして出来上がったパイラン作の『南鱗海鮮五宝麺』は、さっそく試食に移されることとなった。皆、味が気になってどうしようもなかったらしい。コウリンが、コウハが、そしてシャオロンやパイランも、皆が一斉に箸を延ばす。そしてそれを口に運び、あまりのうまさに声も出なくなってしまった。
「おお……これは見事なものじゃな」
「凄い味だ……こんな……」
「……なるほどな。さすがはパイラン、よく素材の持ち味が出てる。見事なもんだ」
「自分で言うのもなんだが上出来だと思うぞ? これなら売り物にもなるだろう」
 パイランは一通りの感想を聞いてからそう判断し、反対意見の出ないのを肯定と見なした。
「さて、ではこれはこれでよし、だな。まあ余ったスズキと鯛の身は刺身にでもするとして、次は親父の番だ。自慢の腕の冴えを見せてもらおうか?」
 パイランがそう言って父親をあおると、さすがのシャオロンも肩をすくめてしまう。あまりに重圧感のある言葉だったからだ。
「やれやれ、こんなに美味いものができるんだったら俺が先に作るんだったかな」
「今さら嘆いたところでもう遅い。さっさとやれ、親父」
「へいへい、わかりましたよ」
 シャオロンはパイランと同じく自分用の包丁を荷物から取り出す。パイランの時もそうであったが、どうもその柄の部分になにか模様が彫られているように見える。しかしそれはどうやら、コウリン一人しか気付いていないようだったのであえて言いはしなかった。
 そしてさっそく調理を始めるシャオロン。
「じゃあ俺の料理、南鱗陸鮮五宝炒麺を作らせてもらう」
 そう言ったシャオロンを、パイランはさっそくたしなめた。
「親父……陸鮮、というのには無理があると思うぞ?」
 まったくもってその通りである。その通りではあるのだが、あえてシャオロンはそれを聞き流した。
「はいはい。じゃあまずは、牛肉から行こうか」
 完全に軽くあしらわれたパイランは、怒るよりも先に呆れ返ってしまった。ここまで我を通すとはやはりこの男、わがまま親父である、と思ったのだった。
「じゃあさっそく牛肉、脂の少ないモモの辺りがいいな。こいつを、麺棒で思いっきりぶっ叩く」
 そう言うやいなや、シャオロンは牛肉を思い切り二本の麺棒で叩き始めた。何度も何度も叩くうち、肉はどんどん細かくなり、粘りが出てくる。そしてそれをしばらく続け、完全に粘りが出てひとまとまりになるまで叩くと、ようやく麺棒を置き肉をこね始める。まるで麺の生地のように。
「さて、俺の方はこいつを麺棒で薄く伸ばしていって、何度か畳んで麺状に切ってやる」
 薄く延ばした肉製の生地に小麦粉をふりかけ、何度か畳んでまた延ばす。それを繰り返していくと、やがて何層もの層に分けられた肉の塊が出来上がる。それを細く切っていき手で揺すってやると、一本一本が見事にばらけ、いくつもの麺が出来上がった。
「シャオロン、それは……肉の麺、なのか?」
「さすがは親父さん、その通り。こいつは肉を使って作る麺『牛肉麺』だ」
 さすがの名料理人コウリンですらこんな技法は見たことがない。噂にものぼらぬこんな技があるなどとは夢にも思っていなかった。しかし現にやって見せたシャオロンは、いたって平然とした顔をしている。これはこのシャオロン、しばらく見ぬうちにとんでもない料理人になったものだと、コウリンはいささか嬉しくなりさえした。
「次に具の方だが、俺の方ははっきり言って素朴なもんだ。シイタケ、タケノコ、ニンジン、白菜。このうちタケノコとニンジンと白菜はしっかりと油通ししておく。油通ししておかねえと、シャキッと仕上がらねえからな」
 シャオロンはきちんと初歩の油通しを確実に終えると、鍋を熱して新たに少量の油を入れる。
「さて、ここからが勝負だな。ニンニク、ショウガ、ネギを炒めて香り出し。この辺はパイランの方と一緒だな。さて次に野菜を入れて一気に炒めていく。ここで気をつけるのは炒め過ぎないことだ。野菜には歯ごたえを残し、尚かつ火はしっかりと通しておかなきゃなんねえ。難しいが、まあやらねえことには、な。そして野菜に火が通ったらシイタケを入れて、上スープを注ぎ込む。そいつに片栗粉でとろみをつけ、具は完成」
 シャオロンは大急ぎでその鍋を避け、違う鍋を火にかける。そして油をひくと、さっと湯がいた牛肉麺を入れて焼き始めた。片面にこんがりと焼き色をつけ、ひっくり返して裏も焼く。
「麺の方はさっと焦げ目がつく程度に両面を焼けばいい。麺を皿に盛りつけ、さっきのあんをかけてこれで出来上がりだ」
 そうして出来上がった『南鱗陸鮮五宝炒麺』を全員で試食する。すると、先ほどの海鮮麺にはなかったうまみとコクが全員の口の中に広がった。あっさり味とこってり味。この対照的な二品が、もちろん気に入られないわけがない。
「どうだ? うまいだろ?」
 ニコニコとしながらそう言うシャオロンに、パイランが珍しく笑顔を向けた。
「相変わらずいい仕事をするな、親父。見事な味だ」
「本当だ。牛肉麺自身から染み出る深いコク。それを打ち消すわけでもなく最大限に生かす野菜。それらが一体となって、香ばしい麺を更に一段上の次元に導いている。 ……本当に凄いんだな、あんた達は。こんなに凄い料理は、俺じゃあとても作り出せなかっただろうからな」
 コウハは潔く自分と二人の腕の違いを認めた。そしてコウリンの方に目を向ける。
「親父、確かにこれなら店を任せてもいいと思うよ。というより、俺よりも主の資格がある」
