最期の真田 冬の陣2
作:AKIRA





  重成の初陣

(幸村殿や又兵衛殿も初陣はこのような気持ちであったろうか)
 大坂城八丁目口を守備していた木村長門守重成は、不安に駆られていた。
 今年で二十一になる。些か遅い初陣である。
 通常、戦国武将の男子が戦に出る初陣は十五〜六歳程であり、因みに織田信長の初陣は十四歳の時、三河の吉良大浜城を攻めている。
 重成という人間を調べるにつれ、筆者は伊達政宗と同じ印象を持つ。
 若く、頭も切れ、度量もある。それでいて、芝居も巧い。
 もう少し早く生まれていれば、信長時代における蒲生氏郷や、またもしくは関ヶ原において石田冶部少輔の牽制として活躍できただろう。そうなればもっと歴史は変わっている。
「佐竹軍今福村を西上。大坂城に向かっておるとの事です」
 と編成で同じ部隊になった山口左馬助が報告に現れた。
 この山口左馬助は元加賀大聖寺城主の嫡子であったが関ヶ原で西軍に付き、以来秀頼に仕えている。重成の妹婿である。
「そうか、右京太夫の軍か。して軍勢は?」
「千五百ほどの事。いかがなされる」
「うむ。鴫野では修理の軍が上杉景勝らと戦っている。多分同時攻撃を仕掛けるという寸法であろう。して、我が軍の状況は?」
「現在、ほぼ修理殿と同時に矢田和泉守殿の部隊が打って出、飯田家貞隊が後詰という配置」
「まずいな……佐竹右京太夫といえば嘗て『鬼義重』と恐れられた佐竹常陸介殿のご嫡男。右京太夫自身も父ほどではないが勇敢な人と聞く。和泉守殿で抑えられるか……」
 二人が思案していたところ、思わぬ報告が入った。
 矢田和泉守、飯田家貞の二人が仮橋(かりのはし)で奮戦したが、両名共に討死したという。
「何!!」
 普段は冷静である重成もこれには驚愕した。
「左馬助、私は出る。お前は後藤殿に御助勢を願うてこい」
 と重成は馬上の人となり、一挙に疾駆した。

「後藤又兵衛殿は何処(いずこ)に」
 何処に、と大音声で又兵衛を呼ばわる男がいた。
 山口左馬助弘定である。
「どうしたのだ、何を慌てて居るのだ」
 又兵衛は幸村と丁度大坂城防衛口の軍議を交わしていた所だった。
「し、重成兄が」
「長門がどうかしたのか」
「重成兄が今福の堤にたった一人で」
「佐竹軍が押し寄せてきたというのか」
「はい、飯田、矢田の両名が仮橋で討死と聞くや馬にまたがり堤に」
「で、お前は?」
「はい、後藤殿の御助勢を借りるように言上に参りました」
「そうか」
 と一言云っただけで又兵衛は自らの槍を掴んで馬に跨った。
「お前、なにをぼやぼやしておる。早う助けんとお前の兄貴は死ぬやも知れんぞ」
「又兵衛殿、後は私がやりましょう」
「おう幸村殿、すぐに帰って参るゆえ心配無用。夜までには帰る」
 とまるで用事を済ませるように言った後又兵衛は直ぐに馬を走らせ、あっと云う間に見えなくなった。
「幸村様、又兵衛様は……」
 丁度、席を同じくしていた才蔵はあっという間の出来事に理解できないでいた。
「長門守が今福に出陣したようだ。又兵衛が助勢に行ったのだよ」
「しかし、後藤又兵衛という男は……」
「そこが、あの男の人望たる所以だよ。頭も切れるがそれ以上に槍働きの方が好みらしい」
「豪傑ですな」
「正しくな。古今、あの男ほど義に篤い男はそういまいて」
 だから、上も嫌がるのだろうがなと幸村は哀しい顔をした。
「佐助はおるか」
 と佐助を呼んだ。佐助は、木の上で柿を食べていた。
「何ですかい?」
「聞いての通りだ。重成殿の身辺を守って来い」
 とまるで子供に使いをやるように佐助に言った。
 次の瞬間、佐助の姿はそこにはなかった。

 今福。
 現在の大阪市城東区今福南に当たる場所である。
 元々、水田地帯と数十世帯の住居のみが点在する農村である。
 現在、この戦が行われた場所に石碑が立っているだけで、当時の面影は当然ながらまったく無い。
「飯島!!三郎はおるか」
 馬上の人である木村長門守重成は、家臣の名前を告げながら戦場の真っ只中にいた。
 すでに、何人もの騎馬武者を討ち取った重成の鎧袖や顔には返り血が付き、白い顔が赤くなっていた。
 徐々に兵は集まっている。しかし、到底佐竹軍の及ぶところで無いはずだった。
 しかし、ここで意外な事が起こり始めた。
 最終防衛ラインとも言うべき柵を目の前にして後退しはじめたのだ。
(どうしたというのだ……?)
