最期の真田 和議
作:AKIRA





  和議締結

 難波の地にどっかと胡坐をかいて座っている大坂城が支えている大坂の空は、濃すぎるほどの紺瑠璃を秘色(ひそく)で薄めたような藍色であり、またその地上で冷たい当世具足を身につけている兵達が吐く息は、まるでこの大坂の空の所々に点在する小さな積雲のように白い。
 この年の冬は特に厳しいようで、すでに天守の鯱には白い斑点のようなものがところどころに散りばめられ、その景色そのものだけを切り取れば上手い絵師ならば立派な大和絵に仕上がる事であろう。
 が、現実はそのような芸術品で終始する訳は無く、足軽達は大小さまざまな寒波をその全身の筋肉を凄まじいまでに振動させることで忍耐し、馬といえば寒さで両の鼻から夥しいほどに鼻水が垂れ流れ、鼻先を突き上げて嘶く息は白煙のようであった。
 幾琉もの旗指物は南に向かって平行に並び、時折吹き降ろしになると激しく波打ち、時には大きな軽衝撃音を鳴らす。
「和議は」
と、家康はせわしなく両の手を擦り合わせている。
「急げ」
急がねばどのような怨嗟が出てくるとも限らぬ、これが各地集団で起きればこれに乗じるかもしれぬ、といった。
 無論、水面下では既に双方の内通者を介しての交渉は始まっている。幸村や又兵衛、あるいは側近であるはずの重成までが全く知らない、いわば「極秘特記事項」、つまり第一級機密として首脳部のみで行われている。
 この間、砲撃は続く。かつて大坂城を退去させられた片桐且元は、天守に向かって砲撃を続け、内外からの圧力を無制限にかけていた。

 天守はまるで大きな禽獣に、その本能の赴くがままに牙を突き立てられたように穿たれ、内部が肉眼でも分るほどの大きな穿ちもある。尚、衝撃音と振動は続く。
「どうすればよい」
と、この時の淀殿は半ば狂乱しているといていいほどの狼狽振りで、見事に下ろしていた艶やかな黒髪は無残なほどに統制が乱れ、眼の焦点も既に定まっていない事久しい。
 真田丸から引き上ようとした時からすでに轟然と、大筒が火を吹いているからおよそ一刻半以上はこの音の豪雨は止んでいない。
「それは幸村殿が具申した通りでなければ」
この「幸村殿が具申したとおり」という言葉がどうも気に入らないらしい。
(牢人風情が)
という侮蔑した、あるいは高級大名の稚拙なプライドがそういった言葉を聴く上での大きな障壁になっているのは云うまでも無く、またそれが自身の内在している意見と一致しているのも面白くなかった。
 それほどに単純に幸村の意見が正鵠を射ているという事なのだが、淀殿にとってみれば不愉快であろう。
 城下の民衆は疲労が限界までに蓄積され、最早、城全体が鬱屈とした暗雲を垂れ込めてうな垂れているような、そんな暗然たる困憊と轟音によるストレスが民衆を「豊家への怨嗟」に変貌を遂げようとしている。
「民の気持ちの為にも」
「民などはどうでもよい。ぬしらが幸村、幸村と云うておるのが気に入らぬ。それほどにまで幸村は大した男だと申すのか」
 ここが男女の種族的な違い、といえばそうかもしれない。男性はたとえ気に入らない上司、あるいは部下であってもある程度は許容できる範囲を持とうとする。腹蔵なく語り合えばその瞬間から関係が反転するほどに男性の人間関係というものは案外あやふやであるが、女性の場合はそれよりも先ずに感情が先立ってしまう。つまり感情的に拒絶を示してしまえば、どれほどの理性に叶っていようともその意見を拒否したがる。それが自己の意見と合致していても、である。が、これは飽くまで「違い」なのであって、「優劣」という能力の上下、あるいは賢愚の端的例ではない。
 が、この場合は一日決断の早さが後の権勢を決めるものであり、また有利不利の差がそれほど小さく収まるのだが、そのこと以上に感情が先立っている。
 そういう意味においても総指揮官が秀頼でなければならない。古今において女性が軍事的指揮に立つことは無く、またそれを勤め上げるほどに胆力は備わっていない。
 これはあくまで男女の胆力の質そのものの違いであり、いうなれば淀殿はこの大坂城から退去するべきであったであろう。が、今は大坂城にいる。
「それでも幸村殿の仰せの通りに」
といったのは意外なことに渡辺内蔵助であった。主戦派であったが、先の鴫野の時にはろくに干戈を交えることなく退却し、誹りを受けた。
 が、内蔵助には別の根拠があった。
 一つには、弾薬、火薬の深刻な不足である。
いくら、事前に過剰なほどに供給していたとしても補給そのものがなければいつかは底を尽く。しかも間断なく射撃戦を展開していればその目減りする速度は坂道を転がるようにして速度を上げていく。長期戦になればなるで不利である。
 もう一つは士気のすこぶる低下である。
当初は決戦という、一種の劇作的昂奮によって士気はにわかにあがっていたものの、実際に展開されるや劣勢の報告のみばかりで、改めて烏合の衆の脆さを露呈してしまった。こうなると、士気は両翼を撃たれた鳥のようなもので、下落するしかなく、その速度も重力と重量による加速で早くなり止まる所を知らなくなる。
「故に」
と内蔵助は続ける。ならば、一旦引き分けて勢力を整えて後雌雄を決するべきではないか、と懇願した。
 淀殿は、なおも逡巡している。内蔵助は理論を立てたが、結果としては幸村と変わらない。その事が、固陋になっている原因でもある。
 その時である。またも轟然と衝撃音が炸裂すると、梁が割れて急落下するや、逃げ遅れた侍女に直撃し、即死した。
 脳漿をぶちまけ、眼が飛び出ている肉塊を見た瞬間に、淀の理性の箍が外れてしまった。
「和議じゃ、和議じゃ」
と、まるで一文真言のように唱え始めた。
 和議の交渉は急激に加速し始めたのは、この背景があるからである。

