S・ハート ――彼女たちの憂鬱―― 2
作:アザゼル


 
 File・II 西中綾子の場合

7月11日

 キッチンの扉の向こうからは、ろれつの回らない父の声とそれをなだめる母の声が、聞こえてきていた。
「だから、なぜお前は男を産んでくれなかったんだ!? お前が男を産んでくれていたら、俺がこうして後継者の問題に頭を悩ます必要もなかったんだ! 女なんか何の役にも立ちはしないのに!」
「あなたっ! 綾子が聞いたら……!」
「ふんっ! あんな奴が聞いたから何だっていうんだ!?」
「あなた、いい加減に……」
「あいつのせいで俺のところの企業は今、上の連中が揉めて壊滅状態なんだよ! ちっ、お前の体もあいつが逆子で産まれたせいで子供の作れない無価値なものに成り下がっちまうし。本当、あいつは俺にとっての悪魔だよっ!」
「あなたっ!!!」
 母の声が一際大きくなり、その後、間髪入れずに鈍い音が扉の向こうで鳴り響いた。父が母を黙らせるために殴った音である。それを何の感情も顔に表さないで、彼女は扉越しに聞いていた。西中綾子。上州高校に通う生徒であり学校でも有名な才女の彼女が無表情でいた訳は、別に彼女の感情が欠落しているわけではなく、ただそれがあまりにも日常の出来事だったからである。綾子は沈黙してしまった母に父がまた罵り始めたのを聞いて、すっとその場を立ち去ると2階の自分の部屋に戻った。部屋に入ると綾子はすぐに扉を閉める。そこでやっと、綾子は顔に張りついていた能面のような無表情を崩した。
「……」
 一瞬、何歳も老け込んだような疲れた顔を浮かべ、それからすぐに元の顔つきに戻ると綾子は自分の机に向かう。綾子の部屋は酷く殺風景で、およそ年頃の女の子の部屋とはとても思えなかった。何も無い部屋に居心地悪そうに身を置く机とベッド、それに衣装ダンスがこの部屋の唯一の家具で、それ以外には本当に何も無い。机の前に張られた紙には書き殴ったように「男には負けない」と書かれていて、それがこの部屋の何もかもを決めつけているようであった。
(勉強しなくちゃ……)
 綾子は学校鞄の中から参考書を取り出すと、机の上のスタンドライトをつける。それから何かに取り憑かれたように、勉強を始めた。綾子にとって勉強することだけが、自分の存在を父に知らしめる唯一の手段であったのだ。父は大きな企業の社長で、どうしても自分が築き上げた会社に自分の血を引く後継者を残したかったらしいのだが、子供が女では上層部の人たちが納得しないということで、母と綾子によく酔っ払ってはそのことを愚痴っていた。母が綾子を産んだせいで子供を産めない体になってしまったのも、父の綾子に対する怒りに拍車をかけていたのだろう。
「ふぅ……」
 参考書のページをめくりながら、綾子が大きく嘆息する。それから綾子はぼんやりと机の前に張られた「男には負けない」の、張り紙に目をやった。これは綾子の決意であり、今の綾子の目指す指針の全てを形にして書いたものである。
「……男には、負けない……か」
 呟きながら、綾子はかけていた眼鏡を外して机の上に置いた。眼鏡をとった綾子の顔は間違いなく一般的に見て美人の部類に入る。だが、綾子はそういう風に男から見られるのを嫌っていたため、度の入っていない偽物の縁のある眼鏡をかけていた。
「そう――私は絶対に男なんかに負けちゃいけないのよ。そのために、私は父を超えてみせる。そうしないと、私には生きている価値がないわ……」
 机に備え付けられている小さな鏡に自分を映しながら、綾子は自己暗示をかけるみたいに鏡の中の自分に呟いた。それは綾子が毎日続けている儀式のようなもので、そうすることで綾子は自分をなかば強引に奮い立たせている。鏡の中の綾子の瞳が一瞬色を失い、そしてすぐに輝きを取り戻した。綾子は気付いていなかったが、この自己暗示の真似事は彼女に本当に暗示をかけていたのである。
「さて、と……」
 綾子は鏡から視線を参考書に戻すと、また黙々と勉強にとりかかったのだった。


