旅の料理人 終話 そして旅の料理人
作:みのやん




終話 そして旅の料理人





「聞いてるのか、親父?」
 パイランの声が、考え事をしていたシャオロンの目を覚まさせた。慌てて娘の言葉に返事をするシャオロン。
「おお? いや、聞いてなかった。すまん」
「……そう正直に言われると、怒る気にもなれないな。 ……だが、まあいいだろう。それよりもだ、次に目指す街なんだが……」
「ああ、ティエンパイの港町だな。あそこのカニ料理、中でも特に『八宝蟹飯(五目カニおこわ)』と『沙律蟹肉包(カニ肉のマヨネーズ揚げ)』がえらくうまいらしい」
 いかにも舌なめずりをしそうな顔でそう語るシャオロンに、パイランもいくらか期待しだしたのか、足取りが軽くなったようにも見える。二人はもうすぐ港町、というところまで来ていて、今超えている丘の先には小さな村が一つあるので、今日はそこへ泊まろうと思っていた。



 二人は旅の料理人である。父娘二人で料理人であり、諸国を旅して回るただの流浪料理人なのだ。 ……少なくとも今では。
 二人は丘を、息を切らせながらも越え、ようやく目指す小村を眼で確認した。その喜びと言ったらもう、言葉ではあらわしきれないものだろう。まあ二人が出した料理を食べた客に『うまかった』と言われたときのようなものだろうか。
 とにかく二人は丘を越え、村へとたどり着いた。
 村は本当に小さく、人の数も少なくはあるのだが、そんなことを微塵も感じさせない活気があった。近くの川で獲れる魚を扱う露店、自分の畑で獲れる野菜を置く商店、小さな村ながら、色々なものがあった。
「凄ぇもんだな、小さな村だってのに。こんだけ活気に溢れてるところなんぞ、帝都でもそうそう多くはねえよな?」
「そうだな。帝都は人が多いだけで、ここほど『生きている人間の力強さ』を感じない。なあなあで生きているのだろう」
「はぁ、大したもんだよ、こりゃあ」
 二人はいつもの癖でそういった食材店を眺めた後、宿を取りに宿場の方へ向かう。村の宿は二つあり、一つは大きく、もう一つはかなり小さい。シャオロン達は当然のように小さい宿へと向かう。手持ちの金が、随分と少ないためである。
「いらっしゃいませ。あちらの宿はもういっぱいでしたでしょう?」
 宿の主はにこやかな、商売用とは違う、本当の笑顔で声をかけてきた。
「いや、向こうには行ってねえんだ。今はそんなに混む時期なのかい?」
「それが、なんでも帝にお仕えなさっているお偉い方がいらしているらしくて。向こうはえらい騒ぎらしいですよ」
 シャオロンとパイランは顔を見合わせ、ほっと胸をなで下ろしたような顔になる。もう逃げ回っているわけでもないのに、条件反射が身に染みついてしまったらしい。
「……どうなさいました?」
「あ、いや、なんでもねぇさ。とりあえず部屋を頼む」
「かしこまりました」
 二人はいつも一つの部屋を取る。普通の、これくらいの歳の娘を持つ親子ならば二つの部屋を取るのかも知れないが、当事者達にはまったくそんな意識はない。間違いが起きるわけでも、万が一起きかけたとしても、成功するわけなどないのだから。
 とにかく、部屋へ通された二人は、とりあえず荷物を置いてくつろいだ。
「ふう、久々の暖かい寝床だな、親父」
「そうか、ひょっとすると女のお前にゃあ辛い旅かもしれねえな」
「そんなことはない。私は充分すぎるほど旅を楽しんでいるぞ?」
 なぜそんなことを言うのかと、首を傾げるパイラン。どうも最近性格が円くなってきたようにも見える。
「なあ、パイラン。俺達ももう天帝食医じゃねぇわけだし……旅費もかなり底をついてきた。だからよ、ここらで一発旅費でもガボ〜ンと稼がねえか?」
「……妙な表現をするな、親父?」
「まあまあ。それよりも、だ、お前にしか稼げない方法を見つけたんだよ。おまけに手っ取り早く稼げる」
 シャオロンの言いたいことは、すでに娘に伝わっていた。目つき、身振り、そして口調。パイランは生まれてこのかた、ずっとシャオロンを見続けているのだ。わからないはずがない。
「親父、いくら旅費を稼ぐためとは言え、水商売なんぞをする気はないからな」
 あっけなく撃沈されたシャオロンである。
「な、なんでわかりやがった!」
「ふん、親父の嫌らしい目つきなど見慣れている。だいたいどんなことを考えているかもおのずとわかるというものだ」
 シャオロンは肩を落として寝床にごろりと転がった。どこかすねている子供のようにも見えるシャオロンは、パイランの目から見るとえらく不気味なものだった。
「まったく……天然馬鹿親父だな」
 パイランはため息をつきながら一言呟き、自らは夜着に着替え始めた。