 一方の徳川軍も。
あまり、いい状態ではない。この冬の寒波は非常に厳しく、しかも城の南方は奈良街道と紀州街道、四天王寺が点在するだけで、後はその身をもって寒波に耐えるしかない。その上、堅牢な城塞とその最前線にある砦から向こうにはどの部隊も侵入できないでいる。
 こちらの士気も低かった。
 特に薪の不足が深刻で、足軽はこぞって槍を折ってそれを燃やし、あるいは敵味方を問わず死体から衣類を剥ぎ取ってはそれを火の中に入れるなどして燃やせるものは全て燃やしながら、なんとかその日をやり過ごしていた。
「だから、和議なのだ」
とこの老人は言う。無論、戦前から
(決するとすれば夏である)
という予ねての持論は揺るぎない。家康にとってすれば、この一連の冬の時期に起こした戦争は、まだ緒戦にしか過ぎないわけで、そういう意味においても本格的な城攻めはなるべく最小限で留めておきたかったのが本音であろう。
 が、予想外に被害が大きすぎた。突出した部隊に本隊が引きずられた格好で本来ならばもっと抑えられて然るべき被害を余計に捻出してしまった格好になった。
(急がねばこちらも危ない)
 幾ら幕府という新しい政治中枢を建造したといっても、まだこの時代に生きた武将達は、後世のそれとは比べものにならないほどの血気と老獪さを持っている。このときに引き際が評価を決し、ややもすれば如何によっては折角の統一が無駄になってしまいかねない、という危険性も多少ならず含んでいた。

