シナスアドフィンの天使 1
作:草渡てぃあら





 ひと目見たときから気に入らなかった。
 王宮という巨大な庇護のもとでぬくぬくと育ちながら、不相応に裏切りを夢みているタイプだ。裏切ることに理由もポリシーもなく、ただそうすることでしか己の劣等感を満足させることができないのだろう。抜け目のない卑屈な態度は、酒を注ぐ手からさえも匂ってくるようで吐き気がする。
 シドは大きくため息をついた。
 まったく、仕事でなければすぐにでも店を出ているところなのだが、都合の悪いことに今回の仕事はボルザックからの直接依頼だ。
 契約上断るわけにはいかなかった。
 その上、その依頼内容は情報屋にとってあまり有難くない“殺し”である。事後処理にやたら時間がかかる上に、しばらくは他の仕事は請合えない。それらすべての煩わしさを考えれば“殺し”は見た目よりもずっと割に合わない仕事だった。
 憂鬱な気持ちを飲み砕くかのように、シドは一方的に奢らせた酒を腹立ちまぎれに流し込む。
「酒に強いとは聞いていましたが、噂以上ですな」
 空いたグラスに男はすかさず酒を注ぐ。嫌なタイミングだ。笑い方も気にいらない。その一連の媚びた動きが、シドをよけいに憂鬱にさせた。
 ボルザックの団長(ボス)と9年前に交わした契約により、シドはボルザックの傘下に入らず独立して仕事を受けている。そのボルザックからの直接依頼はつまり、このダキィシー港一帯を牛耳っている彼らの“手に負えない”依頼であることを意味した。特に今回は、ボルザックが王宮警備隊の力を一掃できる最大のチャンスだ。王宮警備隊といううるさい蝿を追い払えば、不正な貿易で得ているボルザックの利益も莫大に跳ね上がる。いわば、ダキィシー港の流れを変える大仕事だった。
 ――その仕事で組む相手が、こいつとは……。
 シドは苦々しい気持ちで目前の男を一瞥する。年齢は40歳前後といったところか。実力がすべてのこの世界で、シドは一目置かれる存在には違いなかったが、自分より一回りも年下である二十歳半ばの若者によくもまあ、ここまで低姿勢でいられるものだ。
(まぁ、王宮警備隊の裏切り者ならこの程度か……)
 とはいえ敵陣の内部情報を得る為に、この男の存在は有益であり、人格的にも扱いやすい人物に違いなかった。裏切り者ではあるが、不穏な動きはまるでない。この男の言う“裏切り”など、組織社会に勝ち上がれない不満の解消でしかないのだろう。本当はそんな度胸もなく1人では何も出来ないから、今回の計画にもこうやって簡単に尻尾を振ってやってくる。この仕事の成功の暁には、自分が利用されていたことにも気づかず、一人よがりの満足感に浸るのだろう。口封じの為に、ボルザックが生かしておくわけがないことも知らずに……。
 ――どうせ今回きりの付き合いだ。
 そう思って我慢する。そんなことだから当然、その男のどうでもいい世間話など何も聞いていなかった。相手の話にろくに相槌すら打たず、注がれた酒だけをおいしくもなさそうに流し込む。
 だからシドは、その言葉も聞き流すことは十分できたのだ。
「いいですよね、シドさんの生き方は。なんか自由って感じで……」
 シドの露骨な態度を見て何を勘違いしてか、男はそう褒めた。
 その言葉の何かが、シドの心に引っかかる。グラスを傾けた手が動きをとめた。誉めたつもりが逆に反感を買ったことは、シドを包む空気の変化で分かった。
 だが、理由がわからない。なんとかその気まずい空気埋めるようと、さらに男は言葉を続ける。
「自分はずっと組織で生きてきた人間ですが、これを機に、自由にやっていきたいんですよ。シドさんみたいに、こう……」
「バカ野郎」
 しかしそれは、シドの――恐らく、男に対してまともに発した初めての声――によって阻まれた。それまで無関心だったシドが、どうしてその言葉にだけ反応したのか、シド自身にもわからない。
「自由ってのはな」
 自由という言葉に簡単に憧れるその男の態度を、なぜか見過ごすことが出来なかった。所詮どうでもいい奴だ。どうせすぐ死ぬ。好きなように言わせておけばいい。そう思いながらも、シドは言葉を続けていた。
「本当の自由ってのは……自由以外、失うものがないことだ」
 シドの言ったその言葉は、唇からこぼれ落ちてグラスの氷をゆらりと躍らせた。


 本当の自由とは、自由以外失うものがないこと。
 そう教えてくれたのはクロノスだ。その頃のシドはまだ12歳になったばかりだった。聖導所を抜けた歳だからよく覚えている。両親は生死すらわからず、兄弟はもちろん自分と血のつながった人間など誰もいないシドにとって、クロノスは生まれて初めて出会った“絆”を感じる人間であった。
