旅の料理人2――朱雀迷走―― 序話
作:みのやん





 海に囲まれた広大な大陸を派する、大帝国がある。世界全体から見れば珍しいことに、四季が平均的に訪れるその土地は、ありとあらゆる恵みに溢れている。豊富な食材も、その一つだ。
 さて、その帝国のとある年のこと。それまでの常識では考えられないような事件が起きた。その事件とは、帝国の最高権力者である皇帝に、正面切って逆らう者が現れたということである。その者とは、二人のしがない料理人。とはいえ、元は皇帝のために鍋を振るう、宮廷付きの料理人であった。しかしその二人は皇帝の制止も振り切り、自らの夢と、希望のために旅に出たのだ。
 そして話は、今日に至る……。




序話
 
 梅雨時をすぐそこに控える時分のこと。元天帝食医の二人、シャオロンとパイランは森がその領土のほとんどを占めるという渓林省へと入っていた。最後に立ち寄った、江南の都からは一月あまりの道程を必要とするが、山の幸が豊富な土地として、その筋では有名な地域である。無論、二人がここを訪れたのもその噂を聞きつけて、だということは言うまでもないだろう。そして相も変わらずの親子漫才も、当然健在である。
「うわっ、悪かった! 俺が悪かったのは認めるから勘弁してくれぇっ!」
 森の静寂を破って響くのはそう、シャオロンの悲鳴である。彼らを知っている者にとってはどうと言うこともないものではあるが、知らぬ者が聞いたら何かの事件だと勘違いしてしまう。そんな、本気の悲鳴である。が、その悲鳴も当然のこと、あの力自慢で加減を知らず、勇猛果敢で冷酷無情なパイランが眼前で仁王立ちをしていれば、たとえ情けない父親でなくともこんな悲鳴を上げてしまうことだろう。しかしここにいるのはその情けない父親である。まあ悲鳴が常人よりも、よりいっそう切羽詰まったものなのも、この父親ならば仕方のないことだろう。
「……なぜそうやって、何度も同じ事を言わせるのだ!」
 もはや国宝級かとも思えるような鋭い回し蹴りがシャオロンの頭上を、風切り音を伴って通過した。しかも、以前より遙かに鋭い音と速さ。そのうちカマイタチでも発生しそうなほどに。
「いや、だからな、俺だってよぉ、腹は減るわけだしな、なんとかさ、ここは一つ、非常に遺憾だとは思うが、こいつで勘弁してくれって」
 一息毎に、後ずさりしていくシャオロン。右手でパイランを牽制しながら(もっともその手は微妙に震えているが)、左手に持った乾し肉を差し出している。だがその枚数たるや、たったの一枚きりである。
「そのボケかけた頭では、私の作った大盛り五目焼きそばと、そのたかが一切れの乾し肉が同等だ、と?」
 ここへ来て冷たい笑みを見せるパイラン。だが、これこそが危険信号なのだ。こういうときのパイランは、それはもう容赦などという言葉は忘れている。いや、忘れた振りをして責める、責める、責める。三回繰り返しなほどに、責め立てる。骨折用の添え木や、包帯などを準備しておくべきである。
「いや、まあここは冷静に話し合いで解決……」
「出来るわけがない!」
 そして、シャオロンは身体を妙な方向にねじったまま、詰まるような声を残し、他界寸前まで足を進めることとなった。
 