 常高院という女性もまた、奇妙な生涯を送っている。
常高院、俗名はお初である。近江小谷城主浅井長政の次女であり、京極高次の正室であるが、この京極高次という武将は世にいない。
 姉は秀吉の側室で、妹は今を時めく幕府の将軍の正室である。この常高院はその板ばさみにあいながらこの調停を進めていかねばならない。
 講和場所は京極忠高の陣、京街道の大和川沿いである。近くに片桐且元も布陣しており、北方の要と共に、例の大筒の砲撃地点でもある。
 交渉場所を其処に選んだのは、京極忠高はお初、つまり常高院の息子であるからで、交渉しやすい場所であったのであろう。
 豊臣方の交渉人は常高院、徳川方の交渉人には阿茶局と本多上野介(正純)である。常高院の護衛として重成が常高院の隣に座っている。
 四者がそれぞれの思惑と疑念の中、交渉は始まった。

 現代において戦争の終結定義というのは終結宣言をメディアに流し、一方的に切断する事によって一応「終結の形」を迎えるのかもしれないが、少なくともこの時代からかなりへりくだる第二次世界大戦までは条約締結という形をとって以降の統治を「条文」という明確化した文章、あるいは記録を根拠として以降その条文に沿って行われる。
 この場合、その条文というのが、

 一.大坂城は本丸以外は全て城方が破壊すること。
 二.大野修理大夫、織田有楽斎の息子を人質とし、淀殿は人質としない。
 三.豊臣方についた武将、牢人に関しては一切処罰しない。

というものであった。この申し合わせ事項の確認及び討議項目としてこの日は両陣営ともに穏やかに終わった。というより、単なる顔合わせに終わったのである。
 ただ、紛糾したのはこの後である。
この三箇条を持って重成と常高院の二人は本丸に戻った。
 諸将が整然と居並ぶ中、秀頼の左傍にいた重成が滔滔と三箇条を読み上げた。
その場に、幸村も又兵衛も居た。無論、大野以下の云わば中枢の全てが揃ったのである。
「・・・という条件を飲むか否か、であるな」
と秀頼が重成の方に顔を向けた。その眼は血走っている。
「で、御大将は」
「無論、これは罠。たとえ心血の一滴になろうとも決戦のみ」
敢えて重成は秀頼の事を「御大将」と云った。あくまでこの西軍(というには烏合であるが)の統率者は豊臣秀頼以外には無い、という意思表示であった。
 その御大将が「決戦」と唱えた以上、結論はそうであらねばならない。
が、先に述べたとおり、現実として秀頼自身が最終決定を下す人物ではなく、この時も秀頼の発言は影響力を持たない、道化であった。
「決戦とは、相成らぬ。私がさせないのだ。講和せよ」
という甲高い声は、秀頼の隣から出た。
秀頼の顔が歪み、持っている扇子をへし折らんばかりに握り締めていた時である。
「それがしも、淀殿の申す事に賛同いたす。大将、ここは一時和解を図る事こそよろしいかと」
という声がしたので秀頼がその人物を睨みすえようとして、眼を見開いた。
 幸村だったからである。
「さ、真田殿」
「大将、よろしいか。この度の戦、万に一つの勝ちを拾う事はこれ即ち山中にて一片の金を探す事と相違ござらぬ。なれば、一度ここは引き下がりて後、力を戻した時に玉砕決戦に臨めば、あるいは、拾う勝ちもあるというもの」
と幸村は秀頼に云ったが、あくまで幸村のこの言葉は幸村自身の真意には程遠い。なぜなら、この戦に賛同して味方につくべき福島正則、平野長泰は安芸から動けず、加藤嘉明や脇坂安治、あるいは糟屋武則はすでに徳川軍に入り、加藤清正はすでにこの世に居ない。
 つまり、この時点で太閤恩顧、あるいは政治的同盟関係にあった諸大名は総じて秀頼を見限ったのである。時流、といえばそれまでなのであるが、秀吉が真に信長の事業を継承していたのならば、無論現在のような状況には無く、よしんば同じ状況になっていたにせよ、家康の態度に関して賛同する大名は少なかったであろう。
 尾張中村の百姓と、その領主の感覚の違いであり、階級的思考の違いなのかもしれなかった。それだけ秀吉は政局には聡くても、実際の政治範囲は地方数ヶ国というのが現実の政治領域なのかもしれなかった。

