旅の料理人2――朱雀迷走―― 話の九
作:みのやん





話の九 ただ愛するが故に
 
 
 二つの調理台。二つのまな板。その切り株状のまな板一つずつの上に、一振りずつ包丁が置かれる。片や朱雀の彫り込み。片や青龍の彫り込み。どうやらアンホワは、シャオロンの包丁を使うつもりらしい。鈍く輝く二振りの包丁が、これから始まる最終戦の激戦を予感させる。
「……準備はいいのか、メイホワ?」
 パイランはあえてその名を呼んだ。まるで、そうなることを願うかのように。
「私はアンホワです――いつでもよろしいですわ」
 敵意を剥き出しにした視線をパイランに送るアンホワ。
 今、二人の偉大な料理人が熱い勝負を始めようとしている。
「それでは最終戦、天帝食医朱雀天パイランと真帝七星文曲のアンホワ。料理課題は、『己が想い』とする」
 皇帝の言葉に、皆が静まり返った。そんな抽象的な課題など、前代未聞である。
「己が想い……か」
 パイランはしばし腕組みをして考え込む。対してアンホワの方は素早く動き始めた。抱え込んだカゴに、どんどんと食材を放り込んでいく。
「……ねぇ父さん、パイランは本当に大丈夫だと思うかい?」
 コソウの声は弱々しい。不安を押し殺し、無理に冷静さを保っているように見える。対するシャオロンはというと、何の不安もないのか平然としている。
「あんまり心配すんなよ。あいつは俺の娘でお前の妹だろ? 俺達が信じてやらねぇで、いったい誰が信じてやるってんだ? あいつは家族の絆を伝えると言った。だったら俺達もその絆を信じて、任せておくだけでいい。もっとも、応援はするけどな」
 片目を瞑ったシャオロンは、なんとも魅力的な笑顔を見せる。こういう表情を見せるところが、シャオロンの魅力なのだ。
「信じて……ね。じゃあ、こういうのはどうだろう?」
 そしてコソウのとった行動とは、まさしく死と隣り合わせな行動だった。
「パイラン!」
 コソウの声に、パイランは反射的に振り向いた。すると、こうである。
「頑張るんだよ! 私も君を愛して、見守っているから!」
 これには観客(特に女性)がざわめきたった。この大舞台で、突然こんなセリフを吐くのである。常識離れも甚だしい。と、パイランが呆気にとられて何も言い返せないのをいいことに、今度はシャオロンまでが大声を張り上げた。
「馬っ鹿野郎っ! この世で一番、俺が愛してるに決まってんだろうがっっ!」
 いったいどこから声を出しているのか、まさに帝都中にまで響き渡りそうな大声が木霊した。しかもシャオロンは、ぐっと親指を突き出した拳をパイランに向けて堂々と立っている。いったい何に自信があるのやら。
「……恥ずかしい家族だ」
 パイランは乙女のように(実際に乙女だが)頬を赤らめうつむいてしまった。が、すぐにクスクスと笑い初め、やがて馬鹿な家族に向かって堂々とこう返事を返す。
「この馬鹿家族達め! ……私も、同じくらい愛してるに決まっているだろうが!」
 まさしくこの時、シャオロン一家の心は一つになったに違いない。そしてそのときの三人ほど、この世で強いものはない。この世に怖い物など、何もない。
「そう……怖い物など何もない。私は私の伝えたい気持ちを……家族としての想いをメイホワに伝えるだけだ」
 パイランは、流れるような動きで食材置き場へと向かった。そして思いついた料理のための材料を次々とカゴに入れていく。そのときのパイランの表情といったら、それはもう素晴らしいものだった。神々しいという表現にもぴったりと当てはまるような、慈愛に満ちた表情だ。営業用の笑顔とはまるで違う、なんとも優しい光を宿した瞳、かすかに微笑むような口元、そしてとげとげしさを感じさせない優雅な動き。すべてが、何もかもを超越していた。シャオロンやコソウのパイランを見守る瞳も、同じように暖かさが溢れている。パイランを信じ、見守ることで力になれると信じて。