 7月12日

 上州高校2年3組の教室。朝早くに綾子は教室の自分の席で、相変わらず黙々と勉強していた。まだ始業時間には遠く、クラスにいる生徒の数は少ない。机の上に開けた参考書に目を通しながら、綾子はぼんやりとクラスの生徒たちの会話に耳を傾けていた。
「聞いて聞いて、昨日私オフスプのライブ行って来たの〜」
「今日テストの結果発表だって、ヤダネー」
「ここだけの話、最近Sなんかよりもとべるのがセンター街でさばかれてるらしいよ」
「浩二、ルックスはいいんだけど、お金持ってないしね〜」
「今日、センターで待ち合わせだったよな!?」
「俺らの他、誰来るんだっけ?」
「知恵の奴、おやじに手出してんだぜ〜 許せねえって!」
 それらをぼんやりと聞き流しながら、綾子は参考書のページをめくっていく。生徒たちの会話は綾子にとってどこか遠い世界で、自動的に流れ続けるラジオの音のようなものでしかなかった。綾子にとってはまるで意味のない、無価値なもの。それでも教室にいれば嫌でも耳に入ってくる。綾子は鞄からMDウォークマンを取り出すと、イヤホンを耳に当てた。再生ボタンを押すと、イヤホンからゆったりとしたクラシック音楽が流れてくる。ワーグナー、ニーベルングの指輪の前奏曲――ラインの黄金。静かに始まっていく物語性の高いその曲は、綾子が勉強する時によく家でも聴いているものだった。
 その時、突然教室中が騒がしくなった。その騒ぎ声は、イヤホンをしている綾子の耳にも余裕で聞こえてくる。
「……!?」
 綾子が何気なく騒がしい方に目を向けると、そこには奇天烈な格好をした少女が生徒たちに囲まれて立っていた。真っ白にメイクした顔と、ガーゼのような白い布生地に血糊がこびりついた服装。
(あの子は確か……)
 白く塗りたくった化粧のせいで初めは誰だか分からなかったが、よく観察してみると綾子はその少女に見覚えがあった。
(岩口聖美?)
 同じクラスにいながらよく思い出せなかったのは、聖美が普段はあまり目立たない生徒のせいでもあった。聖美はその奇天烈な格好で、教室の入り口に立ち尽くしている。聖美を珍獣でも見ているかのような視線で、その周りには多くの生徒が集まっていた。2年3組の生徒だけではなく、他のクラスから見に来ているのも大勢いる。
「みんな、これが本当の私。本当の私を見てっ!!」
 聖美が集まった生徒たちだけじゃなく、学校中に響き渡るような大きな声で叫んだ。あまりにも大きな声のせいで、綾子は一瞬鼓膜が耳の中で揺れるのを感じる。
「……」
 綾子はイヤホンを外すと、聖美の方をちらっと見た。化粧で塗り固められた聖美の顔をそれとなしに眺めていると、綾子は聖美の瞳の色が不気味に澱んでいる事に気付く。
(あの目の澱み方は普通じゃないわね。もしかすると……)
 冷静に胸中でそんな事を分析しながら、綾子はなおも聖美の方を無表情で眺めていた。その時、聖美がその綾子の視線に気付き、彼女の方に顔を向ける。
『…………』
 二人の視線が間に入る生徒たちをすり抜けて交差した。何かに救いを求めるような聖美の視線に、綾子は冷たい侮蔑の眼差しを投げかける。それは容赦のない、聖美の救いを全て否定するかのような眼差し。聖美の顔がその綾子の視線を受けて、急激に青ざめた。綾子がすっと視線を元の机の上の教科書に戻す。同時に聖美のつんざくような悲鳴が辺りに響き渡った。
「見てよ……誰か私を見てよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
 聖美が教室にかけつけた教師たちに取り押さえられ、そこから連れ去られている間も、まるで何も無かったかのように綾子は黙々とイヤホンを耳に当てながら勉強し続けている。他人の干渉を時間の無駄としか考えていない綾子の信念が、そこにはきっぱりと感じ取れた。やがて綾子がMDで聴いていた曲がアップテンポな曲調のワルキューレからジークフリートに移っていくのと、学校に呼ばれた救急車に聖美が乗せられ遠ざかっていくサイレンの音が不思議な二重奏を演じ始める。それからしばらくして、始業のチャイムが学校中に虚しく響き渡っていったのだった――


