遠いあの日のセレナーデ 2
作:風の詩人





第二章 少女の夢を見る青年


   フェヴィーズ地方の端も端
   名も知れない小さな村
   名も知れない少女の夢を見つづける青年
   その姿はあの湖の少女に生き写し


 緑の多い庭だった。
 色とりどりの花をつけた木々が綺麗に整えられてあちこちに点在している。
 かなりの広さなのがわかる。
 その庭にはひとりの少女が立っている。
 小柄で可憐な少女、今にも壊れてしまいそうなはかなさを持った―――。
 小さな瞳は夜空のように黒く澄んでいて、肌は雪のように白く、身にまとっている水色のドレスが、長い髪の毛の薄い青とぴったりとあっている。
 少女は何も言わず、ただそこに佇む。
 何ともいえない、悲しそうな顔つきをして。


 がばっ!
 彼は上掛けをはねのけ飛び起きた。
「また……あの夢か……」
 虚空に向けて誰へともなくつぶやく。
 ひとりの少女が出てくる夢。その夢をいつの頃からか彼はずっと見つづけていた。
 いつから見るようになったのか良くわからない。覚えていない。それ程昔からだというのは確かだ。ひょっとしたら生まれたときからかもしれない。
 覚えている中で最初の頃の夢はこんなにはっきりしていなかった、すべてがおぼろげで霧の中にいるかのようだった。それがだんだんとリアルに、現実味を持ってきている。
 その少女の名前を彼は知らない。出会ったのは夢の中でだけだ。
 彼女は何も言わず、悲しそうな、何か言いたげな瞳でじっと彼を見つめる。
 ずっとそうだった。
 繰り返し見る夢の中で、それ以外の行動を彼女は取ったことがない。
 どこだかわからないが広い庭の中で、じっと佇んだまま悲しそうにこちらを見ている。
「一体……誰なんだよあの娘は……」
 もどかしさがあった。
 そのもどかしさの正体もまたわからない。
 ただ、彼女にあんな瞳をさせておくことに罪悪感と、胸が締め付けられるような苦しさを感じる。
 所詮は夢の中のことなのに。
 ――何が言いたいんだ? せめて一言でも何か言ってくれれば……ぼくは……君が何を望んでいるのかわかるのに……あの悲しみの瞳の理由も――はは、何を言っているんだぼくは……所詮は夢じゃないか。
 所詮は夢。夢でしか過ぎないはずなのに、それでも――気になるのだ。


 フェヴィーズ地方の端にある小さな村。
 街道からも離れていて、有名なわけでもない、何の変哲もない普通の村である。
 奇妙な噂が村をにぎわしていた。
 この村だけに限ったことではない、と、いうかようやくこの村までその噂が届いたのだ。
 いわく、迷いの森のどこかにある湖に精霊が出るという噂が。
「本当ですか?!」
 青年は身を乗り出し、カウンターに手をついた。
 小さな店の中、酒の瓶や、色々な食べ物、日用雑貨沢山並んだ戸棚を背に、カウンターの向こう側に立つ雑貨屋の主人は頷いた。彼の勢いにやや気圧されながら。
「あ、ああ……そういう噂が流れているってのは確かだ。本当に精霊がいるかどうかはわからんが」
「そうじゃなくて!」
 主人の答えに、いらだったように青年は言う。
 背は高く、けれどたくましいというよりどことなくひょろっとしている。文科系の人間だ。
 薄い茶色の髪、同色の瞳、ハンサムというわけではないが優しげな顔立ち。
「その精霊の容姿、白い肌に、青の長髪、黒い瞳の小柄な少女って言うのは本当なんですか!」
 思いもしなかったのだろう、青年の言葉に主人は戸惑いがちに答える。
「噂によれば……それが確かだという証拠は何もないが……。精霊の存在だってただの噂に過ぎないかもしれんし」
「でも、そういう噂だってことは確かなんですね?」
 青年は念を押す。
 何度も彼が繰り返すせいか、主人は眉をひそめた。
「確かにその通りだが……何か気になることでもあるのか? ルンワ?」
「まあ、ちょっと……」
 青年――ルンワは言葉を濁す。
 何か事情ありと見たのか、主人はそれ以上は聞かなかった。代わりといっては何だが、会話を切り替える。
「ああ、そうだルンワ、今度親父さんに仕事をひとつ頼みたいんだが、言っておいてくれないか?」
「別にかまいませんが、奥さんにプレゼントですか?」
 ルンワが聞くと、主人は照れくさそうに頭をかいて。
「そろそろあれの誕生日だろ、今年で結婚20年目だしな。宝石のひとつでもやらんと臍を曲げる」
「それは、豪勢なものを贈らないとなりませんね、父さんにそう伝えておきますよ」
「悪いな、そういえばルンワはどうなんだ? 仕事始めどきじゃないのか? かなり修行を積んでいるだろうに」
「ぼくの腕じゃあ、まだ売り物にはなりませんよ。それに決めてるんです、初めて自分で磨き上げた宝石は、ぼくの大切な人に送ろうと」
「お、かっこいいこと言うねえ。大切な人ってのは誰だい?」
 主人が言うと、ルンワは困ったように頭をかきながら、どこかいいにくそうに言った。
「それが、まだ見つかっていないんです」
「何だ、それじゃあ早く見つけないとならんよ。それじゃあ、よろしく頼むよ」
「わかりました、じゃあ」
 ルンワは頭を下げて店を出た。
 はふ。
 店の扉を閉めると息を吐き出した。
「湖の……精霊か」
 ――偶然か……。それとも……その精霊があの夢の中の少女なのか……。
 心の中でルンワはつぶやく。
 先ほど店の主人に聞いた精霊の噂話、その容姿は、偶然なのか必然か、自分の夢の中の少女に瓜二つ。
 ――一度……会ってみないとわからないよな……。


