シナスアドフィンの天使 2
作:草渡てぃあら





 その夜の明け方、眠れないティーノの元にシドがやって来た。家が占領されたとか売春婦がどうとか、シドの言葉足らずの説明は、いつもよく解らない。が、どんな事情にせよ、シドは時々泊まりに来る可愛い弟分であり、追い返す理由などなかった。
「……汚すなよ」
 いつもの、ただひとつの注意をして部屋に招き入れる。
「神経質なんだよ、ティーノは」
 ふてくされながら、シドはしわひとつないベッドに勢いよく座った。そして、持ってきた小さな荷物の中からゴソゴソと酒を取り出すと、差し入れだと笑う。二人分のグラスと氷を用意しながら、ティーノはふと昔の話をしたくなった。左の大陸に来てから、こんな気持ちになったことはなかったのに。
「シド」
 ん、とのん気な声だけかえってきた。見るとベッドの上で足の爪を切っている。
 汚すな、という注意はどうやら今回も守られる様子はない。
「俺、ここに来る前は右の大陸にいたんだ」
「すっげー! あの海を渡ったのか?」
 ベッドから飛び起きて、シドはそう言った。それから、右の大陸には生き物でない高速の乗り物が本当にあるのかとか、どんな子供も同じ教育を受けなければならないのかなど、左の人間が噂で知っている程度の情報の確認をした。そしてすぐに首をかしげる。
「でも……なんで? 逆ならともかく、右の大陸からこっちに来るなんて珍しいな」
「色々あって、一人、殺したんだ。小さい頃から世話になった人だった。社会の成り立ちをすべて教えてもらったといってもいい」
 それなのに、とティーノはグラスを見つめながら続けた。
「殺したとき、不思議なくらい平静だった。すっきりしたって感じで、そんな自分に驚いたよ」
 権力争いで生き残るために、邪魔だから殺す。自分はその背徳行為に動揺し、精神的に追い詰められると思っていた。そしてそれが人間のあるべき姿だと信じて疑わなかった。だが結果は違った。自分は人格的に何か欠陥があるのかと、不安になるほどティーノは何も感じなかったのだ。
「それがどうしてだったのか、ついさっき理由がわかった」
 黙って聞いているシドに、ティーノは氷の入ったグラスを渡した。
「好きじゃなかったんだよ、その人のことが」
「なーんだ。そんなの当たり前じゃん。なんで今まで分らなかったんだよ?」
 大人しく聞いて損した、とシドは二人分のグラスにトパーズ色の強い酒を注いだ。
「本当だよな。なんで気付かなかったのか……法律で規制されたあの大陸では、こんなに当たり前のことが分らなくなる」
 ティーノはグラスに軽く口をつけながら、そう言って笑った。
「でも俺はあのときに、深く後悔し懺悔して許しを乞うべきだったんだ。何年も経って、こんな形で“罪”を償わなければならないなんて思いもしなかったよ」
 かみ締めるように目を閉じるティーノを、シドは怪訝そうに見上げる。ティーノは一人、先ほどのザルクとの会話を思い出していた。自分にクロノスを裏切れるか――答えはノーだ。それは確かな事実だった。どんなに状況が悪くなろうと、たとえ死が待っていようと、クロノスについて行きたかった。だが……。
(俺は、あの暗い瞳から逃げられない……)
 恐らく、ザルクと会ったその瞬間に自分は悟ってしまったのだ。あれは、未来の自分だと。どんなに憧れても所詮、クロノスになれない。それは偽者の人生に過ぎない。いまさら良い人間ぶるなと、もう一人の声がする。いや、それは神の意地悪な声だった。
 あの時、己の出世のためだけに人を殺したように、今度は本当に好きな、憧れてやまない大切なその人を殺せ、と。あの時と同じように……。それこそが、いままで黙って見過ごしてきた神の仕打ちのような気がしてならなかった。
