最期の真田 前夜
作:AKIRA





  九度に住む兵(つはもの)

 大粒の雨が九度山を一面に濡らしてる。
 稲妻は怒りの轟音を轟かせて止まない。
 一人の天才がこの世を去ろうとしていた。
「表裏比興の者」と称された真田昌幸である。

「ち、父上……」と息子である幸村は次の言葉が出なかった。
 昌幸が俄かに病を起こしたのは今から半年ほど前になる。
 上杉景勝を倒すために徳川家康に従軍したのは今から十一年前にもなる。五十五歳の夏。
 嘗て豊臣秀吉より「表裏比興の者」と称されその無類の謀才ぶりはまさに天才だった。
 しかし自らと幸村とを率いて西軍として加わった関ヶ原の役は奮闘むなしく敗れ、この九度山に配流された。
 家名は長男である信幸(信之に改名)が東軍についたため保たれている。
「信繁、実に下らん世であったの……」
 この信繁というのが、本編の主人公である幸村の本名なのだが、何故『幸村』なのかは謎のままである。
 一つには、この『幸』の字は真田家代々(幸隆の代から)の片諱である。
 この字に姉である村松からとっている、等とにかく諸説が多く、定かではない。
 因みに、この信繁、という幸村の本名は、かつて武田軍の重鎮であり人望も篤かった武田信繁から戴いたものだとされている。
「何をおっしゃいます」
「あの狸めが天下を取ることになるとはの……」
 感情も無く捨てたような言い方に、家康への、決して拭い去ることのできない感情が感じ取れた。
「信玄公が三方ヶ原で亡くなられ、天下は信長に帰る処が明智に討たれ、秀吉に、今度は家康とは……」
 下らんよ、と昌幸はいつもの口癖である。
「信繁、暴れろ。家名は信幸が在るゆえ保たれる。だからあのくそ狸の心胆を寒からしめてこい」
「し、しかし私には父上ほどの才も有りませぬゆえ……」
「大丈夫だ。確かに政治はお前にはできん。だが、武略、知略ではお前は屈指だ。儂は死ぬ。その後は好きなようにせよ」
 と昌幸は目を閉じた。
「実に下らん世であったわ……」
 これが昌幸の最期の言葉になった。享年六十六。稀代の謀将も病には勝てなかった。

 昌幸亡き後の九度山は幸村が事実上統括した。
 とはいっても、この九度山にいる百姓や猟師達は全て幸村の監視役でもあった。
 しかし、当の幸村本人は晴耕雨読の日々を続けた。
 幸村は農民や猟師達のよき相談役になり、時には夫婦の仲裁役まで買って出ることもあった。
 凡そ武人の武人たるべき人とは思えない程、物腰は柔らかく、人の笑い話に大笑する事もあった。
 九度山の民達がこの幸村の人柄にいつしか魅かれ、自分達が家康に命ぜられた監視役という事に恥じ入った。
 だが、武人としての真田の血は九度山に安息を求めてはいない。
 幸村の頭の中には昌幸の言葉が頭に残って離れない。
 昌幸が死んでからはや三年の月日が流れている。
(もう一度でよい……真田幸村という漢がこの世にいたという事を残したい……)
 いつしか幸村に去来する想いは自身にも気づかない程大きくなっていた。

「信繁様ぁ、お客人ですだ」
 日ごろからよく世話してもらっている伍助が客を連れて幸村の館に来たのは秋口に近くなってきた八月も終わりの事であった。
(客……徳川か)幸村の中に流れる真田家の血がそう言った。
 幸村は客間に通すよう、伍助に言った後衣服を正して客間に入った。
 客間に入ると既に男はすでに旅装を解き静かに鎮座し、待っていた。
「拙者は霞の小五郎と申し、服部半蔵様の元で働く乱破でござる」
 徳川家康の使いの者だという。
「何故」このような田舎まで、と幸村は茶を啜りながら訊ねた。
「単刀直入に申し上げる。我が大御所は真田昌幸殿と共に天下を定めていただきたいと仰せでござる」
 つまり、豊臣家を滅亡させたい、という事である。
「これは異な事を。それがしと父上は関ヶ原では西軍に付き、兄上の嘆願が無ければ今頃は黄泉にいる身でござる」
「大御所は、これまでのわだかまりを寛大なお心でお捨てあそばした上で共に天下を戴こうと」
「それはありがたい。が承知できぬ」
「何故でござる?」
「後水尾帝の事である」
 というのは、昌幸が没した同年、徳川家康は後水尾天皇の即位にあたって豊臣秀頼と対面する事を望み、これを実現させている。
 これは、事実上、徳川家が豊臣家に取って代わることを意味していた。
「元を正せば徳川家は豊臣家より下。にも関わらず主家に従家が取って代わるは謀反でござる」
「では申し上げますが、現状の豊臣家に天下を治める器量がおありか」
 小五郎というこの忍びは案外政治感覚に鋭いらしい。
「ない」
 と幸村は言った。
 豊臣政権は秀吉が全てであるといっていい。政権を支えたのは秀吉のカリスマと信長時代に培われた軍事力だけである。
 決して強くない軍種である尾張兵を率いて強さを誇れたのはやはり信長の統率力たればこそである。
 信長が死して後世に言う『清洲会議』で信長の後継者になったのは信忠嫡男である三法師(秀信)だが、実質後見人の秀吉である。
 それでも、秀吉に従ったのは秀吉に時の勢いがあったことは別としても、秀吉に魅力があった事も事実である。
 その秀吉が死んだとなれば、往時の勢いはまったく無いといっていい。
「ならば我が陣営に」
「いや、行かぬ」
「何故」
「確かに家康殿に時の勢いはあろう。だが、主家を打倒しようとする謀反者の片棒は担ぐまいて」
「しかし、大坂には治める器量はないと」
「確かに言った。しかし方広寺の件は実にもって見苦しい。潔さが無い。とても幕府の大御所とは思えぬ振る舞い」
 幸村に軽蔑した笑みが浮かんだ。
 方広寺の件とは、八月の大仏開眼供養の際、「国家安康、君臣豊楽」の銘文に謀反があると家康が難癖をつけた事件である。
 当時、携わっていた豊臣家臣片桐且元は釈明に駿府城にまで赴いたのだが門前払いをくらわされた。
 大坂に立ち戻った且元は人質の差し出しなければ解決は困難としたが淀殿の怒りに触れ、且元は退去させられてしまう。
 この事が発端となって大坂の役は勃発するのだが、まだ事件はそこまでに至っていない。
「では、どうしても我が陣営においでいただけないと?」
「そうなる。わしも父上同様実を言うと家康が大嫌いでのう」と幸村は大笑した。
「それは本当に昌幸殿もそう仰せであったのですか?」
「でなかったら、わざわざ勝ち目の薄い西軍にはつかんでのう」
「……あなたでは話にならぬ。直接昌幸殿にあってお伺いを立てねば」と小五郎は刀をつかみ出て行こうとした。
「それには及ばず。父上も『徳川の者あらば取次ぎ不要』と申して会わぬであろうしそれに、父上はもうこの世にはおられぬ」
「お亡くなりになられた?」
「そうだ。村を通る道すがら、墓所があったであろう。あの中で一際大きい墓石が父上のものだ」
「そうですか……では大御所の御為にもあなたの知略は危険すぎる……」
「そうか?あの狸殿ならわしなぞ恐るるにたらんと思うぞ?」
「いえ、あなたはあまりにも危険すぎる……」
 と、刺し貫かんと素早く抜刀するや一挙に間合いを詰めてきた。
 その時である。一つの石ころが小五郎の顔に直撃したのは。
「お前さん、半蔵のくそ爺の犬だろう?こんなところで何してる」
 と、青年がにやついた顔で数個の石ころを空中で放り投げながらお手玉の様にして遊んでいる。
 猟師の格好らしく、熊のなめした皮を袖の無い衣の上に羽織り、裾を絞った袴に厚手の草鞋を履いている。
「き、貴様は」誰だと、小五郎は顔に手を当てた。
「俺かい?俺ぁこの信繁様の身の回りを世話してる佐助っつぅもんだ。よく憶えておきな」
 ともう一度小五郎の顔面に向けて石礫を喰らわした。
「本日はここで失礼いたしますが、次は無いと思うて下さりませ」と顔に手をやって小五郎は姿を消した。

