最期の真田 冬の陣5
作:AKIRA





  砦の攻防〜一時の終焉〜続き

  十二月四日

 ちらついた雪は粉雪だったようで、真田丸内の地面が少し濡れている位で、火薬や弾には湿り気が無い。
「これで何とかなった」
これでこそ、出城としての機能が十二分に働くのである。 
 ―――篠山(大阪市天王寺区小橋町)南の前田利常が土塁を作っている。
篠山にいた筧がよこした使者である。その上で『攻撃をしたい』という要請認可も求めている。
(鉄砲で迎え撃つか)
 出城南約半里の篠山から向かいおよそ四半里と、出城向かい四半里程に高さ一丈程の土塁が次々と築かれつつある。
「出城相手に、鉄砲くらいで勝てるとは」
「思うまい。牽制か、もしくは陽動か」
と幸村が云ったのは、現状では城攻めには大砲を使うのが最早新たな常識となりつつある。大砲の精神的な脅威と、その威力を以って城壁を粉砕する為であるが、
(其れを使わずに攻める)
という事は考えにくい。ましてや、この大坂城の堅牢さはだれよりも家康自身がよく知っている。
「陽動に乗ろうか。攻撃をしてよい、と伝えて来い」
使者は畏まりました、と一言云うと直ぐに篠山に戻った。
(どうするかな)
と、幸村は考えを巡らしている。
このままいけば、いずれは小橋は前田軍に取られてしまう。なら、いっその事とらせてしまうか、あるいはこのまま戦うか、選択肢は二つしかない。
「とらせるか」、結論が出た。

 真田丸と篠山の距離は、目と鼻の先である。
一刻経たぬうちに使者が戻ってきた。叩け、というのである。
「そうか、一斉放射」
一言言い放たれるや、すぐさま連続して凄まじいまでの撃音が乱れ飛んだ。
 筧は、この様子を中央櫓の二階から見下ろしていたが、撃音より少し間を置いて、小さい呻き声がそこかしこから聞こえてきたのである。みると、土塁を造っていた足軽達が次々と斃れていく様をありありと見ることが出来た。
 それでも尚代わった足軽達が、黙々と斃れていった跡を引き継ぎ土塁を完成させようとするが、それも撃音の前に斃れていくのである。
 きりが無かった。弾、火薬は余分すぎるくらいあるので困らない。が、向こうの軍勢もまるで這い出る蟻の如く途切れない。
「根比べになるな」と筧自身、苦笑する他無かった。
それでも、攻撃は止まない。撃音と小さい呻き声が交互に聞こえ、鼓膜も麻痺するのではないかと思えるほどである。
 陽が落ち、月の出る頃には撃音は止み、束の間の静寂を迎える。
 しかし、この小橋篠山の砦は、慌しかった。
「夜の明けきらぬうちに砦を捨てる」というのである。
各々が分担し荷物を担ぎ、また荷車を出して括り付けたり、またあるものは警戒を怠らず、さらにはわざわざ近くの小橋村の住人をかりだす程の念の入れようで、この撤退劇は敵軍の誰とも知られること無く、無事完遂した。
 筧十右衛門が帰還した事で、新たな配置が決定された。
真田丸右側の櫓指揮に才蔵。同じく左に由利。中央水堀側扇部分については筧が佐助に代わって指揮を執る。その佐助は、伊木七郎衛門に付いて右翼部迎撃隊に、清海は左翼部に、小助は大助幸昌と木村重成の隊で連絡役に、根津は幸村付となった。

 十二月四日という日が日の出と共に、明けた。
漆黒の闇が徐々に白みを帯び始め、櫓や桟敷が白く光る。
 後、「最大の激戦の日」というにはあまりにも優雅な夜明けである。
兵士達の表情は、その夜明けとは裏腹に一様にして重い。
 鉢金を額につける者、桟敷にのぼり眼下の光景を見下ろす者、あるいは出撃に備えて槍を扱く者など、様々である。
 幸村はこの日、朝陽を甲冑で拝んだという。いつもより穏やかであった。
「篠山の守備隊は」
と、傍ら、すでに準備整えたる才蔵が、すでに事構えておりまする、と仰々しく云った。
「そうか」
一言軽く答えただけで、すぐさま陣屋敷を出た。朝日が眩しい。
「晴れるなあ。戦がしやすい」
という悠々たる声色とは凡そかけ離れた緊張が幸村の全身を包んでいる。

