最期の真田 夏の陣 2
作:AKIRA





 血色の菜の花

 大和郡山城は菜の花が一面に咲き誇る事で、

 菜の花の中に城あり郡山

 という句が詠まれている。丁度この時期、四月の下旬は満開になる。
まるで城の中を菜種色の絨毯で敷き詰めたかのように一面が淡く染まっている。
 ただ、この大和郡山の戦国の歴史は、この菜の花のような淡いものではなく、むしろ対極の激闘の歴史であったと云える。
 元々、奈良は古代から開け、和銅三年(710)に平城京が開府され、延暦十三年(794)に遷都される八十四年間、日本の首都として繁栄してきた。
 京都に政治舞台が移り、更に武家政権として鎌倉、また京都と政治機能の移転がある中、奈良は歴史の舞台から遠のき、さらに中世という時代に入ると最早奈良は単なる地方都市に過ぎず、吉野の南朝と北朝とが再び合一されると最早完全に歴史の表舞台には出てこなくなった。
 が、応仁の乱以降、この肥沃な奈良盆地は国人衆による集合離散での分割統治が続き、さらに生駒で松永弾正久秀が畿内を席巻し、事実上足利幕府を倒幕するに至り、再び歴史の表舞台に躍り出る事になる。
 松永弾正が平蜘蛛と共に爆死する事で、織田信長から云わば委任の形で大和を治めたのが筒井順慶という人物で、そういう意味では広い意味でこの大和は織田勢の領地になっていた。
 信長が本能寺で横死すると、畿内は再び時代の激流の中に放り込まれる。

 ――― 光秀か。秀吉か。

という一種の派閥争いの最前線になったのである。
 というのも京都にいる細川藤孝の長子忠興の妻である玉は、明智光秀の娘であり、また当の順慶自身も、光秀とは仲がよかった。が、勢いは明らかに豊臣秀吉にあり、当の光秀自身は「謀反者」になっている。
 厚誼を考えれば光秀につくべきだが、「家の存続」という至上命題ともいうべき課題を達成、さらに継続という形で優先させると光秀に益は少なく、むしろ旭日の如き勢いのある秀吉にこそ益が多い。戦国時代という強烈過ぎる総生存競争時代にあってはときに厚誼を破るのは必然であって、卑劣ではない。
 実際には順慶は中立を保った。「洞ヶ峠」の逸話はこの時に誤伝して出来たものである。
そして光秀は斃れ、秀吉が日本を統一したのである。
 ところが、この順慶自身は三十六という若さで死んでしまう。死因は結核であったと云われる。
 後、秀吉の弟である秀長や五奉行の一人である増田長盛などが治めるがいずれも短命に終わる。江戸幕府が開府されてからは半ば天領の形で直轄されてしまう。
 それと同時に伊賀にあった筒井本家そのものが改易され、この奈良盆地の豪族達も牢人を余儀なくされたのである。
 この大坂の役当時は順慶の次子である定慶が城代になっている。

 大野修理の招聘によって呼応した箸尾宮内少輔が、大坂城に入ったのは四月の中ごろで、家康はすでに京に入っていた。
 この時期になれば最早徳川方と豊臣方の再度の衝突は免れる事は出来ず、豊臣家の情勢はたぶんに不利なままで突入しようとしているからである。
「つまり、その不利な情勢を少しでも打開する為に大和郡山を抱き込むべきである」
大和郡山城を味方につける事で橋頭堡とし、攻めるときは此処を起点として大坂城と二手で攻め、守るときは伊勢、伊賀から来る東の軍勢を一極集中させる事で兵の消耗を防ぐと同時に本隊に軍勢を向けることで挟撃から逃れる事ができるのだ、と箸尾宮内は時折表情を紅潮させながら力説した。
(そう上手くいくかな)
 列席していた幸村は此事を聞いたとき首を傾げた。
 無論、此事が荒唐無稽である事は云うまでも無く、相手が人形かもしくは情勢を全く理解できない赤子かあるいは幼子であれば可能かもしれないが、少なくとも筒井定慶という城主は健全な男子であり、また情勢に疎いという事もない。
 それに定慶が今の地位に落ち着いたのは家康の意向もあり、それを覆してまで自らを不利に追い込むような決断を下すかどうか。
 豊臣家には決断を覆させるだけの知行も、あるいは資金力も無く、あるのは秀頼がもっている「朝廷の官位」だけで、幕府を開く権利も有しておらず、到底勝ち目が全く無い事は全く世事に疎い正次であったとしても容易に思いつくであろう。
 当てにしないことだ、と幸村は肚の中に抱えながら腰を上げた。

