旅の料理人2――朱雀迷走―― 話の五
作:みのやん





話の五 天帝食医六歌仙
 
 
 シャオロン達が追う当の本人であるパイラン。彼女はようやく病魔から解放されたのか、珍しく軽い身体を感じながら目を覚ました。そしてまず自分の額に手を当てて熱のほどを見る。と、どうやら眠り続けていた効果はあったらしく、もう普段通りの体温にまで下がっているようだ。それを確認するやいなや、今度はすぐさま周囲を見回す。もちろんソウカンの行方が気になったからだ。が、やはりその姿は見えない。まだ戻ってきた形跡すら見当たらなかった。
「……あいつめ、いったいどこまで行ったのだ?」
 誰にともなく一人呟いたパイランは、久々に動かす身体を外へと向ける。外はもう雨も上がって、木々の葉の隙間から朝日が所々差し込んできている。どうやらパイランの病気と共に、悪天候も過ぎ去っていったようだ。
「ただでさえ人捜しの旅だというのに、余計な仕事をさせる奴だ」
 顎に手をやりしばし考えると、結論は出た。ソウカンに会いたい。ただそれだけだった。
 パイランの足は、そうして森の奥へと向けられた。しかしそれは、絶望への第一歩であることを彼女は知らない……。
 
 
 ソウカンは、木のうろの中で一晩を過ごした。そして今、目の前には美女アンホワの寝顔がある。その寝顔はどう見ても無垢な少女のそれのようであり、どう見てもシャオロンを打ち負かした強者の顔には見えなかった。
「……まるで子供だね、この寝顔は……」
 ソウカンはやたらと冷静にそんな感想を持った。別に食料を分けてもらっただけの一晩だったが、それでも妙に、アンホワに対する興味を持っている自分にも気付いていた。しかし、だからといってどうこうなるわけでもない。
「……寝ているうちに消えた方がいいかな?」
 そうしてソウカンが腰を上げると、途端にアンホワは目を覚ました。おまけにとんでもなく寂しそうな目つきになって、出て行こうとするソウカンの服のすそを握り締めた。こうなってはソウカンもどうしていいかわからない。
「……どちらへ……行かれるのですか?」
「あ、いや、その……」
 しどろもどろになるソウカンに、いきなりアンホワは抱きついた。やたらと伝わってくるアンホワの体温に、ソウカンは危うく欲望に身を任せそうになったほどだ。
「……行かないでください。私は……身寄りも何もかもを捨てた女です。今ここであなたにまで去られてしまっては……本当に一人になってしまいます。もう……一人にはなりたくないんです」
 本当に、本当に思い詰めた目をしていた。その目はどう見ても嘘を言っている目ではない。ソウカンにはそれがわかった。わかってしまったのだ。そして……ソウカンは悩んだ。パイランの気持ち。アンホワの気持ち。そして、自分の気持ちに。
 ……おいらは、この女を見捨てられるんだろうか? 真帝団だからって、結局国軍に引き渡したり、果ては死なせることができるんだろうか? こんな、寂しそうな目をした女を……
 そうして半刻ほど悩んだ挙句……ソウカンは、アンホワの細い身体を抱きしめた。
 
 
 
 それは、まさしくパイランにとって最悪な一瞬だった。まさしくそれは、男と女。自らの視線を避けるように立つ木立の先で、そのうろの中で、ソウカンとアンホワが抱き合っていた。
 ……なんだ? いったい何がどうなっている? 私は……騙されていたのか? あいつは……あの女と……
 呆然と、まるで他人事のようにそんな状況を放心状態で見詰めるパイラン。そしてそんな気配に気付いたらしいソウカンとアンホワが、パイランのほうに目を向けた。ソウカンの目はいつになく動揺しているように見える。そして、パイランはその場から逃げ出した。現実から逃げ出すかのように……。
「パイラン!」
 慌てて後を追おうとうろを飛び出すソウカン。が、その腕はアンホワのそれによって止められた。
「……行かないで! あなたがパイランと一緒にいたことはわかっていたの! でも……もうあの娘のことは忘れて。私は……あなたを愛しているわ」
