最期の真田 夏の陣 1
作:AKIRA





 噂

 惣構えと二の丸、そして三の丸という一種の光背を失った大坂城には、最早太閤秀吉以来の栄光など既に塵芥の類と化し、ただ広がるのは無残に引き剥がされた防御力が一切無い、単なる殿(しんがり)だけである。その殿は、やがて怒涛の如く押し寄せるであろう最後の戦の波を待ち構えんと、腰を据えている。

 年明けて、三月の上旬である。
 このところ、家康の状態が思わしくない。
二月に伏見からこの駿府城に戻ってくるや、すぐに風邪を引いてしまった。
「あんな寒いところに長ぎゃぁこと居ればひいてしまうでな」
と、軽口を叩いていたのだが、遂に本格的に寝込んでしまった。
 特に憂鬱なのが、関節痛である。
若い頃には風邪を殆ど引く事が無いほど健康管理に長けていた家康であったが、さきの戦による長期帯陣と自身の老いが、病気に対する抵抗力を衰退させていた。
 肘の屈伸だけでも鈍痛が走り顔を歪めてしまう程で、厠のために起立するだけでも三人ほどで抱き起こされなければ上体を起こすことすら困難なほどであった。
それと同時に気だるさと熱から来る嘔吐感とで食事も摂れず、寝込んでいる日々が続いている。
 そんな時期に、京にいる板倉勝重から文が来た。
(こんな時に)
間の悪い事をしたものだ、と家康は西の方向に少し眼をやると、重い上体を起こし、腰の痛みに顔をしかめながら文を読み始めた。
「大御所の御体優れざるを、小生、遠き京より深く思い候」
という一文から始まっている。
(そう思うならこんな文なぞ寄越すな)
「されど、大坂は冬の一件来埋め立てた堀を掘り返し、深いところでは肩の辺りまで掘り起こされ、すでに幾つか柵門すらも建てた由。すでに大坂の一存、すでに疑うべくもなく候事申し上げ候」
というくだりを家康が読んだ時、
『では夏にでも』
と、かつて誓書交換の場で重成が云った言葉を思い出した。どうやらその通りになりつつある。
「で、向こうからは」
と、このところ無休で傍に居た家来に尋ねたが、返答は無いという。
(まあ、これで最期だ)
という気持ちが家康には内在している。この戦が終われば名実共に自分が立ち上げた江戸幕府という新しい政治機能が全国展開され、戦乱の無い時代が始まるのである。その為に立ちはだかる障害は取り除き、より確実に新時代を迎えなければならない。「時代の最期の血」という、いわば時の神への禊を、もしこの戦の血で足りなければ、自身の血を持って補ってもいい、とさえ考えている。事実、この戦の直後に家康は死ぬのだが、もしかすると秀頼親子を始めとする豊臣家の血では足りなかったのかもしれない。
「時代は動いた。・・・信長様の考えには些か異なるかもしれんが、漸く全てが終わる」
 前述した通り、家康は信長ほどの急進性を持った人物ではない。が、この極端な保守でもなく、また極端な急進、あるいは革新性でもないその中間である「中庸性」こそが、この時代に受け入れられたのであり、そしてそれが江戸幕府という些か陰湿ではあっても世界史上でも稀有な長く戦争の無い時代へと入っていくのである。
 梅が紅白様々な彩りが駿府の城をより優雅にみせている。漸く時代の春が訪れた。

 米村権右衛門という人物が大坂から遥か駿府に東下したのは、丁度家康が板倉勝重から手紙をもらった直後である。
 すでに、大坂から京にかけては再戦の噂が巷説となっていて、この事には朝廷も関心を高めていた。中には朝廷内において、すでに豊臣に与するように諸大名に密書を届けさせる、という大胆な者もいたようで特に京では上を下へも置かぬ騒ぎになっている。

