最期の真田 冬の陣
作:AKIRA





  仕組まれた評定

「此度の戦、貴殿らはいかが思われておるのか!!」
 と後藤又兵衛は、地図を広げた机を叩いた。
「そうだ。それに、籠城とは友軍がいてこそ有効な手段と申すもの。それがない以上」
 単なる延命策にしかなり申さぬ、と木村長門守重成ははっきりこう言った。
「大体、このような所でこんな不毛な論議をしている暇はござらぬ」
 と明石掃部も続けた。
 十月二十三日、遂に徳川家康が京に着いた。
 それに伴って、徳川秀忠も到着、江戸から畿内まで十万の兵を十七日という、強行軍での入畿だった。
 そのほか、佐竹右京太夫や、藤堂和泉守、独眼龍伊達政宗なども続々と畿内に入る。
 大坂方の宿老であった片桐且元も、すでに大坂茨木城ですでに準備を終えているという。
 着々と徳川軍が包囲網を進める中、豊臣軍は堺を占領したに過ぎず、状況は不利にあった。
「しかし長門よ、この大坂城は太閤様が作られた三国一の堅城なれば、城に籠って戦うが賢明ではないのか」
「それに、小田原である」
 と大野修理と織田有楽斎は揃ってこう言った。
 この織田有楽斎という男は、織田信長の弟にして千利休の門下の一人である。
 因みに、現在「有楽町」という地名が東京にあるが、それはこの有楽斎の江戸屋敷から来たものだといわれている。
 この有楽斎の言った「小田原」というのは、豊臣秀吉の「小田原攻め」である。
 天正十七年(1590)、当時関白である豊臣秀吉が、関東惣無事令(不戦命令)を出したにも関らず、真田領地である名胡桃城が箕輪城代猪俣邦憲によって強奪されたた事件が起きた。
 これによって当時城代だった鈴木主水は沼田城に還らず、切腹した。
 それに伴って、幸村の父・昌幸が秀吉に嘆願した為、秀吉は二十万とも云われている大軍を動かした。
 当時、奥羽の覇者であった伊達政宗と同盟を組んでいた北条氏政、氏直親子は小田原城に領民を入れ、兵糧を全部運び込んだ上で、田畑を焦土させた。
 北条領にある箕輪城を含めた九十余りとも云われる城を落としていく中、小田原城を落とす事が出来ない秀吉は、その同盟者である伊達政宗に書状を送った。
 初めは頑なに拒んでいた政宗だったが、腹心である片倉小十郎らの説得で遂に小田原に参上する。
 その時、政宗が秀吉の前に、白装束で現れたのは有名な話である。
 同盟者である伊達氏にも裏切られた北条家に、さらに追い討ちをかける事件が起きた。
 小田原から少し離れた笠懸山に、突如として城が『浮かび上がった』のである。
 じつは、秀吉が前線基地が作るため、約八十日を費やして造った城であるのだが、この笠懸山の森に隠れた為、北条側は全く気づかなかった。
 この城、石垣城と呼ばれ、現在本当に石垣しか残っていない。
 この突如現れた城に、遂に北条家は降伏し、氏政は切腹、氏直は高野山に預けられた。
 小田原城は、「難攻不落」と云われ、かの上杉謙信ですら落とせなかった城である。
「小田原とな?!有楽斎、貴公徳川の回し者か!!」
「いや、又兵衛殿、私が言ったのはこの大坂城は小田原以上に堅固な城なのだから、かの北条家は開城した故に敗れたのだ。此処に籠って戦う方が戦力を割かなくても済むであろうし、また此処には備蓄米も多い。遠征の徳川軍もそう長くは居られまい。そこを突けば勝利は見える」
「しかし、北条は敗れたのだぞ」
「しかし、小田原は落ちなかった」
 又兵衛の言っている事も、有楽斎の言っている事も強ち間違いではない。
 実際、秀吉は直接城を攻めずに奇策で城を落としたと言える。
 もし、直接攻めていたら甚大な被害が出ていた事は想像に難くない。
 しかし、所有者が明け渡した時点でも、落城である。
 この間、幸村は一言も発していない。
 秀頼の表情が気になっている。
 総大将たる秀頼の表情がいつもの様な穏やかさがない。
(さすがに戦が近づくと堅くなるものだ)と最初は思っていたのだが、どうやら違うらしい。
 原因はその隣に居る淀殿にあるようだった。
 淀殿は、まだ本格的な戦が始まってもいないというのに、すでに鉢巻をつけ具装束、それに薙刀を右手に持って立っていた。
 まるで、五月人形のような滑稽さがあった。
「幸村殿はいかが思われる」
 と木村長門守に発言を促され、我に返った。
「確かに、この城で籠城をするのも、事態を即して考えた場合懸命ではある。が、それでは勝利はない」幸村は、はっきり言った。
「籠城して、徳川にご退却願えばそれで勝ちではないか」
 と南条中務大輔は訝しい顔で反論した。
「退却させたとして、次また攻められてまたご退却願おうというのか」
「いや、それはだな……」