「まあそう言うでない、コウハよ。シャオロン達は色々な土地を巡って修行していたのだ。腕が上がって当然じゃよ。一所に落ち着くよりも数多くの料理に出会えるのだし、彼はもとより素質があった。まあこれほどまでとは思っていなかったのだが、のう」
「まあまあとりあえず、これで行こうじゃねえか。明日からはコウハ、お前にも手伝ってもらうからな? しっかりとこいつが名物になって出し続けられるように覚えちまってくれ。この二品は俺達からの復業祝いにさせてもらう」
 シャオロンはそう言って片目を瞑って見せた。パイランも隣で頷き、父の賢明な判断を肯定する形だった。
「さて、じゃあ明日からは忙しくなるぞ。今日はしっかりと寝とこうぜ」
 こうして再開店前日の夜は更けていく。南鱗酒家の面々は、夢と希望を抱いたまま、安らぎの中へと向かっていった。



『街の老舗、南鱗酒家新装開店 新しい味南鱗五宝麺』
 こんな宣伝文句が街中に流れた。そしてこれに呼応するように、南鱗酒家は人で溢れ返った。今までなんとか栄華楼の料理で満足していた街人達も、この老舗の宣伝には、さぞかし昔を思い出したことだろう。
 こうなると、当然とんでもなく忙しくなるシャオロン達。今日の厨房はまさに戦争だった。
「お姉ちゃん、海鮮五宝麺を六つ! おじさん、陸鮮五宝麺を八つだよ!」
 チョウリンはまだ幼いながらも一生懸命注文を取っている。そしてヘキレイは皿を洗い、コウハはシャオロン達二人の補佐をする。そんな調子で時間は刻々と進んでいく。
「パイラン、そこのタケノコを取ってくれ!」
「親父の所のシジミと交換だ!」
「シャオロンさん、白菜の追加買ってきました!」
 もう厨房は大混乱であった。なにしろここまで人が集まるとは思っていなかったのだ。初日ということで、まだ人も集まらないだろうと材料も少なめに仕入れたのだが、どうやらそれが裏目に出てしまい、ひたすら追加追加の嵐だった。
 こうして一日はあっという間に過ぎてしまった。予定よりも早く店を閉めたが、それはなにぶん予想外の入りが最後まで続き、材料の用意が追いつかなくなってしまったからである。
「ふぅ〜、ようやく終わったか。随分とすげぇ入りようだったな?」
 シャオロンが洗っていた鍋を水から上げ、自分の肩を揉みながら一息ついた。
「これまであの栄華楼の料理を食べ続けていたのだから当然の反応だ。それとも親父は栄華楼に勝るとも劣らないような料理を作っていたつもりなのか?」
「かぁ〜、相変わらずきついな、お前の一言は」
 シャオロンは客席まで行き腰かけると、机の上の箸を弄びながら言葉を続ける。
「……なあパイラン、栄華楼の奴らなんだが……今まであれだけやってた奴らが黙って見てると思うか?」
 シャオロンの心配そうな呟きに、パイランは水場で皿を洗いながら答える。
「まあそんな潔い奴らだとは思えないな。なにしろ食材を牛耳り、敵対するコウリン殿の腕を折るような奴らだ。まだまだ相当汚い手も使ってくるだろう」
「ま、もう食材の方は大丈夫だろうから、後は変な客に気をつけてりゃ大丈夫だろ?」
「そうだな。それにそんな奴らが来たとしても、熊より強いわけではないだろうし別段怖いわけでもないな」
 さすがは一対一なら素手で熊をも倒せそうな女性である。言うことがいちいち恐ろしい。これでは周囲に男の気配がないのも頷けるというものだ。思わずシャオロンも呆れ果てた顔をする。
「……まったく、嫁入り前の娘の言葉かよ、それが?」
「嫁に行く気など無いのだから嫁入り前ではない。違うか、親父?」
 相変わらず素っ気ないパイランの返事に、シャオロンは机に突っ伏してしまう。そして不気味なうなり声を上げながら、今は亡き妻に、涙ながらで謝った。
「うぅ〜、すまねえメイラン。お前が命を懸けて産んでくれた娘はこんな風に育っちまった……」
「うるさいぞ親父。こんな娘で悪かったな」
 明らかに不機嫌な声のパイラン。こうなってはいかに父親でもどうにもできない。シャオロンはただ、コソコソと部屋へ逃げて行くだけだった。すると後に残されたパイランがぼそっと一言。
「まったく。あんなのが父親だと思うと、情けなくて涙も出ないな」
 まったく追いかけようという素振りも見せず、パイランは黙々と食器を洗い続けるだけだった。





 そして次の日の夜。昨日に続く大繁盛のあと、仕事も終わって人々が我が家へと帰る時刻のことである。
 パイランは、父と二人きりで一つの部屋にいた。
 ……とは言っても変な意味ではない。二人にとっては、実に日常茶飯事な意味であった。
「……で、親父。わざわざ娘の……尻を触りに厨房を匍匐前進してくるとはどういう了見だ?」
 足を組み、腕も組んだ美女パイランが、目の前にいる……縄でぐるぐる巻きにされてイスにくくりつけられている男に、面と向かってそう言った。
 そう、シャオロンは年甲斐もなく娘にそんな真似をしたのであった。それではこの状況も妙に頷けるというものだ。
「……いや、その、なんだ……そ、そうだそうだ! いねぇメイランの代わりに発育状況を調べてやろ〜かと」
 シャオロンはどうにか言い訳をしようとしたが、それも最後まで言葉を続けることができなかった。最近更に強力になった、パイランの飛び込み三段蹴りをまともに受けたのだ。両腕も縛られているので受け身ひとつ取れず、思い切り壁に飛んでいくシャオロン。やはりこの父は、相変わらずこんなものであった。
 ……まったくもって情けない限りである。
「ず、ずびばぜん……」