 何も知らないシドに世界の仕組みを教えてくれた最初で最後の人。人を食ったような笑い方と、くわえタバコのまま銃口を定める真剣な横顔。大きな手、鳶色の髪。一緒にいたときの温度まで思い出せる気がする。クロノス自身30歳に届かないほどの歳だったので、親代わりというには若すぎたが、何者にも代え難い存在には違いなかった。
「なんで聖導所を出た? あそこには食い物もベッドもやさしい大人の慰めもすべてある。だがここには何もないぜ?」
 シドがクロノスに拾われたとき、彼はすでに腕の良い情報屋として名を馳せる悪党だった。通常なら貿易街の中心的職業として活躍する情報屋のクロノスが、悪党呼ばわりされる理由は“殺し屋”も兼ねているからだ。だが、クロノス本人には、“殺し”専門の人間のような独特の暗い影を感じることは一度もなく、いつも楽しそうに生きていたように思う。
「あるよ、ひとつだけ」
 精一杯考えたシドの答えを、クロノスは一笑した。
「自由? ああ、それだけはあるかもな」
 右の大陸でしか生産されていない――右の大陸では“戦争に関するすべての暴力”が禁止されているにも関わらず――拳銃を手入れしながら、クロノスはシドに言った。
「だがな、本当の自由をお前は知らない。本当の自由ってのは、自由以外すべて失うってことだ。それに耐えられる人間は少ない。自由を得るってことは、自分の居場所を失うということとよく似ているんだ。意外なことだが、ほとんどの人間は何かに繋がれていないと不安になる生き物なんだよ」
 クロノスの言っていることは、シドには難しすぎることが多かったが、二人ともそのことを気にしている様子はまるでなかった。
「クロノスは……本当の自由を手に入れた?」
「ああ。ある日、突然。俺は間違いなく自由だった。でもそれは、あんまりいい気分じゃなかったな」
「いつ? 何で?」
「その話はまた今度な……さ、仕事だ」
 俺の言ったとおりにやれば大丈夫、とクロノスはシドにも扱いやすい小型の銃を投げてよこした。


 ダキシィー地域で、ボルザックの傘下に入らず裏社会を生きていくのは、限りなく不可能に近い。だがクロノスは、珍しくボルザックの組織とは無関係の立場にいた。それは、最近力をつけてきたばかりの新参者であることと、ボルザックに楯をつくような仕事の取り方をしないことで、辛うじて見逃されてきた暗黙の了解であった。また、クロノスの腕を見込んで近づいてくる輩をすべて退け、群れを作らなかったこともその理由になるだろう。仕事をするクロノスのそばにはいつも、ティーノという20歳ほどの青年とシドの二人しかいなかった。右の大陸から海を渡ってきたというティーノは、確かに左の大陸では手に入らない情報や武器を持っていたが、まだ歳も若く経験も少なかった。シドなどは言うに及ばず、だ。
 クロノスがなぜ自分の実力相当の大物と組んで大きな仕事を請け負わないのか、不思議な話ではあった。クロノスが今後、どういう形でこの街で生きていこうとしているのかは、誰も知らなかったことであったが、いずれにせよボルザックを無視しては不可能だ。そしてそのボルザックと少しでも良い関係を確保していく上で、今が重要なポイントにきているのは確かだった。
 もちろん、拾われたばかりのシドはそんなことを知る由もなく、この街で魚のように自由に生きるクロノスに、獲物を狙うような冷酷で残忍な横顔や時折見せる人懐っこい笑顔に、ただ無邪気に憧れていた。


 派手にドアを蹴破って、三人は突入に成功した。
 何かの打合せ中だったのだろう、その部屋のテーブルには四人の男が座っていた。ボルザック団の一派であるブリアン派の幹部である。突然の乱入に、彼らは驚いた様子で、一斉に視線をドアに立つ長身の男に向けた。逆光で顔は見えないが、すぐに誰か判った様子だった。
「……クロノス!」
 銃を構えたシドとティーノを左右に従えて、クロノスは中央のドアの前に立つ。一瞬の隙も見逃さないように銃を構えるシドとティーノの緊迫した様子とは対照的に、クロノスは1人、丸腰でテーブル中央に座っていた男に話し掛けた。
「石を取りにきた。お前らがボルザックから盗んだ、例の奴だ」
 リーダー格の男に向かって、クロノスは簡潔に用件だけを言う。
 左の大陸最大の貿易商であるボルザック団は、同時に最大の犯罪集団でもあった。民主主義として発達した右の大陸とは対照的に、左の大陸は絶対君主の王制である。そのためか、豊かな自然と魔法や伝説が残る土地であると同時に、治安の悪さが目立つ大陸でもあった。そしてその裏社会すべてを牛耳っているといっても過言ではないのがボルザックである。
