遠いあの日のセレナーデ 第六章
作:風の詩人





第六章 すべてが終わるとき




   とうとうはじまる戦争
   最悪な結果になってしまった両国
   それは悲惨な運命の始まり
   全ては変えられない
   最初から決まっていたこと


「なんだか、嫌な空気だよねえ……」
 テラスから外を眺めながら、嘆息とともにレミーラはつぶやく。
「俺たちへの疑いは晴れてないからな。ま、もうそれどころではないんだろうけどな」
 国中に広がっている不穏な空気。
 もうはっきりとわかるほどになっている。
 不信感のとりこになっている国の人々にはわからないだろうが、所詮部外者のレミーラたち。
 この国と隣国ラヴィスとの関係は、もうちょっと衝撃を与えるだけで爆発する爆弾だ。
「ルンワさんにあんなこと言っといてなんだけどさあ……罪悪感が残るよ、このまま見過ごすの」
「しょうがないだろう。それしかないんだからな」
 この場にはルンワはいない。
 あの会話をして以来、ルンワは部屋からあまり出なくなった。
 何かずっと考え事をしているようだ。
「わかってるわよ」
 リオンにそう受け答えをすると、レミーラは手にした楽器を構え直した。
 一呼吸すると、ハープをかなではじめる。
 澄んだ音が当たりに広がってゆく。
 その間だけ、城中に蔓延していた不穏な空気が浄化された。
 まさにそんな感じだった。
 黙ってレミーラの演奏に耳を傾けていたリオンが、何かを感じたのか顔を上げた。
「ユール王子……?」
 リオンのつぶやきを耳にして、レミーラが顔を上げると。
 そこにはユールが立っていた。
 感動にか、涙を流している。
 レミーラはびっくりして演奏を止めてしまった。
「ど、どうしたんですか?」
 演奏が止まり、そこでユールは我に帰ったらしく、ちょっと顔を赤くしながら言った。
「す、すみません、あまりに優しい音色だったもので……、久しぶりに心が安らいだ気がします」
 そう言ったユールは、かなりやつれて疲れている様子だ。
「お疲れのようですね……」
 そう言えば、ユールとレミーラたちが出会うのは本当にしばらくぶりだ。
 おそらく、必死にこの事態をどうにかしようと、ユールは走り回っているのだろう。
 ルーシュもにも出会っていない。
 本当に、平和だった頃の面影はまったくなくなっていた。
「おそらく皆様はお気づきでしょう、この国の様子がおかしくなっていることに……」
 疲れた様子で、吐き出すようにつぶやくユール。
「どうにか最悪の状況だけは回避しようと力を尽くしてはいるのですが……、ほとんどどうにもならない状況になってきているんです。もしものことを考え、この国には何も関係のない皆様をそれに巻き込むことは出来ません」
「それは……」
 それは、王子じきじきの申し出だった。
 この城を、そしてこの国を、なるべく早く離れて欲しい、と。