「謝るくらいなら最初からするなといつも言っているだろうが! 親父は子供ではないのだぞ!」
 パイランに徹底的に釘を刺されたシャオロンは、情けなく肩の力を抜き、ずるずると足を引き摺るようにして自らの部屋へと逃げ戻っていく。
「まったく……相変わらずの変人だな、うちの親父は」
 パイランは呟いて頭を左右に振ると、脇に置いておいた着替えを持って、風呂へと歩いていった。



 パイランはいつものように、風呂に入っていた。身体を、旅の間では必需品でもあった石鹸で洗い、美しい肌を更に磨き上げる。もはやその美しさは、傾国の美女と言うべき程のものでもある。
 その美しい石鹸のついた身体を湯で流し、浴槽の中へと静かに入る。旅の中ではなかなか味わうことのできなかった至福の時が、そこにはあった。
「ふぅ、いい湯だ。旅のさなかでは、せいぜい川での水浴び程度だったからな」
 パイランは誰にともなく独り言を言う。その声色も素晴らしく澄み切っていて、聞く者を魅了するようでもある。 ……まあ、言葉遣いを除けば、であるが。
 しばし湯に浸かった後、浴槽を出て身体を拭く。長い髪から滴る湯が、一層艶めかしさを演出していた。が、艶めかしいのはそこまでであった。
「おぉ〜い、パイラン! 風呂入ってんのかぁ?」
 がらりと音を立てて開く扉。そこにはやはり、父の姿が。まあ扉に背を向けていたのが唯一の救いだろう。
「むむ? ちょっと見ねぇうちに……また色っぽくなりやがって」
 顎に手を当ててにやけつつ、そんな一言を放ったシャオロンは、慌てて服を身体にあてたパイランの後ろ回し中段蹴りと体重を乗せた正拳によって叩きのめされることになる。
「ぐはぁぁぅぅっっ!!」
 ぶっ飛び横回転に加え、新たに吹き飛びながらの縦回転も覚えた様子のシャオロン。とにかく物凄い勢いで吹き飛ぶ姿は、もはや爽快にすら見える。
「……娘の裸を見にわざわざ風呂にまで来るとは……朝に続いていったいどういう了見だ、親父?」
 パイランはさらに鳩尾への膝蹴りを加え、とどめとばかりに何度も踏みつける。こうしてシャオロンは、にやけ顔のまま気絶した。
「……最低最悪の変態親父だな、相変わらず!」
 パイランは吐き捨てるように一言言うと、父親を脱衣所の外へと思い切り蹴り出した。おそらくシャオロンが目を覚ましたときには、記憶にない傷と、アザだらけになっていることだろう。そして今度は厳重に鍵をしめ、大急ぎで冷えた身体を拭き始めた。
「馬鹿親父め! 今度という今度は絶対に許さんっ!」
 普段からは考えられない速さで身体を拭き終えたパイランは、あっという間に服を着、そしてがらりと戸を開ける。はたしてそこには……父親の姿はなかった。
 外へと続く扉が風に押されて揺れている。おそらくシャオロンは、娘の殺気を感知して目を覚まし、逃げ出したのであろう。まるで野生の獣のように敏感なものである。
「……明日の朝飯は抜きだな」
 歯をギリギリと噛み締めて悔しがりながら、パイランはそう呟いて扉を閉めた。もちろん、ご丁寧に三重にも錠をかけて。これでは、シャオロンが帰ってきたとしても入り口はない。おそらく寒空の下で、凍死寸前になりながら孤独を経験するのであろう。かわいそうなものである。しかしパイランに手加減という言葉はない。やると言ったことは必ずやる人間なのだ、パイランは。
 そのまま自分の部屋へと戻り、夜風で髪を乾かして床につくパイラン。そして毛布に包まり、暖かくして眠りへと落ちていった。





 シャオロンは夜の街を、あてもなく彷徨っていた。こういうときは朝まで帰らないに限る。そのことをよくわかっているから逆にたちが悪いとも言えるのだが。
 そしてなにしろ大きい街なので、行くところには事欠かない。シャオロンは酒でも飲もうかと、酒場に足を向ける。
 シャオロンが入ったのは大きめの酒場で、中は人でごった返していた。その客達の中には昼間店に来た客もいて、つい席に誘われてしまう。
「おうおう、やるじゃねえかあんた」
「まったくだ。あの栄華楼の客を片っ端からぶん盗っちまうんだからなぁ」
 そう言って男達は盛り上がる。シャオロンも適当に話を合わせ、なんやかやと盛り上がった。


 そして夜が明ける頃……。


 シャオロンは、昨晩の男達と夜明けまで飲んでいたせいか、痛む頭を抱えながら店へと戻っていた。なにしろついさっきまで飲んでいたので、頭がガンガンする。それでも仕事の時間になればそんな素振りすら見せないのがシャオロンの凄いところである。
 と、シャオロンが店の前まで来て扉を開けようとしたその時、裏口から続いている横の路地から、数人の人影が飛び出してきた。
「おおっ? 危ねぇ危ねぇ、なんだってんだよ?」
 シャオロンはぶつかりそうになった身体を間一髪でかわすと、びっくりしてそう呟いた。とりあえず頭をポリポリと掻き、まあなんということもないと思って中へ入ろうとすると、今度は見慣れた顔が路地から飛び出してきた。
「……パイラン? 今日は随分と早い目覚めじゃねえか?」
 間の抜けたことを言うシャオロンの胸ぐらをいきなり掴み、パイランは有無を言わせぬ口調で簡潔明瞭に聞く。
「親父、今ここから人が出てこなかったか?」
「人? ああ、それならもう走ってっちまったぜ?」
「なに! なぜ止めなかった! 怪しいとは思わなかったのか!」
 いきなり現れて相当無茶なことを言うパイラン。シャオロンはがっくりと力が抜けたのか、肩を落としてパイランの両肩を掴んだ。
