旅の料理人2――朱雀迷走―― 話の四
作:みのやん





話の四 訪れた旅立ちはひっそりと


 すでに夜中を迎えた時分の食堂では、パイランとコソウの二人だけが静かに机に向かっていた。机の上には一人分の夕食。当然未だ帰らぬシャオロンの分である。しかし、待てど暮らせど父親の帰ってくる気配はない。さすがの二人も、もう会話すらなくなっていた。
 ――と、そこへ入ってきた一人の青年。そう、それはソウカンであった。
「こんばんわ」
「……ん? ああ、ソウカンか。どうした? もう店は終わりだぞ?」
 力なく微笑むパイラン。その表情はいくらか場の雰囲気が変わったことに少し安心した様子にも見える。が、その傍らにある人物の姿を見てその顔色は一気に豹変した。
「……!」
 ソウカンが抱えるようにして入ってきたのは、別人と見まごうほどに気の触れたような状態のシャオロンだったからだ。
 慌てて椅子を離れ、父に駆け寄るパイランとコソウ。しかしシャオロンはそんな二人に笑いかけるでもなく、ただ呆然と目を見開いたままの状態。
「……父さん?」
「……」
 もはやかけられた声に言葉を返すこともできぬシャオロン。そうなると、自然とシャオロンを追う視線はソウカンへと向かうことになる。
「いったいなにがあった、ソウカン? 親父はどこで、どんな目に遭ったと言うのだ?」
「それが……宿に戻ったらこんな状態の親父さんがいてさ、宿の主たちは大騒ぎしてたんさ。みんな事情を詳しく話しちゃあくれなかったけど、どうやら若い女と料理勝負をして負けただけらしい。それだけでこんなになるもんかね?」
 シャオロンをどうにか椅子に座らせて凝った肩を揉み解すソウカンだったが、二人の子供はゆっくりなどさせてはくれなかった。
「負けたって? 父さんが?」
「そんなはずはない! 親父が料理勝負で負けるなど……ありえるはずがない!」
「い、いや……おいらにそんなこと言われてもねぇ……」
 いきなり二人掛かりで詰め寄られては、焦りもしてしまうというものだ。ソウカンはまさにたじろぐように、椅子を後ろに下げながらそう言った。
「相手は若い……女だと?」
「あ、ああ。そう言ってたよ。相手は……アンホワとか、メイホワとか、なんかまとまらないことを言ってたかな?」
 まったく聞き覚えのない名に腕を組むパイラン。だがその背後では、コソウが思わず目を見開いていた。その名は今や、彼のみぞ知る名だったからだ。
「……メイホワ、と?」
「うん? ……ああ、そう言う奴と、アンホワって言う奴がいてはっきりしなかったんだけどね」
「……それは……」
 いつもからは考えられないような難しい顔になるコソウに、パイランは訝しげな視線を向けた。
「なにか知っているんだな、兄貴?」
「……はっきりしないうちはなんとも言えないよ。少なくとも父さんが正気に戻るまでは、ね」
 はぐらかすような兄の言葉に、パイランは思わず机を力いっぱい叩いた。普段からは考えられないような力をかけられた机は、きしむような悲鳴をあげる。
「……今はそんなことを言っている場合なのか? その女は親父をこんなにした相手なのだぞ? 少しでも関係がありそうなことなら話すのが筋というものだろうが!」
 まさしく激昂するパイランに、いくらか考え込んだコソウは逆らうのをやめたらしい。ため息を一つついて静かに話し始めた。パイランの知らぬ、双子の妹の話を。
「……パイラン、君にはね……メイホワ、という妹がいたんだよ。
「……私に、双子の妹がいたのか?」
「そうだよ。だけどその子は産まれてすぐに何者かに連れ去られた。私が知っているのはそこまでだよ」
 初めて聞く話に呆然となるパイラン。それはまさしく、父シャオロンも恐れていたことによって、であった。
「産まれたその晩に、だよ? 普通なら考えられないことさ。きっと辛い目にあって育ったのだろうね……血の繋がらない人間に囲まれて、孤独だったろうね……」