 ―――篠山の様子がおかしい。
という一報が篠山麓で陣を構えている前田利常の配下である奥村栄頼に届いたのは表題前日昼過ぎになってからであった。
「どうおかしいのだ」
この時の奥村摂津守栄頼の表情には、最早怒り以外無かったと近臣が感じた。
 異様であった。この短気な若者は常に足で床を叩き、眉間の皺が消えた時は無かったというほどである。使者の言葉を理解するにはあまりにも表現が稚拙すぎたのも原因としてあった。
「いないのです」
「何が」
「だから、いないのです」
という問答の繰り返しである。それほど衝撃を受けた事なのか、それともこの伝番に適性が無いのか、それ以上言葉が出てこない。
 ついに限界に来たのか、その伝番を足蹴にし、顔を踏みつけた。伝番の顔が屈辱と足によって歪む。
「役立たずが」と、伝番の頬に唾を吐いた。
「よいわ。幸い本多大和が篠山付近まで動いておるから、我が隊も篠山まで出る。横山と山崎には知らせるな。これは隠密に動くのだ」
と云うと、すぐさま自軍を進めた。
 これに対して主君であり、また外様では最大の勢力を誇る加賀藩当主・前田筑前守利常は、すぐさま横山長知と山崎長徳の二人を篠山に向けた。
 余談であるが、この前田利常という大名は非常に苦労人である。利家の四男として生を受けるが、兄でありまた二代藩主である利長の跡を次いで三代藩主となるのだが、この後訪れる「元和・寛永の大改易」で見事幕府の眼を欺いて以後、天領以外では最大の禄高誇る大名となる。中でも、無能を装う為に鼻毛を伸ばしたり、また睾丸を見せるなどして、謀反から改易という嵐の中を潜り抜けて行くのだが、この話はこの戦の後になる。
 陽が傾いて辺りが夜陰に包まれ始めた時であるから、暮れ六つ頃であろう、小橋篠山に着いた奥村と本多大和の隊は、予想外の静寂に疑念を抱いている。
 丁度、横山長知と山崎長徳の両隊も合流したため、陣屋敷で軍議を開いた。
「ここを捨てた、ということであろうか」
 この本多大和という男は「家康の懐刀」といわれた本多佐渡守の次男で、この男のお陰で前田加賀藩は安泰であるといっても過言ではない。現在、国家老である。
「あの真田のする事だ。策略であるみてよかろう」
と、奥村摂津も同意見である。
「山崎殿と横山殿は」
と摂津が尋ねると、山崎が徐に口を開いた。
「あの真田の事だ、策略はあろう。しかし、此処を捨てて且我等に勝つ術があろうかな?ましてや、井伊殿の軍や伊達軍、さらに藤堂殿の軍まであって。その上に南条中務殿が手引きをするとなれば、どのような策を持っても無駄ではないのか?」
 山崎は顔に出来た傷が疼くらしく、しきりに指の腹で摩っていた。
顔の見えない神経戦が繰り広げられている。この時、その南条中務元忠はすでに切腹して果てているのだが、この時点では、情報がもたらされていない。
「されど、大御所に引けを取らぬ御仁ですぞ」
「横山殿、真田真田とここの御二人も申されるがそれこそ蜀漢の諸葛亮でもなければましてや漢の張子房でもない。それに藤堂殿と南条殿の間に何らかの密約もあると聞く。ならば、真田幸村という天才がいくら策を施しても無意味なのではないか?」
山崎の云う事にも一理はある。味方の裏切りはいかなる策をも無効にしてしまうほどの大きな影響力がある。
 そもそも策略というものは「味方が裏切らない」という大前提の下にたてられているのだから、その大前提が崩壊すれば自然とその策略も験がなくなり、消滅してしまうのである。
「では、これは真田が単に逃げただけと」
「であろうな。でなければ、簡単に此処を引き払わんだろう」
(囮、か)
であるなら、全てに辻褄が合う。誘き寄せる為の、いわば餌ではないだろうか。
「空城の計」という。城の東西南北四門を全て開放し、あたかも逃げ出したかのように見せる。攻城軍は疑心暗鬼にかられ、遂に攻めることなく退却する、という計略であるが、兵法としてはよくある手段の一つである。
「それはないだろう。なら、土塁を阻害する意味が無い」
あくまで山崎の考えに「策略」という言葉は無い。
「なら、今日は此処で休ませよう。早馬は出しておく」
本多大和が走らせた早馬は翌日早朝に着いた。