 ――私は伝えたい。何より家族の絆を……家族の愛情を、メイホワに伝えてやりたい――
 パイランの心には、ただそれだけしか存在しなかった。勝敗も、ソウカンを奪われたときの苦しみも、恨みも、シャオロンを傷つけたアンホワへの怒りも、今のパイランには存在しなかった。ただメイホワを助けたい。その気持ちだけが、パイランの気持ちのすべてだった。そして、時は進んでいく。
 
 
 アンホワの心は、揺れていた。今目の前で料理をしているパイランの表情に、心を奪われそうになっている。そんな自分に気付いていた。あの暖かさはなんだ。あの神々しさはなんだ。自らに向けられる慣れない気持ちが、アンホワの料理にまで浸食してくる気がする。
 ――でも、私も負けられません。私があの人を愛したのは嘘ではない。だから今は、負けられない――
 アンホワは今の自分を支えるたった一つのことだけを考え、愛する者を想いながら料理を進める。淀みのないその動きは、さすが真帝七星というところだろう。ちなみにメイホワはシャオロンの包丁を使っている。その包丁の使い易さといったら、まるで自分のために作られたもののようだった。前後のバランスも、重量も、柄の太さから刃の厚さ、大きさまで、すべてが自分にぴったりだ。だがだからこそ、自分があの憎むべきシャオロンの娘だと再認識させられた。だがそのほんのわずかな想いが、アンホワの腕を鈍らせる。と、あろう事か魚の骨に引っかかり、無理矢理動かした包丁がアンホワの指をかすめた。薬指に一筋の赤い線が入り、ほんのわずかずつだが血がにじみ出してくる。
「あっ……」
 自分が指を切るなど、到底信じられなかった。真帝七星として包丁を振るい初めてから今日まで、そんなことは一度たりとも無かったことだ。今の自分はどうかしている。そう思い、一度深呼吸をしようと包丁を置いた。と、突然背後から声がかけられる。
「指、出してみろ」
 聞き覚えのある声に、アンホワは素早く振り返った。おまけにほんの少しだけ飛び退き、距離もとった。背後にいたのはそう、憎むべき父親シャオロンであったからだ。
「……なにをおっしゃっているのですか? 私と貴方は敵同士。敵に情けをかけるなど、パイランがどうなってもかまわないと言うの?」
 睨み付けるような愛娘の視線に、シャオロンはふっと肩をすくめた。が、それで引き下がるわけではない。強引にアンホワの左手を取ると、薬指の血を舌でぬぐい取り、綺麗な布をきつめに縛り付けた。
「人間の血の味がする料理なんて最低だぜ。あいつに勝ちたかったら、ちゃんとした料理を作れよ。あいつは……この前の俺なんかよりも、遙かに強いぜ」
「自分の負けを……認めるのですか?」
 アンホワは、目を見張った。この前戦ったときのシャオロンとは、何かが違うように感じたからだ。その瞳も、何か暖かい光を宿して自分に向けられている。
「ま、癪ではあるけどな。でもよ、今なら負けねぇぜ。あいつにも、お前にもだ」
「今ならば私に勝てる、と? 随分と思い上がったものですわね」
「思い上がっちゃいねぇよ。ただな、今の俺には一つの想いがある。それはお前にはないもので、俺だけじゃなくパイランもコソウも持っているものだ」
 アンホワはシャオロンの言葉の意味が解らなかった。たった一つの想いの違いで、料理に勝てないとでも言うのだろうか、と。だがそんなはずはない。自分は真帝団の一人として、想いなど無くても勝負に勝ってきた。そしてこの勝負も、負けるつもりなど微塵もない。何より今の自分には、ソウカンの命がかかっているのだから。真帝団の上層部が仕掛けた、勝利のための最大の保険。それはアンホワが人として初めて愛した男、ソウカンを人質に取ること。今もなお、ソウカンは命の危険にさらされているのだ。ここで自分が負けるわけには行かない。自分にも、シャオロン達に無い想いがあるのだ。
「私にだって想いの一つくらいはありますわ。今の私はその想いのためだけに包丁を振るっているのです」