「……なあパイラン、お前言ってることに無理があると思わねえか? いくらなんでも理由もわかんねえでそんなことができるかよ?」
 シャオロンはとりあえずそう言うと、パイランを店の中のイスに座らせて話を聞くことにした。
「んで、いったいなにがあった?」
「 ……さっきの男達が裏庭の井戸に毒を放り込んでいった。あれではもう水が使えない」
「なに? ……毒まで使うたぁ、とんでもねえ奴らだな、栄華楼の連中は」
 シャオロンは栄華楼がやったことと確信しているのか、そう呟いて腕組みした。が、まだパイランの話は終わっていない。
「それだけではない。水どころか薪にまで手を加えていった。完全に水に漬けられてしまって、あれではもう火は点かない」
「薪にまで? はぁ〜、敵ながら大したもんだな。そこまで徹底するか、普通?」
 シャオロンは、とりあえずその井戸と薪を見に行った。すると、確かに酷い有様だった。井戸の色は気付かぬ程度に変わっており、もう使える気配すら見えない。どちらかというと薪はまだましな方だった。
「はぁぁ、まいったな、こりゃ」
「私が早く起きたから気付いたものの、もう少し遅く起きていたら知らぬうちに使っていたかも知れないぞ?」
「……で、どうするよ? これじゃあ仕事にならねえぞ?」
 腕組みをして井戸を覗き込みながら、シャオロンが声だけ娘に向けた。が、当の娘はというと、いつの間にか姿を消している。
「ありゃ? あいつ、いったいどこ行きやがった?」
 シャオロンがきょろきょろと辺りを見回すと、パイランがシャオロンの大きな荷物を持って戻ってきた。荷物はとんでもない量なのだが、軽く片手で抱えてくる所など、相変わらずの馬鹿力だ。
「なにやってんだ、お前?」
「決まっている。この水をなんとかしなくてはいけないだろうが。親父がやらないで誰がやる?」
「はぁ、まあ、な」
 気のない返事を返すシャオロンを、パイランが荷物の中から引っ張り出した短い杖で軽く小突いた。
「気のない返事をするんじゃない。やる気がないなら出させてやるが?」
 腕まくりをしながらそんな物騒なことを言うパイラン。どうやらこの娘には愛父精神というものがまったくないようで、シャオロンも張り付いた笑いを浮かべるしかなかった。
「わ、わかったって。 ……まったく、父親をなんだと思ってやがるんだか……」
「いいから早くやれ! コウハ殿が起きてしまうぞ!」
「へいへい、わかりましたよ」
 シャオロンは大きなたらいを用意し、持っていた杖の頭についている見事な青龍の飾りをとってしまう。そうすると杖の中は空洞で、どうやら筒状になっているらしかった。そしてその筒を通して毒入りの水をたらいに移す。すると、毒々しい色は完全に抜けてしまった。
「……ふう。これでよし、か?」
 シャオロンは水を手ですくって味をみてみる。とくに舌を刺すような味もせず、いつも通りの、うまい井戸水の味がした。これがシャオロンの持つ杖の浄化作用である。いわゆる『濾過』をするものなのだが、そうと知っているのはごくわずかであろう。だからこれを見た者は、まるで魔法でも目撃したかのような顔になるものだ。
「さてと、こっちは終わったぜ。後は薪の方だが……こいつはどうする?」
「まあこっちはほかにも蓄えがあるから大丈夫だろう。それよりも……どうする親父? 栄華楼に殴り込みでもかけるとするか?」
 シャオロンの杖を荷物袋にしまい込みながら、パイランは至極物騒なことを、しかしながら無表情で言った。
「怖いことを言うんじゃねえよ。もっと平和的に考えることを身につけてだなぁ……」
「喧嘩を売ってきたのは向こうだ。こうなったら徹底的にやってやらねば気がすまない」
「いや、まあそれはそうなんだが……」
 ここで認めてしまうシャオロンもシャオロンである。
「ならば今から行けばいい。まあ親父が行きたくないのならば、私一人で行くから構わないぞ」
「……ん! よし、閃いた! なにも力ずくで解決するこたぁねえんだよ。俺達は料理人なんだ。料理で眼にもの見せてやればいい!」
「……しかしな親父、料理勝負をしようにも、受けて立つような奴らではないだろうが」
 パイランは手近にあったイスを引き出して座り足を組んだ。あの膂力を出すとは思えないすらりとした細い足が夜着の切れ目から覗いている。なかなかに蠱惑的な光景ではある。だがしかし、パイランには万に一つもそんな気はなく、また今日ばかりはシャオロンもそんなことなど気にもしない。なんともおかしな親子である。する話と言えば今のような、もっぱら色気のない話ばかりである。
「誰も正式な勝負をしようとは言ってねえだろうが。一方的に仕掛けるだけさ。そうすればな、ほれ」
 シャオロンは懐から一枚の紙を取り出した。そこには『皇帝陛下チャンナン来訪歓迎料理大会』と書かれている。
「昨日、酒場の連中にもらったんだ。すげぇだろ? これで優勝して皇帝陛下に直訴すれば……」
 それを聞いたパイランはシャオロンの手から紙をひったくり、何度も紙を読み返して呆然と呟いた。
「……これに出場するつもりなのか? まさか親父……今の私達の立場を忘れたわけではあるまいな?」
「さすがの俺だって忘れちゃいねえが、今のこの街を放っておくわけにもいかねえだろうが。こうなったらぱあっと散ってやろうじゃねえかよ」
 嬉しそうな顔でそう言うシャオロンを止める術など、パイランはまったく知らなかった。だがまあ今回が初めてというわけでもなく、今までにも似たような状況は何度もあった。パイランなどはその度に、何度殴り倒してやろうと考えたことか。