「俺は冷酷でもなんでもない。出世のために大切な人間は殺せない。そう思えたらどんなに楽だろう……」
「……いいじゃん、それで。何が問題なんだよ?」
 話の見えないシドは、不満げに口を尖らせた。そんな風に言い切れるシドを、ティーノは心の底からうらやましいと思った。
 シドはいつでも、生きていくのに必要なもの以外に手を伸ばそうとはしないのだ。自由であること、それ以外は要らないと笑っていえる。自分を汚してまで、立場を守ることなど考えもしないのだ。そしてそれは、クロノスも同じであり、ザルクが恐れ、消そうとしている理由でもある。二人は同じ種類の人間だといったザルクの言葉が、今のティーノに重くのしかかった。
 クロノスがボルザックに追われるのは、クロノス自身が原因には違いない。ザルクが要らないといった人間は死を免れることはない。ティーノがどちらに付こうと、結局は同じ運命を辿るのだろう。だがティーノにはクロノスの皮肉な運命を、自分の犯した罪が呼び込んだ気がして仕方がなかった。
「好きな人を裏切るのは、嫌なものだな」
「何だよ? 何の話だよ」
 今日のティーノはおかしいぜ、と言うシドにティーノは力なく笑うと、手にしたグラスを傾ける。きついアルコールと深みのある果実の香りが身体の奥に行き渡っていった。
(戻れない……俺はいまさら泣くわけにはいかない)
 その時だった。ティーノの瞳に、一生消えることのない、冷たい炎が宿った。もう戻れない。自分はボルザックという組織の中で裏切りを繰り返して、のし上がっていくのだ。それが、初めて殺したときに決まっていた、己の血塗られた人生だと。だからあの時、躊躇いながらも、最後はザルクの申し出を受けたのだ。
「本当に、大丈夫か? ティーノ」
「大丈夫。なんでも……ないよ」
 机の奥のブルートパスを強く意識しながら、ティーノはそれだけいった。
 悲劇はすでに、始まっていた。


 終わった直後と男が帰ったあと。二回も念入りにシャワーを浴びたのに、すっきりした気分にはならなかった。この仕事のあとはいつもそうだ。どんなに丁寧に洗っても、身体が汚れている気がしてならない。その点、舞台でのストリップの仕事はまだいい。卑猥で屈辱的な言葉も意識して聞こえないようにできるし、すぐに忘れて気持ちを切り替えることが出来る。
(頭の記憶は、忘れるのが楽なのに……)
 アロはぼんやりした頭で考える。でも身体に残る記憶は違うのだ。肌や子宮の細胞がちゃんと覚えていて、不意に異常なリアルさで甦ってくる。肌の柔らかい部分を這う舌の感触を思い出して、アロはまた気持ちが悪くなった。
 こんなときは、部屋の隅で治るのをじっと待つ。以前にアルコールで誤魔化そうとしてひどい鬱になり、あやうく自殺しかけた。それからは時間をかけてやり過ごすようにしている。やがて正常な感覚が戻ってくるように……。誰もいないカウンターの下にうずくまって、アロは自分の膝に顔を押し付ける。
(今日はなんだか特にひどい気分……)
 汚れが取れない。あんなに何度も身体を洗ったのに……。ギュッと目を閉じる。
 いや、本当に汚れているのはもっと奥だ。汚れまで届いていないから、こんなに気持ち悪いのだ。もっとずっと奥の、暗い部分。アロは目の前のある、自分の腕をこすってみた。そして病的な執拗さで腕をこすり続ける。肌が熱の悲鳴をあげ、やがて破けて血が噴出した。
 それでもアロはやめようとしない。痛みはなかった。代わりにひどく気分が悪い。吐き気はアロの小さな身体を搾り出すように締め付けていく。肌に染み付いている他人の熱と汗。唾液と唇の感覚。這いずり回るいやらしい舌。まさぐる手。
 すべてをこの身体から掻き出したい。違う。汚れはもっと奥だ。届かない。届かない……!