「……んなこたぁ最初からのお前の表情を見てればわかるさ。好きな男を……人質にでも取られてるんだろ? そうでもなきゃ、本気で愛した相手と離れようなんて思わねぇよな。ついでに言えば、お前は俺の娘なんだから。一途な所があってもおかしくはねぇよ」
 シャオロンは、始終微笑を浮かべていた。そして手当を終えると、すぐに自分のいるべき所へと戻っていく。アンホワにはもうかけるべき言葉が見あたらず、ただ呆然とするしかなかった。と、胸の辺りに妙な感覚を覚えた。暖かいというか、懐かしいというか、憧れていたような感覚なのは間違いない。しかしなぜこんなにも心が暖かい感じになったのか、今のアンホワには到底解らなかった。
 
 
 パイランは、鼻歌混じりで料理をしていた。だからといって、それほど余裕があるわけでもない。切羽詰まった勝負なのは確かだ。相手はあのシャオロンを負かした女なのだ。だが、今のパイランは楽しみながら料理をしていた。野菜を切ったり、魚をさばいたり、肉を砕いたり、小麦粉をこねたりと、何もかもが楽しかった。過去、こんなにも楽しみながら料理をしたことがあっただろうか。そう思えるほど、楽しかった。
「何がこんなに楽しいのか、自分でもよくわからないな」
 パイランはそう思いながら、やはりそんな自分におかしくなった。そして微笑みながら、料理を一気に仕上げる。
「よし、完成だ」
 パイランは額の汗を拭った。そしてシャオロンとコソウ、愛する家族の方へと顔を向ける。
「……これで、必ず伝えてみせる……」
 パイランの想いは強い。その強さが、シャオロン達にも伝わってくる。
「父さんはメイホワに……伝わると思う?」
 コソウはここへ来て、やはり不安げな表情だ。やはり、一筋縄ではいかないことを知っているのだ。だがシャオロンは、何の不安も見せずにこう答える。
「伝わるさ……必ずな。メイホワは俺の娘だぞ? あの変わり者のパイランにだって家族の愛は伝わるんだ。だったらあいつにも、メイホワにも伝わるぜ」
 コソウの心配は、確実に薄れていった。シャオロンに絶対的な信頼を寄せているコソウには、この言葉ほど安心できるものはない。だからただ待つことにした。皇帝の試食結果を。
「さて、では試食に移らせてもらおう。どちらから先に試食をするのか双方で決めるがよい」
 皇帝の言葉に、パイランとアンホワは顔を見合わせた。そして、自然とアンホワが料理を持って皇帝に歩み寄る。
「では私からお願いいたしますわ。私の料理は対愛魚飯(トイアイユイファン)と申します。どうぞ、御賞味くださいませ」
 そう言ってアンホワが出したのは、蓋付きの丼。この国では、蓋付きの丼など非常に珍しいものである。通常ならば湯麺などに使う程度で、蓋は使わないからである。
「ほう、飯物で丼を使うとは、なかなか凝った趣向だな」
 皇帝はじっくりと丼を眺めてから、乗せられていた蓋に手をかける。そしてそれを取り上げた瞬間、周囲から歓声が起きた。
「おお、これは……美しいな。この小さな丼の見目で、これほどまでに気を引く料理というのは今までお目にかかったことがない」
 皇帝の言うことは、至極もっともである。普通目を引く料理というのは、大皿に盛られた華麗な料理である。だが、この料理はそういう種類とはまったく違う。丼の内側にあしらわれた桃の花の絵柄が純白の飯によって素晴らしく映えている。そしてその上に乗せられた鱈の身も、うっすらと光沢を放ち鮮度の良さを主張しているかのようだ。そしてトリは鱈の卵と白子を和えた物だ。これがピンクと褐色の、見事なコントラストを描いている。これほど小さい丼という世界に、なんと緻密な美をあしらったことか。
「見事であるぞ。敵ながら素晴らしい料理を見た」
 皇帝の言葉に、アンホワはほんのわずかだが頭を下げた。そして、料理の説明を始める。