 この事を一番苦慮したのが大野修理治長である。
(誤解だ)
と、この男は叫びたかったであろう。武辺の才能も、あるいは智謀の才能も疎いが、現実と政治感覚にはすこぶる強い治長にとって家康と干戈を交えるという行為は、自殺以外の何物でもない。この豊臣家存続の為にはなんとしてでもこの噂だけは払拭しておかねばならない、と考えている。すでに京にまで広まっている、という事象を考えると、京の板倉勝重にはすでに耳に届いているという事は、駿府に居る家康と江戸に居る秀忠に向けて使者がすでに出立している(この時期にはすでに出立し、家康には耳に届いていた)だろう。
 しかしそれ以上に厄介なのが、朝廷である。
当時、朝廷内の風向きは二つあり、一つは「私戦」として介入しなかった者。
 そしてもう一つが、「豊臣家重視」である。特に後者の場合、後水尾天皇が豊臣家に対して良好な関係を築いていた為に、積極的に「再戦」を起こさせ、勝利させる事で朝廷の威厳を保持させるという目論見もある。現に幕府は、京に監視機関を置く事で朝廷の動きを監視し、報告させている。
 確かに朝廷を後ろ盾にする事は政治的には良としても、現実に今度攻められれば一陣の風の前の木の葉のように吹き飛ばされ、砂上の楼閣の如くもろくも灰塵に帰してしまうだろう。それは治長が全生命をかけて完遂させねばならない「豊臣家存続」という、いわば至上命題を破壊してしまう事であり、また治長自身の存在意義を全否定する事でもある。
 つまり、「再戦」は彼自身にとっての存在意義の破壊であり、またそれは彼の存在そのものが抹殺されてしまうほど(彼自身には)の恐怖であった。
 この事を何としてでも阻止せねばならず、その使いとしてこの米村権右衛門は登場するである。
 が、この米村権右衛門自身は、れっきとした武将の出ではなく元々治長が傍に置いていた小間使いで、出も農民である。故に「米村」としたのだが、この人物も取り立てて能力があったわけではないが、一応の「家老」という立場に立っている。人材の乏しさが浮き彫りになっていることが明白に窺える。
 大坂から、家康のいる駿府まではおよそ十日余りで着く。米村権右衛門が駿府に着いたのは、三月二十四日である。すでに、家康には耳に入っている。

 この時期になってくると、さすがに家康の病状は改善されている。それが自分の調合し続けていた薬なのか、あるいは自己治癒力なのかはわからないが、とにかく家康の体は関節痛と気だるさは残るものの、普段の生活には十分に耐えうるほどに体力も戻り、食事も流動食とはいえ、摂り始めている。
 権右衛門は書院に通され、しばし待った。
暫くしてこの城の主である家康が小姓を従えて現れた。
 この時の家康の表情はいつもと違う。肌に艶やかさが戻り、足取りも決して重くなく、また背筋の緊張によっていつもより肩幅が大きく感じられた。当時傍にいた安藤次右衛門ですら、
(風邪と云ったのは嘘ではないか)
と疑ったほどである。
「豊臣朝臣米村権右衛門と申しまする」
と、平伏した権右衛門に家康は軽く頷いた。
「京よりなにやらよろしからぬ噂がちらりと聞こえておるが」
と、家康は穏やかな口調ではあったものの、その眼はまるで白洲に引き出した罪人を詮議するが如き鋭さと威圧を与えていた。
「い、いえその様な事は決して、決して」
と生来が農民であるが故の小心さが擡げてしまったのか、権右衛門は顔を上げようとしない。
「では、京のあの噂は何とする。『火の無い所に』と云うぞ」
「いえ、わが大野修理大夫もそのような心は一切無く、ただただ豊臣の安泰のみを」
「ほう。では、淀殿の振る舞いはどうする。年賀の折にも江戸に来ず、未だ『豊臣を以って天下の主』という動きが目立っておるようだが」
という家康の言葉に、権右衛門は何度も額を畳に擦りつけるしかなかった。
 この時点で権右衛門は完全に家康に呑まれてしまっていた。最早権右衛門の頭の中には些かの理知的精神構造は存在せず、ただ家康の言葉(それが雑談程度のものであっても)に拒否を示す事が出来なかった。
「・・・まぁ、ついてはその事を免じても良い、と思うが」
と、家康は先の『噂』話に戻り、
「どうであろうか。大和か伊勢に国替えをし、大坂を天領とするのは」
と家康が本題に切り出したとき、権右衛門の頭は漸く通常構造に戻りつつあった。
「く、国替えですか」
「そうだ。大和か、伊勢。それ以外には無い。牢人どもも未だ大坂から去らず、その上もう一度堀を作ろうとしておる、と聞く。公儀に対し恭順を示すならば、この事、くれぐれもよしなに」
と、家康は言い残して書院を出て行った。