 駿府城。
 ここに徳川家康がいる。
 この城は主人を数度変えている。
 一度目は、今川義元といってこの遠江と東三河を治める大大名だったが、織田信長の手によって討たれた。
 二度目は、武田信玄である。義元が討たれた時、息子義信の反対をけって駿河に攻め込み義元嫡男である氏真を追い出した。
 そして、その信玄が死に、天目山で滅亡した時この城に入城したのが徳川家康である。
 そして、徳川家康は齢七十を超え、将軍職を秀忠に譲ってもいまだ現役である。
「やはり、真田は来ぬか……」
「はい……謀反者の片棒を担ぎたくは無いと」
 服部半蔵が配下である小五郎の報告を受け、登城していた。
 この服部半蔵とは、服部半蔵正成(半蔵門の語源になった人物、慶長元年病没)の嫡男で名は正就という。
 家康は無言で蜜柑を食していた。その眼には暗い憎悪が満ちていた。
「それと、もう一つ」
「何だ」
「真田昌幸殿の事はどうやら真実であったようです」
「本当に死んでいたのか」
「はい、配下の者が実際に昌幸のご子息にあわれ直接聞いたようで」
「あの上田のこもって父と戦い、秀忠を遅参せしめたあの小僧か」
「はい……信繁という名だそうです」
「名などどうでもよい。そうか、昌幸が死んだのは本当だったか……」
 家康は小躍りしたい気分になっていた。
 逆をいえばそれほど昌幸を恐れていた、という事になる。
 理由は諸説ある。三方ヶ原の戦いもそのうちの一つである。
 しかし、真田昌幸という事に限定して云えば、二度の上田合戦だと推測される。
 第一次は天正十三年、第二次は慶長五年で、特にこの第二次とは関ヶ原の戦いのことでの話である。
 徳川秀忠が三万とも云われている大軍で攻めた時、外交戦とゲリラ戦を展開させ、遂に関ヶ原に遅参せしめたのは有名である。
 しかし、家康が最も恐れたのはむしろ第一次上田合戦だろう。
 この合戦が行われる前年、徳川は豊臣と小牧・長久手によって激突する。
 北条家と結んでいた徳川は、真田領地(と昌幸本人は考えていた)の沼田城を北条家に譲度するよう指示した。
 ところが、それに昌幸が猛反発した為、この第一次上田合戦が行われたのだ。
 鳥居彦右衛門や、大久保忠世等の腹心に約七千程で攻め落とそうとした。
 これに対して上田城にいる城兵およそ二千たらず。普通なら敗北必定の戦である。
 ところが、南と北にそれぞれ、千曲川、矢出沢川が流れており実質東の大手門からしか攻められない。
 しかも、一挙に城内に徳川軍を流れ込ませたのである。
 しかし、狭く、且つ柵で制限された城内では身動きがとれず、しかも火や鉄砲で狙い撃ちされ、凄惨な戦いになった。
 徳川軍は神川という上田城の東に流れて、千曲川と合流する河川にまで退却したが、そこでも今度は信之(幸)の奇襲に会い、残った兵が数百という大惨敗を喫している。
「眼の上の瘤が取れたとはこの事よ」
 さっきまでの表情から打って変わり、眼から憎悪の炎は消えていた。
「それよりも、大御所」
 と半蔵は傍に寄った。
「どうも豊臣家の動きに不穏あり」
「そうか……」
「福島家や前田家等、太閤恩顧の大名諸家に盛んに書簡を出しているとのことで」
「さしずめ、勢力を整えようという事であろう」
 家康に不敵な笑みが浮かんだ。
「正純はおるか」
「はい。何か御用で」
「聞いておったであろう。諸藩に令を出せ。決して豊臣に近づくな、近づけば改易にするとな」

「で、どうするんでさぁ」
 佐助が痺れを切らしたように幸村に詰め寄った。
 事態は急変している。
 関ヶ原の役の後、豊臣家の俸禄は六十五万石になっている。
 あの方広寺の件以来、徳川と豊臣の最後の争いは最早不可避の状況にまでなっている。
 九月、片桐且元は大坂城を退去してしまい、同時に家康も動いた。
 将軍職を秀忠に譲った家康ではあったが、駿府城で早くも諸藩に大坂討伐の令を出し始めた。
 これにただ手をこまねいている程、豊臣軍も甘くは無い。
 福島正則や前田利常ら秀吉時代の恩顧の大名に呼びかけ、勢力を整えようとした。
 しかし、そこで思いもかけない事態になってしまったのだ。
 旧豊臣恩顧の大名は秀頼の呼びかけに誰一人として応じないのだ。
 つまり、徳川二百四十万石に伊達、上杉、藤堂等を加えた大軍団にたった一藩で臨まなければならない状況になってしまった。
「今ぁ、太閤さんとこじゃぁ、牢人衆まで集めているらしいよ」と幸村に耳打ちした。
 現在、豊臣軍は各地にいる名のある牢人達に招集をかけている。しかも当座の金子や銀子まで用意するという。
 塙団右衛門や、毛利勝永ら名将・猛将達がすでに登城しており、後藤又兵衛基次らもすでに承知しているという。
「で、どうするんでさぁ」
「まぁ、待て。呼びかけているとはいえ私の処には来ておらぬぞ」
 だから動かない、という。
 三国志にある「三顧の礼」という言葉がある。
 新野城主であった劉備が諸葛孔明を自軍に招くために三度訪れ、遂に自軍軍師にしたという故事であり、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎という名前であったころ、斎藤家臣である竹中半兵衛を自軍に招くために模倣した。
 まさしく幸村は、その臥龍であった。未だ雲たる君主を掴めていない。
 いや、掴める好機はあった。現に徳川家康が誘ってきた。
 しかし、断った。
 合わない、というのが理由らしい。
 相性、考え方、天下観、その他全てにおいて幸村と家康には埋めがたい大きな溝があった。
 天下の権力者とはいえ、顎でこき使われるのが嫌らしい。
 やはり、真田家の一匹狼の血の性質は拭えなかったものであるらしい。
「確かに大将の処には来ちゃないけど……でも徳川方はこの前断っちまったじゃんか」
「まぁな。あのご老体とは決定的に合わんよ」
「じゃぁ、豊臣方に味方するんですかい?」
 佐助は呆れた。家康と合わないという唯それだけで大坂方につくなら無茶というより馬鹿である。
「いいや、向こうも私を要らないとなれば私も出向かない。ここで暮らすだけだよ」
「出向かないって……」
「あぁ。舞台は自分から求めるものではないからな」
「そんな……」
「いや、実を言うとな、ここの生活も満更でもないのだよ。ここでも果ててもいいではないかと、な……」
 と幸村は翳りのある微笑をこぼした。
「本当にそれでいいんですかい?」佐助の眼に微かな涙を浮かべたような気がした。
「ま、とにかくだ。私は徳川には応じない。だからといって豊臣方に与するというわけでもないのだ」
「その答えは皆が幸村様の監視役だからですかい?」
「そんなことは思っていないさ。本当にそうするつもりは無いのだから」
「見損なったぜ!!天下の真田信繁ともあろう御人がそんなにこしぬけだったぁね」
 と佐助は憤然と幸村の館を出て行った。
(さてもさても……)幸村は空を見上げながら扇子で首筋をぴしゃりと叩いた。
 確かに未だに幸村の中には、いま一度歴史の表舞台に出たいという思いはある。
 しかし、この九度山で暮らしていくうちにここの生活も満更ではない事もまた、事実である。
 見上げた空にはいつしか薄い三日月が昇っていた。