 戦場の中にあって重成は、佐竹軍の奇妙な行動を疑問視した。
 すぐに疑問は解けた。
 真田軍が加勢に来たというのだ。
「真田左衛門佐幸村、木村長門守重成殿の御味方申す!」
(幸村殿が……)
 自らの為に来てくれた、というのだ。
「ありがたい!!真田の赤備えが来れば鬼神にも負けまいて」
 重成は思わずこう叫んだ。
 真田の赤備え。
「赤備え」という軍備編成を布いていた武将は何人かいる。
 先ず、この『赤備え』という軍備編成自体を日本史上において初めて行なった人物である、飯富虎昌、その弟である山県昌景、小幡信貞、浅利信種、井伊直政、そして幸村である。
 赤備えの起源は、元々「五色備え」という色による区別を基調とした軍備編成の中で、赤色の軍勢が最も剽悍であり、常に先兵を務め、武功を挙げていたことから突出したとされている。
 また、具足全体を赤に塗装する事で小勢でも多勢に見える、という「井伊軍記」の中に記述があるように、実際赤色という色彩は膨張色であるために実際の軍勢よりも多く見えるといわれている。
 真田の旗指物が赤地に六文銭という印になっているのは、「武田の赤備え」が起源では無いだろうか。
 前述したとおり、真田家は武田のなかでも重臣の列に並べられる武将でとくに幸隆から昌幸に至って、実際に赤備えの実(じつ)というものを両眼で見てきた経歴もあり、その有能性は十分に察知していたはずである。
 その事を幸村や、信之が聞いていないはずは無く、実践投入する事は想像に難くない。
 しかし、実際赤に統一したのは幸村で信之は行なっていない。
 一つには、幕府に対する遠慮というものがある。
 徳川家における「赤備え」は井伊家の専売特許であり、それ以外での「赤備え」は在りうべからざる事である。
 この時点において「赤備え」は単なる軍備編成ではなく、一種のブランド化とされていたのだろう。
 そして、この戦においては直政の嫡男である直孝が率いている。
 しかし、幕末においてはその「赤備え」も消え去る事になるのだがそれは約二百八十年後の事になる。
 この「真田到来」という各地で起こっている「事象」は佐竹軍を混乱させた。
 しかし、重成には一つ分からない事があった。
 その真田の赤備えの軍勢を実際にこの眼で確認できていないのである。
(軍勢が見当たらない……)
 赤という派手な色の軍勢ならば遠くからでも肉眼で確認できるのだが、その兵士一人も見ていないのである。
 いや、実際に一人はいた。
 しかも、「真田到来」と叫びまわりながら馬を飛ばしている。
「あの男……」
 重成は、幸村と酌み交わしていたときの夜を思い出していた。
 その隣に、静かに酒を飲んでいた男がいた。名前は確か佐助、といったような気がする。
「木村長門守重成殿は何処」
 何処、とその佐助が自分の名前を叫んでいる。
 その時である。
 対岸の鴫野堤から一斉に銃の撃音が鳴ったのである。
(上杉か……)
 重成は、堤の下に伏せた。流れ弾にあたるのを恐れたからである。
「なんだここに居たんですか」
「佐助殿、でしたな」
「“殿”なんていりませんよ。それよりもうちょっと持ちこたえれば後藤様の軍勢が」
「又兵衛殿のか!それは有難い。しかし、幸村殿の軍勢はどこに?」
「いませんよ」
 とけろりと佐助は言った。
「いない?でもさっき『真田到来』といったではないですか」
「まぁ、戦場じゃ色々ありますんでね」
 と佐助は少し照れた笑みをこぼした。
「その様子ですと、だいぶ幸村殿にしごかれておられるようですな」
 と重成が笑みをこぼすと佐助も笑った。
「しかし、この様子ですと手詰まりですね」
「うむ。まさか、修理殿や内蔵助殿が退却されたのでは……?」
「えぇ、治長の隊はまだ残ってますが、渡辺の隊は鉄砲の音で退却しました」
 敬称や官位で呼ばず、呼び捨てにする所が権勢に媚びない佐助らしい。
(内蔵助殿が……)
 重成はあまりにもの不甲斐無さに全身の力が抜ける思いであっただろう。
 譜代の主戦派という人物は大野主馬首(しゅめのかみ)治房と渡辺内蔵助に代表される。
 しかし、所詮主戦派といえども豊臣方の大抵の武将達に戦の経験なぞあろうはずもなく、ましてや戦略戦術など机上でしか習った事の無い人間達にとって実践は恐怖以外の何者でもなかった。 その中にあって、重成と大野修理の弟である大野主馬は奮戦している。
 俗に『大坂七将星』の綽名に幸村、勝永ら牢人衆の中にあって譜代衆では重成と治房の二人が名を連ねている事象から見ても如何に二人がこの戦で奮戦し、世論の情を受けている事が窺える。
