旅の料理人2――朱雀迷走―― 話の七
作:みのやん





話の七 颯爽登場? 玄武天
 
 
 シャオロンは、皇帝の目の前で膝を突いていた。隣にはコソウと、この三日で凄まじい回復力を見せたパイランもいる。恐るべき親子の血、ということであろう。三日前までのやつれたパイランは、もういない。今のパイランは血色も良く、加えるならば元通り傾国の美女に戻っている。そんな三人を前にし、皇帝はモウカイとウーユワンを傍らに、三人を見下ろす形となっていた。
「青龍天よ」
 その一言は、妙に重苦しい声だった。何か難しい話でも始まりそうな予感に、シャオロンも妙に緊張した。
「……はっ」
「真帝七星のアンホワなるものから書状が送られてきた。朕の認める元での料理勝負を行いたい、とな。向こうは先遣隊として四人の人間を送り込んでくると書いてある。完全な、宣戦布告ということになるな」
 シャオロンにも、今の重苦しい空気の原因がようやくのみこめた。つまり、シャオロンにその任が与えられるということだ。親子での戦いを、せざるを得ないということなのだ。
「……覚悟は出来ております」
「実の娘を……死なせるようなことになっても、なのか?」
 真帝団は敗者に甘くはない。料理勝負に負けた者を、おめおめと生かしておくはずがない。そういうことを言っているのだ。だがシャオロンは、それでも瞳から闘志の炎を消すことはなかった。
「俺は……やります」
「……朱雀天、並びに白虎天も同じ考えであるか?」
 コソウは頷き、パイランはさらに言葉を足す。
「皇帝陛下、私は……憎しみのための包丁は握れません。ですが、真帝七星とて同じ人間。愛することを、知らぬわけではないはずです。だから私は、その愛を思い出させるために、愛を伝えるために包丁を振るうのです。私は愛を伝えることを知らず、ただ愛されるのを待っていた。ですがそれは間違いなのです。まず自分から愛を伝えねば、相手からも愛されることはない。だから私は料理をするのです。愛を、料理に乗せて伝えるために。必ず真帝団に、愛を伝えて見せます」
 父がいつも語っていた愛の料理。それが今、パイランには理解できた。愛の料理によって、見失った自分さえも見付けることが出来たのだから。だが、だからこそ皆にも気付いて欲しかった。料理人とは、愛を伝えていくものなのだと。
「……愛、か。昔の青龍天……いや、古き友人のシャオロンもそう言っていたな。妻への愛、子への愛、そして万民への愛を伝えるがために、包丁を握っていると。やはり朱雀天も、彼の娘ということか……」
 皇帝は若き頃のことを、昨日のことのように思い出していた。もうかれこれ二十年近く前になる。その頃はまだ、十二、三の子供だった。当時から天帝食医を勤めていた若き日のシャオロンに、よく遊んでもらったものだ。そのとき、今のパイランと同じような言葉を聞いたことがある。それを、思い出したのだ。すると自然に、微笑みがこぼれた。突然の皇帝の表情にコソウとパイランは戸惑ったものだが、シャオロンにだけは解っていた。今まさに、自分も同じ事を思い出していたから。そしてシャオロンも、ささやかに口元を弛めた。
「……さて、そち達の気持ちはよくわかった。ではここで、改めてそち達に任を与える。まずは、モウカイ」
 呼ばれて傍らのモウカイが一歩前に出る。皇帝の横に並ぶ形になったモウカイは、脇の台からうやうやしく盆に乗った包丁を取り上げた。その包丁は、輝きを放つ新たな青龍天の包丁。その柄には、小龍と彫り込まれている。
「シャオロンよ、そちには青龍天に戻ってもらうこととした。朱雀天においても、同じである。そして目下修行中であったウーユワンには、欠番である玄武天の役を与えることとする。加えて白虎天、大奥天、以上五人を改めて天帝食医と認め、真帝団との戦いに望んでもらう。 ……よいな?」
「はっ」
 五人の天帝食医の声が重なった。そして戦いの日は、訪れた。
 
 
 その日は、まさに夏本番といわんばかりの晴天だった。遙か彼方に見える見事な入道雲以外に、青く澄み渡る空を邪魔するものは何もない。ただ惜しむらくは、真帝団の来訪がこの日であることくらいだろう。既に皇帝率いる天帝食医、アンホワ率いる真帝七星が、宮廷の中庭に集結していた。睨み合いともとれるような沈黙が、宮外の喧噪すら感じさせないほどにその場を覆い尽くしていた。その中で初めて口を開いたのは、やはりこの人シャオロンである。