「よろしいか、みなの衆。この戦、最早友軍の頼みなどあるはずもなく、また先程どこぞが『小田原』等と申しておったが、滑稽の窮み」
 という幸村の発言は豊臣譜代の武将達を色めき立たせた。
 特に渡辺内蔵助は自らの佩刀を抜こうとさえした。
「このたびの戦はまさに乾坤一擲でござる。さすれば、少ない戦力で打って出、奇襲を展開させると共に諸大名のご助勢を求める以外方法はない」
 死中に活を求めるのだ、と朗々と諸将に聞かせた。
「で、ではどのようにすればよろしかろう」
 幸村の圧倒されそうな気迫に押されながら、箸尾宮内少輔は渡辺内蔵助を制しながら先を続けさせた。
「うむ。大坂の諸砦が落とされている中、今は堺を占領している。ここに槇島玄蕃隊を置いて、九鬼水軍の押さえとする。尼崎には浅井周防守を置いて西、特に姫路以西の壁とする」
 とさらにそこで、又兵衛が
「ここでそれがしと幸村殿が宇治、勢多に二万程で打ち破れば石部宿周囲を焼く事で、下がらせる。さらに軍を分断させる為に橋を焼き、その上で幸村殿の御配下の方々に撹乱させば士気は落ちよう。こうした上で」
 と一旦自身を落ち着かせるために、軽く間をおいた。
「京には板倉伊賀守がいる。ここに、木村長門かもしくは大野修理殿で抑えてもらい、大和の筒井、藤堂高虎には明石掃部殿と、長宗我部盛親殿で対峙していただく。そこで、七手組がそれぞれ率いて大津に防衛の柵を作り、東北、北陸から来る軍勢を防いで頂きたい」
「そこまでに言うのならば片桐且元の茨木城を攻め落とした上で、板倉を京から追放し、占領してしまえばよいのではないか」
「確かに。しかし修理殿よ、この度は関ヶ原とは状況が違うてござればもし先手を取れば、最初は有利にたったとしても、少ない戦力で、薄い防衛網を張らねばならん。そうなれば宇治・勢多はゆるゆると攻められる。そうなってはいかに京で優位に立ったとしても結局は撤退せねばならず、難儀な戦になる事は必定である」
「つまり、今回はあくまで奇襲を使った防衛戦というわけですね」
 と木村長門守重成が言うと、幸村が、
「そうだ。此処の戦力では、野戦で攻撃戦をした所で、兵力の差が出る上、徳川家康という男は野戦の名人である。なれば、奇襲を使わねば各固撃破されてしまうだろう」
「ほう、神川の再現というわけですな」
 と毛利豊前守勝永が言った。
 この毛利豊前という男は、元々羽柴時代からの譜代の家臣でありながら西軍に付いた為、加藤清正に預けられる。その後、旧誼のあった山内一豊に預けられた。
 その後、例によって密使が訪ね、勝永は二代藩主・忠義との衆道の関係を利用して、土佐を脱出した男である。
「そうなるかな。籠城策というものは最後の最後で行うべきだ。これから寒気に入る。そうすれば渡河ひとつでも苦労し、下手を打てば兵馬が使いものにならない。その時こそ、雌雄を決する時だ」
 と幸村は、諸将を見渡した。
 どの武将達も血気溢れていた。特に、木村長門や、自らの甥の大谷大学等は今にも飛び出さん勢いだった。
(勝てるかもしれないな)幸村はそう思っていたかもしれない。
 しかし、そこに水を差す男がいた。
 背は、五尺半程で、少し髪の毛に白いものが混じっている。
 それでいて、眼は大きく一見すると、誠実そうな人間である。
 体は細く、かといって木村重成のようなしなやかさではない。痩身である。
「しかし、左衛門佐殿、今まで源平の昔より宇治・勢多を防衛して勝った例(ためし)があろうか」
 と冷然と言い放った。
 この男は常に幸村を「左衛門佐」と呼んでいる。
 小幡勘兵衛景憲といった。後、「甲陽軍鑑」の編者として知られ、弟子に山鹿素行などが居るが、それは後の話である。
「源平の昔など話にならぬ。それに例(ためし)も何も、これをやらなければ勝ちがないことくらいお分かりであろう」
「確かに。されど、より確実に勝利を得るためには、籠城もやむなしとは思えませぬか」
「何だと?!貴様、徳川方の間諜か!!」
 と今度は又兵衛が怒り出した。
「おい勘兵衛、それがしと幸村殿を愚弄する気か」
「いえいえ、又兵衛殿や左衛門佐殿を馬鹿にする気は毛頭ござらん。されど、より確実に勝つには籠城も選択肢の一つと捉えてよろしいのではないか、と申し上げておる次第」
「より確実にだと?!この戦で『確実』などというものはないのだぞ!」
 今にも掴みかからん勢いであり、諸将が止めに入って漸く落ち着いた。
「勘兵衛殿は籠城策にて勝てる心算(こころつもり)がおありなのか」
「重成殿、信玄公は『五分の勝ちを最上とせよ』と仰せられておった。つまり、戦で大勝ちすれば、自然に隙が出来る。それを防ぎ、次の戦に備える為にも、今は籠城して期を計ることが大事でござる」