   ナディの森近くフェルニアの街
   滞在しているのは二人の詩人
   決意を胸に訪れる青年
   偶然がひきあう不思議な縁
   新たな舞台への新しい鍵


 この地方ではそこそこの大きさの街、フェルニア。ナディの森からは一番近くの、ある程度の流通がある街で、この辺りの村や町の人々の頼みの綱となっている。この辺りで噂を広めるのもこの街で、湖の精霊の話もこの街から出たのだ。
「すごい噂になっちゃったね……」
 人の出入りの多い酒場で、椅子の背に背中を預けてレミーラはつぶやく。
「あの湖の話は一部ではかなり有名だからな……わざわざ見に行くのは俺たちだけじゃないってことだ」
 レミーラの言葉に、彼女の向かい側に腰掛けているリオンはそう答えた。
 街じゅうに、いやこの地方一体にささやかれている噂話、それを広めたのはこの二人ではない。同じように湖を見に行った誰かが、その精霊を目撃したのだろう。二人と違って、往復に一週間以上はかかっただろうが。
「行方不明者が出ないといいけどね。今はまだ、そこまで無謀な人間はいないみたいだけど」
 湖の不思議な現象だけのときならともかく、精霊が出るとなると、危険を犯してまで見たいというものが増えるかもしれない。
「例の現象が終われば、たぶんあのウィジョン現象も終わるだろ? あと二週間ちょっとだ。まあ、それで噂が消えるかどうかはわからないけどな」
 二人がこんな会話していても、他の誰かは聞きとがめない。二人が極力小さな声で会話を交わしているのもあるが――店内がその噂で持ちきりなのだ。みんな自分の話をしたがって、他人の話に興味が全くない。
 ちょうどその時、扉が開く音がした。
 扉のうえに下げてある鈴がちりんとこ気味よい音を立てる。
 その音に、扉の方を振り向くレミーラ。
 彼女は、扉に背を向ける位置に腰掛けていたのだ。リオンからは扉が正面に見える。
 ひとりの青年が店の中に入ってきた。
 動きやすそうな上下の服。柔らかな麻で出来たシャツに、丈夫そうなズボン。色は全く染めていない、麻そのものの色だ。肩から大きな布袋を下げている。旅人典型の服装だ。
 薄い茶色の髪に、優しげな丸い同色の瞳、その瞳のせいか全体的に優しげな顔立ちをしている。背は高いけれど、どこかひょろっとしていて、剣を持つとか、農作業をするとか言うより、筆を持つほうのタイプだろう。
 ちょうど後ろを振り向いたレミーラと、店の中を見回した彼の目が瞬間ばっちり合う。
 そのせいなのかどうなのか、青年はこちらに向かって歩いてきた。
 二人のテーブルの前に来ると、人のよさそうな青年はどこか戸惑ったように口を開いた。

