S・ハート ――彼女たちの憂鬱―― 3
作:アザゼル

 
 File・III 高須奈津子の場合

 6月29日

 午前2時――深夜と呼ばれるこの時間にも、センター街の喧騒とイルミネーションは衰えることがない。様々な人種が行き交い、内に何らかの欲望と刺激を求めて街をさ迷っている。高須奈津子。彼女もそんな、何かに期待を寄せて街を行き交う人間のうちの、一人だった。日焼けサロンで不自然に焦がした肌と、夜目にも明るい金色に輝く髪は肩のところで二つにくくられている。愛らしい顔立ちは、同じような格好をしている女の子たちの中でも一際よく目立っていた。奈津子が道を何気なく数メートル歩いているだけで、必ず何人かの男たちが声をかけてくる。その中には、明らかに40を越えた中年の男性もいた。奈津子を淫婦か何かと勘違いしているのだろう。確かにそういうのもこの街には沢山いるのだが……奈津子はそれらを全部、人懐っこい笑みと軽いジョークで交わしていく。奈津子の目当ては、相手から言い寄ってくるような人間ではなかった。
「う〜ん。今日は不作だねぇ〜」
 先ほどコンビニで買ったソフトクリームをぺろぺろと舐めながら、奈津子がぼやくように呟く。その時、奈津子の視界に一人の黒服の男が映った。一目見て分かるくらい、その男は周囲とは違う雰囲気を醸し出している。深夜とはいえ蒸し暑いこの時期に、上下黒いスーツで統一しているのも異常といえば異常だが、何よりも異様なのが男の目つきだった。どこかを見ているようで、何も見てはいない剣呑な眼差し。だがその瞳は、街を行き交う人間にはない異様な鋭さで彩られている。
(あの人に、き〜めたぁ!)
 奈津子は心の中で嬉しそうにそう呟くと、無警戒に男に近付いていく。男は近付いてくる奈津子に気が付いたのか、顔を微かに奈津子の方に向けた。だが、すぐにその眼差しは奈津子から逸らされる。
「ねぇ、何してるのぉ〜?」
 男が立っていたのはシャッターの下りた店の前で、奈津子は男の横に屈みこむといきなり声をかけた。それが自分に向けられた声だとは気付かず、男は何も答えない。
「何をしているのぉ〜?」
「えっ?」
 奈津子は答えない男に再び声をかけた。そこで男も気が付いたらしく、隣に座り込んでいる奈津子の方に不思議そうに顔を向ける。男は端整な顔立ちで、その異様な雰囲気がなければ、タレントとしても充分に通用しそうであった。
「お兄さん、何を見てたの?」
「……いや、別に……」
 奈津子の問いかけに男はそっけなく答える。その時、奈津子の目に男の胸に飾られている黒い逆さ十字のロザリオが、イルミネーションに反射して鈍く煌いたのが見えた。奈津子が反射的に何か言おうとする。が、それは男の言葉にかき消された。
「君こそ何をしているんだ? 子供はもう寝る時間だぞ」
「はぁっ!?」
 男の真顔で言い放ったその言葉に、奈津子は一瞬目を丸くした。それから腹を抱えて笑い出す。
「あははは。お兄さん、冗談も言えるんだ」
「いや……俺は本気で言ったんだが……」
 男が困ったようにこめかみを掻きながら言うのを見て、奈津子はさらにおかしそうに笑った。目にはうっすらと涙まで浮かべている。
「ははは……お兄さん、ナツが子供に見えるの?」
 奈津子が言うと、男はやけに神妙な面持ちで頷いた。その男の態度に、奈津子は頬を軽く膨らませて拗ねた表情を作る。どうやら奈津子は自分のことを大人の女と見ているらしかった。奈津子が憮然とした顔で見上げるのを見て、男はさらに困惑の表情を強める。
「ぶ〜。これでも、ナツは子供か〜?」
 言いながら、その男に奈津子は身体をすり寄せるように凭れ掛かった。奈津子の息吹きが男の耳朶をやんわりと撫でる。それくらい近くに奈津子が身を寄せているにもかかわらず、男は相変わらずの困惑した、それでいてどこか飄々とした表情を崩さなかった。男が抑揚のない声で、身を寄せる奈津子に声を向ける。
「これは……誘っているのか?」
「だとしたら?」
 奈津子の挑戦的な物言いに、男は苦みのはしった笑みを浮かべた。それからゆっくりと口を開く。
「なるほど……子供ではないみたいだな」
 男のその言葉に、奈津子は子供のような笑みを漏らしたのだった。