 町の通りを進む三人。
 ルンワは目立つと困るので、あのときのように変装をして。
 町の中はどんよりと曇っている。
 通りを歩く人々はまったくおらず、この街を逃げ出した人々も少なくないという。
 以前この町の中を歩いたときは、町じゅうがお祭りムードで騒がしく、浮き足立っていたというのに。
 たった二週間で、こんなにも変わってしまうものだろうか。
「……やりきれないね」
「そうだな……」
 町の様子を見ながら、つぶやくレミーラとリオン。
 ルンワは黙ったまま、町の様子をじっと見つめていた。
 彼は城を出てから一言もしゃべっていなかった。
 ――結局自分はなにもできぬまま……答えも見つかっていない……。
『城を出る?!』
 レミーラたちからそのことばを聞いたとき、耳を疑った。
 この国で、何かが起ころうとしているのに、城を出るというのか。
 なにもせずに。
『城を出るって……何を言っているんですか、こんなときになにも見なかったふりをしてここを出て行くって言うんですか? この国で何かが起ころうとしているのに、そんなことできるわけ――』
 そこまで言ってルンワは言葉を飲み込んだ、レミーラたちは最初から言っていた、たとえどんなことがおきようと歴史に手出しはできないと。
『ま、まだ、僕の、あの湖の少女について、大切なことは何もわかっていないのに……』
 苦し紛れにつぶやいたルンワの言葉、しかしそれに、レミーラは深いため息をついた。
『王子からの申し出なんです』
 ――え?
『この城を、この国をなるべく早く後にしてほしい、と。無関係なものを、こんなことには巻き込みたくない、と』
 ――結局、過去を、彼らの運命を変えることなんか、僕には出来ないのかもしれない。
 ルンワは、結局レミーラたちとともに城を出た。
 王子がそう言ったのであればそうするしか道はないし、そうするべきだと強く思ったのだ。それは例によって、自分でなく、自分である誰かの意志。自分の中の誰かが、ルンワにそう願っているのがなんとなくわかった。
 自分にはやらなければならないことがある、それは未来に生きる自分にしかできないことなのだ。
 それに―――――。
「―――さん、ルンワさん?」
「え?」
 耳に入ったレミーラの声に、顔をあげる。
「……大丈夫ですか? さっきから何度も声を掛けていたんですけど……」
 自分の思いに浸っていたルンワは、さっきから何度もレミーラが声を掛けているのに気が付いていなかった。
「え、あ、すみません、えーと、何でしょう?」
「これからどうしたいですか?」
「え?」
「このまままっすぐに未来に帰るわけにはいかないでしょう」
「帰るわけにはいかない?」
 ――それは、この状況を見捨てないということか?
「せめて、最後まで見届けないとな。過去を変えることはできんが……」
「あ……」
 ――なんだ、そう言うことか……。
「あ?」
「そうですね、まだわかっていないことがたくさんありますしね……」