「……おいおい何の話だ、クロノス? 俺達ブリアン派が、ボルザックを裏切るとでも? 誰に何を吹き込まれたが知らんが、殺し屋風情がいきり立つなよ」
 男は、顔色ひとつ変えずにそう言った。クロノスは、一息つくと、下らない時間稼ぎだ、とつぶやく。
「殺し屋とは随分な言い方だな。生憎、俺達は情報屋だ。意味なく殺しはしない」
 情報屋は、依頼を受けた人間の命を執拗に追いかけるだけの殺し屋とは違い、利益になる情報を手に入れそれを商品として扱うのが仕事だ。しかし、如何せん莫大な利益には殺しがつきまとう。今回の仕事もそうであった。
「あるのは分かっている」
 まだ何か言おうとするブリアン派のリーダーを遮るように、クロノスは素早くいった。まるで無駄な会話で、隙を見せないとでも言うように……。
 銃を出す隙を狙っていたリーダー格の男は、それが失敗に終わったことを感じてすばやく逃げ道を目で探す。だが、一番動き易い窓近くの男はシドの銃口がしっかりと抑えていた。その他のメンバーの動きにはティーノの銃が向けられている。
 そして、その立ち位置と手元には寸分の狂いもなかった。クロノスの奴、良い育て方をしている、と苦々しく思いながら、男は無意識にポケットの中の石を握り締めていた。それは、通称“ブルートパス”と呼ばれる青い透明な石だった。この大陸ではほとんど役に立たないただの石だが、右の大陸にいけば三世代は遊び暮らせる財産となる。この石をダキシィーの港から、右の大陸へ逃げ出すことができたら……ボルザックに服従する日々を送るブリアン派にとって、ブルートパスは甘い罠だったのかもしれない。
 用意は周到だった。ボルザック内部の動きは完璧に抑えたはずだったし、万が一感づかれた時もその情報はすぐに耳にはいる。逃げるための時間は確保できたはずだ。だが、その計画を狂わせたのはクロノスという外部の存在であった。内部の裏切りの後始末を、外部の人間に依頼するなど、ボルザックのプライドが許さないと読んでいたのだ。ここでボルザック外の人間が出てくるなど、完全に計算外だった。
(クロノスめ……いつの間にボスからそんなに信用を得るようになっていやがったんだ)
 苦い気持ちで己の甘さを恨む。だが、彼らもボルザックを裏切る覚悟でいるのだ。簡単に諦めるわけにはいかなかった。
「天下の親殺しも、結局はボルザックの犬か」
 悔し紛れに吐き捨てる。
 情報屋を生業とするクロノスには、もうひとつの異名があった。親殺しである。
 怨恨ならまだいい。だが、母親には多額の賞金がかかっていた。自分の実の親を賞金目的で手にかけたクロノスは、その賞金と肩書きを利用して、裏社会に名を広めていった。
「優秀な情報屋のやり方を知ってるか?」
 どうやら勢いで押さえ込む相手ではないと悟ったクロノスは、にらみ合いを止め、突然、ガラリと話題を変えた。親殺しの異名など、まるで気にしていない様子だった。
「世界を満たす情報すべてを、二種類にわけて考える。価値のあるシグナルと、それ以外の無価値なノイズ」
 クロノスはそこで言葉を切ると、品定めをするかのように部屋を見渡した。そして、リーダーの男に言う。
「今、この中でシグナルはひとつ」
 クロノスが軽く指を上げる。シドとティーノへの合図はそれで十分だった。
「あとは」
 ―間髪入れず、狭い空間に痛いほどの銃声が三発響く。テーブルの男達が次々に倒れた。
「ノイズだ」
 ティーノとシドの銃口が白い煙をあげる。一瞬の出来事だった。一瞬の内に、残ったのはブルートパスを隠し持つその男1人になった。
「あんたは俺にとって、唯一のシグナルだ」
 言葉もなく呆然としている男の顔を覗き込んで、クロノスは何かを試すようにそう言い放つ。思いついたままをしゃべっているようで、効果は抜群だった。敵を追い込むには、開き直らせてはいけない。だからといってもちろん、なめられたらおしまいだ。期待を断ち切り、覚悟をさせない。その絶妙のラインを、クロノスは外さなかった。呪術的な香りの低い声。
「石を渡せ……分かるよな?」
 こわばっていた表情がかすかに緩み、張り詰めた敵意が消えた。
 それは――鮮やかな変化だった。決して弱い男ではないはずだ。追いつめ方によっては、刺し違える覚悟であったにちがいない。
 だが、目の前で仲間はあっさりと殺され、絶望的な局面で逃げ道は開かれている。そしてすべては、短時間で手際よく、絶妙のタイミングで流れていた。プライドも見栄も、損得も戦略も、入り込む余地はなかった。それは人間の弱さというより、生き延びようとすようとする本能の強さであったのかもしれない。
