S・ハート ――彼女たちの憂鬱―― 1
作:アザゼル





 プロローグ

 6月25日

 その日も良く晴れた日だった。センター街はいつものように人で溢れかえっていて、喧騒が風景のように溶け込んでいる。そのセンター街の中にある喫茶店――BLACK・SHEEP。その窓際の席に、彼はいた。もう7月になろうとしているのに、黒のスーツに身を包み込み、首からは黒い逆さ十字のロザリオを身に付けている。長めに下ろした前髪から覗く眼光は、周りで楽しく談笑している人間たちとは違い、冷たく鋭い光を放っていた。男の名はリュウジ。ある会社のただのサラリーマンと言う名目だが、彼はその会社という名の後ろに存在する巨大組織の監視員も兼任している。そして、今はその監視員として、このセンター街に来ていた。
 リュウジの座っていた窓際の席に、一人の中年の軽薄そうな男が現れる。こちらも黒いスーツに身を包み、手にはシルバーのアタッシュケースを持っていた。男はリュウジの向かいに腰を下ろすと、店員を呼んでコーヒーを注文する。
「それにしても今日は暑い。こんな格好で外回りをさせるなんて、上の連中の考えることは分かりませんな」
 店員がカウンターに戻っていくのを目の端で確認しながら、男が軽い調子でリュウジに向かって口を開いた。リュウジはだがその端正な顔をぴくりとも動かすことなく、ただ男の方をじっと見つめている。
「ははは。すまない。先に仕事の話をしなければな」
 男はリュウジのその態度にまた軽い調子で笑うと、持っていたアタッシュケースをテーブルの上に置いた。リュウジの表情が微かに動く。
「これは1970年代にアメリカで流行ったPCP、通称エンジェル・ダスト。それの改良品であるディザイア・ダストだ。これをあなたに広めて欲しい――」
「麻薬?! そんな物が本当に……」
 リュウジが思わず声を荒げたのを、男が厳しい顔で制した。その顔にさっきまでの軽い感じは微塵もなく、その鋭い眼光はリュウジのものと同じだ。
「すみません。でも……」
 リュウジが男の迫力に少し声を落とす。だが、男はリュウジの言葉には何も答えず、軽い笑みを浮かべると胸ポケットから煙草を取り出した。それを咥えこみながら、男はゆっくりと口を開く。
「あなたはまだ若い。余計な詮索をしたくなる気持ちも分かる。だがね……」
 男はそこまで言うと一瞬瞳を閉じて、咥えていた煙草に火をつけた。辺りに微かにお香のような匂いが充満する。リュウジはその独特の匂いに少し顔をしかめた。
「だがね、世の中には知らない方がいい事もある。我々の組織を深く詮索するのはよした方がいい。知らなくていい事でも、知ってしまえば……」
 男がそこまで言って口を閉ざす。それと同時に店員がコーヒーを運んできた。
「ありがとう」
 男はその店員に軽く会釈すると、運ばれてきたコーヒーにミルクを垂らした。コーヒーの中に落ちたミルクが、黒いキャンパスに渦状の模様を描く。男はそれを何かに憑かれたようにしばらく見つめると、不意に元の軽薄な笑顔をリュウジに向けて言った。
「ま、そんなことはどうでもいいじゃないか。どうせあなたともこの先会うことは無いのだから、今は楽しくお茶をしよう」
 男はそう言うとおいしそうにコーヒーに口をつける。リュウジはそんな男を見つめながら、気付かれないように軽く嘆息した。それから、窓の外に何気なく目をやる。センター街は相変わらず人に溢れかえっていて、ずっと見ていると軽いめまいをおこしそうですらあった。
(ディザイア・ダスト……願望を堕としめしもの、か。精神世界を更なる高次へと高めるに足り得るのか、これは?)
 そのめまいすらおこしそうになる人混みをぼんやりと見つめながら、リュウジは胸中でそう呟いたのだった。