「……せっかく逃げ出したというのに……」
「なに言ってんだ、お前は。んなもん、また逃げればいいじゃねぇか。ま、捕まんねえのが一番だがな」
「……もう勝手にしろ。その代わり連れ戻されたときは……兄貴と一緒に殴らせてもらうからな」
 シャオロンは笑っているだけでなにも言い返さない。その笑顔こそが、パイランに殴られないための唯一の方法であることを知っているからだ。
「まあとりあえず宣戦布告に行くとするか。パイラン、ちょいと手伝えよ」
 シャオロンは一言呟いて厨房へと入っていく。パイランに残された道は、こうなるともう従うことしかなかった。





 二人は腕まくりをし、闘志をむき出しにしながら調理道具を用意する。
「うしっ! パイラン、今から言うものを用意しろ。緑豆、百合、金針菜、それから小さめのカニだ」
「……緑豆や百合や金針菜(百合の花)はわかるが、カニまで使うのか?」
「おう。へっへっへ、こうなったらこの俺の本気ってのを見せつけてやるぜ」
 不気味に笑うシャオロンに、パイランは背筋が凍るかと思った。こういうときのシャオロンは非常に危険なのだ。これは完全に頭に来ているときの兆候でもあるからだ。
「こいつで一泡吹かせてやるぜ。パイラン、緑豆を茹でてくれ」
「わかった。とりあえず親父に任せるからな」



 二人はコウリン達が起きてくるまでには料理を終えていた。できた料理には蓋をして、すました顔で食事にする。
「シャオロン達には今日も手伝ってもらえるのかな?」
「いや親父さん、今日はちょっと出かけてくるんで……」
「そうか、ではコウハよ、今日の店はわしらでやるとするか」
 コウリンのその発言に、驚いたのは他の面々の方だ。
「おいおい親父さん、身体の方は大丈夫なのかい?」
「そうだよ親父、店は俺とヘキレイでやるから」
 止めるシャオロン達の言葉も聞かず、コウリンは一歩も退こうとしない。
「どうもシャオロンを見ていたら寝ていられなくなってな。わしもまだまだだとつくづく思わされた。これはまだ隠居には早いとな」
 どうにも止まらないコウリンは完全に店に出る気でいる。こうなってはどうしようもない。
「……仕方ない、俺が目を光らせてるから、あんた達は早くすませて帰ってきてくれよ」
「そうだな。おいパイラン、さっさと用事をすませてくるぞ!」
「わかった。用意をしてくる」
 そして二人は栄華楼へと向かう。



 栄華楼の面々は、こんな時間からも忙しく動き回っていた。控えめに扉を開けたシャオロンなどにはまったく気が付きもしない。仕方なくシャオロンは、厨房の方に向けて大きく声をかけた。
「おぉい! ここの店主を出してくれ! 俺は南鱗酒家の雇われ料理人シャオロンだ!」
 まったく悪気のない言葉ではあるのだが、いかんせん敵の陣中である。悪意の波長がひしひしと感じられる。
「……なんだね、君は?」
 どうやら偉そうな男、恐らく店主である男が、羽根扇を片手に奥から現れた。いかにもシャオロンやパイランの嫌いな種類の人間である。
「ああ、ちょいと挨拶にね。俺は南鱗酒家のシャオロンだ。一応初対面ってことで、挨拶料理を持ってきたんだが……食べてみてくれるか?」
「料理? 貴様のか?」
「ああ。まあ食ってみてくれよ、うまいぜ」
 シャオロンはニヤニヤしながら料理を勧めた。なにしろ自信作であるらしいから当然のようにも思えるが、後ろではパイランが疲れたように額を押さえているところがいかにも怪しい。いったいなにを作ったのだろうか。
「……ふん、緑豆に……百合、それからカニだと? なんだ、変わった材料の取り合わせだな?」
「そりゃあそうだろう。なにせ特別料理だからなあ。名付けて『寒汗粥』だ。とりあえず食ってみるといい」
「……カンカン粥だと? ふざけた名前を付けおって」
 男はにやけたシャオロンを気にしながらも、目の前に出された粥に手を伸ばした。そして一口分をすすり、予想外のうまさだったのか目を見張る。
「ほう……これはなかなか……」
「うまいだろ?」
 敵と見なす男のそんな言葉に素直に頷けるはずもなく、男は曖昧に答えるだけだった。
「い、いや。うむ、まあまあ……だな」
 そんな答えを返しながらも、男は取り憑かれたように粥をすする。何とも説得力のない言葉だ。
「そうかいそうかい。まあいいから全部食っちまってくれよ。食器を持って帰るからさ」
 相変わらずにやけているシャオロンと、後ろの方からちらちらと様子をうかがうパイラン。どうにもこの二人の行動はけったいである。まあその理由もすぐにわかることだが。
「……ふう。食べてやったぞ。早く持って帰れ」
「ああ、そうするよ。で、言い忘れていたんだがな、三日後に開かれる料理大会での宣戦布告にも来たんだよ、実は」
 シャオロンの食器を受け取りながらの一言に、栄華楼の面々全員が声を上げた。
「なんだと、生意気な!」
「けっ、無駄なことを」
「……調子づきやがって」
 色々な野次、罵声が飛び交う中、シャオロン達は上手く逃げ道を確保しておく。そして更に一言。
「悪いがお前達に優勝はやらねえぜ。俺達南鱗酒家が優勝して、お前達の悪行を皇帝陛下に直訴してやるから覚悟しておけよ」
 いきり立って襲いかかろうとする栄華楼のヤクザ料理人達などには目もくれず、ただ店主のみに向かってもう一言。
「それからな、今の料理は井戸に毒を入れてくれた礼と、薪を水浸しにしてくれた礼だ。まあ毒は入っちゃいないが、身体は大事にするんだぞ」