「おい!」
 不意に声がして、血だらけの腕をつかまれる。声のする方を見上げてみるが、視界がグラグラと揺れ焦点が定まらない。突然、暖かな闇に包まれた。しばらくして、大きな胸に抱きすくめられたんだと知る。男の人の、大きな胸。だが、不思議なほどそこに性的なにおいはなかった。どこか懐かしく暖かな香り。力強くて、でも強引な感じのない優しい包容力。ずっと昔、アロは確かにこんな風に守られて生きていた。手をのばせばすぐに与えられた愛があった。
(どこに、いったんだろう……あの温もりは……)
 そう思ったら突然、涙がでた。アロはこの仕事で初めて泣いた。けれど一度泣き始めると、堰を切ったように止まらなくなる。
「泣くことが出来たら、あともう大丈夫だから」
 その声はそういって、優しく頭を撫でてくれた。


 思いっきり泣いたら、驚くほど楽になった。
(大嵐のあとの、晴れた朝みたい)
 泣き腫らした赤い目で、ぼんやりとそう思う。泣くことがこんなに効果的なんて思いもしなかった。少しずつ現実味を取り戻したアロは、今も肩を抱いていてくれる男を改めて見上げる。神様みたいに、本当に神様みたいに鮮やかにアロを救ってくれた声の主は、クロノスだった。店の人間やシドから話は聞いていたが、実際顔を見たのは初めてだ。グレイがかった茶色の瞳を持つ、背の高い男の人。
 クロノスはシドをたずねて来たみたいだったが、あいにくアロも朝から姿を見ていない。クロノスにそう伝えると、そうかぁ、と少し残念そうに、瞳と同じ色の髪をかき揚げた。
 帰るのかな、とふいに寂しくなる。この街に来て、誰かに甘えることなど今までなかったアロだが、今だけはクロノスにもう少し傍にいて欲しかった。アロのそんな気持ちを感じたクロノスは、頭の中でこの後の打ち合わせをキャンセルする。どうせ飲み会半分だ、文句はないだろう。
「改めて……初めましてお嬢さん」
 何か話をしませんか、とにっこりと笑う。
 まるで絵本の王子様みたいな台詞だと、アロはくすりと笑った。
 それから、アロは他愛のない話をたくさんした。アロの故郷の話や、そこのお祭りの様子……幸せな子供だった頃の話。
「どうして殺し屋になったの?」
 アロは少し意地悪な気持ちでそんな質問をしたのは、クロノスがあまりに優しいからだ。
「たまたま銃が手にはいったから。小麦粉だったらパン屋でもしてたかな」
「パン屋か殺し屋?」
 アロは笑った。
「本当だぜ?俺、結構なんでも器用にできるんだ」
 クロノスの、男にしては細くしなやかな指先をみながらアロは意外にそうかもしれない、と思った。だが実際はその指で引き金をひくのだ。アロは不思議な気持ちになった。
 シド達には内緒だがな、と前置きしてクロノスは続ける。
「俺も昔は聖導所にいたんだ。ファロの花を知ってるか?」
 アロはコクリとうなずいた。その花はよく知っている。春を告げる、どこか痛いけで柔らかな花。
「聖導所ではファロの花を栽培している丘があって、俺は毎日世話をしていたんだ。最初はうっとうしくて嫌々やってたんだけど花が育ってくると面白くなってきて、やがて大好きになった。ところが、もうすぐ咲く頃に聖導所の先生がやってきてこういったんだ。つぼみを全部積みなさいって」
「……」
「冗談かと思ったよ。冗談じゃなければ、何か俺が悪いことをしたのかと。だから罰としてそんなことをいうのかと。でもそうじゃなかった」
「?」
「ファロの花の砂糖漬けは、つぼみのときに摘み取らないと苦味が出るというんだ。今考えると、栽培してんだから収穫するのは当たり前なんだけど」
 だが、とクロノスはそこで一旦言葉を切った。
「そのときの俺には許せなかった。寒い冬を耐えて、あともう少しで花を咲かそうとするファロのつぼみを摘み取るなんて、絶対間違っていると思ったんだ。抗議したよ。先生がいつも言っている『正しい行い』がこれかって……その答えは今でもはっきり覚えている」
 そういってクロノスは、聖職者の独特の口調を真似た。
「優しい子よ。我々はすべての犠牲の上で生かされている。つらいことだが、それは神の与えた試練なのだ。だから、感謝の気持ちで摘みなさい。それですべては許される」
 クロノスのおどけた物まねに笑いながらも、アロは内心、意外にも似合っていると感じていた。本当にこの人は、なんにでもなれたのかもしれない。
「その薄っぺらな言葉に俺は失望したね、いや絶望した。もしその言葉が本当なら、せめて俺が生きるための犠牲をこの目で知り、この手で選びたいと思ったんだ。その日のうちに俺は聖導所の丘を降りた。で、生きるために手に入れた最初の道具が銃だったってわけ」