「ふん、そんな弱気な計で勝ちを拾えるものか。大体、信玄公は躑躅ヶ崎でも籠城戦はなかったではないか」
 片腹痛い、と又兵衛は勘兵衛を笑った。
「まあ、待ちなさい。出撃策が良いか、籠城が良いかは最終的には秀頼公が決める事」
 と幸村が言った事で、結局裁可を秀頼が出す事になった。

 京に、徳川家康がいる。
 三河岡崎の人質から身を興したこの齢七十を過ぎた老人は、戦前(いくさまえ)でありながら、甲冑を持ってきていない。
 供廻り数百人と本多上総介、側室の阿茶局を伴っているだけである。
「大坂城の状況はどうか」
 と、家康は本多上総介に訊ねた。
「はっ、真田・後藤ら牢人衆と大野ら譜代衆との間に溝が出来て居るようです」
「そうか……“あやつ”はどうしておるのだ」
「籠城策によっており、大野治長や淀殿らを焚きつけておるようです」
「大坂の家臣達に一体となっては困る。その為にはたとえ卑怯と言われようと徹底的に内部から壊していかねばこの日ノ本に時代は来んのだ」
 家康の意思、というより執念がこの老体を動かしているといっていい。
 普通ならば、隠居した時点で政界から去るのが常道であるが、家康は隠居先の駿河城で征夷大将軍が居るにもかかわらず、平然と院政を行っている。
「崇伝は?」
「はい、南禅寺におりまする」
 呼べ、と静かに言った。

 京にある南禅寺。
 臨済宗大本山のこの寺院、現在は左京区南禅寺福地町という所にある。
 その中央に位置する法堂にその男はいた。
 年は四十五。僧衣を纏い、顔は面長で、眉毛が濃い。所々に皺があるので思ったより老けて見られるのかもしれない。
 眼光は鋭いが、暗く、とても明るい性格とは思えない程、近寄りがたい雰囲気があった。
 経を唱えている。それも聞いて惚れ惚れするような朗々たる声で。
 本多上総介が訪ねてきたときも、唱えていた。一心不乱に。
 上総介が法堂の前を掃除していた年若の小僧に聞くと、朝から唱えていたという。
(この男は……)と本多上総は苦笑した。
 別段、仲がいいというわけではなかったが、同じ家康に重用されている、という同じ境遇が二人を近づけさせた。
 そんな外のやり取りも、この男は全く耳に入っていない。
 瀧のような汗をかきながらも、顔を拭う事無くただ、ただひたすらに唱えるその姿は、僧侶である自分自身が、本来ならば入る事が許されていない政治の世界に足を踏み入れてしまったせめてもの贖罪のように本多上総介正純はそう思えてしまうのである。
 その時、詠唱が止まった。
 合掌しながら、本尊である釈迦牟尼仏に深く一礼をした。
「漸く終わったのか」
 と、正純が尋ねると、その男はしゃがれた声で
「あぁ」
 と短く言っただけだった。
 正純にはそう聞こえなかったが、聞き返す事もなく
「御内府がお呼びだ」
「わかった」
 正純は、低く唸ったのか、と思わせるくらい分からなかったが少しして籠を用意させた。

 京にある二条城へは一刻ほどで到着した。
 その時の崇伝の表情は、南禅寺で経を唱えていた時とは全く違う。
 南禅寺で話した正純本人でさえ
(別人ではないのか)
 と疑ったほどである。
 程なくして、白書院。
「来たか」
 と家康は、西京漬けを頬張りながら到着を知った。
「よく来てくれた」
「方広寺以来かと」
 と崇伝が言った。
 大坂の陣を語る上で切り離せない事件で、何度か登場しているが、実はこの方広寺事件を画策したのがこの金地院崇伝と本多上総介正純の二人だった。
 のみならず、この崇伝は『黒衣の宰相』と呼ばれ、本多正純と共に「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」、「伴天連禁止令」など、徳川政権と築き上げていく上においての支配体制を作り上げた男である。
 余談になるのだが、因みにこの崇伝は、家康が死んだ時の神号問題で、南光坊天海と争ったり、また紫衣事件などで沢庵宗彭を出羽・上山に流したりしている。
 因みに、この崇伝が死んだ時、庶民は「大欲山気根院僣上寺悪国師」と罵り、また沢庵も「天魔外道」と言い放ったという。
「聞いておる事と思うが、大坂である」
 と家康はいきなり本題に入った。
「大坂城という城は嘗て太閤が建てられた城である」
「聞き及んでおりまする」
「で、あの太閤は『城攻めの名人』といわれた方。その御方が建てた城だ」
「難攻不落でござりまするな」
「これから冬に入るゆえ、下手を打つと城が落とせない、という事態になり兼ねない。そこで、お主と弥八郎の二人で、和議を考えてもらいたい」
「……」