「……そして助けることができなかった力無い親父に恨みをもって、向かってきたわけか……その時連れて行かれたのが私だったらな……」
 まさにシャオロンはその言葉を恐れていたのだ。もちろんコソウも同じである。が、唯一何も知らないソウカンは、さらに酷な言葉を付け足してしまう。
「……なあ、ちょいと気になることがあるんだけどさ?」
「……なんだい、ソウカン?」
「アンホワって名前さ。おいら、知ってるぞ?」
「?」
「旅の最中に知り合った流れの料理人に聞いたんだけどさ、そいつはあの真帝団に店を追われたらしくて……なんでも料理勝負で負けたらしいんだな。その相手が、真帝七星のアンホワって名乗ったとか名乗らなかったとか……」
 最悪のときに最悪の話題とはこういうことを言うのだろう。まさしく驚愕とする二人の兄妹。ソウカンに悪気があったわけではないのだが、コソウはソウカンを恨めしく思ったほどだ。
「……真帝団だと?」
 語気も荒くなっているパイランは、身体中から殺気を放ちながら一言だけそう言った。それを感じ取ったソウカンは、たじろぎながらも頷く。
「……つまり親父は、真帝団にいた生き別れの娘に、こんな目に遭わされたと言うのだな?」
「い、いや、そこまでは言ってねえさ。案外同じ名前の別人だったり……」
「それならば親父がここまでの状態にされるはずがない!」
 ぴしゃりとソウカンの言葉を遮ったパイラン。もはや止められないのはコソウも同じである。こういう状態のパイランを止められるのは唯一シャオロンだけなのだが、今やそれも期待できない。つまり、もう誰にも、どうすることもできないということだ。
「親父への恨みだけならばまだしも、そこをつけ込まれて頭のおかしい奴らの集まりに利用されるなど、一族の恥だぞ!」
 この状況でもそんなことを言うのだから、このパイランはとんでもない。しかも、冗談が一片たりとも混じっていないでこれだからなおさら困るというものだ。
「でも……父さんをここまでするなんて、相当な腕のようだね、彼女は」
「違うな。親父が馬鹿なのだ。相手が真帝団だというのに……妙な父親心を発揮して手抜き料理を作ったに違いない。たとえ無意識にしても、だ」
 言うことはきついが、パイランの手はいつしかシャオロンの髪を優しく撫でていた。母親が子供の頭を撫でるように、優しく、ゆっくりと。目元も優しく細められている。なんだかんだ言っても、パイランの父への愛もまた、無意識なものなのだ。それでシャオロンを責めることなどできるはずがない。
「……辛かったのだろうな、親父も」
 静かに言うパイランの表情は、どこか痛々しげである。だがそれも無理はない。一つ間違っていたら、自分も父の心を傷つける側に回っていたのかも知れないのだから。
「……でもさ、おいらはおかしいと思うよ、メイホワって子のこと」
 唐突にソウカンが口を挟んでくる。ここまで、やけに考え込んでいた様子だ。
「ほう、なぜそう思う?」
「……実はおいら、捨て子なんだけどね、そんなに両親が憎いってわけでもないんだよ。小さい頃は街で他の捨て子達と暮らしててさ、そういうのとも色々と話したんだけど……あんまり捨てられたことに対する怒りとか憎しみって、無いんだよね。どっちかって言うとさ、無理して一緒に暮らしてて、そのまま家族がみんな不幸になるよりも、おいら一人捨てられたことで親とか兄弟が助かったならいいんじゃないかって思うんだよ。で、他の連中もだいたいそうなんだ。なのにさ、メイホワの場合はえらく恨んでるみたいなんだよね。それが気になるんだ。ひょっとしたら、その真帝団の奴らにそういう教育を受けて育っちまったのかなぁ〜って。 ……まあ誘拐と捨て子じゃあ話は違うかも知れないけどね」
 ソウカンの言葉に、コソウと白蘭もそういう可能性がゼロではないことに気付いた。そして、真帝団への敵対心をさらに強くした。
「……なるほど。そういうところにはえらく頭が回りそうだからな、真帝団は。やはり……放っておく手はないな。 ……で、ソウカン。その私の妹はどこへ向かったのだ?」