「ならぬ」
部下の抜け駆け許可を赦す主君がどこにいるのか。
「越後。富田越後を呼べ」
利常は第三陣を受け持っている富田越後守(名を重政)を本陣に召喚した。
 程なくして現れたのは黒の当世具足に、筋兜を脇に抱えてくる初老の武将である。
佇まい、風格に一方ならぬ人物を思わせる。眉に少々白いものが雑じっている。双眸はあくまで凛として薄い口唇は真一文字に結び、とても老齢とは思えない程、容貌に老いが無い。しかし、この武将の生年は天文二十三年(一五五四)というから、この時点でも充分長命である。富田重政というこの武将は、加賀では「名人越後」と云われる程の中条流剣術の恐らくは、皆伝目録辺りまで進んだであろう程の名人である。
「越後、篠山に寄ておる我が家の軍勢が『このまま真田丸を陥落せしめたい』という早馬が来た」
「はい」
と、柔和な面持ちを崩さない。
「そこでだ、御主を早馬に遣わしてこれを届けてもらいたい」
というと一つの文を出した。
「篠山は我が軍が占拠せしめている。しかし、奴等の兵装では到底陥落などできぬ。御主であれば、と思ったのだが」
と、利常は言葉を止めた。
と云うのも、この富田重政は二年程前に家督を嫡男である重家に譲り、現在は加賀で好々爺の隠居暮らしをしている。
「先代からお仕え申し上げておる身。それに隠居の身でもござれば、殿の命に従いまする」
と、文を受け取り、すぐに踵を返し、馬に跨ると篠山に向かった。
 しかし、重政が文を懐にしのばせて占拠した篠山はすでにもぬけの殻で、申し訳程度に守備隊を数十というくらいで、大方は明けきらぬうちに出立してしまったという。
「遅かったか」
さらに、守備隊の組頭が云うには先遣の隊はその前にすでに出立しており、現在は真田丸前にて待機をしているという。
「短気な若造が」
利常の前で見せた表情とは全く違う。明らかに怒気が孕んでいた。
重政は直ぐに馬首をかえすと、真田丸に向かう為、軍勢を整えた。
(間に合うとは思えぬが、説教をしてやらんとな)
自然、鞭も多くなった。

 本多以下四将の軍勢は、すでに真田丸前に陣を張って一刻がたとうとしている。
相手は既に気づいているはずである。が、静かである。
 十二月四日の朝陽を馬上で迎えた四将は、隊を整え、陣を構えた。
が、一向に気配が無い。動かないのである。
「怖気づいたのか」
横山の状況判断は、通常ならば正しいと見るべきかもしれない。が、相手は自分より遥かに戦上手の百戦錬磨の将である。油断はならない。
「兎にも角にも、先に攻め上り、我等が梅鉢の旗を立てようではないか」
と、本多大和の掛け声に兵達は鬨をあげる。
出城の真ん中の櫓から、誰かが出てきたのである。
 三人。いづれも、足軽のようである。
その内の、真ん中の一人が
「朝からなにやら騒がしいようだが、見れば前田家の御方々とお見受けするが」
と、大音声で叫んだ。
「鷹狩りならばどうぞ他の場所でおやりなさいませ。ここにはすでに鳥獣の類は逃出しましたゆえ、もしお相手が入用でしたならばこの真田丸がお相手いたしますが」
と言った。
 明らかな挑発である。奥村摂津のこめかみに青い筋がぷっくりと浮かんだ。
「おもしろい。・・・一斉につぶしにかかろうか」
と馬首を向けた時、本多大和が塞がった。
「奥村殿。我が軍は竹束もましてや鉄盾も持ってきてはおらぬ。怒りは分かる。が、ここで感情に押し流されてしまっては、多数の害を被る事になるやもしれぬ。それでも行くと申されるのならば、今、富田のご隠居がこちらに向かっておるという早馬を得た。それからでも遅くはあるまい」
 実際、この隊は先遣隊である。相手の規模、手の内、内情、軍勢、士気等の情報をもたらす事が課題である。云わば、当て馬である。
「富田殿を待って攻める。他家には報せるな。これは前田家の功である」