「ねぇ、少しは幸せを感じれた?」
 ほどかれた長い金髪が目にかかるのも気にせず、奈津子は隣で横たわる男に声を掛けた。「……」
 男は上半身裸のままで、上から覗き込むように顔を近付ける奈津子を不思議そうに見つめる。男の身体は無駄なく鍛えられていて、だがどこか刃物のような鋭さがあった。奈津子はその男の身体を愛でるように指先で撫でると、その幼い顔立ちからは想像できない妖艶な笑みを浮かべる。男は奈津子のその笑みに少し臆したように、顔を背けた。
「どうしてナツが、あなたに声をかけたか分かる?」
「さあ……」
 奈津子の少しおどけたようなものの言い方に、男は背を向けたまま答える。奈津子はその男の背にさらに言葉を投げかけた。
「お兄さんがあの街で一番格好良かったから……てのは、建前。本当はね、お兄さんがあの街で一番幸せそうじゃなかったから……」
 奈津子の投げかけた言葉に、男の背がぴくりと反応する。だが奈津子はそれには気付かず、言葉を続けた。ベッドのシーツを握る奈津子の指が力を込められて、シーツの上に数本のしわを作る。
「ナツね、人の幸せを観る事が出来るの――」
「!?」
 奈津子の言葉に背を向けていた男が反射的に振り返った。その顔は驚愕の色で微かに蒼ざめているように見える。室内の薄暗い照明が、奈津子の少し寂しそうな顔をぼんやりと映し出していた。
「君は……その……何て言うか、不思議な力を持っているのか?」
 男の声には殺伐とした響きが含まれている。だが奈津子はそれには全く気付かず、自嘲気味な口調で男の問いかけに答えた。
「力……じゃないね。ナツにそれが観えたところで、それ自体をどうにかできる訳じゃないし。ただ、ナツはそれに感応するだけ……」
「感応?」
 男が聞き返すと、奈津子は底が無いくらい深い哀しみに満ちた目を彼に向ける。とても奈津子の年齢では作りえないその眼差しに、男はまた僅かに怯んだ。奈津子は顔を近付けると、男の耳元で囁くように言葉を続ける。
「そう――感応するのよ。だからナツは他人を幸せにしないといけないの。そうしないと、心がとても痛くなるから……男の人は一緒に寝てあげることで、幸せを増幅させることが出来る。でも、お兄さんは無理みたい。お兄さんのその不幸さは、根が深すぎてナツにはどうしようもないんだもん……」
 言って、奈津子は儚く微笑んだ。男はそんな奈津子をしばらくの間呆然と見つめ――それからおもむろに、ポケットから一錠のカプセルを取り出した。透明なカプセルの中には白い粉末状の物が、半分ほど満たされている。それを今度は奈津子が不思議そうな顔で見つめる。
「それは?」
「これは、ディザイア・ダストと呼ばれる薬品だ。人の願望を叶える薬……と、いったところか……」
 男は説明しながら、それを奈津子の手に握らせた。奈津子は手渡されたそのカプセルをまじまじと見つめると、男の方に振り返って口を開く。
「それで? これをナツに渡して、どうするの?」
「広めて欲しい。出来れば、君が不幸だと感じる人間を中心に」
「!?」
 男の言葉に奈津子は驚いたような顔を見せ、それから何故かにっこりと微笑むと深く頷いて言った。
「OK! それはナツにしか出来ないんだね?」
「あぁ……」
 奈津子の純真無垢な笑みに、男はほんの少しだけ表情を歪めると同じように頷く。奈津子はそれを見て一人で納得すると、裸の自分の身体を男にすり寄せ、ねだるように男に囁いた。
「ふふ。とりあえずそれはナツに任せて、もう一回しよぉ?」
 奈津子のその誘うような声を聞いて、男は何か重大な過ちを犯してしまったかのような後悔の表情を浮かべると、もう一度深く頷いたのだった。
 ――結局、奈津子はこの後、その名前すら知らない男とは一度しか出会うことは無かった。そしてそれは……


