旅の料理人2――朱雀迷走―― 話の壱
作:みのやん





話の壱 再会は絶望と共に
 
 
 帝国に、夏の準備とも言える時期、梅雨が訪れた。この時期に旅をするものなど滅多にいるものではない。通り雨にやられ、身体を壊す者も少なくないからだ。現に、あの無鉄砲なシャオロン親子ですら、この時期には既に港町へ入って梅雨をやり過ごす予定だったのだ。しかし、状況はものの見事に変わってしまった。親子の要であるはずのシャオロンは今、重傷で入院中である。こんなことで旅を続けられるはずもない。当然、梅雨はこの宿場町で越すこととなった。そしてパイランの方はと言うと、今は町の食堂で腕を振るう毎日だった。
 
 
 ようやく梅雨も明けようかという雨のない日のこと。一人の若者がその宿場町、パイランの働く食堂を訪れた。母親譲りの薄い茶色がかった髪は肩胛骨の辺りまで降ろされており、ほっそりとした貴公子然とした体躯。遙か西の国から渡ってくる美男子達と比べても、まるで遜色がない。東洋的なシャオロンなどと比べると、随分雰囲気が違う。だがなよなよしたところは見あたらず、しっかりとした光を瞳に宿している。この若者の名は虎爪(コソウ)。シャオロンの息子でありパイランの兄にあたる人物だった。
 コソウは食堂の入り口で、ようやく辿り着いたその食堂を、さも懐かしそうな目で見上げていた。
「……ここが、パイランの働いている店なのか……」
 まさに感極まるような思いにコソウは一度軽い身震いをすると、大きく息を吸い、吐いた。吐き出した息は、さながら空を行く雲のように白い。夏を目前に控えるとは言え、旅装束を着たコソウですらも、震えを覚えるような寒い明け方であった。
 コソウはしばし立ち尽くしたあと、意を決したように目の前の扉を押す。そして中には……過去、長きに渡って見慣れたはずの顔が、そこにはあった。そう、たった一人の愛する妹パイランが、そこにはいた。
「……なんだ、兄貴か。随分と遅いご到着だな。せっかく見舞いに来たのだろうが、親父はもう退院したぞ」
 久しぶりに会う妹の一言は、そんな冷たい言葉だった。しかしコソウはそれにがっくりとするわけでもなく、逆に安堵すらする思いだった。そう、パイランが自分の知っていた頃と変わらないことに、だ。
「久しぶりだね、パイラン。元気にしていたかい?」
「見ての通りだ。親父もようやく医者から解放されて、二日前から仕事に勤しんでいる。 ……まあ年相応に老け込んではきたがな」
 そう言って軽い笑顔を見せるパイラン。
 コソウは一瞬驚いたような顔になり、まさかあの父がという思いに駆られた。そしてまだ静けさの残る店内を見回して厨房へと目をやると、そこには自分の覚えている姿と同じ、激しい動きで鍋を振るうシャオロンの姿が見えた。それを見た途端、コソウは思わず言葉を放つ自分を抑えきれなくなった。
「父さん!」
 久しく聞いていなかった息子の声に当のシャオロンは一瞬戸惑い、そして入り口に目を向けにやりと笑った。
「おう、コソウか! 今朝飯ができるから、椅子にでも座ってもうちょこっとだけ待ってくれや!」
 数ヶ月ぶりに会う息子よりも、今振るっている鍋を優先するところなどはいかにもシャオロンらしいところだ。だがコソウはそれに怒るわけでもなく、今でも料理に変わらぬ情熱を持ち続ける父を誇らしくさえ思った。
 こうして帝都から遠く離れた田舎の食堂に、皇帝の料理番として名高かったシャオロン一家は勢揃いした。
 