 ソウカンはその手を振り解くことが出来なかった。アンホワの表情は、どうしても見捨てられるようなものではなかったのだ。そしてもう、パイランを引き止める者はいなくなった。
 
 
 パイランは、ただがむしゃらに走った。木の枝に服の裾を引っ掛けても、腕に傷がついても、ただ目を閉じ、まっすぐに走った。そうすることで、この信じたくない現実から逃げ出せると信じて。だが、現実はまだ終わらない。気付いたときには切り立った崖の上にいる自分。まるで死に誘うかのように吹き付ける強い風。それだけでも、今のパイランには充分過ぎた。それはほんの一瞬のこと。
「……ソウカン、早く私を迎えに来てくれ……私の肩を、揺り起こしてくれ……こんな悪夢は、二度と見たくはないんだ……」
 そしてパイランは、崖から身を投げた。最後まで、こうすることでこの悪夢から逃れられるものと信じて……。
 
 
 シャオロンとコソウは、川沿いに火をおこして夕食の準備をしていた。なにぶん急いで旅立ってきたので食料も心もとないことこの上ないが、それでも余計な時間をかけているわけにもいかず、旅人などの情報をもとに進むだけであった。
「……なあコソウ、パイラン達は、三日前にこのあたりを通ってるって話だ。確か昨日会った行商人が行ってたよな?」
「そうだね。すると、もう隣の領地に入っているかもしれない。あの渓西省っていうところは、ほどんどが山と森林に覆われていて、人探しには向かないね」
 コソウはたき火の脇に立てておいた川魚を取り、火の通り具合を確かめる。まだいくらか生焼けだったのか、魚はそのまま元あった場所に立てられた。
「……まあ、そうだな。一般的には、だが。あの土地には、もう一つ裏の顔がある。それが、真帝団の巣窟だってことだ」
「……未だに信じられないよ。旅に出てすぐにその話を聞いたけれど、あんな山ばかりの土地で、よく料理修行なんかができるもんだね」
「そこが奴等の恐ろしいところだ。野生の獣を捕る技術に秀でていて、おまけに川を下って海にまで漁に出るらしい。一月くらいかかる行程になるはずだが、それでも行くんだ。料理をするためだけに、な」
 シャオロンは魚の隣で焼いていた芋を取ると、器用に皮を剥いて熱々のところを頬張った。もちろんコソウに半分分けてやる……ということなど決してしない。欲しければ自分で取って皮を剥け! と言わんばかりである。
 と、どこからか鉄錆のような独特の臭いが風に乗って流れてきた。そしてそれは料理人ならばすぐに理解できる、血の臭いでもあった。慌てて腰を持ち上げるシャオロンとコソウ。そして周囲を注意深く見回す。やがて、その臭いの元はやってきた。川を、流れてきたのだ。女物の服を着た若き傾国の美女。そう、パイランであった。
「パ、パイラン!!」
 思わず川に飛び込んで助けに行くシャオロン。コソウはそれを冷静に見ており、自分は自分のすべきことを始めた。
 やっとの思いでパイランを川から引き上げると、シャオロンは一瞬躊躇しながらもその服をすべて脱がせた。このまま濡れた服を着させていては、風邪をひいてしまう恐れがあるからだ。そしてなるべく目を背けるようにして、旅用の毛布で包んでやる。いつものような助平面とは違って、今日は妙に真剣な表情であった。
「……やべぇな、こりゃあ。身体が冷えきっちまってる」
 思わず小声でそう漏らすシャオロン。自分の服が濡れたままだということすらも忘れて懸命にパイランの身体をたき火の側に寝かせた。
 そしてコソウはと言えば、残り少ない米を使って粥を作っていた。こんな事態である。食料がどうの、などとは言っていられないのが現実だ。
 だが結局、パイランが目を覚ますことはなかった。
「……胸の鼓動がとんでもなく弱ってやがる。このままだと……」
「どこかの町へ運んだ方がいいなら、私がひとっ走り馬車でも借りて来るよ。とりあえず、真帝団の話は後回しだろうからね」
「あったりめぇだ! パイランの方が大事に決まってるだろうが!」