 薄い三日月が夜に映えて煌々と月明かりを下界に溢している。
 豊臣方の配下と名乗る雲水が幸村の館に訪れたのは、戌の刻頃だった。
 六尺半はあろうかという大男で、左手に錫杖を持ち、右手には数珠を手首にかけて巻いている。
 歴戦の猛者らしく右頬、腕、また手等に矢創等を負っていた。
 かなりの高齢であろうはずであるのに、その両眼からは坊主とは思えないくらい鋭い。
 幸村はその雲水を自室でもてなした。
 男は自らを清海と名乗り、豊臣秀頼からの文を差し出した上で、
「九度山の御大将が秀頼様に付けば、たとえ徳川が百万の大軍で攻めてこようとも必ず勝てるであろうとの仰せでござった」
 と云った。
 この清海という男、元々阿波を本拠地とし、畿内を席巻した三好家の一門衆であったらしい。
 しかし、松永久秀によって取って代わられた後は、なくなった本家の菩提を弔いながら好機を窺っていた。
「ふむ」
 と幸村は手紙を読んだきり眼を閉じ、一言も発していない。
 静寂が部屋を包む。
 清海は、苛立っている。徳川に与しないとすれば、当然秀頼公に味方するものだと信じている。
 しかし、眼前にいるこの初老の男は眼を閉じたまま声ひとつ上げていない。
(どうするのだ)と清海は怒鳴りたかったに違いない。しかし、懸命に耐えている。
 暫く、やはり静寂が続いた。が、幸村が今までの静寂を打ち破った。
「では、こちらに参られい」
 と清海を客室に招きいれた。
 客室は、八畳ほどの広さで南に向かって経机を置き、西側には床の間がある。
 床の間には亡父・昌幸が書いたのであろう水墨画が飾ってある。
「今夜はもう遅いので、ここにお泊りになるがよろしかろう」といって手代に布団を敷かせた。
「お待ち下され。拙僧は何も……」
「まぁ、待ちなさい。貴方もこの山路の中を来たのだ。もうお休みたまえ」といって一つの包みを渡した。
(私が出て行ってからこの包みを見るように)と書いた紙が添えてあった。
 程なくして、幸村が客室を出た。
 と同時に、清海は包みを解いた。
 包みの中には割れた文銭が六枚と、同じく割れた竹があった。
 清海にはこれがわからない。
 この割れた六枚の文銭と割れた竹の謎が解らなかったのは清海だけではなかった。
 清海のいる客室の真上にその忍者はいた。
 目鼻立ちはお世辞にも整ってはいないが愛嬌があった。
 背は五尺足らずで黒装束を纏い、忍び刀は背中に差しておらず、脇差程の刀を腰に差している程度の軽装である。
(……?)その忍者も先ほどから自分でも分からないくらい首を傾げている。
(もっと近くに寄れば何かあるかもしれない)と思ったのかその忍者は首を小包に近づけた。
「わからん!!」と天井を向いて、清海が横になったのとほぼ同時であった。
「曲者かぁ!!」と清海は飛び起き、傍に置いてあった錫杖を天井に向けて突き上げた。
 忍者は不意をつかれ、脛を当てられたので、
「ぎゃっ」と呻いて天井から落ちた。
 清海は、天井から落ちた忍者の背中に乗っかり身動きを封じた。
 幸村が客室に現れたときはすでに忍者の手足は封じられていた。
「ここにはよほどの大きな鼠が住みついとるわい」と清海は大声で笑った。

 清海は忍者の両手を後ろ手に縛り上げ、庭に放り投げた。
「さて」と幸村は思案した。
「大将、早く殺っちまいましょう」と清海が錫杖を石突きを鳴らす。
「まぁ、待ちなさい。こやつの素性と目的が先だ。忍び、徳川の手の者か?」
「……」
「ふむ。では、何故当屋敷に忍び込んだ?」
「……」
「口は堅いのか。では雲水殿、縄を解いてやりなさい」
「いいんですかい?」
「構わんよ、たといあの包みをみられたとしても大した事は無い。さ、早く」
 清海は忍者の縄を解いた。
「忍者よ、もしお前が徳川の手の者であればだが、伝えておけ。私を追うよりも大坂城の方が良い収穫になる、とな」
 と幸村は云って自室に戻ろうとしたとき、
「ちょ、ちょっとまってくれ俺は徳川家の人間じゃない」と忍者が叫んだ。
「なんだ、お主喋れるのか」
「当然だ。俺は穴山小助といって元は武田信玄公にお仕えした穴山梅雪斎の血を引く人間だ」
「信玄公の……」
 この小助のいう穴山梅雪斎とは、穴山信君の事で信玄の甥にあたり、信玄の駿河侵攻の際、駿河江尻城主となる。
 信玄が没して後勝頼に仕えるが見限り、家康に与する。本能寺の変の時、家康と共に堺におり、帰国途中で一揆に襲われ落命した。
「そうか、あの穴山殿の……」
「そう」
「では聞く。なぜ当屋敷に忍び込んだ?」
「いや、そこの生臭坊主が持ってるものが気になっちゃって……」と小助は頭をかいた。
「ふふふっ……面白いやつだな。よし、私の家来にならんか?今はこんな境遇だが赦免が出れば家来を雇う必要もあろう」
「いいよ。でもそのかわりといっちぁ何なんだけど、割れた文銭と竹の意味は?」
「おいおいわかる。どうだ、私の部屋へ来ないか?大坂や江戸の話が聞きたい」
 といって小助は幸村の部屋に、清海は客室に戻った。夜が明けかけていた。


  信州の兄

 信州上田城の一面はすでに雪で覆われていた。
 城内にある藩主屋敷から右手に見える大手門の瓦の色は燻した銀ではなく白銀に変わっていた。
 所々で火が熾されている。この所、冷えが厳しくなってきている。
 幸村の兄の信幸は名を信之に改め、新しい城主になっていた。
(九度の山は浅野長晟殿の監視と聞いておるが、健勝であろうか……)
 関ヶ原で別れて以来、一度も会っていない。仕送りと手紙を届けてはいる。
(これで、よかったのだろうか……)
 信之は、この頃思い悩み始めていた。徳川方に与せず、父と共にいた方が良かったのではないか。
 大坂方と徳川家との最後の抗争は遠く信州にも届いている。
 やはり、道理ではない。しかし、それが政治、というものでもある。
 この現実感覚が信州真田家を存続させていることも事実である。
 徳川からの使者が到着したのは三日ほど前である。
 内容は、豊臣家の最後の戦をするので真田家のために軍を率いて助けて欲しい、という嘆願より恫喝であった。
「どうかなされたのですか」と信之の家内である小松が茶を立てている。
 この小松の父こそがかつて「徳川四天王」あるいは「徳川三傑」の一人に数えられ、名槍「蜻蛉切」の名手、本多忠勝である。
「いや、上様が大坂に来い、と」
「行かれないのですか?」
「そう考えているなら、これほど悩みはせんよ」
「信繁様がご助勢されるというお噂を聞かれたのですか?」
「あぁ、多分あいつは敵になるだろう。それも海内無双の敵にな」
「何故?」
「あいつは私より親父といる時間が遥かに長い。それにあいつの武勇は私を遥かに凌いでいる。自慢できる弟だよ」
「ならば、あなた様が直接説得なされれば?上様にお味方するよう」
「いや、あいつは私と違って少々観念的な所がある。だからこそ好かれるのだろうがな。親父によく似ているよ」
 と遠くを見る信之の眼は武将のそれではなく、弟を思いやる兄のそれだった。
「信繁様と戦場で相まみえるのがお嫌?」
「それもある。だが、それ以上に負ける戦に出ていく不世出の天才を討ち取らねばならない事が苦しくてな……」
 どさり、と雪の塊が庭に落ちた。小松は立てた茶を信之に出した。
「でも兄弟が敵味方に分かれ戦うのは戦国の世の道理、父が申しておりました」
「確かにそなたのお父上は立派な武人である。しかし、群雄割拠する時代であればこそかなう道理である。
 しかし、今は大勢が決してしまっている。その時代にあってもなお、兄弟分かれて相争うのは不毛だと思う」
「でもこうなる事は当の信繁様が望まれた事。ならば存分のその願いを叶えて差し上げるのも兄の務めかと」
「あぁ。しかし私は大坂にはいかん。信吉と信政にいかせる。これが戦国最後の戦になる。一度はあの二人にも戦場の怖さを知っておいてもらいたい。それにいい経験にもなるだろう……」
「でも、まだあの二人には今度の戦には荷がちと重いと思いますが……」
「矢沢頼幸を目付として同行させる。すこし心配がすぎるぞ」
「いえ、あの二人が真田家の恥にならないかと心配しているだけです」

 信之の息子は二人いて、一人は信吉といい、弟を信政という。
 二人は母に本丸に来るよう、呼ばれた。
「兄者、今度の戦には父上はでないそうだぞ」
「それはそうだろう。なんといっても叔父上は海内無双だからな」
「それに伴ってどうやら俺たちが名代になるらしいよ」
「何だって?!」と信吉の顔から血の気が引いた。
「じゃぁ、俺たちは……」
「叔父上とやり合うのか……」
 二人は大きくため息をついた。
「なぁ、何とかならないかな」
「無理だろう。すでに大坂入りしたっていう知らせまで入ってるんだよ」と信政の表情は暗い。
「本当か?」
「まだ確固たる証はないが、そういう噂が飛び交っているのは事実だ」
「しかし、叔父上は亡くなられた祖父様から軍学や用兵の全てを教わったと聞いたぞ」
「まさか。でも、九度山に十年以上一緒におられたのだからあり得るか」
「上様も叔父上の大坂入城にはえらく恐れていたとの事だそうだ」
 やはり、誇りの叔父上だなぁ、と信吉は腕を組んで感慨深い思いだった。
 この二人は生涯を通じて幸村と会うことは無い。だが、戦国無双の大将が自分の叔父だという事とその叔父上と戦うという二つの事象だけで二人の気分は高揚していった。