 
「なんだぁ!? お前まで天帝食医を辞めてきちまったのか?」
 思わず叫んでしまったシャオロンに、コソウは思わず肩をすくめた。彼にとっては予想できていた言葉ではあったが、それを上回る、あまりの剣幕に圧倒されかけてしまったようだ。
「まあ……そうなんだよ、本当に。どうも父さんの教育が悪かったらしくてね」
 しかしながらすかさず切り返してくるコソウに、シャオロンはがっくりとうなだれてしまう。隣ではパイランが、まったくその通りだと呟きながらうんうんと頷いている。どうやら父親の性分に呆れ返っていたのは、本当にパイランだけではないらしい。
「まったく……揃いもそろって馬鹿家族だな、うちの連中は」
「なにを言っているのやら。それもこれも、すべて親父が悪いのではないか」
 パイランは足を組み直しながら反論した。この絶妙な間合いでの切り返しは、長い別居を強いられていたコソウには、到底無理なものだっただろう。
「しかしなぁ、料理人なら誰もがあこがれる宮廷料理人を……よりにもよって、一家揃って退位しちまうのはなぁ……」
 いまだに苦しげな表情のシャオロン。しかし、その表情が作り物だということが、二人の子供にはすべてお見通しだった。なにしろ、時々にやけ顔になる。息子のコソウがここへやってきたのが、それほど嬉しかったということの表れなのだろう。が、あくまで中途半端な難しい顔を演じ続けるシャオロン。それは、いかにも良い父親への背伸びにも見てとれる。
「パイランからもらった手紙で、真帝団の事を知ってね。一応皇帝陛下に報告したのだけれど……今度は私の身も危ないんじゃないかと周りが騒ぎ出してしまってね。とりあえずのところは、休暇を取って身を隠せと言われたんだ。でもただ隠れているだけじゃあ暇になってしまうから、とりあえず田舎に帰りますと言って出てきたんだよ。まあ見舞いを持ってこいとも書いてあったから、それも届けたかったしね」
 そう言ってコソウは荷物から色々と取り出して机の上に置く。どこで仕入れてきたのか、高級食材のフカヒレや鮑、果ては帝都名物大地魚(タイチィユイ・塩漬けヒラメの干物)なども出してみせる。これにはさすがのシャオロンも、あまりの驚きで目を見張った。
「お前……随分と持ってきたな。まあ干物が中心で腐るもんはねぇが……数が半端じゃねぇな」
 そう、なんとコソウの荷物の、約八割程度を土産が占めていたのだ。品数にして二十四点。これには一家を代表する常識外れのパイランも呆れ返った。
「……兄貴、たかが見舞いにこれだけの物を持ってくる奴がどこにいる。第一、これでは自分の食料が足りなかっただろうに。よくここまでの旅で餓死しなかったものだ」
 額に手を当てて呟くパイラン。その後には、しっかりとため息のおまけも付いている。
「そうは言うけどねパイラン、やはり父さんのお見舞いともなると大好物だった大地魚ははずせないし、ずいぶんと海から離れているところだから海の物も食べたいかと思ってね。まあ干物なら戻せば食べられるじゃないか。日持ちもするし。 ……なにより私は小食だからね。食べ物なんか旅をしながら食べる分くらい調達できるさ」
 あの親にして、この息子ありである。まあパイランも常識はずれではあるが、コソウもまたある意味常識はずれである。
「……まあ兄貴がかまわなかったと言うならば、私にはなにも言うことはないが……少なくとも私ならば、こんな親父のためにそんな苦労はしない。まあ饅頭の一つでも手土産には持ってきてやるがな」
 そう言ってパイランは、すっと席を立った。そろそろ店を開ける時間である。店外が少しずつ騒がしくなるのを聞きつけて、パイランは店の戸を開ける。
 店の外には、ちょっとした行列ができていた。ここ最近のこの店の売り上げは、過去にないほどに鰻登り中である。今日もまた忙しくなりそうだと思いつつ、パイランは先頭の客から中に招き入れた。
「お待たせいたしました。どうぞ中へ」
 そう言ったときの彼女の顔は、今までのパイランにはない客向けの素晴らしい笑顔だった。
 
