旅の料理人2――朱雀迷走―― 話の参
作:みのやん





話の参 敗北はまさしく嵐のように


「……真帝……七星?」
 シャオロンはその聞き慣れない言葉に、思わず額にしわを寄せた。だがそれは間違いなく、真帝団と関わりある言葉であろう。
「真帝団に関係してんのか、お前?」
「……今の私は真帝団の料理人。言わば、真帝に使えるべき天帝食医、とでもいうようなものですわ」
 微笑むような表情で、アンホワがさらりと言う。シャオロンも思い当たる節があるだけに、なんとも言いがたい表情になった。
「そうか……お前をさらってったのは真帝団だったんだな。つまりその頃から俺に目をつけていた、ってことか?」
 苦しげに言葉を放つシャオロン。しかし、それもそうだろう。まさか十余年ぶりに再会した娘が、明らかに敵対するであろう一派に与しているのだから。
「その通りですわ。あなたが私の仲間達との取引に応じていれば、私と同じところにいたのでしょうね。そして、私と二人で共に働いていたはず。 ……今のあなたと、パイランのように」
 いつしかアンホワの表情は、鋭いものへと変わっていた。パイランと自分との差を、心ならずも感じているのだろう。産まれて間もない頃に誘拐され、何もわからず、親もないような所へ放り込まれたアンホワは、家族と共に生活しているパイランが恨めしくて仕方がないのだろう。明らかに嫉妬や羨望の念を、アンホワから受ける。
「……そうか、パイランのことも知ってるんだな。だがパイランは……お前のことを知らねぇ。どうせ物心つく前の話だ。下手に後ろめたい想いをさせても可愛そうだったからな」
 シャオロンはアンホワの正面に座り、じっくりと腰を据えることにした。
 メイホワと話がしたい。
 少しでもわだかまりを解きたい。
 そんな想いがシャオロンの仲で交錯していた。
「……お前は俺を料理人として抹殺するって言ったな? それは……俺に包丁を捨てろってことなのか?」
「ええ、そうですわ。あなたは私達真帝団にとって、とても大きな障害になる、と幹部達が申しています。天帝食医としてのあなたは、まさしく一、二を争う腕前だったはず。いずれ私達が正当なる皇帝陛下を迎えようと行動したとき、あなたの存在は大きな障害になるのです。だから私は……あなたに料理人を辞めていただきたいの。もう二度と包丁を握らないでください」
 まっすぐにシャオロンの目を見てそんなことを言うアンホワ。だがシャオロンは、そんなことに応じることはできない。たとえ、自分がメイホワを救えなかったという後悔の念を計算に入れたとしても、だ。
「それは……できねぇ。俺は……確かにお前を救えなかった。お前がさらわれてから数年後の、真帝団からの勧誘にも応じなかった。なにしろお前の話なんてこれっぽっちもしてこなかったからな。それにまさか天帝食医の俺を、皇帝陛下暗殺を企む集団に引き抜こうなんて、そんな馬鹿げた話があるか?」
「つまりあなたは、それだけ天帝食医としての地位が大切だったのですね」
 さすがにそんなアンホワの言葉には、シャオロンも立ち上がって反論する。思わず大きくなる声も、度を超していた。
「馬鹿言うんじゃねぇ! 俺は、仮にも皇帝陛下の料理番だったんだぞ! それが……皇帝陛下の御食事に毒なんか盛れるか!」
 まさしく激昂するシャオロン。料理人としての、天帝食医としての自尊心を傷つけられたのだ。それも至極まっとうなことに思える。が、アンホワはそう取らない。あくまでシャオロンに敵対心を持っていた。
「あなたに宛てた二度目の矢文で私のことも書かれていたはずだというのに? ようは自分の実の娘より仕事が大事だっておっしゃるのですね。それは、親としての権利を放棄したと言うことですわ。 ……私はあなたを許しません。料理料理と、私を家族から遠ざけた料理も、決して許しません。そのために、私は真帝七星になったのですから」