 箸尾宮内少輔が大坂城で熱弁をふるって陶酔していた時、大和郡山を預かっている筒井定慶は京で家康に拝謁していた。
 筒井家は豊臣恩顧であった事から定次の代で改易、当の定次自身も自害している。しかし、家康が豊臣討伐を行うにあたって大和路の要所をおさえる必要があった。当時筒井家の縁戚で存命なのが今拝謁している定慶だった為、家康が直々に指名したのである。
 つまり、定慶にとってみれば家康の存在は足を向けて寝てはいけないほど大恩がある。
「くれぐれも、な」
と家康は眼をめいっぱい見開きながら上ずった声に少々の威圧を乗せた。
 定慶は両掌を畳につけたまま彫刻の像のように動かない。
「分かれば、よい。下がって支度するがよい」
家康は眼をやや細めながら満足げに頷いた。
 定慶が家康の前を去るや、先ほどまでの好好爺然の顔はすでに消え、まるで顔の筋肉を全て凍結させたような無表情に戻った。
 家康はさほどこの筒井家の当主を期待していなかったようで、現にこの大和郡山の城にはかつて筒井家の家臣のみで、家康あるいはその他の軍勢が入っている形跡、あるいは史料が無い。家康にとって大和郡山以前にすでにこの戦は決まったようなものであり、拮抗してあるいは大和郡山がキャンパスボードを握っているような不確定な状況であればあるいは援軍という形での「監視」というものもあったのであろうが、状況は最早そのような天秤の如き揺れは無く、むしろ大和郡山を取られた所で、あるいは筒井定慶が裏切ったとしても蚊の刺さるほどに瑣末な事に過ぎず、そういう意味においては定慶は悲運と云わざるを得ない。
 そもそも定慶が大和郡山の城代を家康直々から命ぜられたのは単に縁戚だっただけではなく、定慶が城代となる事で当時四散していた大和武士達の大坂城入りを抑止する為であった。無論、箸尾宮内のように大坂城に入る者も少なからずいたが、そういう意味では定慶は家康の命を十分に果たしたといえる。よもやその定慶が戦場において奮迅の活躍など見込めるはずも無く、
 ――― 大和郡山でじっとしておけ。
というのが狙いであっただろう。
家康から見れば筒井家の人間であれば誰でもよかった、というのが本音だったに違いない。