 完全に八つ当たりされた状態のコソウは、首を竦めて道を駆け出した。そして数刻後、二人はパイランを荷台に乗せて近くにある町まで夜通し馬車を走らせた。
 
 
 そして小さな町の療養所。パイランは、そこに寝かされている。寝床の脇に座るシャオロンとコソウは、これからいったいどうしたものかと頭をひねっていた。
「……そう言えば、ソウカンはいったいどうしたんだろう? 一緒に旅をしていたはずだけど……まさか、殺されてしまったのかな?」
「そいつは、俺にもわからねぇな。その可能性も充分にあるが、パイランがこの状態じゃぁ聞く相手もいねぇ。まずはパイランの全快を待たねぇと」
 二人の会話は、いつしか途切れ、パイランの顔に視線が注がれるだけとなった。
 そして十日ほどが過ぎ、ようやく目を覚ましたパイラン。が、その瞳は力無く開けられるだけで、全く何に対しても反応はしなかった。ただ天井を呆然と見続けるパイランの瞳には、家族の姿など映ってはいなかった。
 医師曰く。
「……どうやらなにか、精神的に参ってしまうような目に遭われたようですな。それが何かは解りませんが、このままでは、御家族の方でも話一つできないでしょう……」
 シャオロンもコソウも、そんなことなど信じられなかった。あのパイランが、そんなことになるなど思っても見なかったのだ。そして二人の懸命の努力も報われず、結局パイランは一言も話さぬまま帝都へと戻ることとなった。生まれ育った環境の方が治療には良い、との医師の薦めからである。そして三人は、最悪の状況を携えて長きに渡り空けていた家へと帰ることとなった。
 
 
 帝都へは、一月あまりの道程を要した。急ごしらえの馬車にパイランを寝かせ、後はシャオロンとコソウが交代で馬車を走らせる。言うのは簡単だが、やるには大変な労力を必要とした。揺れる馬車の上での無理な睡眠。帝都に着いた頃には、二人ともアザだらけになっていた。唯一何重にもされた毛布にくるまれていたパイランだけが、その悲劇から逃れることができたようだ。
「……父さん、ここまでの一月でずっと考えていたのだけれど……パイランを任せても構わないかな?」
 今まさに家に入ろうとした矢先に、コソウはそう呟いた。シャオロンはパイランを抱えたまま、返事をよこそうとはしない。
「父さんに続いてパイランまでこんな目に遭わされた。私も……家族にここまでされて黙っているほど大人しくはないよ。真帝団を……潰してくる」
 常に沈着冷静なコソウにしては、珍しい言葉である。かつてコソウがここまで怒りをあらわにしたことは、シャオロンの記憶上では一度もない。だから、シャオロンにも伝わった。その想いの強さが。しかし、そうは問屋が卸さなかった。
「あのなぁ……お前、何様のつもりだ?」
 シャオロンの思わぬ一言に、コソウは唖然とした顔になる。そのシャオロンの声もまた、足がすくみそうになるほどの怒気を有していたからだ。
「いつからお前はそんなに腕が立つようになったってんだ? お前は、俺に勝てるほどなのか? ……もしできないってんなら辞めておけよ。そうでないと、俺と一戦交えてからってことになる」
 振り返ったシャオロンの表情は、とてつもなく冷めていた。背筋に走る悪寒が、コソウの熱意すらも凍らせてしまった。
 この男には勝てない。
 コソウは、シャオロンを父としてではなく一人の料理人として対峙し、改めてそう思った。心臓の鼓動さえも聞こえるような、唾を飲み込む音さえ聞こえるような時間が流れた。街の喧噪も、今の二人の間には関係なかった。そして、シャオロンが動いた。
「パイランはお前に任せる。それから……後を、頼む」
 シャオロンはコソウにパイランを押しつけ、早々にその場からいなくなった。後には震える足を懸命に堪える、コソウだけが残された。
 
 
 帝都の最奥部、朝廷にシャオロンは現れた。シャオロンほどになると、それはもう門兵の態度も違う。姿勢を正して持っていた槍を立てると、シャオロンに道を譲るように一歩下がった。