「二度目の矢文だぁ? んなもんは来なかったぜ。お前のことが書かれている文なんて、見た覚えもねぇ。 ……だいたいその話が真帝団の罠だってことくらい、なんでわからねぇんだ! 奴らはお前の、俺に対する疑心の念を利用してるに過ぎねぇ! ……お前が今まで俺を恨み、憎んで生きてきたのはわかる。料理を覚え、俺に勝利することでお前の気持ちが晴れるのもわかる。だがな、お前が奴らに利用されているのはもっとわかりやすいことだろうが! お前の怨念を利用し、俺の娘だという境遇を利用し、この国をひっくり返すようなことをしでかして、悲しむ人間が増えることが、なんでわからねぇんだ! お前だってこれ以上、自分みてぇな悲しい生き方をする人間が増えるのは、見たくねぇだろうが! ……真帝団が表だって動けば戦は当然起きる。死ぬ人間も、敵味方を問わず増えるだろうよ。けどな、そうなったとき死んだ人間の家族や、本人の人生はどうなるよ? お前のように俺を恨んで、何らかの形で恨みを晴らすことが出来るならまだマシだぞ? 死んだ人間の家族は、それすらできやしねぇんだ。ただ幼い自分を残して死んだ親を恨み、そのまま人生を歩んで行かなきゃならない。それがどんだけ辛いことか、よく考えりゃぁわかることだろうが!」
 シャオロンは、泣いていた。自分のこれまでの人生には、まさしくそういうことがあったからだ。眼前にたたずむアンホワを見つめながら、シャオロンは遠い過去の自分とアンホワの姿を心の奥底で重ねていた。
 
 
 三十余年前、シャオロンがまだ十歳にも満たない時分の話である。帝国は、遙か北方に住むという騎馬民族と戦を起こした。当時帝国の北端、小さな寒路という村に家族と住んでいたシャオロンは、その戦をその目で、いやがおうにも見せつけられた。
 暑い夏が終わり、気候的にも過ごしやすくなってきた頃のこと。シャオロンは一人、村のそばにある小さな森で走り回っていた。目的は、山菜取り。平和なこの国の、まだ未開である北端の地域であるからこそ、それは見事なほどの自然が溢れ返っていた。優しい母の役に立ちたかったシャオロンは、一人山菜摘みに励む。上着の裾を袋のようにし、中に持ちきれないほどの山菜を抱えたシャオロンは、ヨタヨタとした足取りで村へ帰る。その顔は、たくさん採れた山菜による喜びと、きっと誉められるであろう母への期待とで、それはもう輝かんばかりだった。が、森を抜け、村への一本道にさしかかったとき、それが見えた。
 村から上がる、火の手と幾筋もの煙。
 シャオロンは、大きく目を見開いていた。見たこともない状況に驚いた。流れてくる焦げくさいにおいに混乱した。そして、すべてを飲み込もうとする巨大な炎が、信じられなかった。
「……何?」
 いったいどれだけそこに立ち尽くしたのだろうか。いつしか、息を切らせながら摘んできた山菜も、足下に散らばっていた。そして気付いたとき、シャオロンは村の目の前にいた。無意識のうちに全力で走ってしまったのだろう、息も絶え絶えである。シャオロンは肩で大きく息をしながら、燃え上がる炎を呆然と見つめていた。いや、眺めていた。何もできない自分に無力さを感じる暇も、余裕もない。ただ、その場にいることしかできなかった。
 シャオロンは、突然肩に置かれた手に驚きながら、後ろを振り返った。そこには、戦装束に身を固めた大人がたくさんいた。だがどれも、見知らぬ顔ばかりである。シャオロンの前にいた男は、帝国軍総司令と名乗った。だがシャオロンには、そんなことは関係なかった。ただただ、何もかもが憎かった。幸せな毎日を奪ったこの世のすべてが、無性に憎かった。そして、男に殴りかかっていた。行き場のない怒りと憎しみが、まだ幼いシャオロンを突き動かしたのだ。
 そしてシャオロンは、すべてを失った。
 
 
 騎馬民族との戦が終わり、シャオロンが十二歳を迎えた年のこと。シャオロンは、とある一家に引き取られた。戦の被害者であるシャオロンに、帝国が斡旋したものだ。その一家は年老いた老夫婦だけの、貧しい家だった。
 引き取られてから数年の間、シャオロンは手がつけられないような悪ガキになった。なにもかもに興味を示さず、ただただすべてを憎んでいた。それは、家族を失ったときと変わっていなかった。無力感と、絶望感。ただそれだけに身体を動かされながら、無意味に生きていた。
 が、ある日のこと。シャオロンは一人の料理人に出会った。その料理人は旅をしながら腕を磨いているらしく、いつも背中に背負っていた中華鍋が、とても印象的だった。彼とシャオロンとの出会いは、ごくごく普通のものだった。街の片隅に小さな露店を開いていた旅の料理人の笑顔。それがシャオロンの目に留まったのだ。幼き日の記憶に埋もれた、それは見事な家族の笑顔。今目の前にいる料理人の笑顔は、まさしくそれに酷似していた。なぜそんな笑顔になれるのか。なぜ一人旅をしながらそれだけ幸せそうなのか。シャオロンには、まったく見当もつかなかった。だから、聞いたのだ。
「……あんた、何がそんなに楽しいんだ?」