 
 シャオロン一家の働く食堂「光来飯店」は、もの凄い喧噪に包まれていた。まだ開店から、いくらも時間が過ぎていないのに、だ。店内に、注文取りの声が響き渡る。声の主は、強引に手伝いへと駆り出されたコソウである。
「海鮮粥二つ、蝦麺一つに焼売一皿だよ」
「おうさ!」
 絶妙な親子の、また兄妹のやりとりで、客の胃は幸せに満ちていく。これこそが、料理の王道なのだ。
「……なぁ、親父」
 自分の手がけている料理の隙を見て、パイランはシャオロンにそっと耳打ちする。視線だけで、コソウを追いながら。
「あぁん? なんだよ?」
「……この際だ、兄貴にも料理をさせてみるのはどうだ? どれくらいの上達をしているのか、確かめておくのも悪くはないだろう?」
 このパイランの言葉に、ほんの少しだけ眉を上げ、徐々に口元を弛めるシャオロン。確かにこの状況は多忙すぎる。おまけに昨日までは存在していなかった注文取りに、なぜ腕利きの料理人を回す必要があるのか。つまりは、そういうことだった。
「……なるほどな。俺らもちったぁ楽したいよな。よし、ちょいと首根っこひっつかまえて連れてこいや」
「任務了解だ」
 パイランはとりあえず製作中であった焼売を作り終え、料理の時にさえしていなかった腕まくりをし、鋭い眼光で若い娘とにこやかに話しているコソウを射抜くと、完全に照準は固定された。そして、ずかずかと大股でコソウへと歩み寄る。が、コソウはまったく気付く気配を見せない。完全な、チャンス到来である。
「兄貴」
 背後からの呼びかけに、ふっと振り向くコソウ。あまりに小さな声だったので、厨房の中からかけられた声だとばかり思っていたコソウは、目の前に立っていたパイランを見て愕然とした。おまけになぜだかはわからないが、実力行使も厭わないと暗に言っているような腕まくり。背筋を、冷たい汗が落ちていくのを感じたことも、致し方ないことである。
「あ〜……どうしたんだい、パイラン? なにか……随分と物騒な雰囲気なのだけれど……」
 こうして引きつった笑いを浮かべたコソウは、二の句を告げる暇もなく、厨房へと引きずり込まれた。
「……いくら何でも酷いんじゃないかな、これは? こう見えても私は、ついさっきここへ着いたばかりの旅人なんだよ? それをこうも強引に……」
 ささやかな反抗を見せるコソウの手には、次々と包丁やお玉などの道具が握らされ、旅用に着ていた衣服は身ぐるみはがされ着替えさせられ、前掛けなどまで着けられてしまう。完全に、どこからどう見ても間違いなく、夫の帰りを待つ新婚妻的な装いだった。
「なっはっはっは! 似合う! 似合いすぎてんぞ、おめぇ!」
 豪快に笑い飛ばすシャオロン。しかし服と道具を用意したのはシャオロンだ。おまけに言うならば、パイランの服を、だ。なぜ自分の服を出さなかったかは、いわゆる軽い遊び心である。
「……なんでパイランの服を着せてくれるのかな? 父さんの服でもいいような気がするのだけれど?」
「そりゃ〜おめぇよ、なんで俺とパイランだけ女装やら男装をしたかって事だろう。お前も家族なら、同じ苦しみを味わってみせるもんだろうが」
 強引かつ間違いな家族論を述べるシャオロン。そして更にたちが悪いのは、パイランも止めようとしていないことである。コソウの横に立ち、ちらちらとその女装姿を見てはささやかに吹き出している。
「……ぷっ」
「笑ってないで止めてくれないのかい、パイラン? 昔だったら父さんを止めてくれてたじゃないか」
 コソウのそんな、すがるような言葉にも、パイランは冷静に言葉を返す。
「まあ昔ならば、な。だが今はそういう気も失せてしまったぞ。なにせ私も同じ目にあっている。親父の言うとおり、家族ならば苦しみも分かち合うべきだ。そこのところは親父も良いことを言った」
 まるで言葉とは裏腹に、顔を背けながら笑い続けるパイラン。これではもはや二人の暴挙を止めることは出来ない。コソウはそう悟ったのか、重苦しいため息を一つついて料理に取りかかることにした。
 
 
 夜、コソウの協力もあって早めに材料が無くなり店を閉めた後、シャオロン一家は客席を陣取って酒盛りなどをしていた。店主が里帰りの旅に出ているのを良いことに、好き勝手をしているシャオロン達は、まったくもっていい度胸である。
「いやぁ、今日も一日よく働いたぜぇ!」
 椅子に座ったまま大きく伸びをして、疲れた身体に活を入れるシャオロン。が、パイランからの一言はにべもない。
「私と兄貴にほとんどの仕事を押しつけておいて、疲れたも何もないものだ。そんなに楽をしていると、普通よりも早くボケが来るのだろうな。 ……まあ、天然ボケが入っているからそんなに気にもならないだろうが」
 パイランの最後の一言で、シャオロンが豪快に椅子から滑り落ちる。と、まあここまではシャオロンのノリによる代物だったが、最後に椅子の角へ頭をぶつけたのは計算外だった。鈍い音が食堂内に響き、うずくまるシャオロン。これにはパイランはおろか、コソウなども腹を抱えて笑った。
「相も変わらずの馬鹿親父だ。兄貴も、悪い意味で安心しただろう?」
「……そうだね、変わっていないようで安心したよ。本当に……」
 コソウは懐かしい光景に目を細め、そっと呟いた。思わず涙が出そうになる目頭を押さえ、小さく鼻をすする。と、パイランが突然コソウの頭を殴った。かなりの威力で。当然吹き飛ぶコソウ。三つほどの椅子を蹴散らし、彼の身体はようやく止まった。あまりに突然で、身に覚えのない攻撃に、大きく目を見張ってパイランを見るコソウ。が、パイランの方はどこ吹く風である。こんな言葉を言い放つ。
「女々しい真似をするな。兄貴も男ならば、人前で軽々しく涙など見せるものではない。こんなにも頭が悪くて情けない親父だが、涙など見せたことがないぞ」
 これにはコソウも、参った。本当に、してやられた。大きなため息を一つついて力無い笑顔を妹へと向ける。
「まったくパイランは……随分と強いんだね。どうせなら私と性別を入れ替えた方がいい」
 ここで、パイランの真空回し蹴りが首筋に決まる。二度目の空中飛行を体験したコソウは、シャオロンと同じくその場に倒れ込んだ。まったく、容赦のない娘である。
「……まったく。二人とも元天帝食医なのだから、もう少し喧嘩の腕も鍛えた方がいいのではないか?」
 まったく理にかなわない呟きを漏らしたパイランは、二人に掛けてやる毛布を取りに、寝室へと向かった。
 