「つまりだ、交渉には弥八と阿茶の二人でさせる。お主にはその草案を練ってもらいたい」
「……この戦のみで決着(けり)をつけないという事で?」
「そうだ。夏までかかる。そのつもりでもあるが」
 実際、この家康の予想は的中している。大坂城が堅固だったという事もあるが、それを見越しての予想だっただろう。
 城を攻めるに至って、直接、即ち兵をぶつけて物量戦をする場合、城の規模と兵の数に応じておよそ十倍もの、兵士が必要とされている。
 今回、確約したものでおよそ二十万。通常の戦ならば十分に勝てる兵力である。
 それに対して、殆どが牢人の集まりで統制が取れていないといわれているものの、豊臣軍は十万。
 これと城の惣構を合わせて見積もった場合、徳川に必要な戦力は、六十万程でも足りたかどうか、というところが実際の目算である。
 今、大坂城の堀は大体主要道路となってしまって見るべく姿もないが、筆者自身実際に足で測ってみて、ただただこの城を建てた秀吉の権力権威と時の勢い、それによる財力に感服するばかりである。
 しかも、現在のような陸軍装備などない鉄砲時代原始期の戦において、この大坂城を攻め落とすのは困難だっただろう。
 これから冬に入る季節であり、兵士達の出足も鈍るという状況下において無理攻めをしないのはむしろ賢明であったのではないか。
「勝負を決めるのは、夏でよい。どの道、豊臣家というのは太閤が亡くなられたときにすでに運命が決しているのだから」
 という家康の表情はどことなく険しかった。

 戌の刻、黒書院。
 本丸御殿のほぼ中央に位置し、天守に近いこの広間で相対峙している二人の青年がいる。
 一人は、大木の如き巨躯で、目許が涼しげな若者である。
 もう一人は、対照的に痩身でありながら強靭でしなやかな体で、目許が凛としている。
 右大臣豊臣秀頼と、木村長門守重成の二人である。
 紛糾した先の軍議で裁可を問われた秀頼は、
「本日の裁可を明日に告げる」
 と言って、黒書院に戻ってしまった。
 以来の対峙となる。
「殿、何故すぐに出撃策でも篭城でも裁可を出しませなんだ」
 事態は迫っているというのに、と重成は詰め寄った。
「私もどうしてよかったかわからんのだ。左衛門佐殿や、又兵衛殿の云う事も一々最もなれば、初めはそれで裁可を出す予定だった。しかし、勘兵衛殿や修理の言う事も一理ある」
「ここでぐずぐずしておっては豊家の落城は火を見るより明らか。なれば、ここは」
「なればこそ、なのだ」
「……」
「ここの決断は一刻も早いほうが良いには決まっている。しかし、一歩間違えば全滅なのだぞ」
「心得ておりまする。されど、真田幸村殿を初め、後藤又兵衛殿、明石掃部殿などわが豊家が招聘した牢人衆の方々は、歴戦の猛将・名将と呼ばれる方々ばかり。それに幸村殿のお父上・安房守様は、あの上田の孤城の中、二度もあの徳川軍を食い止め、往年の関ヶ原で勝ったではありませんか」
「……」
「私は、この牢人衆の方々の見聞は決して殿を裏切らない、と思うております」
「……」
「やはり、淀様……」
 と、重成の眼は一層鋭くなった。
「そうだ。私は所詮お飾りでしかない。あの女は、自分の思うとおりに物事を操らんと気がすまんのだ」
『母』ではなく、『女』といった秀頼の心中は如何ばかりであったろうか。
 元来、人というものは年齢を経る、成長するなど時間的生活の長期化によって『自我』というものを己自身の内在に持ち、そしてそれを自分の行動における最終意思決定機関として活動させる生き物である。
 時にはそれが知恵となり、また思慮分別というものにも置き換えられる。
 人間が他の哺乳類動物と決定的に違う点でもある。
 豊臣秀頼の終生の不幸は、その決定機関を自ら持たせなかった人物がいたからである。
 その人物は、常に秀頼自身の傍らにいながら秀頼の意向を全く無視した裁定を下す女である。
「私が何かをしようとすると、きまって邪魔をする。私はそれが当たり前の世界だと思っていた。しかし、最近のお前や、牢人衆の方々を見ていると、自分のいた世界が如何に異常であったかが窺えるよ」
「淀様とて、殿の身をご案じになっての事ではないですか」
「ふっ、そうであるなら私に全権を委ねてもらいたいものだ」
「……」
「お前とは、胸襟を開ける仲だから言う。私は全面的に牢人衆を信ずる事にしたよ」
 この時の秀頼の顔は、まさに決断を下した将軍の顔であった。

「淀様、小幡勘兵衛殿がまかりこしておりまするが」
 どういたしましょう、と大野修理は淀殿に尋ねた。
「お通しいたせ」
 この時の淀殿はどこか不機嫌であった。
 程なくして、小幡勘兵衛が入ってきた。
「淀様にはご機嫌麗しゅう……」