 File・I 岩口聖美の場合

 7月1日

 竹橋。通称コスプレ橋。そこは少し前に一世を風靡したビジュアル系バンドのコスプレをした少女が大勢集まるので有名である。そして、彼女もまたそんな中の一人だった。岩口聖美。上州高校という都内の進学校に通う彼女は、この橋に通い始めて一年になる。それ以前からバンドのファンだった彼女は、自分を変えたいのと仲間を作りたい一心でパソコンのメールを通じてここのことを知ったのだ。聖美は昔から自分のことが嫌いだった。自分のぱっとしない容姿も、自分のはっきりしない性格も。高校に入っても友達は出来ず、だからこんな所に逃れたのかもしれなかった。バンドの人みたいに自分の顔を白く化粧すれば、自分が違う人間になれる気がする。コスプレをしていれば同じような仲間と話すことが出来る。だから……
「聖美どうしたの? 写真撮るよ!?」
「あ、ごめん……」
「ほらほら早く、ポーズポーズ!」
 聖美は橋の友達に促されて、いそいそとカメラに向かって構えた。
(たしか、こんな感じよね……)
 胸中で呟きながら、聖美は身体に両腕を巻きつかせるようなポーズをとる。それは彼女の応援するビジュアルバンド「リリス」のボーカルがライブでよくするポーズだった。「いくよー。はーい」
 その時、聖美の視界の端に聖美と同じ学校の制服を着たカップルが映った。両方とも不自然なほど肌の色が黒い。そのうち女の子の方は聖美の見知った顔だった。
(高須さんだ)
 高須奈津子。彼女の通う上州高校でも何かと噂の絶えない子である。男関係の噂が。
 彼女たちに気付いた聖美は、サッと顔を彼らに見えないように背けた。
「あー! 動いちゃ駄目だよ聖美ー!」
 カメラを構えていた友達が叫ぶ。その甲高い叫び声に、カップルが聖美たちの方を振り返った。
(嫌。私がこんな事してるのが、学校の子にばれちゃう)
「聖美! こっち向いてよっ!」
 カメラの子が聖美に向かってまた叫ぶ。
(だから、ばれるって!)
 聖美も心の中で叫びながら、だがこれ以上は無視できないので仕方なくカメラの方へ向き直した。まだカップルは聖美たちの方をじっと見つめている。いや、たちと言うよりも聖美を。カップルのうち聖美の知った顔である奈津子と、カメラの方に向き直った聖美の目が合った。大きくて愛らしい奈津子の瞳が、まるで何かを観察するように聖美の姿を捉えている。そこには感情というものがすっかり抜け落ちていて、聖美はなんだか自分が実験用のモルモットになっているような錯覚に陥った。
(何なのよ……)
 聖美はそれでもカメラに向かってポーズを決めながら、心の中で独白する。奈津子がその時、不意に聖美に向けて微笑んだ。奈津子の笑顔は屈託が無く、思わず自分が女であるのも忘れて聖美は見とれてしまう。
「聖美ー。もういいよー」
 カメラの子の声に聖美は我に返った。その瞬間、さっきまでじっと見ていたカップルは聖美の視界の入らないところに移動してしまっている。
(どこに行ったの?)
 聖美は集まって来るコスプレ友達を掻き分けながら、彼女たちの姿を探した。なぜそうしたのかは聖美自身もよく分からない。
「……!?」
 彼女たちの姿はすぐに見つかった。まだ彼女たちは橋の上にいて、何か他のコスプレをしている人たちと雑談を交わしている。
(何を話しているのかな……)
「どうしたのよ聖美? 物思いにふけって」
 聖美がぼんやりと奈津子たちの方を眺めていると、目の前にさっきカメラで彼女を撮っていたコスプレ友達が現れて不思議そうに尋ねた。彼女ももちろんコスプレをしている。聖美はそのコスプレ友達に向かってぎこちない笑みを浮かべて言った。
「ううん、何でも無い。それよりさ、今度のリリスのライブ……」
 ――結局、奈津子たちは次に聖美が気が付いた時にはいなくなっていた。何か目的があってここに来ていたのか、それともたまたまデートの途中にここに立ち寄ったのか、この時もその後も聖美は知ることは無かったのだった。
 