 と、云ったものの、真田丸とやらの櫓からの罵詈雑言は絶えない。
時には耳を塞ぎたくなる様な言葉まで出た時でも、逸る奥村を本多、横山の両名がよく止めた。
「富田殿の来るまでの辛抱」
これが、四人の唯一の箍である。
それほど四人の怒りは限界を超えていたといっていい。
武士の本懐は「君辱められれば即ち臣死す」である。その君が足軽によって無残にも踏みつけられたのである。
 しきりに石を投げつけられ、さらに高笑する群声、また脇の門から手勢が繰り出されるなど、挑発は執拗であった。勿論、この四将もそれが誘引の手だということは承知している。故に、手を出せないでいることも事実である。
 本多大和と奥村摂津はすでに憤怒の表情以外を遂に見せる事はない。周辺地図を見るだけでも、すでに眼が赤い。
 待てぬ、と短く奥村はいいすてた。富田が来る迄といってももう限界が来ている。というより、限界を超えていて尚、我慢し続けねばならない事由は何か。
「ならば、全員で玉砕するか」
本多もやや投げやりに云った。これ以上恥辱は我慢できない。
「富田殿を待つのではないのか」
山崎は二人を窘めた。無駄死にだけは避けたい。その為に我慢し続けているのではないか。相変わらず、傷を指の腹で擦っている。しかし、擦り方が少々荒くなっている。
 誰しも自分の主君を辱められて快く思う家臣はいないであろう。相手の策略である事は明らかである。しかし、感情がそれを失わせしめているのか、あるいは、策略であろうとも赦す事の出来ない程の侮辱なのか。
 奥村の隊が遂に動いた。中央水堀を避けて左右から一斉に逆茂木を倒しにかかった。
これを見た中央櫓の筧が、持っている配を前に向けた。次の瞬間である。まるで、落雷を側で体験したかのような凄まじいまでの撃音が一斉に鳴った。櫓から見れば、頭部や胸の辺りから鮮血を噴出して倒れたり、また腕を撃たれたのか、這いずり回ったりしている足軽達が其処かしこに居た。それでも尚、依然として屍を踏みつけてでも逆茂木を倒そうとするが、また銃撃の餌食になる。やがて、左の逆茂木が倒れ、一斉に足軽達が流れ込んだ次の瞬間、今度は爆発音が真田丸周辺に響き渡った。
「な、何ですかい?大将」
と、真田丸内の陣屋敷にいたこの爆発音に驚いた根津は蒼白になっている。
「ん?あぁ、空堀の誘いの所に火薬を仕掛けておいた」
まるで物の名前でも尋ねられたかのように飄々と答えた。
また、爆発音が響き渡る。根津は、右の方から聞こえてきたように思えた。
 足軽たちの凄惨たる状況を見ても、最早怒りで血が昇っている指揮官にとっては現実味の無い衝撃でしかない。
「怯むな。我等に利があるのだ」
という素っ頓狂な台詞は、その証左である。
 しかし、足軽という軍事的瑣末な現場職業は、なによりも自分の命を尊重する。すぐに戦線が混乱し始めた。
「貴様ら。其れほどまでに命が惜しいか。臆病者が」
と奥村は前線で指揮を執っていたが、右肩の付け根辺りに衝撃が走った。左手で押さえてみると、赤く、生臭い液体が満智羅を濡らしていた。
「・・・!」
 膝の力が一挙に奪われた。膝から崩れ落ちた指揮官は息をするのがやっとで、その場から動けない。近くにいた組頭らしき者達によって前線を退いた。が、細い声ではあっても前進をやめさせなかった。
 その間も、真田丸の鉛の豪雨は止まず、屍が増えていくだけである。
 