 信州上田城には天守閣が無い為、本丸といえど砦を一回りほど大きくした程度である。
 眼下に千曲川が流れ、天然の城郭とし、また北には二の丸から矢出沢川が望め、正しく天然の要害である。
 特に冬になると、川の表面に薄氷が張り山国の冬の厳しさが窺い知れる。
 二人が本丸の広間に到着したころ、父の信之と母の小松殿は既に待っていた。
 おもむろに信之が口を開いた。
「さて、上様から書状が届きこの真田家からも軍勢を差し出せとの事だ」
 二人の真剣な眼差しは父親に注がれている。
「そこでだ、既に知っている事とは思うが私は今度の合戦には赴かず、名代としてお前達を出す」
 沈黙が部屋を支配する。
「勿論、お前達は初陣に近い。矢沢頼幸を目付とし、私は後方で戦の支援をする」
「父上、一つ質問があります」と信吉がおもむろに口を開いた。
「なんだ」
「父上が先頭に立って軍を率いないのは何故ですか」
「弟の戦いぶりをお主たちの眼に焼き付けておいてもらいたいからだ。信繁は世間では幸村と名乗っているらしいが、その弟の姿、最期になるであろう信繁の用兵術、そして真田幸村という漢を後世に伝える為に、お前達に参陣してもらいたのだ」
「それでは父上が弟たる叔父上と相対峙するべきではないのですか?」
「私がもし信繁と対峙すれば大坂方は信繁を謀反者として扱うかもしれん。決してそういう奴ではないがな。
 しかしもし、そうなってしまったらあいつの不幸だ。あいつは死に花を咲かせられないまま死ぬ。それだけならよい。
 問題は、その後だ。天下の真田幸村という男は最後の最後になって大坂を裏切ろうとした、となればこれ以上の不名誉も無い。
 私は、死を覚悟している弟に盛大な華を飾ってやることしかできない。その為にもお前達に参陣してもらいたいのだ」
「では上様にはどのようにして……」
「上様には病気と伝えよ。それがせめてもの私の抵抗なのだから……」
 という信之の表情はなぜか晴れやかのように思えた。
「信吉、信政、よく聞きなさい」
 二人は、母のほうに向いた。
「よいですか、いくら落日の太閤殿とは申せ、後藤又兵衛殿や、塙団右衛門殿等、名将と呼ばれる方々がおられる以上、侮ってはなりませぬ。心してかかりなさい」
「はい」と二人は真剣は眼差しで返事をした。
「命は惜しみなさい。でもそれ以上に名を、名誉を惜しみなさい。『命は一代、名は末代』と云います。決して真田家の恥にならぬよう、思う存分働いてきなさい」
 という小松の眼から一条の涙がこぼれた。
「ささ、戦仕度をしてこい。遅参は許されんのだぞ」
 と信之に急かされるようにして二人は広間を辞去した。

 二人が出た後の広間は静かだった。
 ただ、小松の涙を落ちる音だけが部屋に響き渡るようだった。
「もう泣くな。戦国の世を終わらせる為だ。仕方あるまい」
「でも、自分のお腹を痛めた子供が死地へ赴く事を考えると……」
「……もうこんな哀しい事はこれで終わりにしたものだな」
「はい……」
 くずれかかるか細い小松を支えるようにして、信之は抱きしめた。いつしか信之の眼からも涙が溢れた。
 夕陽の斜光が二人を照らしていた。


   将軍の思惑

「何?!」
 江戸城にいる徳川幕府二代将軍秀忠は、戸惑った。
 真田伊豆守信之の参陣が病気ために中止になったのだという。
 この事にはいくら温厚な将軍とはいえ、持っていた扇を打ち捨てる程怒り狂った。
「あやつの助命嘆願で死一等を減じてやったというのに!!」
 秀忠には、真田家には絶対的な恩義がある、と自負していた。裏切らないだろう、という絶対の自信があった。
 ところが、死一等を減じて辛うじて九度山に蟄居させていた真田信繁が幸村と名乗り、あろうことか大坂方につく、というのだ。
 本来ならば、幕府に楯突いたのだから兄である信之こそが討伐するべきではないのか。
 その信之も病気を理由に参陣しないとの書簡が届いた。
「ふん、明らかに謀反の疑いあり。真田沼田、上田十二万石を召し上げとする!!」
 怒りで声が裏返ってしまうほどだった。
「しかし、現に御当主信之殿は床に臥せっておられ、代理として信吉、信政ご兄弟が参陣されるとの事」
 と秀忠付きの江戸年寄衆の土井利勝は報告を続けた。
「ふん、あの小僧共に何ができる。どうせ、幸村と戦うのが怖いのであろうな」
 と利勝を睨んだ眼は陰険さが見え隠れしていた。
「確かに怖うござりまする。関ヶ原ではいいように翻弄されましたからな」
 と利勝も遠回しに秀忠にやり返した。
 慶長五年、秀忠は関ヶ原に参陣すべく中山道を通り、信州軽井沢から上田城に進撃した。
 その時、この秀忠軍を迎え撃ったのが真田昌幸、幸村父子だった。
 城と上田城の天然の要害に加えて、寡兵でありながら小規模なゲリラ戦を繰り返すことで見事に秀忠軍を翻弄し、遂に遅参せしめた、という恥辱をくらっている。
 その事もあって真田家には人一倍怨みもあり、その憎悪の炎は味方した信之にまで及んだ。
「坊主が憎いと袈裟まで憎い、とは申せ信之殿は自らのご子息を向かわせ、それに御自分も後方で支援する、と仰っておられる」
 上様の敵は豊臣家か、それとも真田家なのかと利勝は激しく詰め寄った。
 この利勝の剣幕には秀忠も黙るしかなく、信之の参陣の代理として信吉、信政の参陣が認められた。

「家康、大坂討伐の命令を下し、駿府城を発つ」
 この事に最も衝撃を受けたのは豊臣家でも、恩顧の大名達でもなかった。
 当の秀忠本人に違いない。
 家康にとって秀忠は『傀儡政権』に過ぎず、二元政治というより院政に近かった。
 将軍の威信が丸潰れになったといっても過言ではなかっただろう。
 それでも、秀忠はその心にある暗いしこりを押し込めて忠実に父親の言に従った。
 このあくまで父親に逆らわない、温厚な、ともすれば陰湿なずる賢さが二百六十年の幕府の基礎になり、この長期政権の根底になったのかもしれない。
 実際、彼の政治的手腕は、家康が死して後発揮されることになる。
 しかし、この大坂の役に関しては彼は全くといっていいほど活躍をしていない。
 彼自身、武人たる性格ではない。むしろ内政に従事していることのほうが彼には得手である。
 家康が、武勇に優れた結城秀康ではなく秀忠を後継者にしたのはこうした背景もあっての事である。
「父上……」と秀忠は呻いた声を出すしかできなかった。
「上様、今すぐにご出陣の御仕度を」と江戸城年寄衆である、酒井忠世は無表情に促した。
 酒井忠世は名将・酒井忠次を父に持つ江戸城にあって土井利勝と共に幕閣の一翼を担う英才である。
「関ヶ原の二の舞は」許されませんぞ、と大久保忠隣も忠世にかぶさるようにして言った。
「わかっておる!!」という秀忠の声は半狂乱に陥ったのか、と思わせるような甲高い声だった。
 家康は十月一日に正式に大坂討伐の令を全国の諸大名に出すや、同十一日には自らも駿府城を出立するという。
 これに応じて、全国の諸大名は一斉に大坂に馬を向け出陣したのだ。
 その頃、秀忠は未だ江戸城でを出立していなかったのである。
(俺は征夷大将軍だぞ!)秀忠本人はこう叫びたかったに違いなかっただろう。
 征夷大将軍とは、日本六十四州を束ねる政治組織の中で最高権力者であらなければならない。
 つまり、征夷大将軍より権力、権威において上級は存在しない。してはならない。
 しかし、現実に自らの父親がそれを完全に蹂躙している。
『父親殺し』の汚名を受けようとも、あくまで秩序を正し天下の主は誰かを定める、秀忠の中にそういう思いが湧かなかったといえば、嘘になる。
 秀忠がそんな陰湿さを抱いたまま十万の大軍を率い、大坂に到着したのは十月二十三日。僅か十七日の行軍だった。