「この料理は雄と雌の鱈の身をそぎ切りにしてご飯の上に乗せ、中央には鱈の卵と白子を和えた物が乗っております。この上に、熱いスープをかけてお召し上がりください」
「ほう? まだスープがかかるのか?」
「はい。鱈の骨を軽くあぶり、湯の中に入れて煮出した鱈のスープでございます」
 そしてアンホワが丼にスープを注ぎ込む。温かいスープの湯気に乗せられた、なんとも言えない香りが辺りを包み込んだ。その香りに、またも歓声が上がる。
「……良い香りだ。軽くあぶられたおかげで生臭さもなく、香ばしい香りがするな。これは……面白そうだ」
 そして皇帝は箸を伸ばした。熱いスープによって半生状態になった鱈の身と、下のご飯を行儀悪く丼の脇からすすり込んだ。だが、これが一番美味しい食べ方なのだということを、皆が知っているから咎める者もいない。
「これは……なんと旨い料理か……」
 皇帝の一言で、周囲の観客達は大いにざわめいた。なにしろこの勝負には、皇帝自身の身もかかっているのだ。到底負けを認めるようなことはすまい。それが観客達の予想だったのだ。しかしこの皇帝は、そんな観客達の期待を思い切り裏切った。だがこれこそが、表裏のない皇帝の良いところでもあるのだった。
「これは……素晴らしい料理だ。いたって平凡な材料、いたって平凡な料理ながらも手間を惜しまずに作られた、極上の逸品だ。これを越えるのは、至難の業であろうな」
 まさしく絶賛である。これによってさらにざわめきが大きくなったのは言うまでもないだろう。
「……確かに旨いのは解った。そして……そちの伝えたい己が気持ちというのもな」
「……本当に、伝わりましたでしょうか?」
「うむ。そちの想いとは、異性への限りない愛、であるな?」
 皇帝の言葉にアンホワはピクリと反応した。そしていくらか時間をおいて、小さく首を縦に振る。
「……その通りでございます」
「そうか。雄と雌の鱈を使い、いついかなる時も側に置く。何があろうと愛した者とは離れたくないという気持ちが、伝わってきた気がするぞ。なんと深く……切ない想いか……」
 そして皇帝は箸を置いた。丼も、蓋を逆さに重ねてアンホワの方へと返す。
「……ふむ、では朱雀天の料理を試食させてもらおうか」
「解りました。では私の四宝焼売をどうぞ」
 思い詰めたようなアンホワとは対照的に、笑顔のパイランが皇帝に五つのセイロを差し出す。
「む? なぜ四宝焼売で五つのセイロなのだ? 一つ多いではないか」
「それは食べていただければ解ります。まずは一つずつご試食を……」
 並べられた五つのセイロ。その内の一つは随分と大きな物で、他の四つのゆうに四倍はある代物だ。そのセイロの内、まずは小さなセイロの一つを皇帝の眼前へと差し出した。
「これは、肉魚焼売。牛肉と鯉の身で作った焼売です」
「ほう? 肉と魚を混ぜた焼売……初めて食べる物だな」
 皇帝の箸が焼売へと伸びる。そして口に入れた瞬間、皇帝の目つきが変わった。なにやら妙な驚きを感じた表情になる。
「……朱雀天よ、そなたは……本当にこの料理で納得できたというのか?」
 観客達は、皇帝のこの言葉の意味が解らなかった。いったい何を言っているのかと、顔を見合わせ小声でささやき始める。そんな中、一人普通のパイラン。
「納得できぬ料理をお出しするはずがございません。もし不都合があるというのならば、それは私の舌をおかしいとおっしゃっているようなもの。それはあんまりというものではございませんか?」
 パイランの言葉に、一人声を上げた者がいる。兄であり天帝食医白虎天でもある、コソウだ。
「……! まさか……パイランはこの前の病気で舌をやられて、味覚を失っているのでは……」
 コソウの言葉に、会場のざわめきは更に大きくなった。もはやざわめきと言うよりも、悲鳴に近いものにまで発展していく。
「パイラン! やはり君はまだ病気が……」
 コソウの悲鳴がかった声がパイランに届く。しかしパイランはコソウの方を向くでもなく、ただ試食する皇帝に視線を注いでいる。