「挨拶は良い。で、用件は?」
「はっ、昼間の軍議の件で……」
「わかっておる。篭城にいたせ、というのであろう?」
「左様。この小幡勘兵衛、まがりなりにも甲流軍学者でござれば、私の才を愛でてくだされば」
 勝ちは間違いございますまい、と勘兵衛は胸を張ってこういった。
「確かに、甲流軍学といえば『逃げ弾正』と称された高坂弾正忠殿が残された代物でござる。なれば、その兵法を学んでおられる勘兵衛殿を重用すれば」
 と大野修理は淀殿に耳打ちをした。
 この『逃げ弾正』と云われた高坂昌信という武将は、『甲斐の虎』と云われた武田信玄の小姓から身を興した信玄子飼いの家臣である。
 この昌信の采配は素晴らしく、采配の素晴らしい武将が揃う中、家中随一であったと云われている。
 性格は冷静で沈着、怜悧な判断力に優れていたといわれている。
 天正三年に起こった「長篠の戦い」において敗れた時、勝頼を迎え入れ、敗残の見苦しさを見せない為軍勢を整えた事は有名な話である。
 その三年後に昌信は病死し、武田家は天目山で滅亡する事になる。
 また、『甲陽軍鑑』の著者とも云われ、その軍学は後々江戸幕府が滅亡するまで脈々と受け継がれる事になる。
 それを学んでいる自分の言うことは正しいのだから使え、と勘兵衛はいうのである。
 淀殿は、黙っている。
(秀頼が……)
 牢人衆と密接になっている。その事が淀殿にとっては癪な事である。
 この女性にとって秀頼の存在は、単なる息子に留まらず唯一のカードでもあり、また自由に出来る武器でもあった。
 この頃に至っては、自分の意思にも抗うようになった。
 この前の軍議にしても、流れは完全に真田や後藤といったどこの馬の骨とも分からない人間達によって傾いていた。
 淀殿自身は、この戦争自体には大して興味はない。
 なぜなら、豊臣秀吉という日本を統治した人間によって作られた現存する制度を、秀頼という後継者が踏襲し、そこに日本六十四州が平伏すればそれで良い、という考えであったからだ。
『戦とは家臣達が勝手にするもの』という考えは戦国乱世の時代にあって存在しないものであり、かつそこには前述した考えが根底に根ざしていたからだ。
 ましてや、自分の息子が先陣をきって敵陣に乗り込む事など在りうべからざる事象、というよりはなからその考え自体おぼつかなかったのである。
 後の事になるが、幸村の息子大助幸昌が出陣を仰いだにもかかわらず、最後の最後まで頑強に拒み続けたのは、これに起因する。
「籠城にはどんな利点がある?」
 淀殿が、初めて口を開いた。
「籠城には、ふたつの利点がありまする」
 と言った上で、勘兵衛は続けた。
 一つは、戦力を消耗させない上に、長期戦を仕掛ける事で、家康の軍の士気を下げる事が出来る事と、
 もう一つには、大坂城の堅牢さによって退却した時、追撃をかければよいという事である。
「甲流軍学においては」
 と自慢げに前置きした上で
「城も武器の一つ、という言葉がござる」
 と勘兵衛はいった。
 勿論、そんな記述なぞ『甲陽軍鑑』には一切無い事は同書を読めば分かる事なのだが、この『甲流軍学』という言葉だけで、淀殿はこの男を信じた。
「わらわは、この城にて籠って戦う」
 結局、実践より論理をこの女性は選択したのだ。

 翌日、諸将登城。
 再び、熾烈な論戦が展開されるものと誰しもそう思った。
 ところが、拍子抜けされるくらいのあっけなさで決着がついた。
「では、軍議の裁可である」
 と大野修理亮治長が仰々しく声を立てた。
「今度(このたび)の裁可は真田・後藤両名の案を……」
 と上段に鎮座している秀頼が答えようとした矢先、
「籠城である」
 と秀頼の言葉を遮って発言した者がいた。
 淀殿である。
「籠城し、この城を頼みに戦う事と相成った故、諸将はそのつもりで」
 と淀殿が言い放った時、大野修理以下豊臣譜代の家臣達は一斉に平伏し、従う事を誓約したのである。
 その時、秀頼の握り締めていた拳から一条の血が流れた。
 又兵衛、幸村以下牢人衆はあっけに取られた様子でこの事態を傍観するしかなかったのである。
 諸将が平伏する中、一人の男は平伏しながらほくそえんでいた。
 小幡勘兵衛景憲であった。

「仕組まれたな……」
「幸村殿もそう思われるか……」
 又兵衛の表情には明らかに落胆の色があった。
「申し訳ござらぬ」
 涙ながらに謝罪し続ける重成がそこにいた。
「いや長門守殿、貴公のせいではござらぬ。それにこの事が決定したからには従うのが道理」
「わかっておる。しかし、秀頼公の拳を見たか」
「あぁ、自らの意見を無視されたのだから」
 当然だ、と幸村はこう言った上でこうも付け加えた。