「へっ? いや、おいらは知らないさ。まあ村兵が村の入り口に張ってるから、方角だけは解るだろうけど……」
 またもやいらないことを言うソウカン。もはやコソウは完全に頭を抱えている。
「……兄貴、親父を見ていろ。私はその女を捜して連れてくる」
 さっとそれだけ言って奥へ入ってしまうパイラン。旅支度をしているようだ。
「……ソウカン、あまり妹を焚きつけないでくれないかい? もうあの子は誰にも止められなくなってしまったよ」
 肩の力を抜きながら呟くコソウに、ソウカンは今しがたかいたらしい汗で張り付いた服をパタパタと仰ぎながら、首を激しく左右に振った。
「んなこと言ったってさぁ、おいらだって怖かったんだぞ? あんな殺気を出す奴なんて、武術家にだってそうはいねえんだから」
 本気で思ったことを口にしているソウカンに、コソウもなんとなくわかったような気がしていた。やはりパイランは、世間一般でも怖い女らしい。
「……でもおいらのせいで旅に出るって言ったんだろうな、きっと」
「……まあ、そうかな」
「なら……おいらがついてってやろうか? あんたはシャオロンの世話を任されたみたいだしさ」
 何気なく言ったソウカンの言葉に、コソウは驚きを隠せなかった。まさか見ず知らずの他人にここまで肩入れをするものだろうか、と。しかし旅支度を終えたパイランが奥から出てきたのを見て、一も二も無くコソウは首を縦に振った。それほどまでに冷静さを欠いているように見えたのだ、今のパイランは。
「どうやらそれが一番のようだね。父さんを他人には任せられないし、パイランも止められない。それなら……そうするのが一番かな?」
 コソウは改めてパイランをソウカンに頼むと、すぐに支度をしてくるように頼んだ。と、当然足止めを食らったパイランは文句を並べ連ねる。
「どう言うことだ、兄貴? 私を信用していないのか? それとも……うら若い私をあの男に襲わせたいのか?」
 恐ろしいことを言う娘である……相変わらずではあるが。コソウも思わず苦笑し、シャオロンを抱えながら首を横に振った。
「パイランを襲えるような男性がいるなら私も見てみたいよ。でも彼は、仮にもパイランのことを少しは知っている。だから襲おうなんていう気は起きないだろうね。心配する必要は無いさ。もし何かありそうだったら、思い切り殴って逃げることなんて造作も無いことなんだし」
 もはやソウカンの人権などどこへやら、である。かわいそうな男だ。まあシャオロン一家に関わると、こういう人生を送る羽目になるといういい見本でもある。
「しかし兄貴、私は急いでいるのだぞ? ソウカンは確かに旅慣れていて頼りにもなるかも知れない。だがこの場を離れていく真帝団は待ってはくれない!」
 もはや待つことにすら臆病になっているように見えるパイランはそう言って店を出ようとした。と、そこにはどんな速さで支度をしてきたのか、ソウカンの姿が。
「お待たせ」
「……貴様、どれだけ足が速いのだ」
 少々皮肉を交えながらも、こうして元旅の料理人はまたもや旅に出ることとなった。どうやら旅はシャオロン一家を放してはくれないようだ。
「おいらの足の速さは天下一品だからね。それに、ようやく頼み込んだ料理の先生がいなくなったらおいらも困るしさ」
 そう言って片目を瞑るソウカンは、やけに魅力的に見えた。
「……二人が戻るより先に父さんが正気に戻ったら後を追うよ。旅の間はなるべく手紙でもくれないかな?」
「わかった、なんでもいい。とにかく急ぐぞ」
 もはや一刻の猶予も認めないパイランはさっさと店を出た。そしてそれを追うように、パイランの初弟子になるはずのソウカンも店を立つ。明らかに、「カカア天下」な新婚さん風旅人が、ここに成立した。
 
 
 旅が始まるとすぐに、パイランはそれこそ女とは思えないような大股で、連れの男ソウカンを引き離すような勢いを見せながら歩いていた。後に続くソウカンは、それで本当に武術家なのかという疑問を、見ている者に持たせてしまいそうなほどの体力のなさである。