 そうとも知らない筒井定慶は大和郡山城にひきかえすや、やにわに戦支度をととのえはじめた。家臣に城下の牢人、あるいは百姓などを掻き集めてようやく千に達するか、という所であった。
 箸尾宮内少輔が半ば強引な勧誘策を携えて大和郡山に到着した時は、百姓と牢人が雑然と入り混じっていた。
(半日持たないだろう)
 冷然と思った。たかが千、二千の雑軍の為に城に傷をつけるわけにもいかない。交渉する余地は十分にある、と箸尾宮内少輔自身は感じたであろう。
 隅櫓がある大手門を抜け、そのまま逆さ地蔵のある天守台に上った。現代においては天守なく、後江戸時代になって柳沢吉保がこの領地に移封された事に由来して、立身出世の神社になっている。
 その天守には城代である筒井定慶が六つ星を背に腰を掛けていた。
「箸尾宮内少輔高春でござる」
宮内少輔は両拳で大きく輪を描いて床につけ、背筋を張ったまま前へ倒れた。
「大和郡山城代、筒井定慶である。大坂城よりの使者、と聞いておるが」
「はっ」
と宮内少輔は一段頭を倒すと、
「我らが筒井様にお目通りを願うたのは、他でもござらぬ」
「・・・大御所を裏切って秀頼様につけ、と」
「左様でござる。無論、本家の旧領は勿論の事、加増もござる」
宮内少輔に取ってみればまさに破格の好条件であった。この大和郡山に伊賀上野を加えればゆうに三万石は超えるであろう。が、定慶は、
(少なすぎる)
と頭を振った。最早大勢が決まり、尚且つ「神武以来」と云われるほどの大軍勢を相手に文字通り命を投げ打って見合う対価にしてはあまりにも低かった。旧所領安堵は勿論、それに伊勢、紀伊辺りは加増されない限りは心はおろか、指一つ動かないであろう。
(足元を見るか)
と宮内は眼を剥いた。しかし、正次の言う事は至極正論であり言葉が出なかった。
「さすればこの大和郡山、伊賀上野、それと若狭を付けましょう」
と言った時点で宮内少輔は越権であった。それほどまでに戦略的重要(宮内にとってみれば)であり、大和郡山を抱き込めば自身の功績も上がり、そうなればもし戦に勝った時、自身の栄達は望みのままであり、それは箸尾家の栄華にもなる。
 その為にはなんとしてもこの大和郡山の城と軍勢を無傷で手に入れる必要がある。その為ならばどんな条件でも受け入れるつもりであった。
「足りぬ」
と定慶は再び頭を振る。それは最早大和郡山への愛着というよりも、筒井定慶という戦略的要素の値段を吊り上げる事に執着している。
 定慶は天秤に掛けようとしている。家康には城代とはいえ直々に旧領を任された。もしこれを忠実に遂行すれば大名としての復帰は叶わぬ夢ではないだろう。
 問題があるとすれば、その領地の多寡である。家康は最低石高の一万石を基準に考えるであろう。無論、家康の指令によるものだからもしこの大和郡山を無事守り抜けばそのまま大名としての復帰、という程度のものであるいは加増というのは見込めるとしても、猫の額ほどである。
が、豊臣の方から考えれば大和口に家康の軍勢がいる、という事だけで十分に圧迫されてしまう。秘密裡に接収してしまえば家康も狼狽するであろう。その為にも水面下で交渉し、最低でも不戦は取り付けたい、と宮内少輔は考えている。
 誰しもが失笑するであろうこの外交策を宮内少輔は本気で取り付けようと考えていた。
 大勢が決まらず、また数、戦術において優劣が決まらない場合においてのみこういった些細な戦略的要因によって天秤が傾く事もがあるが、現状は数において大きく劣り、後ろ盾となる勢力は皆無であり、まさに四面楚歌であった。そんな中でたかが一千にも満たないであろう小勢力が官軍である幕府に牙を剥いたところで所詮は蚊の針にもならない。
(勝てるはずが無い)という定慶の見解は至極妥当であり、正論である。
「家の存続、発展」が武家階級における至上命題であることは幾度か述べたが、そのためには定慶の判断は豊臣家に行かず、ただ公儀の為に城にいるという事である。
 一旦そうと腹を括ってしまえば宮内少輔がいくら脅したりすかしたり、あるいは知行を吊り上げても無駄であった。交渉は不調に終わった。