 この男も落ちた。何かに誘われるように、石を手渡す。死んでも渡さないというプライドも仲間を殺された恨みも忘れて、意図的に組まれた逃げ道に誘い込まれる。
「ご協力、どうも」
 場違いなほどの明るい笑顔で、クロノスはその石を受け取る。
 気の抜けたような男だけを残し、3人はまだ血の匂いの残る部屋を後にする。部屋のドアから2.3歩出たところで、何かを思い出したようにクロノスは振り返った。
「ひとつ、言い忘れてた」
 そしてコートの内側から初めて自分の銃を出し、腕をきれいに伸ばして狙いをつける。銃口の先には、放心したように座り込む男の額があった。
「情報の信号はすぐに変わる。この世界ではな、シグナルは一瞬でノイズになるんだ」
 クロノスの放った銃弾が男の額を貫通し、男は声もなく奇妙な間を置いて顔から崩れ落ちた。


 街の大通りから少し奥に入った一角に、クロノス所有の家がある。
 造りがお洒落だったからという、単純明快な理由で手に入れたこの家はもともと飲み屋だったらしく、入ってすぐに大きなテーブルがある。奥にカウンターと台所、中二階の物置と梯子があって、その下のドアを入ると仮眠室のようなバスルームと寝室という、おおよそ住居としては使いにくい代物である。が、ティーノは別にひとりで部屋を借りていたし、クロノス本人は、恋人とも友達とも区別のつかない女達の家を渡り歩いているから、ほとんどこの家はシドしか使っていなかった。
 今日も仕事が終わって軽く祝杯をあげた後、シドは一人でこの家に帰った。ティーノはクロノスに頼まれて、今日の仕事で取り返した例の石をボルザックに渡しに行っている。クロノスはというと今夜も仲間内とカジノで勝負が残っているらしい。どうせその後はどこかの女の部屋に行くのだろう。
 クロノスは男女問わず人気があった。同性の友達はともかく、女性においては何かとごたごたしそうなものだが、シドの知る限りその手のトラブルは一度もなかった。きっと、人との距離のとり方が天才的に上手いのだ、とシドは思う。みんなと仲良くするが、誰とも深くは付き合わない。
 一人の女の所に居座らず、律儀にまわっているクロノスを、シドはいつも感心してしまう。シドも女を知らないわけではない。15歳になった記念だと女の遊びも教わった。それは確かに独特の快楽ではあったが、寝た後はいつも甘すぎる砂糖菓子のような感覚が残った。そのことをクロノスに言うと、また子供だと馬鹿にされるので黙っているが、シドにとっては仕事で味わう、張り詰めた興奮と充実感のほうが断然好きだった。だから、毎日違う女の部屋に通うなどという芸当は考えただけでも面倒くさい。だが、付き合いにはマメなクロノスもそれ以外は不精者らしく、この家の鍵は早々に外されてしまった。“この街に鍵で守れる物はない”というのが、クロノスの持論である。真偽のほどは分らないが、シドも特別嫌な思いをしたこともないのでそのままにしている。
 そうしたわけでいつもあきっぱなしになっているこの家は、クロノスの友達の溜まり場になっている場合も多く、シドの知らない誰かがいてもそれはさほど驚くようなことではない。
「……」
 だが、今日の客は違った。中二階のはしごの上からのぞいていたのは、まだ15歳ぐらいの女の子だったのだ。
「無用心な家ね」
 黙って見上げるシドに、その少女はそういった。小さな顔に、少しだけ大きすぎる緑の瞳。
「……泥棒が入ったのはこれが始めてだ」
「失礼ね。私は泥棒じゃないわよ」
 少女はそう言って、はしごを使わずに飛び降りた。身が軽い。成熟していない骨ばった身体と女特有のしなやかなラインが混在している。猫みたいだ、とシドは思う。
「追い出されたの、あんた達に。さっきボルザックの連中を殺ったでしょ? あの隣の部屋で、私“売り”やってるの。あんた達のおかげで警備隊がウロウロしててさ、客が取れないのよ。で、この家で稼がせてもらおうかとおもって」
 どう、少しは反省した?と耳のピアスを触りながら少女はさも当たり前のようにそう言ってのけた。
「……知らねぇよ、出てけよ売女」
 意識的に語調を強めて、シドはそう言った。彼女に恨みはないが面倒くさいのはごめんだ。だが、そんなシドの脅しはお見通しとばかり、少女は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「乱暴な言い方。冷たい男はもてないわよ?じゃあ……優しいクロノスさんに相談してみよっかな」
「……」