             
 聖美の母は聖美が10歳の時に他界した。母が死んだ後しばらくは、父と2歳年下の弟それに聖美はよく3人で旅行に出かけたりして仲良く暮らしていた。だが、いつからか3人の間には会話が途絶えていき、今ではただ同じ家で寝泊りをするという関係でしかなくなってしまっていた。別に何か問題があったわけではない。自然と、そうなってしまっていたのだ。時の流れが絶えず流れ続け、人もまたそのたびに変化していくのだから、仕方がないといえば仕方がないのだが……
 聖美は洗面所で白く塗った化粧を落としていた。父は聖美がコスプレをしていることに対しては何も文句は言わない。と言うよりも、聖美や弟に積極的に干渉することがほとんどなかった。それはそれでこういう事をするには聖美にとっても好都合なことではある。コスプレ友達の中には親がうるさくて、橋の近くの公衆トイレで化粧をしている子もいるくらいなのだから。でも、それでもやっぱり聖美にはそれが少し寂しい時もある。
「ふぅ……」
 ファンデーションをすっかり落とした聖美は、鏡に映った自分の顔を見て軽く嘆息した。父親譲りの癖っ気のある髪、小さな瞳、腫れぼったい唇。それらは十数年も付き合ってきた自分の顔でありながら、聖美の最も嫌悪する対象でもあった。
(どうして、お母さんに似なかったのかな……)
 心の中で呟いたその疑問も、十数年自分に問いただしてきた事である。聖美が父に似ているのに対し、弟は死んだ母にそっくりだった。弟は男にしとくには勿体ないくらいの端正な顔立ちで、それが聖美の劣等感を助長する原因でもある。聖美に話しかけてくる女の子のほとんどが聖美の弟が目当てだったのも、さらに聖美を追いこんでいた。
(姉弟なのに、どうしてこうも不公平なんだろ……)
 胸中でそう呟きながら鏡から目を背けると、聖美は食卓のある居間に向かう。食卓では父がぼんやりとテレビを眺めながら、ビールを飲んでいた。聖美がテーブルの向かいに腰を下ろしても父は何の反応も示さず、野球中継をただぼんやりと眺めている。
「……」
 そんな父を上目使いで聖美は一瞬確認すると、テーブルの上ですっかり冷えてしまった出来合いの夕食に箸を伸ばした。それをぼそぼそと口に運んでいると、訳もなく悲しくなってくる。乾いた目でテレビを見続ける父は聖美の目に、まるで人形のように映っていた。「……ごちそうさま」
 早々に食事を終えると、聖美は誰に言うでもなくそう呟き席を立った。父が微かに聖美の漏らした言葉に反応するように顔を上げる。だが、それはやはり一瞬のことで、すぐに顔をテレビの方に戻した。
「……」
 食器を流しで適当に洗うと、聖美は2階の自分の部屋に戻る。扉を閉めるとすぐに、聖美はベッドに放り投げられたままの自分の携帯をチェックした。未開封のメールがあるのを示す飛行機マークを確認して、聖美は受信トレイを開く。
 ――未開封のメールが12件あります――
 ――リリスの鏡花、渋谷のHMVに7月21日来るよ。行くでしょ?――