 不調に終わった交渉を幸村と又兵衛はただ冷然と聞いている。
侮蔑もなければ、同情も無く、まるで自らの意思をどこかに置き忘れてしまったかのように背筋を張り詰めて固めたまま聞いていた。
 宮内少輔はこぼれるか、というほどに涙を浮かべた。その涙が不調に終わってしまったことへの不甲斐なさか、あるいは周囲の目線への怒りなのかはわからない。
 この宮内少輔の報告を聞いていたのは前出の二人の他、大野主馬治房、毛利豊前勝永ら数名である。
(どうせ、城を取れとか申すのであろう)
と又兵衛は勘ぐっている。確かに実際攻められる側からすれば惣構えは無く、内堀もない裸城である。もしそこに大筒を撃つならば、鉄砲で的を射るより容易いであろう。それを防ぐには多少なりとも防衛線を張らねばならず、それも出来る限り本丸から遠い方が良い。
 しかし、それは兵力に余裕があるなりそれに堪えうる練度の高い指揮系統が十分に機能する状態にあり、物理的精神的に優位にたちながらしかし、地理的において優位でない、あるいは五分五分といったほどでこそその案は十分に考えられる。しかし、前述の通り何もかもが不利において、城を取る事にどういう意義があるか。あるいは、取った後、どう防衛するかにかかっている。
 つまりは、戦略という短中期的戦況推移における計算及び不確定要素に対する汎用的対応が全く欠けてしまっていて、ただ急場的な必要性に迫られてその場しのぎの対応をするという、戦争という軍事的緊張の中では禁忌とされている思考で動いているのである。しかし怖い事にそれが基軸となって事態を回転させているという現実が半ば大手を振って動いており、またそれが上部で承認されてしまうというのだから上層部が暗愚といわれても仕方が無い。
「そこで」
と宮内少輔の話はまだ続く。
「大和郡山城を接収し、来る徳川軍に備える、というのは」
と、宮内少輔の口をついて出た一言が名案でない事は、大多数の沈黙によって示されている。
「取った、はいい。しかしその後だ、どうするね」
と冷静に反駁したのは同席している御宿勘兵衛政友である。
 ――― いかに防衛するのか。
という極めて難解で最重要である課題をどう克服するのか。あるいは克服するに耐える人員とその策、あるいは装備はどうするのか。鉄砲の数、あるいは弾薬も含めた兵站はどう確保するのか。

 戦争において、もっとも優劣がつきやすいのは兵の練度でも、人員でも装備でもない。
 補給と兵站である。
「腹が減っては戦は出来ない」という言葉があるが、何もこれは日常生活においてのみ使われる言葉ではない。実際に補給と兵站を軽視したが故に多数の餓死者が出た戦争作戦があった。
 以下の稿は上記の作戦とは関係が無いが、余談ながら事例の一つとして挙げさせてもらう。
 第二次世界大戦期に発動されたインパール作戦(ウ号作戦ともいう)である。
この作戦はビルマに程近いインドのインパールという街を攻略し、イギリス軍を叩いて占領するという作戦であった。
しかし、当時の旧日本軍の最前線基地からでもチンドウィンという大きな川を渡河した上、東南アジア山脈系列であるアラカン山系の急峻な山脈(標高、二千メートル)を数十キロ以上に渡って進撃し続ける、という計画時点で破棄されてしかるべき作戦であった。しかも、補給にはビルマ牛を輜重に使い食料にもするという「ジンギスカン作戦」(実際ビルマ牛は長距離を移動できない性質らしく、草も無い為すぐに失敗となる)というとんでもない杜撰さで作戦は遂行された。結果は云うまでも無く、戦線が崩壊、しかも重砲や弾薬といった攻撃装備は保持しない軽装備の為攻撃力におとり、しかも補給線も伸びきってしまった上に食料も底をつき、大量の餓死者が出た。その上さらにイギリス軍の反攻作戦の前に部隊は瓦解、作戦は失敗に終わる。しかも、当時の第三十一師団長佐藤幸徳中将が無断撤退するという抗命事件まで起きている。
 当時、この作戦を指揮していたのは牟田口廉也陸軍中将で、ちなみに戦後極東軍事裁判において同作戦で三万人もの死傷者を出しながら不起訴処分になって釈放されている(昭和四十一年、病没)。
 当時のメディアに出る機会あれば必ずといっていいほど自身の自己弁護と無罪主張に終始し、世間を唖然とさせた。
しかもこのインパール作戦が発動される前、第二次アキャブ作戦(ハ号作戦とも)という陽動作戦が失敗しているにも関わらずこのインパール作戦は修正が無いまま発動されいる。