 時に権力の喪失、という一種の人間性を蝕む精神的麻薬による禁断症状は思いにもかけない行動に走らせてしまうものかもしれない。
 権力とは、即ち神への限りなき接近でありまた、限りなき破滅への接近でもある。若き野望を持って権力に立ち向かう様は一種の憧憬を伴う抒情詩的英雄の気分であるが、いざその野望が半ば到達し、かつ権力を握るという予めの到達点に着地した時、いきおいその抒情詩的英雄は突如として変貌し、その様はまるで何かの幻影に脅かされてるようにその猜疑心と、焦燥感を伴った、ある意味においては精神耗弱状態にある重病患者に見紛うほどに、精神的にやせ細ってしまうのである。いよいよその精神の摩耗に絶えられなくなった時、権力者はときに我々常人がはるかに及ばない思考を持ち、行動にでるのである。
 今の豊臣家の中がまさにその状態であった。
 ――― 徳川家康を暗殺せしめよ。
という暴論が豊臣家の中で起こり始めたのは権右衛門が持ち帰った、
 大和もしくは伊勢への国替え
という屈辱的ともいえる交換条件を持ち出した事より起こった。
 この時、家康はすでに駿府を発って尾張に向かっている。第九子である尾張藩主義直の婚儀の為である。が、この時の家康の軍容は兵一万五千に、国友鍛冶に作らせた百五十匁(一匁当たり三.七五グラム)の筒十挺、百二十匁筒十挺、百匁筒三挺の他に、駿河で作らせた大砲を率いているというからすでに臨戦態勢に整えている事は明白であり、またそれは暗に尾張に留まらず大坂に向かう事を指していた。
 更に家康は美濃、尾張、三河などの家康途上にある大名達に通達し、先行して鳥羽・伏見に陣を構えさせ、その上彦根藩にも通達、藩主である井伊直孝は伏見に向かった。この間、わずか二日である。
 この間にも豊臣側は使者を出しては突き返され、出しては難題を吹っかけられている。いわば家康側が強引に作り上げた「既成事実」に豊臣家は踊らされ続けている格好なのであるが、なにも豊臣家の方も気づいていないわけではない。
 追いすがるようにして幾度にもわたって使者を出したり、あるいは暴走しようとする武断派を抑え込んだりと、涙ぐましいまでに努力をしていても一向に結実しないあたり、うがった見方をすれば、逆巻く渦潮に飲み込まれる木の葉の如く家康が作り上げた時代という奔流に無駄に抵抗している、あるいは凋落という客観的事実を飲み込めない現実認識に乏しい、とまで書いてしまうと行き過ぎかもしれないが、兎も角もこういう現実認識の不足が今の状態を招いている、という事も否めない事実ではある。

 その最中である。
この夜、大野修理は僅かな側近を従えて自分の居館に戻ろうと、急いでいた。
(月の出ぬ晩は不吉じゃ)
周りに光源となるものは提灯の明かりが僅かに代用になる程度で、それ以外はまるで大きな外套に覆われたように側近の顔も判らないほどに暗かった。
 修理は嫌な感触を感じ続けていた。何か、と具体的に求められても詳しくは語れないのだが、まるで空気が沈滞化してしまったかのような妙な緊張感が修理自身を覆っていた。
「急げ」
城内でも、あるいは世間を見ても暗愚でありまた主君を存亡の秋にまで追い詰めてしまったという無能の幹部の代名詞になりつつある自分(遠因はあった)が、命を狙われないはずがない。ましてや主君である秀頼自身がこのところでは牢人勢に重きを為しつつある今、幾ら淀の存在があったとしてもとても身の安寧にはつながらないのである。
(これほどまでにわからぬのか)
 すでに感情、という理屈やあるいは政治的判断といった理知的行動ではない、さらに本能にちかく正常思考がない(と修理自身は思っている)状態での戦争に突入しつつある。戦争というものは軍事力を用いた政治的緊張である。とすれば、その軍事力の行使、つまりは自衛権の発動とでも云うべき戦争の発動には些かの感情も差し挟んではならない。だが、現在の状態ではどうやらその方向に流れつつある。それを押し止め、正常思考に戻さなければならないのが自らの役割であるある事をこの官僚肌の男は(自分なりにではあるが)理解している。
 が、周囲は必ずしもそういう評価ではない。
 ――― 怯懦者。
いくじがない、というのである。武断派閥、特に先だって本町橋で夜討ちを行った塙団右衛門らはそれを公言してはばからず、他の者も口にこそ出さないものの、その端々の視線や挙措動作などで察しは付く。実弟である主馬守治房からも何度も訴えが来ていたり、とにかく登城すれば戦の催促ばかりの毎日である。
 無論味方は少なからずいる。御宿勘兵衛などは軍事よりもまずは最善を尽くすべき、と積極的ではない不戦派である。他にも古田織部などが家康に対して使者を送っている。
 が、城内は一丸玉砕、という覚悟を決めてしまっていた。無論、そうなってくると修理は最早不要である。単に流れをせき止めようとする「邪魔者」でしかない。