 7月1日

 奈津子と彼氏である笠原健は、デートと言う名目で偽装しながら街をぶらついていた。褐色の不自然に日焼けした肌と金色に輝く髪、軽薄そうではあるが端整な顔立ちの健は、奈津子の隣を歩きながら制服姿だというのに煙草をくわえたまま悠々と歩いている。同じ上州高校に在席する二人が付き合い始めたのは、2ヵ月ほど前のことだった。どちらかが言い出した訳でもない。いつの間にか友達から関係が発展していた、という奴だ。奈津子はそれほど健を信頼している訳ではなかったが、それでもあの男に言われたことを実行に移すには、健は適任ではあった。奈津子が主にあの薬を広めようと考えたのは女の子で、それを容易くするには健の巧みな話術は必要であったからだ。
「あの橋みたいだね〜」
 向こうに見えてきた人で溢れかえる大きな橋を指でさし、奈津子が隣を歩く健に確認するように呟く。それに答えるように、健は奈津子の方に不敵な笑みを浮かべた。その下卑た感じの笑みに、奈津子は僅かに顔をしかめる。だがすぐに元の表情に戻ると、気を取り直して橋へと足を早めた。
「あれが次のターゲットね……」
 橋の入り口に着いた奈津子が、中央でコスプレに興じる一人の女の子に目を遣りながら健に向かって言う。顔を白く塗りたくったその少女の名は、岩口聖美。奈津子や健と同じ上州高校の生徒だ。健は確認のため聖美に目を向けると、露骨に顔をしかめる。
「おいおい……俺にアブノーマルな趣味は無いぞ?」
「文句言うなら、他の人にやってもらうよぉ〜」
「へいへい」
 奈津子の容赦のない不平の声に、健は肩を大仰にすかす仕草をすると橋の中に入って行った。その後を、奈津子がゆっくりと追う。橋の中は集まった少女たちと夏の日差しのせいで、蒸し返るような熱さだった。奈津子と健は溢れかえるコスプレ少女たちの間を縫うように、聖美がいる方に向かって歩いて行く。
「それにしても、なんて人ごみだ。サウナみたいになってんじゃねーか」
「……」
 健の洩らした愚痴に、しかし奈津子は何も答えなかった。その時、甲高い女の声が橋に響き渡る。奈津子がその声の方に視線を向けると、こちらに顔を隠すように背を向ける聖美の姿が目に映った。どうやらコスプレイヤー同士の写真撮影をしているところだったみたいで、さっきの甲高い声は背を向けた聖美を叱咤する声のようであった。
(なるほどねぇ〜。聖美ちゃんはナツたちに気付いたのね)
 何か喋りかけてくる健をさらに無視して、奈津子はじっと聖美の方を見つめ続ける。しばらくして、諦めたようにこちらを振り返った聖美と、見つめ続けていた奈津子の視線がばっちりと合った。聖美の顔が、おそらく羞恥のために微かに歪む。
(大丈夫、ナツが聖美ちゃんを幸せにしてあげる……)
 その聖美に向けて、奈津子は心中で呟くとやんわりと微笑んだ。奈津子の笑みに吸い込まれるように、聖美が虚ろな眼差しを返してくる。それを確認して、奈津子はやっと視線を聖美から逸らした。
「さて、聞きに行くよぉ。仲間意識とかは強そうだから、多分知ってるでしょ」
「は? 何を聞くんだ?」
「健ちゃんは馬鹿ねェ〜。聖美ちゃんの携帯番号聞き出すんだよぉ」
 突然向けられた言葉に不思議そうな顔を返す健を、奈津子は馬鹿にしたように一瞥する。奈津子に馬鹿にされた健は少し拗ねたような表情を作りかけたが、それは奈津子の手に引かれて泡のように掻き消えたのだった。