 珍しく淀と幸村という、相反する二つのベクトルが同じ軸を指す事は少なからずの動揺をもたらした。
 特に又兵衛や重成といった、幸村に理解のある武将達の反応は様々で、明石全頭や御宿政友(官兵衛)はただ無表情に前方を凝視し、又兵衛の眉間に俄かに皺がより、あるいは重成が持っていた和議の盟約書は音を立てて震えていた。
「殿、真田殿もああいっておられる。ここは和議をした方がよろしいかと」
という淀の含み笑いは、秀頼の憎悪と武将達の複雑な感情を巻き込んで舞い上がった。

 新月という、月と太陽との黄経が等しくなること、つまり月と太陽が同じ方角を向いている為に影の部分が地球に見えることであたかも消えてしまったように見えるこの現象も、現在では豊臣家の現在と未来を表しているように見えて不気味さを増している。
 無論、どこの庭先も回廊も、蝋燭のかすかな灯火を持って案内とせねばならない。
 重成はこの幸村の部屋に続くはずの回廊が、時折、悠久の闇への道に見え、また灯篭がその標になっているような錯覚を感じてしまう。
 誰しもが、徹底抗戦を具申するであろうと予想していた幸村が講和を勧めるという現実に重成は戸惑っていた。その真意を知りたい、という事である。
 怒りとも、困惑とも、あるいは戸惑いといったような感情ではなく、ただ幸村の真意を知りたいという欲求のみを以って幸村に会おうというのである。
 まだ時刻は酉の刻(午後六時)をまわった程であるが、冬至が近くなってきたのと新月とで灯篭以外の光源は無く、少し外に眼をやるだけで漆黒の闇が広がっている。
 重成は、ただ無表情に幸村の部屋に向かった。幽鬼のような表情で、ただ一心不乱に、まるで向かう事が大目的であるかのようであった。
 老人はただ、地図を見ている。
自ら和議を賛同しただけに、この後迎えるであろう夏の激戦に向けて、あたかも高速で一人指しをするかのように、ただ地図を見ていた。
(若いのが、来たのか)
その影は見えないが、明らかにそれとわかる気配である。
「そちらにおらずとも、入ればよかろう」
と、幸村は敢えて上座に座った。平素、たとえ背中を見せている位置に座っていたとしても微々として動かない男が、この時は何故か太刀を置いている床を背にして座りなおした。
「失礼仕る」
一度も顔を上げようとせず、ただ艶やかな黒い髪を見せながら、にじりよった。
「艶やかな黒だな。昔の己を思い出す」
「つきましては、真田様。昼の詮議、いかなる所存」
「簡単だ。どの道勝ち目は無い。上が、あの調子ではな。一時凌ぎ、と云ってしまえばそれまでだ。だがその合間にも、秀頼公と御主だけでも薩摩の加護島に落ち延びてもらいたいのだ。そこで再起を図れば、と思っている」
「つまりは、負けろ、と。大将に逃げろと仰せあるか」
という重成の両眼に毛細血管が明らかに浮き上がりっている。時折顎のえらが蠢いている。
「そうだ」
でなければ豊家はどのようにして血を残す。この太閤の血を決して絶やしてはならぬ。絶やさぬ事こそが、あの家康に生涯の心胆を寒からしめ、そしてその豊家の血によって、再び民が立てば、徳川の思い通りの世にはならぬであろう、と云った。

 花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きものいたり加護島へ

という童謡が現代の鹿児島県谷山市に残っている。幸村の生存伝説を歌ったものであるが、この歌の真偽はともかくとして、「血を残す」事が何より最優先された行為であるこの時代、「血縁世襲」はもっとも民衆を動かす動機であり、またその大名が高ければ高いほどその人格は神秘性を帯び、またそれは時間を置く事で更に高度に純化され、その上言動にほんの少しの宗教性を帯びさせてしまうだけで、民衆はその人物に催眠をかけられたように妄信してしまうのである。
 この事を一番如実に物語っているのが、これからおよそ四半世紀後に起こる「島原の乱」である。キリシタンである天草四郎時貞という青年が数万もの民衆を率いて四ヶ月半という長期の籠城を行った戦である。この天草四郎という青年は出生は史料にあるものの、実際の彼自身の史料は無いに等しい。が、数万という膨大な民衆が一人の青年のもとに幕府という、たぶんに思想や信教において敏感に察知する陰湿な政治組織に頑強に抵抗できた事象を見ても、天草四郎という謎の青年の神秘性に希望を見出していたのかもしれない。余談。