 月が厚い雲に覆われ、しかも湿り気を帯びた風が一陣修理を載せた籠に直撃した時、事態はいきなりの場面転換を強いられた。
 複数の軽い叩音が次第に大きくなっていきなり止んだ。刹那、何かが折れる鈍い音がするや否や何かが籠にぶつかったのである。
 すでに籠の揺れは止まっていた。
「何事やある!!」
と修理は籠の中で叫んでいたが、呻き声と衝撃音、荒い息だけが聞こえてくるのみである。
 籠の障子が開き、屋根が大きく跳ね上がると修理は首裾を捕まれ、軽々と引っ張り上げられてしまった。
「大野、修理亮であるか」
全身を黒い布で覆った襲撃者は低い声でたずねた。修理は押し黙って襲撃者を睨みつけている。
「もう一度問う。大野修理亮であるか」
と今度は血塗れた刃を修理の顎の下に押し付けた。ぞくり、と残酷な冷ややかさが全身に回った。
「そうだ、豊臣家家臣大野修理亮治長である。家康の手の者か」
黒布は答えない。ならば、城内の手の者か、と聞いても答えない。容貌もまるでわからず、声にも聞き覚えが無い。
「・・・。死んでもらおうか」
と顎に当てた刃を引ききろうと柄に力が入る。皮膚から血が染み出てくる。しかし、刃は動かなかった。
黒布は城門の方を見つめていた。すると、黒布は顎をしゃくった。配下らしき数人がそれぞれ刀を収めつつ黒い風となって去っていった。
修理は顎の付け根を抑えた。生暖かい液体が手のひらに伝ってくる。
乱刃の最中で果てたのであろう、配下と思しき死体の顔の布を剥ぎ取ってみたが、何者かは遂にわからなかった。

 昨晩のこの椿事は当事者間の全ての人間に何らかの波及効果を与えたといっていい。
無論、この事は城内の人間ほとんどに伝わっていた。
 ――― 家康か。
 ――― 牢人か。
という些か野次馬のような論争が起こった。
実は、この犯人あるいはその主犯格は現在でもわかっていない。「駿府記」では、
「之により城中諸牢人互ひに疑ひ、騒動に云々」
と云う記述がある。家康自身は言明していないのだが、一方で「日本耶蘇教史」によれば、
「諸人皆内府(家康)の所為なりとし、後に及びては、最早何人も之を疑うものなし」という記述がある。という事は少なくとも城内ではない、とこの史料は述べているのだが、実際に家康の攪乱なのか、あるいは城内の内紛なのかは定かではない。
 兎に角、自軍の最高責任者の一人が何者かによって襲撃され、傷を負わされたのである。この事象による城内への政局的影響は計り知れない。
その「何者」というのが家康側なのか、あるいは城内の者なのかがその影響を助長させてしまっている。
(やはり、城内にいる)
と、修理はやや性急すぎる結論を出していた。しかも敵対関係にある、という事は実弟まで範囲を含めて考えなければならない。これでは城内の殆どが犯人と考えられてしまう。しかも、犯人に関する手がかりは皆無といってよく、しかも修理の出した結論自体がたぶんに感情的であり、また根拠も全く乏しい。そんな中にあって尚、「城内潜伏論」が修理の臓物の奥深い所で駆けずり回っている。
 が、修理自身が容疑者(と本人が断定している)を捜索はしない。あくまで、腹の中に渦巻かせているだけである。
 そんな本人の邪推ともいうべき思惑とは全く別次元の政局で、事態は完全に変わってしまっていた。
 事態、というのはこれまで豊臣家が対幕府に打ち出してきた平和外交から一転して武力行使を辞さない、いわゆる強硬外交とでもいうべきベクトルに振り切ってしまったのである。
つまりこれによって、豊臣家は完全に幕府に対して対決姿勢を打ち出したことになる(もっとも家康も暗にそれを望んでいたのだが)。
兎に角、豊臣家が存続する術は現在の幕府を討ち果たし、新たな政治統治機関を作り上げ、三百以上とも云われる全国の諸侯を束ねる以外に無くなったのである。