「料理勝負をしに来たんだな?」
 この一言が、激しい戦いの始まりを告げていた。一気に膨らむお互いの緊張感。中でも新人天帝食医ウーユワンなどは、傍目には気質に見えないというのに、足を震えさせていたほどである。
「その通りです。この国を賭けて、ということになりますけれど……」
 答えたのはアンホワ。その表情には、どこか影があるように見える。シャオロンは一度面識があるだけに、それが気になった。そして、アンホワが連れていったはずの武闘家、ソウカンの姿がないことにも、だ。何か、嫌な雰囲気を残す影がシャオロンの頭をかすめていく。
「……よぉ、ソウカンとかいうのと一緒じゃねぇのか?」
 シャオロンの一言は、なぜかアンホワに悲痛な表情をさせた。それはアンホワの美しさに相乗して、影のある美を演出している。
「あの人は……里にいますわ。連れてくる必要性などありません」
 何かに怯えるように、何かを押し殺すように言ったアンホワは、その話は終わりだというように颯爽と包丁を取り出した。それも、シャオロンから奪った青龍天の包丁をである。今度はシャオロンが顔をしかめる番となる。
「……わざわざ見せびらかして歩いてんのか、お前はよぉ。んなもん自慢にゃならねぇぞ」
「まあ。かの天帝食医に勝った証だといいますのに、なぜ自慢になりませんの? 第一、あなたはこの前の勝負で包丁を捨てたはずです。それなのに今回の勝負には参加するおつもりなのですか?」
「……必要なら、な。普通に行けばやるこたぁねぇだろうさ。それに俺は死んだわけじゃあないんだぜ。生きているなら、なんだってやり直しはきくもんだろうが」
 シャオロンは真っ先に勝負したい気持ちを抑え、一歩後ろへと下がった。そして代わりに前へ出るのはパイラン、コソウ、ウーユワンの三人である。いずれも天帝食医の正装、真紅、純白、漆黒の絹装束に身を固めている。無論、シャオロンも青一色の絹装束をまとっている。
「長話など無用だ。お前達は料理勝負をしに来たのだろう? アンホワ、私たちから勝負をしようか?」
 まっさきに名乗りを上げたのはそう、パイランであった。その目はただ、アンホワだけを見ている。他の者など、目に入りはしなかった。が、アンホワはパイランに冷ややかな目を向け、そのまま後ろに下がった。そして前へ進み出たのは、アンホワの脇に控えていた一人、小柄な男である。
「僕は真帝七星、破軍の風(フォン)。まずは僕がやるよ」
 明らかに、子供である。まだ十二、三にしかならないであろう真帝七星のフォンは、ニヤニヤと笑いながらパイランを見る。が、パイランの視線の先に彼はいない。いるのはただ一人、アンホワだけである。
「……ならば私の出る幕ではない。兄貴でも、ウーユワンでも、好きな方がやってくれ」
 パイランはさっと踵を返し、後ろへ下がった。そして驚きに目を見張るコソウ、ウーユワン組とすれ違いざまに、目を伏せたまま一言呟いた。
「……あの子供、気を付けた方がいい」
 自分だけ下がっておいてよく言うものである。が、それを責めることが出来るほど度胸の据わった男は存在しなかった。コソウも、ウーユワンも、ガックリと項垂れはしたものの、何も言い返せずにどちらが出るかを検討し始める。
「ウーユワンさん、行きますか?」
「お、俺か!? い、いや、ここはお前が行った方が……」
「私もあの子は気になるんですけれど、奥の人の方がもっと気になるんですよ。私はどちらでも構いませんが……」
「なに! 奥の奴、か……実を言うとな、俺はあまり自信がない。この宮廷に来て、お前達のこなしてきた修練というものの凄まじさがよくわかった。シャオロンの奴に勝てなかったのも頷けた。そんな俺が……仮にも六歌仙とか言う強者達を倒したような奴に、勝てるのかと心配でな……」
 ウーユワンは、超弱気モードである。彼はまさしく自分の腕の未熟さに、ここのところ情けなくなっていたところだったのだ。今までシャオロンをライバルだなどと言っていた自分が、本気で恥ずかしかった。その腕の差が埋まったとは、どうにも考えられない。おまけにあのアンホワという女にはシャオロンでさえ敗れたという。真帝七星にはそんな人間がゴロゴロしているのかと思うと、とても自信満々で勝負に望む気にはならないのだ。