 思い出したようにつぶやくルンワに、レミーラとリオンは怪訝そうに視線をやる。
「ルンワさん……まだ、歴史を、過去を変えたいと思ってるんですか?」
「それは……」
 変えられるものなら変えたい。
 だけど……。
「本気で変えようと思っているのなら、城を出てきたりしません。もちろん、変えられるようなら変えたい、ですが……」
「ですが?」
「僕に何ができるでしょう」
 自分が城を出てきた一番の理由。
 歴史なんか変えることは不可能だ。
 国の問題に、戦争が起こりそうだという問題に、いったい自分に何ができる?
 ユール王子があんなに走り回っているのに、まったく事態は好転していないというのに。
 歴史と、運命というものに、自分はあまりにも無力だと痛感せずにはいられない。


 ユールが何もできないまま。
 とうとう戦争ははじまってしまった。
 彼が詩人達を送り出してから、2日後、ラヴィスからの宣戦布告だった。
 彼はその知らせを聞いたとたん、悔やみ、落ち込むことよりも早く、ルーシュの下に走った。
 ラヴィスとの戦争がいよいよ始まれば、ルーシュの身は一番に危険になる。
 しかも、ラヴィスの方から宣戦布告をしてきたとなれば、大義名分もできる。
「ルーシュ! 無事……ルーシュ! どこだ?!」
 ルーシュの部屋には誰もいなかった。もぬけのから。
 部屋の中には荒らされた様子はなかった。
 しかし、ルーシュはいない。
「殿下! そこで何をやっておられる!」
 呆然と立ち尽くすユールに、後ろから声が掛けられた。
 そこには、大勢の兵を連れた宰相が立っていた。
「宰相……あなたこそ何を? その兵達は」
 どこか上の空のユール。ルーシュが部屋にいないことで。
 その様子を、宰相は別の意味に取ったらしい。哀れむような目をした。
「殿下、もうお分かりでしょう? ラヴィスとの戦争になった以上、敵国の姫君は人質なのです。おつらいでしょうが、あなたもこの国の王子である以上理解なさってください」
「……」
 ユールは無言のままだ。
 しかし、宰相が今動いたということは、まだルーシュは無事だということ。
 では、ルーシュはいったいどこにいるのだ。
 宰相はこれ以上ユールにかまう気はなさそうだった。
 最愛の人を無くそうとしている王子を気の毒に思って、ほおっておくことにしたのか。
「さあ、姫君をお連れしろ」
「そ、それが宰相……」
 ルーシュはすでに部屋の中にいない。
「いつの間に! 殿下、あなたが王女を逃がしたのですか!」
「……知りません。私がきたとき、すでにルーシュはいなかった」
 そんなユールを見て、宰相は嘘をついていないと判断したのか、
「だとしたら自分で逃げた? とにかく、王子、あなたは自室でお休みください。いろいろとお疲れでしょう。おい、王子をお連れしろ」
 休むことを進めたというよりは、強制的に休ませようとしている。
 王子が王女を見つけて、逃がそうとすることを警戒しているのだろう。
 ユールは反論もせず、兵士に付き添われておとなしく自室に戻っていった。