「うぅ……ねぇ、ちょっと早くないかな? そんなに急いでもしょうがないだろ?」
 すでに音を上げているソウカンは、弱々しくそう言った。が、パイランはそんな言葉などどこ吹く風。まったく気にせずに、さらに歩調を上げていく。
「うぅ……こんなに急ぐよりも休みを減らした方が追いつけるんじゃないのかな?」
 そう、パイランもいかに力自慢とはいえ女である。持久力のなさはいなめない。歩くときは速いのだが、休憩を多く取るのだ。だから結局進捗はそう変わらないことになる。もちろん、パイランとてそんなことは承知していた。それでも早く追い着きたい。その思いが大きすぎるのだ。結局、ソウカンの案は不機嫌なパイランの無言の圧力によって却下されてしまった。
 二人は、連日歩き続けた。風の強い日も、雨の降る日も、まったく休もうとはしなかった。そして旅に出てから四日目のことである。パイランは、とうとう無理がたたって風邪をこじらせてしまった。
 二人は雨を避けられるような巨木のうろに、今は身を寄せていた。近くに町や村はない。そんなところでしか、雨宿りができなかったのだ。
「……だから言ったじゃないか、無理はするなって。しばらくここで休もう。身体を治さないことには旅も続けらんないよ」
 ソウカンは少し困ったような、それでいて包容力のある瞳でパイランにそう言った。そのパイランはと言えば、すでに喉をやられて声もおかしく、まるで上気したように顔を赤らめ、身体を冷やさないように膝を抱え込んで小さくなっていた。
「……こんなところで差をつけられるわけにはいかないのだがな」
「まあまあ。向こうだってこの雨じゃあ雨宿りくらいしてるさ。 ……そう焦りなさんな。心配しなくても、必ず追い着けるさ」
「……根拠はあるのか?」
「当然。さっき回りを調べたときに、焚き火の跡を見つけた。まだ新しかったよ。どうやら、半日分も差はないみたいだ。少しくらい休んだって、身体が万全なら逃がさないくらいの差さ」
 ソウカンはそう笑いかけると、うろのふちに腰掛けた。さすがに巨木のうろとは言え、人間二人が入るには小さすぎる。ソウカンは、中には入れないのだった。
「……今度はお前が風邪をひきそうだな? 大丈夫なのか?」
「ああ。おいらは旅をするのが仕事なんだから、こういうのには慣れっこさ。 ……心配しなくていいよ。今は自分の身体を治すことを考えなって」
 パイランはその言葉に力なく微笑みを返すと、そのまま静かに目を閉じた。どうやら今の自分に一番大切なものがなにか、わかっているらしい。
「……そう、ゆっくりと休むんだ。そうすれば、それだけ早く良くなるからさ」
 ソウカンはパイランの額に手を乗せて熱のほどを確認し、少しだけ表情を曇らせたかと思うと気付かれないように自分の上衣をかけてやる。気付かれれば、押し返されるに決まっているから。
 そしてソウカンもうろの入り口に腰掛けたまま、ふちに沿うように寄りかかって目を閉じた。今の自分にも休みは必要だ。どうやらすぐにでも、大変なことが起きそうな胸騒ぎがしているからだ。
 
 
 朝。パイランがまだ頭に痛みを感じながら目を覚ますと、目の前にソウカンの姿はなかった。身体は動かさずに目だけで彼の姿を探してみるが、どこにも見つからない。そこで目を閉じ耳を澄ましてみるが、聞こえるのはいまだ降り続ける雨の音ばかり。少し不安を覚えもするが、とりあえずはまた眠ることにした。それしか、今のパイランにはできなかった。
 当のソウカンは、雨の中で森を歩き回っていた。自分達の追う敵の姿を確認しようと思ったからだ。が、それは容易には見つからなかった。見つかるのはうろの中の焚き火の跡ばかり。どうやら敵は、この雨の中でも歩き続けているらしい。
「……やばいなぁ。これじゃあ差は開く一方だ。いっそのこと……一人で捕まえに行くかなぁ?」
 ソウカンはとりあえず焚き火を見つけたうろの中に入ってそんな考え事を始めた。が、その静寂もすぐに破られることとなってしまう。