 つまり、どういう戦況であれ兵站や補給が確立され、なおかつそれが強固なものであれば少々の無茶は融通が利く。逆を云えば、それほど兵站や補給が戦局に与える影響は莫大ともいえるのである。
 御宿勘兵衛がインパール作戦を知っているわけではないが、少なくとも戦乱の風雲と白刃の中を切り抜けてきた戦国乱世の先人として、いかに兵站や兵糧といった物資が必要かという事は骨身にしみるほど分かりきっていた事だった。ゆえに幸村や又兵衛らと同様に終始無言を貫いていたのだが、我慢が出来なくなったらしい。
 無論、宮内少輔にも言い分はあろう。しかし、勘兵衛にすれば動員数にも、あるいは弾薬や代替武器に余裕もなく、兵站や兵糧に確固たる目処がない現状にあっては宮内少輔の言い分は稚児が駄々をこねているのに近い。
 しかし、宮内少輔はそれでも頑強に城攻めにこだわった。
 軍議はそのまま平行線を辿り、この日は結論を見出せないまま御開きとなった。

 二日目、三日目とも話し合いは平行線のままで、遂に四日目の夕刻になった。
この日も埒が明かず、結局は物別れに終わってしまうのだがこの日はいつもと違っていた。
軍議の後、箸尾宮内少輔は同じ大和国人である布施太郎左衛門、細井兵助などを従えて大野主馬治房の元に向かったのである。この布施太郎左衛門、細井兵助なども、大坂に風雲を感じて登ってきた者達である。
向かった先は大野修理治長の弟である主馬守治房の居館であった。
 この主馬守治房が勇猛さで知られた人物である事はすでに述べたが、彼が主戦に拘った理由は兄・治長である。
この戦において、城内は上にも下にも「徳川断じて討つべし」というやや危なっかしいまでの主戦論者が犇きあって頭を合わせていながら、唯一といっていいほど和平策を論じていたのが治長である。最初は治房もどちらかというと中立的に立ち回り、ややもすれば治長寄りであったかもしれない。しかし、事ここに至って未だ和平策を論じている治長に見切りをつけ始めていた。
 それが決定的となったのが、冬の陣の今福、鴫野堤での激戦である。当時治房は鴫野堤で激闘を繰り広げていたが、兄治長の撤退によって治房自身も撤退せざるを得ず、局地的とはいえ勝利できる好機を自ら手放したのである。
(ここまで怯懦者であったか)という失望感が治房の全身を覆ったのであろう、治長は再三治房に対して、撤退を命令したが、頑として受け入れず、三万もの敵軍を前にしながら怯懦ぶりを嗤うほどであった。
しかし衆寡敵せず遂に撤退を余儀なくされる。ところが、事態は奇妙な方向に向かっていく。
 軍議と称したこの撤退の後、当然治房も登城するのだが、兄である治長は弟を軟禁状態にしたあと、弟の陣所の近隣に火を放ったのである。
 おりしもこの十一月二十九日は風が強く、陣所は瞬く間に全焼した。この一事で治房が兄に失望し、あるいは憎悪をもって完全に断絶した事は想像に難くない。それを知ってか、兄である治長も過日の路上での襲撃の主犯格ではないか、と疑っている。
 兄弟間における疑心の根は、他人のそれより遥かに深く、それを掘り起こされ完全に切除されるのは皆無といってよい。無論、悪いのは火をかけ、陣所を燃やした兄なのだが最早ここまでくれば容易に退く事は出来ず、双方共に意固地になっていた。
 太陽がはるか西に向かって放つ朱色の無尽の閃光を背に、三人が馬を飛ばして主馬守治房の居館に着いた頃にはすでに太陽の閃光は闇に覆われ、逆に月の淡い反射光のみが三人と三頭の涎を垂らして頭を振り続ける馬を浮かび上がらせているのみであった。
 館の門をくぐり、下男に用向きを伝えると暫くして奥に通された。
 三人は小半刻ほど待った。
するりと障子が開き、幾分くだけた風な面持ちで主馬守治房は上座に座った。
「昼間の事か」
と主馬守は切り出さない。あくまで治房は幸村らと意見を異にしてはおらず、その点に一切揺らぎは無い。
 沈黙が続く。
痺れを切らしたのか、箸尾宮内少輔高春が口火を切った。昼間の軍議の一件である。
「主馬守様はここ連日の軍議に何一つ口を開き申さぬ。どういうご存念であろうか」
と言葉は慇懃丁寧だが、さながら番屋で詰問して迫っているようであった。
「存念も何も、貴殿らの申す事は風をざるですくうようなものである。すくおうにも、すくいようがない」
「我らの策が杜撰に過ぎる、と申されるので」
「然り。そもそもこの戦には先が無い。つまり、千里の眼を持ってしても城を取ってからの筋道が立たないのだ。よいか、戦とは二つ三つの先をもってしても尚、城取りに利が有ってこそ始めて城を取る。つまり、その場しのぎで城をよしんば取ったとしても、その先の石が打てない以上、その城取りは全くの徒労に終わってしまうのだ」
とまるで子供を叱る親のような口調で三人を諭した。
 それほど子供じみた単純な作戦が通用するほどの相手ならば、ここまでの窮地には陥っていないであろう。いくら豊臣家の中で俸禄を貰い、あるいは戦国乱世の風を受けていないにしてもこの程度ならばすぐに洞察できる。
「先の見えないうちに城を取るというのは盲人が杖を持たずに町を歩くようなもの。せめて期が熟すまで待てぬか」
という主馬守治房の言い分はその場しのぎの詭弁であった。無論、主馬守にすれば箸尾らが持ち込んだ作戦はただ余計な代物であり、できるならうやむやにしてしまいたい、という気持ちからでた言葉であった。しかし、宮内ら三人は主馬守の詭弁は見抜いた。
「それほどまでにして拒むのなら、我らに兵を預けくださいませ。さすればすぐにでも献上仕りましょう」
と胸を大いに張った。
(まだ、わからぬか)
と主馬守は肚の中で大喝した。これほどにまで頑なに拘る人物も珍しい。
「・・・。おぬし等に預ける余分な兵は一兵たりともない。行くならおぬし等三人で行って来い」
と突き放す事で精一杯怒りを抑えた。もし感情のままに動くならすぐに抜刀して三つの首を挙げたに違いない。