 現在その治房本人は、対岸の鴫野堤で兄と共に戦っている。
 非常に勇猛な人物で、こと戦に関しては素人の譜代衆の中にあって毛色が違う人物である。
 残念ながら、この治房という人物は兄の治長に隠れて印象が非常に薄い。
 しかしながら、この大坂の陣において奮戦した一人ではないだろうか。
 後の事になるが、筒井定慶の大和郡山城を占拠したり、奈良から紀伊までを戦いぬいた男である。
 岸和田で敗れはするが、天王寺決戦において秀忠本陣にまで攻め入るなど『猛将』という言葉が合う人物である。
 幸村達牢人衆が治長ら譜代と不穏な仲にあって信頼していた人物であっただろう。
 残念ながら、治房の資料は乏しい物で、在ったとしてもその事実をやや捏造に近いほど肩を入れている記述があったりとかなり偏った資料しかない。
「では、主馬殿は……?」
「さぁ?でも、こっちより情勢は不利になってるみたいですよ」
 遠目の利く佐助は、堤からひょっこりと顔を出して対岸の様子を伝えている。
「やはり、上杉景勝の軍は強い……」
 重成は思わず洩らした。
 上杉中納言景勝。
 現在、対岸の鴫野堤で今福堤への銃撃隊の指揮を取っている。
 云わずと知れた『越後の龍』こと上杉輝虎(号して謙信)の“後継者”である。
 後継者といったのは当の謙信本人に子がいない為で、この景勝は謙信の姉の子にあたる。
 父の長尾越前守が溺死(事故とも謙信の謀殺とも)すると共に謙信の養子になった。
 ところが、謙信自身後継者を指名しなかった為にこの景勝と、北条家から養子に来た景虎との間に後継者の内紛が起きる。
 この戦いによって関東管領職で当時長尾景虎と名乗っていた謙信を上杉家に入れさせ、関東管領を譲った上杉憲政等が戦死してしまう。
 この天正六〜八年に起きたこの内乱は『御館(おたて)の乱』と呼ばれ、これに景勝は勝利し正統後継者となる。
 しかし、やっとの事で越後をまとめた景勝でも、どうしようもない敵がいた。
 織田信長である。
 当時、織田家の勢力は三河を抜けて甲信越から、西は備中高松(現在の岡山県東部)、北は一乗谷(現在の福井県)に至るまでの大軍団であった。
 当時越後に遠征していた北方方面軍の総指揮官は柴田勝家で、その配下に佐々成政や前田利家等、織田家の中にあって武勇に優れた者達によって越後が脅かされていた。
 しかし、その脅威は直ぐに取り払われる事になる。
 天正十年の本能寺の変である。
 この脆弱すぎるクーデターは当の明智光秀本人が考えていた以上に全国にとてつもない影響を与えたのである。
 景勝自身もそれを享受した一人であったといえよう。
 そして、その後天下統一を成し遂げた豊臣秀吉に臣下の礼をとり、五大老の一人として政権運営の一翼をになう事になる。
 しかし、その秀吉亡き後、会津若松で軍備を整えた事が原因で徳川家康から攻められる事になる。
 この討伐中に石田三成らが決起して関ヶ原の合戦が始まるのだが、景勝は西軍に付いた為、米沢三十万石という前領地の四分の一に減封移封される事になった。
 異常に無口で人前で笑った事が無く、常にストイックな生き方であったという。
 養父である謙信を幼い頃から見続けてきた影響であろうか、とにかく常に眉間にしわを寄せ、無言であったといわれている。
 しかし、兵の統率は謙信から譲り受けたものからか、上手く、上杉軍は謙信時代の精強さを現在まで維持している。
 戦国時代の荒波を乗り切った剽悍な軍に到底勝てるはずも無く、渡辺内蔵助が撤退したのはむしろ当然であったといえるのである。

「して、我が方は?」
 と重成は佐助に尋ねたのだが、
「う〜ん」
 と空返事をしただけで応答がない。
「どうなされたのですか?」
「いや、それよりも」
 と云って佐助は後ろを指差した。
 重成が後ろを振り向くと、一軍が真っ直ぐに向かってきていた。
 凡そ目算で三百であろうか、皆一様に馬を駆っている。
 先頭に立っている武者は背が高く、勇壮な、それでいて老練さを兼ね備えた男で、弓手に槍を携えている。
「あ、あのお姿は」
 重成は、先頭の騎馬武者を見ると感嘆を洩らした。
「やっとおいでとは。いい所取りだな」
 佐助はいつもの通りに皮肉った。
「ほう、重成はまだ生きておったか。皆、重成を救うぞ」
 と先頭の武者が声をかけると、
「おおぉ」
 と一斉に鬨の声が上がった。
「後藤又兵衛基次、木村長門守重成に助太刀いたす」
 又兵衛は槍を振るいながら今福の堤に叫んだ。

 上杉景勝は眉間に皺を寄せたまま一言も発していない。
 元来、非常に無口な性格であったのだがここ鴫野に来て益々口が重い。
「何?後藤又兵衛が今福の堤にか」