 部屋の中には人の気配があった。
 ――!
 落ち込んでいたユールも、さすがに我に返った。
 部屋に入るなり感じた人の気配、ただ侵入者は気配を隠すのはうまくないようだ。
 しかし、ユールが声をあげるよりも早く、その侵入者の方から出てきた。
「ユールさま……」
「ルーシュ……」
 そこにたっていたのはルーシュだった。
 そして、その後ろからフェルリ、親衛隊長のフェルリ=ダクルート。
「ダクルート親衛隊長まで……そうか……」
 一瞬驚いたユールだったが、すぐにその事情に思い当たり、納得する。
「勝手に部屋に入ったことお許しください。ルーシュさまに一番安全な場所は、ここしかないと思いましたので」
 そう言いながら頭を下げるフェルリに、ユールは感謝しながら声を掛ける。
「あなたがフェルリを守ってくれたのですね」
「戦争が始まれば、まず一番に危なくなるのは王女様ですから。殿下の動きはある程度、ほかの者たちに警戒されているでしょうし」
「そうですね……」
 自分がルーシュの部屋に行ったとき、すぐに宰相がやってきたことを思い出す。
 もしあの時ルーシュを連れ出していても、すぐに宰相たちに見つかっていただろう。
 ルーシュを守りながら強行突破も出来たが、すぐに騒ぎを大きくすることはあまり最良ではない。
 フェルリがルーシュをここに連れてきてくれたことは、とてもありがたかった。
「殿下の部屋なら、ほかの者たちもおいそれと探そうとは思わないでしょう」
 フェルリはそう言い、そのあとに「しばらくは」と付け加えた。
 つまり、ずっとここにいるわけにはいかない、ということだ。
 ユールの部屋の前に見張りはいるし、簡単には入れないと考えるだろうが、いつまでたっても見つからなければ当然ここも探すことになる。
「ダクルート親衛隊長、ルーシュを守って一緒に逃げてくれませんか?」
 ユールが言った言葉に、「え?」という顔をしてルーシュが顔をあげる。
「ユールさま?」
 フェルリはこう言われるのを予測していたのか、真剣な顔をしたままこの言葉を受け止めた。
「一緒に逃げれば、それだけ相手に見つかる確率が高くなります。ルーシュと一緒に姿を消せば、あることないこと言われることになるでしょうが……」
「噂や陰口には慣れておりますから大丈夫です。それより、姫君をお守りすることの方が大事です」
 あたりまえのように言うフェルリに、ユールは頭を下げた。
「本当にありがとう」
「いえ、それでどこに姫君をお連れすればいいのですか?」
 フェルリに言われ、ユールは間髪いれず答えた。
 そこは、二人だけの秘密の場所。
「ナディの森に」
「ナっ……ディの森? ほ、本気ですか? 確かに追っ手はこれないでしょうが……こちらも二度と森から出れなくなりますよ?」
 あたりまえの反応を見せるフェルリに、ちょっとおかしくなりながらユールは言った。
「大丈夫です、そのためのアイテムがありますから」
 そう言ってユールはポケットから、小さな鈴を取り出した。
「すず……ですよね?」
「そうですが、これでもこれマジックアイテムなんです。それも古代技術で作られた。どういう理屈なのかは知りませんが、ナディの森の中にある小さな湖まで案内をしてくれるようになってます。これを私とルーシュがふたつずつもっているんです」
 ユールが言い、ルーシュが黙ったままこくりとうなずく。
「なるほど、そんな場所がお二人にはあったのですか。確かに、そこなら追っ手に見つかることもないでしょう」
 道案内がなければ、迷いに迷いまくったあげくにたどりつけても、一週間はかかる場所だ。それも、あの広い森のどこにいるかわからないなら、余計探すのは困難。
 そのうえ、湖があることを知っている者はめったにいない。
「ルーシュを……よろしくお願いします……」
 ユールの言葉に、フェルリはしっかりとうなずく。
「……」
 黙ったままルーシュがユールを見上げた。不安そうに。心配そうに。
「大丈夫だ、ルーシュ。今はいけないけどすぐに君のところに行くから。ずっと君を守るから、たとえ何があっても」
 安心させるように微笑みかけて、ユールは言う。
 しかし、ルーシュは不安な、心配そうな顔をしたまま、ポツリとつぶやく。
「どうか……ご無事でいてください。お気をつけて」
 今にも泣き出しそうな表情のルーシュに、一瞬言葉に詰まる。
「大丈夫だよ、ここは私の国だから。なにも危険なことはないんだ」
「……はい。それでも、お気をつけてくださいね」
 そんな言葉では、彼女の不安は薄まらないのか、ルーシュは念を押すように言う。
「……約束しよう。あの湖で、ふたりだけの結婚式を挙げよう。そのときに、約束の物を君にあげる。……僕が約束を破ったことはないだろ? だから、大丈夫だよ」
 それは新たな約束。
 きっと果たすと心に誓った、新しい大切な約束。