「……猛塊(モウカイ)殿はいるか?」
 天帝食医の総元締め、大奥天モウカイの名を知らぬ者などこの朝廷には存在しない。その門兵もすぐさま返答した。
「モウカイ殿は宮廷厨房におられます」
「……そうか。通るぞ」
「はっ!」
 まさしく主人と従者のような言葉を交わし、シャオロンは宮中へと歩を進める。厨房までに、何人もの知り合いとすれ違った。そのたびに、皆が一歩ずつ逃げるように歩を下げたことも、今のシャオロンの目には入っていない。とても声をかけられる状態ではない。知り合い達の判断はごく正しいものだった。
 厨房は、下手をすると都の商店が並ぶ通りにも勝るような喧噪に包まれていた。
「なにをしてる! 早く野菜を切らんか!」
「フカヒレの下ごしらえ終わりました!」
 色々な声の飛び交う中、シャオロンはズンズンと中央の通路を進んでいく。進むたびに、少しずつ喧噪が小さくなっていく。皆がシャオロンに目を奪われていた。噂に聞く元天帝食医五天、青龍天のシャオロンが目の前にいるのだ。見るなと言う方が難しい。
「……戻ってきおったのか、シャオロンよ?」
 その声は、厨房の一番奥にいた老人からかけられたものだった。そしてその老人こそ、大奥天モウカイその人である。
「……包丁を、返してくれ」
 こともあろうにシャオロンは、師でもあるモウカイにそんな言葉を突きつけた。挨拶も無しに、である。こんな失礼な話はない。が、モウカイも既に齢九十を過ぎており、人を見る目に事欠くようなことはないようだ。つまり、今のシャオロンの状態が見抜けぬわけではない。
「……ふむ。真帝団に襲われたという話は耳にしておるが、それほどかな?」
「負けた。真帝七星の一人に、だ。パイランも、そいつを追っていって酷い状態だ。もうこれ以上、奴らを野放しにしておく気は……ない」
 いつものおどけたような物言いは、欠片すらも感じられなかった。そしてその代わりに、凄味と威圧感が身体から噴きだしているようだ。周りの料理人達が、皆ダラダラと冷や汗を流している。
「ふむ……仕方ないのぅ。では天帝食医青龍天シャオロンよ、十六年前……お主に預けられた包丁を返そう。天帝食医五天の青龍天としてではなく、天帝食医六歌仙の呂仙シャオロンとして、堂々と戦ってくるがいい。くれぐれも、自分を見失うでないぞ」
 そしてシャオロンは桐箱に納められた包丁を受け取り、厨房を後にした。後に残されたモウカイは、他の宮廷料理人達に詰め寄られている。
「天帝食医六歌仙とはなんですか!? そんなの、私でも聞いたことありませんよ!」
 言ったのは、あのウーユワンである。半年ほど前に、とある街で開催された料理大会に出場して皇帝にも認められ、今や旅に出ていたシャオロン、つまり青龍天の穴を埋めるため腕を磨いていたのである。が、そのウーユワンも、今の状態のシャオロンには声一つかけられなかったのだ。正確には「指一本動かせなかった」というのだが。とにかくそのウーユワンが、長年ライバルとして認めていた男の初めて見る表情と、初めて聞く呼称に戸惑っていた。
「……天帝食医は五人にあらず。総勢十一人からなる料理人集団なのじゃよ。その下層にあたるのが天帝食医五天じゃ。その上が天帝食医六歌仙。シャオロンは十六年前、見事六歌仙への昇任試験に合格した。じゃが、詳しい話を聞いて本人のほうから授与を拒否したのじゃよ。六歌仙は闇に生きる真帝団と料理界を賭けて戦う、いわば表の料理人を代表する将軍達じゃ。しかしそれだけに厳しい掟もある。それは、家族と完全に縁を切り、表の世界には出て来れんということじゃ。あやつは朱雀天が産まれたばかりで、それだけは呑めんと言いおってな。それ以来、六歌仙は五人になっておったのじゃよ」
「……では奴は、モウカイ様よりも偉い……と?」
 ウーユワンはあまりの話に頭を混乱させ、首をひねりながらもそう聞いた。と、モウカイは首を縦に振る。