 しばらくの沈黙の後、シドは天を仰いだ。この件に関しては、どうやら少女の方が上のようだ。面倒見の良い――特に女の――クロノスは、この事の成り行きに爆笑した後、一緒に住めと大賛成するだろうことは容易に想像できた。笑うだけ笑われて、結局同じ結果になるのは面白くない。
「……好きにしろよ」
 諦めてそういう。
「ありがと!」
 そういって少女は馴れ馴れし気にシドの首に手を回した。ふわり、となにかの花の香りがする。
「私はアロ。売春は副業で、ラマムの店で踊り子やってるの。いつでも見にきてね! それから」
 シドの耳元に、形の良い小さな唇が触れる。
「引越しのお祝いに、最初のお客様にしてあげてもいいわよ?」
「生憎、子供(ガキ)を抱く趣味はないんだ」
「何さ、自分だって子供のくせに」
 そう言ってアロは、つまらなさそうに鼻を鳴らす。しかしそんな言葉とは裏腹に、内心ホッとしているようにも見えた。遊び慣れたようなしぐさもどこか板についていない。改めてシドはアロを見る。
 歳は同じか少し下に見えから、14、5歳ぐらいか。深い緑の瞳と滑るような褐色の肌。踊り子という職業からか、よくみるとバランスのとれた見事な身体付きをしている。だが、身体全体が小さく、腕も足も少女独特の頼りなげではかない印象があった。まだ子供なのだ。穢れのない生命は、まだ性の影響を深くは受け付けない。身体を置き去りにして、アロの心だけが痛むつま先で必死に背伸びしているような雰囲気だった。変な女、とシドは思った。


「ティーノはこれから“石”を持ってボルザックに向かってくれ。話は通してあるからすぐにはいれるはずだ」
 すぐにと急き立てるクロノスに、ティーノは形のよい眉をひそめた。
 これから特に予定はないし、確かに長く手元に置いておくような物ではない。だが夜も更けたこんな時間に、必要以上に急いでいる理由がわからなかった。
「何か、理由でも……?」
「勘、だよ。その石は価値があり過ぎる。今の俺達には危険だ」
 クロノスの場合、理由はそれで十分だった。彼は恐ろしく勘がいい。時折見せる大胆な行動も、絶対外さない勘に裏付けされてのことだと、ティーノは思っている。その類まれな能力は、左の大陸特有の“魔法”の存在を思い出させる。
 右の大陸の研究機関で、魔法を科学的に証明しようとしている友達に合わせれば、クロノスはきっといい研究材料になるだろう。そこまで考えて、ティーノは自嘲気味に苦笑した。
 ――どうせ、右の大陸には一生帰れない。
 手の中のブルートパスに目を落とす。右の大陸の中でも最高の発明だ。この小さな石の中には、数億のデータが眠っている。だが、肝心の眠りを覚ます為の本体は右の大陸にしか存在せず、ここではブルートパスはただのきれいな青い石でしかない。
(まったく、どうやってお前だけこの大陸に来たのか……)
 その場違いな滑稽さに、ティーノは不思議な共感を覚える。
 そして、その石の透明な青さを確かめるように手の平で軽く転がすと、ポケットの奥にしまった。
 街の喧騒を背になだらかな坂を上っていく。時間は深夜に近い。昼はにぎやかなこの通りも行き交う人はほとんどいなかった。がらんとした道がただ柔らかい夜の闇に包まれているばかりだ。
 やがてその暗闇の中から、鉄であしらった大きな門が現れる。屋敷へと続く大きな門は、深夜にも関わらず大きく開け放されていた。が、ティーノが入るとすぐに2,3人の恰幅のいい男に囲まれる。頑丈な門で閉ざすことはせず、人間を使って直に威嚇してくる。いかにもボルザックらしい攻撃的な護衛だ。
 ティーノはきれいな切れ長の目を上げて、目の前の屋敷を見た。ここがボルザックが本拠地としている屋敷であった。
「クロノスから例の“石”を預かってきました」
 ティーノがそう切り出すと、殺気立つ男達を制して片腕の初老の男が現れた。見たことがある顔だ。
「ティーノか。クロノスはさすがに仕事が早いな」
 若い頃は有名な殺し屋だったそうだが、仕事で右腕を失ってから、ずっとボスの側近だときく。腕を失った殺し屋が、敵から身を守るには、ボルザックの傘下で生きていくしかなかったのだろう。
「石はこれです。確認を……」
「する必要はあるまい。我々はクロノスを信用している」
 そう言って男は唇の端を上げた。嫌な笑い方だ。負け犬の匂いがする。だが嫌悪感を悟られないように、ティーノは短く礼を言った。それに、とそんなティーノの様子には気付かず男は続ける。
「ボスがお呼びだ。石は直接ボスに渡せ」
「……?」
 一瞬、男の言っている意味がよく分らない。
(ボルザックのボスが、直接……?)