  九度山脱出、そして大坂

 十月に入って、九度山は紅葉づいてきている。
 幸村は眼下に見える赤と緑の絶妙なコントラストを眺めている。
「世間の戦など、ここでは塵芥の事に等しい……」
 そう思えるほど絶景である。
 しかし、そう悠久の時に身を置けるほど有閑な身分ではないのが現実である。
 世間では、遂に徳川将軍家大御所、徳川家康の名で正式に「大坂討伐の令」を出した。
 分かりきっていた事だが、やはり激震が全国に走る。
 その報せはここ九度山にももたらされた。
 佐助、と静かに幸村は呼んだ。
 はい、とまた静かに、一間離れれば聞こえないような声で返事を返す。気配を感じない。
「山の衆を呼んでくれ。今宵、大事な話がある、と」
 がさっ、と音がした。

「なんだぁ、信繁様の話ってなぁ」
 幸村の館にある大広間では刻限の酉の刻には山の殆どの衆でごったがえっていた。
「さぁ」
「この山下りて、大坂城に行くんとちがうやろうか」
「まさか」
「いや、ありえるぞ。将軍様につくんと違うやろうか」
「いや、付くとしたら太閤さまの形見さまやろう」
 いや、兄様のお味方に付く、とか後藤又兵衛様をお助けになる、とかはたまた実は昌幸が生きていて偽者が死んだ、など井戸端会議とも云うべき村人達の詮索が大広間で繰り広げられた。
 幸村が大広間の上座に座ったのは、その頃である。
「今日は、村の衆にお集まりいただき、この不肖信繁、感謝いたす」と深々と頭を下げた。
 今日の真田人気や、数々の小説・講談において人気が高いのは、こういった態度が平気でできる礼節さがあったからである。
 実際、幸村の評として「物事柔和」「笑語多く和せり」という記述が残っている。
 この態度に照れる者や、あるいは感謝の念で涙ぐむものさえいた。
「それで、今宵大事な事を打ち明けるつもりでいる」
 村人達が固唾を呑んだ。
「私は、今宵この九度山を脱し一路大坂城に馳せ参じ、亡き太閤の遺児を掲げ徳川とあい一戦交わる心に決めた」
 誰も、言葉を交わせないでいた。
 顔を見つめあう者、只呆然と尽くす者、ただただ涙を流すしかなかった者。
 この幸村の意を決した一言がさっきまで笑顔交じりに飛び交っていた言葉、和やかな雰囲気が一挙に飛んでしまった。
「それで一つお願いがある」少し間を開けて、幸村は続けた。
「私はすぐにここを発たねばならない。ついてはここを治めている浅野長晟殿を騙して頂きたい」
 そう言い放った幸村の眼は普段の和やかな眼ではなく、死を覚悟したとさえいえる武将のそれに変わっていた。
「それはできません」とこの村の村長の息子である才蔵が冷たく言った。
「なぜだ」
「あなたは、ここで蟄居を言い渡された人ですよ。という事は一生を此処で終えなければならない」
 つまり、貴方がここを出てはならないという事なんです、という才蔵はあくまで無表情だった。
「しかし、これは私が決めたことだ」
「決めたも何も……」
「しかも、太閤のご子息が正式に御使者をお使いになられ、金二百枚、銀三十貫を下賜された。私はそれに応えなければならない」
「応える?」
「そうだ、それが武人として、真田信繁いや、幸村という漢の生き様なのだ」
「では、あなたが今までここで過ごされたのはあくまで将軍様の首を獲るためなのですか」
「そうだ。ここに雌伏し続けたのは、太閤殿の大義の為、そして死に場所を得るため、徳川家康の首を狩る」
 獲る、ではなく狩る、という言葉に幸村の不退転ともいうべき決死の覚悟があった。
「その将軍家の御首を獲る、そのお気持ちは十分に分かる。しかし、十万とも二十万とも云われる大軍と戦うなぞ」
 犬死ではないのか、という言葉を才蔵は出すことができなかった。
 というより、幸村の眼、全身の見えない力、表情、佇まいが言わせなかった。
「確かに、無謀だ。だからこそ挑み甲斐があるというものではないか?それで首を獲れれば良し、でなければそれまで」
「……わかりました。しかし、謀反者の脱走を見逃すわけには行かない」
「では、おぬしを殺してでも此処を出る」
「……そこまで決意が固いのなら何も申しますまい」
「……」
「さぁ、話は終わった。もう皆各々の家に帰り明日のために休め。ぐっすりと深い眠りに就け」
 これで、全てが決した。

 夜半すぎ丑の刻、幸村九度山を出立。
 村人は誰一人として気づいていない。
 しかし厳密に言えば一人だけ気づいていた。
 その男は、つい先刻まで幸村を引き止めるため論戦を展開したばかりだった。
 佐助、清海、小助、それに幸村を伴った一行は紀州海岸を沿うようにして、和泉に入った。
 和泉には豊臣六十五万石を筆頭として、小出吉英(岸和田五万石)、北条氏信(狭山一万石)、等の小大名が軒を連ねる。
 わざわざ奈良を通らずに一旦紀州海岸に出たのは竜田の城主の片桐且元や、松山の福島正頼、本多利長など豊臣恩顧でありながら徳川方についた大名家の中を通るという危険を冒したくなかったからだ。

 水間寺という寺がある。
 現在の大阪府貝塚市にあり、貝塚と水間を結ぶ水間鉄道の終着駅、水間駅から水間街道を通れば、辿り着くことができる。
 龍谷山と称し、天台宗別格本山で建立した年代は古い。
 天平年間に聖武天皇の勅願により、行基や、あるいは開基の建立と云われている。
 中世以降、貴族・武家の信仰が篤い寺である。
 真田幸村も例外ではない。
 彼は、本堂を抜けて、聖観世音が出現したと伝えられている瀧を眼下にやって静かに手を合わせていた。
「やはり、あんたは侍だ」
 突然、後ろで声がした。
 幸村は、柄に手をかけようとするがどうも声に聞き覚えがあって柄を持つことができない。
「……」
「なんだ、先刻まで話してたのにもう忘れたのか」
「そうか、九度山から降りてきたのか」
「理由、聞かないのか」
「ん?そんなものはどうでもいいさ。自分の意思で来たのだろう?」
「あぁ、そうだ」
「なら、それでいいんじゃないのか?私だって自分の意思で決めたことだ」
「……」
「此処まで来て、今更九度山に戻れとも云えないだろうし、そもそも山を降りた時点で私と同じだということだ」
「……」
「浅野家には何と云ったのだ」
「脱走した。私達が寝ているところを見計らって脱け出したとな」
「相手は?」
「仕方ある無い、あの真田幸村を監視せよといったわしが悪いのだ、と言っておられたよ」
 幸村は天を拝みながら、心の中で手を合わせた。浅野家に対する感謝と、天の恵みに対して。
 本堂に戻ると、編み笠をかぶった武家風の男が立っていた。
 近くに寄ると、幸村の顔が懐かしさで微笑んでいた。
 叔父の隠岐守信尹であった。以前は蒲生氏郷に使えていた男で、今は、幕府の旗本である。
「才蔵、下がれ。叔父上と二人で話をしたい」
 才蔵は、麓の旅籠に向かった。

 本堂。
 奥に鎮座しておられる聖観世音菩薩の慈悲深い笑みの下、対面していた。
「叔父上、お久しい」
 と幸村は頭を下げた。
「信繁も元気であったようだな、老けたか」
「えぇ、このまま朽ち果てるかと思いました」という幸村の顔に笑顔が戻った。
「そうか、村松から文で知っておったがな。所でだ、どうだ?江戸に来る気は無いか?」
「……」
「お前が大御所様に『謀反者』といった事は知っている。しかしだ、大御所はそれを不問し仰せられその上で来て欲しいと」
「しかし、私はすでに大坂方に付きました」
「いや、わかっている。その上でそう仰っておられるのだ」
「……」
「確かに、大御所の関白殿に対する仕打ちはお前のいう通りだ。しかし、お前は大御所の心も考えたことはあるか?」
 という信尹の問いに幸村は答えられないでいる。
(確かに)
 天下の大御所ともあろう人物がたかが釣り鐘の金字で最大規模ともいえる戦を展開させるだろうか。
「しかも、後水尾帝においての対面の時、大御所は関白殿を見て『老成』と仰せられたそうだ」
 老成、とは若くしながらまるで幾多の経験を潜り抜けたような老人のごとき成長を遂げている人間を指す言葉である。
 家康をしてこれほどを言わしめた秀頼の天下の可能性は未知数だっただろう。
 しかし、母親や、その取り巻き達の愚鈍に過ぎる凡才以下の人間達によって滅ぼされてしまうのは悲劇というしかない。
「よいか信繁、大御所は関白殿を出来れば殺したくない。そのはずだ。だが、取り巻きたちがどうしようもない今となっては、この日ノ本の為に死んでもらわねばならんのだ」
 信尹はしかし、冷静にただ淡々と説得したに過ぎない。
 しかし、幸村にとってはこの「出来れば殺したくない」という言葉が衝撃的だった。
「のう信繁、大御所はもしお主が味方に参上すれば信濃一国を与えてもいいとおおせられておる」
 だからどうだ、と信尹は両手を幸村の肩にかけようとした。
「確かに叔父上のお気持ちは分かり申した。しかし、この真田左衛門佐幸村、すでに死に場所を心得てござる。されば叔父上とは、また江戸側とは与するつもりは毛頭ござらん」
 という幸村の眼の中にある意思は強靭であった。
「……ふふふ、やはり、そうであったろうな。儂の如き説得では動かんかよ。それでこそわが誇れる甥というもの」
 幸村は、深々と頭を下げた。