 その料理人は行列を破って現れたシャオロンに一瞬戸惑っていたが、すぐにスッと背筋を伸ばし、すべての客に聞こえるような声でこう言った。
「そんなに不思議なものですかねぇ? 私はただ、みなさんの笑顔が見られるから嬉しいんですよ。それも、私の作った料理でそれが見られたのなら、それはもう言うことナシです」
 笑顔だった。そして、感じられる料理人の誇りと幸福感。まさにその料理人は、シャオロンの夢見ていた人生を送っていたのだ。シャオロンはしばらくその場に立ち尽くした。やがて露店は材料切れで閉まり、料理人もやれやれといった体でシャオロンの肩に手を置いた。
「……少しお話でもしますか? 夕食くらいならば私が持ちますよ」
 シャオロンは聞きたかった。数え切れないくらいのことを。だからその誘いを断るようなことはしなかった。
 
 
 小さな定食屋での夕食。そこにはシャオロンの顔を知っている者も多い。なにしろシャオロンは、街でも札付きの悪ガキである。知らない者の方が少ないだろう。そこへ現れたシャオロンといえば、なにやら一人の男に連れられ、考え込むような仕草を見せている。周囲の客達は「また悪戯でもしてお説教か?」などと、好き勝手なことを考え聞き耳を立てている。
「とりあえず適当に注文しますよ? 嫌いなものはありますか?」
 料理人の言葉は、意外に素っ気ないものだった。シャオロンも、ただ首を振るだけである。
「さて、私の名前は周永(チョウエイ)といいます。まずあなたの名前から聞かせていただけますか?」
「……シャオロン」
「ではシャオロン。君は……どうしてあんなことを聞いたのでしょうかね? あの後はもう、私も色々と考えてしまって料理に集中できませんでしたよ。 ……聞かせてもらえますね?」
 チョウエイは、ここへきて優しくそう言った。なにかいとおしげな目で、シャオロンを見ている。
「……俺は……もう五年近く笑ってない。本当の意味では、だ。まあ見せかけだけの笑顔なら、仲間に見せることもある。でも、心からは……笑っていない。俺も……本当はあんたみたいに、心から笑ってみたいんだ」
 シャオロンの言葉を聞き、大袈裟に考え込むような身振りをするチョウエイ。そしてしばしの後、チョウエイは人差し指を立ててこんなことを言った。
「……なるほど。では逆に聞きますが、何がそんなに面白くないんですか? たとえば……そうですね、幼い兄弟が手をつないで歩いていて、小さいながらもお兄さんが一生懸命弟の面倒を見ている所を見て、微笑ましくありませんか?」
「……そんな小さな子供達を野放しにしている親に文句が言いたくなる。もしそれで……馬にでも踏まれたらそれこそ死ぬかも知れないんだぞ? それで永遠に親子が離ればなれだなんて、あまりに酷すぎる」
「……随分と、その……臆病なんですね?」
 そんなことを言われて、シャオロンは思わず立ち上がった。そして声を荒げて反論を始める。
「俺が臆病だと! 俺は喧嘩だって誰にも負けない! それこそ兵士や役人にだって喧嘩を売って生きてきた! その俺が、臆病だと!」
 まさしく逆鱗に触れられたような状態のシャオロン。チョウエイもあまりの変貌ぶりに少し椅子を後方にずらした。が、立ち上がりはしない。机に両肘を突いて、シャオロンに座るよう言った。
「そういう意味の臆病ではないんですよ。とにかく座ってください」
 シャオロンはまだ納得が行かないながらも、とりあえず椅子に座る。そして身を乗り出しながら、チョウエイを睨み付けた。
「……いいですか、あなたが臆病なのは間違いありません。ただ、あなたの言うような意味での臆病ではないんですよ」
「じゃあどういう意味だよ」
「そうですね……自分の人生に対して臆病、というのがわかりやすいですか?」
 シャオロンはその言葉を胸の中で反芻する。何度も、何度も。と、チョウエイが言葉を続けてきた。
「あなたは笑うことを、笑って生きる生活に対して臆病なのです。何に負い目を感じているかはわかりませんが、心の奥底では幸せな生活を求めているのに、どこかでそうなってはいけないと歯止めをかけているのではありませんか?」
 思い当たる節がある。と言うより、気付いていたのだ、シャオロンは。家族を死なせて一人生きることに対する負い目。もう笑うことすらできない両親を差し置いて、なぜ自分が笑って生きられるのか、と。だが、チョウエイはそのことにも丁寧に答えてくれた。