 
 翌日は、梅雨らしく雨の降りしきる日だった。そしてようやくコソウも普通の格好で厨房に入っている。つまり昨日の女装は、あくまで二人の悪戯心であったことが一目瞭然であった。まあ、遊ばれているコソウはかわいそうにも思えるが、こんな家族を持ったことが、そもそもの発端なのである。すべては、神のお導きであろう。
 さて、昼下がりのこと。
「まあシャオロンさん、今日はお若い方もいらっしゃるんですか?」
 目敏くコソウの姿を厨房に見つけた未亡人が、割と声の届く位置にいたシャオロンにそう声をかけた。
「ああ、俺の息子ですよ。昨日帝都の方からやってきたんでここに一緒に置いてもらおうかと思いましてね」
「まあ。それじゃあこのお店に来る女の子達も増えるのでしょうね。なにしろあれほどの美男子ですもの」
 シャオロンは嬉しいながらも悔しく思いながら、その言葉を聞いていた。やはり他人がもてるのは面白くないらしい。たとえそれが、実の息子であっても、だ。
 肉のシャオロン、点心のパイラン、そして新顔野菜のコソウ。今、宮廷でも名を轟かせていた三料理人が、この峠の料理店に勢揃いしたことになる。これはまさしく、「普通に考えれば絶対にありえない話」というものだろう。
「……親父、そこの三枚肉を取ってくれ」
「おう!」
「パイラン、玉葱をくれるかい?」
 そんな会話くらいしか交わされない厨房内。そんな忙しい昼の最中、主は突然旅から戻ってきた。
「ただいま。留守をすみませんでしたね、シャオロンさん」
「ああ、大丈夫だ。この通り繁盛してしてるしさ」
 そして旅着を脱ぎに奥へと入っていく主は、ふと見ぬ顔に足を止めた。そう、コソウのことである。
「おや? あなたは……?」
 戸惑い顔の主に、シャオロンが思い出したように説明してやる。
「ああ、そいつは俺の息子でコソウってんだ。どうやら馬鹿な俺の血を色濃く継いじまったみたいで、帝都を飛び出してきちまったらしい。迷惑でなかったらこいつも使ってもらえないかな?」
 そんなことはお安い御用と、主は軽く笑顔で頷いた。コソウも改めて自己紹介し、その場は丸く収まった。
 と、階段に足をかけた主がふと振り返ってシャオロンの方を見た。
「……ああ、そうだシャオロンさん。旅の途中であなたを探しているという若い女性にお会いしましたよ。宿の方に泊まっているから、会いに行ってはどうですか?」
「俺の知り合い? ……おまけに若い、か。うぅん、いったい誰だ?」
「母一筋と言っていたわりにはお粗末な話だな。あの話は嘘だったのか?」
 ついパイランの口からそんな言葉が出てきた。そう、以前パイランはシャオロンから母親一筋だという話を聞いていたのだ。しかしこんな話が出ては、それも疑わしく思えて当然である。
「ば、馬鹿言うんじゃねえよ! 言っとくが、そういう関係になった女なんて、メイランに出会ってからは一回だってねぇんだぞ!」
「語るに落ちたな助平親父め。それでは母と出会う前にはあったと言っているようなものだ」
 パイランの鋭い突っ込みに、シャオロンは思わず口をつぐんだ。わかりやすい、間抜け親父の姿であった。
「まあまあパイラン、父さんだって母さんに出会う前から一筋になれるわけないじゃないか。好きになった人がいたっておかしくはないよ」
 と、思わず助け船を出すコソウ。さすがはシャオロン家唯一の常識人である。が、それはあくまで妹には否定的に取られてしまった。
「ほう? 親父が助平ならば兄貴も助平なのだな。そうやって庇い合うところなど、まさしく女を泣かせてきた者の歳末助け合い運動ではないか」
「い、いや別にそんなことは……」
「いいや、そんなものだ。だいたい兄貴も、帝都にいたころは何人の女がいたことか。毎日のように家を訪れる女性を追い返す私の身にもなれというのに」
 これだけの証拠を揃えているパイランは、まさしく一家で一番の実力者だった。おまけに口も達者で男では到底かなわない。コソウもシャオロンも、もはや打つ手無しといった表情である。
「まあいい。親父、もし昔の遊び相手ならば、ちゃんと話をつけてくるのだな。自分で撒いた種は自分で刈り取ってこい」
 もはや取り付く島もないパイランにそう言われてしまったシャオロンは、しぶしぶと店を出て宿へと向かっていった。そしてそれこそが、一家にとって大きな災厄の前触れであることは、いまだ誰にもわからないことだった。
 さて旅人の宿に着き、中へと入ったシャオロンは、まずざっと食堂の机を見まわしてみた。いかつい男や旅の商人。果ては歌い手なども見える中、なぜか愛娘にそっくりな顔があることに気付いた。そして、どうやら相手もそれに気付いたらしく、にっこりと微笑みを見せてきた。
「……!?」
 シャオロンは、何とも言いようのない衝撃を後頭部に受けたような気がした。なぜかはわからなかったが、確かに感じたのだ。相手の女からそれほどの衝撃を。そしてシャオロンは、いまだ細く長い記憶の糸に引っ掛かるその記憶を、ゆっくりと手繰り寄せていった。
 