 7月11日

 奈津子自身はあまりにも普通な環境の中で育ってきた。父と母は一人娘の奈津子を異常なほどかわいがってきたし、その愛らしい顔立ちと人懐っこい性格のおかげで彼女が人から疎まれるような事は一度も無かった。だから――現在の奈津子はその普通過ぎた自分との反動なのかもしれない。 
 奈津子は部屋で机を前にしてぼんやりとしていた。机の上には、綺麗に張りつけられたプリクラのシートが無造作に並べられている。プリクラにツーショットで奈津子と映る男は、全部違う男だ。奈津子はそれを陶酔に近い表情で眺めている。これは奈津子の奇妙な癖の一つだ。
「ふぅ……」
 思わず漏れた吐息がシートの上のプリクラに降りかかる。それから崩れ落ちるように奈津子は、机の上に顔を寝かした。指でなぞるように眼下のプリクラに映る男たちを撫でていく。どの男も奈津子と一度は寝たことのある者たちで、それらと一緒にプリクラをとることによって奈津子は支配感にも似た快感を得ていた。端から見れば、単なる好き者以外の何者でもない。だが、奈津子がそうすることは、少しでも幸せを広げようとしているためであった。他人の幸せに感応する奈津子の不思議な力は、逆にいえば他人が幸せで無い限り奈津子の心を苦しめるのだ。
(どんなに頑張っても、この世界から不幸は無くならない。生きてる限りナツは幸せにはなれないのかな……)
 そんな普段の奈津子からは考えられないような暗い思いを胸中で呟きながら、彼女は机の上に虚ろな視線を漂わせた。その奈津子の目に、この前出会った男にもらったカプセル状の薬が映る。それは無造作に机の隅に数個、ばら撒かれていた。それらのうち一つを何気なく手に取ってみる。
「幸せになる薬……ナツにも効くのかな〜」
 呟きながら、これも何気なく口の中に放りこんだ。瞬間、奈津子の身体を浮遊感が包み込み、そしてそれは淡雪のようにすぐに消え去る。奈津子には幻聴も聞こえなければ、幻覚も見えはしなかった。
「……」
 奈津子はさらに数個、カプセルを口の中に放りこむ。それでもやはり、奈津子には何の変化も訪れなかった。奈津子の顔に、ほんの僅かに暗い影が落ちる。それが意味するのは自分が救われないことに対しての憤りだろうか? それとも、諦めを肯定された悲哀だろうか?
 その時、奈津子の部屋の向こうから、明るい母の声が聞こえてきた。
「奈津子〜。夕食の用意が出来たわよ〜」
「ごめ〜ん。今日はナツ、外で食べてきちゃった〜」
 その母の声に、ナツも明るい声で言い返す。母はそれを聞いて不満の声を上げたが、すぐにいつもの事と、キッチンの方に戻って行った。奈津子は母の足音が遠ざかったのを確認すると、机の下から紙袋を取り出す。
「ごめんね、ママ……」
 言いながら、奈津子は紙袋から某有名店のケーキを詰めた箱を取り出した。箱を開けると、中には数種類のケーキが間断なく敷き詰められている。とても線の細い奈津子が食べきれるような量ではない。だが、奈津子はそれらを手で掴むと、黙々と食べ始めた。無表情に、何かに取り憑かれたようにケーキを平らげていく様は、異様な雰囲気を醸し出している。これも奈津子の癖の一つで、彼女の体はいつからか甘い物以外、受け付けなくなっていた。それが、大勢の男と寝ていることからくるストレスであることに、奈津子自身は気付いていない。
「さてと……」
 奈津子は箱に入っていたケーキのほとんどを平らげると、すっと立ち上がった。時間は午後9時をまわったところである。奈津子は着ていた部屋着を脱ぐと、制服に着替え始めた。
「それじゃ、行くかっ!」
 自分に言い聞かせるように、着替え終わった奈津子はそう言うと部屋を出る。この時間から奈津子が出かける理由は一つだ。男漁りに行くのである。一人で眠ることの出来ない奈津子は、こうやって夜になると街に繰り出しては、めぼしい男を見つけて外泊していた。それがどれだけ刹那的なものであろうと、奈津子には関係ない。これもまた、奈津子の奇妙な癖の一つなのであるから……