「家族を失ったのならその家族の分まで笑わなくてはいけないのではないですか? 家族が幸せになるはずだった分だけ、幸せにならなくてはいけないのでは? 少なくともあなたのご両親は、あなたに幸せでいて欲しかったはずですよ」
「……三人分も、幸せになれるんだろうか?」
「はっはっは! そうですね、それなら残りの二人分は小分けにしてあげればいいんですよ。小さく分けて、たくさんの人に配ってあげるんです。そうすれば、みんな幸せになれますよ」
 笑いながらそう言うチョウエイの目は、昔の自分と同じような境遇に立ち、同じように悩みを抱えた少年を見つめていた。
 そして、小さな歴史はまさしく繰り返されようとしていた。
 
 
「罪を犯して生きてきた者の言葉など聞く耳はありませんわ」
 そう言って一歩も引かないアンホワ。そして引くことのできないシャオロン。こうして親娘は、互いに住む世界の差を知った。
「……どうしても俺に包丁を捨てさせたいだな?」
「ええ、どうしても。それがあなたへの……見せしめにもなることですから」
 そして立ち上がるアンホワ。
 周囲の客達が二人を見つめる中、和解のできない親子はついに激突することとなった。
「そうまで言うからには勝負といこうぜ。当然、そのつもりで来たんだろう?」
「もちろんですわ。あなたを……私からすべてを奪った料理に復讐するためにここへ来たのですから」
「……いいだろう。俺が勝ったら真帝団とはきっぱりと縁を切ってもらう。 ……いいな?」
「ええ、それでよろしいですわ。そのかわり私が勝ったら、あなたには御承知の通り包丁を捨てていただきますわよ?」
 視線をぶつけ合う二人。それはさながら、本物の戦乱を思わせるような気迫を人々に与えた。
 天帝食医シャオロン。
 真帝七星アンホワ。
 果たして、真の料理人とはどちらなのか。
 そして厨房を強引に借り、帝国史上最大の親子喧嘩は始まる。
 課題は、いわゆる大衆料理と決まった。そして審査役はこの宿にいる客達。これはアンホワの提案である。どんな料理でも作れ、どんな客にも好まれる料理を作れるのが真の料理人。そういう根拠からだ。もちろんシャオロンもその提案に異論はなかった。
「お前のねじまがった根性を、父親としてまっすぐに直してやる」
「……あなたは私には勝てませんわ。平和な世をぬくぬくと生きてきたあなたに、どうして私が負けるというのかしら」
 もはや完全にすれ違いの二人。そんな状態のまま料理は始まった。
 
 
 シャオロンは、まず厨房にある材料を一通り探してみる。するとやはり、いつぞやの大会のような材料は無いに等しい。みな鮮度不足、種類不足、そして数も少ない。さすがのシャオロンも、これには頭を抱えてしまった。
「こいつぁ……大変なもんだな。いくらかましなのは……包心菜(キャベツ)に青椒(ピーマン)、冬(シイタケ)それから……豚肉か。この材料なら、回鍋肉が最適だな」
 シャオロンは作る料理を決めるとさっそく腕まくりし、常に携帯している料理人の命とも言うべき自らの包丁を手に取る。そして、まずは包心菜を手に取った。
「包心菜は乱切り、青椒は太さを揃えて縦切り、冬魔ヘ半分に切ればいいな」
 いつも通りの手際よさで包丁を進めていくと、最後に残された豚肉で思わず手を止めてしまった。なぜかと言えば、あまりに固そうな部位しか残っていなかったからだ。
「しかし……鮮度の良さならこれなんだよなぁ。味の決め手は素材の鮮度。どう考えてもこれしかねぇよな」
 ふとため息をつきながら、豚肉も一口大に切っていくシャオロン。と、それを見ているアンホワは口元に微笑を浮かべている。なにかシャオロンに不備でもあるのだろうか。
 そんなことになど気付きもしないシャオロンは、切った材料を温めた鍋へと放り込む。初めから強火で煽り、そのまま仕上げまで持っていく鍋振りの技術は未だに衰えを知らないように見える。
 そして、あっという間に料理は完成した。
「さぁ、俺のほうは出来たぜ!」
 元気中年の二つ名に恥じないほどの、大きな声で宣言するシャオロン。が、アンホワはすでに調理を終えていた。
「私の方はもう出来ていますわ。さっそくお客様に食べていただきましょう」
 そう言ったアンホワは、自分の料理を客に配る。ちなみにアンホワの料理は青椒牛肉絲(チンジャオニュウロウスウ)。牛肉と青椒の細切り炒めである。
 シャオロンもアンホワにならって料理を客席へと運ぶが、なにかが自分の中で警告しているような気になった。
(……? なんだ、この胸騒ぎは?)