 と、そこへ業を煮やしたシャオロンがやってきた。あまりの決断の遅さに、黙っていられなかったようである。
「なぁにやってんだよ、お前は。お前は俺のライバルだろうが。あんな連中にビビってどうすんだよ」
「か、勝手なことを言うな! 俺は……未熟だった。お前や他の天帝食医たちと、同等に戦えるはずがない。俺などは、ここにいるべき存在ではないのだ」
 あまりに不甲斐ないウーユワンに、シャオロンも苦笑いするしかなかった。どんな種目でも、勝負というものの勝敗を分けるのは気合いだとシャオロンは思っている。それがこうも腑抜けた状態では、本来の力を十分発揮できるはずもない。そこでシャオロンは、作戦を変更した。
「……なんだ、お前なら絶対勝てると思ったんだがなぁ」
 突然のシャオロンの言葉に、ウーユワンは不思議そうな表情で顔を上げた。
「……何?」
「いやぁな、俺はコソウやパイランなんかより、お前の方がずっと戦力になると思ってたんだよ。それなのに、お前がそんな調子じゃぁなぁ……」
 なぜか、ウーユワンの顔に生気が戻り始めた。先ほどまでは、死地に赴く兵士のような顔だったにも関わらず、だ。
「昔食べたお前の料理は、満漢全席よりも旨かったけどなぁ」
 満漢全席とは、いわゆる超高級料理である。皇帝しか食すことを許されぬ料理で、百八種類の料理を、三日三晩かけて食すというものである。それも、東西南北を問わぬ美味な料理を、だ。それよりもウーユワンの料理の方が旨かったと言うのである、シャオロンは。これにはウーユワンも、驚きで目を見張った。
「……ほ、本当か?」
「あのなぁ、お前は皇帝陛下に認められたんだぞ? それが、そんな調子でどうするんだよ? お前は俺達と同格の料理人だ。いや、ひょっとすると俺たちよりもず〜っとず〜っと上なのかもなぁ……」
 こんな言葉にホイホイ乗せられる者の気が知れない。が、乗せられる者は、ここにいた。おだてに弱い男ウーユワンは、満面の笑みを浮かべて高笑いしながら、破軍のフォンを指差してこう言ったものだ。
「なーっはっはっは! 貴様の相手はこの俺、天帝食医最強と言われるウーユワン様がしてくれるわっ! 数刻後には俺を料理界の神と崇めることになるだろう! さぁ、勝負だ!」
 フォンは、口を開けたままポカンとしていた。ここまで大言壮語な男など、閉鎖された真帝団の里では見たこともなかったであろう。とにかく、この言葉を本気で信じた。子供であることが、こんなところで裏目に出るとは誰も思わなかったであろう。とにかく、人生経験の少なさからか、はたまたウーユワンの常軌を逸した強気度合いによるものなのか、とにかくフォンは怯えた。この天帝食医最強の男に。そうこうしている内に、アンホワがウーユワンに料理内容を告げる。
「では最初の料理は牛料理。制限時間は二刻ということでいかがですか?」
「はっはっは! 俺に得手不得手はない。何でも受けて立ってやるぞ!」
 これがいけなかった。ウーユワンはこの勝負を受けたことで、勝敗を決してしまったのだ。何しろ、破軍のフォンは牛料理にかけては真帝七星で一番なのだ。だがそんなことなどまったく知らず、ウーユワン、フォン共に料理を開始した。
 
 
 ウーユワンは、牛肉の中でも特に歯ごたえで定評のある、舌の部分を食材置き場から手に取った。そしてニヤリと笑みを浮かべ、玄武の刻まれた包丁を手にする。
「ふっふっふ、あのシャオロンでさえ唸らせた俺の料理を……見せてくれるわっ!」
 気合一閃。ウーユワンは用意していた香味野菜をざくざくと大振りに切り刻む。それを沸かした湯に放り込み、牛の骨やすね肉なども一緒に煮込み始めた。そしてメインである牛舌に塩と胡椒で味付けし、太めの糸でグルグルとキツめに縛り、煙が出るかというほどに熱した鍋で表面に焼き色を付ける。そこまでの手順は、確かにシャオロンを唸らせていた。何しろこんな料理は、この帝国にはないはずである。牛の骨で取る出汁など、聞いたことすらない。シャオロンはここへ来て、ウーユワンの影ながらの努力を心から認めた。
 さて、焼き色を付けた牛舌は先ほどから煮込まれている出汁に放り込まれた。
 とりあえず、こちらはこれで一段落である。後は悠々と野菜などを切り始めるウーユワン。だがそんなウーユワンの料理は、間違いなくフォンに偵察されていた。
 
 