 7月12日

 上州高校の校内に、昼休みを告げる鐘が鳴り響いている。奈津子は母が作った弁当を鞄から取り出しもせずに、購買で買ったパックジュースを一気に飲み干すと教室を出た。教室を出たところで、何人かの生徒たちが彼女に話しかけてくる。
「あ、ナツじゃん。今日、山口らと帰りボックス行くんだけど、ナツはどうする?」
「ごめ〜ん。今日はナツ、ちょっち用事があるんだぁ〜」
「ナツ、この間のコンパの件どうなってるの? 由美とか怒ってたよ〜」
「ごめん、亜紀ちゃん! それ来週になったんだぁ〜。由美にも言っといてぇ〜」
「奈津子〜。早くユリって奴、紹介してくれよ〜」
「分かった、分かったぁ。今日にでもテルっとくよぉ〜」
 次々に話しかけてくる生徒たちに、一つ一つ返答しながら、奈津子は廊下を早足で歩いて行く。奈津子の目指す場所は、期末のテスト結果が張り出されている1階の掲示板だ。階段を降りて掲示板のある小さな踊り場に出ると、奈津子の目に目的の女生徒の姿が映った。伊達眼鏡をかけた、長身の美少女。西中綾子だ。綾子は掲示板を、その整った顔を歪めながらぼんやりと見つめている。奈津子はその綾子に近付いていくと、後ろから声をかけた。
「は〜い! 綾ちゃん〜」
 その声に綾子は少し驚いたように奈津子の方を振り返る。それから、露骨に顔をしかめた。
「どうしたの、奈津子ちゃん?」
「ぶ〜。別に用はないけど……綾ちゃん、冷たい〜」
 綾子の感情の無い冷えた声に、奈津子は頬を膨らませて拗ねた仕草をする。綾子は奈津子の幼なじみで家が近く、小学生の頃はよく一緒に遊んでいた。だが、中学に上がった頃から綾子は取り憑かれたように勉強一筋になり、奈津子ともそれ以来は会った時に挨拶を交わす程度の疎遠な関係になっている。
 奈津子が掲示板の3位の所に張り出された綾子の名前を見つけて、大げさに綾子を褒めた。
「1位以外意味ないのよ。それも男に負けるなんて……」
 しかし、綾子は憮然とした顔で吐き捨てるようにそう言い返すと、さらに陰鬱な表情で掲示板の方に視線を戻す。その様子を見て奈津子は押し黙ると、その場をゆっくりと後にした。掲示板のある踊り場から少し離れたところに、奈津子を待ち構えるように健が立っている。近付いて来た奈津子に健は軽い笑みを向けると、口を開いた。
「……で、あれが次のターゲットか?」
「そうよ」
 その健に奈津子が少し不機嫌そうに答える。だが、別に健はそれに対しては何も言わず、へらへらとした笑みを深めるだけだ。それを見て、奈津子はさらに顔を不機嫌にした。健の横を苛立ったように立ち去ろうとして、通り過ぎたところで足をぴたりと止める。それから思い出したように口を開いた。
「綾ちゃんは、携帯持ってないわよ。どうするの〜?」
「はは。決まってんじゃん。ナツがいつもしてることをするんだよ」
 健はそう言うと両手を大げさに広げて奈津子に背を向け、踊り場の方に歩き出す。奈津子はそれを追いかけようとして、それから何かを思い直すと健とは反対の方に去って行った。
 昼休みの終わりを告げる鐘が、校内に虚しく響き渡る中――奈津子の顔が機嫌を取り戻すことは無かったのだった……