 
 
「おめでとうございます、若旦那様! 元気な女の子の、しかも双子でございます!」
 シャオロンが二人目の子供が誕生するのを待っていた部屋。そこは、ルゴウの街にある龍花飯店の二階、そして愛する妻の部屋のすぐとなりであった。シャオロンはその小さな部屋で、息子のコソウを背中におぶりながらという可愛げのある格好で、もう三刻ほど新たな家族の誕生を待ち続けていた。そして生まれた子供は双子だという。これが喜ばずにいられるものだろうか。
 シャオロンはさっそく妻メイランの部屋へと駆け込み、命懸けで双子を産んでくれた母親の頬に力強く口付けしてやる。
「……シャオロン」
「やったな、メイラン! おまけに双子だって言うじゃねぇか。 ……よくがんばったな」
 シャオロンはまさしく目頭に浮かぶ涙も気にせずに、愛する妻の顔を見つめていた。すると、逆にメイランの方が恥ずかしくなって、ぽぉっと頬を朱く染めた。
「あんまり見つめられると照れてしまうわ、シャオロン。それよりも子供たちを抱いてやって。あなたのような立派な人になるように……」
「しかしなぁ、二人とも女の子だぞ? 俺みたいな傍若無人に育ったら大変だ」
 そんなシャオロンの心配は見事に当たる事となってしまうのだが、その時はまだ誰一人として知る由もない。当然の事であるが。
「いいじゃない。そういう女の子も充分魅力的だと私は思うわ」
「……そうか? じゃあすまねえが、ちょいとだけ抱かせてもらうぜ」
 やたらにやけ顔の、二児の父となったシャオロンは傍らにいた産婆の方におずおずと手を伸ばす。そして娘の内の一人、目を覚ましている方のパイランをその手に抱くと、まさしく親馬鹿な表情になった。そう、にやけ顔からでれ〜っとした顔になったのだ。
「ん? こ、こら……あんまし嫌がるんじゃねえよ」
 どうやらパイランはこの頃からシャオロンになつかなかったらしく、あからさまに父親を排除しようともがく乳飲み子の姿がそこにはあった。まあ一切泣き出さないところなどは、今のパイランからもうかがえる強い面であろうか。
「ふふふ……ずいぶん嫌われたものね、シャオロン。でもきっと照れてるのよ、あんまり男前のお父さんだから」
 と、そう言ってくすくすと笑い出すメイラン。子供を産んだ直後だというのに、随分と余裕な女性である。ある意味、驚異的だ。
「ま、まあとにかくお前も疲れたろう。ゆっくり休んで早く元気になってくれよ。目が覚めたらとびきり栄養のつくもんを作ってやるからな!」
「ふふふ、そう言われると早く元気になれると思うわ。ありがとう、シャオロン」
 メイランはそう呟くと起こしていた身体を寝かせ、そのまま目を閉じた。
 シャオロンはパイランを産婆に預け、メイランの額に軽く口付けしてやるとそのまま静かに部屋を出ていった。そしてその顔には、満面の笑顔が浮かんでいた。
 