 参謀として景勝と共に陣にいた直江山城守は赤母衣衆からの報告を受けた。
 直江山城守兼続。
「直江状」の逸話で有名な人物であるが、それ以上に景勝の参謀として非常に優秀であった。
 陪臣(直参ではない家臣の家臣)でありながら秀吉が米沢三十万石を与える程であったから明晰ぶりは想像に難くない。
 元々直江家の人間ではなく、樋口兼豊の息子として生まれるが年少の頃から才覚を現し、景勝の母である仙桃院の力添えで直江景綱の養子となる。
 養父である景綱自身も外交や内政において辣腕を振るった傑物であるが、むしろ兼続の方がよほど上であったのだろう、従四位をもらっている。
 当主であるこの景勝とは幼少の頃から一緒に育てられていた為、同じ謙信のDNAを引き継いでいるといって良い。
 しかし、性格はむしろ正反対で、よく家臣達のとりなしや仲介添え等にも奔走したところ、景勝と家臣団とのよきパイプ役になっていたのであろう。
『直江状』と呼ばれる家康にあてた書簡は、後世の景勝や兼続のイメージを決定付けた代物であるといっていい。
『直江状』を語るには少し時代を遡らねばならない。
 慶長三年に太閤豊臣秀吉が死去した際、五大老の一角として会津百二十万石を所領していた景勝は、国内整備という名目で大坂城から引き上げた。
 ところが、太閤亡き後の戦の予感を感じた景勝は、突如軍備を整え始める。
 これに対し、前田利家や徳川家康など五大老は、この景勝の行動に対して釈明を求めた。
 特に、徳川家康にいたっては『謀反の所業』と言い放ち、即座に討伐軍を編成し始めた。
 その時に届いた書簡が『直江状』である。
 ここでは、全文を記述する事は出来ないが、内容は国内整備の為の軍備であって決して謀反では無い、むしろそのような事で軽々しく軍を動かす家康にこそ謀反の兆しありではないのか、と云った内容である。しかも、追伸には『決戦も辞さじ』と明記してあったというからよほど腹に据えかねた気持ちであっただろう。
 家康自身、
「このような無礼極まりない書簡は初めてだ」
 と洩らしたという。
 しかし、この景勝の軍備行動が後、関ヶ原の役を起こす契機となるのである。
「殿、後藤又兵衛の遊軍三百程が対岸にて木村隊と合流したとの事です」
「……」
 景勝はじっと前を睨みすえたまま微動だにしない。
 無言である。謙信の真似をしたのか、それとも生来の性格であろうか。
「そうか」
 と一言低く頷いた後はまた無言に戻ってしまった。
「銃撃隊には須田長義を置いて、現在勢いをそがせておりまする」
「隊を温存させる」
「はっ、かしこまりました」
「安田を須田の後ろに置け」
 常に、頭で考えている戦略戦術をこの景勝は披露しない。こういった所も謙信に似ている。
「しかし、手に入れた土地を他人にはやらん。兼続がここを守れ」
 鴫野堤は兼続が守る事となった。
 当の景勝は、対岸に向かったのである。

 又兵衛とはつくづく不運な武将である。
 主君の父親に寵愛されたものの、その息子に嫉妬されついには出奔してしまう。
 しかも、仕官先は幾多もあったが全て反故にされてきた。
 豊臣秀頼の使者が訪れた時、又兵衛は乞食にまで身を落としていた。
 しかし、そんな過去をこの老武者は振り返る暇はない。
「重成を救う」。この存念のみが馬を駆けさせた。
 上杉軍の銃弾で馬が倒れ、落馬しても又兵衛は駆けた。駆けた。そして、遂に今福の堤まで到着した。
「貸せ」と近くにいた鉄砲兵の銃を取るや、又兵衛は、いきなり堤の上に立って銃撃を開始したのである。
 銃弾の鉛の雨が矢の如く突き抜けていく中、又兵衛は微動だにせず撃ち返していた。
「よいか、所詮鉄砲なぞ我らの槍に比べれば当たりはせぬ。怯むな!!」
 この叱咤は木村軍を生き返らせた。一人、二人と堤の上で迎激戦を始めたのである。
 かくして、大和川を挟んだ大銃撃戦は展開されていったのである。

 戦国時代における銃というものの存在価値は、衝撃以外の何物でもなかっただろう。
 現在でも主流通常兵器として使われている事を鑑みれば、人類史上屈指の発明品である、といってよい。
 戦国時代における銃撃戦といえば、天正三年の『設楽ヶ原』の戦いである。
 設楽ヶ原、といってもピンと来られない方もいるだろうが、『長篠の戦い』といえばお分かりになるだろう。それまでの戦争形態を一変させたといわれているが、鉄砲伝来は天文十二年、西暦でいえば一五四三年になる。日本に鉄砲をもたらした人物として種子島時堯の名が挙がる。