   恋人たちは国を逃げ出す
   ナディの森の名も知れぬ湖
   ふたりのほかは誰も知らない
   自分たちの秘密の場所
   そこで落ち合い結婚式を挙げよう
   それは新たな大切な約束


 とうとう戦争がはじまった。
 レミーラたちがそのニュースを聞いたのは、首都ルーンワースを後にして、5日ほどたったころだった。
 かなり田舎、ナディの森のすぐそばまで来ているので、噂が届くのに時間がかかる。おそらく三日前くらいに開戦したのだろう。
 ラヴィスの方から攻め込んだとか、いやフェリードの方だとか、いろいろ言われてるが真相は定かではない。
 どちらでも同じだと、レミーラたちは考えている。この戦争は、誰か第三者が起こさせたものなのだから。
 レミーラたちはナディの森へと向かっていた。
 ルンワがそう言ったからだ。
 ナディの森へ向かおうと。
 本人もよくはわかっていないようだが、例の断片的な記憶がよみがえったのだろう。
 何が起こるかよくわからない。
 しかし、湖の少女――ルーシュの思いがあそこに残っているということ。
 何かが起こるのは間違いない。
 そこで起こるのがどんなことだろうが、自分達はその事実を受け止めるのだ。


 開戦してから四日。
 戦争は収まるばかりか、激しくなるばかりである。
 ――ルーシュたちは大丈夫だろうか……。
 自室の窓から外を眺めながら、ユールはそんな思いに捕らわれている。
 ――もうそろそろ、森が近くなるころだな……。森の中に逃げ込んでしまえば、そう簡単には追ってこれないだろう。
 ユールの状況は、ほぼ監禁されているのと変わらない。
 部屋の外には常時兵が立っていて、外を歩くときはずっとついてくる。
 お目付け役ということだが、ユールの動きを警戒しているのは間違いない。
 ルーシュを逃がすときにちょっと騒ぎすぎたため、自分がルーシュを逃がしたと考えているものも少なくない。
 フェルリがともに消えたため、フェルリがラヴィスの間者だったという説も有力だが。
 ユールは部屋から出ることも出来ず、あれから五日もたつのにいまだに城に残っていた。
 彼がルーシュを追いかけようとしないのは、それだけが原因ではないのだが。
 国に対しての責任感も多少はあった。
 この戦争はもともと、誰か第三者が起こさせたもの。
 その犯人を見つけ出せば、戦争を止めさせられるかもしれない。
 と、ユールはいまだに考えていた。
 一度高まった憎悪が、そう簡単には消えるはずもないが。
 それでも、何もしないよりはましだった。
 しかし、いつどこへ行くのも兵が付き添ってくるのもあり、ろくに調べものは進まない。
 戦争が始まる前と同じで、何も出来ないまま日々は過ぎていく。
 ――そろそろ潮時なのか……。
 このまま国を見捨てるのは、王子として無責任だとわかっている。
 しかし、自分にとってフェリードよりルーシュのほうがずっと大事だ。
 いつまでもここにいるわけにはいかない。
 ――明日の夜、城を出よう。
 ユールは決意した。


「そうか……さすがに見逃せなくなってきたな……」
 部下の報告を受け、彼はつぶやいた。
 以前からうすうすは気がついていたが、ここ五日間の彼の行動ではっきりと確信した。
 ユールは、自分たちの動きに気がついている。
 国の後ろにいる、戦争を起こさせようとした意志の存在を。
「城の者たちも王子の動きに不審がっています。今はまだ、王女を守るための策謀とでも捉えているのでしょうが……」
 もし、ユールからこの戦争がわざと起こされたものだという説を、誰かが耳にしたら。
 信じるものなど少ないだろう。
 王女を失ったことで錯乱した、気の毒な王子のたわごとだと考えるかもしれない。
 しかし、もし信じるものがいたとしたら。
 信じるまでは行かなくても、人々の心にちょっとした波風を立てるかもしれない。
 小さな動きが、計画全体の支障になる可能性もなくはないのだ。
「ここまで来て、われらの望みを潰やすわけにはいかない」
 まだ戦争が始まる前はユールに手を出すわけにはいかなかった。しかし、戦争が始まった今なら。
 どっちみち、王子と王女には死んでもらわなければならないのだ。
 ルーシュのほうにはすでに刺客を送ってある。
 正規の追っ手とは別に、フェリードとラヴィスの腕利きの刺客たち。
「殿下の様子をよく探れ。いずれ、殿下も王女を追うことは間違いないだろう。そのときに始末する……時期を探るのだ」
「はい」
 部下は返事をすると彼の部屋を出て行った。
 すべては、両国の憎しみをあおるための布石。


   二人の恋人達のすべてが終わる時間。
   残酷な運命が終わりを告げる。
   そして、その日はやってきたのだ。


 なんだか、今日は今朝から落ち着かない。
 日ごとを追うごとに膨らむ嫌な予感、いても立ってもいられなくなる。
 その思いが、今日は特に強かった。
「あ、おはようございまーす。あれ? どうしたんですか?」
 食堂に行くと、すでに詩人達がそろっていた。
 レミーラが不思議そうにたずねてくる。
 彼の思いは、すでに顔に出ているのだろうか。
「いや、なんでもないんです。なんだか朝から落ち着かなくて……」
「……そうですか」
「もうすぐナディの森だからな」
 ナディの森は、もうすぐそこまで来ている。
 そこで何かが起こるのは間違いないのだ。
 そして、それはおそらく今日、この日に起こるのだろう。
 なんとなく、ルンワはそう思った。