「殿は、私達に気を使いすぎる。もっと譜代にその気持ちがいけばここまで捻れずに済んだやもしれない」
「幸村殿、それは違いまする」
 重成がそれに反論した。
「違う?」
「殿は、こう言っておられました『あの女は思い通りに事が進まないと気に入らないのだ。本当に私を思うのならば全権を委任して欲しい』と」
「そうだったのか……」
「殿は、殿は決してあなた方を裏切ってはいないという事だけでも心に留めおいて下さい」
 重成は涙ながらに幸村達に訴えた。
「もう泣くな。殿の心情はわかっておるつもりだ」
 又兵衛が重成の肩に手を掛ける。
「長門、裁可は下されたのだぞ」
 大野修理が三人の様子を見てせせら笑った。
「修理殿……」
「幸村殿も、後藤殿も無念でござったなぁ」
 という修理の眼には明らかに侮蔑の色が籠っていた。
「貴様ぁ!!」
 内在していた憤怒がついに爆発したのか重成は自らの刀を抜こうとした。が又兵衛に柄を握られた。一寸も動かす事が出来ない程強靭な力だった。
「又兵衛殿……」
「よいか、重成。儂とてこいつ達を斬りたい。しかし、此処で斬ってしまえばこの戦自ら負けを認めた事になる。此処はこらえろ」
 重成も渋々ながら頷いた。
「ふ、ふん、貴様ら意見が今後我らや殿に通る事なぞ最早ないと思え」
 と吐き捨てて修理は自らの小姓達を従えて通り過ぎた。
「悔しい……」
「その悔しい気持ちを徳川家康にぶつける事だ」
「それよりもだ又兵衛殿、家康が仕組んだのだろうが、一体誰を……」
「考えられるとしたら織田長益殿か、小幡殿か……」
「単に激昂して叫んだわけではないのですか」
「当たり前だ。その証拠に眼が泳いでおったわ」
 と又兵衛は笑った。
「そうなれば、情報は筒抜けという事か……」
「筒抜けでも勝てばよいよい」
 と言いながら一人の男が向こうから向かってきた。
 白髪が目立つ。年の頃は又兵衛と変わらないくらいであるのに、血の気が多い又兵衛とは対照的にどこか達観したような表情を持つ人物である。
「あの、どなたですか?」
 と重成は又兵衛に聞いた。
「知らんのか、あの御方が御宿勘兵衛こと御宿越前守政友殿だ」
「……?」
「こいつ、知らんと見える。今川家、武田家に北条家と主君を転々としながら主要な合戦には必ずといっていいほど出陣しておった御仁で、小田原の後、確か結城中納言様に仕えたと聞くが」
「いや、中納言様がお亡くなりあそばしたを期に出奔されたらしい」
 と幸村が付け加えた。
「そうだ、儂は越前様が亡くなった時に徳川を見限った」
「き、聞いておられたのですか?!」
「そんな声で話しておっては聞くなというほうが無理じゃろうが」
 これにはさすがの又兵衛や幸村もばつが悪かった。
「ま、ここには間諜がうようよおるわいのう」
 とまるで謡を吟じるように通り過ぎていった。
「『うようよ』か、……個々が奮戦するしか無いのかもしれん」
「個々の武勇でいけばわし等や御宿殿、明石殿、勝永。それにこの重成も居る。早々に負けはせぬよ」

 徳川方にもたらされた『籠城策』という報せは、仕掛けた当の本人から送られた。
「でかしたぞ!!勘兵衛」
 と家康は手を打って喜んだ。
「これで、思うが侭にこの戦、動かす事が出来る」
「よろしゅうござりました」
 と崇伝は相変わらず無表情のままで話した。
「うむ、これであの真田めらに翻弄される事も無い」
 と崇伝の表情を気にする事もなく続けた。
 しかし、籠城策になってさえも徳川軍以下関東諸軍が真田幸村に翻弄される事になるとは神ならぬ家康には知る由もなかった。
「まずはだ、木津川口を攻める」
 ここに、冬の陣が始まったのである。


  大将不在

「御大将はまだ本丸に居られるのか」
 明石久蔵は、自軍の大将であり、かつ自らの祖父である明石掃部頭全登を待っていた。
 若さに似合わない落ち着きを持った若者である。
 それでいて、祖父譲りの勇猛さを備えている。端整な顔立ちの若者である。
 文禄二年に明石家の家督を継承し、知行四千五百石を賜り岡家利の組頭を務めた。
 関ヶ原以後、逃亡者として各地に潜伏し、この戦で大坂入城した男である。
「まぁ、大叔父上の事だから」
 と、この木津川口砦を預かっている明石全延が宥める。
 木津川口砦。
 大坂城の西南にあって、船場惣構えと木津川の州に造られた砦である。
 現在で云えば大阪市西成区にあたり、現在では大阪湾に沿っている事もあって造船所が多い。
 この木津川砦が戦国時代の歴史に名を残すようになったのは天正三年と五年の海戦である。
 もっとも、当時大坂城は石山本願寺であった時代なのだがこの石山合戦の間に起きた毛利対織田の戦国史上屈指の海戦である。