 クロノスはそこで一息つくと、煙草に火をつけた。白い煙がふわりと宙で踊る。
「神の元を離れた俺は、ファロのつぼみのかわりに、人の命を摘み取ってる。ある意味、あのときの先生の言葉は正しかった。感謝の気持ちはないが、犠牲の上で生き長らえているのは感じるね」
「……それは、悲しいことなのかな」
「それを悲しく思うかどうかは神の役目さ。俺は関係ない。確かに救われない生き物だと思うときはあるけどな。この世界の歪みに気付かず、自分だけきれいな場所で生きていくのは嫌だったんだ」
 アロには少し難しい話だった。ただ、花の命と人の命を同じように考えられるこの人は、やっぱり優しい人のように思えた。
「クロノスがファロの花を好きでよかった」
 アロはうつむきながらそうつぶやいた。そしてすこし躊躇いながらこう続ける。
「ファロは私と同じ名前。……故郷ではみんなアロの花っていうの」
 それは、誰からも愛された踊り子にふさわしい名だった。
「良い名前だ。もっと大切のしなきゃな」
「大切に……?」
「嫌な仕事はしないこと。もう少し大人になったら、男の扱いも分ってくるさ。それでも嫌なら“売り”には向いてないからサッパリ止めるんだな」
 まったく、野郎の方もわざわざこんな子供を抱かなくてもいいのにな、とクロノスはひとりごちる。
「……小さい頃から踊りが好きだった。もっと上手くなりたくて家出みたいに村を出たの……でもすぐに、私の踊りなんて田舎娘のそれに過ぎなかったって思い知らされた。気が付いたら帰るところもなくて……馬鹿だよね……私」
 もうずっと昔の忘れていた後悔の気持ちが溢れてくる。クロノスは黙って肩を抱いてくれた。肩を抱いたまま、
「行き止まりみたいな言い方だな」
 とだけ言った。そして、ふいに語調を変える。
「シドはいい奴だろ?もう惚れたか?」
「嫌いじゃないよ。うん、シドは……好き、かな。でも……こんな仕事してるから男はもう愛せないと思う」
 そんなアロの返事に、クロノスは思わず笑いをかみ殺す。アロの大人びた言い方が可愛かった。
「そう思い詰めるなって、まだまだガキだな。そういうところもシドとはお似合いだぜ」
 アロは、シドの黒髪を思った。そして、時々大通りで目にする、恋人と幸せそうに歩く街の娘を思い出してみる。でもそれは今の自分にとってとても遠くにある風景だった。
「クロノスみたいな家族がこの街にいればよかった。いろんなことから守ってくれたかな……」
「俺にも一応家族がいたけど、守れなかったよ」
 それは、自嘲するような奇妙で冷酷な笑い方だった。その時になって、アロはこの男が“親殺し”で有名だったと思い出した。確か助けを求めた母親を手かけたと聞く。いくら殺し屋とはいえ、肉親、それも無抵抗な女性を手にかけるなど尋常ではない。いや、狂気の沙汰だ。が、たった今まで忘れていたのは、クロノスがそんな肩書きとは別人のように優しかったからだ。やっぱりクロノスもこの街で生きる人間なのだと、アロは寂しい気持ちで感じていた。
 生きるために手に入れた最初の道具が銃じゃなく、小麦粉だったらよかったのに……。
 アロは胸が痛くなるほどそう思った。


 それから10日ほど経ったある日。それは空気が光って見えるほど、ひどく晴れた朝のことだった。海から来る、どこか残酷な香りのする美しい風がこの街を包んでいた。
 クロノスが消えた。何の痕跡も残さず、まるで煙のように。
 そして、普段は誰がいなくなろうと無関心のはずのこの街がふいに騒ぎ出したのは、クロノスと一緒にボルザックの例の“石”も一緒消えたからである。才能溢れる若き殺し屋がボルザックを裏切ったと、街全体が騒然となった。
 シドにとっての始まりは、フェデリアが訪ねて来たことだった。仕事中以外で、クロノスが音信不通になるのは珍しくない。しばらく顔をみなくてもどうせ同じ街なのだから、とシドは気にもとめていなかった。高級そうな黒いドレスに、薄い金色のストールを羽織ったフェデリアは、その優雅な姿とは対照的に、いまにも泣き出しそうな顔をしていた。
「クロノスは……来ていない……?」
「……いや、ここ数日みていないけど」
 他の女のところかも、という言葉を告げるかどうか迷っているシドに、フェデリアは力なく首を振った。
「違うの……心当たりの女のところは全部行ったの。でも彼女達もみんな知らないって……」