 昼休み。綾子は駅前で買ってきたパンを同じく買ってきたコーヒー牛乳で流し込みさっさと昼食を取り終えると、教室を出た。今日はこの間の期末試験の結果が廊下に張り出される日なのだ。上州高校では学年上位30名を掲示板に張り出すというシステムを取っている。古典的なシステムではあるが、それによって奮起する偏差値人間もいるからこのシステムが今後も変わることは無いだろう。そして、綾子も間違い無くそんな偏差値人間の一人だった。
 廊下の掲示板前に沢山の人だかりが出来ている。綾子はその人だかりを掻き分けると、張り出された順位表の前に立ってそれを見上げた。後ろの方の順位などは見向きもしない。「そんな……」
 綾子が順位表を見つめながら、この世の終わりを見た時のような絶望的な呟きを洩らす。綾子の名前がいつものあるべき所に無い。この高校に進学してから1位以外とったことは無い綾子の名前が、3位の所に書かれている。別に大して点差がある訳ではなかったが、綾子にとってはそれは重大な問題だった。呆然と立ち尽くす綾子に一人の女生徒が話しかけてくる。
「は〜い! 綾ちゃん〜」
 綾子がハスキーなその声に気付き振り返ると、そこには同じ学年であり幼なじみの高須奈津子が立っていた。不自然に黒い肌と金色の髪が可愛い顔立ちに良く似合っている、いわゆるコギャルである奈津子は男の噂が絶えない子で綾子は何となく苦手だった。あからさまに嫌な顔をしながらも、綾子が答える。
「どうしたの、奈津子ちゃん?」
「ぶ〜。別に用は無いけど……綾ちゃん冷たい〜」
 冷めた口調の綾子に奈津子は口を尖らせて拗ねた表情をして見せた。その仕草は間違いなくぶりっ子のそれであったが、奈津子がするとなぜか全く嫌味なところが無い。だが、そういうところも含めて、やっぱり綾子は奈津子のことが好きになれなかった。
「そんなことないわよ……」
「そんなことあるよ〜。それより、綾ちゃん今回は何位だったのかな〜?」
 背の低い奈津子がつま先立ちで掲示板を見上げる。それから綾子の方を振り返ると、素直に驚きの声を上げた。
「すっご〜い、3位だって〜。ナツなんて後ろに3人いるかどうかも妖しいのに……」
「……すごくなんてないわよ……」
「えっ?」
 奈津子が低く呻いた綾子の言葉に不思議そうに聞き返した。そこに白々しい色が微かに見えたが、綾子は気付かない。
「1位以外意味ないのよ。しかも男に負けるなんて……」
「……」
 呟く綾子の目は、すでに奈津子を見ていない。奈津子はそんな綾子に何か声をかけようとしたが、綾子の虚ろな目を見ると何も言わずにその場を立ち去っていった。残された形になった綾子は、奈津子が去っていったのにも気付かず、ただぼんやりと掲示板を見つめている。
(男に負けるなんて、絶対に許されないのよ……)
 心の中で吐き捨てるようにそう言うと、綾子は拳を爪が食い込むほど強く握り締めたのだった。