 ナディの森に一番近くて、そこそこ大きな街だとここ以外には考えつかない。フェルニアに、ルンワは来ていた。噂の震源地はおそらくここだという確信があったし、情報集めをするならこの辺りではここしかありえない。
 大通りに足を踏み入れて、ルンワは辺りを見回した。
 人、人、人、人、人……。人のオンパレード。沢山の人が道を歩いている。
 さすがは街だなあ、とルンワは心の中で考えた。
 大きいと言っても、そこそこの大きさ。魔法都市ニューイズ、音楽の都リュートを始めとする大陸五大都市、そこまでいかなくてもニューイズの姉妹都市のマジックアイテムの街ローデンとか、この街とは比べ物にならないくらい大きく、人の数も数倍以上。
 小さな村で生まれ育ったルンワには、この規模の街でも大きく感じたのだ。
 ――さて……一体どこに行けばいいのか。誰に聞いても答えてくれそうな気がするけど……情報集めには酒場だよな。
 心の中でそう決めると、ルンワは酒場に行こうとして――足を止めた。
「酒場ってどっちだ?」
 思わずつぶやく。
 田舎者丸出しの青年は、とりあえずそこらの人に酒場の場所を聞いて事無きを得たのだった。


 酒場も、やはり大きかった。
 自分の村にある小さな申し訳程度の酒場とは比べ物にならない。
 こんな酒場がこの街にはいくつもあるというのだ。
 通行人は、いくつかの酒場の場所を教えてくれたが、とりあえず彼は一番近くの酒場に向かった。
 軽い木の扉を押して店に入る。
 ちりん、と鈴のこ気味良い音がする。
 店内はかなりにぎわっていた。どこかしこから、精霊という単語が聞こえてくる。
 彼は店内を見回し――。
 扉の開く音に振り返ったのか、こちらを向いているひとりの少女と目が合った。
 詩人姿の――十五、六歳ぐらいの少女。向かい側に同じく詩人姿の青年が座っている。
 吟遊詩人のコンビだろうか。
 ルンワは少し考え、彼らのほうへと向かった。
 目が合ったのも何かの縁だ、彼らに精霊の噂話について聞いてみよう。
 たとえ旅人でも、この町にいるのなら噂について聞き知っているだろう。
 そう考えて。
 見知らぬ人間に声かけるのはやはり緊張するし、ためらいもある。
 ルンワはおずおずと話を切り出した。


「精霊の噂話について、何かご存知じゃありませんか?」
 見も知らぬ青年はいきなりそう言った。
「は?」
 思わず聞き返すレミーラ。
 いきなりそんなことを聞かれれば、普通は当然の反応だと思う。
「な、なんなんですかいきなり?」
 自分たちに聞いてきたことに何か意味があるのだろうか。ただの偶然? それとも何か知っていての行動か?
「ああ、すみません。いきなりこんなことを聞かれれば驚きますよね。ぼく、噂の湖の精霊について調べてるんです。何か知ってることはないかなと思って」
 青年は戸惑ったように、そしてすまなさそうに答えた。
「精霊の話を聞きたければ、あそこで騒いでいる連中のところに行けばいいだろ。話したくてうずうずしているみたいだから、喜んで話してくれるぜ」
 リオンが、店の真ん中の方を指差して言った。
 さっきまで、我が我がと話したがっていた彼らは、みんなで集まって討論会の模様を見せている。確かに、あそこの中に混ざれば、積極的に話し掛けなくても次から次へと話してくれるだろう。
 しかし、青年は苦手そうにそちらの方をちらりと見て、こちらに顔を戻すと
「ちょっと……ああいうのは苦手で……。ぼくはこの地方の端の本当に小さな村のものですから、大勢の人の中に入っていくのは駄目なんです」
 すまなそうに答える。
 本当に人のよさそうな青年は、すまないと思っているようだった。
「何でもいいんです、その精霊について知ってることはありませんか?」
 青年は真剣な顔をして聞いてきた。
 それにはレミーラはちょっと驚く。
 物見遊山で、興味本位で聞いてきたものだと思っていたから。
 リオンが横で深深とため息をついた。
「何であんたが精霊について知りたがるのか知らないが、そっとしておいた方がいいということもあると思うがな、俺は」
「……」
 青年は何も言わない。でも、何か言いたそうな真剣な瞳をしている。
 それに気がついているのか、いないのか、リオンは下を向いてぽつりとつぶやいた。
「第一、アレは精霊なんかじゃない」
 意識していった言葉ではなく、知らず知らずのうちにこぼれたような感じだった。
 だから、声は小さいことは小さかったが、どうにか聞き取れる小ささだ。彼らがよくやる、詩人にしか聞き取れない小さな声ではなかった。
 レミーラははっとリオンの方を見る。
 ――そんなこと言っちゃって……もし聞こえてたら。
 しっかり聞こえてたようだ。
「精霊なんかじゃない?」
 不思議そうに聞く青年。
 そこでリオンははっとしたような顔をする。
 自分がうっかりつぶやいていたことにようやく気が付いたようだ。
 ――あたしは知らないかんね! 自分でどうにかしなさいよ!
 レミーラは心の中でつぶやき、それをめいいっぱい視線にこめてリオンの方を見る。
「つまり、興味本位で首を突っ込むものじゃないってことだ。そっとしておくのが一番良いこともある」
 そのことには触れないで、リオンは言葉をまとめた。さっきの台詞は煙に巻くつもりらしい。
 なぜか、彼のその態度に青年はっとしたような顔をする。
「違うんです!」
 今まで以上の真剣さで、身を乗り出して青年は言う。
「夢を……見るんです。その、湖の精霊の夢を」
 青年が言い出したことは、今まで以上に衝撃的なことだった。