 ――新しい衣装完成☆ 血糊がいい感じかも。来週見せるね♪――
 次々にメールを確認しながら、聖美はビデオの電源を入れた。リモコンの再生ボタンを押しながら、またメールを確認していく。
 ――アルバム「ガイア」限定版やっと手に入った。ネットで探し続けた甲斐があったってもんだね♪ 今度聖美にも見せてあげるね♪――
 ――今日、橋の女王と飲みに行った。静香さん化粧落としても超きれいで、マジビビル☆ また飲みに行くみたいだから、次は聖美誘うわ!――
 ――おひさ! 最近テストで橋に行けなかった。次は気合い入れまくり――
 テレビの画面に映っているビジュアルバンド「リリス」の映像を眺めながら、聖美はそれらに対し逐一メールを返していった。黙々とチェックしては次々とメールを送信していく。その時、見たことのない発信番号のメールが出てきた。
(誰かな? 間違いメール?)
 聖美が不思議に思いながらも、そのメールを開く。そこに書かれてあった内容は、男のものからだった。
 ――はじめまして! 突然メール送ったりしてすいません(謝) 実は最近彼女に振られてしまって……もしよかったら、メル友になってください! ナオヤ――
「……」
 メールを見てしばらくの間、聖美は固まったようにそれを眺めていた。男からのメールなど初めてで、普通の人ならこんなつまらないメールはすぐに消去してしまうところだが、聖美にはそれが出来ない。いや、むしろ何かそこに期待みたいなものすら、聖美は感じていた。聖美の手が携帯のボタンにかかる。
(……)
 だが、聖美は何かを思い立ち首を振ると、手にしていた携帯をベッドに放り投げた。それからビデオのスイッチを消すと、自分も同じようにベッドに倒れ込む。
「……何やってんのよ。ただのいたずらに決まってるのに……」
 言い聞かせるように呟くと、聖美は顔を枕に埋めた。しばらくそうやって顔を埋めていると、色々な思いが頭の中を交錯してくる。
(いつからこんな風になってしまったんだろう?)
 きっかけは聖美にも分かっていた。母が死んでしまった後からだ。でも、それだけではないのも聖美は理解している。自分の容姿に対する劣等感。何も言わない父への不信感。弟への羨望。何も変わろうとしない自分の性格……それら全部が今の駄目な自分を形成している。
(私だって、本当は変わりたいのよ……)
 聖美の頬を伝って自然に流れ落ちた涙が、枕に小さな染みをつくっていた。濡れて冷たくなった枕に聖美はさらに顔を埋め込む。
「……変わりたい……」
 呟いた声は枕に顔を埋め込んでいたせいで、くぐもって聖美の中に反芻した。しばらくそうやって顔を埋め込んだまま聖美はじっと瞳を閉じて何か思案に耽る。それから何かを思い立って聖美はゆっくりと顔を上げた。ベッドの横においてあった鏡に自分の顔を映す。いつ見ても変わらない自分の顔は、今は泣いたせいで目が赤くなっていてさらに酷くなっていた。
「……変わるのよ」
 吐き出すようにそう言うと、聖美は投げ捨てた携帯を手に取る。そして……