 だとしたら、用があるのはティーノではあり得ない。いや、クロノスですらボスと面識はないはずだ。
「クロノスなら今……」
「違う。ボスが呼んでいるのはお前だ、ティーノ」
 男は遮るようにそういった。そして、それ以上は知らないとでもいうように、背を向けて屋敷へと歩き始める。少し前屈みのその背中から、ティーノに向けられた無言の嫉妬が感じられた。
「……」
 ティーノはその後を追うしかなかった。
 しっとりとした真夜中の海風が、ティーノの細く長い銀髪を揺らす。ティーノの姿は、まるでボルザックの屋敷に飲まれるように、闇に溶けて消えた。


 風向きが変わった。
 月明かりを含んだ柔らかな暗闇を見つめながら、クロノスはそう感じていた。何かが動き始めている。今何かが終わり、そして始まったのだ。そしてそれは、クロノスにとって決して良い流れではないと、心の中の鳴り止まない警戒音は告げていた。
 ベッドから半身を起こしたまま、クロノスは手に持った煙草の灯を弄ぶ。赤く揺れる小さな火はまるで、さ迷う魂のように儚く頼りなげだ。
「何か飲む?」
 情事のあとの湿ったシーツから、気だるそうな女の声がする。
「いや、いい。……俺にはそんな気ィ使うなよ」
 クロノスはそういうと、空いている左の手で女の豪奢な金髪に指を絡ませる。そのしぐさに女はうっとりと瞳を閉じるが、月の光を受けた美しいウエーブの髪は、誘うようにクロノスの指から逃げていった。
「優しい男は嫌いよ……」
「強がる女はいい……優しくされると寂しいか?」
 馬鹿、と小さくつぶやいて女はクロノスの指を軽く噛んだ。
 彼女は、この港で宝石の売買を営む敏腕オーナーであり、完璧な美貌の持ち主でもあった。店のどんな宝石よりも輝く、その奇跡のような美しさは、ジュエリーには興味のない男達の間でも有名な存在だったが、誰の手にも落ちないと噂の彼女は“フェデリア・セイ”(冷たい宝石)と呼ばれている。
「フェデリア」
 クロノスは彼女の本当の名を知らなかったので、フェデリア(宝石)とだけ呼んだ。良くしつけられた高貴な獣のように、フェデリアはクロノスの裸の胸に甘えてくる。シーツが流れ落ち、彼女の豊満な胸があらわになった。白く輝くの陶器のように皇(すべら)かな肌。ため息が出るようななめらかな肩にクロノスは指を滑らせる。
 おそらく逃げるべきなのだろう。クロノスは、見えない敵を見定めるかのように、ゆっくりと鳶色の瞳を細める。己の運命に大きな影が近づいている。“死”は少し離れた場所から、こちらをじっと見ていた。
「嫌な横顔」
 フェデリアはそう言って、クロノスの裸の胸に顔をうずめる。
「冷たいことを考えている瞳だわ」
 そんなフェデリアの仕草が可愛くてクロノスは笑った。街で見る彼女はまずこんな表情はしない。その美貌は、人を寄せ付けない種類の美しさだ。緊張感のある横顔もまた一枚の絵のように美しいが、クロノスはベッドのフェデリアの方が気に入っている。すべてをさらけ出してなお、こんなに美しい女性は珍しい。洗練された裸体は女神シナスアドフィンのような威圧感すら感じる。それでいて、愛を求めるその声は物憂げで、少し寂しい響きがするのだ。
「ねえ……母親を殺すって、どんな気持ち?」
 何かを試すように、フェデリアはそう切り出した。
「なんだよ、突然。随分、色気のない話だな」
「そうかしら? 私の中では、殺すことと愛することはとても近い感情のような気がするわ」
 長い髪をゆっくりとかき上げながら、フェデリアはそう言った。
 女というのは恐ろしい、とクロノスは思う。引き金を引いたこともないのに、その感覚を的確に感じ取ることができる。
「ねぇ、どんな気持ちだったの?」
 誘うような唇でフェデリアは質問を繰り返す。クロノスは観念したように目を閉じた。たいした話じゃないけどな、と前置きしてクロノスは続ける。
「変な、感覚だったな……振り返ってこう、自分の人生をきり落としたって感じ」
「他の仕事とは全然違ったってこと?」
「一緒だよ、基本的には。殺して、そして報奨金をもらう」
 だが母親のときは、とクロノスは手に持った煙草をもみ消した。最後の灯が、白い煙を残して消える。
「死んだと思った瞬間に、俺は今までこの女と繋がっていたんだと気付いた。当たり前だよな、母親だもん。一度もそう思ったことなかったけど……」
 最後までわがままな母親(ひと)だった。わがままで、花が散るみたいに綺麗に笑う人。不思議なことにその時、母がどんな顔をしていたのか、全く思い出せない。懇願する瞳だけが印象的だった。
「俺の人生は確かにこの女から始まっていて、それは俺自身に繋がっている。母親が死んだとき、それを断ち切った気がしたよ」
「後悔……してる?」
 一番聞きたかったことを、フェデリアはそっと聞いてみる。
「の、方がいい?」
 そう言って、クロノスは笑った。
「残念ながら後悔はしてないな。後悔するには、手に入れたものが素晴らし過ぎた」
「手に入れたもの……?」
「まず金だろ。あとは地位と名誉。この仕事をする上での迫もついた……それから」