 7月19日

 大滝精神病院。寂寥感が漂うその旧式の建造物を見上げながら、奈津子は深い溜息を吐いていた。院内にある小さな広場――と言っても、公園のようなものだが……そこにあるベンチに奈津子は、腰を下ろしている。髪を下ろして化粧もしていない奈津子の顔は、どこか胡乱げだ。
(聖美ちゃんもダメ。綾ちゃんもダメだった。他の子たちも……)
 奈津子は胸中で呟くと、さらに大きな溜息を吐く。その奈津子の目の前に、小さなボールが転がってきた。奈津子は転がってきたボールを拾い上げると、持ち主を探して視線を辺りに漂わせる。
「……ぼー……る?」
 奈津子の視線の先に、一人の少女が立っていた。少女は奈津子に気付いた様子もなく、ただ闇雲にボールを捜して歩き回っている。
「ボールはこっちだよぉ〜」
 奈津子が声をかけると、少女はそこでやっと奈津子の存在に気付き、嬉しそうに駆け寄ってきた。少女の小さな手に、奈津子は拾ったボールを優しく手渡す。
「ありがとー、お姉ちゃん!」
 少女が無垢な笑みを浮かべて奈津子に礼を言った。奈津子も極上の笑みを浮かべて、それに答える。
「どういたしましてぇ〜」
 言って、奈津子がゆっくりと少女の顔に目を向けた……
 瞬間――奈津子の心に鋭い刃が突き刺さったかのような、痛みが走った。あまりにもの激痛に、奈津子は低く呻き声をあげる。少女の心配そうな顔が、苦痛に顔を歪ませる奈津子の目に映った。少女の不幸な心が、奈津子の心と感応したのである。
「だ、大丈夫だよぉ〜」
 奈津子は心配そうに顔を寄せる少女に、全然大丈夫そうじゃない声でそう言うとベンチから立ち上がった。そそままふらつく足取りで、病院を後にする。少女はそれをまだ心配そうな眼差しで見送りながらも、奈津子の姿が見えなくなると、ゆっくりと病院内に戻って行った。


「ふぅ――」
 病院の最寄のバス停まで辿り着いた奈津子は、待合のベンチに腰を下ろすと大きく嘆息する。胸が貫かれたような痛みは、少女から離れたことで治まっていた。おそらくあの少女は心のどこかに傷を負って、あそこに入院させられていたのだろう。その心の不幸が、奈津子の心に痛みを伴って感応したのだ。それを奈津子に押さえる術は無い。
(この力のせいで、ナツはどうやっても幸せにはなれないのかなぁ〜)
 服の上から胸の辺りを掴んで、奈津子は諦めたように心の中で呟く。それから何気なく、天を仰ぎ見た。空はどこまでも果てしなく晴れ渡り、雲一つなく海のように雄大にそこに佇んでいる。どこまでも広がる青いキャンパスを眺めているうちに、奈津子は無性に悲しくなってきた。だが、何が悲しいのか分からず、その思い自体がもやもやと奈津子の中で暗雲のように立ち込める。そしてそれは、頬を伝う一筋の涙となって、奈津子の瞳から流れ落ちた。
「……」
 流れ落ちた涙を指でふき取りながら、奈津子はもう一度空を見上げる。
(でも、悩むのはそろそろお終い。きっとあの人が、ナツを連れて行ってくれるはずだから……あの噂が本当なら、きっと……)
 胸中で呟いた奈津子の耳に、遠くからバスが近付いてくる音が聞こえてきていた。