 7月3日

 ピンクのノースリーブ、パールの入ったミニのスカート。それにいつもしているコスプレの化粧とは違う、大衆を意識した流行りのメイク。慣れない格好をしているせいか、道行く人の視線が聖美にいつも以上に突き刺さって感じる。今日はメールで知り合ったナオヤ――本名かどうかは分からないが――と、初めて直接会う約束をした日だ。センター街の犬の彫像の前に、聖美は約束の30分前から待っていた。まだ約束の時間である7時までは5分ほどある。
(本当に、来てくれるのかな……)
 聖美はさっきから何度も確認している自分の腕時計をまた見つめながら、そんな懸念を心の中で独白していた。聖美には未だ信じられなかったのだ。自分が男の人とデートするなんて事が。それもメールで知り合った顔も見たことのない人とである。聖美が不安になるのも仕方がないと言えば、仕方がなかった。
「……大丈夫。変わるのよ、聖美……」
 時間が経つと共に高鳴る鼓動を落ち着かせるため、聖美は小さな声で自分に言い聞かせる。小さな声で言ったつもりの聖美だったが、知らずのうちに声が大きくなっていたらしく、近くを歩いていた何人かの通行人が聖美の方を不思議そうに振り返った。
「……!」
 顔を赤くしてうつむく聖美。その時、聖美の視界に映っていたアスファルトの道路に伸びる自分の影に、誰かの影が重なった。その影は聖美よりも一回り大きい。聖美がそれに気付きはっと顔を上げると、そこには一人の青年が聖美の方を見つめて立っていた。日焼けサロンで焼いたと思われる不自然に黒い肌。肩にかかるくらい長い髪は、金髪に近い明るい色のその男は、聖美の方を見て軽く微笑んでいる。聖美はその男を何処かで見たことがあったが、思い出すことが出来なかった。男が口を開く。
「よっ! 俺、ナオヤ。来てくれないかと思ったぜ。聖美……ちゃん、だよな?」
「あ……は、はい」
 男――ナオヤ――のその軽いノリの言葉に、聖美は不自然なほど上ずった声で答えた。ナオヤがそんな聖美を見て苦笑する。
「ま、とりあえず何か食べに行こうぜ。俺がおごるからよ」
「はい……」
 ナオヤがセンター街の中心に向かって歩き始めると、聖美は慌ててその後を追った。人で溢れかえる街の中を、何とか掻き分けながら聖美はナオヤの後をついて行く。ナオヤが歩きながら何か聖美に話しかけるが、聖美の耳にはほとんど届いていなかった。イルミネーションで彩られた街並みを男と歩いている。それだけで、聖美には何だか別の世界に足を踏み入れたような気になっていたからだ。聖美がそんなことをぼんやりと考えていると、ナオヤの足が大きなビルの前で止まった。
「ここの8階なんだ」
 ナオヤに言われて聖美はその大きなビルを見上げる。そこは貸しビルらしく、いくつかのテナントに分かれて違う会社が事務所や店を構えていた。ナオヤが言ったように、一番最上階には居酒屋の看板が出ている。
「じゃ、行こうぜ」
 言って、ナオヤはさっさとビルのエレベーターに乗り込んだ。聖美は少し悩んだ後、同じようにエレベーターに乗り込む。
(ここまで来て、何を悩む必要があるのよ……)
 ナオヤは聖美が乗り込んだのを確認すると、8階へのボタンを押した。エレベーターの扉が閉まり、ゆっくりと8階に向かって動き出す。
「うまいんだよな、安いし」
「えっ?」
「甘次郎ってんだけどさ。俺の連れが働いてるんだ。だから酒はタダ」
「あ、そうなんだ……」
 ナオヤが話しかけてくるのを上の空で聞き流しながら、聖美はぼんやりとエレベーターの天井を眺めていた。灰色の無気質な壁。所々ひびが入っていて、どこか薄汚い。エレベーターが停止して目的の階に着いた後も、聖美はその天井を虚ろな眼差しでぼんやりと眺め続けていた。
「どうしたんだ? 早く行こうぜ」
 ナオヤに促されて、聖美が視線を元に戻す。ナオヤの向こうから居酒屋の明かりが漏れてきていた。それに軽い目まいを起こしそうになった聖美は、僅かに目を細める。
(本当に、何やってるんだろう……)
 店のカウンターで、ナオヤが誰かと楽しそうに話しているのをぼんやりと見つめながら、聖美は心の中で呟いたのだった。