 7月15日

 その日、学校が終わった後、綾子はセンター街に参考書を買いに来ていた。相変わらずセンター街は、人が氾濫する大河のように溢れかえっている。その中を流れに身を預けるように歩く綾子の顔は、どことなく浮かなかった。
「ありがとーございましたー」
 目的の参考書を手に入れ、本屋を出ても綾子の顔はやはりすぐれない。この間のテストの結果のこともあるのだろう。あるいはそもそも綾子にはすぐれた顔をする理由すら、ないのかもしれないが。
「……」
 駅の前で綾子は立ち止まる。いつもならこのまま電車に乗って帰るのだが……今日の綾子はなぜかそんな気分になれなかった。どうしてだかは分からない。
(たまには、街をぶらついてみるのもいいかもね……)
 そう思い返すと、綾子は駅に背を向けてまたセンター街へと足を向けた。センター街に立ち並ぶ様々な店の間に、まるで隙間を縫うように若い少年少女たちが地面に座り込んでいる。地べた族、とかいう奴だろう。それらの話す声が、自然に綾子の耳にも入ってきた。「ねぇ、それは結局どこで手に入るのよ?」
「さぁな。何でも普通のルートじゃ手に入らないらしいぜ。バイヤーの知り合いに聞いてもそんなのは知らないって言うし……」
「都市伝説、みたいなものなのかな?」
「なんじゃない、やっぱ」
「噂だけどね、何でも見初められた奴にしかくれないらしいのよ。でも見初められれば、彼らは只でいくらでも望むだけくれるみたい」
「彼らって?」
「さぁ……男と女ってのは聞いたんだけど、それ以上は……」
「Sより飛べる、か。俺も見初められねーかな」
 それらの会話を何となく耳に入れながら、綾子はセンター街をあてもなく歩いて行く。(Sっていうのは薬の事よね。あの子に何か関係あるのかしら?)
 会話の内容を冷静に分析しながら、綾子は学校で発狂した聖美のことをぼんやりと思い出していた。あの目の澱み方は普通じゃなかった。おそらく聖美は何らかの薬物に手を染めていたのだろう。
(……ま、私には関係ないわね。薬に頼ったりしても、結局自分が惨めになるだけよ) 嘲りの言葉を心中で吐き捨てるように呟く。道路に投げ捨てられた缶が綾子の目について、なぜか彼女を無性に苛立たせた。その缶を綾子はぎゅっと踏み潰す。スチールの缶はあっけなく潰れて、平たくなった。
(惨めに……なるだけよ。でも……)
 潰れた缶には目もくれず、綾子は人込みの流れに身を任すようにまた歩き続ける。なぜか綾子は苛立っていた。テストの結果が悪かったのもその原因の一つだったが、聖美の狂ったような変貌を見てから、どうも心の中にしこりができたみたいに落ち着かない。
(こんなに気になるのはどうしてなの? あの子は別に私には何の関係もないのに……) 綾子は落ち着かない気持ちを持て余しながら、その理由が見つからないことに頭を悩ましていた。その時、不意に綾子のお腹がかわいい音をたてる。
「……!」
 とっさに辺りを見回し、綾子は顔を赤らめて下をうつむいた。
(……そう言えば、朝から何も食べてなかったわね……)
 胸中でそう呟くと、綾子は顔を上げ手近のファーストフード店を見上げたのだった。