 とかく、幸村の主張はあくまで「血統の保存」の為の和議である。
が、若く血気に逸る若者にはこの幸村の考えが悠長すぎる、と思ったのは自然な傾きであったといえるだろう。
「今、徳川を討たねば機会を永久に失するでしょう。そうなれば、真田様の仰せあることは」
「若造!!分っていうか」
幸村の怒声が響き渡った。戦場で鍛え上げた喉であるだけに、傍に居た重成の心臓は暫く激しい動悸に見舞われるほどであった。
「いや、これは失言。お許し願いたい。だが、今のこの状況を見て、果たして御主の申す事が可能であろうか。たった六十五万石の大名が、孤立した中でいかに戦う。今豊臣家は天下の謀反人になっている。誰が助ける。誰が味方になる。御主ほどの聡明であれば分りようもあろうが。大助の師匠がその様な事でどうする」
「・・・」
「御主も秀頼公も、家康より若い。秀忠よりも若い。秀忠の息子は幼い。もし、万が一付入る隙を見出すならば、その時であろう」
だから、和議なのである。

 講和条件を豊臣方が飲んだ事で、締結に関する支障はすでに皆無であった。
双方の使者を以って大坂城と家康の本陣である茶臼山にそれぞれ赴き、誓書を交換するという実務事項まで合意した。ほぼ、講和は事実上成立したのである。
 講和が成立すれば、誓書が交換されるのが通例であり、その使者として重成と郡宗保という老将の二人が、秀忠のいる岡山に向かった。
 二人の来訪があったのは、十二月二十一日である。この時、大地の模様は白と黄土の斑模様で、雪こそ降っていなかったが風が冷たかった。
 悠々と本営に着いたのは、丁度昼をすこしまわろうか、という所であった。
「豊臣家家臣、木村長門守重成である」
と、その戦場で鍛えた声で呼ばわると伝番ほどであろう武者姿の人物が出迎えた。
 軍議で使った長机を挟む形で座った。
秀忠の隣には家康が腰を下ろし、丁度重成と向かい合う形になっていた。
「つきましては、講和の条件を記した誓書をこちらに」
と、誓書が出された。その間、固まったような空気のみが圧し掛かっている。
家康が、親指の腹を匕首の刃に当て、血をにじませると血判を押した。
「・・・。薄い。家康殿、もう一度」
と、重成は無表情に誓書を返した。その表情に感情は一切見当たらなかった。
「なっ、大御所に対して失礼・・・」
と秀忠がその甲高い声で怒鳴ろうとした時である。
「若いのに、よくやる。確かに薄い。押し直そう」
秀忠が制止しようとしたが、すでに家康はもう一度親指を、今度はきつく押し当てた。
「これで文句はあるまい」
「・・・まこと、無礼であった事をご容赦願いたい。これも、役目ゆえ」
と初めて重成に多少の感情が現れた。微笑であった。
「まことに豊家には勿体無いわ。それにしても、惜しいな。若いの、こちらに来ぬか。出羽でも近江でも知行をやるぞ」
「お言葉は嬉しゅうござるが、わが身命はすでに秀頼様にありますので。では、また夏にでも」
と、重成は共である郡宗保と共に本営を辞した。
「父上。あんな若造に知行などと・・・」
「ふん。関ヶ原の折に間に合わなんだおみしゃんにくらべりゃぁ、あっちの方がましだ。・・・しかし、あれほどの者があの程度の扱いでは、上はよほどの阿呆共だ」
といって家康は、憤りと無念さの入り混じった複雑な表情を浮かべていた。
(夏にでも、のう)
と、家康は灰色の髯を蓄えた顎を片手で扱きながら、重成の言葉を反芻していた。