 ごめんなさいね、とフェデリアは混乱を静めるように細い指先を口元にそっと当てた。女優みたいだ、とシドは思う。その仕草のひとつひとつが映画のシーンのように、少しずつ現実からずれている。そしてそれはすべて、彼女の美しさが原因のような気がした。
「嫌な噂を聞いたの……本当じゃないかもしれない……でも」
 戸惑う唇。フェデリアのウエーブのかかった金色の髪が揺れるのをみながら、シドの頭の中にはなぜかティーノの顔がちらついた。
「クロノスがボルザックに命を狙われているって……抹消依頼を出した人間がいるらしいの。捕まれば殺されるわ……」
 フェデリアの言葉に、シドは眉を寄せる。それは有り得ない話だった。クロノスはボルザックと友好的な関係を保っている。依頼があったからという単純な理由でボルザックが動くはずがなかった。
「そんなはずは」
「私も最初はそう思ったわ」
 でも、とフェデリアは続ける。
「ボルザック所有の石が、クロノスと一緒になくなったらしいの……そして石を盗まれたというその依頼主が」
 フェデリアはそこで言葉を切り、苦しげにうつむいた。――まさか。
「ティーノって名前なの。だから」
 最後までフェデリアの言葉を聞かずに、シドは走り出していた。酒場、カジノ、行き付けの武器屋。知っている限りの知人の部屋……クロノスが行きそうな所すべて回ると、今度は人が行かない場所を探す。
 どこかにいるはずだ。ティーノがクロノスを…? そんな馬鹿な話があるか。だが、あの夜のティーノの言葉、表情のひとつひとつが、シドの頭に浮かんでは消えた。――馬鹿な。それよりクロノスを探し出さなければいけない。自分にはそれが出来るはずだ。誰より早く。ボルザックよりティーノより……!
 混乱した思考は上手くかみ合わず、まるで壊れた車輪のように回転しないまま急な坂を滑り落ちる。汚れた街中を探し回りながら、親を探す子猫のように、シドはクロノスに会うこと以外は考えられなくなっていた。


 シドの靴が、ザッと音をさせて月夜の道に砂煙を上げる。
 そして最後にシドは、ここにたどり着いた。日付も変わろうかという深夜である。暗闇に惑うことなく、その白い神殿は存在していた。目の前にはシナスアドフィンの女神像が、その姿を月の明かりに晒していた。左と右の両大陸を繋ぐ海を司るといわれる、この水の女神は、同時にこの世界の最高神でもある。たおやかに伸ばされた美しい指先から、絶えなくこぼれ落ちる聖水だけが神殿の静寂を穏やかに乱している。
 街中を捜して、こんなところにいるはずがないと、最後に目指した場所であるにも関わらず、実際来てみるとシドは、クロノスがここに居る気がしてならなくなっていた。盲点を突いたようにボルザックの手の及ばない領域はここしかないと気付いたこともあるが、なんとなくクロノスとはここで会わなければならない気がしていた。
 荒い息を整えながら、シドは注意深く辺りを見渡し、深夜の濃い暗闇に神経を研ぎ澄ます。神殿から丘へ続く道は、深夜の月に照らされた部分だけが白く輝いて見えた。聖導所へと続くなだらかな坂が、シドの目に懐かしく映る。ここを飛び出してからもう3年も経つ。戻りたいとは思わないが、こうして改めて見ると確かに自分の過去が存在しているのを感じることができた。
 坂の途中の小さな井戸。その先には海を見下ろすマルコーニの丘があり、そこを左に下ると、親を持たない子供達が今も生活する聖導所へと続いている。その神殿の入り口に腰掛けて、ぼんやりとシナスアドフィン像を眺める影があった。
「懐かしい?」
 どう声をかけていいか分らなくて、シドはそういった。
「知っていたのか、俺も神殿(ここ)から来たって」
 振り返らないまま、影はそう言った。
「アロから聞いた……でも、なんとなく分ってたよ」
 その影は小さく笑ったようだった。そしてゆっくり振り返ると、シドの姿を捉える。
「考えただろう?」
 それは、何も変わらないいつもの笑顔だった。
「ここにいれば、他の奴に見つからず、お前だけがやってくる」
 それも時間の問題か、とクロノスは笑う。その笑顔の穏やかさに、シドはなぜか胸が痛くなる。
「なんでだよ? 逃げたらいい! “石”だってちゃんとあるんだろ? こんなトコで諦めるなんて、かっこ悪いよ!」
 泣き出しそうな感情を無理やり怒りに変えて、シドはクロノスに突っかかる。
 喧々わめくなよ、とクロノスはうるさそうに片目を閉じた。
「そうだなぁ、いっそ右の大陸まで逃げても良かったんだけど……」