 
「ねえお父さん、あの子達にはなんていう名前をつけてあげるの?」
 まだ幼いコソウだったが驚く事に一般常識は身につけているらしく、そんな発言を父に向けた。
「ん? そうだな……白蘭(パイラン)と明花(メイホワ)なんてのを考えてたんだが……どうだ?」
「パイランと、メイホワ? へぇ〜、可愛い名前だと思うよ」
 そう言うコソウも笑顔である。初めてできた妹達が、やはり可愛いのだろう。
「そうか。じゃあ決まりだな。実はもうメイランとも話し合ってたんだよ」
「早くお話ができるようになるといいね」
「そうだな。おまけにメイランに似て美人になってくれりゃあ言う事なしだ」
 そう言ってシャオロンは笑う。
 平和な時間だった。まさしく平和であったはずなのだ。そう、まだこの時は。
 
 しかしその夜、事件は起こった。
 
 シャオロンは妙な胸騒ぎを感じて、丑満つ時に目を覚ました。
 何かが起きる。
 そんな予感がした。
 その時。
「だ、誰か!」
 どこからか悲鳴が聞こえてきた。それを耳にしたシャオロンは、まさしく稲妻の様な速さで部屋を飛び出していた。そして、その光景を目にした。二人の娘を抱え、今にも塀を乗り越えようとする賊の姿を。
「て、てめえぇっ!」
 塀から下がっている賊の片足に手を伸ばしたシャオロンは、まさしく数瞬の差でそれを取り逃がしてしまう。だが間一髪の差で賊に逃れられた塀を、シャオロンの普段の姿からは想像できないような身軽さでひらりと乗り越えると、まだ眼下にいた賊に体当たりを決めた。そして大事な娘の一人を奪い返す事に成功した。
「ぐっ……」
 賊は一人の娘を奪い返されたものの、もう一人を抱えたまま暗闇へと消えていく。それはシャオロンにはまるで、幻のようにも見えた。
「ま、待ちやがれ!」
 シャオロンは家から出てきた産婆に娘を預けると、街へと賊を追って走っていく。しかし、賊は見つからなかった。娘は、連れ去られてしまったのだ。
 
 
 朝、メイランが目を覚ますと、シャオロンは深く落ち込んだ表情で事の全てを説明した。
「……すまねえ。俺が不甲斐ないばっかりに……」
「……捜索願いを出しましょう。もう私達にはどうしようもないもの」
「本当に面目ない……」
 落ち込んだシャオロンは、もはやまともに妻の顔を見る事もできなかった。しかしメイランは、そんな夫の頭を女の細腕でやさしく包んでやる。慈愛に満ちた、優しい目を向けて。
「こうなってしまっては仕方がないわ、シャオロン。一人でも無事に戻ってきたのだから、喜ばなくちゃ」
 そう言いながらも目端に涙を浮かべるメイランは、本当に強い女性だった。
 そしてもう一人の娘メイホワの見つからないまま、時だけが無情にも過ぎていった……。
 
 
 遠い過去の記憶。その中から見つけだした娘の面影は、今まさに目の前にあった。そしてシャオロンは震える声で、目端に涙を浮かべながら、一言口にした。
「まさか、お前……メイホワか?」
 シャオロンが目前にした女性は、ふと微笑んだ。だがその微笑みからは、愛情というものが欠片もうかがえない。冷たく、暗い感情だけが、シャオロンに伝わってくる。恨み、妬み、そして嫌悪など、その表情からは色々なものが感じられる。そして娘は、一言だけこうシャオロンに告げる。
「……私はあなたの娘です。でも……あなたの家族ではありませんわ。娘を捨てるような人は、父だとは思いません。私の今の名は、真帝七星の闇花(アンホワ)。私はあなたを……皇帝に仕える料理人としてのあなたを抹殺しに来たのです」
 それはまさに、シャオロンにとって死刑宣告にも等しかった。