「……皇帝陛下、はっきりとおっしゃっていただきたい。その料理のいったいどこが、どうなのかを」
 腕組みをしたパイランは、皇帝に向ける視線を更に鋭いものにした。その視線に射抜かれながらも、皇帝は力強い声でこう言った。
「この料理は、味だけならば確かに旨いかもしれん。だが明らかに失敗作と見受けたぞ? 魚の生臭さが消えず、口の中から鼻にかけての嫌な感じは食べ終えても消えることがない。更に言えば、牛肉の脂がくどすぎて、おまけに牛肉特有の臭みもとれていない。これを、そちが作ったとは正直信じられんほどだ」
「……なるほど。ならばそれはそこまでで結構でございます。次のセイロをどうぞ」
 パイランは鋭い視線をやや弛めて口元に諦めたような小さな笑みを浮かべると、二つ目のセイロを皇帝の前に差し出す。
「次は蓮根と豚肉、タマネギの焼売です」
 差し出したセイロからはもうもうと湯気が上がっている。パイランが開けたそのセイロの中には確かに焼売がある。だが、先ほどの肉魚焼売もそうであったのだが、たった一つしか入っていない。普通焼売と言えば、どんなに少なくてもセイロ一つにつき、一種類で3つは入っているものである。それが、どうしてこんなにも少量なのかは皇帝にも理解できなかった。もしかすると、パイランの自信のなさの表れなのかも知れない、と皇帝は正直思っていた。
「……蓮根と肉とタマネギ……か。今度はまともなのであろうな?」
「食べていただければ解ります」
 パイランにそう促され、皇帝は二個目の焼売に箸を伸ばした。そして口に入れて、目を見張った。
「これは……素晴らしい歯ごたえだ。蓮根のザクザクとした食感が素晴らしい。そして肉汁の量も申し分ない。だが……タマネギの甘さが出過ぎていて、なんともしつこい味になっているな」
 周囲からため息の声が上がったのは、言うまでもないだろう。ウーユワンなどは頭を抱えて走り回り、コソウも心配そうにパイランを見つめている。唯一落ち着いているのはシャオロンである。
 ――あいつには、正直かなわねぇな。まさかこの土壇場で、ああいう料理を出してくるかよ……いや、さすがは俺の血を色濃く引いてる我が娘、ってとこか――
 シャオロンの心の内など誰も気にせず、皆好き勝手な罵声や怒声をパイランめがけて放っている。当のパイランは肩をすくめただけでそれ以上動じるわけでもなく、またもこの料理はこれで終わりだと次の料理を差し出した。
「では三つ目です。これは白菜、キャベツ、椎茸、香草を使った野菜焼売です」
 多少自信ありげに出した三つ目の焼売も、試食した皇帝に思い切り痛烈な感想を述べられる。
「野菜だけで作られた焼売。発想は見事だが、味はお粗末なものであるぞ。脂分を出すものが一つもないことで野菜の水分が出ただけの、ジューシーではあるが満足感のない焼売になっている。おまけに香草の量が多すぎると思うぞ? 二つと食べられないようなきつい香りが口に残る」
 散々である。皇帝の言葉も、観客達の声も。「もう代われ」とか、「それでも天帝食医か」などという言葉さえもが飛び交った。だがそれでもパイランは、ひるむことなく四つ目のセイロを差し出した。
「さて、小さなセイロはこれで最後になりますので、皇帝陛下のお苦しみもこれが最後になります」
 パイランは意味深な言葉を皇帝に放ち、セイロの蓋をパカッと開ける。と、中からは……
「ほう、蟹焼売か」
 なるほど皇帝が気付いたのも解る。その焼売の上には、まさに蟹の身そのものが乗っていたからだ。
「ふむ、これはまともそうに見えるが……」
 皇帝が蟹焼売を口に入れた。しばし咀嚼して、ガッカリとした顔つきになったのを誰一人として見逃さなかった。
「蟹臭い、という表現がぴったりと当てはまるな。焼売の中身、半分以上が蟹肉のようであるな。確かに蟹は味も良く、高級感もあるものだが……これではいささか使いすぎに見えるな。蟹が強すぎて一緒に入っている豚肉の良さが出ていない」