 朝。その日はあいにくの大雨で、大風で、おまけに川が氾濫していた。最悪の日の到来に、パイランは部屋の窓から外を眺めてため息をついていた。
「まったく、いつもながらこの時期は嫌なものだな。まあ水不足で悩むよりはましかもしれないが……」
 パイランは自らの長い髪をふわっとかき上げると、もう一度ため息をついて隣の寝台へと目を移した。そこには当然父の姿がある。
(……親父の奴、いったいいつまでやもめ暮らしを続けるつもりなのだか。いい加減再婚でも考えればいいだろうが……)
 自分のことなど棚の上、いや天井裏くらいまで上げておいてよく言うものだ。が、その悩みもあながち的はずれでもない。しかもパイランはすでに、シャオロンの老後のことまで考えているのだった。
(……こうなったら密かに兄貴と手を組む必要があるか?)
 パイランが突拍子もないことを考えていると、シャオロンの動く気配があった。どうやら目を覚ましたらしい。
「ん……うん? なんだぁ、お前起きてたのか?」
「今起きたところだ。親父こそこんな日に早起きする必要はない。外は大雨だぞ? 旅の続きは雨が去ってからだ」
「大雨だぁ? なんだよ、せっかく港町まで後二日ってところまで来てんのにな……」
 シャオロンは大あくびをしながら身体を起こす。どうやら旅の疲れが残っているのか、しきりに身体をほぐしている。
 そんなシャオロンを見ると、パイランはよけいに再婚のことを考える。こんな時に頼れる妻がいるのといないのでは大違いだろう、と。
「……ん? なんだよ、父親の顔がそんなに珍しいか? あんまり真剣に見られると……照れるぞ?」
 シャオロンのいたって真剣な表情に、パイランの方が赤くなってうろたえてしまった。
「な、なにを言ってる! 誰が親父のことをそんな目で……」
「あ〜、わかってるさ。冗談だ」
 シャオロンは寝台から降り、部屋の脇の洗面器で顔を洗う。そして顔を拭く手ぬぐいを探して彷徨う手を見ると、パイランがさっと手ぬぐいを持たせてやる。このあたりは長年つきあってきただけに、ぴたりと息が合っている。
「ああ……すまねぇな」
 シャオロンはようやくすっきりとした顔になり、そして大きく伸びをした。寝起きのなまった身体中に、新しい血が流れ込んでいくのが手に取るようにわかる。そして頬を一度叩くと、愛娘に向かって一声かける。
「おし! パイラン、朝飯食おうぜ!」
「まったく。親父の頭では食べることが第一優先なのだな」
 別に誉めたわけではなく、どちらかと言うと嫌味だったのだが、シャオロンは一瞬考えたあげく、笑顔で嬉しそうに答えた。
「おう! 当然だろうが!」
 パイランはそんな父親に、もはや呆れることしかできなかった。