 
 翌朝、パイランの目覚めは最悪のものだった。なにしろ腹が空腹でうずいている。それもこれも、昨夜シャオロンに夕食を盗み食いされたからである。焼きそばを皿に盛ったまま、手を洗いに川へ降りたのが失敗だった。あのシャオロンは、そんな十秒程度の間に山盛りの焼きそばを、きっかり二皿分食べきっていたのだ。帝国早食い王決定戦に出ても優勝しそうなほどに、素早い男である。ちなみに一応補足しておくと、そんな大会は存在しない。
「……あの馬鹿親父め、そろそろ反省しただろうか?」
 パイランは人権侵害などどこ吹く風で、昨晩シャオロンを簀巻きにして木にぶら下げておいたのを思い出した。ある意味親子の壁を越えるような行動だが、まったく罪悪感はわいてこない。なぜならば、この世で一番大切なのは「食事」と言い切る娘だからだ。それを侵害するような者は、たとえ親であろうが兄であろうが、容赦など一切しない。それが、パイランのやり方だ。
 そして朝のシャオロンはと言うと……逃亡していた。いったいどんな技を使って抜け出したのかは解らないが、とにかく消えていることに間違いはない。とは言え、パイランはそれほど動じているわけでもなさそうだった。一瞬笑みが浮かんだかと思うと、次の瞬間には左の方をビシッと指差していた。
「ふっ……そこにいるのはわかっているぞ、親父。隠れても無駄なのは、親父もよく知っているだろう。私はこれでも、気配を感じ取ることが出来るのだからな」
 さも勝ち誇ったように言うパイランだったが、相手側の反応はない。それこそ何分もそのままの姿勢で待ってみるが、それでも反応はなかった。
「……どうした親父、狐用の罠にでもはまったのか?」
 いささか不安顔になったパイランが、その方向へと進む。そしてそこにいたシャオロンは……全身血塗れで、地面に横たわっていた。更にその身体には、無数の切り傷が見受けられる。
「なっ!? ……親父! 親父!!」
 こういう場合、無理に動かすのはもっとも傷に悪い。それを知っているパイランは、シャオロンの頬を数回叩く。とは言え、いつもとは違って、極軽くだ。しかし、シャオロンは目を覚ます気配も見せない。これにはさすがのパイランも焦った。いつものシャオロンからは、まったく想像できないほど顔が蒼白になっている。服に染み渡っている血の量からすれば、それも充分納得いくものだったが、今のパイランにはそんな精神的余裕はない。逆にパイランの方が顔面を蒼白にしている。
「……いったい、何があったのだ……」
 パイランはふと気付いて耳をシャオロンの胸に当てた。と、限りなく弱々しくはなっているものの、心臓は動いていた。それを知った途端、パイランの手が素早く動く。傍らに投げ出されているシャオロンの荷物から分厚い布を取り出し、シャオロンの服をすべてはぎ取る。そしてパイランは、情け容赦ない何者かの襲撃を目の当たりにした。なにせ、傷を負っていない箇所というものがほとんど存在しないのだ。思わず目を覆いたくなるような有様ではあったが、パイランは懸命に傷の手当をする。これは一刻の猶予もない。そう悟ったからだ。が、こんな場所では満足な治療ができない。薬も足りない。とりあえずシャオロンの身体に血止めの布を巻き終えたパイランは、その身を抱え、更に二つの荷物袋を腕に引っかけ、走り出した。目と鼻の先にあるはずの、宿場町を目指して。
 
 
 省境を麓に見下ろす格好になっている峠の頂上に、その宿場町はあった。小さいながらも一通りの店は揃っている。宿、食品店、警備隊の詰め所、そして医者。パイランは猛然とした勢いでその医者へ駆け込んだ。小さな宿場町に似合った小さな診療所ではあるが、薬などは常備されている。いきなり重症患者を抱えた娘が飛び込んできたのに驚きながらも、医師はシャオロンの傷を手当してくれた。が、その目は稀に見る重体の患者に対する驚きを隠し切れていない。いかに旅人の多い時代とは言え、今回のシャオロンほどの重傷者など、通常は見ることもない。医師の方が震える手つきで、一つ一つの傷を治療していく。そして二刻程の治療の末、すべての傷の治療を終えた。が、医師とパイランの顔はまだ明るくなっていない。
「娘さん、こいつはいったい……どうしたことだね? 今時、山賊だってこんなに酷い真似はしないだろうに? これは明らかに……命を狙われたとしか思えんよ」
 ずり落ちそうな眼鏡を何度も直しながら、年輩の医師がパイランにそう告げる。が、詮索するつもりはないと言うように肩をすくめ、パイランにお茶を入れてくれる。
「突然飛び込むような真似をして、申し訳ありませんでした。で、父は助かるのでしょうか?」
 眼前の寝台で荒い息をしているシャオロンを見つめながら、パイランは細々とした声で聞いた。いつもとはまったく違う、何か重苦しい重圧に悩まされた声である。
「……ふむ、まあ後は父君の体力次第じゃな。しかし、見たところ身体に問題はない。いたって健康そのものだ。まあ多少出血が酷いのを差し引いても、一ヶ月くらいで動けるようにはなるじゃろう」
 パイランは老医師のその言葉で、ようやく安堵のため息をついた。しかし、シャオロンが早く目を覚ましてくれなくては見えぬ影を警戒し続けることになる。もしシャオロンが生きているということを知れば、襲った者たちはまた現れるだろうから。
 ともかく今のパイランに出来ることは、ただシャオロンの回復を祈ることだけだった。
 