 聖美は天井をぼんやりと見つめている。白い飾り気のない天井。こういうところはもっと華やかなイメージがあったが、天井はともかく内装も飾り気のないシンプルな造りの部屋だった。聖美はぼんやりとしたまま、横で煙草を吹かし込むナオヤに視線を移す。ナオヤは上半身裸で、だが聖美はそんな事はまるで意に介さず照れた様子もなく彼をじっと見つめていた。ナオヤが聖美の視線に気付き軽く微笑む。
「どうした? まだ痛いのか?」
 ナオヤが優しくそう言うと、聖美は微かに顔を朱に染めて首を横に振った。それから聖美はベッドから半身起きあがると露になった胸を隠そうともせず、またじっとナオヤを見つめながら口を開く。
「違うの……そうじゃなくて……」
 言い澱みながらも、聖美の目は何かを言いたそうにナオヤを見つめ続けていた。ナオヤは煙草をベッドに備えつけられている灰皿で揉み消すと、そんな聖美に自分の顔をゆっくりと近付ける。
「ん? 何だ?」
「その、ナオヤがさっき、私に言ったこと……」
 言いにくそうに語尾を濁す聖美の言葉に、何が言いたいのか感付いたナオヤは微かな笑みを浮かべながら聖美の唇にそっと口付けた。それから聖美の耳元で囁くように言う。
「あぁ。聖美は十分きれいだよ」
(きれい……私がきれい……)
 聖美は今まで言われたことのないその言葉を胸中で反芻させながら、自分の身体の隅々まで染み込ませた。感じたことのない快感にも似た感覚が聖美を包み込む。情事のためだけに造られた部屋で、男にきれいと認められた。決して夢の続きではなく、確固たる現実の中で。
「でも……」
 ナオヤが口を開く。
「でも、聖美は本当は、もっときれいになれるんだぜ。本当の聖美がそれに気付いていないだけで」
 言いながらナオヤは聖美の顎を指で持ち上げた。聖美はナオヤが言わんとしている意味が掴みきれず、不思議そうな顔でナオヤの顔を見つめ返す。
(本当の私……)
 聖美がナオヤの言葉を心の中で繰り返した。本当の自分が何なのか、聖美はナオヤの顔とシンプルな部屋の中をぼんやりと見比べながら考えた。ベッドの横にあるラジオからはムードを盛り上げるクラシックの音楽が流れている。ブルックナーのロマンティック。それは確かに聖美にそこを別の世界と錯覚させるのに充分な選曲だった。
(家と学校での私は本当の私ではない。本当の私、それは……)
 その時聖美の思考を遮るように、ナオヤの唇が聖美の唇を塞ぐ。
「ん……」
 ナオヤの舌が聖美の唇を開けて中に入ってきた。自分の舌にナオヤのが触れて、小さく聖美は声を上げる。
「……ん?」
 口内をまさぐるナオヤの舌と同時に、何か得体の知れない異物が入り込んできた。口を塞がれた状態の聖美は、思わずそれをごくりと喉に通してしまう。ナオヤはそれを確認してゆっくりと聖美から唇を離した。
「な、何を……?」
「魔法の薬さ。聖美が本当の自分を取り戻す事の出来る……な」
 意味不明な事を口走って、ナオヤは不敵に微笑んだ。ブルックナーのロマンティックはいつの間にか終わっていて、フォーレのレクイエム序節が始まっている。オルガンの音が、不気味な響きをもって辺りを広がる波紋のように支配していった。その中で聖美の心が次第に変化を起こしていく。
 ――あの子暗いのよね、パッとしないしさ――
 ――ママは何処に行ったの?――
 ――これからは父さんが母さんの代わりだ――
 ――姉貴も男つくれば? まぁ、無理と思うけど――
 ――近寄らないでよね。ばい菌がうつっちゃうから――
 ――聖美ちゃん、衣装作るの上手だよね――
 様々な時の様々な人の声が聖美の脳裏に現れては消えていった。
 ――きれいだよ……――
 そして最後にナオヤの声が脳裏に響き渡ると、それを引き金に聖美の中で何かが弾け飛んでいく。
(身体がどんどん吸い込まれていく感じ……ふわふわとして、気持ちいい)
 まるで無重力の宇宙空間を歩いているような感覚に、聖美は自然に薄っすらと微笑んでいた。自分の心の中で圧迫されていたものが、どんどんと開放されていく。それに聖美はエクスタシーすら覚えていたのだった。恍惚とした表情で今は何も映さない聖美の瞳は、部屋の天井がある場所を虚ろに捉えている。
「これが幸せの薬の効果ね……ま、俺はごめんだな」
そんな聖美を侮蔑と憐憫の眼差しで見つめながら、ぼそりとナオヤはそう呟いたのだった。 
 