 トレイをテーブルに置いて、綾子は椅子に腰掛けた。店の中は、けたたましいほどの喧騒と煙草の煙に包まれている。綾子は視界が霞むほどの煙草の煙に微かに顔をしかめたが、すぐに喉の渇きを潤わせるために、コーラの入ったカップにストローを差し込んだ。綾子の喉を炭酸の効いた甘い液体が通り過ぎていく。
「ふぅ……」
 喉が潤うと綾子は軽く嘆息を洩らして、トレイの上のハンバーガーに手を伸ばした。包装紙を綺麗に剥がしとり、出てきたハンバーガーにかぶりつく。何の肉だか良く分からないハンバーグのぼそぼそした食感が、綾子の空腹をゆっくりと埋めていった。それを全部お腹の中に詰めこみ、そこで綾子は自分のテーブルの向かいに誰か座っているのに初めて気が付いた。綾子の座っていたテーブルは二人が向かい合って座るタイプのもので、綾子が一方に座れば、知り合いでもない限り誰もそこには座ってこないはずだった。
(席が空いてなかったのかな?)
 そう思って、綾子は軽く辺りを見回す。確かに店内は混雑してはいたが、空席もいくつか存在していた。
(なによ、空いているじゃない……)
 視界の端で空席があるのを捕らえながら、綾子は向かいに座る者を確認するために顔をそちらに向けた。向かいには肌を不自然に黒く焼いた金髪の青年が、綾子の方を見てさりげない笑みを浮かべている。歳は綾子と同じくらいだろうか。嫌な笑顔ではなかったが、そういう軽薄そうな男は綾子の最も忌み嫌う人種であった。傍目にも明らかな嫌悪の眼差しが、綾子からその青年に向けて放たれる。
「おいおい。そんなに見つめられたら照れるじゃねーか」
「……」
 青年の軽い口調に、綾子はますます警戒と嫌悪の色を濃くした。青年はそんな綾子の顔を見て、まいったなーという風に軽く苦笑する。
「ははは。そんな警戒しないでくれよ。俺は、ただあんたと話をしたいだけさ」
 青年はさらに綾子を警戒させるような事を口にすると、自分のトレイの上のアイスコーヒーが入ったコップにストローを差し込こんだ。青年はその作業をしながらも、顔だけは綾子の方をじっと見続けている。
(はぁ……これが俗に言うナンパっていう奴ね)
 綾子はあきれたような目を青年に向けると、心の中で大きく溜息をついた。溜息は心の中だけでなくどうやら表にも出てしまっていたようで、微かに青年の顔が曇ったのが見えた。だが、青年が顔を曇らしたのはほんの一瞬で、すぐに元の笑みを取り戻すと青年は口を開く。
「ねぇ、これからどっか遊びに行かない?」
「嫌」
 青年の口をついて出たその提案を、綾子はにべもなく断った。それからもうあなたとは話す事は無いと言わんばかりにコーラを一気に飲み干すと、綾子はトレイを持って席を立とうとする。その綾子の腕を青年が素早い動きで捕まえた。
「やめてよ! 何するの!?」
 綾子の口から漏れた悲鳴の声に、近くに座っていた何人かの若者たちが好奇の眼差しを向けてくる。だがどれも助けようとする目ではない。ただ何か楽しそうな事が始まるのを期待している目だ。それを見て、綾子は辟易とした表情と怒りの表情が織り交じった複雑な表情を浮かべた。
「何もしないって。もう少し話そうぜ」
「……あなたと話す事なんて何も無いわ」
 青年がそれらの視線を全く気にせずに綾子に喋りかけてくる。綾子は少し苛立ったようにそれに低い声で答えると、掴まれていた腕を振り解こうと強く引っ張った。だが青年の力は強く、女である綾子には振り解く事が出来ない。
 綾子が業を煮やしてもう一度声を上げようとしたその時、青年の手が綾子の顔に伸びてきた。
「……!?」
 伸びてきた青年の手は、綾子の伊達眼鏡を一瞬で奪い去る。あまりの早業に、綾子には何が起こったのかしばらく理解出来なかった。青年の手に収まった眼鏡に気付いて、綾子の顔が羞恥のためか、みるみる赤く染まっていく。耳たぶまで顔を赤くした綾子に、青年が感嘆の声を漏らした。
「ふぅん……やっぱりだ」
「な、何がよ?」
 両手を自分の顔の前で交差させてなるべく顔を隠そうとする綾子が、青年の漏らした言葉に吃りながら反応する。両手で覆われた綾子の顔を、青年の視線が隙間を縫うように捕らえていた。青年は席を立ち上がると、綾子の両手を力ずくで下げさせて口を開く。周りの人間はやはりこの状況を楽しそうに、にやにやと眺めているだけだ。
「こんなに美人なのに、もったいねぇな――」
 青年の言葉には二つの意味が込められていた。だが綾子は言葉通りの意味だけを捕らえ、赤くなった顔をさらに赤くする。今にも沸騰しそうなほど綾子の顔が熱をもっているのが、誰の目にも分かった。それでも気丈に、綾子は青年に罵声の言葉を投げかける。
「な、何を言うのよ! 変なこと言わないで!!」
「本当のことだぜ。今の綾子は誰が見ても美人だ」
「はぁっ!?」
 綾子は青年の言葉に、素っ頓狂な声を上げた。あまりにも動揺していたのか、青年が教えられてもいない綾子の名前を口にした事には気が付かない。
(突然何を言うのよ、この人は……美人とか、そういうのは私には何の価値もないのに……)
 綾子は胸中でそう言いながら自分に理解させようとするが、思考回路が乱れて上手く考えがまとまらない。そんな綾子の混乱を見抜いたのかどうか――青年は綾子にさらに近付くとにっと笑って言った。
「そう言えば、まだおれの名前も言ってなかったな。俺はコウジって言うんだ。取り敢えず、どっか行こうぜ。こんなところじゃ、ちゃんと話も出来やしない」
 青年――コウジ――はそう言うと辺りを軽く一瞥して、綾子を促す。
(駄目よ。ついて行っちゃ駄目。帰って勉強しなきゃいけないのに……)
 心の中の理性が、綾子に必死にそう告げていた。だが、それとは裏腹に、綾子自身はコウジの言葉にゆっくりと頷いていたのだった。コウジはその綾子の肩を抱くように引き寄せると、店の出口に向けて歩き始める。店内でその様子を見守っていた若者たちの間から、冷やかし混じりの歓声が上がった。だが、その時のコウジの表情を見た者がいたのならぞっとしただろう。彼の目が狩りをする時の獰猛な獣のように血走っていたのに……


