近江屋、竜馬、そして死
作:AKIRA





 この時、坂本竜馬は近江屋に二階で暖をとっていた。
 風邪を患っていたためである。
 近年の竜馬の動向の凄まじさは、絶筆に尽くしがたい。
 ほんの少し前まで、薩長を同盟せしめて反幕府勢力を築き上げた、と思えばその直後に後藤象二郎から山内容堂をして大政を奉還せしめた。
 全ては「日本を変える」この一言に尽きる。
 しかし、当の薩長が黙って見ているはずも無く、竜馬はかつての仲間に命を狙われる羽目になった。
 それでも竜馬は藩邸に居を変えようとしなかった。
 煩わしい、というのもあるがそれよりもある種達観した所があった。
「この世に生を受けるは事を成すにあり」竜馬の座右の銘である。
 竜馬にとって命そのものの価値は無いに等しい。それよりも、この日本をより良くしたい、その為にはどうなろうが構わない、という考え方だ。
 故にどんな無茶もやってのけられるのだろう。
 幕府が竜馬を大坂で捕まえようと捜査網を広げている中、単身大坂城に乗りこんで知人である大久保一翁に巡回地区と番所を記した地図をもらった事もあった。


 そんな竜馬が風邪の為、近江屋で暖を取っている。
 この時、一緒にいたのは中岡慎太郎というこれも土佐藩の浪士である。
 謹厳実直、至誠一貫という人物で国事の為に全てを投げうって東奔西走している典型的な勤王志士で好漢である。
 また、陸援隊という浪人結社の頭目、という一面も持っている。
「竜馬さん、徳川はいつ倒れますかの」
 竜馬に対して敬語を使っているのは、慎太郎が三つ年下だからだ。
「儂ゃ、徳川を倒すつもりはない」
 やや憮然とした表情で答えた。
「どういうことですか!竜馬さん、あんたはこの日本の腫れ物を残すつもりですか」
「いや。今、徳川は一国の大大名になった。とはいえ、徳川家そのものを滅ぼしてしまえば、天領はどうなる。旗本八百万騎の面倒は誰が見る?朝廷に政権を返した所で、実際に朝廷に政治能力はない」
「いや、薩長、それに我が土佐、加えて尾張と安芸を加わるではありませんか」
「では聞くが、今、お前が言った五ヶ国が今までこの日本を背負った事があるかよ。ないぜ。二百六十余年の長きに渡ってこの日本をしょったのは他ならぬ徳川ぞ。そりゃぁ、徳川がやって来た事は決して良いとはいえん。しかし、今現時点で、日本の中にあって政務執行能力があるのは、徳川のみだし、もしお前の言うた通り徳川打倒の旗を立てれば戦争になる。もし戦争になれば、この国は、只でさえ牡丹餅を狙っている諸外国に蹂躙される。それだけはなんとしても阻止せねばならん」
 竜馬がめずらしく熱弁をふるった。慎太郎はそれを聞いて黙ってしまった。


「なら、竜馬さんはこの御維新が終わればどうするつもりですか」
「儂か・・・儂ぁこれが終わったら今の仕事を続ける」
 今の仕事、というのは長崎で陸奥陽之助(宗光)や長岡謙吉に任せっぱなしでいる海援隊の貿易業務の事である。
「何故ですか。竜馬さんのやった仕事は日本の誰もが認めちょる事でしょうが。竜馬さんはこれからの日本を作らにゃいかんはずです。それとも、この日本を再生する事よりも船の方が大事ですかい」
 と、慎太郎が竜馬に詰め寄った。
 その慎太郎の真面目な顔を見て竜馬は満足そうな笑みをこぼした。
「だから、お前は甘い、と言うんじゃ。皆が皆そのままだだずべりで、新政府の要職つけるかい。いや、つこうとする人がおればつきたくない人間だっておる。海舟さんや、横井先生はもうつかんじゃろう。俺がいいたいのは皆が皆、お前のように考えては居らん、という事だ。」
 と、いいながらも竜馬の顔は満足げである。


「もうこの話はよそう。それにしても峰吉は遅いな。早く軍鶏を食いたいのう」
 と言って竜馬は火鉢に両手をかざした。
 間もなくして世話をしてくれている藤吉から「十津川郷士」と書いてあった紙を渡され、竜馬は藤吉に上がってもらうよう言いつけた。
 藤吉は、部屋を辞した。
 閉めている襖の向こうで、大きな声が聞こえたので竜馬は、藤吉が「十津川郷士」にいたずらをしているものだと思い、「ほたえな」と大きな声で一喝した。
 次の瞬間である、襖が開いたのは。


「藤吉、お前客人にちょっかいをかけ・・・」
 と言いかけて表情が変わった。見慣れない男が右手に血塗りの刀を持って仁王立ちしていたのである。
「石川!刀・・・」と竜馬が言いかけた瞬間、血塗りの刀が竜馬の額を薙ぎ払った。
 頭に大きな衝撃を受けた竜馬であったが、ふらつきながらも立とうとした時、今度はその血塗り刀の仲間と思しい男が、竜馬の背中を斬りつけた。
 石川、とは中岡慎太郎が普段使っている変名で、その中岡も左腕と胸を袈裟懸けに斬られていた。
「こなくそっ」と誰かの声がした。しかし、その声の主は遂に分からなかった。

 
 嵐のような襲撃の後は惨烈を極めた。
 額から脳漿を垂れ流している竜馬と、全身が血だらけの慎太郎の二人がいるだけだった。
「竜馬さん・・・大・・丈夫・・・ですか」と途切れ途切れの掠れ声で慎太郎は偉大な歴史舞台の立役者の方を見た。
「やられたわい・・・死ぬ事自体はなんら怖くはないが、やっぱり・・・悔しいのう・・・。龍、すまんかった。佐奈子さん、元子、もいっぺん会いたかった。
 儂ぁ、もう死ぬき、後は任せたぞい」
 竜馬は床柱にもたれ、最期に眼を思いきり見開くとそのまま息絶えた。
 まるで、これからの日本を見据えようとして。
 慶応三年十一月十五日、奇しくも竜馬三十三歳の誕生日の事であった。


 この直後、京都の河原町通りには眼も開けられないほどの凄まじい旋風が起こったという。