 7月20日

 賑やかな部屋だった。備えつけられてある小さなプールには滑り台が付いていたし、部屋とバスルームを仕切る壁はガラス張りで向こうが透けて見える。部屋の中にはカラオケも用意されていて、奈津子はそういう賑やかな部屋を好んで良く選んでいた。
「それにしても……毎回偽名を使ってるから、誰に何使ったか忘れちまって困るぜ」
 ベッドの上で裸のまま横たわりながら、健が背を向けて同じように横たわっている奈津子に愚痴る。だが、奈津子は健の言葉には何も答えない。幾分荒い息で、部屋の壁をぼんやりと虚ろな眼差しで見つめているだけだ。健はその奈津子の様子を見て軽く舌打ちすると、ベッドからゆっくりと身を起こし、部屋に備えつけられた冷蔵庫に向かう。
「……にしても、あれをやった奴みんなイカレちまったよな〜」
 冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出しながら、健が何気なく呟いた。その言葉に、奈津子の小柄な――それでいて、張るところは張っている身体が、ぴくりと反応する。だが、やはり何も言葉は発しない。
「あれのどこが幸せの薬なんだ? ただの麻薬よりも質が悪ぃよ」
 ミネラルウォーターを一気に飲み干した健が、吐き捨てるようにそう言った。顔には薄っすらと悪意のこもった笑みすら浮かんでいる。それに対して、今まで黙っていた奈津子が口を開いた。
「違うよ〜! あれは幸せの薬なのぉ! あの人が嘘つく人だとは、ナツには思えないもん……」
「はんっ! そんな得体の知れない奴が持ちこんだ薬だぜ? ま、俺は楽しんだからいいけどな!」
 奈津子の言葉に、嫌悪を露にした健の声が飛ぶ。いつもへらへらとしている健のその怒声は、遠巻きに奈津子のいうあの人への嫉妬が含まれていたのかもしれない。だがそのことは奈津子はおろか、健本人すら未だ気が付いておらず、そのため二人を包む空気は次第に険悪なものへと変化していった。
 がちゃり――
 険悪なムードが漂う中、部屋の扉が突然に開かれる。奈津子も健も、一瞬顔を見合わせて、扉の方へ目を向けた。ルームサービスなんて取った覚えは無いし、宿泊であることは入る前に伝えてある。二人は誰かが間違えて部屋には行って来たのかとも思ったが、オートロックのこの部屋に鍵無しで入ることなど不可能だ。二人の緊張した眼差しが、扉を開けて入ってくる者に注がれる。
「……!?」
 入ってきた男は全身黒ずくめの、端整な顔立ちの男だった。胸には黒い逆さ十字のロザリオが、不吉な鈍い輝きを放っている。だが、健が驚愕の表情でその場に立ち震えているのには突然の来訪ではなく、男が手にしてこちらに差し向けているもののせいだった。男の手に握られたそれは、ぴったりと奈津子と健の方に向けられている。
「な、なんだよっ!? あんたは……」
 健が震える声で、男の黒光りする拳銃に目を向けながら言った。男はそんな健の声など気にした様子もなく、ただじっと奈津子の方を見つめている。その瞳にはなぜか愛でるような色とそして、どこまでも深い哀しみの色が見て取れた。奈津子が男に向けて、静かに口を開く。
「……そっか。もう、終わりなんだね。黒い逆さ十字さん――」
「君は……」
 奈津子の言葉に、男は少し驚いたような声を上げた。健が怯えきっているのに対し、奈津子は銃を向けられているという状況にまるで動じた様子もない。むしろ、どこか安堵しているかのような、安らぎに満ちた表情を浮かべている。それを見て、男はさらに悲しみの色を濃くした。
「知っているんだよ、ナツは。お兄さん、あの組織の人なんでしょ? 一度アンダーグラウンドのサイトで見たことあったのよね〜。胸に黒い十字を称えた、死を運ぶ組織……」
 奈津子の言葉に、男は今度は疑念の色を浮かべて言う。
「それを知っていて……?」
「知っていたからこそ……かな〜?」
 奈津子はどこまでも明るく軽い口調で男に答えた。そして、男に片目をぱちりと瞑ってウインクして見せる。それを合図に、男の手に持った銃が微かに動いた。サイレンサーのおかげで無音で放たれた弾は、二人の会話の隙に逃げようとしていた健の左胸を性格に貫く。
「――!」
 健は最後の悲鳴を上げることすら叶わず、奈津子の隣に力なく崩れ去った。だが、奈津子はそれにはまるで興味を示さず、目すら向けずに男の方を相変わらずの落ちついた眼差しで見つめている。
「……これ以上お喋りはできない。次後処理は、初めから決まっていたことだ。あの世で俺を恨んでくれ――」
 男はその奈津子に向けて、もう一度銃の引き金を引いた。無音で迫りくる弾は吸い込まれるように、奈津子の心臓を打ち抜いていく。奈津子の形のいいピンクの唇が、男の目に微かに動いたように見えた。
 あ、り、が、と、う――
 男の顔が惨めなほど大きく歪む。そこにあったのは、奈津子への自分でも気付かぬ思いか……それともどうしようもない後悔か……
 二人の死体を確認すると、男は結局奈津子に自分の名前すら語ることなく、その部屋を後にしたのだった――