 ――何かを知ってる?
 それは直感だった。
 彼らは間違いなく何かを知っている。噂以上のことを。
 話してみても良いかもしれない、夢のことを。
 そう思った。
 今まで誰にも話したことがなかった夢の話を、今ここでするべきだ。
「違うんです!」
 ルンワはそう言って身を乗り出した。真剣な瞳で彼らを見つめる。
 今、ここで彼らから話を聞かなければ、永遠に夢の中の少女のことはわからない、そんな気がした。
「夢を……見るんです。その、湖の精霊の夢を」


『――!』
 リオンとレミーラは言葉を飲み込む。
「いや、正確に言えば、噂の湖の精霊にそっくりな容姿の少女の夢を見るんです……。白い肌に、青の長髪、黒い瞳の小柄な少女が悲しそうな、それでいて何か言いたそうな瞳でじっとこちらを見ている夢を」
 二人は顔見合わせた。確かにその容姿の特徴は、湖の少女も持っていたものだ。
 ただ、噂はあちこちに広まっている。簡単に青年の耳にも入るだろうし、現に入っている。口だけならなんとでも言えることだ。ただ、この人のよさそうな青年がこんなことをしようとは到底思えない。
「……とりあえず座ったらどうだ?」
 リオンが青年に椅子を勧めた。
「すみません」
 青年はそういうと、空いている椅子に腰掛けた。
「ぼくの名前はルンワといいます。小さな村で、彫り師の修行をしています」
 青年――ルンワが自己紹介をする。
 リオンとレミーラもそれぞれ自分の名前を名乗った。
「一体いつからそんな夢を見てるんです?」
 レミーラはルンワに質問をした。
 ルンワはすべての感情が混ざったような複雑な笑みを浮かべて答える。
「さあ、よく覚えていないほど昔からです……。本当に小さな頃から……。小さなときはよくわかりませんでした、その頃は夢もおぼろげで、シルエットぐらいしか見えなかった……だんだんと輪郭がはっきりしてきて、今では夢の中のことなのにとても現実感があるんです」
 レミーラとリオンは再び顔を見合わせ、リオンはルンワに向かって聞いた。
「ひとつ聞いていいか?」
「なんでしょう?」
「もし、あんたの見る夢の少女が、その精霊だとはっきりしたとして、あんたはどうするつもりなんだ?」
「会いに行きます」
 リオンの質問に、ルンワは迷いもせずはっきり答えた。
「なんでだ? 結局は夢の中のことなんだろう? そのためにそこまでの危険を起こすのか? ナディの森がどういうところか、知ってるんだろう?」
 ナディの森=迷いの森。この辺りの人間なら、この辺りの人間でなくても、知っていて当然のことだ。
「その通りなんですよね……所詮は夢の中……。それでも、どうしても気になるんです。彼女がなにを言いたいのか、何を望んでいるのか、彼女にあんな表情をさせておくのがとても心苦しくて、名前も知らない少女なのに――それに、心の奥底では彼女をよく知っているような気もする――すみません、自分でも何を言いたいのかよくわからなくて」
 ルンワはぽつりぽつりと言葉を重ねる。
「わかった。俺たちの知ってることは出来るだけ話そう」
 リオンが言った。
 ルンワは顔を輝かせる。
「ほんとうですか! ありがとうございます!」
 二人はルンワに、あの不思議な湖で起きた出来事を話して聞かせる。
 湖で昔から起きている不思議な現象のこと。
 な・ぜ・か、今回に限ってあの不思議な少女が現れたこと。
 姿が透き通っているその少女は、精霊でも幽霊でもなくて、ウィジョン現象という「その思いがその場所に残る」現象だったということ。
 すべてを話し終わってしばし。
 ちなみに、今になって少女が姿を現した原因の一角が、自分たちの力にあるかも、ということは話さなかった。話してもしょうがないことではあるし。
「……」
 ルンワは声もなく黙り込んでいたが、ようやく口を開いた。
「今も……彼女には会えるのでしょうか?」
「さあな。でもたぶん……あれから目撃証言もあるし、会えるかもな。どうするんだ? 会いに行くつもりなのか、あんた」
 リオンの言葉は、質問というより確認に近かった。ルンワの決意の強さはすでに見た。
「はい。たとえ何があろうとも、その湖までたどり着いて見せます」
 きっぱりと言い切る、その姿勢は頼もしいのだが――。
 決意だけで渡りきれるほど、ナディの森は甘くない。
「決意に水をさすところ悪いんですけど……それは難しいと思います。ルンワさん、あまり体動かすこと得意ではないのでは? 農作業とか?」
「それは……確かにその通りですが。それでもぼくは行かなければならないのです」
「良かったら同行させてくださいませんか? 私たちにはその森を迷わずにいける方法があるので」
 レミーラの提案に、ルンワは驚いたように目を丸くした。
「そ、それは……そうしていただけるととても助かるのですが……。でも、やっぱり、あなた方に迷惑をかけるのは……」
「迷惑だなんてそんな、別にたいした徒労でもないですし。ね、リオン」
「まあな」
 自分が言おうとしてたことを先に言われて、不機嫌そうなとき、そんな表情を浮かべるなあって表情で頷くリオン。
「でも……なぜですか?」
「好奇心ってのもありますけど……実際に彼女を見てしまうとね……彼女が救われる方法があるなら手伝っても良いかなって思っただけです」