 7月11日

 竹橋の上。いつも以上に派手なメイクと衣装の聖美が、大勢のコスプレイヤーたちに囲まれていた。その中で聖美は周囲に向けて絶えず笑顔を振り撒いている。
「写真撮らせて下さい」
「いいわよ」
「こっち向いてくださ〜い」
「はいはい」
「今日、私たちの飲み会出てくれますか〜」
「OK」
 様々なコスプレ少女が聖美に話しかけ、それに笑顔で聖美は答えていた。「橋の女王」という称号を得た聖美の顔には、すでに迷いの色はない。聖美は手に入れたのだ、本当の自分を。例えそれが聖美だけが感じる虚像でしかなくても、聖美にとっては真実であった。「……」
 その時、突然聖美の体がぐらっと揺らぐ。
(何……これ?)
 急激に希薄になっていく自分の存在を感じながら、聖美は崩れ落ちそうになる体を必死に押さえこんた。聖美の視界に映る景色が大きく歪む。
「どうしたんですか?」
「聖美さん!?」
 聖美を取り囲んでいた何人かのコスプレ少女が、聖美の方に心配そうに駆け寄って来た。聖美はそれらを掻き分けると、おぼつかない足取りで橋から離れていく。橋が聖美の視界から消えた辺りで、聖美は地面に倒れ込むように座り込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 荒い息を何とか落ち着かせると、聖美はポケットから携帯を取り出す。霞む目でボタンを操作すると、聖美は誰かにメールを送信した。メールがちゃんと送信されたのを確認すると、聖美は静かに瞳を閉じる。
(はぁ、はぁ……何なのよ、これは。自分が、無くなっていくみたいな……)
 酷くなっていく希薄感に、聖美は胸中で愚痴った。通りを歩く人が不思議そうに聖美の方を振り返っては、通り過ぎて行く。中には大丈夫、と心配そうに語りかけてくれる者もいたが、聖美にはそれに答える余裕すらない。そのうちだんだんと耳鳴りみたいなものが聖美の聴覚を刺激し始めた。それはやがて形のある声となって、聖美を包み込んでいく。――あんた鏡見たことあるの? ブスのくせに……――
 ――俺をえさに友達つくるのやめろよな――
 ――どうしてお前は、お母さんに似なかったんだろうな――
 ――だから近寄るなって言ってんだろ! 不細工がうつんだよ――
「や……めて……」
 その声に聖美は低い呻き声を漏らした。本当の自分という虚像を手に入れるために支払った代償。聖美はそれらの声のせいでズキズキと痛む頭を両手で押さえ込むと、意味もなく溢れかえる涙を流し続けた。携帯はすでに聖美の手を離れ、地面に放り投げられている。「ったく。しょうがねぇな……」
 その時、一人の男が聖美の携帯を拾い上げながらあきれたように呟いた。不自然に黒い肌と長い金髪のその男は、聖美の腕を掴んで強引に立ち上がらせる。
「ナオ……ヤ?」
 虚ろな眼差しで呟く聖美の呼びかけを男は無視して、聖美の口に何かのカプセルを無理やり押し込んだ。ごくりとそれは音を立てて聖美の喉を通り過ぎる。一瞬、びくんと聖美の体が反応して、聖美の真っ赤に充血していた瞳が元の光を取り戻した。
「はぁ、はぁ……あ、りがとう……」
 光を取り戻した目で男を見つめ返しながら聖美は礼を言うと、まだふらふらとする足取りでその場から歩きだす。その聖美の背に男が語りかけた。
「また足りなくなったらメール入れろよ。ある限りはいくらでも渡してやるから」
 男の言葉に聖美は片手を上げて答えると、男の視界の彼方に消えて行く。それを見計らっていたかのように、男の側に一人の少女が姿を現した。その少女も男と同じく不自然なほど肌の色が黒い。少女の名は高須奈津子。聖美と同じ上州高校の生徒だ。現れた奈津子に男が語りかける。
「本当にあんなので幸せになったのか、彼女は」
「さあね。ナツには彼が示した方法を彼女に試しただけで、結果がどうなるかなんて分かんないよ」
 男にそう答えると、奈津子は聖美が去っていった方を透明な瞳で見つめた。男もそれにつられて、奈津子と同じ方に視線を向ける。二人が見つめる視線の向こうには、人で溢れかえる大きな橋がぼんやりと映っていたのだった。


 7月12日 

 上州高校の校門前。聖美はそこでぼんやりと立ち尽くしていた。通り過ぎる生徒たちが驚きの表情で聖美の方を振り返っては、口々に指を指して囁き合う。
「何あれ? 頭おかしいんじゃないの?」
「最近暑かったからなー」
「ほら、コスプレって言うのよ。ああいうの」
「うげ、気持ち悪ーい」
 だがそれも無理はなかった。聖美の格好といえば、ガーゼのようなシャツに真っ赤な血糊、黒いボンテージのパンツ。そして真っ白な化粧と、橋でのコスプレそのままだったのである。だが、聖美はそれらの中傷ともいえる声にまるで気にした様子もなく、ただ学校の校舎を見つめていた。
「……これが、本当の私……」
 聖美が自分にだけ聞こえるような小さな声で呟く。その呟きはやはり誰に聞かれることもなく空へと昇っていった。稀有の眼差しで聖美を見る人間が、聖美を遠くから囲むように集まりだしてくる。
「本当の私を……みんなにも見てもらわなきゃ……」
 決意を込めた声で聖美はそう言うと、校舎へと足を向けた。遠巻きに集まっていた生徒たちは、聖美がそこを通ると逃げるように退いていく。
 そして――その異様な格好の生徒は校舎の中に悠然と入って行ったのだった。