「まあ? そこは私の先約だったのですけれど……」
 現れたのはそう、パイランにそっくりな美女。違うところと言えば、目つきと物腰くらいのものであろうか。とにかくそんな美女に、ソウカンは慌てて場所を譲った。
「あ、ごめんよ。ちょうどいい場所があったもんだから……」
「まあ、雨宿りでしたのね。でもごめんなさい。ここは昨日から私がいた場所でしたの」
「いや、それならいいんだ。他にもあるだろうし……」
 そんな問答をしているうちに、なぜか美女アンホワはくすくすと笑い始めた。非常に魅力的な笑顔で。
「……なんでしたら御一緒しますか? この木は大きいですから、二人入っても大丈夫ですわよ?」
「あ、いや……」
「別に私は物の怪の類ではありませんわ。それとも、奥方か恋人の女性でも一緒に旅をしていらっしゃるのかしら?」
 無邪気な顔でそんなことを言うアンホワ。そんな中、ソウカンは本当に迷っていた。このまま敵を調べてみるのもいいかもしれないと。しかしそれは、パイランを裏切っているような気がして後ろめたい気もした。
「……」
「なにか御口に入れられますか? 少しでしたら余裕がありますから」
「……あ、ああ。じゃあ、いただけるかな?」
 結局ソウカンはここにいることに決めた。それがパイランを助けることと信じて……。
 
 
 パイランがもう一度目を覚ましたのは、おそらく昼を過ぎたころだったろう。目を覚ますとほぼ同時にソウカンの姿を探すが、どうやらまだ戻ってきてはいないらしい。さすがにパイランも不安になるかと思いきや、今は別のことで頭がいっぱいなようだった。
「……なんだ? なぜ私は……あの男にこだわっているのだ? そう言えば寝る前に額を触れられたときも……変な幸福感に包まれたような気がしたな?」
 幸福感を変と言い切るパイランも充分に変だとは思うが、とにかくパイランは、ソウカンのことを十二分に気にかけているらしい。
「これは……まさか」
 これだけ鈍いパイランでも、そういう現象の名前だけは知っていた。それはそう、『恋』である......はずだ。
「まさかとは思うが……こんな私が恋、してしまったのか……?」
 自分でも信じられない事態に、目を閉じてソウカンのことを思い出してみる。
 初めて出会ったときの妙な親近感。
 料理の教えを請われたときの不思議な感覚。
 そして、昨日額を触れられたときの……幸福感。
 これにはさすがのパイランも、答えを一つしか見つけ出すことはできなかった。それはやはり、『恋』。しかも『初恋』である。
「……この歳になって初恋もないものだな。しかし……あの男を気にかけているのは確かだ。あの男の優しさにも、妙に惹かれているフシがある」
 自分を客観的に分析するあたりは、さすがパイランというところである。が、そんな思いも束の間のこと。今度は帰らぬソウカンが心配になってきた。
「こんなにも気にかけている女を置いて、あいつはいったいどこへ行ったのだ?」
 随分と勝手なことを言ってはいるが、それはある種照れ隠しなのかもしれない。現に、そんなことを考えていたせいか、はたまた風邪のせいか、顔が赤くなっているパイラン。これはひょっとすると、重症かもしれない。免疫がない分、恋の病の回りが速い。
「……早く帰ってきて安心させてくれ、ソウカン……」
 パイランは安心できないながらも、強引に目を閉じ眠りについた。そうして早く風邪を治すことが、身体の火照りの理由を確認できるからかもしれない。
 とにかく、パイランはもう一度眠りについた。
 
 
 その頃のシャオロンは、記憶の海に身を漂わせていた。生き別れの娘メイホワとの勝負に敗れ、真帝団からも救えず、なにより帝国最高位と自負していた自分の料理が負けたことによる自信の喪失から、自分の中の殻に閉じこもってしまったのだ。
「……俺は……負けた……」