 さて、小さなセイロがすべて開かれたところで、パイランは最後のセイロを取ろうともせずに皇帝を笑顔で見つめた。そして、あろう事かこんなことを言う。
「いかがでしたか、四種類の焼売は? さぞクセのある焼売だったことでしょう」
「……そちは解っていて出したのだな、あの焼売を?」
「無論です。ですが説明は後にいたしましょう。実はこの焼売を、メイホワの分も作ってあるのですが……一緒に試食をしていただきたい」
 このパイランの突然な申し出には、アンホワも一瞬だったが動揺した。いったい何を言っているのか、予想も付かない事態である。まさか、毒でも盛ろうというつもりなのかと疑ったほどである。
「いったいどういうつもりですの? 私に料理を食べさせて……毒を使おうというわけですか?」
 アンホワのこんな言葉にも、パイランはまったく動じない。
「毒を使う覚悟があるのならば素手で首をねじ切り殺しているぞ。第一、私にはそんなものを使う理由がない。ただかわいい妹に私の料理を食べさせてやりたかっただけだ」
 アンホワは不審がったような顔をしつつも、パイランの言葉に従って皇帝の横の席に付いた。これは皇帝の配慮である。もし料理に不振な点があれば、いつでも自分を殺してかまわないぞという意思表示だ。それだけパイランを信じているともとれる。こんな料理を出されたとしても、だ。
 そして、パイランの焼売がアンホワの前にも並んだ。アンホワは一瞬躊躇いはしたが、箸を伸ばさねば負けのような気がしてゆっくりと焼売を一つ一つ口に入れ、味わっていく。そして四つ目の焼売を試食し終えた後、途端にクスクスと笑い始めた。
「朱雀天ともあろう者が、こんな未完成の料理を出すなんて。まさかこれで私に勝つおつもりだったのですか?」
 アンホワは勝ちを確信していた。五つの内で四つの料理がこんなにもひどいものなのだ。当然五つ目も同じだと考えた。が、心の奥底には何か引っかかるものがあった。ほんの少しだけ、何か小さな棘のようなものを感じたのだ。そしてそれは、今まさに現実となる。
「私の伝えたかった想い、そして食べさせたかった料理とは最後のセイロにこそある。この料理こそが、私達シャオロン一家のすべてだ」
 ついに開けられた最後のセイロ。その中には、象眼型と呼ばれる形の焼売が一つ。象眼型とは、具をいくつもの部屋に分けて入れた焼売の呼び名である。これによって、いくつもの味を一つの焼売で楽しめるという利点があるのだ。
「これこそが私達の焼売、シャオロン一家の焼売『四色龍家』だ」
 象眼焼売には四つの部屋があった。その部屋一つ一つに、先ほどまでの四種類の具が詰め込まれている。
「これが……大本命か……」
「象眼型? でも……いくら何でも今までの焼売を一つにしたところで……」
 皇帝とアンホワ。二人はほぼ同時に箸を伸ばした。象眼型の焼売は通常大きめに作られるものだが、この焼売は普通の焼売より少し大きい程度だった。それは、一口で容易に味わえるものだ。そしてその通り、一口で味わった試食人二人は思わず驚愕の声を上げた。
「これは……うまいっ!」
「なんて事……あの食材で、こんな……」
 観客達は、沸き上がった。そして、試食の感想を待った。皇帝はそんな観客の期待に応えるべく、料理の感想を述べ始めた。
「これは、非常に考え尽くされた料理だ。魚や肉の生臭さを香草で消し、脂分や水分も充分に出ている。蟹の旨味、豊かな香りもきつすぎたのが大きくなったことでちょうどいい具合になった。なにより驚くのは……この絶妙な配合だ。すべての分量の内、一つでも違う分量で入っていたら、きっとこの料理は駄作になっていただろう。だがそれを見切るところは、さすが朱雀天としか言いようがない」
 皇帝の言葉に、皆が喜びの声を上げた。天帝食医の勝利を祝う声が上がった。
 と、パイランはアンホワに歩み寄っていく。そして一言かけようと、皆に静かにするよう指示を出した。