 エピローグ

 センター街の中にある、小さな喫茶店――BLACK・SHEEP。いつもの窓際の席で、いつものコーヒーを飲みながら、リュウジはぼんやりと窓外の喧騒にまみれた景色を眺めていた。
「な〜に? 感傷的に窓の外なんて眺めちゃって。リュウジらしくない」
 そのからかうような女の声は、リュウジの頭上から降ってきた。彼は声の主に気だるそうに顔を向ける。女はリュウジの視線を受けると、微かに微笑み、彼の向かいに腰を下ろした。金色の髪と透き通るような碧眼のその女は、僅かにアイシャドウなどが濃いが間違いなく絶世の美人である。異国の美人に、周りの客が俄かにいろめきだった。
「何しに来たんだ。しばらくは休暇のはずだがな……」
「つれないわね。せっかく私から会いに来たっていうのに」
 リュウジが周りのどよめきなどまるで気にした様子もなく女に邪険に言うが、彼女はそれこそ気にもかけずにリュウジに笑いながら答えた。女が注文を取りに来たウエイトレスに紅茶を頼んでいる間に、リュウジは視線を窓外に戻す。その顔はやはりどこか浮かない。
「……私たちの任務をいちいち気にかけてたら身が持たないわよ、リュウジ」
 そのリュウジに、女が小さな子供をあやすような口調でそう言った。女の言葉に、リュウジが彼女の方に向き直す。それから少し声を荒立てて言った。
「俺は任務のことを言っているんじゃない! ただ、あんなに真摯な少女を、この手にかけてしまったことを悔やんでいるんだ!」
「……」
 拳を震わせて息を荒立てるリュウジに、女は沈黙と笑顔を返す。そこには、慈愛のようなものが見て取れた。女の態度に、リュウジはさらに言葉を続けようとするが、それは見計らったかのような女の言葉に遮られる。
「精神高次者の候補だったんでしょ、その女の子は? 組織の外で勝手に進化を遂げていたのなら、リュウジが手にかけなくてもいずれは組織に消されるわ」
 言い終えると、女は優雅な手つきで運ばれてきた紅茶に僅かに口をつけた。リュウジはそんな女を、殺気すら放って見つめている。
「それにどうせ、そういう子は社会が殺してしまう。その女の子も、おそらく自ら死を望んでいたはずよ……」
 リュウジの常人なら動けなくなるような鋭い視線を軽くいなしながら、女はさらに諭すように言った。
「……お前に何が分かる? あの子のことを知ったような口で言うなよ――」
 答えるリュウジの口調は、静かだが溢れんばかりの怒気を含んでいる。それに対して女は今度は何も言わずに、少し寂しそうな表情を浮かべるとゆっくりと席を立った。そして、そのまま店の外に出ていってしまう。リュウジはそれを追いかけもせずに、ただ黙って睨んでいた。女の姿が店の外に消えると、リュウジはすっかり温くなってしまったコーヒーを一口啜り、小さく舌打ちする。リュウジの顔は苦渋と後悔の色に塗り潰されていた。
「一体、俺はどうすれば良かったんだっていうんだ……」
 呟いた言葉は、店内の小さな喧騒に溶け込み、彼の問いかけに答える者は誰もいない。もう一度窓外に目をやると、センター街を楽しそうに歩いて行く女子高生の集団が、リュウジの瞳に虚しく映ったのだった――