 破軍のフォンは、ウーユワンの料理が一段落するまで自分の鍋の前に立っているだけだった。調理台の上に腰掛け、無表情に眺めていたのだ。そして、ウーユワンの料理の弱点を悟った。
「……なるほど、その料理は美味しいよね。他の国の料理も勉強してるみたいだけど、結局ハッタリだったって事か」
 先ほどまでの怯えようはどこへやら、フォンは口笛などを吹きながら食材置き場へと歩を進める。そして手に取ったのは、牛の頭。
「牛舌なんかじゃとても手が届かない世界を見せてあげなきゃね」
 一人小声で笑うフォンに気付いたのは、アンホワともう一人の真帝七星だけだった。シャオロン達はただウーユワンの一挙一動にハラハラドキドキして見守っている。とても相手側の料理などを見ている暇がない。それこそが、勝負の明暗を分けたのだ。
 
 
 両者の料理ができあがった。たった二刻という時間は、風のように過ぎてしまった。そしてここからが、勝負を決する判定の時間である。
「では、どなたに審査していただきましょうか?」
 アンホワはまったく不安を見せず、皇帝以下天帝食医へ向かってそう問いかけた。あまりの自信に、シャオロン達などは嫌な雰囲気を感じる。
「……こういうときはやっぱり、皇帝陛下かモウカイの爺さんだろ? 俺達じゃあ不当な判定だって言われちまうだろうしな」
 こうして審査員は、厳正な(?)討議の末、皇帝と決定した。なぜモウカイではないのかといえば、本人が辞退したのが主たる理由である。その理由としては皇帝が審査員ならば、料理に未経験である他の者達とも感性が似ているだろうからとのこと。しかし皇帝と感性が似ている庶民など、この世にいるはずもない。そういうことには気付かない、間抜けなモウカイであった。
「別に誰でも構いませんわ。皇帝陛下とお決めになったのでしたら、早く試食を始めていただきたいものですわね」
 そんなアンホワの言葉に促され、皇帝は試食席へとついた。そしてまずは、ウーユワンの料理から試食を始める。
「これは、牛舌の煮込み料理か?」
「はっ。牛舌煮込み西方風でございます。遙か西方から来訪した料理人から聞いた話を元に作りました。かの地ではタレに牛の骨から取った出汁を使うと聞き及んでいます。自分で味見をして驚いたほどの出来であります」
 自信満々のウーユワンだが、シャオロン以下天帝食医の面々はどれも苦い顔である。つまり、作ったことのない料理をぶっつけ本番で作ったのだ、ウーユワンは。これほどの冒険はいかにシャオロンやパイランと言えどやる気にはなれなかった。つまり、そういう面では確かに料理界の神なのかも知れない。
 それはさておき、ウーユワンの料理は見た目にはいい出来である。皿の上に描かれたソースの葉っぱ模様。その上に乗るのは厚めにスライスされた牛舌と、軽く油で素揚げされたタマネギ。盛りつけの見事さは、さすが皇帝の認めた男、というところである。
 皇帝の箸が牛舌を一枚はさみ、それを持ち上げたところで一同から驚きの声が挙がった。理由は牛舌の、驚くべき柔らかさである。親指の太さと同じくらいの厚さに切られた牛舌が、美しい曲線を描いて折れ曲がったのだ。これは、通常では考えられない柔らかさである。時間も限られ、充分な煮込みが出来ていなかったはずの牛舌がそれほどまでの柔らかさになるなどとは、皇帝以下全員の、思うところではなかったようだ。
「これは……見事に仕上がっているな。これほど柔らかい牛舌など、朕は食したことがないぞ」
 皇帝の言葉に、ウーユワンはさらに満面の笑顔になった。これほどの讃辞は、かつて受けたことがない。たとえウーユワンでなくとも、喜びをあらわにしたに違いない。
「それはタマネギの力でございます。タマネギに含まれる成分が、肉の繊維を柔らかくするのです。糸で縛る前の肉を、タマネギをすり下ろした物の中につけ込みました」
「ふむ、濃厚な西方風のタレ、柔らかく調理され、味の染み込んだ牛舌、見事な料理であるな」
 そしてウーユワンは心の中で勝ち誇った。もはや負けることはないと。が、それもフォンの料理を試食した皇帝の一言目でうち崩されることとなる。
「こ、これは……なんと素晴らしい味わい! これほどの料理には、未だ出会ったことがない!」
 この言葉でウーユワンはガックリと肩を落とし、フォンは満面の笑みを浮かべる。完全なる攻守逆転である。
「これは、いったい何なのだ? 牛に、こんな部分が存在するのか?」