「ふむ、わしは認めたぞ。たった今、簡略じゃったが六歌仙位の授与は済んだ。じゃがあとは皇帝陛下から六歌仙の授与されるものなのじゃが……致し方あるまい。他の六歌仙の方々も帝都にはおらんしのう。 ……ともかく、これでわしも、あやつの下になったというわけじゃ」
 モウカイはそんなことを言いながらも、まるで息子を見守る父のように、優しい表情になった。そして心から、シャオロンとパイランの無事を願った。
 
 
 シャオロンの足が止まることはない。宮廷内を、まるで自分の家のように歩いていく。しかしながら今は、先ほどまでの荒々しさは影を潜めている。まるで神か仏の如く、平常心を保っているように見える。そして向かったのは……。
「陛下はおられるか?」
 そう、シャオロンの向かった先は皇帝の執務室である。世の主席と違い、現皇帝であるホンは、仕事熱心という言葉がぴったりと当てはまる。それほどの、勤勉家であった。
「せ、青龍天殿! ……陛下に如何様な御用がおありなのですか?」
 宮内では久しく見なかったシャオロンを前に、近衛である男も面白いほどの慌てようを見せた。が、シャオロンは微笑むでもなく、ただただ真面目な顔をして一言言い放った。
「急用だ。大至急取り次いで欲しい」
 このときのシャオロンの顔は、冗談など一片たりとも感じさせない。近衛も背筋をピンと伸ばし、再敬礼をして執務室へと入っていった。そして数秒後。中から出てきた近衛が扉を開けてシャオロンを促した。
「陛下がお待ちです。どうぞ、中へ」
「すまんな」
 もはやシャオロンを止められる者はどこにもいない。皇帝でさえ、入ってきたシャオロンを見てただ旧交を温めに来たというわけではないことに気付き、筆を止めたほどである。
「どうした、青龍天よ。そんなに険しい顔のそちは、初めて見るぞ?」
 場を和ませようとした皇帝の心遣いに、シャオロンは幾分か表情を崩した。ほんのわずかだが、いつもの屈託ない笑顔が戻ったかのように見える。が、今の事態を忘れたわけではない。すぐにきりりと顔を引き締める。
「ホン皇帝陛下。本日は、御願いがあって参りました」
「……ほう? 宮仕えに戻る気にでもなったのか?」
 幾分か軽口のように感じさせる皇帝の言葉だが、シャオロンにはそれに気付く余裕すらない。ただただ、ここへきて溢れんばかりの心の内を、皇帝にうち明けるのみだった。
「……朱雀天が……俺の娘が真帝団によって……床を離れられなくなりました。俺自身、数日の間敗北の痛みに苦しみました。もうこれ以上、こんな人間を増やすわけにはいきません。どうか、俺を六歌仙として、お認めください。俺は必ず奴らを……真帝団を叩きつぶします」
 シャオロンの言葉に、皇帝は一瞬眉をひそめた。あまりに攻撃的なシャオロンの言葉に、若干の戸惑いを隠せなかったようである。そしてパイランのことも気にかかったのだろう。皇帝は、そのまましばし考え込んでしまった。こうなると、待ちきれないのはシャオロンである。次第に苛立ち、握った拳も微妙に震え始めた。が、言葉を発することはない。その程度までの理性は、かろうじて保っていた。そして、ようやく皇帝の放った言葉は、こんなものだった。
「まったくモウカイは、どんな理由でその包丁を渡したのだろうな。朕ならば、絶対に渡すことはしなかったぞ?」
 危なく大声を上げそうになったシャオロンは、一歩歩を進めるだけで、何とか踏みとどまることに成功した。が、非常に際どいところである。こうなってはシャオロンも、反論せざるを得ない。非常に押し殺した声で、かろうじて言葉を返す。
「……どういう意味ですか?」
「今のそちは頭に血が上りすぎだ。三日間頭を冷やしてから来るがよい」
「三日!? ……そんなに待っていたら、真帝団の連中がこの帝都に来てしまうかも知れません。他の六歌仙が押さえていると言っても、事は一刻を争うでしょう!」
 もはや言葉遣いさえまとまりがなくなってきたシャオロンだが、皇帝はそこまで気にしている様子はない。名のある工芸師が作り上げたのであろう煌びやかな椅子から立ち上がった皇帝は、シャオロンのほんの目の前まで歩を進め、そしてシャオロンの持っていた桐の箱をその手に取った。シャオロンはあまりの唐突さに呆然と皇帝の一挙一動を眺めているだけである。