 水間寺をでた一行は一路、大坂。
 途中、山伏の姿に変装した幸村は大坂城方に付いている大野修理亮治長の屋敷に出向いた。
 表門で待っていると一人の若侍と思しき男が出迎えた。
「そなたか。殿に会いたいという男は。山伏か」
「はい、伝心月叟と申します。この度、大峰から参り、祈祷の巻物を持って参上したしだいです」
「そうか。しかし、殿は登城中なので当屋敷には居られぬ。日を改めよ」
「しかし、今日お届けしないとこの巻物の効力が失われまする」
「では、私が留守居を仰せつかっているので私が殿にお渡しする」
 といって若侍が手を差し出したところ、幸村は
「これは本人に渡さなければ意味の無いもの。しかも、失礼ながらそなたのような若年が持てばたちまち身が焦がれ、炎となりて体の一部も残らなくなりまするぞ」
 と凄んでみせた。
「……わかった。そこの番所で待っておれ。殿がお帰り次第通してやる」

 番所は表門を入ったすぐ右にあった。
 番所には数人のこれも若侍達が詰めていて、しかも焼酎を少し開けていたようである。
「なんだ?その山伏は」
 とそのうちの一人がほろ酔い加減で留守居に尋ねた。
「なんでも殿に祈祷の巻物を渡したいそうだ。俺が持つと体が焼かれてしまうそうだから殿がお帰りになるまで此処で預かってくれぬか」
「そうか、わかった。山伏殿よ、ささ、こちらへ参られい」
 と幸村を誘った。
 番所に入るや、幸村は焼酎にありつく事が出来た。
 というのも、幸村自身、焼酎、特に、いも焼酎が大好物で実際家臣である河原左京に幾度となく無心している書簡が見つかっている。
「ほう、見事な飲みっぷりだな」
 と酔った一人が幸村に杯に焼酎を傾ける。
 その内、輪には加わらずに刀を目利きしていた若侍が幸村を見て
「貴公の刀を見せていただきたいが」よろしいか、と訊ねた。
「いや、私の刀は野犬を脅す為のものにて」お目にかけるほどではござりません、と答えた。
「いや、私はここに納められている刀を全て見てきたのだが凡そ業物と呼ばれるものは少ない。そこで貴公の刀を見せては下さらぬか」
「そこまで仰るのならば」と幸村は自らの大小を差し出した。
 若侍が和紙を咥え、鞘を抜き、柄を持った左手をトンと右手で叩き、鍔を取り柄頭を抜いて、持ち緒を解き打ち刀を取り出した。
 やや、浅くはあったが腰反りで、湾れ刃、切先が大きい。長さは二尺三寸ほど。鎬造で、天正拵である。
「ほう……これは……」
 目利きの若侍は言葉が出なかった。
(山伏如きが?)このような名刀を持っているとは想像だにしなかったはずである。
「脇差も見せていただきたい」と目利きは半ば強引に借りた。
 脇差も見事で、一尺五寸ほどの平造で、しかも無反り。
「脇差もか……」
「よろしいか?」と幸村は、刀を返してもらった。
「いやいや……刀は正宗、脇差が貞宗とは……」
 その場にいる一同が絶句した。
 その時、留守居役が屋敷の主の帰着を知らせた。
 一同が出迎えに走り、幸村も続いた。
「で、その山伏とは何処に居る?」
 と屋敷の主である大野修理治長は留守居役に訊ねた。
 小柄な男である。色は白く、妙に白目が眼につく。体に合わず三尺もあろうかという刀を差していた。
「お待ち申しあげておりました」と山伏姿の幸村は対面した。
「……!」大野修理が顔を見た途端、平伏した。
「いや、こちらこそお待ち申し上げておりました。わざわざこの様な遠いところまで」
「では、大坂の状況も含めて話がしたい」
「では、こちらに」といって大野修理は幸村を書院にまで案内した。
 若侍達が実は山伏が幸村である、という話を聞いたのは程なくしてのことだった。

 書院に通された幸村は、早速大野修理と会談した。
「こ、この度は我が豊臣家に御力をお貸しいただけるとは光栄の極みと存じ上げ奉りまつる」
 と屋敷の主人であるにもかかわらず自ら進んで下座で頭を下げた。
「いや、私は単に関白殿によって死に場所を得られたというようなもの。むしろ感謝するのはこちらでござる」
「もしも徳川家康の御首級を上げ、公儀を斃したあかつきには、信濃上田沼田に海津をつけましょうぞ」
「そうありたいものだがな。しかしそれは負ければ、所詮、画餅に過ぎぬもの。まずは戦に勝つことのみを考えましょう」
 という、幸村に映った修理の印象はどうであっただろうか。
 どことなく暗い。確かに、政治的に頭脳は働く人間ではあるが、現場を知らなさ過ぎるきらいがある。
 忠義者ではあるが、諫言、直言というものをしない、いわゆる「官僚肌」だろう。
 もちろん、その時代に「官僚」という言葉はないが、すくなくとも武人たる人間としては肌の合わない人間である事は確かだ。
 かつての、石田三成や、また森蘭丸といった人種によく似ている。
 しかし、三成や蘭丸は良き能吏であり、良き秘書官であった事は事実である。しかし、この小柄な男にはそれすら感じられない。
(このような男達がいるのでは不利か……)
 そう思わざる得ない。しかし、今更徳川に与すればそれこそ『裏切り者』の謗りを免れず、永世に汚名を付ける事になる。
 そもそも、家康の頸を獲ると言ったのは自分ではないか、と幸村は自らに苦笑した。
「できれば、早く大坂城に入りたい。それに対する手はずは?」
「はい、城内において館を作ってござりますゆえ、そちらにて仕度を整えていただきたく」
「あいわかった。では共の者とそちらに伺うとしよう」