 しかしすでに料理は配り終えた後。もはや後の祭りである。
「さぁ皆さん、食べて美味しかったと思う方の皿を上にして重ねてくださいな」
 さっさと試食を促すアンホワに、シャオロンの中の胸騒ぎはさらに増大していく。
(……くそっ! なんなんだよ、こいつは!)
 長らく経験していなかった感覚に、もはや隠せないほどの動揺をし始めるシャオロン。これほどの胸騒ぎは、もはや尋常なものでないように思える。
 そして客達の試食も終わり、皿が重ねられた。
 結果、十人の客の内でシャオロンの皿を上にしたのはわずかに三人。そう、完敗である。
「な!? どうしてだ! 俺は確かに最高の料理を作ったはずだ!」
 当然納得のいかないシャオロンは、思わず声を上げてしまった。が、すぐ脇でアンホワがしのび笑いを漏らす。余計に神経を逆撫でされたシャオロンは、無意識の内にアンホワへと詰め寄った。
「なにがおかしい!」
「ふふふ、当然ですわ。だってあなたは、あんなに固いと解っていたはずの豚肉で料理を作るんですもの。負けて当然だと思いませんこと?」
「なにを言いやがる! あの豚肉は他の肉に比べて一番鮮度が良かった。それが……まずいはずねぇだろうが!」
 もはや止め処もなく怒り狂うシャオロン。元天帝食医としての自尊心が、彼をそうさせているのだろうか。
「まだお解りになりませんの? 試食は普通の御客様がいたしましたのよ? 大層な美食家の皇帝陛下ではありませんわ。普通の御客様がもっとも求めているのは食べ易さ。次に満足できるだけの量。味など、その次ですわ。つまりあなたの料理は固い豚肉で食べ易さを失い、何種類も試食するような少ない量で満足さを失ったのですわ。それに比べて私が使ったのは牛肉。牛肉は値段も高くて得をした気分にさせます。そして厚く切った肉を包丁の背で叩き、やわらかさも演出しましたわ。 ……そんなことにも気付かなくて、なにが皇帝の料理番なのだか」
 シャオロンは徹底的に打ちのめされた。まさしく大衆料理の基礎とも言うべきことを、この勝負の場に来て忘れてしまったのだ。つい先ほどまでの食堂では、確かにやっていたことだと言うのに。アンホワにしたことへの自責の念が、知らず知らずのうちにそうさせたのだろうか……。
「……さぁ、元天帝食医青龍天シャオロン。包丁をお出しなさい。約束通り、包丁は捨てていただきますわ」
 もはや茫然自失となっているシャオロン。もうなにがどうなっているのか、まったくわかっていなかった。天帝食医としての自尊心、十余年ぶりに再開した娘への想い、そして自分のもっとも得意とし礎となってきたはずである料理での完全なる敗北。もはやシャオロンには、平常心など取り戻すことは出来なかった。愕然となり膝をつくシャオロン。その手からは、唯一の拠り所であったはずの包丁が音を立てて落ちた。
「……情けない人ですわね。あなたのような人が本当に天帝食医だったなどとは……正直信じられませんわ」
 床に落ちた包丁を手にし、荷物をまとめ始めるアンホワ。そして彼女が出て行くまで、誰も身動きひとつ出来ないような雰囲気が店を覆っていた。
「負けた……俺が、本気の料理で負けた……」
 シャオロンの呟きは自らの頭の中で、何度も何度も繰り返されていった。