(が、もっといい方法がある。)
 このとき、秀頼に拝謁していた若者は一人で、その思案を練っている。
 時に純粋すぎる目的は、その手段すらも「義挙」として自らのエゴイズムを正当化するものらしい。その最たる例が新撰組である。彼等は「京都治安」という名目で当時京都にはびこっていた志士(大部分は食い詰めの牢人で、略奪行為を働いていた)を斬って斬って斬り捲くり、ついには治安を回復せしめた。しかし、当の京の人々からは「壬生狼」と、忌み嫌われていた。京の人間からしてみれば新撰組の行為はたぶんに野蛮であり、また彼等が東国の、しかも侍ではない出自も手伝って、今日に至っていても、それほどいい印象は残っていない。
 現在拝謁しているこの若者も、自らが考え出した「義挙」に高揚していたであろう。彼自身において、思いつく限りこれ以上最上の手段は無く、その上成功した場合の内外への影響は計り知れず、しかもその波及は全国に及ぶであろう。
 あらゆる政治的あるいは軍事的決断において、広く会議を起こした例は皆無に等しい。この時も無論、例外ではなかった。

「な、何と言われたか」
若者に打ち明けられた「義挙」という名の「陰謀」に、戸惑いを隠せないでいた。
「そうだ。家康と秀忠を闇にて討ってしまえば形勢は変わる。福島殿らが加勢してくれるかもしれん」
古田殿、と若者は肩を揺さぶった。
「古田殿」と呼ばれた相手、――― 古田織部であるが、――― そのやや下膨れた頬を震わせながら、
「いや、もしそれをやってしまえば御公儀に名義大分を与え、全国の諸侯が一斉に、それこそ頼みの福島殿らも黙ってはおりますまい」
と、あの眼窩の突き出たいかにも剛直そうな顔つきを思い出しながら説諭した。
更に、と織部は付け加える。
「更に、よしんばこの愚挙が万が一にも拾う事が出来たとして、それで御公儀が一斉に瓦解するとは思えませぬ。家康公には結城秀康殿を筆頭に世継ぎが六人も居られる。これを逐一斃すおつもりか。そのような事をすればこの豊臣家の信は地に失墜する事は明白」
「愚挙ではない。「義挙」だ」
「まあ、どちらでもよろしかろう。兎に角、それがしは承服いたしかねまする。この話は聞きませなんだ。ゆめゆめ他言無きよう」
と、織部が膝を立てようとした時である。若者は織部の右手首を捕まえ、引き寄せるや
「この一事を打ち明けたからには、古田殿も同様にて」
「この古田織部を脅そうとするか」
と織部は振りほどこうとするが、尋常ではない握力で手のくるぶしが悲鳴をあげている。
「左様。幕府とも昵懇の間にある貴殿なればこそ、打ち明けたのだ。どうにも、というなら
貴殿と己を刺し違えるまで」
 眼前にいる青年の眼を見たとき、単に激情的狂想に駆られたのではない事を織部は感じた。無論、行動は愚挙に過ぎない。が、すでに往年の輝きは地の底に落ち、虫の息である豊臣家が起死回生になる起爆剤として、あるいは全国に波及する衝撃の度合いを考えればこれほどの好材料も他には見当たらない。
「・・・確約はできぬ。できぬが、思案はしてみよう」
と言ったとき、織部はすでに覚悟を決めていたのかもしれない。