 無事に誓書の交換が成立し、講和は成功した。
が、家康には気がかりが一つだけあった。
 大坂城の本丸以外の解体がいつ行われるか、であった。
誓書に則ると、この事項は城方、つまり豊臣家が解体工事を行う手筈になっている。
つまり家康は豊臣家が「解体する」という口約束を信じて守らねばならない立場にある。
それが、家康にとっては苛立ちの基点になっているのだが、それをこの男は持ち前の忍耐強さで耐えている。
 元々、耐え忍んで天下を獲ったような人物だけに我慢強さは他の大名や、あるいは天下に近かった人物よりも勝っている。
が、年齢が年齢だけに出来る限り早く決着をつけてしまいたかった。事実、この大坂ノ役が終わった直後に彼は使命を果たしたかのように、突然の死を遂げるのであるが、彼が松平忠明、本多康紀、同忠政らに普請奉行を任じているあたり、すでに後の事を予感していたかもしれない。
 無論、任じられた三名の武将は、よもや上の事を見抜いていたはずも無かろうが、家康から本多上野介を介して齎された命令は、「二の丸及び三の丸の解体、惣構えの棄却、堀の埋め立て」であった。
「それでは、豊臣の方から物言いを付けられた場合はどうされる」
「『どうも手こずっておいでのようであるから、手伝わせていただく』とでも言えばよい。どうせ、物言いをしても実際攻めるほどの力も無かろう。向こうの言い分など聞かなくてよい」
これが、松平忠明の質問に対する本多上野の回答であり、これはそのまま家康の意思でもある。
 工事が始まったのは十二月二十三日である。正しく講和直後に工事は開始されたのである。
 勿論、豊臣家もこのまま黙っているわけではない。
この事を知った秀頼はすぐさま大野治長を現場に急行させ、抗議に向かわせた。
「この工事は一体何であるか。城の棄却は、我らが城方という誓書を忘れたのか」
と、大野は本多上野に詰め寄った。飛沫を飛ばし、眼は血走っている。
「いや、なに、まぁ・・・その、なんだ」
「はっきり申されよ。家康殿の差し金であろうが、そちらは殿を信じておられぬ、とこう申しておるようなものぞ」
「では、申し上げるがそもそも講和の条件は即刻、という決まりであったはず。無論、この事は常高院様も了承済みである。にも拘らず一向に進んでおらぬのは、人数不足であろうから我らの人足も手伝わせて一刻も早う終わらせる為に、といらぬ節介であろうが、礼はあっても、それほどに物言いを云われる謂れはござらぬ」
この間にも堀は埋められ、構えは壊され続けている。人足の怒号や、大きな破壊音や、衝撃が二人の居る陣所にまで響く。
「とにかく、後はこちらでやるゆえ、即刻止めていただきたい」
「いやいや、そう遠慮なさらずとも」
と、押し問答しているうちに大坂城を纏っていた巨大な石と土、そして漆喰で作られた外套は引き剥がされた。その間わずか四日である。
 この時、家康は伏見に、秀忠は本営にいる。
家康が伏見にいたのは、表向きこそ御所にいる後水尾天皇に講和が成り、停戦状態になった事を報告する為なのだが、実際は大坂城が丸裸にされるのを見届ける事と、豊臣方に不穏な動きを牽制する威嚇行動でもあった。秀忠も同様であるが、秀忠の場合はその最前線に居る事で、堀の埋め立ての監視も兼ねていた。
 二月に入り、梅の蕾が漸く大きくなり始めた頃に、家康はようやく重い腰を上げ、駿府に戻る。一方の秀忠も同じくして江戸に戻る為に陣容を整えた。

 この一連の軍事的衝突を、後の史実では「大坂冬の陣」として長く語られ、この幸村を始めとする様々な生き様が戦国時代という、一つの時代転換の中でも最もスパンが長く、そして苛烈であった時代の最期の徒花として大きく結実した。
 が、時代は最期の血を欲している・・・。