 三備えの富田の隊が奥村や本多のいる前線に到着した時、すでに真田丸は巨大な城塞となって立ち塞がり、まるで攻め寄せてくる蟻を微塵に砕かんが如く、鉛の弾を途切れさせることなく鈍い直線を描いていた。
「だから待っておけと云っておいたのだ」
憤然たるやり場の無い怒りが富田の体内に充満する。
 戦国武将であるものはある種「臆病」なければならない。でなればこそ、昨夜に栄華を極めていても朝になれば首が落とされているという確率は(無にはならないが)格段に落ちる。「生きる」という事に執着し、「死ぬ」という事に臆病になる。そうすれば生きる為にありとあらゆる手段を用いる度胸もつく。死ぬ事が怖くない、という人間には嘘がある。それは「自分が死なない」という状況に置かれている、という大前提があるからであって、生と死が隣接している状況下に置かれれば決して「怖くない」という事はそれこそ云えないであろう。
 ただ、日本史においてそれすらも凌駕した階層があった。「志士」と呼ばれる階層である。彼らは決して死を怖れなかった。それは「死を覚悟する」という事と同義語である。戦国武将や、江戸期の腐敗・堕落した武士階級とは一線を画するところで、本題の時代と決定的に違うのは「ネイション」という概念の違いである。「国家」という近代的な概念を苛烈に鮮明に心胆に刻み込まれた狂信的なまでの信徒達の屍の先に明治日本という幕府ではない国家が誕生するのだが、これは余談として。
 しかし、いま眼前で采配をふる事が、前述のそれは明らかに質が違う。この時代にはそもそも近代的な概念そのものが誕生していない。
 幾多の戦陣を潜り抜けてきた老将にとって今、要塞の前で指揮を執っている「若造」の行動こそが歯痒かったであろう。
「蛮勇なのだ」
とこの老将は短く、しかしはっきりと倒れている「若造」の前で明言した。
若造は、うなだれるしかなかった。目線も心なしか下がっている。
「功を焦っても最早名を上げる事など出来ぬ。戦乱は終息に向かっておるのにあたら命を粗末にするものではない。戦とともに生きた武辺の老将のみがすべき義務だ」
若者は、政を持って仕えねばならん、と富田の眼はあくまで眼前の要塞から離さない。
「殿からこれを預かっている」
近習のものに読ませた。
 奥村の顔から血の色が消えうせた。怒りに唇が震えている。
「ひ、撤退(ひけ)と申されるか」
「左様。これほどの要塞を攻めるに力では徒に戦力を削るようなものである。篠山まで退いて、ひとまず傷を癒すのが先決だな」
 その静かな言葉は有無を許さなかった。

 多分、戦はこのまま状況は変わることが無いであろう、少し雑談でも、と思う。
 戦国時代において、最も「優れたのは」誰か?という質問がよく出されるが、これでは個人の好みもあって答えに枚挙が無い。
「戦国時代の全ての武将、大名を生き返らせて争った場合、最後に残るの誰か」という質問に置き換えてみる事にする。筆者が時々徒然と考えている事である。
 多分、信長である。「多分」といったのは状況が違えば天下を狙える大名は他にもいるからである。
 武田、伊達(政宗)、徳川、島津、毛利、この辺りであろう。斎藤道三は美濃の国主で手一杯であったろうし、他の大名でも地理云々以前に厳しいと云わざるを得まい。
 近畿から中国四国にかけては国力そのものが応仁以後疲弊している為、大規模戦となると状況は些か厳しい。ただ、政治・経済において中枢地であるから、その利点は大きいだろう。が、果たして、それほどの器量を持ちえた人物がいたかどうかである。
「信長」と云ったのは他の大名達と決定的に違う概念そのものがあったからである。
「天下ヲ武ヲ以ッテ布ク」、信長が美濃攻略後に使った印である。「武ヲ以ッテ布ク」その先には「政」が待っている。信長の他と違うのは、この「政」をも見据えた統一事業である。その為の人材を貪欲に登用した所は、三国志の魏王「曹操」に良く似ている。が、信長と曹操との違いは、戦に負けの多寡である。実際、曹操はよく負けた。しかし、信長の大きな負けといえば、金ヶ崎の撤退劇と、第一次木津川口の戦いくらいで、しかもその復讐戦にはいずれも大勝している。前述したように「ネイション」という国家観の概念が市民レベルで浸透するのは明治以後である。しかし、信長は自らの頭脳のみで「国家観」というモノを造り上げていた。しかもそれは、理想のみではなく、内政・軍事・経済・文化・産業といった現実レベルでの「国家構築」とも云うべき当時では全くの異端であり、また急進すぎる思想を持ち続けていた。だからこそ自らを鏡に映して「神である」と、常人が聞けば身の毛もよだつ様な不敬な発言も簡単に口をついて出てしまうのであろう。「神である」という言葉は「国家元首」という言葉に置き換えれば、自ずと分かり易くなるであろう。つまり、信長は天皇を政治的機軸には据えない、それどころか、あわよくば天皇制そのものを廃止して、朝廷を完全に解体させた上で、新たな国家構築を開始しようとしたのではないか。それは当然朝廷、ひいては天皇までも敵に回す事になる。現代のように影響力が無い時代ではない。天皇が「朝敵」とうたえば、日本中が敵になる、そんな時代である。古典的な教養と中世の思念をもった明智光秀という男は、そういった意味では朝廷や天皇に近かった。だからこそ、明智光秀は信長を赦せない存在として、消してしまった。
 話が大筋からだいぶそれてしまったが、上記から考えれば、信長というのが答案になりそうである。