   湖の上の幻の少女
   それは確かに青年の夢の少女
   彼女をよく知っていると感じる青年
   名前も知らないのに
   それは一体誰の記憶


 薄暗い森の中を歩き、詩人は再びあの湖にやってきた。
 湖の少女に会いたいという青年を連れて。
「ここが……その湖なんですか……」
 ルンワはあたりを見回し、ポツリとつぶやく。
「なんだか……さびしいところですね……」
「今はね。でも、この湖に水が張っていたときはとても神秘的な光景だったんですよ」
 すっかり枯れはててしまった湖は、いつ見ても物悲しく寂しい。
 湖に水が張っていないというひとつの事実だけで、あたりの光景はこれほどまでに変わって見えるのだろうか。
「あの枯れてしまった湖の上に、例の少女が姿を見せるんだ」
「あそこに……」
 リオンの言葉に、ルンワは神妙な声音でつぶやくとじっと湖を見つめた。
 ほどなくして――まるでルンワの視線に答えるかのように一人の少女が湖の上に浮かび上がった。
 あの時の――幻の少女が。


 ――間違いない……。
 絹のように白い肌、薄く青の長い髪を持った、黒い瞳の少女。
 ――夢の中の……あのこだ!
 夢の中と違い、水色のドレスではなく、動きやすい簡素なものを身にまとっているが、間違いなく夢の中の少女に瓜二つだった。
 少女に表情はない――ただじっと遠い場所を見つめている――これも夢の中と違う。
「あ……」
 ルンワは思わず前に進み出ていた。
「君は……一体誰なんだ?」
 ポツリと言葉が唇から滑り出てくる。
 ルンワの声に反応したのか――少女がぱっとこちらを振り向いた。
 表情のなかった少女の顔がうれしそうに輝いた。
「え?」
「なに?」
 隣にいる詩人たちが声を上げる。
 何故だかはわからないが。
 うつろだった瞳に光が宿る。
 青い髪がゆれて、黒い瞳が宝石のように輝きを放つ。
 ――知ってる。
 いきなりの閃きだった。
 ――僕はこのこを確かに知ってる……。彼女の瞳を、あの青い髪を、すごく身近で見たことがある……。
 漠然とした夢の中での出来事ではなく、現実に彼女を知っている。
 身近に、いつも一緒に過ごしてきた。
 ルンワの記憶の中にそういう事実はないのに、そう確信する自分がいる。
 自分の中の、もう一人の誰かがそれを覚えているのだ。
 自分は――この少女を良く知っていたはずなのだ。