 当時、石山本願寺(本願寺顕如ら)と大きく対立していた織田信長はこの石山本願寺に総攻撃をかけた。
 ところが、元々の本願寺の頑強ささながら、鉄砲傭兵集団の雑賀党、それに毛利水軍の助けもあって都合十年という長きに渡って繰り広げられた。
 毛利水軍はルイス・フロイスをして「最大の海賊」と云わしめた村上水軍を持っている事もあって海戦能力は極めて高い。
 一方の織田水軍も志摩の国人である志摩九鬼水軍を支配下においていた為、定評があった。
 その両軍が、石山合戦に絡んで戦ったのである。
 木津川口砦は、毛利家が本願寺に兵糧を送る云わば兵糧庫であったので、その砦を落とすことを最優先事項とした織田信長は、志摩海軍で毛利水軍と戦った。
 しかし、織田軍の情勢は次第に悪化、撤退を余儀なくされた。
 そこで、「大安宅船」が歴史の表舞台に登場する事となる。
 大安宅船は、「大」の頭がつく如く通常の安宅船より五倍ほどの大きさで、しかも側面においては鉄板を張っている。
 因みに、文禄・慶長の役当時に、九鬼嘉隆自身が作り上げた「日本丸」の記録が幅三十尺強、長さ百尺、深さ十尺と云われている。
 この「大安宅船」は毛利水軍を寄せ付けることなく、完勝し、畿内の制海権を織田軍は手中にした。
 それ以来の戦となる。
 砦を防衛する兵はおよそ八百程。それに、樋口淡路守雅兼麾下の水軍およそ五隻が守っている。
 丑四つ頃である。
 物見の報告によれば、すでに蜂須賀軍が木津南から北上し二隊に分けて攻めてきているという。
「まだ帰ってきておらんのか」
 久蔵は苛立っていた。
(籠城するとはもうせ……)
 このままでは自分も含めてこの八百と樋口の水軍を見殺しにするようなものだ。
 当の全登自身、大坂城で譜代衆と軍論を戦わせている。
 当然、援護の期待もなく、兵士達の士気は鈍ってしまっている。
 大将の在不在という事象に対する兵士の士気の差は、天地ほどある。
 特に、勇猛で名を轟かせた大将であればあるほどだ。
 しかも、砦での防衛戦という兵士の数量において圧倒的な差が既に生じている場合、兵士の士気というものが戦局を大きく左右するのである。
 この戦においては戦力的に不利と云わざるを得ない。
 唯一有利である地形にしても肝心の豊臣水軍には大した期待は出来ない。
(早く……)
 大将に帰ってきて士気を昂らせ、目障りな蜂須賀軍を叩きたい、と全延も久蔵も思っていた。
 敵兵力は物見によれば、二千はくだらないという。
「掃部頭様は、まだ大坂城から出ておられぬのか」
 と久蔵は帰参した使者に尋ねるが、答えは同じだった。
 久蔵は、持っていた自らの采配をへし折らんばかりに握り締めた。
「……仕方ない。鉄砲隊、構え」
 全延は焦れてしまい、ついに撃方に命令を出そうとした。
「お待ち下され。あと一刻いや、四半刻待って下さらぬか」
「これ以上は無理だ。全員を弄り殺しにしたいのか」
「御説ご尤も。されど独断で動いては……」
「久蔵殿。多分大叔父上は譜代衆と論戦をされておるであろう。なればこの砦には戻れまい。私が采配を振るうしかあるまい」
「しかし、全延は」
「私とて采配はできない事は分かっている。しかし、誰かがしなければならんのだ」
「……」
「この砦は、どちらにしても意味は無い。それでもこの砦を襲うという事は畿内の制海権を確固たるものとするためだ。九鬼守隆殿の水軍は天下に轟いている。それに比べて樋口殿の水軍は対等に戦う事は出来ないだろう。どちらにしてもこの砦は沈む。ならば、黙って沈められるくらいならせめて一矢報いて大坂城に落ち延びようではないか」
 この全延の言葉に久蔵も決心したらしく、遂に冬の陣の火ぶたがきって落とされた。
 戦は予想通りの展開になった。
 蜂須賀軍は三千の軍勢を二手に分け、表と搦手の挟撃作戦に出た。
 一方の砦の明石隊も鉄砲で応戦する。
 木津川に出た蜂須賀軍の四十艘の水軍は樋口雅兼の水軍を難なく捕縛している。
 全延はそんな不利の中で、采配を振るっている。
「これほどまでとは……」
 全延自身、木津川砦の兵力差と水軍の程度をある程度判断した上での采配のはずだった。
 しかし、一方的に戦局は進んでしまっている。
 全てが誤算から始まったといっていい。
 大将の未帰還における不在、想定よりも早い敵軍の侵攻、そして予想以上の兵力差……。
 全延自身、采配という物の経験は乏しい。しかし、自身とて幾度か戦を経験してきた人間の一人である事には違いなく、その事が自らの不自信を奮い立たせていた。
 しかし、現実に一方的なまでの侵攻攻撃を受けている。