 雑談が過ぎた。
状況は大まかな部分ではそれほど大きな変化は見られない。
 幸村が一子、大助幸昌は一軍を以って、西側大門で戦況を見つめている。
未だ、出番らしい所は無い。
朱の槍を小脇に抱えて立つその姿はまるで武将人形のような華やかさがある。
 軍付として、清海という巨魁の坊主がいる。この巨魁の坊主は数々の修羅場を潜り抜けてきたらしい。
「ご子息よ」
と、屈強な老齢の破戒僧は出し抜けに尋ねた。
「戦で、一番大事肝心とは何ぞや」
突然聞かれても戦の経験がこれが初めてである若者にとっては難しい質問である。
暫く考え込み、やがて、
「・・・功を・・・取るというか・・・」
「功を、つまり武勲だな。武勲を得て、名を上げる事か?」
「そう、ではないでしょうか」
己の論が正しい、という確信が無い若武者は巨僧の顔を覗き込んだ。
「一知半解という言葉を知っているか?」
『一知』、一つないし寡数の事象で、『半解』、半分理解した事。転じて、多少の事象から理解したかのように考える事である。
「ご子息よ」
と、どうあっても大助をそう呼ぶ。
「確かに、功を成し、名を遂げる事も重要ではあるが、それだけでは答えにならない」
「では?」
「臆病である事よ。次いで、臆病でも逃げずに生きる事だ」
まだ若い大助には解しがたく、反応が鈍い。
 つまり、死ぬという事に対して常に心に刻んでおく、いうなれば「死ぬ」という感情に対して「怖くない」というのは虚構である。それを恥じる事はない。が、其処から逃出すという事には繋がらない。「死ぬ」事が怖いからこそ、必死に生きようとするのであり、それが戦場において勝利に繋がるのである。それと、「生きる」という事は時に戦場から撤退を余儀なくされる事もある。しかし、これも恥じる事はない。撤退と逃亡という事も一致しない、そうこの巨僧は教えたかったのであろう。
 人生の大半を戦場で過ごした者でしかわからない言葉である。熱心に聞き込んでいる若者も、およその理屈は理解できる。だが、それを肌で感じるにはあまりにも生まれてくる時が遅かった。
「戦うという事は、そういう事だ」
 西門陣太鼓が鳴った。同時に門が開く。
 敵は井伊掃部頭、兵数は四千。

 大坂城南惣構え出城真田丸の対面すること約二里程である。
おりしも北からの季節風で、しかも城から吹き降ろしになっているため、総赤地に金色に染め上げた「八幡大菩薩」の旗指物は大きなうねりをあげていた。
 その旗指の赤をさらに燻した紅の二枚胴具足に、天を突く大きな金の脇立。皆朱の槍を脇に抱え、その腰には天正拵の大小を佩き、頬当ても具足と同じ燻した朱。それを全身に纏って、本陣のいる毘沙門池北、八丁目筋およそ二町半南に構えている。
 彦根藩主の代理参陣でという名目で参陣している、井伊掃部頭である。
(落とせぬか)
 前田軍の戦を見ていて、この若き司令官はむしろこの出城の堅牢さに眼を見張った。
「それでも、仕掛けねばなるまい。適度に叩き、適度に退け」
これだけを軍令とした。余計な兵を死なすわけにはいかなかった。
『夏がある』
この優等生は、理詰めで結論を出した。その為の布石も同時に出た。
「退却をさせよ。空堀にいる部隊も引き上げさせよ」
と、井伊軍四千に陣令を発した。
 ところが、仕置家老格の福留半右衛門麾下の五百が未だ戻ってきていない。
「馬鹿者めが。戻ってきたら減封に処する」
 その厳封に処されるはずの福留某は、八丁目口からおよそ半町にも足らぬ平地で立ち往生していた。
 五百、という軍勢は井伊軍からすれば捻出したほうの軍勢であろうが、それでも全体から見れば小勢である。戦の戦局を左右するだけの力はないであろう。
 それでも、この忠誠篤い初老は懸命に戦った。
『君辱められるば即ち臣死す』
という武士の訓示をそのまま鏡に移したような老将であるが、如何せん戦の腕はというとたいぶ物足りない様子で、槍をとって戦場に赴く、という武辺型の武将ではない。張り切りすぎて空回りし、尻餅をつく型であろう。
 それでも、若き優等生はこの武将をいたく愛でていたようで、現に吏僚としての能力はいざ知らずとして、仕置家老に置くまでの人物であるかと云えば、些か心もとない。
 更に味方の援軍といえば期待出来ようはずも無く、まさに孤立無援だった。
部隊はまもなく瓦解、この半右衛門も井伊本陣に戻り、叱責を受けたのは云うまでも無い。