 そこでクロノスは言葉を飲む。言いよどむような不自然な間が生まれた。フェデリアは、深いブルーの瞳をついと上げる。きっとそれが一番欲しかったものだ。
 クロノスが手に入れた一番のもの。だが次の瞬間、クロノスは茶化すように笑うとフェデリアの細くくびれた腰を引き寄せた。
「それから、こんな良い女」
 そう言うとクロノスは、フェデリアを自分と向き合うように抱き上げる。そしてフェデリアの豊な胸に顔をうずめた。胸の中でクロノスを感じながら、フェデリアは愛しげに、彼の鳶色の髪をなでた。事情聴取はこの辺で許してあげることにする。
 クロノスの指が優しく背中を伝う。合わせるように、身体の奥から甘い情熱が呼び覚まされていく。
「ねぇ……気付いてる?」
 逆らえない誘惑にやるせないため息をつきながら、フェデリアは言った。後悔はしていないというクロノス。その言葉に嘘はないのだろう。けれど、後悔しないということと傷つかないということは違うのだ。悲しい男……そして、その届かない傷に触れたいと願う自分もまた、悲しい女なのだろう。
「あなたは未来のことは口にしないのよ、いつも……」
 クロノスの執拗なほどの口づけが、胸の敏感な部分をとらえる。
 ああ、とフェデリアは耐え切れず目を閉じた。理性は溶けていく。言葉が逃げていく。だがフェデリアは、喘ぎ声で言葉を詰まらせながらも、必死に言葉を探していた。クロノス、貴方はまるで。
「まるで……人生の、終わりを歩いているみたい」
 フェデリアを潤すための手は緩めずに、クロノスは黙ってその言葉を聞いていた。ゆっくりと彼女をベッドに押し倒す。不安げに見上げるブルーの瞳。綺麗だと改めて思う。
 彼女のルビーのような濡れた唇を塞ぎながら、クロノスはゆっくりと目を閉じた。胸で鳴り続ける不吉な警告は今も静まらない。だが焦りはなかった。代わりに、締め付けるような冷ややかで静かな興奮がクロノスを包んでいた。悪いことが起きている。このままだと死ぬかもしれない。だが一方で、こんなことが起きる世界を、クロノスは心から愛していた。
(気持ち悪ぃな。俺、喜んでるよ……)
 なんとなく楽しい気持ちになっている自分に毒づく。フェデリアの言いたいことはよくわかった。彼女なりに感じている不安も。
「遠くに行かないで」
 唇から鎖骨、そしてもっと下へと下降していくクロノスの口づけを感じながら、フェデリアは小さくつぶやく。
(きっと……どうしようもないんだ)
 クロノスは思う。どうしようもないのだ。どんなに勘がよくても、未来が見通せても、あるいは魔法が使えたとしても。人である以上、そこに本当の選択権はないのだと思う。絶対届かないと解っていても、星に手を伸ばしてしまう。どんなに望まなくても傷つけてしまう。駄目だと解っていても、愛してしまう。泣きながら、打ちのめされて傷つきながら、それでも愚かな望みを繰り返して生きていくしかない。それが神の与えた、この世界のシステムなのだ。――だから。
 それはまるで瞳からこぼれ落ちるダイヤだ。そんな風に。俺だけの為に――。
 フェデリアを抱きながら、クロノスは祈るように言った。
「……泣くなよ」


 暗い瞳だ。その目がどんな表情も読めなくしている。
 ティーノは、ボルザックを――如いてはこの港一帯すべてを――統括している男の前に立っていた。名はザルクという。歳は50歳を過ぎたあたりだが、よく焼けた肌から老いは感じられない。他の追随を許さないような独特の威圧感は、言葉なくしてすべての者を圧倒させる。かといって荒くれものの印象はなく、その立ち振る舞いは穏やかですらあった。重ねてきた年齢がそうさせるのか。突然の事態に緊張しながらも、ティーノは冷静に分析していた。
 まさかボス本人が直接、依頼品を引き取るなど異例のことだ。
(まったく、この石はどんな情報が入っているのか……)
 そう思いながら、ティーノはブルーパトスを机に置く。
 だが、ザルクはその“石”に目もくれず、ティーノに聞いた。
「お前は右の大陸(ライト)出身か?」
 ティーノがこの大陸で生まれていないことなど誰も知らないはずだった。隠していたわけではないが、クロノスが何も聞かない人間だったので、わざわざ口にする機会がなかったのだ。だが、何故ボルザックが知っているのか分からなかった。身上調査は完璧ということか。
(まぁ、それぐらいしないと直接会うことは無理か)
 隠したところで無駄なのだろう、ティーノは正直に話すことにした。王国警備隊ではあるまいし、過去に何人殺してようが気にする輩ではないだろう。
「右の大陸で政治家の秘書をやっていました。派閥の闘争で、自分が仕えている党首を殺ったので……」
「逃げてきたというわけか。右では、殺人を裁く機関がかなりの力を持っているというが……」
「右の法律の力は絶対だと思います」
 なるほど、とザルクは深く椅子に座り直した。
 そしてティーノを見上げると、両手を広げてこう言った。
「闇の大陸へようこそ、というべきかな」
 その時になって、ティーノは何故か初めて恐怖を感じていた。自分は今、左の大陸の真髄とも言えるボルザックのボスの前にいる。もう戻れない。逃れることはできないのだ。
「歓迎していただいて光栄です」