 宿の一階は食堂兼酒場である。これは一般的な宿の造りで、だいたいがこんな構造だ。その食堂が、今や避難所に化していようとは、さすがの二人も夢にも思わなかっただろう。
「……なんだ、すげぇ人だな?」
「どうやら川の氾濫で避難してきた村人のようだな。ここは高台だから被害はほとんどないが、さっき窓から見た感じでは、下の方は凄いことになっているぞ?」
「はあ……するとひょっとして……」
 シャオロンは突如として不安顔になった。なにかを危惧しているようだが、パイランにはそれがわからない。と、シャオロンが店主に向かって話しかける。そしてその危惧が当たっていたことを嫌と言うほど思い知らされた。
「おう店主、ひょっとしたら……食料が足りねぇんじゃねえか?」
「あ、お客さん。いやね、実はそれで困ってるんですよ。まさかこんなことになるとは思ってませんで、最低限の食材しか仕入れてなかったんですよ。今年は台風が例年より半月ほど早くて、とても腹一杯の食事っていうのは……」
「ああ、気にしないでくれよ。俺達よりも、村人を優先させてかまわねぇぜ。なにせ俺達は余所者だ。おこぼれにでもあずかれりゃあいいよ」
 パイランはシャオロンの隣で目を細めた。それは、こういう風に気の良く利く父親の一面が無性に好きだったからだ。たとえ相手が誰であろうと、悪人以外には決して厳しい顔は見せない。まあ時と場合によるのだが。そして自分の方に顔を向けた父に気付き、パイランは肯定の意を見せた。
「……なあ店主、俺達は旅の料理人なんだが、なんだったら手伝おうか? 材料が少なくたってこの大雨だ。水は限りなく使える。そんだったらなにか鍋とか作れば結構腹も膨れるだろう?」
「はあ、でもねぇ……もう残ってる材料と言えば、小麦の粉、ネギ、それから……あ、鯉が三匹ほどいますよ。旅の方がお土産にってくれたもんで……」
「鯉か……んなもんどうやって大人数で食うんだ?」
 さすがのシャオロンもこれには頭を悩ませているようだ。それもそのはず、シャオロンやパイランは元天帝食医。皇帝ただ一人のために腕を振るう料理人だったのだ。しかしそのせいで、大人数を相手とする料理というのには慣れていない。今回の場合、それがモロに響いていた。
「……親父、良い考えがあるぞ? ちょっと耳を貸せ」
「ん? どれどれ……」
 料理人親子の悪巧みが始まった。周囲を取り囲むようにして座り込んでいる避難民も気になってはいるようだったが、二人はあえて聞こえないように話をする。そうすることで、料理が出てきたときの喜びがひときわ大きなものになると知っていたのだ。
「……お! なかなか冴えてるじゃねえか、パイラン。よし、それでいこう!」
「そうと決まれば調味料をとってくる。親父は厨房の用意をしていてくれ」
「おうさ!」
 そして二人の料理は始まった。元天帝食医の腕の見せ所である。



 まず、シャオロンは鯉を三枚に下ろす。片身、骨、片身と分けられた鯉は、いささか不満げな目でシャオロンを見ていた。
 その身の方を包丁で細かく叩きつぶし、ネギのみじん切り、ショウガのみじん切り、そして旅の商人から買っておいた卵を混ぜてすりつぶす。骨の方は鍋の中の湯に入れてダシをとる。その鍋にはネギを荒く切ったものとショウガの塊も浮かべて、川魚独特の臭みをとることも忘れない。
 そしてパイランは、相変わらず力仕事をしていた。小麦粉にネギのみじん切りを混ぜ、力任せにこねている。いつもならば麺にでもするところだが、どうやら今回は違うように見える。
 鯉の身をすりつぶし終えると鍋のスープも良く出ており、いよいよ仕上げにかかろうというところだった。
「パイラン、そっちは?」
「いつでもいい。もう仕上げるか?」
「ああ。腹を空かせてるのは俺も同じなんでな。早く食べてぇんだ」
 実に食欲旺盛なところを見せたシャオロンは、にかっと笑ってすりつぶした鯉の身、鯉のつみれを手に取った。そして小さく丸めながら鍋の中に放り込んでいく。同じようにパイランも小麦粉の塊から小さくしたものを鍋に放り込む。そしてどんどん増えていく鍋の中身。やがてそれは、避難民十五人の胃袋の空き量よりも多い鍋となった。
「おし! 名付けて『川鮮火鍋(川の幸の鍋すいとん風)』だ。さあ、腹を減らしてる客に届けようぜ!」
 嬉しそうに料理を運ぶシャオロンに、パイランはただ苦笑するしかなかった。こんな笑顔を見せられては、再婚の話など出きるはずもない。なにしろ今が一番幸せそうなのだ。おそらく死んだ母以外の女性などでは、料理に勝るほどの魅力を感じないということだろう。
 パイランはそれほどまでに愛されていた母を羨ましく思い、そして自分も誰かにそれほど愛してもらえるのだろうかと不安になった。が、そんな考えは一瞬で捨て去る。いつもの自分らしくない自分に気付き、パイランは無性におかしくなった。
(私にもえらく時期遅れの思春期というものが来たかな?)
 心の中で自分にそう皮肉ったパイランは、とりあえず料理が食べ尽くされる危険を思い出して、厨房を飛び出し席へと向かった。