「これは朕が預かっておく。三日後に朱雀天、白虎天を従えここへ参るがよい」
「パ、パイランをって……床に伏せていると言ったばかりでしょう! 今はどうにも動かせないんです!」
「だが朱雀天なしでは真帝団に勝てぬであろう? ……今朝の報告では、他の六歌仙は勝負に負け、自害を強要された。 ……全員が、だ。残る天帝食医は、もはやそち達だけなのだ」
 皇帝の言葉には、なんの感情も込められていなかった。ただの、事務的な声である。が、それだけにシャオロンの受けたショックも大きい。自分の上にあたる存在である六歌仙が、敗れるようなことがあるなどとは考えたこともない。
「まさか! あの六歌仙が負けるはずがない!」
「……事実であり真実だ。目を背けてはならんであろう? それだけ真帝団が力を付けてきたという証でもある。だが、だからこそ負けられないのだ。だからこそ、そち達が必要なのだ。わかるであろう?」
「……はい」
「ならば早急に朱雀天をウォンリィ道士の元へ連れて行くのだ。あの年寄りは、仙道を極めたと自負していたからな。きっと何とかしてくれることだろう」
 道士ウォンリィ。それは、この帝都でも限られた者しか知らぬ名である。既に齢二百を越えるとも噂されるこの人物は、仙道を極めたとも御仏に選ばれたとも言われている。そんな人物がなぜ知られていないかと言えば、帝居の庭に住み込み、外には一歩たりとも出ないからであった。それゆえ知る者は皇帝と、皇帝にごく近い者だけなのである。そのウォンリィの名を聞き、シャオロンははっとした。まさしく今のパイランを救える可能性のある者を忘れていた自分に、恥ずかしくなったほどだ。仙道さえ極めた者であるなら、仙界医術を学んでいてもおかしくはない。過去に、仙界医術を学んだと言われたトウラという人物は、死人さえ蘇らせて見せたという。たとえ尾ひれの付いた噂だとしても、賭けてみる価値は充分にある。
「道士の住む庵の鍵だ。 ……これで青龍天、そちには貸しが二つになった」
 一つ目は、おそらく江南でのことを言っているのだろう。だがそんな微妙な言い回しに気付く余裕など、シャオロンには残っていなかった。素早い動きで皇帝の手から小さな鍵をひったくると、稲妻の如き速さでその場から消えた。そして残された皇帝は、呆気にとられたまま一言だけ呟いた。
「……朱雀天が復帰してからのあやつならば、確かに真帝七星に対抗できるのかも知れぬな……」
 何度か首を振った皇帝は、そのまま椅子に座り、今度はモウカイを呼ぶよう侍従に言いつけた。
 さてシャオロンは、電光石火の勢いで帝都の往来を駆けていた。まさしく迷惑この上ない行為だが、今の彼の心境を考えれば、いたしかたのないことである。今はただ、パイランが救えるかも知れないという期待で心がいっぱいになっていた。しかしそんなシャオロンの激走が、彼をよく知る一般市民の目には、「またパイランに追いかけ回されて逃げ回っているシャオロン」と映っていたのは言うまでもないことである。
 
 
「コソウ! パイランを荷車に乗せろ!」
 家に入るなり大声を上げたシャオロンに、奥からコソウが難しい表情で出てきた。そして口元に人差し指を立てて当て、静かにするように促した。
「静かにしてくれないかい、父さん。今、パイランを診てもらっている所なんだ」
 が、コソウの努力は無駄に終わった。そんなことは関係ないと、シャオロンは大股でパイランの部屋へと突入した。そして……絶句した。
「うむ? おお、青龍天ではないか。今しがた白虎天に呼ばれてのう、朱雀天を診ておった所じゃ」
 その声の主は、まさしく道士ウォンリィであった。当然、シャオロンは思い切りズッコケた。
「な、なんであんたがここにいるんだよ!? だいたいコソウに呼ばれたってなんだ!? あんたの庵の鍵はこうして俺が……」
 そう言って懐から鍵を取り出すシャオロン。が、ウォンリィは思い切り笑い飛ばしてしまう。