 この事がなければごくごく平凡な領主として歴史の表舞台に出ることのない人生を送っていたであろう、取り立てて能力のある人間ではないのだが、この一事のみで永遠に日本史の中に刻み込まれた人物である。ポルトガル人であるフランシスコ・ゼイモトという漂流民から二千両という莫大な金を払って手に入れた銃の威力に驚いた彼は、直ぐに生産を指示し、瞬く間に全国に広がった。
 以来、『長篠の戦い』で信長が使うまで鉄砲は薩摩島津家の専売特許だった。
 ではなぜ、『長篠の戦い』まで戦国大名たちは鉄砲が買い集めなかったのか、という疑問に当然たどり着く。
 事実、鉄砲が伝来されてから『長篠の戦い』までじつは三十二年というタイムラグがある。
 答え、とまではいかないかもしれないが、理由に当たるものは幾つかある。
 一つは、鉄砲の有用性に対する疑問である。
 現代と違って、ゲベール銃に近い構造(通常、銃弾が発射される時、銃弾はきりもみ回転をしながら発射されるが、ゲベール銃は銃口にきりもみ回転する筋がなく、銃口の中でジグザグに当たりながら発射される)の為、命中率は非常に悪く、その為、敬遠したのである。
 もう一つに、保守性が挙げられる。
 戦国時代に銃が登場するまで、戦国時代の戦争形態は源平の時代(無論、戦術戦略は別として)とさほど差がないのである。
 源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、史上初の武家政権(鎌倉幕府)が開府されるのが建久三年(一一九二年)であるから、じつに三百八十年余りにも及ぶのである。
 その間に、戦争形態が変わっていないという事にも少し驚くのだが、その間に培われてきたものや、あるいは考え方が固まってしまうのは、仕方が無い事で、急激な変化にはいつも抵抗感が付きまとうものである。
 それ故、革新に過ぎた新兵器を厭う傾向が出るもの仕方が無かったのかもしれない。
 閑話休題。

 一人二人と、重成の鉄砲隊が銃撃戦を展開し始めた頃、又兵衛は近くにあった馬に跨り、自らの軍を集めだした。
「重成、お主はよう戦った。ここからは俺に任せろ」
 と又兵衛は重成に退かせようとしたが、重成は又兵衛を見据えたまま動かない。
「どうした。動けんのか」
「お願いがござりまする」
「何だ」
「この戦、それがしに最後まで任せていただきとうござりまする」
「……」
「この戦の総大将は私めにござりますれば、私が退いたとあっては兵達の士気や足並みが鈍くなります。そうなれば折角又兵衛殿が采をとっても兵達は動けませぬ。それに、」
「それに?」
「この戦、私にとっては初陣なのです。是非最後まで」
 という重成の眼には強い意志が宿っている。
 又兵衛は、暫く思案した。
 重成にとっては、永遠とも、一瞬ともとれた不思議な時間であっただろう。
(ほう)
 と又兵衛は内心少し驚いた。
 豊臣家と徳川家が戦争という政治事態に陥ってから、本来奮戦するべき家臣達の不甲斐無さや、采配の無能さ、あるいは妙な根拠のない自信、やけに高いプライド等、辟易していた所に重成は少し違って自ら戦を志願した。
(男子たるもの、こうであらねばのう)
 又兵衛は、こういう男が好きである。
 奥で大言壮語しながら、いざという時に腰砕けになったり、あるいはしなかったりするより、自分自身で自ら刀を持ち、馬に乗って戦う方が漢(おとこ)らしいのではないか。重成は、それを自らの危険を知った上で残ると言い切った。
 又兵衛は嬉しかっただろうと筆者は思う。すでに絶滅していたはずであろう『豪の者』が若者の中にいたのだから。
「……よし。この戦、最後まで共に戦うか」
「はい」
「重成、お主は対岸の上杉軍を射撃してくれ。俺は佐竹を討つ」
 といって大和川を東に向かい、船を進めた。

 佐竹右京太夫は予想外の展開に戸惑っている。
 初めは、簡単に仮橋まで進めたのに、いつのまにか軍勢は後退し始めている。
「これでは、父の名が……」
 佐竹右京太夫義宣の父である常陸介義重は、『鬼義重』、『坂東太郎』等と呼ばれた猛将で、北条家と伊達家との間に挟まれながら一歩の退かず、それより水戸を制圧して常陸統一を成し遂げた人物である。
 その父の名に恥じない戦いをする、これが右京太夫の人生のテーマだったのかもしれない。
 清和源氏義光の流れを組む名家でありながら、戦国大名へのシフトチェンジを開始したのが遅かった為、義重の時代まで常陸の内紛や、また新興勢力、鎌倉時代からの宿敵とも云える小田氏との抗争に明け暮れていた。
 それを一掃し、常陸統一を果たしたのがこの義重となるのだが、その嫡男である義宣に当然のことながら父の影はちらついていたはずである。