 そのとき、少女の行動は今までとはイレギュラーなものだった。
 思わす声を上げるレミーラ。
 リオンも隣で驚いている。
 確かに、湖上の少女はルンワを見て反応したのだ。
 今まではうつろで何も見ていなかった瞳に、初めて意志をもった光が宿る。
 少女は喜びに顔を輝かせて、青年のほうへと手を差し伸べる。
 ルンワがごくりと息を飲む。
「お待ちしていましたわ、ユール様。やはりご無事だったのですね……良かった……」
 今ままでとは違い、明瞭にはっきりと言葉をつむぐ少女。
 ――ユール様って……ルンワさんのこと?
 レミーラはルンワへと目をやる。リオンも。
 ルンワは、目を名一杯に開いて少女を見ている。どこか、途方にくれたような様子もうかがえる。
「ユール……? きみは……」
 ルンワは言葉を重ねる。何かを思い出そうとしているように……。
「きみは……ぼくは君を知っている……」
「君は……君はルーシュ……ルーシュ、か?」
 熱に浮かされているかのような様子で、ルンワはひとつの名を呼んだ。
 ――ルーシュ? もしかしてそれが彼女の?
 ルンワはそう言いながらも、一歩一歩少女のほうへと歩みを進めていく。
「ユール様……ずっとお待ちしてました……あなたを信じて待っていて良かった……」
 少女は目に涙を浮かべて、ルンワの方へと足を踏み出した。
「本当にご無事でよかった……あなたを失ったら私……」
 少女はそういいながらルンワの腕の中に飛び込む。
「え……」
 固まるルンワ。どうしたらいいかわからないらしい。
「えっ」
 ――ええっ! 思いっきりイレギュラー。
「なっ」
 リオンも隣で驚いていた。
 最初に見たときとはまったく違う。
 ルンワの存在が――ここに残された、少女の強い思いに反応したのだ。
「約束しましたもの……きっと信じてました。この森で会おうと……そしてもうひとつの約束を果たそうと……約束しましたから」
 少女がつぶやく。
「約束……?」
 少女の言葉に、ルンワはそのまま聞き返した。
 すると、
「ユール様……」
 その言葉に、少女は目を見開く。
 そして、切羽詰ったような、悲し気な表情で必死になって彼を問いただす。
「ユール様……約束を……約束をお忘れになったの? おっしゃって、私たちだけの約束を!」
「……」
 ルンワは答えられない。うつむいたまま黙っている。
「ユール様……」
 少女はなんともいえない悲しげな顔をした。
 ルンワがあとで話したところ、彼が夢で見る少女と同じ表情だったらしい。
「約束を……」
 最後にそうとだけつぶやくと、ふいっとその姿が空気に溶けるように消えた。
「えっ!」
 ルンワが思わず声をあげる。
「消え……ちゃった……」
 少女のほうを見たまま、レミーラは呆然とつぶやいた。
「結局は……あの時と同じだな……」
 リオンが言葉を足す。
「そんな……」
 落胆するようにつぶやくルンワ。
 そして、また少女が湖の上に姿をあらわす。
「ルーシュ!」
 ルンワはその名前で少女を呼んで、彼女に駆け寄った。
 ルンワの声に遠くを見ていた彼女は顔を輝かせて振り返り――。
 そして、最後は同じように姿を消してしまった。
 ちょっとだけ違いはあったけれど、約束の内容にルンワが答えられないと、少女は悲しそうな顔をして姿を消してしまう。
 何度も、何度も。
 姿を現しては――結局は消えてしまう。
 その繰り返しだった。