 常識を幾ら諭しても分からぬ連中はどこの世界にもいるようで、それは愚鈍とか暗愚、凡庸という言葉でかたをつけられないやるせなさと怒り、落胆といった悪感情を飛び越えた、ある種冷徹なまでの差別でもって主馬守は三人を見据えている。彼等が一時の功名心のみで兵を動かそうとしているのは明白であり、それに全くの善後策が垣間見れないのも手に取るように分かる。しかしこれだけの反対を受けて尚、押し切ろうとする自信は何処にあるのか。
(もしかすると、思いにもよらぬ奇策を肚を秘めておるのではないか)
とも受け取れるほどに三人の表情は泰然と、また自信を絵に描いたような落ち着き払った表情を見せている。
 あの真田幸村にも御宿勘兵衛にも、あるいは後藤又兵衛にも想像だにできなかった奇策を箸尾はずっと胸に秘め、城攻めを選られた時に披露するつもりではないだろうか。ただ、余人を説くにあまりにも自己完結させてしまい遂に分からなかっただけなのではないか。
 そういう思惑を抱えてしまうと、主馬守にはこの三人が単なる愚鈍な粗悪人ではなく、野に埋もれてしまった奇貨のように見えてしまっていた。
 そうなってしまうと人間の思考は完全に停止してしまう。主馬守はその状態に陥ってしまっていた。しかし、
(任せて、郡山を取るか)とまで思考が停止してしまったわけではない。主馬守は、
「そなたら三人に秘める策がもしある、というなら明日の軍議で今一度その旨をしかと申し上げよ」
と言って腰を上げて部屋を出てしまった。