 ――とうとう追いつかれてしまったか……。
 フェルリは何食わぬ顔で馬を走らせながら、心の中でつぶやく。
 先ほどから、ずっと気配が自分たちの後をついてくる。
 フェルリにわかるだけでも二人。もしかしたらもっといるかもしれない。
 ナディの森はもうすぐそこだ。せめて、ルーシュ王女だけでも逃がさなければ。
 彼女は横を走るルーシュ王女の方を見た。
「王女様。そこまで追っ手が来ています」
 小さな声でささやく。
「―――っ!」
 ルーシュは小さく息を飲んだ。
「ナディの森はすぐそこです。思いっきり馬を走らせてください。逃げ込んでしまえば、簡単には追ってこれません」
「は……い」
 震える声でルーシュは返事をした。
「それではいきますよ」
 二頭の馬はいきなりスピードを上げた。
 全速力で、ナディの森を目指して。
 しかし、二人を逃がすまいとして、追っ手が飛び出してきた。
 男が一人。
 ――あれは……。
 その男に、フェルリは見覚えがあった。
 城の兵士ではない、宰相の私兵の一人だ。
 腕前の方も並ではなく、少なくともフェルリはかなわない。
 ――なぜ、宰相は正規の兵士ではなく、私兵など――それどころではない。
 迷っているひまはない。
 何が何でもルーシュは無事に逃がさなければならない。
 かといって、奴から無事に逃げきるのは不可能だろう。
 ――ならば。
 フェルリは馬を返した。
 自分達を追いかけてくる刺客に向かって。
「ダクルート親衛隊長?!」
 ルーシュが馬を失速させようとしたのを、
「足を止めてはなりません!」
 フェルリは制する。
「私がこやつを食い止めているうちに、お逃げください!」
 自分が盾になり、ルーシュを逃がすしかない。
 ルーシュは小さく頭を下げると、ナディの森へと馬を走らせた。
「姫君を逃がすため、自分が盾になる、か。たいした騎士道精神だな」
 男はルーシュを追おうとせず、フェルリの前で馬を下りた。
 フェルリも同じくそうする。
「別に騎士道精神などではない。ただ、私はお二人の愛をまっとうさせて差し上げたいだけだ」
 ユールとルーシュの二人は、フェルリにとって、とてもまぶしくて、そして羨ましく見えた。
 自分がそう言う生き方が出来ないこそ、なおさら。
 愛し合う恋人達が、周りの都合で引き裂かれていいはずがないのだ。
 フェルリは男に向けて剣を構えた。
 相手は自分の倍の力量を持っている、勝てるとは思えない。
 ルーシュがナディの森に逃げ込めるまでの時間が稼げればいいのだ。
「愚かだな」
「なんだと?」
「お前も、王子も、王女も。命を掛けて王女を逃がしたとしても、二人が再会することは永遠にない。王女がいくら待っても、王子がやってくることは永遠にない」
「何を言っている?! まさか殿下になにか……」
 男の言葉に、フェルリは思わず声をあげた。
 仮にもフェリードの国のものが、王子を害することなどありえないはずなのに。
「まだ何もない。これから起こるのだ」
 ――何ということだ……これでは、あのときの襲撃に対する妙な噂と同じ――?!
 そこまで言って、フェルリは思いつく。
 それは、ユールがたどり着いていた結論と同じものだ。
 ――まさか……そんな……。
「王子と王女には死んでもらう必要がある。両国をもっと憎しみ合わせるためには」
 男の言葉は、フェルリの考えを肯定する。
「おまえたちが、この戦争を起こさせたのか?! 宰相が、黒幕か?!」
「それはお前が知る必要のないこと。しかし、考えればわかるだろう」
 男は言って、フェルリに剣を向けた。
 あそこまで言ったのだ、フェルリを生かして返す気などさらさらないだろう。
 死を覚悟して、フェルリは剣を握り締めた。
 ――殿下、姫君、どうかご無事で……。