   少女は青年をユールと呼ぶ
   青年の頭に浮かんだ少女の名はルーシュ
   それが真実か、虚構なのか
   二人を結ぶのは
   少女が繰り返す「約束」の言葉


「くそっ! 何なんだ! 約束って何なんだよ!」
 ルンワは苛立ちまぎれに、樫でできたテーブルを拳でたたいた。
 温和な彼にしては珍しい態度だ。よほど苛立っているのだろうか。
 ナディの森から出て、一番近いところにある小さな村。
 ルンワの村とそう変わらない大きさだろうか。
 ひとまず湖を後にして、森から出た彼らはこの村に落ち着いた。
 といっても、ルンワはかなりごねて、無理やり、レミーラとリオンが引っ張ってきた形になっている。
「約束、ねえ。彼女の思いにはその約束が強く関係してるみたいねえ」
「あと、どうやら彼もな」
 そんな彼を見ながら、会話を交わすレミーラとリオン。
 わざわざ確かめることでもなかったが。
「ところで、さっきからルーシュルーシュと言ってますが、それが彼女の名前なんですか?」
「あ、いや、たぶん……そうだと思います」
 レミーラにたずねられてルンワは言葉を返す。はっきりしない。
「はっきりしないな、確証はないわけか?」
 リオンに言われて、ルンワはうつむいた。
 人の良い青年だ、責められているように感じたのだろう。
「あいまいなんです……彼女のことに関しても、自分の――ユールという名前に関しても」
「あいまいというと?」
「ユールという名前が自分の名前だということはわかるんです、なんとなくというレベルですが。それ以上のことは何もわからない。彼女のことも、確かに彼女を知っていて、一緒に過ごしていたことがあるという記憶があるんです。彼女の名前がルーシュというというのも確かだとその記憶は言っている。でも……ぼくの人生の中で……彼女と出会ったことがあるなんていう記憶はないんです、夢の中以外。ましては一緒に過ごしていたなんて……」
 ルンワはそこまで言うといったん言葉を切った。
「でも確かに覚えている、彼女の声を、あの瞳を、自分の中のもう一人の自分は彼女のことを確かに知ってるんです。これは一体誰の記憶なんでしょうか? ぼくの記憶なのか、それともそのユールという名前の誰かの記憶なのか」
 さっぱりわかりませんと、頭を抱えながらルンワは言った。
 そんな彼の様子に顔を見合わせる二人。
「それで、これからどうするんですか?」
 レミーラが聞くと、ルンワは顔を上げてまっすぐに彼女を見つめた。
 あの時、湖の少女の話をしたときと同じように。
「あのまま彼女をほおって置けません。何故だかはわかりませんけど、ぼくの中に彼女の記憶がある以上。約束を、彼女が繰り返し言っていた言葉の意味を探し出します。多分、その答えはぼくの中で――眠っているような気がするんです」
 状況が変わっても彼の決意はまったく変わっていない――いや、あの時よりも強くなったような気さえする。
「答えは――過去にあるんですかね」
「え?」
 レミーラのつぶやきに、ルンワは不思議そうに顔を上げた。
「彼女は……いつの時代の人なんでしょう? それが分かれば……確かめる術があるんですけど……」
「確かめる術?」
 鸚鵡返しに繰り返すルンワ。
 そのとき、何か閃いたのか、ルンワははっと目を開いた。
「今から500年前……だ」
「え?」
「何か思い出したのか?」
 ルンワは熱に浮かされた時の様にぼんやりとしたまま、言葉をつむぎだす。
「今から500年前……この地にあったラヴィス王国。彼女はそこの最後の王女だった……」
『500年前!』
 リオンとレミーラは声をそろえた。
「500年前とは……えらく壮大なスケールだ。大丈夫かよ、レミーラ」
「うーん。やってやれないことはないと思うけど……ちょっときついなあ……」
「あの、何の話ですか?」
 リオンとレミーラの会話に、不安げにルンワが首を突っ込んできた。
「あ、こっちの話、こっちの話。どうぞ、続けて」
「続けてっていっても……思い出したのはこれくらいで……真実の記憶かもわからないんですが……」
 戸惑ったようにルンワ。
「あ、そうなんですか。それにしても、500年前ですか。確か、500年前までこの地に二つの大きな王国があったんですよね」
 500年前、この地方を支配していた大きな王国。
 フェリード王国とラヴィス王国。
 昔のことなんで詳しい資料は残っていないけれど、敵対していたらしい、この二国は。やがて戦争を起こし、互いに滅んだ。
「あの少女がその王国の王女様かあ……でも、そういう話になると、もしかしてルンワさんの中のユールってのもどこぞの王子なんじゃないですか」
「さあ、それはわからないですね」
「自分のことについてはさっぱりか、難儀だなそういうのも」
「でも、これで決まりですね!」
 レミーラが声をあげた。
 なにがって目で彼女を見るルンワ。
 リオンは分かっているらしい、不思議そうな顔一つしなかった。
「答えは遠い古に、ですよ! あれこれ悩むよりも、実際に行って見て来ましょう!」
「実際に行って見てくるって……」
 どうやってですというルンワの問いに、レミーラはニコニコ笑ったまま答えようとはしなかった。
 リオンも黙ったままだ。
 目にすればすぐに分かるということらしい。