  決戦前夜

 大坂城。
 かつては石山本願寺の総本山であり、かつ信長と十一年にも及ぶ激戦を繰り広げた後、その跡地に太閤秀吉が築き上げた金城湯池の城である。
『城攻めの名人』として名高い秀吉が作り上げただけあって非常に難攻不落の大要塞になっている。
 この石山御坊の機構を受け継ぎながらさらに城として完成させたこの大坂城は、地理、経済、あるいは政治的面において絶対優位といっていいほど全てを備えている城である。
 現在の地理感覚でいうと、現存する大坂城を中心として、北は梅田、天満川から京橋が西玄関になり、大阪城公園を通って道頓堀に至るまであったというだから、大阪市内のほぼ北半分を占めていた、といっていい。
 しかしながら、この城の主は秀吉本人ではない。
 その遺児たる関白秀頼である。
 しかし、現在の官位は右大臣であり、すでに天下人の地位は無く、ただ六十五万石の大大名に過ぎない。
 すでに秀吉が作り上げた威信、権威等は落ち、それどころか『公儀』と称する幕府に楯突く謀反者とされている。
 幸村たちが大坂城に入ったのはその時期である。
 城内にある館を与えられた幸村は、早速城内を詮索すると共に、佐助や小助を使って大坂城の図面を作らせた。
 やはり惣構えから非常に広いため、少し手間取ったが、四、五日程して出来上がった。
「ふむ」
 と唸ったきり幸村は腕を組んだまま図面を睨みつけている。
 ひとしきり経った時に、
「やはり、此処か」と図面のある一点を指した。
「何ですかい?」と佐助が訊ねた。
「いや、もしもだが、出撃ではなく籠城したとしたら、つまり大坂城の弱点を探していたのだよ」
 という幸村の指した一点とは、南にある空堀の一点だった。
 これが、後『真田丸』という丸馬出しになり、幸村の名は天下に轟くことになる。
「はぁ」と佐助は空返事をしたまま分からない。
「よいか、この城は北に天満川と淀川、それに大和川の合流点になっているため、自然、天然の堀となる。
 東にも、猫間川、西に道頓堀があるのでこれもよし。問題は南だ。ここには紀州街道と奈良街道がのびて、しかも平野になっている。
 岡山や、茶臼山などという小山では壁にもならん。そこで、もしここに丸馬出しがあればここで食い止める事が出来る」
 丸馬出しとは、日本中世以降、特に関東、甲信越地方に見られる城の構造である。
 城の外堀やまた堀を預かる曲輪に対して、さらにその外に砦を築く事で敵軍をそこに集中させる。
 そうすることで、少ない戦力でも攻城する敵軍に十分対応でき、しかも敵軍は大軍をそこに送り込まざるを得ず、成功すれば敵軍を敗退させる事が可能になるのだ。
 それを一番如実に物語っているのは躑躅ヶ崎館である。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵」という名文句を生み出した館である。
 人の和を尊ぶという意味の言葉であるが、もう一つとしては実際に家臣なり、城代、あるいは城の守将がその役目を担っていた、とも考えられる節がある。
 実際、この信玄の居城には石垣や、堀といったものは殆どなく、北と西の曲輪に丸馬出しがあるくらいであとは正しく館である。
 四方に山があり、また積極的出撃策による籠城戦の不要の為に作られていないとされているものの、やはり丸馬出しの汎用性と重要性を知り尽くした城の典型といえるだろう。
 ここに、織豊とは違う、武田〜真田の独特な城の観点が見えてくる。
 事実、尾張以西(三河も含めて)この丸馬出しというものは存在していない。
「つまり、ここで敵さんを引き付けるっていうわけで?」
「そういう事になるかな。しかし、ただ砦を作るわけではないぞ。そうではない所にこの丸馬出しというものはあるのだから」
 佐助も小助も清海も、そして才蔵までも理解したとは決して云い難い表情をしていた。
「それよりもだ、秀頼公に挨拶に行かねばな」

 この大坂の町を一望できる大坂城の天守に一人の男がいる。
 背は七尺近くあり、また腰まわりもまるで大木の幹を抱えている如き巨漢である。
 それでいて、両の双眸は穏やか。肌は白く、唇は薄い赤みを帯びている。
 右大臣、豊臣秀頼である。
 太閤秀吉の次男にして、豊臣方の総司令官兼大坂六十五万石の大名である。
 この大きな、そして最後の戦をするにあたって一番悩んだのがこの秀頼本人ではないだろうか。
 父・秀吉、そして後見人・前田利家がすでに亡き人となり、強力な後ろ盾を失った彼にとって家康という百戦錬磨の老齢の猛者は鬼神のようにみえてもおかしくはなかっただろう。
 味方が無く、しかも配下の者や自分の取り巻き、そして自分自身にさえ戦闘経験、あるいは采配経験なぞ全く無い状況下においては、あまりにも相手が悪かった。
 しかし、それでいて秀頼は総大将という激務を捨てる事も無く、『来るべき脅威』に備えていた。
 生来、秀頼は悲劇を背負って人生を終えることになるのだが、最大とも云うべき悲劇は母親の存在であった。
「秀頼殿、このような所で何をしておられます」風邪を引きますぞ、とその母親は自らの衣を秀頼の肩に掛けた。
「大丈夫です。それよりも真田左衛門佐殿がおこしになられたと聞きました」
「え、えぇ。あの男が来れば最早徳川など」
「いや。母上はあの家康という男を甘く見すぎている。父上や信長様のいる時代を生き抜いた御仁。安々と勝てる相手ではないのです」
「しかし……」
「真田殿や、後藤殿や、明石殿、長宗我部殿、それに重成が加わったとしても所詮烏合の衆に過ぎませぬ」
 と、冷静に分析をし始めた秀頼を見る母親の眼差しは暗く、冷たい炎を宿し始めていた。
 母親とは、云わずと知れた淀殿である。
 若い母親である。秀吉とは年が離れていたが、それでも二人の男子を出産している。
 容貌は母である織田市と父である浅井長政という戦国時代でも美男美女の間に生まれている為か、美しい。
 しかし、問題は性格である。
 元来、我が非常に強い性格の上、太閤の御子を生んだという強烈なまでの自尊心が人徳を無くならせている。
 その最もたる事例が片桐且元の大坂城退去、徳川方加担である。
 八月における方広寺鐘銘事件の折、徳川方の家臣なりながらも秀吉の恩に報いる為、豊臣家存続に腐心していた且元は豊臣家が大坂城を去る、という悲劇を何とかして免れたい一心で淀殿を江戸へ人質にして出す、等の案を出した。
 ところが、『太閤の側室』というプライドからそれを拒絶した。
 それどころか、対立していた大野修理らから『裏切り者』という烙印を押され、遂に大坂城を退去せざるを得なくなってしまう。
 この事が発端となって本来ならばする必要のあまり無い、むしろ圧倒的不利な戦を圧倒的不利な立場で行う羽目になってしまった。
「秀頼殿、そなたの母親は誰なのです」
「……」
「私が勝てる、といった戦は必ず勝てるのです。戦は家臣達や牢人衆に任せていけばよいのです」
「しかし、母上」
「お黙りなさい。あなたがその調子でどうするのですか。あなたは何をしなくても良いのです」
「私は総大将ですぞ」
「総大将であろうと何であろうとかわいい坊やをあんな野蛮で、危ない所に行かせられますか」
 という淀殿の額に青筋が立っている。
 えてして、癇癪もちというのは自己中心的性格の強い人間が多いとされているが淀殿はその典型であったと思われる。
 こうなれば、いくら秀頼といえど押し黙るしかなかった。
「……わかりました。真田殿にお目にかかりたいので大広間へ」
 と秀頼は無表情に大広間へ向かった。

「この度はこの真田左衛門佐幸村、秀頼様の窮地と聞き及ぶにより、九度山より馳せ参じて参りました」
 と秀頼に挨拶をした。
「九度山の配流に対する無念、心中を察するにあまりある。そなたの父上にも是が非でも助けていただきたかったがそれも叶わなんだ」
 と秀頼は幸村に言葉を掛けた。
 この大坂城本丸にある大広間には、そうそうたる名将、猛将達が整然と並んでいる。
 後藤又兵衛基次、塙団右衛門や、キリシタンの明石全登、元土佐長宗我部家当主、盛親など牢人衆が幸村右側に、秀頼の唯一の友である若武者木村重成や、大野治長、治房等豊臣家臣達が左側に並んでいた。
「秀頼様のお言葉、わが父昌幸も黄泉で光栄に感じておることでしょう」
「これより、真田幸村殿には後藤殿と共に、大坂城内における牢人衆、及び兵卒達の統率権を与えると共にこの軍議に後藤殿の次席として加わることを許可する」
 この瞬間、真田−後藤の二枚看板が誕生した。
 ここに、大坂の役の役者が全てそろったことになるのだが、これを快く思わない人間達もいた。
 豊臣宰相、大野修理治長と淀殿らである。
 特に、淀殿には牢人衆と呼んではいるものの侮蔑の表情がありありと浮かんでいた。
「真田幸村、とか申したな。その方、信州におる兄の信之の息子が敵方として参陣しておると聞き及んでおる。よもや結託などというあるまじき行為等あるまいな」
 この言葉に牢人衆の諸将が色めきたった。
 特に、毛利勝永や、塙団右衛門など関ヶ原や、あるいは神川決戦で戦っている事等を知っている者達は自らの佩刀を掴もうとさえした。
 幸村は、その者達に目配せて下がらせた。
「不肖この幸村、そのようなつもりでここにまかりこしたならば、もとよりこの城には来ておりませぬ。淀殿は、我らまでも敵に自らまわすおつもりか」
 と、幸村は淀殿の眼を見据えて言い放った。
「いや、それであるならばよい。確かめたまでじゃ」
 という淀殿の首筋にひやり、とした感覚を憶えた。
(小癪な男……)
 淀殿はそう感じたのかもしれない。
「では、戦の事は諸将にお任せするのでわらわは失礼いたす」
 と秀頼を半ば強引に連れ出して、早々に引き上げてしまった。