 照りつける太陽は、昨日の台風など嘘のようにも感じさせた。早朝から宿を出たシャオロンとパイランは、まっすぐに港町への街道をとぼとぼと歩いていた。
「……好評だったな、あのすいとん汁は?」
「ああ。戦の最中だと毎日のように食わされるんだが……なにもないときにはあれでも御馳走だな」
「……料理人は食べてくれた人間の笑顔で次の料理を作ろうと思うことを、改めてわかった気がする。あの避難してきた村人の笑顔で、私は料理人であることに誇りを持てた。また自分の料理で人々の笑顔を導けたらいいと思った」
「……ああ、俺もだよ。あの笑顔に勝てたのは……今まででもメイラン一人だけだった」
 シャオロンの、そう言ったときの懐かしそうな視線に、パイランはなぜか気恥ずかしくなる思いだった。再婚のことなどを考えていた自分が無性に恥ずかしくなったのだ。もうシャオロンの最愛の妻はいないのだ。たとえ誰と再婚してもその隙間が埋まるはずもない。同じほどの愛を与えられるはずもない。だから再婚しないのだ。
 パイランはそのことに気付き、無性に父親が愛らしく思えた。
「うわっ! なんだよ、パイラン! いきなり抱きつくんじゃねえ!」
「そう言うな。世界でただ一人、親父だけの特権だろうが?」
「なに言ってんだかな、お前は。そういうことは男を作って俺の前に連れてきて、その相手に抱きつきながら言うもんだ。相手を間違えてるぞ?」
「いいや、間違えたつもりはない」
 シャオロンは娘の行動に首を傾げながら、遙か前方にうっすらと見える港町を眺めた。



「こらぁ、パイラン! お前はどうしてそうやって先を急ぐんだよ? もう追っ手は来ねえんだからゆっくりでいいんだぞ?」
 村を出てしばらく、峠の途中でシャオロンが先を行くパイランに声をかけた。もうまさにヘトヘトな顔をしているシャオロンは、珍しく歳相応に見えてしまう。
「なにを言う、親父。私は親父のことを考えて急いでやっているのだぞ? 急がねば親父はすぐに歩けぬ老人同然だろうに?」
 パイランが生真面目な顔でそう言うと、シャオロンはがっくりと肩から力を抜いてしまう。うなだれたシャオロンは右手でぴしゃりと顔を覆った。
「なんでぇなんでぇ、まるで俺が年寄りみてぇに聞こえるじゃねえか?」
「実際に年寄りなのだから仕方がないだろう? なにしろ今年三十九、来年は四十になるのだろうが? そんな男のどこが若い?」
 年寄りには極めて情けのない台詞を、まったく心遣いなしにパイランが叫ぶ。まあこれがいつものパイランなのだ。今さら文句を言っても始まらないだろう。
「しかしなぁ、お前チャンナンを出てからずっと元気じゃねえか? そんなに天帝食医の役から逃れたのが嬉しいのか?」
「……そうだな。肩の荷がおりた気がする。だがこれからはもっと大きい夢に向かって行かねばならない。苦労するのはこれからなのだろうな?」
「ああ、そうだとも。これは俺とお前が選んだ道だ。後悔なんてするんじゃねえぞ?」
 シャオロンの言葉にパイランはさっと振り向き、そしてふと口元を緩めて見せた。
「当然だ。親父に言われるまでもない」
 強情な娘と、優しい父親の旅はまだ終わらない。これまでが序幕だとしたら、これからが本幕なのだ。