   答えは遠い古に
   青年は時をさかのぼる
   二人の不思議な詩人とともに
   真実を
   捜し求めて


「時を……さかのぼる?」
 レミーラという詩人から聞いたのは、まるで想像もしなかった言葉だった。
 朝になるなり、宿屋から引っ張り出されて、昨日の湖につれてこられて聞かされた言葉がこれだった。
「そうです。500年前に一体何が起きたのか、真実を見てきましょう」
 ルンワの驚きにもかまわず、レミーラはあっけらかんと言う。たいそうなことを。
「み、見てくるってそんな簡単に。時をさかのぼるなんてそんなこと……」
「出来る筈がない、ですか?」
 彼の言おうといていた言葉を、反対に質問としてレミーラは聞き返した。
「そ、そうですよ! そんな夢物語みたいなこと……それこそ、夢物語の古代魔法でもなきゃ!」
 そう言いながらも、ルンワは不思議に思う。
 何で彼女はこんなに自身たっぷりなんだろう。もしかしたら――本当にできるのか?
「吟遊詩人の奇跡の力――ご存知でしょう?」
「そりゃあ……誰でも知っているよ、それくらい」
 さっき目の前で見せ付けられたわけだし。あと昨日も。
 もう一人の詩人の、あの不思議な力がない以上あんな簡単に森を歩けなかっただろう。
 ただ、そんな力よりも、彼はどちらかというのあの音色のほうが奇跡だと思った。
 彼の言葉に、レミーラはにっこりと笑う。
「なら、信じてみてもいいんじゃないですか? 吟遊詩人の奇跡を」
「……」
 信じられる奇跡にも限度があると思う。
 でも彼はそれを言わなかった。
 レミーラは彼の態度を肯定と受け取ったのか、にっこりと笑うと楽器を構えた。
 透明な音色があたりに広がる。
 それは、リオンの演奏に負けず劣らずすばらしいものだった。
 これほどの演奏なら――そんな奇跡が起きてもおかしくない、と心のどこかで思う。
 ふわふわと、光る何かがあたりに舞い降り始める。光る雪が降っている――そんな光景。
 ぴたりと世界が止まる――そしてあたりの景色がゆがむ。
 何が起こっているのかよくわからない。
 分かるのは舞い落ちる光る雪と、自分と、二人の吟遊詩人だけ。
 そして、不意に演奏が止まった。
 気がつくと、光る何かも舞い降りておらず、あたりの景色もちゃんとしてた。
「え、え、え」
 何がなんだかわからないルンワを尻目に、一体どんな精神をしているのかリオンはおちついて辺りを見回し――。
「どうやら成功したみたいだな。おい、レミーラ大丈夫か?」
 ――え?
 彼の言葉に、レミーラに視線をやると彼女は真っ青な顔をしていた。
「あ、あんまり大丈夫……じゃない」
 そうつぶやいた彼女の体がぐらりと傾く。
「あっ!」
「よっと」
 倒れる寸前、リオンがレミーラの体を受け止めた。
「完全に目を回してやがる。しゃあないな」
 つぶやくと、リオンは気を失っているレミーラを抱えあげると、こちらを振り返った。
「おーい、いくぞ。こんなところでぼんやりしていたら、何のために過去まで来たのか分からないだろ」
「あ、ちょっと、過去まで来たって何を根拠に言ってるんです!」
 ルンワの言葉に、リオンは無言で湖を指差した。
 ルーシュが姿を見せた、あの水の枯れた湖を。
 今、湖は枯れていなかった。透明な水がいっぱいに張られている。
「あ、あれ? さっきまで……」
「ちなみに、例の現象が終わるのはまだまだ先の話だ。湖に水が張ることはまだありえないんだよ」
 ――だからって過去に来たというのはとっぴ過ぎないか?
 透明な水の張られた湖は、とても神秘的だった。
 この湖が、あんなふうに水の枯れたものになってしまうのは物悲しい寂しさがある。
 確かに、ついさっきまで湖の水は枯れていたのだが……。
 湖を見ながら、一人戸惑うルンワ。
 そんなルンワを一人ほおって、リオンはさくさくと先に進んでゆく。
「おい、何やってるんだよ、あんたは!」
 さすがに途中で足を止め、ボーっと突っ立っているルンワに声をかけた。
「本当に、ここが500年前の過去だというんですか?」
「ああ、たぶんな」
「だって……何を根拠に? 湖に水が枯れてないことですか? でも……そんなの、あなた方がやったことかもしれないじゃないですか?」
 ルンワの言葉に、リオンは呆れたように振り返り、
「そんなことして俺たちに何の得があるって言うんだよ」
「……」
 もっともだ。
「まあ、500年前に来たという確信はないがな、おそらくそうだよ」
 リオンの言葉にルンワはうつむき黙り込む。やがて顔を上げると。
「本当に、過去なんですか……ここは。ルーシュのいる時代なんですか?」
「おそらく、な」
「それじゃあ……」
 ルンワは言う。いつかのような真剣な目をして。
「ルーシュのいる国へ……ラヴィス王国の首都へ……」