 と、少し残念そうにクロノスは言った。そして、その先は黙って自分の左の鎖骨の下あたりをシドに見せる。そこには不吉な文字のような模様があった。それがタトゥーの類でないことは、ひと目で分った。
(まるで、生き物みたいだ……)
 クロノスの呼吸に合わせてかすかに赤みを帯び、まるで煙草の灯のようにどす黒い文字の上を這っては消える。その模様には見覚えがあった。
「……呪縛の印?」
 左の大陸に伝わる“魔法”の一種である。だが、いくら左の大陸が魔法と伝説の大陸だといわれていても、実際、魔法を目にすることはほとんどなく、現にこの“呪縛の印”も、その形のタトゥーが流行ったから知っていただけで、シドも本物を見るのは初めてだ。
 だが、本物だけが持つその文字の忌まわしいエネルギーは、素人のシドにも十分感じ取れた。
「本物……? でも、魔法は同じだけの魔力を持つ人間にしか効かないって……俺達はその影響は受けないって……」
 シドは、聖導所で習ったことを必死に思い出しながら言った。
「そこなんだよ、問題は」
 なぜか照れながらクロノスは告白する。
「俺って“魔法体質”なんだ……」
「……!」
 言葉がなかった。魔法体質の人間は、その力ゆえに生まれたときから神殿で大切に育てられるときく。その目的はふたつ。貴重な才能を大切に育てるため。そしてもうひとつは、すでに存在する魔力の悪い影響から、その身を守る魔法を学ぶためである。その話が本当だとしたら、クロノスは全く無防備なまま危険な環境に身を晒し続けてきたことになる。
「なんで……そんな」
 馬鹿なことを、と言いながら、シドは違うことを考えていた。そうだ。もっと早く気付くべきだったのだ。何故クロノスが聖導所にいたのか。孤児だった自分と違って、片親とはいえクロノスには肉親がいた。それにも関わらず、聖導所にいた訳を――。
「なんでって……理由はお前と一緒だよ。自由が欲しかったんだ」
 何でもないように、クロノスはそう言ってのけた。そして思い出したように懐からブルートパスを取り出し、「お前にやるよ」とシドに投げてよこした。反射的に受け取ってしまった後、シドは手の中の青い石に後悔する。
「要らない」
 即座にそしてきっぱりと返したシドに、クロノスは「そういうなよ」と情けなさそうな顔をした。
「せっかくお前のために、ティーノのところから盗んできたのに」
 ティーノのところから? その言葉にシドは反応した。では、フェデリアの言っていたことは本当だったのか。今になってシドは、ティーノの裏切りに改めて気付いた。クロノスの無事ばかりを考えていて、その原因に関わっているかもしれないティーノのことまで頭が回らなかったというのが、正直なところだった。が、今になって突然、抑えられない怒りで頭が一杯になる。
「……んでだよ! ティーノの奴、なんでこんなことをする必要があるんだよ……俺達、上手くやってたじゃねぇかよ!!」
“石”を握り締めたまま急に怒り出したシドを、クロノスは「分り易い奴だな」
 と感心して見ている。
 その様子が、あまりにものん気なので、シドは何だか誰のために怒っているのか分らなくなってしまう。クロノスはいつもこんな調子なのだ、仕方ない。方向を失った怒りを、シドは無理やりため息で終わせた。
「そうティーノを責めるな……あいつはあいつなりに、自分が進むべき道を決めただけだ。俺の運命とは関係ない」
 シドの様子を見計らって、クロノスはいままでの表情より少しだけ厳しい顔をした。
「どちらにせよ、ボルザックは俺が石をくすねたと信じる。そういう計画なんだ。計算違いがあるとすれば、本当に俺が“石”を盗み出たということぐらいか」
 いいか、とクロノスはシドに言い聞かせるように言葉を続ける。
「その“石”を利用して、ティーノはボルザックで良い地位を手にいれた。お前もまた“石”を使って生き延びろ。俺から奪い返したといってボルザックにいけば、ティーノとともに生きていける。それが嫌なら、石を持って右の大陸に逃げてもいい。俺が“石”をもったまま消えている今ならそれも十分可能だ」
「そんなこと、急に言うなよ」
 それ以上聞きたくないと、シドは無理やり口を挟んだ。クロノスの話は不吉な匂いがした。どうしてそう感じるのか。その理由に気付いて、シドは愕然とする。
 その話には、シド自身しかいなかった。今話したクロノスの計画の中に、いつもシドの傍にいるはずのクロノスの姿がどこにも見当たらないのだ。
(……嫌だ! そんなこと、絶対受け入れない……!!)