 偉大な父を持つ二世の存在は、何時の世でも理不尽すぎるほど不幸である、と云わざるを得ない。
 その最たる例が毛利隆元である。
 父の毛利元就は、戦国時代一、二を争う稀代の名将であり、防長(現在の広島県から山口県)から九州北部までを切り取った人物である。
『三矢の訓』ばかりが挙げられる人物だが、尼子氏を滅亡に追いやったり、また厳島での戦いは、『西国無双の侍大将』とよばれた陶晴賢を倒し、従属していた大内氏を滅ぼす等、知略で土豪の豪族から中国十一ヵ国を支配する大大名にまで成長させた創業主である。
 隆元自身も、内政や家中の取り締まりに才があり、決して愚鈍ではないのだが、なぜかそのイメージが拭えないで現在に至るのである。
 この義宣も隆元に似ている向きが否めなくも無いのである。
 しかし、隆元とこの右京太夫義宣との違いは、隆元は父より先に死んだが、義宣の父は三年前に死んでいるのである。
「申し上げます。現在において我が軍は、本陣手前まで後退。兵士達の壊走が止まりません」
「何?!して援軍は?」
「上杉景勝殿の軍凡そ五千程が二手にて援軍に、堀尾忠晴軍八百と丹羽長重軍二百は対岸にて敵を牽制中との事」
「上杉軍を待っておっては埒が開かん。弥五郎はおるのか」
 と義宣は本陣で呼ばわった。
 程なくして、ひとりの男が現れた。
 精悍な顔つきで、若者ではないがかといって老将と呼ぶには些か早い、丁度働き盛りの感じのする男である。
 体も、大きくも無く小さくも無くこれといって目立った印象はない。
 しかし、眼の印象が全く違うのである。
 穏やかである。まるで戦場にいるという事を忘れてしまいそうなくらい優しさを宿した眼は、戦乱の時代において似つかわしくない。が、佐竹家中の者ならば、この男が歴戦の猛者である事は言うに及ばず、内政手腕にも長けている切れ者である事は知っている。
 この渋江政光という男は、日本史的には活躍はしていないのだが、秋田県の郷土史や出羽藩史の中に見られる名前である。
 内膳、弥五郎というのが彼の通称で、「梅津政景日記」で有名な梅津主馬と共に久保田城を普請したり、また林業や農業にも尽力した人物である。
「ここに」
 と渋江内膳は義宣の前に膝をついた。
「弥五郎、前線に出張って兵士達を叱咤してきてくれ。このままでは我が軍は逃げねばならぬ」
「はっ」
 と渋江内膳は兜を抱えたまま本陣を辞した。

 重成は。
 後藤又兵衛の援護射撃の指揮に当たっていたが、佐竹軍の反撃が始まる、という情報を得るや、すぐさま今福堤を東に駆け抜けようとした。
 所がである。丁度本陣前の柵手前で、ある男に足を止められてしまった。
 男は緋色の鎧をつけ、黒の兜を着け、金襴な陣羽織を羽織っている。
「お前かぁ!木村某とか申す若造は!」
「な、某とは無礼な!!貴殿が先に名乗られるのが筋であろう!」
「そうだったな、それは失礼。それがし榊原小十郎康勝と申す。尋常に勝負願いたい」
「何故」
「お主をのさばらすわけにはいかんのでなぁ。この戦、是が非でも勝たねばならん。その為に、お主には倒れてもらわんと困るからだ」
「……おもしろい。勝負、受けて立ちましょうぞ」
 榊原、という名前を聞いて内心重成は身震いをした。
 榊原小十郎康勝の父、康政は『徳川十六神将』の一人に数えられ、また徳川四天王の重鎮として家康に関する戦には、ほぼ全て出陣している。
 赤地に『無』の字を染め抜いた軍旗は敵方を震え上がらせ、正しく縦横無尽の活躍をした猛将の名に相応しい人物である。
 晩年は老中の座をめぐった際、『臣が権を争うは亡国の兆し』といって自ら辞退し、自身は現在の将軍である秀忠付きとなって過ごし関ヶ原合戦以後は同期である本多忠勝らと共に戦後処理を果たした後、館林藩初代藩主となった。慶長六年、いまから八年前に没した。
 この小十郎康勝は三男にあたり、館林藩藩主の座に付いている。父に劣らず優れた武勇を備えた男で、遠江守を賜っている。
 重成は太刀を構え、康勝も槍を地面に突き刺すと自らの太刀を抜いた。
 重成と康勝が気合をいれ、馬を駆ったのはほぼ同時であった。
 重成は、足で馬の胴を挟み込み、太刀を両手で持った。一方の康勝は馬手で手綱を御しながら弓手の握力に力を込め、来るべき第一撃を片腕で防ごうとした。
「でやぁ!!」
「ぬおおぅ!!」
 互いの馬が交錯した瞬間、激しい火花が散った。二人は馬を返すと、もう一度走らせた。
 今度はすれ違う刹那、小十郎の刀を重成は受け太刀で押さえられていた。
(なんという膂力)重成は、この眼前にいる男の力の凄さに舌を巻いた。