「ふぉっふぉっふぉ、お主もまだまだ青いのう。白虎天の坊主はそんなもんえらく昔から持っておるぞ。わしがやったんじゃ」
 シャオロンは固まった。そのまま、ゆうに一刻は過ぎたであろう。次に気付いたのは、豪快な回し蹴りを食らい、倒れ込んだときである。
「……ぬうっ!? この大胆かつ精密ゆえに強力で冷酷な回し蹴りはっ!?」
 回し蹴りのダメージを感じさせず、華麗に飛び起きたシャオロンが見たものは……ウォンリィだった。
「……パ、パイランじゃねーのか……」
 思わずガックリと肩を落とすシャオロン。と、ウォンリィの険しい顔に気付いた。
「……どうした、そんな顔してよぉ?」
「このウスラ馬鹿親父め。娘の危機に何を呆けておるんじゃ。今の朱雀天はのぉ、どうやら男のことで殻に閉じこもっておるようじゃぞ?」
 男と聞いて、シャオロンは目を見張った。見張りまくった。いや、それはもう。
「な、なにっ! とうとうパイランにも春が来たのか!?」
「……だから主はウスラ馬鹿ハゲ親父だと言うとるんじゃ。よく聞くがよい。朱雀天は心に大きな傷を負っておる。おまけに言うならば、ポッカリと大きな穴まで開けておった。あれはひどく危険じゃぞ? このままでは、心のすべてにその傷は広がり、やがては物言わぬ、生きた躯と化すじゃろう」
 荘厳な雰囲気さえ感じさせるウォンリィの言葉に、コソウは身体の震えを感じた。が、シャオロンにはそんなものなど通用しないらしい。
「なに言ってんだ、爺ぃ! うちのパイランはそんなにヤワにできちゃぁいねぇんだよ! いい加減なことばっか言ってっと、終いにゃはたくぞ、コラ! ……それとな、俺はハゲちゃいねぇぞ!」
 なにやら物騒な目つきでウォンリィの顔を覗き込むシャオロン。と、当の道士は急に冷たい顔になってくるりと後ろを向いてしまった。
「ならワシは知らん。勝手にするがいい」
 そう言ってウォンリィの姿は瞬時に消えた。その場から、跡形もなく。こうなって頭を抱えるのは、コソウである。
「ああ! なんてこと言うのさ、父さん! せっかく呼んできたというのに!」
 が、シャオロンは慌てふためくコソウに鋭い目を向ける。
「バッカ野郎! あんなクソ爺の言うことなんざ真に受けやがって! 俺はパイランを、そんな女々しく育てた覚えはねぇ!」
 それもある意味問題なのだが、とにかく今はそう言うしかなかった。ここまでやった手前、引くに引けない状況なのだろう。
「かぁ〜っ! 胸クソ悪りぃっ! 俺は飯でも作ってくんぞ!」
 そして部屋を出るシャオロンだったが、内心頭を抱える想いでもあった。唯一の望みでもあった仙人道士を、自らの手で追い出す形になったのだ。ここまできては、もうどうしようもない。
「……俺は……なんつー馬鹿な親父なんだろうな」
 久々の自宅の台所。個人の持ち物にしてはとてつもない数の調理器具や調味料。シャオロン自慢のそれらも、今となってはなんの輝きも感じない。片隅に置き去りにされていた椅子を引き寄せ、その上にどっかりと座り込む。そして調理台の上に並んでいた調味料を、不機嫌な右手で思い切りなぎ払った。金属音や破壊音が調理場に響く。だがそれも今のシャオロンの耳には届かぬのか、なんの感情も抱かないまま机に突っ伏した。すると、なぜだか涙が溢れてくるのを感じる。
「……このままじゃ、俺の人生が無意味になる……メイランを亡くし、この上パイランまで失うのかよ……」
 シャオロンは胸の奥が痛むのを感じた。そして、喩えようのない喪失感が自分を包み込んでいくのがわかる。
「……パイラン……お前もこんな気持ちだったのか……」
 そう、気持ちはほとんど同じものである。愛する者を失う喪失感。だがシャオロンには、まだ想い出がある。愛した証も、息子や娘という形で残されている。だからまだ、耐えられるのだ。乗り越えられるのだ。だがパイランには、それがない。
「……メイランなら、何とかできたのかも知れねーな……」
 そしてシャオロンは、いつしか眠りの園へと降りていった。