 上手く笑えない自分を隠すように、ティーノはそう言って、深く頭を下げた。
 左の大陸についてすぐ、ティーノはまっすぐにクロノスをたずねた。初めて殺人を犯したときティーノは驚くほど冷静だった。生活もなにも変わることはなかった。ティーノの犯罪は、事件の黒幕である現統治者の手でもみ消されていたし、殺された党首の秘書ということもあって、ティーノには同情の声すら上がっていた。やがて殺人事件という、この大陸ではショッキングなニュースが時間とともに消えた頃、ティーノは一人、左の大陸を目指していた。
 懺悔や恐怖心からではない。知りたいと思ったからだ。本当の自分の姿を。だからクロノスの、賞金のために親を殺したという話を聞いて、会ってみたいと思った。そして同じ匂いにする人間であることを期待した。だが、クロノスはそんなティーノの予想に反した人物だった。残虐さや冷酷な感じの全くしない、まるで人生を楽しんでいるかのような男だった。
 クロノスと会って初めて、ティーノは自分がどれほど“殺人”に対してこだわっていたかを知った。クロノスは自由なのだ。法律からも倫理からも。潔い、といえばいいのか。この人について行きたい、と思った。クロノスがシドをつれて来たのは、それから半年ほど経ったある日のことだ。
「お前はクロノスとだけ組んでいるのか? シドの他には?」
「……それだけです」
 シドの名前まで知っている。ティーノは内心驚いていた。情報に細かい男なのか。それとも、自分達に興味があるのか。ボスの考えが読めなかった。だが、そもそもこの男の読もうとするのが無謀なのかもしれない。そうか、とザルクは確認するようにつぶやき、黒い椅子にその身を沈めた。
「3という数字はいい。無駄がなく、結束も固い」
 だが、とザクルはそこで、声のトーンを下げた。彼の暗いまなざしは一旦下に落ち、そして再びティーノを捉える。
「崩れると元には戻らない」
 何の……話だ?不吉な思いが胸を締め付ける。いいようのない恐怖を感じて、ティーノ思わず視線をそらした。その様子を楽しむかのように、一つ呼吸を置いてザルクは続ける。
「仕事の話をしよう。ボルザックからの次の依頼だ」
 高級そうな絨毯の床を見つめながら、ティーノは黙ってその言葉を聞いた。ザルクが何を言い出すのか分らないにも関わらず、ティーノはその顔を見ることができなかった。
「クロノスを消す。お前にはその手伝いをして欲しい」
「……!」
 言葉がなかった。どうして自分なのだ。
「クロノスを追い詰める上で、お前のポジションは理想的だ、ティーノ。お前は頭もいい。成功の暁には、ボルザックで良い立場を約束しよう」
 その“石”取れ、とザルクは言った。その“石”を使って、クロノスを消す。筋書きは出来ている。ティーノが“石”を手にしたときから、すべての計画は動き出すのだろう。
 机のブルートパスが妖しく光る。ティーノは動けなかった。
「何をためらう?」
 本当に理解できないような不思議な顔で、ザクルは言ってのけた。
 その言葉が、ティーノをさらに愕然とさせる。この困惑を、ザルクは本当に理解できないのか。これが悪を極めた者の姿なのか。
「ひとつ、聞かせてください」
 どうして、とティーノは乾いた声で続ける。
「どうしてクロノスを殺す必要が……彼はボルザックに対して協力的だと思います」
 意識しまいとしても、どうしてもかばうような口調になってしまう。だが、ティーノのそんな様子をザルクは気にすることなく、簡単な口調で答える。
「奴はボルザックの体質に合わない。傘下にいれても服従することはないだろう。どんなに優秀でも、ボルザックの役に立たなければ意味がないだろう?」
「体質?」
「組織に縛られない。普通、人間は組織を嫌がりながらも、それにすがって生きていく。束縛を安心として捉えることができる。だが、たまにそうでない人間もいる」
 ティーノは、クロノスの屈託のない笑顔を思い出していた。その存在はもはや、ボルザックが見過ごせない力となっていたのだ。
「自由の重圧に耐えられる性質とでもいえばいいのか……孤独であることに恐怖を感じない。クロノスも、シドも」
 シドの名を聞いて、初めてティーノは顔を上げた。そうだったのか。だからザルクはシドではなく、ティーノを選んだのだ。
「だがティーノ。お前は違う。お前は組織で伸びる人間だ。自分でも分っているはずだ」
 答えることが出来なかったのは、それが正しかったからだ。ティーノの様子を満足気に眺めながらザルクは言った。
「その石はお前に預けて置く。左(レフト)的な言い方をすれば、その石の魔力はいずれお前自身を導くだろう……あるべき姿にな」
 ザルクの言葉は、まるでそれ自身が生き物であるかのようにティーノの心に入り込んでいく。ボルザックに背を向けて、この世界では生きていけない。そしてそのボルザックがクロノスを切り捨てようとしているのだ。一時の感情に流されて、クロノスにつくのは愚かな行為でしかない。いまさら道徳的な抵抗もない。ティーノには取るべき道が分っていた。痛いほどに――だが。
 手に取れといわれたその“石”を、それでもティーノはじっと見つめることしかできなかった。