 急に硬くなったシドの表情を見て、クロノスはため息をつく。最後まで手間が掛るとでも言うように。
「そういえば、まだシドにしてなかったな……俺が、本当の自由を手に入れたときの話」
「何だよ、急に」
 まあ聞け、とクロノスは笑う。そして、少し遠くをみる。まるで記憶の糸を手繰り寄せるかのように。
「5歳ぐらいかな……俺が神殿に預けられたのは」
 本来ならば、もっと早くに神殿入りをしなければならないのだが、クロノスの母親が――誰の子とも区別のつかない我が子――クロノスの、その奇妙な才能に気付いたのがその歳だったのだ。ドアを開けなくても、誰が来たかわかる。天気を当てる。クロノスが意味もなく泣き出すと、その後には決まって悪いことが起こった。
「最初から魔法体質であることが解っていたわけじゃない。俺をもてあました母親が、神殿に相談に行ったらたまたま判明したんだ」
 クロノスをここで育てたいという神殿からの申し出を、母親が断るわけがなかった。新しい男は、家にクロノスがいることを嫌っていたからだ。クロノスは、その男に対して、何の感情も抱けなかったが、男に振り回されて生きる母親が哀れだとはいつも思っていた。
 神殿の生活は穏やかで、決して嫌いではなかったが、馴染むことはなかった。早く、と少年は空を見上げて思う。
「早く大人になりたい。そして自分の力だけで生くんだと、そればかり毎日思っていたよ。魔法の勉強もせずにさ」
 そう言って、クロノスは笑った。
 神殿を出たクロノスは、母親の元には帰らなかった。母親の方もあえてクロノスを探そうとはしないまま、同じ街に住む親子に月日は流れた。そして、事件は起こる。
「最初、助けを求めに来たのかとおもったんだ」
 久々にみた母は、あの頃のまま美しかった。美しくて、その若さは相変わらず、子供の存在を受け付けない色気に満ちていた。
「追われているって言ったから……一緒に住んでいた男がドジ踏んで、取引前に貿易情報が漏れたんだ。母親も話は聞いていたらしくて、二人は信用を失っただけでなく、その利益も台無しにした。その落とし前ってやつだな」
 黙ってクロノスの話を聞いていたシドも、その話では生かしておけないだろうと思った。それが情報屋の、目に見えない暗黙の掟ともいえる。この街でルールを守れなかった人間は、虫けらのように殺されても文句はいえないのだ。
「聖導所に預けっぱなしで、母親らしいこと何一つ出来ない女だったけどさ。一応、たった一人の親だし、銃を手に入れた俺も少しずつ腕に自信が出てきた頃で……その時は素直に助けてやりたいって思ったな」
 けれど、母は全く違うことを望んでここに来た。自分の知らない間に、子供から鮮やかな若い力で成長していった息子に、たった一つの切ない願いを抱いて。
「あんたの手で、殺して欲しいって」
「……!」
「驚いたよ、俺も。で、腹が立った。俺を見くびるな。女一人守れないと思ってんのかって」
 そうじゃない、と母は言った。ここでクロノスが手を貸せば、クロノス自身の立場が保てなくなる。そんなことは絶対に嫌だし、もしそうなるしかないななら、会いに来たりはしなかった、と。
「言われてみれば母親の言う通りだったんだよ……俺の立場はまだ致命的に弱かった。一時的に救えたとしても、そのあとこの街で生きていくのは無理だ……そこまで考えて、俺は初めて母親の狙いを知った」
 可笑しいよな、とクロノスは笑う。
「この俺がだよ? なんでその時の母親の気持ちだけ読み落としたのか……解っていたら、俺はきっと会おうとはしなかったのに」
 懸賞金をあげる、と母は言った。どうせ他の人間に殺されるのだ。
 この下らない人生に、初めて価値がついたんだよ、と嬉しそうに。
「そんなこと出来ないと断った俺に、あいつは“何言ってるの”って言った……」
 何言ってるの、と母は笑った。神から与えられた極上の愛で。
「あんたは私の身体の奥から、この肌を破ってこの世の生まれたんだよ……いまさら何を遠慮することがあるの。親から食い尽くせるものがあれば、それを力に生き伸びなさい。大丈夫、神様は怒りゃしないわよ」
 忘れられない言葉だった。間違いなく、この人は自分の母だった。そして、その神々しいまでの真実から、クロノスは逃れることが出来なかった。