 パカラッ、パカラッ、パカラッ。
 馬の足音が、自分の馬の音と重なって、もうひとつ聞こえる。
 ――馬の足音?
 ちらりと後ろを振り向いたルーシュは、恐怖に再び息を飲んだ。
「あ……」
 後ろから追いかけてくるもう一頭の馬。
 その馬の騎手はさっきの男とは違った。
 まだいたのだ。追っ手が。
 自分とフェルリが分かれるのを待っていたのだ。
「お願い、もう少し速く走って!」
 泣きそうになりながら、ルーシュは馬上から馬に声を掛ける。
 ナディの森は後少し。
 逃げ込んでしまえば、中は天然の迷路になっている。
 しかし、こんなすぐそばまで敵がいて、いくら天然の迷路になっていたとしても、振りきらなけらば意味がない。
 ――どうするの! どうしたらいいの! ユール様!
 ひゅん!
 その時聞こえてきた音に、ルーシュは体を強張らせる。
 悪夢の音。
 あのときの襲撃の、弓矢の放たれる音だ。
 とっさにルーシュは馬にしがみつくようにして、身を伏せた。
 ルーシュには当たらなかったが、馬がパニックを起こしものすごいスピードで走り出す。
 ルーシュはしがみついているだけで精一杯だ。
 幸いにも、馬の進行方向はナディの森のままだが。
 矢はびゅんびゅんと次から次へと飛んでくる。
 馬の首にしがみついたまま、ルーシュはその恐怖と戦っていた。
 ナディの森へと入る。
 それに一瞬ほっとし、ルーシュが身を起こしかけたその瞬間。
「――っ!」
 背中に激痛が走った。
 敵が放った矢が、背中に突き刺さった。
 ルーシュは馬の上に倒れこんだ。落っこちなかったのは幸運だったかもしれない。
 しかし、もうこれでは助かりっこない。
 体中を痛みが支配している、ぼんやりとした意識でルーシュはそう考えた。
 ――ユール様……。
 それっきり、なにもわからなくなる。


「ルーシュ?」
 ルーシュの声が聞こえたような気がして、ユールは顔をあげた。
 もちろんルーシュがこんなところにいるわけがない。
「気のせい……だよな」
 しかし。
 ――ではなぜ、こんなに嫌な予感がするんだ……。
 ルーシュの声が聞こえたような気がした瞬間から、ユールの中に生まれた予感。
 なんだかとっても嫌な予感がする。
 確かに、ルーシュが自分を呼んだような気がした。
 今すぐルーシュを追いかけてゆきたい。
 今城を飛び出したところで、ルーシュのところに行けるのは5日後だ。
 しかし、いてもたってもいられない、そんな気分になった。
 ――だけど、夜にならないと城は出られない。今はまだ、見張りが厳しい。
 部屋の外には兵士がいるだろう。
 そう思って外の様子をうかがってみると、
 ――なんだ?
 ユールの部屋の前の廊下はガランとしていた。
 人っ子一人いない。
 本当なら、ユールの部屋の前に一人、廊下の両端に一人ずつ、最低三人はいるのに。
 ――どうなっているんだ?
 罠、という考えが頭をよぎらなかったわけではなかった。
 しかし、ルーシュのことが心配でたまらなく、ここは自分の国だという気持ちがその考えを吹き飛ばした。
 ――ルーシュ……。
 彼は城を抜け出すのに成功した。
 それが、残酷な運命を呼び込むとも知らずに。