 
 シャオロンが襲われてから、三日が過ぎた。ちなみにシャオロンの体力は凄まじく常人離れしているようで、昨日には目を覚ましていた。常人ならば五日は眠り続けるものだと、医師はしきりに感心したものだが。とにかく、これでシャオロンの化け物じみた体力も頷けるというものだろう。パイランの攻撃で環境に適応せざるを得なかった、とも言うのかも知れないが。ともかく、シャオロンは日に日に快復していた。
 今朝方からずっと寝台の横で椅子に座ったまま窓の外を眺めていたパイランが、ついに堪えきれなくなったのか、シャオロンに事情の説明を求めた。目を覚ました直後に聞かなかったのは、せめてもの思いやりというものである。
「親父、誰に襲われた?」
 なんとも単刀直入な一言である。飾らないその一言と、おまけに伝わってくる妙な殺意の波動。そんなものを感じ取っては、いくら自分に向けられた殺意ではないにしろ、はぐらかせられるシャオロンではなかった。が、巻き込まれる可能性もあると考えたのか、シャオロンはいちおう一言付け加えることにした。そんなものを気にするパイランではないと悟りながらも、である。
「あ〜、聞かねぇほうがいいぞ?」
「聞けば危険かも知れないが、聞かねば私の精神的な負担になる。だいたい兄貴になんと説明しろ、と? 旅を終えて責められるのは私だ。いいからさっさと説明しろ」
 そう言って冷たい視線をシャオロンに向けるパイラン。その目には、もはやシャオロンに対する心配などは宿っていない。あるのは復讐の炎だけだ。既に、こんなことをする奴らを放ってはおけないと心に決めていた。そして、顔にもそう出ている。よもや、シャオロンに断る勇気はなかった。
「……奴らは、おそらく真帝団の連中だ。だから、復讐なんて考えるんじゃねぇぞ。奴らの馬鹿さ加減は聞いたことあんだろうが」
「真帝団?」
 パイランも、民間人程度にはその言葉に聞き覚えがあった。
「……今の皇帝陛下を亡き者にし、大昔の皇帝の血族を新皇帝に据えようとしていると言う、時代錯誤のあれか?」
 まったくもって、歯に衣着せぬ娘である。これではいかに反国者達とは言え、信念に基づいて日々戦っている真帝団の方々に申し訳がない。
「……ま、まあ確かに時代錯誤と言えばそうだけどよぉ……でもな、奴らは本気だ。この俺に向かって『今の皇帝を亡き者にする気はないか?』ときたもんだ。奴ら、俺達が皇帝陛下に不満を持って帝都を飛び出したと思ってやがる。まったく、いい迷惑な話だぜ」
 全身包帯だらけのシャオロンが、肩をすくめてそう言った。シャオロン達は、今の皇帝に不満があって天帝食医を辞任したわけではない。むしろ、あの料理勝負で辞任を許可してくれたことを感謝しているほどなのだ。そこのところを、真帝団の面々はわかっていないと言う。パイランの方もシャオロンといたって同感であるらしく、一度頷いてから言葉を続けた。
「そうだな。感謝こそしているというのに。まったく、頭の悪い連中だ。そんなことだから人が集まらない。もう少し、せめて百単位の人間でも集められるような宣伝文句でも考えて見ろ」
 相も変わらずの辛辣な言葉だ。だがまあ確かに真帝団という者たちは、百に満たない少人数という噂である。あくまで真偽のほどはわからないが、現皇帝の政治の元、民が苦しんでいるというわけでもないのにどうして大人数が不満を持つというのか。
「……とにかく奴ら、なんの躊躇いもなしに人を殺す連中だって事は、俺自身そういう目に遭ってみてよくわかった。あんな奴らに、誰が力なんて貸すかってんだ」
「当然だ。誰がそんな、勝ち目のない戦いに関与するものか。 ……ところで、一応皇帝陛下にお伝えしておいた方が良さそうだな。兄貴に手紙でも書いておくか?」
「……そうだな。俺が襲われた件と、奴らが堂々と動き回ってるって事、それから……何か美味いもんでも持って見舞いに来いって書いとけよ」
 そう言うシャオロンの顔は、とても怪我人とは思えないような晴れ晴れとしたものだった。