 母親の、嘘みたいに穏やかな死に顔を見たとき、クロノスは悲しみとはまた違った真実を悟っていた。神殿から出たときに感じた自由が、どんなにちっぽけで子供だましの自由だったのか。自由とは、本当の自由とは今だ。俺の人生は人間の営みという、神の作った長いレールから切り離された。自分を生み出した者を殺すというのはそういうことだった。
「みんな自由って簡単に口にするけどな、大体は自由の片鱗に過ぎない。本物の自由ってのはきっと……自由以外、失うものはなにもなくなって初めて手にはいるものなんだ」
 分かるか、とクロノスはシドに聞く。シドは答えられなかった。
 痛みも感じられないほどの傷と孤独の果てに、たどり着く場所がある。そこで人は、本当の自由を得るのだ。シドは何故か、その場所に惹きつけられていた。クロノスはそんなシドの様子を見守っていた。やはり、シドは同じ種類の人間なのだ。
「そうだ。それは選ばれた人間だけが手にする境地だ。孤独に耐えられない人間には苦痛でしかないだろう。だが、本物の自由を手に入れた人間は、誰も目指したことのない空を飛べる。それは悪くない感覚だ」
 そして、とクロノスは続ける。
「シド、お前はその場所で生きろ」
「……」
 クロノスは何を言っているのか。理解できない。頭が理解できていないのに、心だけがやたらざわめいた。
「大丈夫、恐れることはない。俺は何も後悔してないさ。お前は自由だ。自由以外のすべてを失っても、そこには新たな世界が待ってる……お前なら感じるだろ?俺なら気にするな。俺も昔こうやって自由を手にいれたんだ」
 シドは無意識に首を振っていた。逃げ出したい、と強く思いながら、シドはクロノスに施された呪縛の印を見つめる。
 ボルザックはクロノスが魔法体質だとすでに知っているのだ。さらに魔法が使える人間がいる。クロノスが魔法体質である以上、どこへ行ってもその魔力からは逃れられない。
 あるいは。とシドは考える。神殿の人間に相談したらいいのかもしれない。クロノスは今でも貴重な存在であることには違いない。きっと守ってくれるだろう。
(違う。クロノスはそんなことを望んではいない)
 この場所で生きていけるなら、クロノスは最初から街に出ることはなかったのだ。では一体何を、自分に何を望んでいるというのか……シドはまとまらない思考の中で、クロノスの話を思い出す。
 クロノスが母親を手にかけた本当の理由を。どうして、母親の要求が飲めたのか。何が決心させたのか。
「!」
 何かが、心に触れた。クロノスが誰にも言わなかった気持ち。
 無力さと絶望の中でたどり着いた、ほんとうの理由。
 ――守りきれない。
 愛する者を守れないなら、いっそこの手で。
 この手で……!
 シドは思わず目を閉じる。それは恐怖からだった。そこに……たどり着いてはいけない。だが、容赦なくぶち当たった結論に、シドは愕然と立ちすくんだ。
 馬鹿な、ことを。
「……言うな」
 そこには、クロノスの深い眼差しがあった。
「出来るわけないだろ……勝手なこと言うな……よ……!」
「シド」
 震える声を制して、クロノスが静かに続ける。
「銃を、手に取れ。俺からの……最後の頼みだ」
 何だ、これは? この強い意志を持つ言葉は……まるで、まるで呪文だ。シドは逃げられない。無様に震える手が、意志とは関係なく動き出した。
 こんな救われない孤独が、気の遠くなるような痛みが、自由だというのか。そんなもの入らない。今のままでよかった。このままでよかったのに……!
 神殿とは場違いな火薬の香りが辺りに充満し、そして消えた。
 やわらかな力に守られるように、クロノスはゆっくりと倒れた。眠るような穏やかな光景だった。だが、流れ出す血は鮮やかに聖水を染めていく。こんなに美しい赤が、クロノスの身体を流れているなんて知らなかった。その美しさに心を奪われたまま立ちすくむ。絶対見たくない光景だったのに、シドは目が離せなかった。
 神の子だ。シドは思った。クロノスの死に様がこんなに美しいのは、きっと神の子だからだ。指先が氷のように冷たかった。ひどく銃を捨てたかったが、貼りついたように手から取れなかった。先ほどまでの混乱が嘘のように、体の奥がしんとしている。
 世界のすべて、自分の外も内の世界もすべてが、音を無くしてしまったかのようだった。その重たく暗い静寂の嵐はシドからすべてを奪い尽くした。