 庄次郎という少年は、父親と共に大助幸昌の近習としてこの戦に参加をせざるを得ない。
 少し大きい日野根鉢の兜に、黒の当世具足で身を固めた少年は真田丸の中で主に雑用をしている。
 時折、鬨が外で沸き起こるや、すぐに近くで轟音が鳴り響く。暫くは言葉が聞き取れない。鼓膜が破れたのか、とさえ思ってしまう。
 よくよく考えてみると異様な陣容である。
父親である伊木七郎衛門遠勝や、自身が仕えている大助幸昌はわかる。しかし、巨躯の怪僧や、あるいは見るからに怪しい忍びくずれなど、これが主戦力であると思うと、れっきとした武家階級で育っている庄次郎にとっていかに不慣れな世界であるかがよくわかる。
 初陣である、という事も一つの大きな要素となっている。未知の世界に足を踏み入れるという行為は、尋常ならざる不安を駆り立てるものである。それが一層異様な世界に見えたのかもしれない。
「小僧」
 庄次郎は侍です、小僧ではない、と呼んだ僧くずれの男に向かって叫んだ。
「勇ましい事だ。それくらいの度胸でいい」
と、その怪僧は意外にも褒めてくれた。その怪僧は清海である。
「それでは庄次郎、用を頼まれてほしい。これを、本城におられる秀頼様に届けてくれぬか」
と、清海が出したのは一通の書状である。表紙には何も書かれていない。
「届けてくれさえ、すれば良い。『真田公の書状である』と申し上げるようにしろ」
庄次郎には、この意味は無論分らない。ただ、やけに印象的だったのが、清海の表情がいささか暗いように見えたのである。

 庄次郎が本城の奥書院である、秀頼本陣に着いたのは、午後二時を過ぎたあたりであろうか。
「殿、真田公からの書状でござりまする」
と、庄次郎は清海の云う通りに題字の無い書状を渡した。
「うむ。ご苦労であった。読み次第、したためる故、控えておれ」
庄次郎は部屋を辞して、廊下にて待った。暫くして大声が上がった。
「殿。このまま和睦など、もってのほか。今徳川の軍が怯んでおればなぜ、追い討ちをかけぬ。怯懦であろう」
金きり声を張り上げているところを聞けば、恐らくは淀殿であろう。庄次郎にとってもこの女性にはいい感情がない。
「されば、もしここで打って出れば、この真田丸の意味など元より灰塵に帰します。ならば、籠もって戦うが常道。されど、弾薬は限りがある。もしこのまま、間断なく撃ち続ければ、先に我が方の弾薬が底をつく。それに較べれば向こうは無尽蔵とも云っていい。そうすれば負けは必定。戦力の差とて到底追いつけるものではない。ならば、ここは和睦をして、豊臣の血筋を残す事が肝要ではないのですか」
(そういう内容だったのか)
 本来、聞くべきではない内容だけに庄次郎には衝撃が走った。確かに一見して有利に見える展開でも、先手を読めば自ずと不利になるのは少年である庄次郎にとっても容易に想像はつく。
「あんな土豪大名に頭など下げられるものか。関白が征夷大将軍に頭を下げるなど、屈辱」
「しかし、時の勢いは向こうにある。時の流れは絶対に変えられませぬ」
「うるさい。息子が、母親に口答えするか」
その直後である。何かを叩いたような鋭い音が聞こえたのである。
庄次郎は、肩をすくめた。
「聞けば、向こうは『源氏の長者』を授かったと」
秀頼の荒げた声が聞こえてきた。
(源氏の長者?)
 これには時代の説明を書かなくてはならない。
 家康は、征夷大将軍になった時点で『源氏の長者』という位を貰っている。この『源氏の長者』というのは日本に四つしかない姓(源、平、藤原、橘)うち天皇家に近い清和源氏(源頼朝が征夷大将軍に起源する)を統率する位置にある者が幕府を開き、征夷大将軍を任じられるのである。家康は元々「藤原氏」を名乗り、「藤原家康」であった。しかし、秀吉が死に、天下の趨勢が己に回ってくると、新田義貞の庶流を名乗り、源氏姓を持つ。これによって朝廷から征夷大将軍の位と同時に「源氏の長者」の位も貰い、後内大臣、従二位。
 つまり、この事は日本の政治・経済および軍事に至るまで全て家康に委託し、これは即ち政治的機軸そのものを豊臣家から徳川家に移した、という事になる。ちなみに、秀吉自身は関白であっても征夷大将軍にはなっていない。
 要するに、もはや豊臣家には政治的基盤はなく、また朝廷から見れば「右大臣の大名」、位は高いが外様の一つ、という捕らえ方である。外様でありながら官位の高い大名はいる。豊臣家もその内のひとつである、という事になる。