(はても、どうしたものかな)
と、織部は思案にくれている。いくら勢いにおされたとはいえ、齢すでに七十を越えようかというのに、自らの軽率の発言に苦笑せざるを得ない。この頃の織部の立場はというと、秀忠の茶頭である。茶道指南役といった方が簡易であろう。織部自身は幕府と豊臣家の両方に太いパイプがあった。織部が秀忠に仕える前は家康で、その前は秀吉、信長と遡る。つまり、織部は時の権力者に必ず茶道を通じて厚誼があった。
 時にそれが政治的陰影を落とし、現在豊臣家がどういう形であるにせよ存続しているという所を見ても、十分に権力はある。
が、それは「茶頭」という社会的地位と信頼からなるもので、金やあるいは女といった賄賂を使っていないあたり、その信頼の度合いというものが如何に重要であるか、想像に難くない。
 が、織部は自らの意思でそれを崩そうとしていた。
無論、これは暴挙、というより自暴自棄であったろう。後、この戦が終わってすぐに息子と側近と三人で切腹を命じられるのだが、もしかしたら織部はすでに徳川政権になった時点で(政治には立てない)
と踏んでいたのであろう。その潜在意識が「諾」とあの若武者に言わせたのかもしれない。
「木村を呼びなさい」
と、織部の前に膝を折ったのは、やや中年の男で頬がこけているが温和な顔立ちである。
「何か」
「京の動向を探りなさい。特に、家康と秀忠を中心に」
「・・・わかりました」
木村とよばれた中年男性は何かを察したのであろう、進言を試みたが、織部の決した無言の圧力の前に屈せざるをえなかった。

 歴史という時流の気まぐれさの厄介なところは、この何の変哲もない茶道の弟子の、それもほんの些細な眼に見えない綻びから新しい潮流を作ることにある。
 木村宗喜が織部の命を受けて京に上った。
 京では板倉勝重ら幕府の勢力と朝廷との政治的暗闘が繰り広げられている。無論、大坂の情勢は日夜入ってきており、京はさながら情報戦の体を成している。
 茶道の茶坊主が入り込める隙が当時の京都にあったのか、と言われれば否、と答えるしかない。それほどまでに京は朝廷と幕府という、ひいては公家対武家の政権戦争ともいうべき綱引きが行われている最中である。無論、そこに宗喜ほどの者が入ってきたとしても、宗喜自身がよほどの事を仕出かさない限りこの織部の密命は成功するはずであった。
 はずであった、という事は後の歴史を見れば分かるとおり大坂落城後に、この宗喜は織部と家督を継いでいた重広と共に木幡で腹を召している。罪状は「謀反」、家康と秀忠の暗殺未遂である。
 無論、未遂といっても実際に織部自身が刺客を放ったわけではなく、たぶんに「疑惑」という確固たる根拠のない曖昧な範疇内においての処断である。しかも、その密命の露見も、「御宿越前」という存在そのものすらが怪しい牢人によるものであり、穿った見方をすれば織部は罠をはるつもりが罠に嵌ったといえなくもない。
 ともあれ、京にいる板倉勝重は「御宿越前」なる牢人の密告を以って、家康に言上したのである。
(終わった)
家康に言上し、書院を辞去した帰り、勝重は茶坊主の背中を見ながら改めて大勢の決定を感慨せざるを得ない。
 家康にとってみれば織部の存在というものはこの時点においてすでに邪魔以外の何者でもなく、むしろ得体の知れない牢人であってもそういう疑惑という「噂」が入る事と弟子が京にいるという「根拠」というこじつけでもって豊臣家の支援者である古田織部を除こうとした。
 無論、当の織部自身もそれに気がついてないわけではない。だからこそ若者の脅しに屈した形で協力をしようとしのだが。

 事の露見によって豊臣家は虫の息に等しいほどで、最早息を吹き返す好機すら見当たらない。
(戦になるのか)
 修理にとって一番怖れていたのは軍事衝突の再発と、豊臣家滅亡というシナリオであった。
修理にとってみればこの豊臣家そのものが自分自身の存在意義であり、またこれが滅亡という事態は即ち彼自身の存在意義の喪失、ひいてはそれが死であったりする。
 だから、どういう形であるにせよ豊臣家の存続の為ならば死すらも恐れない、ある意味では尤も忠臣であり、また我儘であったともいえる。
 それに対して主馬治房は勇猛で、豊臣家には数少ない武断派であった。
 この兄弟の相克の背景には、そうした存在意義に対する考え方の違いがあったのかもしれない。
 それが、政局移行という具体的方策に乗り出してしまったとき瞬間、豊臣家は「自殺」をしたのである。