 小十郎は何度も何度も、それこそ刀を折らんとばかりに力任せにたたきつけた。バランスを崩した二人はそのまま落馬したが、その程度で燃え盛った闘志が沈静化されるはずも無く、今度は地に足をつけての斬りあいになった。
 現在における正統な剣術や剣道などが全く存在しないこの時代に、個人戦闘は殺戮経験の豊富な方が優位であった時代、重成は不利であった。一方の康勝は何度か重成の首を狙おうと肩口から袈裟懸けに斬り下げたり、また横に払ったりするが何れも重成の太刀捌きに阻まれていた。
 小十郎は一旦間を置く為、後ろに下がった。重成も息を整える為、足を踏み入れなかった。
「貴様、若造の割にはやるじゃねぇか」
「貴殿もな」
 小十郎は、重成を『若造』と言っていたが、実際には二年ほど離れている程度である。それでも小十郎は重成を『若造』と呼んだのは、自らの出自に対する自尊心があったのかもしれない。
 今度は重成から一挙に間合いを詰めた。小十郎もこれに呼応するように太刀を構え、自ら突撃した。重成は、相手を威嚇する為に大上段に構え、一挙に振り下ろした。小十郎はこの一撃をかわす為に全身の力を両足に込め、体を反り、辛うじて一撃を食らう事は無かったが、兜の眉庇(まびさし)を断ち切られた。
(不利になったか)小十郎は、一瞬、ほんの一瞬であったがこの一撃で形勢を見て取った。しかしその一瞬の判断が、小十郎に隙を見出させてしまう事になった。一瞬という短いタイムラグを重成は見逃さなかった。小十郎の兜の眉庇を断ち切った後、追撃をかけんと重成は、小十郎の左肩口から袈裟懸けに斬った。だが、すでに太刀は刃毀れをしており、到底斬るに至っていないのだが、重成の両手には、何か砕けたような鈍い感触が残った。小十郎は、重成に斬られた肩口をおさえながら、
「ちっ、命には換えられん。若造、今日はここで退く。しかし次は無いぞ」
 といって、親衛数騎を共に自ら守る鴫野に向かって馬を走らせた。
 途中、小十郎が馬上蹲(うずくま)りそうになり、親衛騎の一人が、
「御大将、大丈夫でござりまするか」と馬を寄せたが、小十郎はそれを制し、
「いや、構わん。それよりも家康の爺いに伝えておけ。豊臣方には全力を持って叩くべし、とな」
 と言って本陣まで馬を走らせた。

 後藤又兵衛は、佐竹軍を翻弄している。
 本陣手前で渋江内膳の激励により、俄に士気を盛り返した佐竹軍であったが又兵衛の巧みな兵法の駆け引きと、絶妙な突撃の緩急に、佐竹軍は混乱していた。
「よし。佐竹軍はこのまま一挙に攻め落とす」
 と又兵衛の鼓舞によってますます士気が上がった。
「又兵衛さん」
「佐助か。長門はどうしたのだ」
「それがはぐれてしまって……」
「はぐれただと?!お前が付いていたのではなかったのか」
「えぇ、それまで鉄砲隊の指揮をしていたんですが……」
「……」
 後藤は、心の中で重成の無事を祈った。祈るしかなかった。
「……このような事で、佐竹軍を盛り返させるわけにはいかん。佐助、お主、長門になれ」
 この又兵衛の突然の言葉に、さしもの佐助も戸惑った。
「お、俺がですか?」
「そうだ。お主が長門になってこの軍勢の士気を上げれば勝つことはたやすい」
「それはそうですがね。俺と重成さんとじゃ風貌も背丈も違いますよ」
「大将というものは、遠くで指揮を振ればよいだけの事だ。我が配下の腹心を周りにつける。お前は後ろで見ておればよいだけの事だ」
「でも又兵衛さんは、大将なのに自分で戦いますね」
「大将も、人それぞれだよ。では」
 といって、又兵衛は自分の供回りにいた数人を佐助の周りにつけると、戦場の中に向かった。
(こいつは、困った)心底から佐助は思ったであろう。戦争とは全く無縁の身分に生まれ、もし幸村たちが住みつかなければ、一生狩りや、山の動物達と遊びながら暮らしていただろう。勿論、物足りない生活ではあっただろうが。しかし、今は戦場にいる。そして、いつ命を落としてもおかしくない状況に自己を置いている、という事象もさることながら自分とは風貌も、ましてや背丈も全く異なる他人を自ら演じろと命じられた。しかも自ら主人と仰いだ人物ではない人間にだ。佐助は断る事は出来た。しかし、断る事を躊躇(ためら)わせる威厳があの老練は武将にはあった。だから、今現在複数の人間に囲まれながら慣れない馬に跨り、手綱を持っている。
「早く帰ってきてよ……」
 と佐助が呟いた時、周辺に異変が起こった。
「何だ?!」
 と佐助が素っ頓狂な声を上げた時、周りにいた騎馬武者達は、血飛沫を上げながら馬上から崩れ落ちていったのである。
 佐助は、素っ頓狂な声を上げながらも頭脳を冷静に働かせていた。