 この事を庄次郎自身は知るはずもない。だが、この豊臣家には政治運営能力そのものが欠落している事くらいなら察知はできる。この事が、襖の向こうで行われている出来事を如実に物語っている。
「兎に角、わらわは和議などせぬ」
 奥から襖の開いた音が聞こえた。袖をする音が重なって聞こえる。
「その者、近う」
庄次郎は襖を開け、膝を少し浮かせて、二、三歩近づくと座りなおした。
「もっと。近う」
二、三歩、歩を進める。更に。
「真田公の書状、あい分った。されど、今一度和議の件、待てと伝えよ」
庄次郎は、あくまで無表情に部屋を辞した。

 和議を待て、という秀頼の判断を伝えなけれなばらない庄次郎は非常に気の毒である。
 幸村はこの事を責めない。非は庄次郎自身にない高度な問題であるからだが、そうはいっても全てが同じ考えというわけでもないのが現実というものである。現に頭を小突いたり、罵倒する者はいないとしても、明らかに庄次郎の報告が雰囲気を一変させたのは云うまでも無かった。
 淀殿が開戦時の鉢巻をつけた具装束の身なりで、真田丸の本陣屋敷に来たのは、その頃である。
「真田殿」
と、平素全く聞かない言葉で呼びかけ、
「貴殿の御奮闘、遠く本丸にも聞き及んでおりまする。秀頼の為、ますますの粉骨砕身のお働き、ご期待申し上げまする」
と、聞けば怖気が立つほどの猫なで声で云った。
 幸村はその陰に自分が書いた書状を責めている事を見逃さない。
「いやいや、淀殿の格別の鼓舞、さぞかし兵達の士気も益々盛んになりましょう。秀頼様が、前線に御出馬されるならば、兵とてこの上なく盛り上がりましょうな」
「秀頼が出ずとも、御主等で勝てぬのか」
「戦とは、大将の才如何で決まり申す。その大将が城に閉じ篭り、全てを遮断させ、別世界におわす事こそ勝ちも負けになる。今更変わるべくも無いが、この事だけは言上仕りたい」
と幸村は平伏した。傍に居た根津も慌てて頭を下げる。
 淀殿は眉を引きつらせたまま、侍女達を従えて真田丸の本陣屋敷を去ろうとした時である。

 突然、本丸の方角からぐわぁん、という凄まじい轟音が響き渡った。
この音の原因は家康が予め備前島(現在の大阪市天満川川崎橋付近)と、京橋北に備え付けていた大筒である。
 この音は、当時、播磨(兵庫県)の有馬温泉に湯治に来ていた客にもその音が届いていた、というのだから現場では相当な轟音である事は云うまでも無い。
 しかも、その衝撃が惣構えの壁を乱反射させる事で、一層大きくなる。
「こ、これは」
「家康が国崩しでも使ったのでござろう。このままでは本丸が危のうござりまするな」
 幸村は、あくまで淡々と事実のみを語る。
「ひ、秀頼は」
「本陣天守にまで届きますまい。とりあえずは無事かと」
「ど、どうすればよいのじゃ」
「それは書状にて申し上げたとおりにて」
つまりは、和議を持って一時的に休止をするべきである。
「このままでは間断なく打ち続ける事でしょうな。それでも続けますかな」
淀殿が変節したのはこの瞬間である。