(蜂須賀も元を正せば恩顧の大名であったろうに……)
 今更ながら、徳川家の権威とそれに追随している大名達の不甲斐無さを全延は思う。
 この、蜂須賀阿波守至鎮の祖父・小六正勝は、墨俣一夜城の頃から木下藤吉郎と名乗っていた秀吉に従っていたいわば古参の宿老格にあたる人物である。
 元は、美濃を中心とした川筋衆と呼ばれる国人衆の頭領であったが、秀吉に惚れ、秀吉の出陣した殆どの合戦に出ている。
 この蜂須賀家のみならず、殆どの大名は自らの家を守る為、時の権力者に頭(こうべ)を垂れることはこの時代においては当たり前の事なのである。
 この時代、とにかく当主が生き残り家名を安寧に保持する事が、何よりもの優先課題事項であり、そのためにたとえ主君を裏切る事があってもそれは恥にはならないのである。
 その為には、先ず家の当主自身が主君を見定めなければならない。
 現在の情勢下において徳川に与する事が家名を保つ近道である事は云うまでも無い。
 あの福島正則ですら米八万石しか送る事しか出来ず、いかに徳川将軍家の権威が強いかが分かる。
 その中にあっても飽くまでアウトローを貫いた男もいる事が戦国時代なのである。
「やはり、持たぬか……」
 兵から表の守備兵が壊走し始めた報告を受けた時、全延は呟いた。
「全延殿……」
 もはや、砦を捨てて城に逃げましょう、と久蔵は自ら鉄砲を撃ちながら言った。
「全員、砦を捨て真っ直ぐに城にもどれ。この戦、負けよ」
 と全延は自らの采配の無さと、敵の趨勢に負け惜しんだ。

「木津川砦陥落」という報せは豊臣軍にもたらされた。
 当の全延本人によってである。
「そうか……」
 と明石掃部頭全登は、一言言ったきり眼を閉じた。
「砦の兵士、樋口殿の水軍、犬死させてしもうた……」
 とめどなく涙が溢れた。キリシタンの教義を軸にして生きてきた彼にとって自ら死ぬ事よりも辛い苦しみであっただろう。
 総大将の代理であった全延、久蔵は城に逃げ帰ったが、樋口水軍は全て捕縛され樋口淡路守自身、堀尾山城守に捕まってしまい、砦の兵水軍兵合わせて数十という有様だった。
「はっ、全ての兵に撤退を命じましたが、殆どは私や久蔵の為に残り討死ました」
 全延の言葉で、その場にいた又兵衛や豊前守、幸村が涙にくれた。
「大将の御身大事の采配であった故に兵士を無駄死させてしもうたのう」
 この言葉で諸将が振り返ると、一人の男が立っていた。
 背は五尺半。肩幅が広く、体格がいい。黒威鎧を着けている。
「何だ、貴様か」
 と又兵衛が明らかに侮蔑を込めた表情で吐き捨てた。
「何だとは失礼な。私は譜代だぞ」
 というこの男は、名を渡辺内蔵助糺という。
 母親は淀殿の側近である為、そのコネクションから中枢に成り上がった人物である。
 槍の名人と云われているものの、権力をかさにきる態度から諸将に嫌われている。
「譜代がどうした?我らを侮辱すると容赦せんぞ」
 又兵衛は殺意の籠った低い声で内蔵助を睨んだ。
「そうお怒りめされるな。ただ全延殿に任せたのは掃部頭殿の不備ではござらぬか」
「軍議を長引かせたのは貴様らではないのか」
「掃部頭殿、それは理由になりませぬぞ」
「何ぃ?!」
「元を正せば貴公ら牢人衆が我らの策に従えばこうはならなかったはずではないのですか」
「籠城がか」
「そう」
「だから貴様らは大虚けというのだ。戦を知らぬ貴様らが戦を語るとは笑止千万。釈迦に説法とはこの事を云うのだ」
「……」
「貴様は宝蔵院を習ったと聞くが、所詮は武芸。我らは大小幾多もの修羅場を切り抜けて今が在るのだ。馬上にて命のやり取りをした事が無いくせに大層な事を言うな」
 この小童、と掃部頭は内蔵助を罵った。
「こ、小童とは聞き捨てならぬ。尋常に勝負」
「おもしろい」
 と双方が刀を抜こうとするや幸村が止めに入り、
「内蔵助、貴公が悪いのだ。それに掃部頭様も、大人気ない。大体、掃部頭様にかかれば我らとて小童ですぞ」
 と掃部頭を正すと、
「ふふふ、儂にかかれば家康とて小童よのう」
 と笑ってから
「ここは、幸村に免じて引いてやる。幸村に感謝するのだな」
 と掃部頭は全延と久蔵を引き連れて自らの防衛口に向かって行った。
「左衛門佐殿、余計な事を」
「余計?」
「我の槍にかかれば、あのご老体など……」
 と内蔵助が言いかけた時、今までに見せた事の無い怒りを露にして、
「よいか、貴様なぞ掃部頭様にかかれば木っ端の如く砕け散るのだぞ。私は掃部頭様を止めるので精一杯だったのだ。戦場(いくさば)であれば真っ先に貴様を殺していたぞ」
 と脅すと、踵を返して幸村は又兵衛とともに去っていった。
 この時の内蔵助の足は震え、醜い事に失禁していたという。