 主馬守の思考は徐に変わりつつあった。
無論、大和郡山を攻める事の非は大きい。その事に異論は無い。
 やはり、逡巡していたという事を考えればあそこまでに動じない三人の根拠がわからない。
(単なる功名心だけなのか)
と当初に思考回路を元に戻すが、それでも尚些かの疑念(という興味)が消えないのは何なのか。
 とあぐねている内に主馬守は館に向かっていた。
 後藤又兵衛に会う為である。
(ここは又兵衛殿に聞くしかないか)
主馬守にはもはや扱いかねている懸案になりつつあった。

 主馬守が又兵衛の屋敷に着いた頃、又兵衛は膳を取っていた。
夜遅い膳である。又兵衛にしては珍しいことであった。
 通すように小姓に伝えると、暫くして主馬守を伴って戻ってきた。
「膳のござったか。これは失礼を」
「いや。このような頃に来られるところを見ると、例の城攻めでござろう」
「・・・。先ほどでござる。拙者のもとに来られて泰然と城攻めを唱えており申して」
「ふふふ」
「又兵衛殿。何が」
「いやいや。お主、それにまんまと乗せられたな。いやいや、頭を振ってもわかる。さしづめ、あの三人のあまりの腹のすわりように気持ちが揺らいでおるのであろう。でなければ、一喝して斬り捨てればよかったものをわざわざこうして来ることが何よりの証左よ」
「・・・。いやいや、どうしたらよいかよいお知恵を」
又兵衛は箸を止め、茶碗を膳の上に置いて、
「それならばあの三人を先導させて城を取らせればよろしかろう。なに、儂も行こう。そうすれば、いざとなってもなんとかなろう。それに、あの城自体は無傷で頂戴出来る」
と、一言言っただけでまた食事に専念した。
「しかし」
「しかし云々を堂々巡りしたところでどういう解決にもなるまい。あの三人が城を獲れる、といっておるのだから獲れるのだろう。城は多いほうがよい」
と言っているものの、又兵衛の表情は冷淡であった。
「行く、というなら止めはせぬよ」
と又兵衛は箸を置いた。
「旗指物の一件で儂を突っぱねたほどのお主の事だ、城は簡単に獲れる。だがひとつだけ言っておこう。その城はとんだ骨折り損になるかもしれぬぞ」
 又兵衛の言う「旗指物の一件」というのは、冬の陣の停戦の折に治房が大坂城に帰還した際、治房の砦を兄である治長が放火するという事件が起きた事は前述したが、その時、治房隊の兵が旗指物を置いてしまったのであるが、それを聞いた蜂須賀隊が嘲罵したのである。
 このとき又兵衛は別方面を指揮していた為、この騒ぎを聞きつけ、治房に問いただした。すると、治房は又兵衛の質問を突っぱね、そのまま城に入ってしまったのである。
 主馬守の性情をよく表した話であるが、又兵衛の本質はその強情さゆえの危うさを暗に示していたのであろう。

 案の定、主馬守治房は箸尾ら三人を先導として大坂城から出陣、生駒の暗峠(現在の国道三〇八号線あたり)を抜けて丁度城から直進するようにして向かっていった。四月二十七日のことである。
 この生駒山は万葉集でも読み上げられ、後、俳人である松尾芭蕉も通り「菊の香に くらがり登る 節句哉」と読んでいる。
 南に信貴山があり、ここに戦国の梟雄である松永弾正久秀が本拠とした信貴山城があった。
さて、この暗峠は関西の地域でもとりわけ難所といわれる場所で、現在でも丁度車が一台ほど通れるほどの道幅でしかなく、特に大阪方面の場合は急勾配なため、越えるのは困難であると云われている。
 暗峠には全長で二.五キロメートルの石畳があり、頂上に茶店がある程度であった。
 主馬守は二千の兵をでもってこの峠を踏破することで一挙に大和に迫る腹づもりであった。四月十六日の夜であった。