 嬉しそうにシャオロンがそう言うと同時に、パイランがその身体を力任せに引っ張って駆けだした。店の奥の方で男達が色々なものを手に持ち始めたのを確認したからである。
「待て! そうおめおめと帰すわけが……」
 そう言う男達を尻目に、二人は手際よく逃げ帰ったのだった。さすがは帝都の兵を相手にしても遅れをとらない二人である。逃げることには慣れている。
 そして残された栄華楼の店主は……。
「……な、なんだ……急に身体が……」
 店主はガクガクと震えだした身体を両手で抱き込むようにしてそう呟いた。もちろん慌てたのはとりまきの料理人達である。あんなことを言ってはいたが、本当は毒が混ぜ込まれていたのでは、と焦るばかりであった。
 そんな中、奥から一人の男が姿を見せた。随分と遅い出勤ではあるが、それがこの男の普通なのだ。男の名はテンリョウ。そう、以前シャオロンに助けられた男である。そして今は、この栄華楼の雇われ料理人であった。今度の料理大会に向けて雇われた、一応の凄腕料理人らしい。
「いったいなんの騒ぎですかな?」
「おお、テンリョウか。実はな、この料理を食べたら急に寒気が……」
 店主が今食べた料理の詳細を話すと、テンリョウは一度驚いたような表情になり、そしていきなり大笑いし始めた。
「はっはっは、そんなものを食べさせられては寒気もするでしょうなぁ。それはおそらく食医の仕業でしょう」
「……食医?」
「我が国の料理は医食同源と言われているように、医学も取り入れられているものです。今あなたの食されたこの四種の食材も、みな一つの意味をなしているのです」
「一つの……意味?」
「左様です。この四つの食材に宿っていると言われている効能は『寒または涼』です。すなわち、身体を冷やす性質があるのです。それをこれだけ、しかも濃厚に煮出されたものを食せば、寒気がして当たり前。下手をすれば死に至っていたかも知れませんな。まあどうやら材料の量や煮出し方から見ると、相当に手慣れた者のようですから、確信犯でしょうな。恐らく」
 テンリョウはそう言って大笑いした。自分の雇い主に対してあんまりだとも思うのだが、どうやらそんなことは微塵も考えないらしい。
「……テンリョウ、奴らはわしのことを、噂になっている料理大会で優勝して皇帝に直訴すると言いおった。お前の力でそれを阻止できると思うか?」
「……ほう、それは面白い。やれるものならばやってもらいたいものですな。この一級料理人『大皿料理のテンリョウ』に勝てると言うのならば、ですがねえ」
 そしてテンリョウは笑い始めた。
 その周囲では、店主や他の料理人達が、まるで神々しいものでも見るような顔をしていた。



「……で、では栄華楼と事を構えてきたというのか?」
 コウリンの呆気にとられたような一言。
「いやぁ、成り行きでそうなっちまったんだよ。別に悪気はなかったんだぜ。なあパイラン?」
「あれで悪気がなかったと言うのなら、世の中の大半の悪人達が口を揃えて同じ事を言ってもおかしくはないがな」
 イスに座ってお茶をすすりながらあっさりと言い放つパイラン。これではシャオロンの思惑通りには行かない。当然過去のものとは言え、師匠の雷がまともに落ちる。
「この……大馬鹿者がぁっ! これ以上厄介事を増やすでないわっ!」
 これにはさすがのシャオロンも小さくなってしまった。何年経っても師は師であるらしい。そんな光景を、パイランやヘキレイは苦笑しながら眺めている。
「ようやく正々堂々と栄華楼を倒せると言うときに、なにを考えてそんなことをしたと言うかぁっ!」
「いや、まあ話せば長くなるんだが……あれだよ、ほら、魔が差したってやつだ」
「なにをいけしゃあしゃあと! このコウリン、病が完治したからには許してはおかん!」
 つい先日までの病弱な老人はどこへやら、腕まくりをしてシャオロンに襲いかかる。
「だあぁぁぁっ! 親父さんっ、落ち着けって!」
「ええい、問答無用!」
 そんなこんなで追いかけっこはしばし続いた。そしてその間中、パイランは一人、茶をすすっているだけだった。





 その日の営業も終わりコウリン一家全員が集まった頃、シャオロンとパイランは街へ出ていた。三日後の料理大会に向けて、色々な名店を偵察するためである。中でも特に目を引いたのは、花を使った美しい料理で有名な『花港館』、本格点心の名店『太点楼』、そして卵料理の老舗『鎮静酒家』。この三店である。
「で、その気になる三店のどこから行こうと言うのだ?」
「まあどこでもいいんだがな、どこから行きたいよ、お前は?」
「そうだな……個人的には花料理というのが気になる。これでも一応のところは女だからな」
 一応の、というところを強調しながらのパイランの言葉に、シャオロンは大笑いしながら道を行く。その後で道ばたに倒れ込むことになったのだが。
「……で、ここか、親父?」
「……ああ。あまりの頭痛に俺の頭が狂ってなきゃあな」
 シャオロンは背後からの回し蹴りでズキズキと痛む頭を押さえながら、攻撃をしてきた主に言い返した。が、パイランの一睨みで力無くうつむいてしまう。
 とりあえず二人は花港館に入ると、まず中の光景に驚いた。中は目につくところすべてが花で飾られていて、いかにも女性や子供の好みそうな雰囲気である。現に雰囲気だけでなく、客足もそういった系統が多いらしい。特に若い女性や子供連れが多いのにも頷ける。
「へえ、これなら確かに若い女には受けがいいだろうな。こういう雰囲気は女が好むもんだからな」