 ただ、ただ、勝負に負けたことにこだわるシャオロン。自分の腕はそんなに未熟だったのかと、過去の幾多の勝負を思い返してみる。が、そんなはずはない。自分はいつだって勝負に勝ってきた。食べてくれた人々に幸せを与えてきた。それなのに……あろうことか真帝団の一人に負けた。もはやその事実は、今までの人生そのものすら否定しているように思えた。
「……俺は……これからどうしたらいい? 包丁も取られて……誇りも、名誉も、なにも……ない……」
 まさしく自分を見失いかけているシャオロンに、遥か遠くから呼びかける息子の声が聞こえる。それはまさに、救いの手にも思えた。が、どうしてもその手に自らの手は差し伸べることができない。自分の中のなにがそうさせているのかはわからなかったが、なぜか手も、言葉も……なにも返せなかった。
「……俺の料理は……なんだったんだ?」
 自らの人生に疑問を持つシャオロン。今までの人生は無駄だったのか、と。
 小さな村の、小さな料理屋に生まれた自分。
 両親が遊牧民族に殺され旅に出た自分。
 流れ着いた街で、これも運命なのか料理屋の娘に恋心を燃やした自分。
 そして、産まれたばかりの娘を連れ去られたときの自分。
 今までの人生のすべてが、無限の輪のように頭の中を駆け巡っていた。
 だが、自分の人生が無駄だったのかという疑問に答えは出ない。出てくるのは唯一、自分の料理を食べてくれた人々の笑顔だけ。しかしその笑顔も、ひょっとしたら幻なのかもしれない。すべては嘘だったのかもしれない。全部が自分の作り出した妄想なのかもしれない。
 そしてシャオロンは、深い暗闇の底に落ちていく。そこはすべての根源、シャオロンの礎のある場所。そしてそこにあったのは……たった一つの笑顔。そう、妻の笑顔だった。
「……メイラン?」
 シャオロンは思い出していた。初めて自分の作った料理に微笑んでくれた、可愛らしいメイランの笑顔を。
 そのメイランの笑顔はとても幼く、とても可愛らしく、そしてとても魅力的だった。
「俺は……初めて心から料理がしたいと思ったのは、あの笑顔が見たかったからだ」
 そう、シャオロンはそれまでも料理人として旅をしていたが、それはあの旅の料理人に言われた、愛を振りまいて歩くようなものではなかった。他人を愛するということに対する免疫がなかっただけに、そこまで心を込めた料理が作れなかったのだ。そしていつしか「すべては生きるため」、そう割り切って料理をするようになっていた。食べてくれる人々の笑顔も、自分の料理が人にもたらす幸せも、その間はとんと考えたことなどなかった。しかしメイランに出会って恋をし、その笑顔を自分の料理によって見れたことが、シャオロンの幸福につながる料理への第一歩だったのだ。
「俺は……メイランの笑顔のためだけに料理を作っていた。でも……あの笑顔があったからこそ、俺の料理で同じように笑顔を見せてくれる人々がいることにも気付くことができたんだっけな……」
 そしてシャオロンの記憶辿りはあるところで止まる。それは、妻メイランが息を引き取ったとき。
「そう、メイランはあの時俺に……なにかを伝えてくれたはずだ。それを支えに……俺は料理をしてきたはずだ……」
 シャオロンは懸命に細く成り果てて忘れかけてさえいる記憶の糸を手繰り寄せてみた。チャンナンでの料理大会や、天帝食医授位審査など色々な記憶が見つかるが、今のところそれらはどうでもいいようなこと。とにかくさらに手繰り寄せる。
「……そう、パイランたちが産まれ……メイホワが連れ去られ……俺達はメイホワの情報を求め、帝都への旅に出たんだ……」
 ようやく帝都までたどり着いた末の、メイランの死に際の記憶。そこで、妻は確かこう言っていた。
『……ごめんね、シャオロン。私が一緒にメイホワを見つけたいなんて言ってついてきたからこんなことになってしまって……』
『……馬鹿言うんじゃねぇよ。あの時なんにも出来なかった俺が悪りぃんだ。それよりも……元気になってくれよ。このままじゃあ……パイランがかわいそうだしな』