「黙れ、貴様ら」
 これである。勝利の余韻もどこかへ吹き飛んだものだろう。そして静かになった会場で、ようやくパイランは口を開いた。なぜか涙を流すアンホワに向かって。
「伝わったようだな、お前には。肉魚焼売で表現した何にでもくどくてしつこい親父、蓮根とタマネギで表現した優しくて甘い母、野菜焼売で表現したうっすらとクセを持つ兄貴、そして蟹焼売で表現した強いアクで他の良さが見えない私。一つ一つはとても食えたものではない。しかし、それらが一つになったとき素晴らしい味になる。そういうものが、家族というものではないか? そしてその家族達を繋げる想いこそが、絆と呼ばれるのだ。お前にはそれが見えたはず。だからこそ、泣いたのだろう? ……この焼売にはまだ余裕がある。一部屋増えたところで、なんら差し支えはない。むしろ、素材が多ければ多いほど味は複雑さを増し良くなっていく。 ……戻ってきてはくれないか? あの馬鹿な親父でも、アレはアレでかわいいところもある。今は許せないかも知れないが、いつかはみんなで笑いあえるときが来る。私はそう信じたい。この焼売が、その第一歩だ」
 パイランの言葉にアンホワ、いやメイホワは頭を振った。だがその方向は、横である。
「それはできません。私は……ソウカンを人質に取られています。でももしソウカンと共に里から逃げ出せたなら……」
「……そうか。本気で……愛しているのだな」
「……ええ。貴方への嫌がらせのつもりだったのですけれど……今は、本気です。だからこそ、負けるわけにはいかないと思っていたのだけれど……」
 そう言うメイホワの目は、確かに恋する女の目だった。だからパイランは、なにも言えなくなってしまった。そしてもしソウカンもメイホワと同じ気持ちならば、心から祝ってやりたい。そう思った。こうしてパイランの初恋は、破れた。そして、勝負の決着も、付いた。天帝食医こそが、勝利したのだ。
「勝者、朱雀天パイラン!」
 皇帝の高らかな宣言に、歓声が起こった。そしてその巨大なうねりは、夜すら昼間のように明るくさせたという……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 終話 結局旅の料理人
 
 
「あ〜、やっぱこうでなきゃな、俺達は」
「そうだな。これほど性にあっていることもない」
 シャオロンとパイランは、数カ月ぶりの渓林省を歩いていた。数歩先には、メイホワの姿もある。目指すは真帝団の里である。
「メイホワ、後どれくらいかかるのだ?」
「そうですね……十日くらいだと思うのだけれど?」
 まったく同じ顔が、まったく別の口調で話している。なんとも違和感ある光景だが、シャオロンは幸せを感じていた。
「あ〜、平和っていいよなぁ」
 シャオロンの声は、林の奥へと木霊する。
「……ところで、帝都の守りはよろしいんですの? お兄さまはともかく、あのウーユワンでは大した戦力ではないでしょう?」
 メイホワの爆弾発言だ。だが、確かに的を射ている。しかも、ど真ん中で百点獲得なくらいに。しかしウーユワンに哀れみを感じたシャオロンが、少しだけ言葉を付け足した。
「あいつも結構頼りになるぜ? 馬鹿だからおだてると、普段以上の力を発揮するしよぉ。んなっはっはっは!」
 訂正。哀れみを感じたのではなく、ここはノる場面だと芸人の血が騒いだだけだった。
「ふん。一回戦から負けるような奴だが……実際には昔、親父に勝ったことがあるのは間違いないことだ。もっともあの時の親父と来たら前日に飲み過ぎていて、腹を下していたあげく目覚めの回し蹴り連携ひじ鉄で何度か吐いていたがな」
 メイホワは、思わず吹きだした。こんなことが日常なのかと疑いながら。だがそれは間違いなくシャオロン家の日常であり、自分もその仲間入りを許されたのだ。いつかはこの一家の所へ戻りたい。メイホワは今、心からそう思っていた。