(どこかにいる)山を棲家とし、狩猟をしていた者にしかない勘、というものだけが佐助を動かしていた。そしてその勘は的中した。
 騎馬武者たちの屍よりやや離れてた所に犯人はいた。その犯人は、黒糸威を着け、黒の前立てのない兜を締め、弓手に太刀を持っている。そして馬を返し、
「木村長門守重成殿とお見受けいたす。それがし渋江内膳政光と申す。その頸、貰い仕る」
 と手綱を叩き、佐助に向かってきた。
 佐助は、又兵衛から借りた脇差を抜くと、馬の上に立った。そして内膳とすれ違うや否や飛び上がり、内膳の背中から組みついた。
「な、何をする」
 と馬上で背中を揺らしながら足掻いている内膳の頸を腕(かいな)で佐助は締め上げた。
「貴様、木村ではないな」
「おうよ。俺は真田幸村の配下で佐助という者だ。その頸、もらうぜ」
 と内膳の喉に脇差を当てると一挙にひいた。
 内膳は喉から鮮血を噴出しながら数歩ほど馬を歩かせたが、やがて、馬が止まると馬から崩れ落ちた。佐助は、自らの命を守る為とはいえ初めて人を殺すという、衝撃に体の震えが止まらなかった。しかし、時は止まるわけも無くすぐさま内膳の頸を刎ねると辺りに、
「渋江内膳殿が頸、この木村長門守重成が頂戴仕った」
 と声の限りに張り上げた。

 渋江内膳政光が木村某という若者に斃された、という事象は佐竹軍の士気を徹底的に失わしめた。これによって佐竹軍は完全に崩壊し、足軽たちは逃亡し始め優劣は完全に決まったように思われた。しかし、この状況下において思いもかけない特異点が出現したのである。上杉景勝率いるおよそ三千の軍勢が漸く今福堤に辿り着いたのである。上杉軍は戦場に付くや否や突撃を開始した。かくして状況はまた一変した。後藤又兵衛は翩翻(へんぽん)と翻る上杉の二頭立ての雀の軍旗を見た時、
「全軍撤退!!」
 と呼ばわり、自らも真っ直ぐに馬を返して大坂城に向かって一目散に走り出した。
 この又兵衛の姿を見て景勝の家臣である杉原長義は「臆病者」といって声高に笑った。が、景勝の無言の圧力と睨みで長義は直ぐに笑いを止めた。その時、長義の背中に冷や汗が幾条も流れたという。
 佐助が渋江内膳と戦っていた時、重成は佐竹軍の中に埋もれていた。敵も味方も入り乱れた戦場において敵軍に紛れ込む事は容易であった。敵武将から奪った太刀を手に、正しく手当たり次第に敵兵を斬った。しかし敵兵も人形ではない。幾すじもの刀傷が腕や足に負ったが重成は怯むどころか勇敢に対処していった。そして、又兵衛の撤退を見ると血路を開き、自らも大坂城に撤退した。

「重成!!良くぞ無事に」
 重成が生還した、という報せに何より喜んだ秀頼はその足で自ら重成を出迎えに行った。
「殿、敵軍を散らす事叶いませなんだが、これで当分は攻めて来れないでしょう」
「いや、敵軍を追い散らす事より、そなたが無事に帰ってきてくれたことがうれしい。又兵衛殿、助かった」
「いや、殿。重成という男、大事にせねばなりませぬな。私は今日ほど嬉しい事はない」
「重成には、感状を授けようと持ってきた。これへ」
 と近習に持ってこさせたのは一枚の紙である。そこには、
『豊臣家感状、木村長門守重成殿』と書いてあった。
「重成、これへ……」
「殿、この感状、もらうには及びませぬ」
「何故だ」
「それがしは、豊臣家の家臣にござりますれば当然のことをしたまで。それに、他家に奉公するつもりもありませぬゆえ、感状は不要でござりまする」
 といって頑強に退けてしまった。
 その夜である。
 大坂城内にある幸村の館に一人の男が訪れた。
 木村長門守重成である。
 重成は、幸村のいる居間に通された。幸村は丁度、才蔵や小助達と図面を広げながら話し込んでいた。
「幸村殿、お取り込み中とは知らず、ご無礼を」
「いや、よい。それで、何か?」
 と幸村は才蔵たちをそれぞれの部屋に下がらせた。
「本日の戦の件でお礼に参上仕りました」
「礼などと……」
「いや佐助殿をお遣わしめされた事、この御恩、重成生涯忘れませぬ」
「いや、それより又兵衛殿に礼を言いなさい。あの方が貴殿を救わんと軍議そっちのけで行ってしまわれたのだから」
「そうだったのですか……」
「それよりも、大助はどうしているのですか?」
 と尋ねる幸村の顔はいつしか父親の顔になっていた。
「幸昌殿の事ならご心配召されずとも大丈夫です。真田五代の血に私や殿は、ただただ驚嘆するばかりです」
「そうか……この戦の最後は大助やそなた達が握っているように思えてならない。是非とも大助をよろしく頼みます」
 と幸村は深々と頭を下げた。重成は少し戸惑ったがまた深々と頭を下げた。