「へっへ〜、そいつは牛の脳味噌さ。牛の中でも最もコクがあって旨い部分だよ。ちなみにこの国ではそれを食べる人はいないね。そいつは、あのおじさんと一緒で西方の料理なんだ」
 ウーユワンは、はっと気付いた。つまり、フォンはウーユワンの料理が西方の料理と知り、あえて同じ西方料理で対抗してきたと。そして、負けたのだ。
「これは……いったいどうやって作られた料理なのだ?」
「それはね、軽く茹でた牛の脳味噌を裏ごしして、牛の出汁にあわせてやる。そいでもって、これ。西方で、タイムと呼ばれている香草を入れて器に注ぎ、蒸し上げれば出来上がり。もっと東方の島国では『茶碗蒸し』とか言う料理で知られている作り方かな」
 この言葉を聞き、シャオロンが眉をひそめた。
「茶碗蒸し……か……」
 その呟きを聞き、パイランがシャオロンの方へと目を向ける。
「知っているのか、親父?」
「……ああ。旅をしていたときに話しただろ? 東方から来た旅人が植えた桜の話を。その旅人が、一度作ってくれたことがある。そのときは卵と出汁だけの、いたって単純な物だったが……それでも蒸し方が凄く微妙でな。俺も真似して作ろうと思ったが、ひび割ればっかりでまずかった」
「つまり、真帝七星は確かに相当な腕を持っている。おまけに私達の知らない料理法まで身につけていると言うことか」
 これにはシャオロンは答えなかった。答えたくなかったのだ。勝負の前から、負けを認めたくはない。だが、事実は無言の圧力を彼らにかける。背筋を伝う冷たい汗が、シャオロンの心をわずかながら縮こませていた。
 
 
「初戦の勝者は……真帝七星フォンとする」
 皇帝の、痛々しげな声が宮中に響く。集まっていた外野からも、ウーユワンを非難するような声が聞こえてくる。それを耳にしたウーユワンはガックリと項垂れたものだが、同じく耳にしたシャオロンとパイランは、そうではなかった。
「おいっ! お前らにウーユワンを非難する権利はねぇっ! ウーユワンは皇帝陛下が自らお認めになった玄武天だ! ウーユワンを笑うことは皇帝陛下を笑うにも等しいと覚えておけっ!」
 激昂するシャオロンとは対照的に、静かに語るパイラン。だがそれが怖さを倍増させている。
「ただフォンの方が、牛について詳しかっただけのことだ。別に騒ぐほどのことではない。勝負というものは時の運だと、誰もが知っているはずだ」
 ウーユワンはこのとき、改めてこの二人の強さ、魅力を知った。そして、間違いなく自分が劣っていることも。
 そんなことを考えながら調理台を離れるウーユワンの肩に、そっと近付いたコソウの手が乗せられた。コソウの顔も、家族と同じように責めるわけではなさそうだ。
「……お疲れさまでした、ウーユワンさん。パイランの言うように、勝負は時の運です。もし皇帝陛下が昨日、濃厚な料理を食べていたら勝負は解りませんでしたよ。それから……」
「……それから、なんだ?」
「それから、今の料理をぜひ私にも食べさせてくださいね。とても美味しそうでした」
 ウーユワンはこぼれ落ちそうな涙を懸命に堪えた。そして、コソウにその場を明け渡す。調理台に付いたコソウは、自らの包丁を勢い良く抜き放つ。そしてその切っ先を、真帝七星の方へと向けた。
「次は私の番ですよ。できればメイホワの相手をしたいのですが、パイランが許してくれないと思いますから余り物のあなたで結構ですよ」
 コソウにしては、珍しく挑戦的な言葉である。貴公子然とした外見や、普段の言葉からは想像もつかないようなきつい言葉。そして相手をそのまま睨み殺してしまいそうなほどに鋭い眼差し。今ここにいるのは、いつもの『シャオロン家の長男』ではなく、真の意味での『天帝食医白虎天』であった。
「ヒッヒッヒ……では貴様の相手はこの余り物、真帝七星貪狼の黄炎(ウォンエン)ということになるな」
 片腕片目、それで料理が出来るものなのかと見えてしまうその男、ウォンエンは忍び笑いを漏らしながらコソウへと近付いていく。そしてコソウの目の前に立つと、目の前にいる美男子の顔を無礼なほどに覗き込んだ。唯一残されている片方の瞳が、冷たい光を宿してコソウを射抜く。
「ヒヒヒ……まさかお前みたいな男と戦えるとはなぁ。こいつは楽しみだぜ……ヒャハハハハ!」
 薄気味悪い笑い声は、コソウの耳に嫌という程こびり付いた。いったいウォンエンが何を考えているのか、コソウにはまったく見当も付かなかった。