『そうね。シャオロンの料理をいっぱい食べて、元気な笑顔を見せなきゃね』
『もちろんだ。うまいもんならいくらでも作ってやるよ』
『……ねぇ、シャオロン。あなたにとって、料理って……なに?』
『なんだぁ? 随分と唐突な質問だな?』
『ずっと聞きたいなって思ってたの。教えてくれる?』
『俺にとって料理ってのは……その、なんだ。上手くは言えないが……愛情表現の一つだろうな』
『愛情表現?』
『ああ。俺は食べてくれる相手を愛して料理を作ってるつもりだ。お前も、子供達も、もちろん客だって愛してる。そして俺の料理を食べて喜んでくれる人達の、笑顔が見たいんだ』
『……愛、か……』
『……ん?』
『……妬いちゃいそうだわ、お客さんを』
『ははは! 馬鹿言うんじゃねぇよ。俺は誰よりもお前を愛してるさ。だから、お前に作ってやる料理が一番うまいはずだぜ』
『……ありがとう』
 その言葉が、メイランの最後の言葉だった。
「そう、俺は食べてくれる人に愛を伝えるために料理をしていたんだ。そして……笑顔が見たかったんだ……」
 シャオロンは遥か昔の記憶に、ようやく救いの光を見つけたような気がした。自分の料理がなんであるかを、ようやく思い出せたのだ。それは、料理=愛だということ。自分はまた、それをいつの間にか忘れていた。ただ相手の笑顔が見たいだけの料理になっていたのだ。
「俺は……勝負のときも勝つことだけを考えてた。俺は……いつの間にか自分の料理を見失っていたのか……」
 シャオロンは光を見つけた。絶望という名の闇に差し込む一条の光を。そして、後は光に向かって走るだけだった。
 
 
 シャオロンが目を開けると、そこには見慣れた天井があるだけだった。自分の寝台に、自分の部屋。最近になって見慣れてきた、峠の食堂の自室だ。
「……俺は……どうしてたんだ?」
 確か自分は旅人の宿にいたはずだ。なのに……こうして今は自分の部屋にいる。誰かが運んでくれたのかと、とりあえず部屋を出ようと扉へ向かう。と、すぐ脇にあった鏡に自分の姿が映っていることに気付いた。その顔はえらくやつれていて、髭もかなり伸びている。
「……なんだ、こりゃあ?」
 緊張感のない科白。が、とりあえずは下へと降りてみることにした。
 下の食堂は、ようやく営業が終わるところだった。最後の客が出て行くのを、コソウが一人で送り出している。そして振り向いたコソウがシャオロンの顔を見て、大慌てで駆け寄ってきた。
「父さん! 目が覚めたんだね!」
「ん? ああ。俺は……どれくらい寝てたんだ? なんだかえらく髭とかが伸びちまってるんだが……」
「もう十日になるんだよ! 歩いて大丈夫なのかい?」
 と、慌ててシャオロンに椅子を勧めるコソウ。そして自分も腰掛けた。
「十日か……随分と仕事を休んじまったな?」
「それどころじゃないんだよ! パイランが……メイホワの話を聞いて旅に出てしまったんだ!」
 これにはさすがのシャオロンも驚いた。なぜパイランがメイホワの事を知っているのかと、コソウに詰め寄ったほどだ。その凄まじい表情は、とても十日間眠り続けて衰弱していることを感じさせないほどだ。
「……そうか、あん時の客から聞いた話を……」
「あの武術家、ソウカンが着いて行ってくれたからまだいいけどね。でも……相手は新帝団だし、早く全快して後を追わないとね」
「ああ、あいつのことだ。なにしでかすかわかんねぇからな」
 今すぐにでも旅に出たい衝動を、シャオロンは必死に抑えた。それほどまでに、なぜか心だけは落ち着いていたのだ。今のままではまともに旅はできない。それは、何度も旅を続けてきた自分が一番よくわかっていた。
「とにかく父さんは早く身体を普段通りに戻すことを考えるんだね。僕も食事でなら協力するよ」
「ああ。お前の薬膳は効くからな」
 そして数日後、二人は店の主に別れを告げて旅に出た。突然のことだったが、飛び出した娘のことを考えると主も反対はできなかったらしい。
 ともかく、こうして二人はパイランを追う旅に出ることになった。