「……それは、普通の女性ならば、と言いたいのか?」
「いやいや、そんなこと、これっぽっちも、考えてねえよ」
 どことなく強調しているようなシャオロンに不振な目を向けたパイランは、危うく出そうになった手を料理に遮られることになった。
「お待たせしました。連玉花と魚花点心で御座います」
 出されたのは、丸く揚げられた球を花びらで飾られた物と、きれいな花びらが色々なところに練り混まれた点心などだった。
「ほう、これはどうやらナマズの身のようだな。薄く切ったナマズの身でシイタケと肉のタネを包んで揚げたものだな。生臭い沼魚の匂いを、衣に混ぜ込まれた菊の花びらがうまく消している。見事な料理だ」
「なるほどな。臭い消しと装飾の両方を花びらでやってるのか。これなら見た目にも華やかで、食欲もそそられるな」
 二人はゆっくりと味わいながら連玉花を平らげてしまった。なかなかの味わいに、つい箸が進んでしまったようだ。
「で、こっちの……魚花点心って言ったか?」
「ああ。どうやらこの店、魚と花を合わせるのが得意なようだな」
 その皿の上には、餃子、焼売、春巻、そして饅頭が乗せられている。中でも饅頭は淡い桃色に染まっていて、繊細な女心を感じさえする。
「これは可愛らしい饅頭だな。どうやら料理したのは女性のようだ」
「う〜ん、とてもお前にゃあ思いつかねえ料理だろうな」
 自然に漏らしたその一言で、シャオロンは背筋を凍らせた。目の前のパイランからとんでもない殺気を感じた気がしたのだ。余計な一言だったと後悔しても、もはや後の祭りである。シャオロンのスネに、もの凄い激痛が走る。パイランが机の下で蹴っ飛ばしてきたのだ。
「くうっ!」
 シャオロンは小さく悲鳴を上げ、身体を小刻みに震わせながらだんだんと涙目になり始めた。そんなシャオロンを見て、パイランは小悪魔的な笑みを浮かべた。異様に色気のある、それでいて背筋が寒くなる笑みだ。
「……食事は静かにするものだぞ、親父」
「……くそ、覚えとけよ、パイラン」
「覚えておくとも。いつでも相手になるつもりだが?」
 静かに食事をしないのはお互い様なのだが、パイランは完全に勝ち誇った顔をしている。シャオロンも力ではかなわないのであえて反抗するのは諦めたようだ。
「ま……まあとりあえず、ここは大体わかったな。次の店に行くとするか?」
「そうしよう。次は……太点楼が近いようだな」
 二人は店を後にすると、次に点心の名店太点楼へと向かう。その道すがら、花港館の料理の批評をする。
「で、どうだった? あの花港館の料理は?」
「お? そうだな……まあ味は俺のほうが上だが、なにより見た目で気を惹かれちまうからな。審査方法によっては確かに脅威だな」
「まあ一般審査員が多くなるならば確かに脅威だとは思うが、心配しなくても審査をするのは皇帝陛下だ。大して気にすることもないだろう」
「まあそうだな。じゃあ特に気にかける必要もねえな」
 こうして花港館は、二人に気にも留められないこととなってしまった。
 そして太点楼。
 太点楼の点心は、確かに噂されるほどのものではあった。
「ふうん、焼餅、包子、饅頭、銅鑼焼。これだけの種類をこなすのは大変なんだろうな、きっと」
「だが親父、味はお粗末なものだぞ。これでよく有力だなどと言えたものだ」
 感心しているシャオロンとは裏腹に、パイランは辛辣な評価を下した。まあ店員の耳に入らなかったのは唯一の救いだろう。
「まあそう言うなって。どこの店も材料を買い占められてるのは同じなんだぜ? これだけやってりゃあ大したもんだろうが」
「……まあそう言われるとそうかも知れないな。少し言い過ぎたようだ」
「そうそう。ほら、饅頭でも食って機嫌直せよ」
 二人が頼んだものは牛肉餡餅(牛肉入り餅)、叉焼酥(焼き豚パイ)、寿桃(桃マンジュウ)、芝麻球(胡麻だんご)など、点心の中でも甘い甜点心から塩味の鹹点心まで幅広い。こうやって味の偏りがないかを確認しているのだった。
「種類は多いな、確かに。ここはもう完全に点心専門店になっているから力の入れ方が段違いだ」
「ああ。でもよぉ、この店が出場したとしてだ、麺料理とかいう課題だったらどうするんだろうな? 点心しか作れねえんじゃどうしようもねえと思わねえか?」
 シャオロンは芝麻球を口に放り込みながら、そんな疑問を口にした。確かにこの店は点心以外の品、つまり麺料理や米飯料理などをまったく置いていない。そこが気になったようだ。
「まあそれは気になるが、うちの店のことではないのだから忘れた方がいいのではないか? わからないことを気にしても始まらないだろう」
「……まあそれはそれとして、点心勝負なんかになるとこの店は厄介だな? 自慢じゃねえが俺の作れる点心なんてこんなに種類ねえからな」
「それは私がなんとかする。帝都にいたときは私が点心を任されていたのを忘れているのではないか? 点心は私の見せ場だぞ」
 パイランが眼を細めて口元をほころばせた。その眼はどこか、湧き出てくる自信を感じさせた。
「しかしこの寿桃も甘さがちょうどいいじゃねえか。他の点心の塩味もちょうどいいし、良い舌を持ってるみたいだな、この店の料理人は」
「それは認める。だがまあ私に言わせれば塩がほんの耳掻き一つ分ほど多いな。これでは水分を取りすぎて水太りしてしまうぞ」