 ベッドの上のシーツは、あきれるくらい乱れていた。綾子はその上で露になった上半身を隠そうともせず、微かに濡れた瞳を宙に漂わせている。その表情にはいつもの気丈な綾子の色はなく、恍惚とした色さえ窺い知ることが出来た。
「何か飲むか?」
「……ええ」
 ベッドの横にある小型冷蔵庫を開けながら聞いてくるコウジに、綾子は落ち着いた感じで答えた。そこには出会った時の刺々しさは微塵もない。冷蔵庫からミネラルウォーターとコーラの瓶を取り出し、コウジがベッドの上に腰を下ろす。それから綾子にコーラの入った瓶を手渡すと、自分は手に持ったミネラルウォーターを一気に半分ほど飲み干した。
「ふぅ。やっぱ運動の後はこれだよな」
「ふふ……」
 コウジの言葉に反応して、綾子が小さな笑い声を上げる。
「な、何だよ?」
「ううん。ただ、あれって運動のうちに入るのかなって」
 その言葉にコウジは苦笑ともとれる笑みを浮かべた。半分になったミネラルウォーターの瓶を小さなテーブルの上に置くと、コウジはベッドの上の綾子の濡れた長い黒髪を優しく手で撫でる。綾子はコウジの手が自分の髪に触れると、微かに目を細めた。
「私、馬鹿だったのかな……」
 それから、唐突に綾子はそんなことを口にすると自嘲気味な笑みを浮かべる。そこには何かを悔やんでいるような、そんな印象も見受けられた。コウジは一人で喋り始めた綾子を、ただ黙って静かに眺めている。
「色々意地張ってきたけど、本当は大して意味なんて無かったのかもしれない……」
 だがそれには構わずに、綾子は何か彼女を今まで塞き止めていたものが崩壊したかのように喋り続けた。
「……きっと、ただの腹いせだったのよ。私を産んだ母を恨み、私を呪った父に対するね。ただの女に成り下がってそれが分かったわ。本当――皮肉なものね」
 綾子の話す内容はあまりにも私事的で、コウジには何を言っているのか理解できるはずも無いのだが、彼はただ黙ってそれを聞いていた。最後に何か綾子が言いかけた時、彼はそれに被せるように口を開く。
「あり……」
「綾子、あんたが望む姿を俺が叶えてやるぜ――」
「……ん!?」
 コウジの唇が、何か言おうとした綾子の唇を塞いだ。それと同時に綾子の口内にカプセル状の異物が押し込まれる。唇を塞がれた綾子はそれを押し戻すことも出来ず、無理やり喉をごくりと鳴らして飲み込まされた。
 ――瞬間、ふわりと体が浮かんだような無重力の感覚が綾子を襲う。
(何、これ!?)
 それから続けて何人かの声が、綾子を包み込むように響き始めた。
 ――あいつのせいで、最近じゃ上層部の連中が俺に対立を宣告してきやがった。全く、とんだ疫病神だよ、あいつは! ――
 ――綾子ちゃんって頭いいよね〜 ――
 ――お前なんか、産まれてこなければ良かったんだ――
 ――西中。君の成績ならT大も間違いないな。期待してるよ――
 ――お前のせいで、お前の母親まで役立たずになっちまった――
 それらの声が不快な和音となって、綾子の中で反響する。割れるように痛くなっていく頭を抱えながら、綾子は心の中で叫んでいた。
(どうして……どうして私は男に生まれなかったのよ――!!!!)
 その心の中の叫び声を引き金に、さっきまでうるさかった声がぴたりと止んだ。そして、圧倒的な静寂が綾子を支配する。耳が痛くなるような静寂の中、綾子は薄っすらと目を見開いた。
「なん……だったの? 今のは……」
 綾子は呆然とした表情で、目の前に霞んだように映るコウジに尋ねる。だが、コウジはその口を不気味に歪めるだけで、何も答えようとはしない。綾子はその時、何か自分の身体に違和感のようなものを感じた。自分の身体なのに、自分の身体ではないような矛盾した感覚。綾子の虚ろな目が、その違和感の正体を探してゆっくりと下がっていく。そして、綾子はそれを見つけた。同時に部屋の空気を全て引き裂くような、獣の咆哮にも似た絶叫が綾子の口から発っせらる。
「い……嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
 綾子の目に映ったのは、綾子の股の間に生える、あるはずの無い男根。もちろん実際にはそこにそんなものは存在しないのだが、綾子の目にはそれがはっきりと映っていた。求めていたはずのものは、女を知った綾子にとって恐怖の対象として禍々しく彼女の目に映る。それをつまらなさそうに見遣りながら、コウジはぼそっと呟いたのだった……
「壊れるのが早かったな。使い時を、間違えたか?」
 と。