 さて。
一方の筒井軍(軍という形態も成していないが)は漸く戦闘準備が整いつつある。
 この城を任されている定慶は一向に敵に関する報告がない為に焦りつつあった。
時はすでに初更を過ぎ、辺りはまるで緞帳が下りたように暗闇に包まれている。
「敵は如何ほどか」
「大将は誰か」
という質問のみで城が稼動しているといっても過言ではない。
(暗峠を越えてくるか)
と定慶は読んでいる。実際に軍勢が夜陰に紛れて向かうとすれば其処しかないわけで、定慶でなくともそこに眼がいくのは当然であった。無論、物見も暗峠を中心に探っていた。
 暫くすると、物見が一人、息急き戻ってくるや
「大将は大野主馬守治房。軍勢、およそ三万」
と告げた。
 物見にあるまじき大誤報であろう。実際三万もの軍勢を割けるほど豊臣軍の戦力は充実しておらず、更に三万もの軍勢が暗峠を越えて来るとすれば、相当に時間を要するであろう。少なくとも夜陰に乗じた拙速な行軍はまず不可能である。
 しかし、定慶はそれを信じてしまい、福住村に撤退してしまう。
それに応じてかき集めた約千の軍勢は一挙に瓦解、これによって無傷で城を放棄したことになった。
 二十六日夜半に到着した主馬守はこれを知らず、奈良口と九条から攻城、翌二十七日には陥落、菜の花の街である郡山周辺も焼け落ちてしまう。つまり戦闘らしい戦闘は皆無のまま城を取ってしまったのである。

 箸尾宮内はあまりの容易さで拍子抜けする思いであった。
同じく先導していた布施太郎左衛門、細井兵助も同様に感じていた。
(このままでは功名が得られん)
誰からともなくそう思っていた。そしてそれは主馬守への献言という形で現れるのである。
 が、当の主馬守は反対している。
そもそも勢い勇んで城を取ったはよいが、その後に家康の軍勢がそれこそ万の単位で攻められればひとたまりもない事は分かっている。ならば、防御を固めて決して不用意に出るべきではない。
「お主らに多少でも望みを感じた己が阿呆であったわ」
と半ば怒りを滲ませるように三人に向かった。
 無論、そのような事でひるむ三人ではなく、一向に奈良進撃を叫ぶばかりである。
主馬守はこの不毛な論争に辟易しながらも、大将という立場でもって辛うじて理性を保たせるのみで精一杯であり、ほんの少しのことでも理性の箍が外れそうなほどに腸が煮えくり返っていた。
(後藤殿の言うとおりであったわ)
と主馬守は今更ながらに考えるが、最早城を取ってしまった以上、次の布石を打つしか手はない。それは撤退も含めてである。
 主馬守が思案に暮れていたころ、ある情報が齎された。
 ――― 家康配下の水野日向守が攻めてくる。
というものであった。
「水野が」
と主馬守は絶句した。

 当代きっての戦上手でありながら豪胆であることは他に追随を許さぬほど傑出した人物が攻めてくるのであればひとたまりもない。
「今井の邑に向かう」
と主馬守が軍勢を南に進ませたのは対決を避ける為である。
 実際にこの水野日向守の軍勢が奈良に着いたのは主馬守らの軍勢が今井の邑に到着したころであった。
が、ここ今井でも村人が頑強に抵抗を見せた為、ここからも撤退せざるを得ず、流浪の軍のように奈良を徘徊していた。
 その上、松倉重政麾下の軍勢(およそ六十ほど)が奇襲をかけ、主馬守の軍は壊乱した。
 その中で松倉重政は大和国人三、四人討ち取り、凱旋している。ちなみにこの松倉家はこの功があって後、肥前島原六万石に加増、転封されている。

 主馬守にとって、あるいは箸尾らにとっても単に奈良まで行軍したにすぎず、まったくの徒労であった。
無論、箸尾ら三人だけの責任ではなく、それを食い止められなかった主馬守の責任もある。
ただ、この程度の甘言に乗せられてしまうほど状況が逼迫していたことも事実である。現にこれから十日ほどの後に大坂城は太閤豊臣秀吉の栄華とともに永久に歴史の物語の中に書き加えられてしまう。
 もしこのことを想定して「なにわの事も夢のまた夢」と辞世として秀吉が詠んでいたならば、まったくの歴史としての皮肉としか言い様がない。
 また筒井定慶もこの責を自ら負い、切腹している。