「違うな。そいつはこの前までの味付けだ。今の、普通の町人相手の商売ならこれくらいの塩加減でちょうどいい。なにしろ帝都で俺達の料理を食ってたような連中は、身体を動かさねぇからな。塩分なんてそれほど摂る必要はねぇ。だが町人は違う。年がら年中忙しく動き回って、身体が塩分を欲しがっている。だからほんの少量塩分を強めにしてやるんだよ」
 シャオロンは久々に娘の揚げ足を取れて満面の笑みを浮かべた。パイランも無表情でお茶を啜っていたが、それには納得した様子だった。
「……まあ親父の言うことにも一理あるな。覚えておこう」
 しかしながら、やはり負けず嫌いな娘であった。
 そして最後に向かうのは鎮静酒家である。ここは卵料理の老舗で、前皇帝も訪れたことのある店として有名だった。
 シャオロン達が一番危険視していたのがこの店だった。なにしろ、かの皇帝ですら自ら足を運んだと逸話の残る店である。そんなことは滅多にないだけに、危険視するしかなかったのだ。
「卵料理か。この、皇帝も注文したって言う三不粘(ういろう)、確か満漢全席にものったことがあったな?」
 シャオロンの言葉に、点心の専門家パイランが首を横に振る。
「まあこれは厳密に言うと卵料理ではないんだがな。緑豆粉と卵と油と砂糖。これらを弱火で火にかけながら、一定の割合で混ぜ合わせてやる。そうするとできるものだ。どちらかと言うと卵ではなく緑豆粉で作る甜点心だな」
「はあぁ〜、よくもまあそんだけ覚えてるもんだな。そう言われてみりゃあ思い出すが、言われるまでぜんぜん思い出せなかったぜ?」
「だからさっきから言っているではないか。私は点心の専門家だ。覚えていてなにがおかしい?」
「はあ……まあ、な」
 そっけない声を出すシャオロン。だがまあ言われてみればその通りだ。自分にだって専門の知識があることを考えればなにもおかしなことではない。それに気付かないほどもうろくしたかと、シャオロンは肩を落としてしまう。
 さてパイランはと言うとそんなシャオロンには目もくれず、次に出てきた芙蓉蟹(かに玉)の味見をしていた。
「材料は卵、カニ肉、ネギ、シイタケ、タケノコだな。まあ一般的なところだ。だが……」
「卵そのものの味が違いすぎる、だろ?」
「ああ。やはりこの卵はうますぎると思ったか、親父?」
 パイランは芙蓉蟹を箸で解体しながら言った。なにやら他にも気になることがあるらしい。
「この卵は恐らく『烏骨鶏』の卵だな。さっき値段を見たんだけどな、この店の料理はえらく高い。つまり、全部の品を烏骨鶏の卵で作ってるってことだろうな」
 烏骨鶏というのは全身真っ黒の鶏である。そして普通の鶏よりも高価で、滋養に富むと言われている有名かつ希少な食材だ。
「なるほど、烏骨鶏か。それならこの卵のうまさも納得できるな。それからもう一つ、上にかかっているあんの醤油。これは……特別製のようだな。秘伝の味、と言ったところだろう」
「はあ……お前もそんなところまで気付くようになったとはな。父さん嬉しくって涙が出るぜ」
 シャオロンはそう言って目元を拭う。しかしこのくらいのことがわからなくては、前の仕事場ではやっていけなかったのだから当然のこととも言える。
「まあ誉め言葉と受け取っておこう。で、さすがにこの店は要注意と見て良いようだな? この店は料理も点心も力の入れ具合が丁度いい。一番の注意が必要だろうな」
「まあ一番の要注意は栄華楼だがな。まあさすがのあの店も烏骨鶏は使ってねえが、総合的な材料の質ならあそこが一番だ。 ……しかしこの店みてえに市場を通さねえで直接仕入れをすれば材料もそろうもんなんだな」
「ああ。だがまあ栄華楼がなくなればそんな心配もいらない」
 パイランはそう言って卵の点心藍苺酥(卵とブルーベリーの菓子)を口へと放り込んだ。



 南鱗酒家へと帰り着いた二人は、さっそく今日の成果をコウリンに話して聴かせた。コウリンも二人の話を熱心に聞き、その情報の正確さに驚かされた。今までに自分が感じていたことと、まったく同じ感想を二人が抱いていたからだ。
「……なるほど、やはり用心すべきは鎮静酒家であったか。で、大会に出るのは良いとして、予選の内容が発表になったのは聞いたかな?」
「いや、まだ聞いてませんよ。初耳だよな、パイラン?」
「相変わらずなにも聞いていない男だな、親父は。帰り道であれだけ騒ぎになっていただろうが。課題は嬉しいことに点心だそうだ。まあ私の出番だな」
 パイランが腕組みをしたまま胸を張る。形良い、大きな胸が一段と張り出される。なかなか良い眺めではあるが、その無愛想な表情とはまったく釣り合っていない。
「そうか、点心か。だったら俺は寝てても良さそうだな。なんならパイラン、予選はお前一人で行くか?」
「まったくつれない親父だな。美人の娘が暴漢にでも襲われたらどうするんだ?」
「う〜ん、そうだな……まあ襲った方を可愛そうに思うんじゃねぇか? なにしろ俺の娘は手加減を知らねえからな」
 いけしゃあしゃあとそんなことを言うシャオロン。
「……まあ親父が行きたくないと言うなら無理にとは言わないが、それで万が一私が負けても文句は言わせないぞ? 来ない分際で文句など言わせないからな」
「うっ……わかったよ、行けばいいんだろうが。ったく、親を脅迫するなんてとんでもねえ奴だ」
「だから、行きたくないなら来なくて良いと言っている」
「わかったよ、俺が行きてえんだ! これでいいか!」
「ふむ、まあいいだろう。なら親父にも存分に働いてもらおうか」
 その後二人は大会に向けての密談を始めた。課題の点心に対して、二人はいったいどんな料理を見せてくれるのか。