 7月18日

 大滝精神病院。街外れの寂れた孤島のような場所にあるその病院の、カウンセリングルームに綾子の姿はあった。カウンセラーを前にした綾子は、どうして自分がこんな所にいるのか分からないといった、釈然としない面持ちで椅子に腰掛けている。髪を短くまとめた優しそうな目が印象的なカウンセラーの質問に、綾子が退屈そうに答えていた。
「じゃあ……もう一度、私に名前を教えてくれるかな?」
「西中綾子」
「綾子ちゃんは学校楽しい?」
「別に」
「好きな人は、いないのかな?」
「興味ない」
 そんな、綾子にとってどうでもいい質問が繰り返される。次第に綾子の顔が、苛立ちを隠せなくなってきているのが見て取れた。おそらく無駄な時間と、綾子は感じているのであろう。だが、そんな綾子の苛立ちを全く気にせずに、カウンセラーの女は質問を続けた。
「綾子ちゃんはお父さんとお母さん、どっちが好きなのかな?」
「……どうして、そんなこと言わなくちゃならないの」
「必要だからよ。どっちが好きなの?」
 カウンセラーは綾子の反抗的な言葉にもまるで動じた様子も見せずに、同じ質問を繰り返す。綾子は少し押し黙った後、絞り出すように口を開いた。
「父は嫌い。でも、母も別に好きではないわ。かわいそうだとは思うけど……」
「……なるほどね。綾子ちゃんは、お父さんに認めてもらいたかったのね。そのための去勢コンプレックスか……」
 全然なるほどになってない台詞を、カウンセラーは手元のカルテに目を落としながら呟く。綾子の意志の強そうな瞳が、カウンセラーに居抜くように向けられた。それでも柔和なカウンセラーの顔は微動だにしない。
「ま、それでもやっぱり、綾子ちゃんは女の子だからね〜」
 カウンセラーの女がにこやかにそう言った瞬間、綾子の顔つきが豹変した。そこに存在していたのは血走った目の、綾子ではない何者かである。綾子の口からとても女のものだとは思えない低い声が漏れた。それと同時に、綾子の手がカウンセラーの襟首を捕まえて持ち上げる。
「だから言ってんだろ!? 俺は男だってよ!」
 綾子の力は綾子のものだとは思えないほどの膂力で、カウンセラーの首を締め上げていった。カウンセラーの顔色が徐々に赤くなっていく。それを見上げながら、綾子は獰猛な笑みを口元に浮かべた。
「これ……は、重症……だわねぇ?」
 吊るし上げられて、顔色が紫色に変色してきても、カウンセラーはまだ余裕の笑みを浮かべてそんなことを口にする。カウンセラーの視界の端で、部屋の扉が開かれたのが見えた。おそらく、事態に気付いた誰かが駆けつけてきたのだろう。


「ふぅ……危うく殺されるところだったわよ」
 カウンセラーが乱れた白衣を着直しながら、さっき暴れる綾子が連れ出されていった扉に目を向けると他人事のように呟いた。
「今回は失敗みたいね、リュウジさん?」
 それから、後ろを振り返って黒服に身を包んだ男に楽しそうに喋りかける。黒服の男――リュウジ――は端正な顔を僅かに歪め、軽く肩をすかして言った。
「今回も、だ」
「ふふ、いいんですかぁ? 組織の悪口言って……」
 カウンセラーの女がリュウジの言葉に悪戯っぽく笑う。リュウジはそれを見て顔をさらにしかめると、大きく嘆息した。
「……ディザイア・ダスト。自己を形成する数多の人格の中で、自身がより比重を置いている人格を強制的に覚醒させる。確かに精神世界だけを見れば、それは一見素晴らしい物のように思えるが……」
「物質世界――つまり現実とつき合わせると、どうにも不都合が生じるって訳ね?」
 リュウジの独り言のような呟きに、カウンセラーが言葉を続ける。リュウジは自分の台詞を奪われたのには少しも嫌な顔をせず、続けられたカウンセラーの言葉に神妙な顔つきで頷いた。
「あぁ。それに、やっぱりこれは麻薬だ。副作用も存在する。組織は一体何を思ってこんな物を実験に投与したのか、俺には見当がつきかねるよ――」
 ポケットから取り出した透明なカプセルを目の高さまで持ち上げて、リュウジはもう一度大きく嘆息するとそう洩らしたのだった。