「殿下、どこに行くつもりなのですか?」
 ここは王族の秘密通路。
 街の外にある、小さな教会へとつながっている。
 王族の秘密通路を、なぜ宰相が知っているのだろうか。
 目の前に現れた宰相に、ユールは幻でも見たかと思った。
 国を見捨てようとしている、自分の罪悪感が見せた幻だと。
「な、なぜ、ここに宰相が……」
 宰相は二人の供を連れていた。
 そのうち一人はユールの見知らぬ顔だが、もう一人は宰相の私兵の一人だ。
 宰相の私兵には、ユールより腕の立つものが二人いる。
 そのうちの一人は、まぎれもなく彼だった。
「情報など、得るつもりで探れば簡単に見つけ出せるもの。探す方法など、いくらでもあるのですよ、殿下」
「私が城を出るのを止めに来たのか?」
 しかし、宰相の答えは
「いいえ」
 ユールの予想に反したものだった。
「お止めしてお止めになるとも思えませんから。ですから、あなたを排除するために来ました」
「なっ!」
 思わぬ宰相の言葉。
「あなたと王女には犠牲になってもらう必要があるんです。互いの国をより憎しみ合わせるために」
「何を……言っているんですか?」
 互いの国を憎しみ合わせる?
 それでは、まさか、この戦争を引き起こさせたのは……。
「お気づきになっていたのではないのですか? あなたは必死に探っていらした」
「宰相……あなただったのですか……」
 まさか、こんな身近に、自分達を裏切っていたものがいたなんて。
「殿下あなたには死んでいただきます。何、じきに王女もそちらに行きますから寂しくないですよ」
「! ルーシュに何を!」
「ナディの森に向かうとは考えましたね。森に逃げ込めば確かに追うのは不可能です。裏返せば、森に入る前にどうにかしてしまえば良いのですよ。王女には腕利きの追っ手を二人ほど送らせていただきました」
「―――!」
 ――ルーシュ……。
「悲しがることはありませんよ、あなた方は同じ所に行けるのですからね」
 宰相が言って、後ろの二人が剣を抜き前に出てくる。
 ユールも剣を抜き構える。
 二対一。
 しかも、二人ともユールより数段腕の腕前を持っているのがはっきりとわかった。
 勝てる確率は限りなく低い。
 ルーシュが無事だという確率も。
 ユールは剣を構え、打ちかかった。
 ――約束したのだ。きっとルーシュのもとに行くと!
 相手はユールの一撃を、受け止める。
 その間に、もう一人がユールの横に回りこみ、剣を突き出してきた。
 ――くそっ!
 刃を合わせている相手を、力で押し返し、その反動で後ろに飛ぶ。
 もう一人の攻撃はどうにか受け流したが、ユールの体勢がぐらついた。
 その隙を見逃さず、最初の男がユールに切りかかってきた。
 とっさにそれも剣で受け止めるが、そこへ先ほどのもう一人の攻撃。
「ぐっ!」
 それはよけられなかった。
 腹部に深い傷を負い、ユールはそのまま倒れこむ。
 そこへ。
「ぐぅ!」
 止めの一撃が。
 胸を深く突き刺された。
「結構早く片付いたな。後は王子の死体を、さもラヴィスがやったように細工するだけだ」
 地面に倒れこんだユールを見下ろし、宰相が言う。
 ユールはその言葉を、どこか他人事のように聞いていた。
 もう体は動かない。
 彼が思うことはひとつだった。
 ――ルーシュ……ごめん。約束……守れそうにない……。せめて……君……だけ……でも……ぶ……じで……。
 ユールの意識は薄れていった。
 それが、この世の最後の彼の思い。


 どさっ。
 一瞬の衝撃に、ルーシュの意識が一瞬戻った。
 ものすごく重いまぶたをこじ開ける。
 すでにぼんやりと霞がかかり、よく見えない視界。
 それでも、ここがどこなのかはわかった。
 自分たちの秘密の場所。
 ここできっと会おうと約束した場所。
 そこはナディの森の奥にある、あの小さな湖だった。
 どうやらじぶんは馬から投げ落とされたらしい。
 自分のもっている鈴の力か、それとも何か奇跡が起こったのか。
 馬はルーシュを乗せたまま、ずっと走りつづけて、この泉にたどり着いた。
 ――やっぱり、私はここで、死ぬの?
 おぼろげながら、ルーシュは思う。
 視界はすでに何も見えず、感覚もすでになくなっている。
 ――もう、私は駄目みたいです……。
 約束は守れない。
 だけど、せめて。
 ――せめて、あなただけでも御無事でいてください。あなただけでも、ユールさま……。
 閉じられたルーシュのまぶたから涙がこぼれる。
 ――それだけでいいんです。それが私の……さ……い……ご……の。
 その思いが最後だった。


 戦争が始まってから5日目。
 詩人達が出発してから8日目。
 それが、ナディの森で、すべてが終わった時間だった。
 ルーシュとユール、ふたりの恋人たちの。
 互いに相手の無事を祈りながら……。
 それでもその願いが叶うことは……。
 ……ない……。