(あの女がいる限り、未来永劫豊臣家の存続などあり得ない……)
 後藤又兵衛基次の館で開かれている幸村の大坂登城を祝う祝会のはずであるのに、場は沈黙していた。
 いつもおいしいはずの焼酎でさえ、今宵ばかりは邪魔になった。
「あの女はまるで物事というものを知らぬ」
 と塙団右衛門が激昂したのがきっかけで祝会に出ている各々の気持ちには後悔ともつかない複雑な気持ちがひろがった。
「しかし、秀頼公はあの母親には似つかわしくない男子であったな」
 と後藤又兵衛が話す。
 五十五歳という年齢でありながら微塵にもその老いというものを感じさせない。
 背は少し高く、痩せているものの、体は全身がばねで出来ているようにしなやかである。
 眼も鋭く、右頬に薄い槍傷を思わせるもの以外、特に目立って傷は無く、よい顔立ちをしている。
 一方の塙団右衛門は、まるで熊を思わせるような体格で、腰周りも大きい。
 毛むくじゃらで、髭が非常に濃い。
 双方ともに、主人との折り合いが悪く、出奔している経歴がある。
 とくに、又兵衛の主人であり、かつ乳母兄弟に近い間柄だった黒田長政との確執は知らないものが稀なくらいである。
 一説には、長政の父である官兵衛孝高の寵愛を又兵衛が受けた為の嫉妬とも言われているが定かではない。
 後、出奔した又兵衛は長政から「奉公構い」をだされ、流浪の人となる。
 奉公構いとは、出奔などで主家を出た場合、その主家は全国にその者を登用しないように手はずをつけることである。
 これを破った場合、戦を起こすことが可能である。
 一方の団右衛門も同様でしかも、主人は『賤ヶ岳七本槍』の一人、加藤嘉明である。
「一軍の大将にあらず」と主人である加藤嘉明に罵倒され、出奔した。
 同じ「奉公構い」をだされ、武勇を惜しまれながら仕官することが出来なかった。
 又兵衛と団右衛門は同じ境遇からか、いつしか酒を酌み交わす仲になった。
「確かに。とても、息子とは思えぬ」
 と団右衛門は感心しきりだった。
「それにしてもだ。あの女を秀頼公から離さない限り、勝利は無いだろうな」
「又兵衛殿、それは火を見るより明らかなれどあの状態では」
「そうだな。だが、幸村殿よ、貴公のご子息を秀頼公の近習として置いてはいかがか」
「幸昌を……。木村重成とか申した若者と二人で守らせましょう」
 うむ、と又兵衛と幸村は杯をかちり、と交わした。
 静かに杯を交わしていた時、向こうのほうがやおら騒がしかった。
「何の騒ぎだ」と団右衛門が刀を掴んで行こうとした。
 すると、向こうのほうから恰幅のいい若者が共を一人連れてこちらに向かってきた。
「あれは……」と一同が眼を凝らしてみると、
「あぁ、ここに御出ででしたか。いや、昼間は我が母が失礼な事を申し、申し訳ない」
「こ、これは秀頼様。いや、ささ、お顔を」
 と幸村は下げた秀頼の肩を支え上げた。
「しかし、このような所においであそばされるとは、淀殿のお怒りが……」
「はい、若にお戻りになられるよう言っていたのですが一向にお聞きにならず」
 と、色白の若者が溜息をついた。
 美丈夫、という言葉が合う若者である。少し細身だが、眼に凛とした意志の強さを感じる。
 顔は、端整な顔立ちで面長、目鼻立ちも良く、しかし美少年という程幼くは無い。
 体の筋肉も無駄が無く、力強さと鋭さを感じる。
 また、挙措姿勢、動作においても若いながら礼節をわきまえているあたり、育ちのよさを思わせる。
「ほう、貴公確か、大野治房殿の隣にいた……」
「木村長門守重成と申します。今年で二十一になります」
「そうか、今度の戦が初陣となるようだな」
「はい。実を申せば、真田殿に是非戦の諸事こもごもや心得等をご教授いただく」
「それで、秀頼様を出汁に使ったというのか」
 と幸村は、この二人の若者の無邪気さを見て微笑んだ。
「では今度の戦をお主はどう見るのだ?」
「私は、今度の戦については許せない気持ちで胸が詰まりそうになります」
「どうしてだ?」
「家康という男は、天下の為ならどういった策謀も弄します。大体、この方広寺の事にしてみても……」
「確かに、家康という男はそんな男だ。しかし、私の父上も負けず劣らずだぞ」
「安房守殿が、ですか?」とてもそうは思えませぬが、と重成は驚いた。
「自分の領地を守る為なら、北条とも、上杉とも、あるいは太閤とも組んだことがあった」
「では、何故徳川とは?」
「単に相性があわないくらい生理的に受け付けなかった、というだけの事だ」
「正しく、『表裏比興の者』ですね……」
「その点では家康も負けず劣らずさ。つまり、戦乱の世の常、とはそういうものだ、と覚悟をしておいたほうがいい」
「はい、心得ました」
「しかし、貴公は若い。生きよ。生きて、秀頼様をお助けしろ。その為に幸昌もおぬしの所に預ける」
「よ、良いのですか?!私如き若輩者に」
「大助よりは年長であろう。それにお主のような若者がいる限り、安心して戦場に赴けるというもの」
 この、生きろという約束は果たせる事が出来なかった。が、その凄まじい死に様と、数々の逸話を残して木村重成は今でも生きている。
 豊臣家における最大の不幸は、こういった若者や、数々の修羅場をくぐって来た者達の意見を上層部が聞かなかったという所にある。
 単に、上層部が愚鈍、というわけだけではなくむしろ、淀殿一人に引っ張りまわされた感が否めなくも無いのである。
 無能な指揮官と優秀な兵士の軍と、有能な指揮官と平凡な兵士の軍ではどちらが強いかという話が時々交わされるが、
 兵士の性能は指揮官によって左右され、そういった意味では指揮官の能力全てで戦はほぼ決まるといっていい。
 そういった意味において豊臣家の指揮官は淀殿であり、そんな指揮官で戦が勝てるはずが無い。
 やはり、こういったところを見ても「豊臣滅亡」という憂き目は仕方がかなったように思えてならない。
 そうであるからこそ、この戦で命を散らした者達の「判官びいき」はせめてもの慰めに現在でも人気が高いのかもしれない。
「それには、ひとつ頼みがある」
「はい、真田殿の頼みならば」
「淀殿らと、秀頼様を出来る限り遠ざけた上で戦を起こしてくれまいか?」
「……はい。出来る限り」
「そうか、では今宵は飲もう。お主みたいな若者に出会って良かった」
 この酒盛りは、朝まで続いたという。

 この幸村や、後藤又兵衛といった豪傑たちが大坂に入城していた頃、家康は伏見にいる。
「真田入城」という報せは京都奉行、板倉勝重からもたらされた。
「何ぃ?!真田が入城しただと!!」
 この「野戦の名人」と呼ばれ、天下をほぼ手中に収めた大御所とは思えない程の狼狽ぶりだったという。
 ばたばた、と上座を円を描くようにして忙しなく駈けずり周り、目を覆うばかりだった。
(勝てない……)
 家康の胸に去来するのは上田城を二度も攻めて落とせなかった事と、「三方が原」である。
「家康最大の危機」として有名な三方が原。
 武田信玄を相手に奇襲戦を展開させ、「桶狭間」を再現しようとした。
 ところが、信玄に全てを見抜かれ、軍は総崩れ、援軍として来た織田軍も完膚なきまでに叩きのめされた。
 主従数騎で命からがら逃げ延びた家康ではあったが、あまりの恐怖に失禁してしまうほどで、その肖像画がいまでも残っている。
 当時、その信玄の軍師を務めていたのが真田昌幸だった。
「そ、そそれで入城したのは親か、子か?!」
 という頓珍漢な問いが示すように既に頭の中が空白になっていたのだろう。
 知らずに持っていた戸がかたかたと震えていたという。
「入城したのは次男、信繁、現在は幸村と名乗っているそうです」
「そ、そうか……」
「大御所、昌幸は既にこの世の人ではございませぬ」
 そうお慌てめさりまするな、と本多正純に窘められたほどであった。
「そうか、息子の方か。安堵した」
「いや、油断は禁物でござる。あの真田昌幸の実子なればどのような戦を展開するか分かり申さぬ。しからばここは褌をしめて」
「いや、大した事はあるまいて。一ひねりで終わらせてやろう」
 と家康は豪語したが、後、「一ひねり」させられるのが自分だと気づくのは約二ヵ月後の事である。