 2年3組の教室。まだ早いその時間、教室は騒然とした空気に包まれていた。
「おい、岩口が狂ったってよ」
「岩口って、あのオタクかよ?」
「きもいのよ。私たちさっき校庭で見たもん。何か変な格好してるの」
「やだー。あんまり暑かったから、頭にきたんじゃないの?」
 バンッ――
 その時、教室の扉が激しい音とともに開かれた。騒然としていた教室内が、そのけたたましい音に一瞬静まり返る。
「……」
 扉のところに姿を現したのはコスプレの格好をした聖美だった。教室中の視線が聖美に集まる。だが、聖美の目はその誰の姿も映していなかった。口元に薄っすらとした笑みすら携えて、聖美がゆっくりと大きな声で口を開く。
「みんな……みんな、これが本当の私。本当の私を見て!」
 だが、その声にみんなは静まり返るばかりで反応しない。どうしていいのか分からず、みんな聖美の方を見ないように囁き合うばかりだ。
(見てよ。みんなどうして本当の私を見てくれないの!?)
 聖美が胸中で必死に叫ぶが、やはり誰も聖美の方には向こうとはしない。その時、聖美は度のきつい眼鏡をかけた一人の女生徒と目が合った。
「!?」
 女生徒の名は、西中綾子。学校でも有名な才女の綾子は、その頭の良さととっつきにくそうなきついめの容姿――素顔で言えば間違いなく美人なのだが――のせいで、聖美とは別にクラスで浮いた存在だった。その綾子の目が、聖美の方を突き刺すように見据えている。そこにあるのはどこまでも冷ややかな眼差しと、圧倒的な侮蔑の色。
(やめて……そんな目で私を見ないで……)
 聖美は顔を歪ませながら、心の中で綾子にそう懇願した。それに呼応するように、綾子はすっと目を細めると自分の机の上に広げられている参考書に視線を戻す。聖美の中で、瞬間何かが爆発した。手にいれたはずの本当の自分と、現実との大きな軋轢。それ自体が虚像であったことを悟ることすら出来ない聖美は、気が付けば大声で泣き叫んでいた。
「見てよっ! みんな私を見てよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
 狂ったように泣き叫ぶ聖美を、何事かとかけつけた教師数人が取り押さえる。だが、それでも聖美は叫ぶのをやめない。その狂ったような雄たけびは、学校が呼んだ救急車に聖美が運び込まれるまで、学校中にとどろいていたのだった――

 挿入・I
 センター街の喫茶店――BLACK・SHEEP。リュウジはいつもの窓際の席で、自分のノート型パソコンのモニターを眺めていた。ディスクドライブにはこの間の軽薄そうな中年男からアタッシュケースと一緒に渡された、黒いフロッピーディスクが挿入されている。
 >PCP・D(ディザイア・ダスト)
  形態:カプセル状
  効用:人間の精神に強く作用する。対象の人間の潜在意識下における願望の充足。及
     び、対象の人間が有する人格の比重転換。
  副作用:Dependence
  依存性:Dependence

「……」
 リュウジはモニターを眺めながら、テーブルにさっき運ばれてきたコーヒーをすすった。すでにぬるくなっていたコーヒーを喉に流し込むと、リュウジはカップをテーブルの上に戻し、軽く嘆息する。外を見れば嫌なほど人が溢れかえっていて、それがリュウジの心をさらに陰鬱な気持ちにさせた。
「所詮は麻薬。人の精神を高次へと導くには、あまりにも刹那的な気がするな……」
 言いながら、そんな自分の意見など何の意味もないことに気付き、リュウジは自嘲気味に微笑む。それから、この前出会った少女のことをふと思い出していた。
「あの少女は、それでも自分のしていることに意志を持ってやるんだろうな……組織や俺なんかよりは、よっぽど真剣に。他人の幸せを願って……」
 リュウジはその少女のことを頭に思い描くと、今度は優しい笑みを浮かべた。だがすぐに厳しい表情に戻ると、リュウジは怒りをぶつけるようにパソコンのスイッチを押して、電源を落とす。
(くそっ! それでも俺が組織の一員である限り、無意味なことをさせているあの少女に、無意味な結末を与えなければならないのか――)
 その心の叫びは、リュウジの中で激しく反響した。
「それが例え俺の意思に反したとしても……」
 呟きながら、リュウジはノートパソコンを手に席を立つと、重い足取りで店を後にしたのだった……